皆さんこんにちは🌞
今回は前回のブログの続き
「エジソン第二章」を書いていきます!!
前回は、トーマス・アルバ・エジソンの
人物像をざっくり紹介いたしました!!!
前回ブログ↓
さて、今回はエジソンの生涯を
記述していきたいと思います!!
『エジソンの生涯』
様々な発明をし、2186件もの特許を取得し、
アメリカの発明王とまで呼ばれたエジソン。
果たしてどのような生涯を歩んできたのでしょうか。
〈①出生〜学生時代〉
まずエジソンが生まれたのは、
1847年2月にアメリカのオハイオ州で出生。
兄弟は7人兄弟で非常に大家族であった。
エジソンはその末っ子である。
子供の頃は何かと知りたがりの
特徴的な個性を持っていた人物で知られ、
口癖が「Why」であったと言われている。
その一つが
小学校で「1+1=2」という教に対し、
エジソンは「Why」と訪ねた。
粘土をいくら足しても
大きな一つの粘土にしかならないからである。
他にも「A(エー)」を何故「ピー」と読まないのか、
など、常識を持つ大人からしたら理解し難い
質問ばかりをして先生を困らしていたとのこと。
それもあり、
先生からは「お前の頭は腐っている」などと言われ、
わずか3ヶ月で学校を中退することとなる。
しかし、母はエジソンの天才性を見抜き、
学校教師の経験がある母がつきっきりで教育をしていたとのこと。
自宅学習の最中でも好奇心旺盛であったエジソンに対し、
母も同様に好奇心旺盛であったこともあり、
百科事典を片手に互いに議論を交わしあったという。
その中でも最も興味を示したのが科学であったと言われている。
また、エジソンは読書を好み、
愛読書は哲学系の本であった。
他にも、ニュートンの『自然科学の数学的原理』、
ロバート・パーカーの『自然科学の学校』、
ギボンズの『ローマ帝国衰史』なども好んで読んでおり、
12歳になることには図書館にある本を
読破したという逸話も残している。
〈②電信技師への軌跡〉
エジソンが12歳になる頃、
列車内での売り子の仕事を始めることとなる。
しかしエジソンはただの売り子では終わらなかった。
新聞には当時から需要があり、
それに気づいたエジソンは、
列車沿線で起こった出来事を新聞にし、
『週間ヘラルド』を自分で作り車内での販売を始める。
列車の中で発行された世界初の新聞であったことから、
大きな人気をよんだという。
それがエジソンの初めての企業とも言えるであろう。
エジソンが14歳になった頃、
1861年に「南北戦争」が勃発し、
アメリカが2つに割れた。
当時、戦況の報告などやり取りは、
電話機が存在しなかったため、
電信技術を用いたモールス信号が起用されていた。
その電信機にエジソンは猛烈に興味を惹かれていった。
当時列車にも電信機の機能が使われていたため、
駅長に電信技師の技術を習うこととなる。
エジソンは言わずとしれた電信技師である。
これが、偉人エジソン誕生の第一歩である。
〈③限られた時間〉
電信技師になったエジソンは、
16歳〜20歳頃までの4年間で、
職場を転々とし17箇所も変わった。
行く先々で喧嘩をしたり、
先輩に対し生意気な態度により、
職場を追い出されったこともしばしば。
戦争が終わり21歳となったエジソンは、
当時最も文化が進んでいたボストンへ足を運んだ。
そこで1冊の本と出会う。
マイケル=ファラデー著
『電気学実験研究』である。
マイケル=ファラデーは
1791年〜1867年に活躍した
「電気学の父」と呼ばれたイギリスの科学者・物理学者である。
彼の研究は主に、
電磁気学や電気化学の分野で、
直流電流の電気伝導体の周囲の磁場を研究し、
物理学における「電磁場基礎理論」を提唱した。
つまり、発電やモーターの原理を発見した人物である。
ファラデーはエジソンと似た境遇であることもあり、
ファラデーに引かれていき、
後にこの本との出会いが、
エジソンを発明王へと導いていく。
エジソンはその先駆者に追いつくことを考え始めるが、
仮に50歳まで生きれたとして
果たしてファラデーの功績を超えることが出来るだろうか。
21歳だったエジソンであるが、
時間がないことに気づき焦り始める。
〈④最初の教訓〉
エジソンは早速研究に取り掛かり、
特許第一号
「電気投票記録装置」
を考案した。
これは電信の原理を利用したもので、
議会において賛成か反対かを
手元のスイッチで押し、
集計の手間と時間を解消するものであった。
この発明には全財産と借金をし、
やっとの思い出作った装置を、
売り込みに行った。
しかし、そううまくは行かなかった。
国会議員はこの装置を見るやいなや、
「これは我々にとって最も必要としない装置である」
議会では判決を長引かせることも
戦術の一つであったからである。
結局一台も売ることができなかったが、
ある教訓を得た。
「人々が本当に必要なものを作らなければ
商売にならない」
ということ。
この失敗を得たエジソンは
ニューヨークへ移ることになる。
〈⑤工場の開業〉
22歳になったニューヨークでエジソンは
本当の意味で成功を収めることとなる。
当時の株式市場の情報は
事務所から事務所へ走って届けるという
原始的なものであった。
そこでエジソンは
発明品第2号
「株価ティッカー(株式相場表示機)」
を発明した。
これは最新の株価情報を
いち早く電線を通じて届けることの出来る装置である。
これが投資ブームの市場で大ヒットした。
さらに自分の会社を立ち上げ、
株価ティッカーの製造を24時間体制で取り組むこととなる。
当時のエジソンはかなりストイックで、
朝6時に起床し深夜2時まで働き詰めたとのこと。
仕事が息詰まると、
工場に鍵を締め、従業員を缶詰にしたという。
いずれエジソンは
メンロパークに工場を築き、
強烈な個性を持つエジソンのもとに腕の立つ職人が集まった。
この工場は未来を作っていく工場として、
世間は目を離せなくなった。
後にエジソンは
「メンロパークの魔術師」
と呼ばれるようになる。
、、、、、、、、、、、、、
さすがに偉人の生涯を語るには長くなりすぎるので
2回に分けたいと思います😅
また次回も見に来てください!!!
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