GLORIOUS MEMORY -6ページ目

1945.8.15 太平洋戦争終結

私は、戦争を知らない時代に生まれた世代です。
人が人を傷つける…戦争の痛みを経験していない私たちは、「命の尊さ」をもっと大切にしなければなりません。
私たちは、「生かされている」ということ。

歌や音楽が、戦争で犠牲になられた罪もない多くの方々への勇気や希望になり、「平和」が訪れることを心からお祈り致します。

私の歌が、少しでも生きる力になるならば、歌手としての役目は果たせたと思っています…
レクイエムとして、この歌を捧げます。

島倉 学

AKIRAに学ぶ


8月15日は、終戦記念日です。

1988年に制作された大友克洋氏が原作・脚本・監督のアニメーション映画『AKIRA』は、人間の潜在能力=AKIRA (原作は超能力少年として肉体が存在する)をテーマにした核心に迫る「真理」が哲学的に描かれています。


原作が連載開始されたのは1982年、その年が第ニ次世界大戦終結から37年後だったため、作中ではその歴史的背景をそのまま当てはめ、第三次世界大戦から37年後の2019年「ネオ東京」を舞台にして描かれています。

近年起こっている社会的背景は、正に未来を予知していたかのように結びついています。


1945年、アメリカが開発した原子爆弾投下によって、日本は甚大な被害を受けた。しかし、その大量破壊兵器を国民に秘密で開発していたのが日本政府だった。それを当てはめたのが『AKIRA』です。つまり、人間の潜在能力=AKIRAは、大量破壊兵器という暗喩的表現(メタファー)なのです。

この作品は、戦後の日本の「暴力革命」や「抗争」が2020年にもまた繰り返されていくことを暗示してまいます。


第二次世界大戦(1939年〜1945年)は、壮大な「魂」に目覚め、自我(エゴ)を失い「神」と一体化した民族が、世界中を戦争に巻き込んだ。そして、「大和魂」に目覚め、お国のために自我を捨て、一億が火の玉になった。正に、この作品はそれを物語っている。

作中に登場する島 鉄雄は、タカシ(超能力実験の被験者)との接触をきっかけに潜在意識(第六感)に目覚め、自我を失い暴走してしまう。

自我がなく自分をコントロールできない意志の弱い人間が、潜在意識に目覚めた時、その使い方を一歩間違えると恐ろしいことになる。

「自分を軌道修正することの大切さ」がメッセージとして組み込まれています。

これは、人間だけではありません。人間の創造によってそれが恐ろしい凶器となり、人類を破滅へと向かわせるもの全てに言えることです。


実は、原作は映画とは全く別のエンディングを迎えます。加筆されたエピソードでは、主人公・金田 正太郎は外部の大人たちの介入を拒み、最後にAKIRAと鉄雄が遺した「大東京帝国」を仲間と共に再興していく道を選びます。

戦後の日本は、何かも失いました。そんな昭和の時代を過ぎ去っていった者たちが遺した礎の上に、新たな世界を創造していかなければならないという決意と覚悟が作品に込められています。


「アキラ(AKIRA)はまだ俺たちの中に生きているぞ!」


この金田の台詞の中に、作品の全てが集約していると言えるでしょう。それは、人類は進化しなければならないということ。つまり、「アセンション(魂の次元上昇)」です。人間は、例え肉体が滅びても魂の「遺伝子コード」が記憶として受け継がれていきます。歴史を辿れば分かるように、人間は何年経っても同じ過ちを繰り返しています。人類が進化するどころか、科学の進化によって益々破滅へと向かっている。人間の生きる意味とは、前世の悪業を現世で清算することです。それを己の意志で気が付き、運命を切り開いていかなければならないと『AKIRA』は伝えているのです。


島倉 学

慶應義塾高校優勝おめでとうございます!


スクール・レッスンを終えてから録画していた第105回全国高等学校野球選手権記念神奈川大会決勝戦を鑑賞。


9回表の慶應義塾の攻撃場面、土壇場に放った渡邉選手の逆転3ランホームランは素晴らしいパフォーマンスでした。

世間では、直前の「誤審」扱いについて騒いでいるようですが、スロー映像で何度見ても微妙でした。

問題になっているのは、ダブルプレイの場面で、誰が見てもタイミング的に2塁は完全にアウトだったものの、守備側の足がベースに触れているかどうかについて審議の結果、ベースを踏んでいないという判定でセーフだった。

真実は、ベースに少しでも足が触れていたとしても、スロー映像で見た時に確実に踏んでいるようには見えない。踏んだ「つもり」になって見えたことが、セーフという判定になったと思います。


これは、演劇の世界においても全く同じことが言えます。

俳優が、舞台で台詞を一字一句丁寧に言っていたとしても、言った「つもり」になって聞こえてしまう。演出通りに行動した「つもり」になって見えてしまう。つまり、何を言っているのか言葉がはっきりと聞こえない。何をしているのか意志と目的がはっきりと見えない。それでは、観客に真実は伝わらないということです。だから、プレイヤーは誰が見ても分かるように、もっと大袈裟に表現する必要があるのです。野球も同じプレイヤーですから、技術不足だとそういう結果になるのです。


純粋な精神で立ち向かう選手たちの戦いは、我々に勇気と希望を与えてくれます。それを見ることができて、私は幸せでした!

心から感謝致します。


島倉 学



オペラ歌手はマイクを使っていないという錯覚

現代演劇におけるオペラの上演は、全て「生音」である。それは、表面的にそう感じるているだけの錯覚です。全くいつの時代の話をしているのでしょう(笑)

オペラ歌手の声は、16世紀末に声を拡張するためのマイク機器がなかった時代に創造された素晴らしい発声法です。しかし、それは劇場全体に響き渡る真の「ベル・カント唱法」が存在した時代の話です。ましてや、今日における2000人以上収容の劇場の場合、現代の音色を重要視したオペラ歌手の発声法では、オーケストラ伴奏を入れると到底客席後ろまで声は通りません。なぜなら、劇場自体がそういう音響で作られていないからです。ごく稀に、声がオーケストラ伴奏に負けてしまうオペラ歌手には、ヘッドセットマイクを装着している場合がほとんどです。その場合、他の歌手との差が出てしまうとバランスが悪いので、声が通る歌手は嫌でも装着しなければならない。

オペラ歌手がマイクを使っていないというのは、数百人収容の小さな音楽ホールでピアノ伴奏を使った場合の話です。
世界にあるどの劇場にも、オペラ歌手の声が客席後ろまできちんと響き渡るようにするために、見えない「オペラ音響」というプロ職人が必ずいます。
舞台セットの中や舞台の天井など、あらゆるところにマイクが仕込まれています。劇場内にスピーカーが埋め込まれた見えない「オペラ音響」と言われているくらいですから、オペラ歌手ですらその存在を知らないことが多いのです。

そのプロ職人が創り出す音響のクオリティは、実に生音かのように自然に聞こえてきますから、観客にも分からないでしょう。私は、そういうものだと熟知しているので、その場でオペラ歌手の声を聴けば直ぐに分かります。
皆さんが劇場で生のオペラを観て感動しているのは、見えない「オペラ音響」というプロ職人の力もあることを決して忘れないで下さい。

島倉 学

芸術の本質と手法を残す重要性


今や、人間がインターネットを利用するのではなく、インターネット(オンライン)に心を支配されている世の中です。

演劇界(映画界)では、私が最も恐れていたことが起きようとしている。


AI(人工知能)が発達していくにつれ、生活のあらゆるものが機械化し自動化されるということは、人間から五感が失われ、無から有を生み出し創造する必要はなくなってしまう。なぜなら、人間の創造力をAIに支配されてしまったら生身の人間は不必要になるからです。今の俳優たちは、生き残れなくなるでしょう。つまり、それは芸術の衰退を意味する。

だからこそ、古き良き時代の手法を残し、質が良く高い技術を持ったアーティストを育てていかなければならないのです。


日本のドラマや舞台を見ていても、最近の俳優は何を言っているのか一言も聞き取れない。台詞から何を目的に行動しているのか全く分からない。この世界で生き残りたいなら、容姿ばかり磨いてないで、もっと技術を磨くことです。


島倉 学

ミュージカル観劇レポート



本日、劇団四季ミュージカル『ノートルダムの鐘』を観劇致しました。


いつ観ても、キャスト全員のしっかりとした「オペラ・ポジション」と「アクート」の歌唱は、実に圧巻でした。


「オペラ・ポジション」とは、軟口蓋を高く上げてアデノイド(咽頭扁桃)に息を当てることで鼻腔を共鳴させる発声です。

「アクート」とは、低音から高音まで全く同じポジションで、身体全体から頭上を突き抜けるように声を解放させる歌唱です。

この共鳴と解放がなければ、いくらヘッドセットマイクがあっても客席後ろまで声が届きません。


劇団四季の舞台は、どんな声質の役者も一音一句はっきりと聞こえてきます。更に、俳優陣それぞれのアプローチした役柄に対する心像が、言葉と行動を通してリアルに伝わってきます。

そして、何度観てもオープニングから劇場いっぱい身体にまで響いてくる劇団四季俳優陣とクワイヤの歌声だけで、自然と涙が出てきてしまう…

一番最後のあの迫力は本当に凄まじいです。


どんなことにおいても「基本」が全てであるということ。それを教えられます。そして、その「基本」がしっかりとある上で、更に舞台のエンターテイナーを「劇団四季」は期待以上に観客へと届け満足させてくれます。

劇団四季が、最も「美しい日本語」を伝えることのできる演劇界の日本最高位と言えるでしょう。


島倉 学



換声点をなくす習得法とは


<歌唱法講義>

●換声点をなくす習得法とは


講師:島倉 学


音楽ジャンルに関係なく、ヴォイス・トレーニングを学んでいる過程で、誰もが壁に打ち当たる課題の1つが「換声点(かんせいてん)」です。

換声点とは、声区(胸声・中声・頭声)における地声と裏声の境目のことです。一般的には、POPSならば「ブレイク・ポイント」、オペラを専門とする声楽ならばイタリア語で「passaggio(パッサッジョ)」と言います。ちなみに、passaggioは通過するという意味の「passare(パッサーレ)」が語源です。


この換声点(パッサッジョ)は、男声と女声それぞれに声区間のある音と音の隔たりで喉が詰まったり裏返ったりと、スムーズに通過できないところが2箇所あります。第1 換声点は低音域から中音域、第2 換声点は中音域から高音域にかけてあります。特に、ほとんどの生徒さんが高音域に入る前の第2 換声点で苦労されていることでしょう。

換声点をスムーズに通過させるためには、声区(胸声・中声・頭声)を融合する発声法を習得しなければなりません。それをPOPSならば「ミックス・ヴォイス」、声楽ならばイタリア語で「Voce di Finte(ヴォーチェ・ディ・フィンテ)」と言います。


ミックス・ヴォイス(ヴォーチェ・ディ・フィンテ)とは、地声(ナチュラル・ヴォイス)と裏声(コーディネート・ファルセット)が混ざったように聞こえる声のことです。正確には、喉頭を下ろしたまま、コーディネート・ファルセット(声帯閉鎖のある裏声)のような感覚でナチュラル・ヴォイス(息の多い地声)を鼻腔に響かせて発声することです。つまり、それが声区(胸声・中声・頭声)を融合するために必要な発声法なのです。


ちなみに、POPSにおけるミックス・ヴォイスは、地声(ナチュラル・ヴォイス)と裏声(コーディネート・ファルセット)の声帯閉鎖のバランスによって2種類に使い分けています。ひとつは地声が強い「ハード・ミックス」、もうひとつは裏声が強い「ライト・ミックス(ソフト・ミックス)」です。私は、前者を「基本的な実声」と言っています。

また、POPSにおけるミックス・ヴォイスと同様の声楽におけるヴォーチェ・ディ・フィンテは、上記の2種類を結合し、声のポジションを調整することによって換声点をなくしていくことが目的です。それを「Messa di voce(メッサ・ディ・ヴォーチェ)」と言います。


余談ですが、多くのヴォイス・トレーナーが、ミックス・ヴォイスは地声と裏声を混ぜること、または混ぜるのではなく混ざることだと思っているが、どちらも誤りです。決して言葉を表面的に捉えてはならない。先にも述べたように、「混ざったように聞こえる声」を言うのであって、地声と裏声は混ざらない。

また、多くの声楽家が、男声は地声で女声は裏声なので、両者において発声の仕方が少し違うという表現をしていますが、これも誤りです。音域によって地声と裏声の声帯閉鎖のバランスが異なるだけで、男声も女声も発声の原理は全く同じです。表面的に違って聴こえているものを本質的にも違っていると錯覚してしまうのは、非常に危険な行為です。常に、真理で物事を判断する能力を養って下さい。そもそも、音域的に地声だけで歌うことも裏声だけでも歌うことも不可能です。


それでは、本題に入ります。ミックス・ヴォイス(ヴォーチェ・ディ・フィンテ)ができれば、換声点はなくなり声区(胸声・中声・頭声)を融合することができる。これが一般的な解釈です。しかし、実はそれも錯覚です。

ミックス・ヴォイスとは、声区を融合するために必要な発声法であって、換声点がなくなる訳ではありません。なぜなら、声をかぶせることで「換声点を隠している」に過ぎないからです。それをPOPSならば「カヴァー」、声楽ならばイタリア語で「coperto(コペルト)」と言います。


例えば、中音域から高音域にかけて、第2換声点の限界値に達する前の段階から意図的に喉頭を下ろし、換声点(パッサッジョ)が分からないように声をかぶせて高音を出しやすくする。これが最も多い指導法でしょう。しかし、この方法では喉頭が自由になることはなく換声点はなくなりません。

また、例とは対照的に咽頭は開いたままで声をかぶせない方法があります。それをPOPSならば「オープン」、声楽ならばイタリア語で「aperto(アペルト)」と言います。これもまた、迫力のある声は出るのですが、喉頭が自由になることはなく換声点はなくなりません。


「島倉 学メソッド」のカリキュラムにおける換声点をなくす習得法は、実にシンプルです。それは、「パッサッジョ域」で何も余計なことをしないことです(笑)

低音から高音に至るまで喉頭は下ろしたまま、身体の軸を保ちながら、ただ息を上に向かって吐き、素直に発声すれば良いのです。もちろん、基本的な呼吸法と発声法、そしてミックス・ヴォイス(ヴォーチェ・ディ・フィンテ)の過程のみを身体で理解(実感体得)していることが前提です。つまり、実際に声をかぶせるようなニュアンスではなく、低音から高音まで全く同じ声のポジションのまま、身体の軸に沿って声が頭上から突き抜ける感覚です。それを声楽ではイタリア語で「acuto(アクート)」と言います。

ここで大切なことは、歌唱に必要な身体の使い方(肉体の筋力)がきちんと備わっていること、更に低音と全く同じ感覚で高音が楽に出ていなければなりません。


このアクートとは、高音における唱法ではなく、本来は頭上から突き抜けるような解放感(その状態にある声)を意味します。意図的に喉頭を下ろしたり声帯閉鎖をコントロールするのとは異なり、声帯は柔らかい状態のまま低音から高音まで実声の強弱が可能になります。なぜなら、呼吸が丹田にしっかりと下りていることで、横隔膜を柔らかく保ちながら息を自由にコントロールすることができるからです。実は、それこそが声区(胸声・中声・頭声)を融合した真の「ミックス・ヴォイス(ヴォーチェ・ディ・フィンテ)」なのです。

地声と裏声の換声点が分かる歌唱は美しくないという誤解

歌劇(オペラ)において、歌手が地声と裏声の「passaggio(パッサッジョ)域」で声が変わってしまうのは、歌手の技術的な都合であり、音楽が求めているものとは関係ない。
一つのフレーズの中は、一つの響きで歌えるようにしなければならない。即ち、地声と裏声の換声点が分かる歌唱は美しくない。

オペラ歌手は、皆これが正しいと思い込んでいるが、それは大間違いです。
歌劇(オペラ)は、「歌と音楽で進んでいく劇」ではあるが、本質はあくまでも「演劇」です。つまり、演劇的表現(物語や人物を形象化)の中に音楽が組み込まれているということを忘れてはならない。音楽が求めるものならば、何もわざわざ「劇」にする必要はない。

歌劇(オペラ)は、音楽が求めているもののためにオペラ歌手の歌唱技術があるのではない。オペラ歌手の役目は、戯曲の中にある物語や人物を形象化すること。つまり、役を創造し、歌詞(台詞)を具現化し、それだけでは表現しきれないものを観客へ伝わるようにするために歌唱技術が必要なのです。

歌劇(オペラ)は、マイクなどの拡張機器がなかった時代に、劇場全体が響き渡るように生み出された素晴らしい発声法です。オペラ歌手は、声区(胸声・中声・頭声)を融合し、一つの響きで歌うことは最低限の基本ですが、表現する上で決してそれが全てであり正しい訳ではない。当然、舞台上で役を実感(知覚)した結果として生じた感情(喜怒哀楽)によって、息が変われば音色も変わる。それが、技術を超越した先にある真の芸術です。

現代のオペラ歌手は、歌劇(オペラ)に対する概念を誤解しています。
詳しい内容は、改めて講義致します。

島倉 学

パラレルワールドの誤解



世間では、「結局未来に起こる隕石落下は無事回避できたのか」を気にしているようですが、論点が間違っています。
ドラマの制作側を含め、そもそものパラレルワールド(平行世界)の解釈が間違っています。

物語の始まりは2023年、つくばエクスプレスの5号車(乗客68名)と6号車が、突如地震の影響で2060年の未来へ車両ごとワープに巻き込まれるというファンタジー作品です。

パラレルワールドは既に、量子力学的に科学で証明されている理論です。我々が存在する世界とは別の次元にも違う世界が平行して存在しているという概念です。一般相対性理論によって、その世界は可能性の分だけ幾つも存在し、次元を超えて複雑に絡み合っている。この「絡み合っている」というのが重要です。

では、2060年の未来に残った田中がいる世界を「パラレルワールドA」としましょう。
残りの5号車の人達がワームホール(時空の歪み)からタイムワープしたのが2026年ということは、この時点で「パラレルワールドB」が存在し、既に世界が分岐しています。
つまり、「パラレルワールドA」と同じ時間軸に繋がるためには、本来事故が発生したもとの2023年同時刻に戻らなければならないのです。

この理論からすると、2026年の「パラレルワールドB」で米澤が埋めたタイムカプセル(手紙)と赤いジャンパーが、2060年の未来にいる田中の「パラレルワールドA」に存在するのは矛盾するのではないか。または、存在するのであれば隕石落下は回避できなかったのではないか。いや、隕石落下は無事回避できたから世界は分岐し、分岐前に埋めたタイムカプセルが存在するのではないか。
まぁ、世間ではこんな議論が飛び交っていますが、全て的外れです(笑)

私の言葉をよく思い出して下さい。冒頭で、このように申し上げました。

「その世界は可能性の分だけ幾つも存在し、次元を超えて複雑に絡み合っている」

つまり、世界が分岐していようとなかろうと、隕石落下を回避していようとなかろうと、宇宙が滅亡しない限りタイムカプセルは存在する可能性があるということです。そして、世間が気にしている隕石落下の回避結果も、タイムカプセルが基準にはならない。そもそも、初めからこの議論自体が無意味なのです(笑)

世間では、とにかく未来はどうなったのか結果が気になると批判殺到のようですが、本来の視点はそこではない。やはり、インターネットが普及した時代に生まれた現在人は、想像力に欠けている。この言葉に尽きます。

私は、終盤の萱島が熱弁した台詞から、このように解釈致しました。
作中では、YouTuberや記者達が一体誰の話をして騒ぎ立てているのかを萱島は問う。実際に体験もしていない者達が妄想で何を言っているのかと。自分たちは、未来の荒廃した世界で、人々と共存することで心が開放され、忘れかけていた「五感(感覚)」を呼び起こし、「想像力によって無から有を創造すること=自分の意志で自分の人生を切り拓くこと」を学んだと。全てがここに集積していると言っても過言ではない。

私は、正直なところ最近のドラマは脚本と演出が本当にチープだとは思っています(笑)しかし、それと内容が伝わる伝わらないは別の話です。視聴者は、作者が伝えようとしている意図を読み取る想像力が必要です。正に、今の時代だからこそ、そこに気付かされる作品なのです。

島倉 学

天才の法則

天才は、顕在意識(自我への執着)よりも潜在意識(第六感)に長けているので、「99%のひらめき」によって「1%の正しい努力」を導き、完璧な能力を発揮できます。その理由を数学に例えて、私が分かりやすく解説致しましょう。

正:7×4−8÷2=24
誤:7×4−8÷2=10

上記の問題で、1つ目の「正」のように正しい答えを導き出すためには、左から順番に「かけ算と割り算を先に計算してから引き算(または足し算)をする」という法則があります。しかし、2つ目の「誤」のように左から順番に計算してしまうと答えを間違えてしまいます。人生もそれと同じで、正しい答えを導き出すための法則が分からない人間は、カルマ(業)を解消できないまま、何度も同じ過ちを繰り返してしまう。ところが、自分の意志で前世の記憶を呼び覚まし才能の芽を開花できる天才は、インスピレーション(ひらめきの神)によって、常に正しい答えを導き出せます。それが、「天才の法則」です。

ちなみに、私が計算式を「規則(ルール)」ではなく、敢えて「法則」と表現したのは何故なのか。それは、数学とは算数ではなく「哲学」だからです。哲学とは、知識をたくさん詰め込むことではなく、他者から植え付けられて得た固定観念や常識を捨て、真理に基づき判断する力を身に付けるための学問です。
規則と法則は、全く異なります。規則には、人為的に「受け入れて守る」という選択の自由が前提にある。一方の法則には、決して「反することのできない摂理」という宇宙の道理がある。それを「永遠不変の真理」と言います。

私はよく、芸術の世界では「1+1=2」だけが正しい答えではなく、「1+1=3にも4にも5にもなる」という暗喩的表現(メタファー)を使います。なぜなら、芸術の世界は時間や空間が存在し、常に変化していくものだからです。そして、それらの芸術は人間の価値観や常識(規則)で成り立っている。つまり、もとから歪んだ社会に、正しさなど存在しませんから、そこに何が正しいか間違いかを求める必要はない。本当に正しいのは、永遠不変の真理(法則)のみです。だからこそ、その真理(宇宙の道理)に基づき正しく規則(ルール)を破る=自分が信じる正しさを貫くことによって、新しい「発想力」「創造力」「独創力」が生まれるのです。

島倉 学