ここまで来れば、産経新聞の「原発再稼動すべき」の主張もカルト教と言えよう。

原子力規制委員会が「世界最高水準」を目指して示した新規制基準を、「真の安全が遠のくだけだ」と安全に「偽」と「真」を勝手に設定して批判している。

しかも、「偽の安全」は原発がほとんど再稼動できない厳格な規制基準、「真の安全」は原発がほとんど稼動できる寛容な規制基準との設定だから恐れ入る。

これでは、「偽の安全」が原発事故を起こさないための厳格な規制基準、「真の安全」が原発を再稼動するための寛容な規制基準となり全くあべこべである。

これまでも、産経新聞は読売新聞と一緒に論理破綻の原発再稼動を主張してきた。

あるときは、原子力規制委員会に安全基準を下げてでも原発を再稼働しろと言う。

参考記事:原発再稼働のため安全基準を下げろ、福島原発事故を全く反省しない読売新聞と産経新聞

またあるときは、大飯原発と同様に暫定的でも良いから原発を再稼働しろと言う。

参考記事:暫定的に原発を再稼働しろと産経新聞、原子力ムラを規制委員会に参画させろと読売新聞

またあるときは、電力改革で拙速に発送電分離をせずに原発再稼動をしろと言う。

参考記事:発送電分離に反対して原発再稼働を催促、電力会社の利権を保守する読売新聞と産経新聞

またあるときは、電力改革で発送電分離を先送りしても原発再稼動をしろと言う。

参考記事:産経新聞が「発送電分離を先送りして原発を再稼動しろ」、電力ナイナイ詐欺で狼少年に

これらより、産経新聞がカルト化している理由は、安全基準の策定、暫定的な再稼動、発送電分離、電力供給不足、電気料金値上げなど、どのような口実でも無理にでも何があっても原発を再稼動させるために主張するからである。

そして、今回は子供染みたいちゃもんに等しい内容で新規制基準を批判している。

[4月12日 産経新聞]原発「規制」基準 真の安全が遠のくだけだ
7月以降、原発再稼働の審査を行う際などに使われる新規制基準の最終案が原子力規制委員会によって示された。だが、原発の安全性を高めて活用していこうという健全な精神が伝わってこない内容だ。

そもそも名称自体が不適切だ。これまでは「安全基準」とされていたものが、4月になって「規制基準」に変更されている。反原発色が鮮明な新聞社に寄せられた読者の声が改称のきっかけであったというから驚きだ。たとえ内容が同じであっても「安全」と「規制」では、運用の姿勢そのものが違ってくる。極めて重要な基準の名称を安易に変更する規制委の常識を問いたい。

原発の安全性は、段階を踏んで着実に向上させていくのが本来の道筋だが、これまでの検討で、そうした見直しが加えられた節は見当たらない。活断層の取り扱いが、その一例だ。最大で40万年前まで遡(さかのぼ)って有無を詮索することに、どれだけ現実的な意味があるのだろうか。それだけの時間とコストをかけるなら、他になすべきことがあるはずだ。また、原発の運転期間を原則40年としているのだから、そもそも安全を考える上での時間の物差しが違う。活断層かどうかの議論の入り口で立ち続けるよりも、万一に備えて施設の耐震性を高める方向に進んだ方が賢明だ。安全に資することは自明である。

また、新基準の規制下では、事故を起こした福島第1原発と同タイプの沸騰水型原発の再稼働は、当面望めない。再稼働の可能性があるのは、国内全50基の原発中、約半数の加圧水型の原発に限られる。沸騰水型が多い東日本での電力安定供給への不安は強まる。それに加えて原発の長期停止がもたらす人材養成難と技能低下が避けられない。この点を規制委が無視しているなら、原子力利用で最も尊重しなければならない「安全文化」への背反行為だ。規制委の取り組みは、断層やフィルター付き排気施設といったハード寄りの対策に偏っている。

原発を支える人々による自発的な改善努力などを、絶えず促すようなソフト面での充実策を優先すべきである。硬直的な「規制」を振りかざしていると、真の安全性は遠のいていく。それを忘れるようでは落第だ。

まず、産経新聞は「規制基準」という名称自体が不適切として茶茶を入れている。

「安全」と「規制」ではどのように運用の姿勢が違ってくるのか不明なのだが、反原発勢力から改称の声に耳を傾けたことが気に入らなかったようである。

おそらく名称に異議を唱えたのは原発推進勢力と言えど産経新聞くらいであろう。

次に、産経新聞は原発の安全性を「段階を踏んで着実に向上させていくのが本来の道筋」と定義しているが、これであれば福島原発事故以前と同じとなる。

そもそも原発の最初の基準が甘かったから事故が起こり被害が拡大したのである。

従来基準の「12万~13万年前以降が対象」に据え置いた場合の規制基準への国民の信頼度と、新基準の「最大40万年前までが対象」に引き上げた場合の規制基準への国民の信頼度を考えれば明らかであろう。

そして、福島原発事故以前の規制基準からは、少なくとも全ての面で上回る新規制基準でなければ、国民を納得させることはできないことは間違いないだろう。

産経新聞の言葉を借りれば、これだけでも新規制基準の現実的な意味があるのだ。
それだけの時間とコストをかけなければ、国民の信頼を得ることができないのだ。

つまり、産経新聞の主張は新規制基準の策定について「国民の信頼」など全く必要なく「原発の安全」だけで十分であると言っているようなものなのである。

主張にあるのは、「安全を考える上での時間の物差しが違う」「人材養成難と技能低下が避けられない」「ハード寄りの対策に偏っている」「ソフト面での充実策を優先すべき」など原発を慮った考えなのである。

そして、挙句の果てに産経新聞は、国内全50基の原発再稼動を前提で主張していたことが、「安全文化」というフレーズで明らかになったのである。

福島第1原発と同タイプの沸騰水型原発は「フィルター付きベント」を運転再開までに設置が義務付けされたことから、当面は再稼動できないのである。

その結果、約半数24基の加圧水型原発にしか再稼動する可能性がないのである。

このことに対して、「沸騰水型が多い東日本での電力安定供給への不安は強まる」「人材養成難と技能低下が避けられない」と危機感を煽らせるのである。

果たして、原発稼動ゼロで2年余り経過した東日本で電力安定供給の不安は強まっているだろうか。むしろ、原発の代替電源で電力供給量を増加したことと節電意識の定着によって不安は年々弱まっているだろう。

参考記事:東京電力が原発ゼロで電力安定供給を確立、自民党の救済も虚しく原子力ムラの解体必至

参考記事:国民の節電意識と省エネの普及と電力会社の怠慢、2回目の実証で定着する原発ゼロ社会

そして、全国50基中24基の原発の再稼動の可能性だけで「人材養成難と技能低下」を主張することは、全国50基全ての原発で稼動しなければ人材養成も技能向上もできないと主張することに等しいのである。

おそらく産経新聞としては、全国50基の原発を1基たりとも「廃炉」という事態だけは避けたい、少なくとも「休炉」という事態までで免れたいのだろう。

なぜなら1基でも「廃炉」となれば原発の不都合な真実が全てバレるからである。

原発の発電コストが最も高かった事実、原発で電気料金が吊り上げられた事実、原発が最も儲かる電源であった事実、原発を廃炉にすれば電気料金が低下する事実、原発は処理コストが圧倒的に高い事実などである。

原発を取り巻く現状は、国民は将来的に脱原発を望んでおり、原発の代替電源の確保もできつつあり、発送電分離が実施すれば原発が稼動できないのである。

この結果、数年後には電力供給の不安も電力料金の値上げも解消されて、原発事業は意義が無くなり、電力会社の経営を圧迫するだけの代物になるのである。

つまり、この数年間で電力会社は経営方針を大転換して、発電事業で軸足を原発から他電源に移さなければ、電力改革により淘汰される結果を招くのである。

産経新聞は、いつまでもカルト教の如く終末論を唱えては誰も信用しなくなろう。
福島原発事故により原発を取り巻く状況が一変したことを悟らなければならない。



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