また最近問題が深刻化しているいじめ問題。

いじめ問題に関しては
これまで何度も触れてきたけど
今の大人のほとんどは、子供の頃の繊細な気持ちを忘れてしまっている。
だから的外れな対応しかできない。

特に、小・中学生においては
彼らの世界は「家庭か学校」
という極めて狭い世界がすべてです。
(高校になると、学校によってはバイト可能になる・高校を卒業すればその先の違う未来も見えやすくなる)
その中で、支えや逃げ場をなくしてしまったら、「世界の終わり」も同然。

どれだけ心細いか。

かといって、どこぞのとある市長が提言したとされる
「学校を休むか転校しかない」

というのは、全く前向きな答えではない。後先もその子の人生も考えてはいない言葉だ。

本当に被害が大きすぎて、かつ先生も頼りにならず、事件レベルだったら
そういう道もなしではないだろう。

ただ、
一回逃げると、逃げ癖がつく。
そこから再び立ち向かうのがとても億劫になることも多い。

そして、もし自分自身と(可能なら相手のことも)しっかり向き合わず
ただ逃げるために転校して、またいじめにあったとしたら?
もしそんなことになったらトラウマの上塗りだ。
そして、本人にも何か原因がある、ということが明確になる。
結局、自分自身としっかり向き合えるかどうかが、いじめを克服する有効な手段のひとつである。
その結果、避難するのが最適と思えばそうすればいいとおもう。

私の場合、小学校高学年の頃にかなりひどいいじめに遭い続けたが
母は、一日たりとも学校を休ませてはくれなかった。
辛かったけど、母は味方をしてくれつつも「逃げ癖がつくからダメだ」と
厳しく学校にだけは絶対行かせた。
今となってはそのことに感謝しています。
辛い日々で未来は見えなかったけど、たくさんの「現実と向き合うこと」を強いられ
その中で、いじめっ子、いじめっ子の親、いじめられっ子、先生、他のクラス、
いじめのメカニズムやそれぞれの心理状態を徹底的に観察することとなった。



いじめっ子にはだいたい悪意がなく
「反応が面白いから」
「暇だから」
「なんかムカつくから」


という短絡的で衝動的、本能的な攻撃による快楽のため
あるいは、集団心理も大きく働き、個々の信念が関係なくなり
「とある標的を攻撃する」というひとつの目的に向かう連帯感「繋がっている」という
安心感
自分が強くなったかのような錯覚、におぼれていたりする。

(そして数年のちにはいじめたことすらすっかり忘れているのである。
 つまり、いじめとも悪いことだとも自覚していないのだ。)


なので、たとえば、いじめている集団を個別にバラしてしまえば
たちまち「リーダー格」のような子だとしても、いじめる力をあっという間に失う。

その「側近」的な子からは「本当は別にいじめたくていじめてたわけじゃないけど○●ちゃんが怖くて」
という言葉が出てくるだろう。


「ひとりっきり」でいじめは起こらないのである。
「集団心理」の恐ろしさがここに見える。


では、いじめられている方はどうすればいいのか

・全く非がないのに、なんとなく、でターゲットにされるケース
 (この場合ターゲットが順ぐりに移り変わることも多い)

・転校してきてなじめなかった、みんなと何か違う部分が目立つ。
・あるいは性格が内向的でなじめない。逆に主張が強すぎる。
 他の子たちと考え方が違いすぎてなじめない。マイペース。
 ・・そういった性格が受け入れられない生徒の多い学校(クラス・担任)である。

など、いくつかのパターンがあり
いじめが起こってから悪化するのか、食い止められるのかは
各環境のパターンにより対処法は異なる。

まずは、とくに生徒と多くの時間を過ごす小学校においては「担任」の力量が要になる。

(今はモンペが増え、力量のある先生でも相当苦労するかもだけど)


担任(先生)がクラスのボスとして統率できる場合
特に、個性を個性として受け入れ、その個性の違いの良さを自然と(心から)示せる先生の元では
いじめは起こりにくい。


先生がボスとして統率ができない場合
その座をとってかわるのはある生徒である。
権力やカリスマの強いとある生徒を中心とした、コミュニティができあがる。

そのカリスマの性格によっていじめの陰湿さ、深刻さが大きく左右される。
(ちなみに、いじめる子の親は、なるほど、
 そういう子に育つわけだ。と言わざるを得ないケースが大体である。
 なぜなら、子供は親の生活態度を見よう見まねで、真似するので、性格から口癖まで、似るものなのだ)


さてそういう「家庭か学校」という狭い世界の中で
まず最も救いとなるのが

・誰かひとりでもいい、「絶対的に味方をしてくれる存在」
親に相談できない、ということも多いにあるのだけど、一番は親が理解し
何があっても世界で一番あなたの味方だよ、ということを常に示し、話し合い、支えになること。

ただし、親が学校に怒鳴り込む、など
方法を間違うと、かえってしっぺ返しでいじめが悪化するということもありうるので
穏便に先生など味方にし、理解を得つつ、メインは、常に子供の最強の「味方」であることが大事です。

・親に助け舟を出せない場合。
違うクラスでもいい、いじめの現場で、こっそりでもいいので
味方になってくれる存在がひとりでもいること
意図的に悪意的に追い込まれた「孤独」というのはこの世の終わりにも等しい。
私自身も、集団無視に遭った時、そんなことを気にせず一緒にいてくれた友達が1人いて、
彼女の存在にどれだけ救われたか知れない。今でも大切な友人です。

他のコミュニティに安心できる居場所をつくる。
これは具体的かつ非常に生産的な方法です。
「家と学校」だけの世界は非常に息苦しく逃げ場がない。

世の中にはもっとあらゆる価値観があり、学校では現状受け入れられない個性でも
ウェルカムで喜ばれる場所というものが、どこかにあったりするものです。
大人になればそのことは自然とわかるものだけど。。

なので、習い事や塾でもいいし、親戚とか?
「学校」と全く関係ない、関係者のいない新しい場所を1カ所でもいいので作ること

そうして、自分の誇りを取り戻し、保つことができれば
「あぁ、学校なんてしょせん小さな箱庭なんだな」
ということがわかります。

そう思えると、いじめている人たちがいかにつまらなく気の毒で小さな心であるかが
冷静に見える。
そこで

・相手にしない。相手が面白がる反応をしない。

というのがひとつ大事なポイントなのだが
卑屈な気持ちでただ無視したりだまっていると
かえって相手を逆撫でることにもなりかねないので難しいが

自分には、「ちゃんと自分が自分でいられる場所がある」という安心感がある上で
きっぱりと、「そんなつまらないことに付き合うのはやめた」
と思えると、強い。

私の場合は、罵声を浴びせかけばい菌扱いするクラスメイトたちに
「私、そういう下らないことに反応しないことにしたから」
と宣言し、彼らの悪意を一切気にせず涼しい顔で自分のしたいことをしていたら
全く反応せず、ダメージも受けない私が面白くなくなったようで
嘘のようにいじめが収束して驚いたのを覚えている。

この時小学生だが、同じ学校の子が一人もいない、市外の塾に通い始めていい友達ができたことが
学校での一切がバカげた下らないことだ、と思えたのが救いになりました。

卑屈になってしまうこと、自分としての「誇り」を失うことこそが
一番恐ろしいことなのだ
。。

どういう仕打ちをうけ、屈辱的なことが起ころうと
意味あって生まれて来たこと、誇るべき人間であること
誰かを愛し、愛される権利があること。


そういう心の誇りをこそ守れる様
本人ふくめ、親、先生、いじめを目撃した人が
行動すること。
(かわいそうだから、とか同情がにじみ出ることは余計に屈辱になるのでいけない)

そして、
世界は家と学校だけじゃないこと!!


今は運悪く、自分がめっためたに否定されるような環境にあったとしても
もっと広い世界があって
無限の可能性があって
自分だからこそできることに出会えたり、愛する人や愛してくれる人に出会ったり

学校を出てからこそ
自分の手で人生を選び、環境を作り、幸せに生きることができる可能性が
小さな学校の中からは想像もつかないような未来が待っていること

周りの大人が
教えてあげてほしい。


教育委員会とかじゃない、学校のせいだけじゃない
家庭で、あるいは
社会全体で、味方になっていくこと。

今私に直接できることはないけど
「子供が大人の真似をする」というのは自然の法則なので
社会全体で、大人が
それぞれ尊厳のある、しあわせな生き方を模索し、子供たちに示すこと
だと思う。


これは私自身が、死にたい。と思い悩むほどのいじめに遭った子供時代に
目の当たりにし、戦い続け、徹底的に観察して考えた答えです。

いくつか自分なりに考察した
いじめへの対抗策を書いたけれど
「音楽」が心の救い、にもなったりしたら・・・とも思います。

どのアーティストさんでもいいんだけど
自分の気持ちを代弁してくれたり、
あるいは発散させてくれたり
(私にとってはそれがベートーベンだった。だから、ベートーベンが命の恩人だと思っている。)
メッセージを通じてて支えになてくれたり

音楽にはそういう力もあるって信じていきたいです。

『CruelGame』 アニメーションPV しほりとあすか