GLORIOUS MEMORY -8ページ目

「You raise me up」の言葉は詩的表現


前回の投稿で、『You Raise Me Up』の歌詞の「You(あなた)」は「神」であり、深い「信仰」が基盤となっている楽曲だと申し上げました。

「You raise me up」という言葉は、旧約聖書の「詩篇」から採られており、日常会話というよりは詩的表現として使用されることが多いです。

私は、「You raise me up」の言葉を「あなたが私を励ましてくれる」と意訳致しました。しかし、ただ励ましてくれると表現するだけでは「言葉の真実」は伝わりません。つまり、表現される事柄の奥にある意図や原因が必要なのです。

私は、「You raise me up」の言葉を表現する時には、その後の言葉に繋がるように、毎回必ず以下の異なる意味合いを当てはめて歌唱しています。

・あなたは私に生きる光を与えてくれる
・あなたは私の生きる支えになってくれる
・あなたは私に生きる勇気を与えてくれる
・あなたは私に生きる希望を与えてくれる

私の歌から、少しでも想念を感じ取って頂けたら幸いです。

島倉 学

『You Raise Me Up』歌詞和訳の修正

Then I am still and wait here in the silence
Until you come and sit awhile with me

●原詞による直訳
(そんな時)私は静けさの中ここで待つ
あなたが来て、私の側にしばらくの間いてくれるまで

私は、上記の原詞をどのように訳せば「言葉の真実」として伝わるのかを探求し続けてきました。
試行錯誤の末、やっとしっくりとくる言葉が見つかったので、改めて以下のような意訳に修正致しました。

●島倉 学による意訳
(そんな時)私は心を乱さずただ静かに、気づきの瞬間(とき)を待つ
いつも、あなたが私の側にいてくれて
正しい道へと導いてくれていることを思い出す時が来るまで

私の主観で、上記の直訳に隠れて見えない想念を前文と共に解説致します。

心(感情)を取り乱し、魂(精神)が汚れた時、即ち生きる意志と目的を見失ってしまった時、あなた(神)が常に私と共に居ることを忘れず、正しい真理の道へと辿り着ける導きの言葉を得る(神の啓示を受ける)ことができるまで、私はひとり冥想(執着心を捨てた冷静な状態)にふける。

このように、『You Raise Me Up』の歌詞は深い「信仰」が基盤となっている楽曲です。
実は、私達が慣れ親しんでいるクラシック音楽も「信仰」が基盤となっています。それは何故なのか。聖書の言葉にある「真理(宇宙の道理)」を流布させるためです。つまり、生きることに悩み苦しんでいる者たちが、「人生を強く生き抜くための智慧」を得ることによって、「汚れた魂が救われるように」というメッセージが込められているのです。だから、音楽は娯楽ではなく生命の根源なのです。

歌手(俳優)は、できる限り作者が伝えようとする意図を読み取り、言葉を掘り下げていかなければ、どんな素晴らしい歌詞(台詞)も「言葉の真実」として伝えることはできません。しかし、具体的な内容をそのまま歌詞にしてしまったら、聴衆が受け止めるための心の余白は失われ、押し付けがましい楽曲になってしまう。どんな楽曲も、聴衆それぞれが己の想像力によって解釈されなければならない。

私が和訳したこの楽曲の「あなた」は、本来「神」になりますが、それに値するご自分の糧となるものを当てはめてみて下さい。もちろん、大切な人でも構いませんが、私の場合は「歌=音楽の神」です。

島倉 学

『You Raise Me Up』
作詞:Brendan Graham
作曲:Rolf Løvland

この歌は、アイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」の旋律をベースに製作されたSecret Garden(シークレット・ガーデン)の楽曲です。
現在では、Celtic Woman(ケルティック・ウーマン)をはじめ様々なミュージッシャンによってカバーされ親しまれています。

You Raise Me Up/歌詞和訳:島倉 学

When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be

Then I am still and wait here in the silence
Until you come and sit awhile with me

私が落ち込み、生きる気力を失った時
苦しみが襲いかかり、心に重くのしかかった時も

私は心を乱さずただ静かに、気づきの瞬間(とき)を待つ
いつも、あなたが私の側にいてくれて
正しい道へと導いてくれていることを思い出す時が来るまで

You raise me up so I can stand on 
mountains
You raise me up to walk on stormy seas

I am strong when I am on your shoulders
You raise me up to more than I can be

あなたが私を励ましてくれる(あなたは私に生きる光を与えてくれる)から
こうして私は険しい山を乗り越えていける
あなたが私を励ましてくれる(あなたは私の生きる支えになってくれる)から
荒れる海にも立ち向かうことができる

私が強く生きられるのは、あなたが側にいてくれるから
あなたが私を励ましてくれる(あなたは私に生きる勇気を与えてくれる)から
私は自分の限界を超えることができる

You raise me up to more than I can be…

あなたが私を励ましてくれる(あなたは私に生きる希望を与えてくれる)から
私は自分の限界を超えることができる…

異化効果がマンネリ化している


TVドラマを制作する時に「リアル」を追求することで、視聴者が主人公や登場するキャラクターたちの人生に共感し、「感情移入」することで心が開放され、カタルシス(魂の浄化)を味わえるようにする演出のことを「リアリズム演劇」と言います。

それに対して、「異化効果」を取り入れることで、視聴者の視点や概念を「感情移入」から切り離し、客観的立場から本当に伝えたい「真理(宇宙の道理)」を観客に気付かせようとする演出のことを「叙事的演劇」と言います。

この連続ドラマ『風間公親−教場0−』は、ただ単に殺人事件をリアルに描き、謎を解いて犯人を捕まえるというミステリー作品ではなく、後者の「異化効果」の手法を用いた作品になっています。つまり、冒頭で視聴者に犯人が誰かを周知させた上で、新人刑事がどのように成長していくのかにスポットを当てる。
今や、インターネットが普及し、あらゆる選択肢がある時代に生まれ育った現代人は、「平和ボケ=思考停止」している。直ぐに相手から答えを求め、自ら考えようとはしない。それをテーマに、風間公親のコーチング指導法によって、新人刑事たちが「己の頭で考えること」「己の意志で判断し行動すること」の大切さを学ぶコンセプトにしているのは、実に素晴らしい。しかし、残念なことに肝心の風間が変化した違いは全く分からない。

過去の教場シリーズSPドラマでは、警察学校の校長が「風間は一緒に捜査をしていた若い刑事を失った事で現在のような人物になった」と話していた。つまり、今作は「どうして風間はあのような人物になってしまったのか」が最大の見どころのはずなのに、第1話から風間の人物像には全く変化がない。それどころか、相変わらず木村拓也氏は「キムタク」というキャラクターでしかない。

では、なぜ教場シリーズSPドラマで視聴者が共感したのか。それは、「風間公親=キムタク」をはじめ、各キャラクターの人生に「感情移入」することができるほど、脚本と演出のクオリティーが高かったからです。
ところが、今作は「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」と同様の異化効果の手法ですが、毎回プロットがマンネリ化してしまって直ぐに飽きてしまう。その上、犯人の殺害動機が余りにもチープで白けてしまう。
それらを踏まえ、もし連続ドラマ第1話から風間公親という人物像が、過去のSPドラマとは全く違う警察官であったなら、きっと視聴率が低迷することはなかったでしょう。

島倉 学

異化効果が憐れにも逆効果になっている


前回の投稿で、様々な生理的現象がない問題へのツッコミ殺到に対して、「現代人は想像力に欠けている」という題材で、私は厳しく批評致しました。

何故、視聴者には「想像力」が大切なのかを分かりやすくご説明致します。


ほとんどの視聴者は、ドラマを見る時には主人公や登場するキャラクターたちの人生に共感し、「感情移入」することで心が開放され、カタルシス(魂の浄化)を味わいたいと求めている。これを演劇理論に当てはめると、コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキー氏(1863年 - 1938年)が提唱する「リアル」を追求した「リアリズム演劇」です。

それに真っ向から対立したのが、オイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト氏(1898年 - 1956年)が提唱する「異化効果」を取り入れた「叙事的演劇」です。

この演劇理論は、リアルなものをそのまま描きたいのではなく、そこにわざと非日常的な演出を投入し、観客の視点や概念を「感情移入」から切り離し、客観的立場から本当に伝えたい「真理(宇宙の道理)」を観客に気付かせようとすることが目的なのです。


実は、近年のドラマ、ミュージカル、アニメーションの作品は、この「異化効果」の手法を用いた演出が非常に多いです。例えば、ミュージカルでは『エリザベート』、アニメーションでは『新世紀エヴァンゲリオン』が当てはまります。

まさに、このドラマ『ペンディングトレイン』は、ファンタジーを投入し、もし人間がこういう状況に置かれた時、どう考え、どう判断し、どう行動するのかに視点を向けさせている。ただ単に、サバイバル生活を見せたい訳ではないのです。

しかし、せっかく「異化効果」を用いた演出が、視聴者の「想像力」が欠けていることによって、憐れにも「逆効果」になっていると私は申し上げたいのです(笑)


ちなみに、スタニスラフスキー氏とブレヒト氏の演劇理論は、本質的には「表裏一体」であり、対立している訳ではない。これについては、ここでは述べず改めて講義させて頂きます。


島倉 学

現代人は想像力に欠けている



サバイバル生活のドラマなのに、髭は伸びない、メイクは崩れない、生理問題がない等、ツッコミ殺到とのことですが、演劇人の立場から申し上げると、実にくだらない。

最近の男性は、外面の美意識が高く脱毛する時代です。古典的な話ではない限り、今やエステで脱毛できるのですから髭は直ぐには伸びない。永久脱毛なら尚更です。つまり、時代によって解決することに対してツッコミを入れても意味がない。
ましてや、第一話の列車衝突事故で、もし全員が死亡している設定だとしたら、服装や容貌は生前のままという暗喩的表現(メタファー)も成立してしまう。

「想像力を働かせて見えないものを創造すること」が俳優の仕事ならば、「想像力を働かせて描写されていない部分を解釈すること」が視聴者の仕事でしょう。
もともとファンタジーを含むフィクションだと分かっていて、視聴者が曲解してツッコミを入れるのは非常に下品な行為です。

特に、舞台作品では「無から有を創造すること」即ち、虚構の世界を真実のように見せることが演劇の本質です。それは映像作品も同じで、表面的なものではなく内面的なものであり、俳優の演技術から創造されたものでなければならない。人間の心像を音楽によって創造できる一流アーティストならば、よく分かるはずです。

現代の人々は、インターネットが普及したことによって、実に想像力が欠けてしまっている。視聴者は、もっと「五感」が鋭くなるように感受性を高め、想像力によって楽しめる能力を養って頂きたいと思います。

島倉 学

運を味方にするための正しい努力が必要

人生は、ある日突然「まさか」の出来事が起きる。

「南海トラフ巨大地震」を含め、宇宙の法則に基づき、大地震が必ず起きます。既に、それがいつ来ても不思議ではない。

毎日のように悲惨な事件ばかり続いていますが、くだらないことをする暇があるなら、日頃から自分の命を守る備えをして、覚悟をしておくことです。

覚悟とは何か。それは、己の「行動」に気を付け責任を持つことです。そのためには、運を味方にするための正しい努力=インスピレーション(ひらめきの神)が必要です。
つまり、それが「正しい行動」へと繋がるのです。

島倉 学

ミュージカル「Hospital Hospital~医者を治す病人たちの物語」観劇




昨日、私が以前舞台で共演させて頂いた俳優・竹野聡さんのご出演ミュージカル「Hospital Hospital~医者を治す病人たちの物語」のソワレ公演を観劇致しました。


テーマとコンセプトが、とても良かったです。

今日のマチネ公演も無事に成功されますことを心より祈っています。


島倉 学




音楽の力の真理


・音楽の感動は個人個人による誤解

・感動するかしないかは勝手なこと

・音楽に何か力があるのではない


これは、TV番組「題名のない音楽会」のエンディングで紹介された坂本龍一氏(1952-2023)の言葉です。

2020年2月2日の朝日新聞に『「音楽の力」は恥ずべき言葉』という見出しで掲載されたものと同じです。その衝撃的な内容に誰もが違和感を抱いたことでしょう。


私の主観は、この言葉の裏に隠れた想念を読み取る限り、坂本龍一氏は「音楽には偉大な力がある」と仰っているようなものです。なぜなら、「音楽の感動は個人個人による誤解」ということは、即ち「誤解させる力」が音楽にあるということなのですから(笑)


ちなみに、私が言う「音楽の力」とは何か。それは「音楽の神」です。

我々人間は、神(創造主)により創られた存在です。同様に、音楽は我々人間(創造主)により創られた存在です。それを無から有を生み出し創られた「クリーチャー(創造物)」と言います。

音楽は、人間の潜在意識(第六感)によって無から有を生み出し創られたのに、その実体は見えない。だから、「音楽の神」なのです。


生前の坂本龍一氏は、「この音楽には、絶対的に癒しの力がある」「音楽にメッセージを込める」といった音楽の社会利用・政治利用を嫌がっていた。それを「暗黒の力」と表現されたくらいですから、余程トラウマだったのでしょう。しかし、はっきりと私は断言致します。例え、どんな利用手段であっても「誤解させる力」が真実ならば、その個人個人の感動は本物です。それが「音楽の力」の真理です。


最後に、坂本龍一氏 は2020年2月2日の朝日新聞『「音楽の力」は恥ずべき言葉』で、音楽家の「癒してやろう」の姿勢はおこがましいとあるが、これは決しておこがましいことではない。


人間の本質は、何もしなければ飢えて死ぬのみです。

例えば、腹が減っても何も食べない、食べられない。その理由は金銭的問題や心理的問題と様々ですが、結局は何かを失った時です。つまり、「生きる原動力」を失った時です。

「〜してやろう」は、謙譲すれば「〜して差し上げましょう」となりますが、誰かに何かを与える行為です。その行為は、人間としておこがましいことでも恥ずべきことでもない。


医者は、患者の病気を治療することで、生きる原動力を与える。料理人は、空腹のお客に料理を提供することで、生きる原動力を与える。人それぞれ己の役割が異なるだけで、音楽家も同じです。誰かのために与える手段が音楽です。それを相手がどう解釈しようと、たった1人にでも生きる勇気や希望だと感じてもらえたとしたら、音楽家は素直に受け止めるべきです。音楽家こそ、それを「生きる原動力」として精進するべきです。


島倉 学

劇場版「名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)」鑑賞


昨日、映画館T・ジョイ横浜で、現在公開中の『名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』を見ました。


実は、以前からこの作品の存在は知っていましたが、原作は断片的にしか見たことがありませんでした。今回、映画を見るに当たって過去作を見て重要キャラクターなどをおさらいしました。ミステリーやアクションとしては非常に面白かったのですが、何しろ全く先が見えず終わらせる気がない作品というのが私の主観です(笑)


映画化されるアニメーションは、ほとんどが映画のみで完結する作品で仕上げられています。


・キャラクターの主張と関係性

・黒幕の謎

・ミステリーとアクション


今作は、上記の3点を軸に、原作の1番重要なエピソード(黒幕の謎)を取り上げた原作ファンのみを興奮させる補作であり、映画のみで満足できる作品ではないでしょう。

なぜなら、私のような演劇人は、常に下記の3点を軸に見てしまうからです。


・物語のテーマに対するコンセプト

・ドラマが起こる因果関係

・最終的に観客へ伝えたいメッセージ


作中のテーマは、「老若認証システム」です。社会主義的に扱われるシステムを通して、人権問題や倫理問題をどう描いていくのか。そして、ドラマが起こる因果関係において、キャラクターたちが乗り越えるためのあらゆる障害(阻むもの)が、いかにもフェイクっぽい障害ではなくリアルな障害であるか。

最終的に、その「老若認証システム」における社会的問題をメッセージとして観客へどう伝えたいのか。


私の主観では、その軸が全く見えなかった。それどころか作品の中で一切触れていない。因果とは、文字通り原因があるから結果がある訳です。しかし、今作は登場人物の「灰原哀はシェリーであることがばれる」という結果を生み出すために原因が作られている。なぜなら、作者の意図は早く黒幕の謎を知りたい観客に興奮を味わわせたいからです。それが全面的に出てしまうと、本来のテーマに対する障害(阻むもの)が、全てリアルな障害ではなくなってしまう。


これだと、メッセージ性のある偉大な作品を生み出した結果としての興行収入ではなく、興行収入を生み出すために作られた映画だと言われても文句は言えないでしょう(笑)

映像と音楽は、鳥肌が立つほどエモーショナルでした。


島倉 学



優れた芸術さえあれば政治は必要ない

子どもたちに「一発の銃弾より選挙の一票の方が重く実効性がある」と教える大人が多い。しかし、それは正論ではあるが真理ではない。
何度も申し上げますが、正しい真理の上に成り立っている政治でなければ、実効性はない。
本当の教育とは、見識を養うための智慧(気づき)を学ばせなければならないのです。

権力の魔物に囚われた政治家たちには、呪縛を解かない限り何を言っても「暖簾に腕押し」です。どれだけ綺麗事を並べても、所詮は「弱肉強食」の社会です。
だからこそ、一撃で目を覚まさせる方が実効性はある訳だが、人間は言葉を持つ生き物です。賢い人間ならば、暴力は新たな暴力しか生まないと分かる。

では、一発の銃弾の代わりになるものは何かと考えた時、「言葉の真実」を伝えることができる本物の演劇に勝るものはないと私は言いたいのです。
私は、本当に優れた芸術さえあれば政治は必要ないと思っている人間です。

これは皮肉ですが、愚かな人間に政治を任せるよりも、それこそAI(人工知能)に政治を任せた方が余程良いかも知れませんね(笑)

島倉 学