四万十市にこの1月に樋口真吉顕彰会が立ち上がりました。
この樋口真吉、なかなかの人物なのです。
詳細はまた稿を改めますが、この人物を知れば知るほど興味が湧いてきます。
坂本龍馬よりも20歳年長なのですが、なかなか几帳面な性格と見えて、かなりの日記を書き残していることはご承知の通りです。
その日記はそのままの原文では読めませんが、渋谷雅之先生(徳島大学薬学部名誉教授)が、個人的な研究として「樋口真吉日記」を自費出版してくれたので、読むことができます。
そのお陰で、真吉という人物像がかなり明らかになりました。
ここでは、戊辰戦争時に於ける彼の活躍の一端をご紹介します。
慶応3年(1967年)10月には大政奉還を徳川慶喜は打ち出しましたが、これを提案したとされるのが土佐藩であり、その背後に
坂本龍馬も居ました。
ところが何としても討幕をしなければ・・という薩摩と長州の動きがあり、11月15日には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されました。
実はこの年の5月には薩土盟約が結ばれていて、土佐藩は討幕の戦が始まれば、兵を挙げて薩摩と行動するという盟約でした。
そして12月末には西郷から挙兵が近いと土佐の乾退助に連絡があり、年が明けて1月3日、鳥羽伏見の戦が起きました。
この報が高知へ知らされたのが1月6日、土佐藩は直ちに迅衝隊をこの日に結成したと言います。
新政府は土佐藩に対し錦旗を交付し、樋口真吉が2振りの錦旗を
土佐に運ぶ役を担って京都を1月9日に出立しています。
これは徳川の親藩である松山藩と高松藩を征討するためでした。
この迅衝隊という部隊が1月13日には、高知を出発したのですが、
戦闘部隊をわずか数日で結成することは出来るはずがないことです。
調べてみるとこの部隊は実に近代的な部隊でした。
野戦病院に相当する外科医師団を帯同し、兵士の規律を守らせるために裁判員役まで準備し、兵士には毎月給料を現金で支払い、許可があれば欠勤届けが許され、実家との手紙のやり取りができる郵便制度をもっていたと言うのです。
だからこの部隊は強かったのでしょうね。
樋口真吉は京都から錦旗を運んできて、迅衝隊に合流しました。
この時真吉は50歳のはず。
この資料では真吉は裁判役になっていますが、実際にはもっとすごい働きをしています。
兵站の役をになって、武器の購入から兵士の補充のため横浜から英国船をチャーターして、浦戸(土佐)まで帰り、300余名の補充兵を集めて横浜に引き返し、外国商人からスペンサー銃を調達し、
今市で待つ本体に届けると言う役をこなしているのです。
時系列で書くとこんな感じです。
・4月15日 英国船ミアカで横浜出航し、17日には浦戸に着き土佐藩は兵士の募集を開始した。
・同25日には300名の土佐兵を乗せて英国船は浦戸を出航し、
28日に横浜着、但し金沢あたりで上陸。何故なら横浜港には幕府の軍艦や幕府軍のフランスの艦隊も居たためらしい。
・5月3日、板垣が日光を攻略して薄氷の勝利して今市へ集結した頃、300名の土佐藩新兵と武器や軍需物資を本体に合流させた。
・日光から東北へ侵攻する際、真吉は江戸に残って新政府大村益次郎に会い、軍資金を調達し、連発銃等を購入して白川方面の部隊に補充した。
とまあこんな具合で、真吉の活躍は目を見張るものがあります。
この時に真吉は板垣退助から1万両(1億円相当)の資金を預かって
外国商人と商談して目的を達したと書かれています。
こんな役目は土佐藩の若いメンバーではできなかったでしょうね。
余談ですが・・
この迅衝隊の病院頭取の任務に就いていた弘田玄又(げんゆう)
は、真吉と同じ中村(四万十市)の出身で、クロロホルムを用いた
麻酔外科手術を日本で最初に行った医師だと言います。
弘田玄又の長男弘田長(つかさ)は、ドイツ留学後、東京大学医学部に小児科を初めて設けた医師で、森林太郎(鴎外)とも親交のあった医師でした。
またシッカロールという小児用パウダーの開発者が弘田長医師だそうで、和光堂の創設者だということも知りました。
また、昭和天皇が幼少の頃、ジフテリアに罹った際には、弘田長が治療にあたり、完治させたことで正三位授与されています。
今回の調査でこんな人材に出合いました。
まだまだ歴史の中に埋没している人材がいますね。
幕末の歴史では、坂本龍馬ばかりが目立っていますが、何の何の、素晴らしい人材が埋もれている感じがしています。
完