ふと思ったんです。
どうして。
人前で、媒体で、子育てについて語るのは、子育てに成功した人なのでしょうか?
子どもを何人も東大に入れた。
海外の一流大学で優秀な成績を修めた。
スポーツ選手として活躍している。
タレントとして、政治家として……
何を子育てにおける成功と言うのか、という話はあるとしても、
「私は子育ては上手くできませんでした。その失敗談をお伝えします」
「普通です。上出来でも不出来でもなく。でも子どもと過ごした時代は幸せでした」
という人を、催事主催者や編集者は引っ張ってきませんよね。
これは、子育てだけに言えることではなくて、様々なことにも当てはまるような気がします。
就職活動体験記
開発秘話
偉人伝
プ○ジェクトX
情○大陸
私が好きになれない、スーパー公務員的な話も近いものがあるかもしれません。
ここには明確に、
ニーズの問題
があるんだろうと思います。
「成功した人の話を聴いた方が、何となく自分も成功できる気がする」という思い。
でも、
成功者Aさんの成功は、Bさんにとっても成功であるとは限らないし、
Aさんの a という方法で、Bさんが成功できるとは限らない。
そもそも成功という言葉の死語感がハンパ無い。
(もちろん、成功は「成功」という表現に限らず、ここを目指そう、ここに辿り着ければ、という想いで掲げられる総ての言葉を指します)
ちょっと筆が走り過ぎましたが、別に成功や成功者をdisりたいわけでも、嫉妬に震えているわけでもありません。
私が言いたいのは、
私が聴きたいのは
どんな話なのか
ということ。
そして、世の中の多くの人は、
どのようにして自分にとって必要な
話や読み物を選んでいるのか
ということ。
公務員キャリアデザインの活動で「公務員おしゃべりカフェ」と称して、毎月1回、現役公務員や公務員志望者と対話をしたり、個人として読書会を開催したり、ワークショップデザイナーとして対話の場を作ったりしていると、つくづく思うのが
話を聴くのって面白い!
ということ。
もちろん、みんなそれぞれ特徴があるけれど、メディアに取り上げられている人ではなく、そういう基準で言えば“普通”の人たちです。
でも、その人たちのお話を聴くのがとても面白いし、私にとってすごく価値があって、ここ最近、それらがすごく血となり肉となっている感覚があります。
そんな最近の経験もあって、成功者の言葉はそれなりの価値があるのかもしれませんが、
普通の人の
普通の言葉の価値
にすごく注目しています。
私にとっては、たまたま今が、そういう時期なのかもしれません。
人にはそれぞれストーリーがある。
そこにはそのストーリー固有の価値がある。
同じストーリーにも、きっと、聴き手によって異なる価値を見出す。
だから、
普通の人が、普通の人に向けて、もっと普通に気楽に、自分のことを語るような時間が増えたらいいんじゃないかな、
最近、よく考えているのがそんなことです。
違うって、それだけで価値なのかも。
有名じゃなくても成功者じゃなくても、普通の人の話から自分なりの価値を見出す姿勢って、特別な味付けをしなくても、自然な食材の味をそのまま楽しむことに似ている気がします。