ビジネス&スピリチュアルblogウォッチ ~ by shiho-fan

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ビジネスblog、スピリチュアルblogなど様々なblogをウォッチし、自分のコメントを添えてピックアップ。両者で書かれてることって、意外と共通点多いですよね♪

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コミュニケーションで最も大切なことは、相手が語らない部分を聞くことである。

 

http://iyashitour.com/archives/28977

 

 

神話は絵空事ではありません。神話は詩です、隠喩ですよ。

神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われます

究極のものは言葉にできない。だから一歩手前なんです。

究極は言葉を超えている。イメージを超えている。

あの生成の輪の、意識を取り囲む外輪を超えている。

神話は精神をその外輪の外へと、知ることはできるがしかし語ることはできない世界へと、放り投げるのです。

だから、神話は究極の真理の一歩手前の真理なんです。

 

 

 

2016-09-30 08:03:09 

2017-08-31 12:22:12 追記

9-4 タイトル変更

 

 

 

In looking for a husband for your daughter, says an old proverb, don't ask: "Who'll make the best husband for her?" Ask instead: "For which kind of a man would she make a good wife?"

娘の結婚相手を捜している人に捧げることわざがあります。

誰が最高の花婿になるか」を考えてはいけません。

どんなタイプの人であれば、娘がよき妻になるか」を考えてください。
 

https://ameblo.jp/englishtoday/entry-11401220521.html

 

「発達した社会や教育におけるテレビの役割は ここ20~30年で大きく変化しています。

教育番組の役割について 我々はこう考えています

まず刺激を与え(stimulate) 関心を高めること(engage)

教えるのが役割ではないのです」  (英BBC george auckland氏)

 

興味を刺激し、持続させる(動機づけに行う)

②受講者の思考を刺激する(質問は、参加者の行動を刺激する)

③評価・要約する(学習効果のチェック)

④話合いを始めたり、全体に周知させたりする

 

学習は、自分でするものである。それが学習主体である。つまり、学習は、純粋に主体的な行為であり、内面の動機による。内面の動機に基づかない教育は、主体的能力に反するのである。 要するに、学習主体を観察しながら、彼等の内面の主体的力を引き出し、それに一定の方向性を与えるのが教育なのである。学習をするのは、教育主体そのものでなければならない。

 

教えるという事と教わると言う事は、対を為す作用なのである。そして、外的な世界を内的な世界へ取り込んでいく行為、過程が学習なのである。


なぜ、できないのか。それは、能力の問題以前に意識の問題である場合が多い。
できないと解っているのに、その人に強要するのは、ただ単に自分の優位性を誇示して、相手を隷属させようとすることである。又、相手の欠点を強調するのは、自分の劣等感の為せる業である。それは、教育ではない。教育は、相手の優れた点を見いだし、認めるところから始まる。
故に、教育の基本は、観察と指導なのである。

 

日本のアナリストが書いた本の多くは、キャッチフレーズを並べているだけで、データ分析が足りません。私も執筆中、常識だと思って書いたことが、後にデータと照らし合わせると、結果がまったく違ったことが何度かありました。それほどデータは大切なのに、なぜか日本ではそれを指摘する声が少ない。

 

常に「根本的にどうすればいいのか?」という思考で問題に向き合うのです。英国では、何事も一度すべて分解しそれを一から構築し直すという教育を受けます。

 

一方、日本はわずか150年ほど前まで封建社会だったので、構造分析や制度改革などを行う必要がなかった。戦後もあらゆる面で恵まれていて、日本の経済システムはその頃からほとんど変わっていません。

 

日本は『調整』するのはうまいのですが、根本的に一から作り変えるという思考そのものがないのです。

日本では、「他人に迷惑をかけないようにしなさい。」と教えるのに対して、

海外では、「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、あなたも周りの迷惑を受け入れて助けてあげなさい。」と言う国もあるとか。

 

日本は先進国の中でも、年間自殺者数が圧倒的に多い国です。
アメリカに比べれば、日本人は我慢する人が多いのです。
よって、多くの人は、仕事や人間関係のトラブルで消耗してやつれます。
結果的に絶望し、自殺することさえあるのです。

 

ニュースなどで、殺人事件の犯人が真面目でおとなしい人だったと伝えられると、
「そんな人がなぜ?」と騒ぎになることがあります。
しかし、それは全く逆だと思うのです。
おとなしいからこそ、憎しみを発散できずにため込んでしまう。
この憎しみの感情を処理できなければ、いずれは周囲に危害を加える人が現れても不思議ではありません。
おとなしく、コミュニケーション能力のない抑制型の人は、「許せない」ことがあっても怒りに蓋をしてしまいます。
それが度重なれば、心の中の圧力は高まるのです。

攻撃性を外に向けられないで、自分に向けてしまっているのですから、自分の中の葛藤はたいへんなものがあるでしょう。
その心の葛藤でエネルギーを消耗し、疲れてしまうのです。
怒りを表現できない「抑制型」の人は、消耗してやつれ、やがて病気になります。

 

非抑制型」の人は、根がわがままだから自分が病気になるよりも、どちらかというと周囲の人を病気にします。
ところが抑制型の人はわがままを言えません。日々我慢します。
昨日も我慢した、一昨日も我慢した、その前の日も、その前の日も我慢した。
そうした長い我慢の末に、ある日突然、爆発するのです。
その怒りの過程は、「線」で見れば理解できるのですが、「点」では理解できなくなっています。
不満が爆発したときには、世の中からも、会社からも「点」で判断され、批判されてしまうのです。

抑制型の人であれ、非抑制型の人であれ、特定の対象への敵意を越えて、憎しみが無差別になったときには、ストレス耐性度も極端に低くなっています。
それがどこにも向けられないとき、自分に向くことがあります。

浮気をする心理には、不足原則が働いていることが多いようです。 不足原則とは、何かが足りないものを他の何かで埋めようとする心理です。

 

浮気を起こす側の心理を見ていくと、このような心の渇きがあり、寂しさや、満たされない思いを埋めようとする欲求が、浮気を起こしているケースが少なくありません。

 

心が満たされない時は、自分を好きになれていない時が多いです。そんな時は自分を甘やかすことも時には必要です。ですが、いつまでも本質から逃げている訳にはいきません。 買い物ばかりして、食べたい物ばかり食べて生きている自分を好きにはなれないなら、そこが変わる時です。

 

「どうすれば自分を満たすことができるのか。」 それは 「自分が満たされているんだということを知る」 ということです。

 

「自分は満たされていない」と思っているから、 「足りていない」「不平不満」「奪う」「勝つ」「不安」という思いが生まれます。

 

だから、誰かが「持っている」のを見ると、 奪いたくなったり、嫉妬したり、不平不満が湧いてく

る。 持ってない人を見ると、ちょっと優越感を感じるから、 不幸なニュースについつい目が行ってしまったり、 他人のいいところではなくて、あらさがしをしてしまう。


ストレスを感じる状態を思い出してみると分かりますが、 ストレスとは、自分の思いどおりになっていない、 自分の必要としていることが満たされていないことで 生じます。 つまり、ストレス=不満、です。

 

要するに、 不満を抱えやすい考え方の癖を持っている人が ストレスに悩まされやすい人と言えます。 ストレスを根本治療するもっとも効果的な方法は、 不満を抱えやすい考え方の癖を変えることです。

 

私が20代のころ、ずいぶんたくさんの服、雑貨を買って、部屋の中にためこんでいました。当時の私の心はからっぽに近い状態だったのではないかと思います。 少なくとも、充実感はありませんでした。それでたくさん洋服や雑貨を買ってしまいました。 「物をたくさん持てば幸せになる」はずの社会に生きていたのですから、それはある意味当然の成り行きだったのかもしれません。

 

心がからっぽの人は、なんとなくその虚しさを、食べ物や、物を買うことで埋めてしまうのではないでしょうか?新しいクルマや新しい洋服、新しいガジェットや新しい雑貨。あるいは買い物そのものや、ギャンブル、ゲームをすること、人によってはアルコールとか。 今はSNSがあるので、そういうもので人とつながることで埋めようとすることもあるでしょう。

 

ですが、50年以上生きてきて思うのですが、実はからっぽの心を埋めるのは、そうした外側にあるものではないのです。 心の中が空虚なのは、自分のまわりに何かが足りないからではないのです。

 

私の心がだんだん満たされてきたのは、自分の中にある、ある物に気づいたからです。 それは何か?ベタな言葉で言うと、それは「愛」あるいは「力」「エネルギー」「精神力」。自分の心の中にある何かです。 逆に言うと、人や何か外側にあるもののせいにするのをやめるのです。 私の場合、より主体的に生きようと思ったときから、よりパワーを感じられるようになりました。

 

大自然の中で一糸もまとわず、水差し一つだけを持って旅をすると、多くの人々は恐れを感じます。「身を守るためには、たくさんの物が必要だ!」と彼らは思うのです。そして欠乏感が恐怖心を煽り、直感の声が聞こえなくなります。しかし多くの物を持たないと自分の身が危ういという発想は、三次元に特有のものです。人は無限の豊かさの源である宇宙と常につながっており、「私は一人ぼっちだ」という思いは、あくまでも幻想なのです。

人は皆、自分以外の人も自分と同じように生きていると思いがちだ。しかし、実は違うのだ。

 

今、自分が見ている世界は、他の人もみんな、同じように見ていると思いがち。

でも本当は、誰もが自分だけの「眼鏡」を通して、物を見ています。

物を見る目=物に対する価値観は、とても主観的で、人によってさまざま。

眼鏡の違いに気づくことで、一緒に暮らすパートナーや家族の価値観を尊重できるようにもなります。

 

日本中を探してみても、「平均的な日本人」とか、「普通の日本人」という人は見当たらない時代です。 1人ひとりに個性があり、隠れた秘密があり、ユニークな点があるわけですから、「標準」に該当する人なんて、どこにもいないんですね。

 

ところが、実際に毎日生活している中では、ついつい私達は、「自分こそが日本の標準だ」という感覚を持ってしまいがちです。

 

なぜ、自分は頑張っているのに、それを認めてもらえないのか? なぜ、自分のやり方が、他の人たちから受け容れられないのか? なぜ、自分が、職場で「浮いた存在」になってしまうのか? 

その原因が、すべて「自分のやり方・考え方が普通でしょ?」という錯覚にあるのです。

重要なことは、人が何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである

与えられたるものを受けよ 与えられたるものを活かせ

自分に欠けているものを嘆くのではなく
自分の手元にあるもので大いに楽しむ者こそ賢者である

与えられたことを感謝して受けよ
与えられぬことを感謝して受けよ
与えられたことを拒む これ欲なり
与えられぬことを欲する これ欲なり

あるものをおそれ ないものをほしがる これが悪人の問題

理想とは、不満の意を表現する方法のことである





2013-02-19 14:15:45 付記事に追加