私の会社には、「うつ病」を罹った男性社員がいました。
同い年の彼とは、家が近いこともあり、20年以上の付き合いがあったのです。
以前の彼は、口数は少ないのですが、仕事はまじめであり、誰にでも親切で、申し分のない人間でした。
私生活でも、3人の子どもに恵まれ、家も新築したばかりで、誰もがうらやむ幸せな家庭を築いていたのです。
今から4年ほど前、そんな彼に覇気がなくなりました。
日々、何かに悩んでいるようでした。
彼は、私にその理由を話してくれました。
仕事に対する不満、上司の評価に対する不満でした。
私は、その後も彼が気になり、よく話を聞き、時には慰め、時には励ましたものです。
そんな折、私に人事異動が発令され、今までのように彼と顔を合わすことが出来なくなりました。
間もなく彼はうつ病になったそうです。
その後、私の耳には、度々彼の噂が届くようになりました。
その噂というのは、残念ながらすべて悪評で、彼の問題行動のことばかり。
彼は、気分が落ち込み苦しくなると、友人、知人に手当たり次第に電話をかけてきました。
彼に限らず、40代の男性ともなると、周囲には気軽に話せる友人などほとんどいません。よって、多くの電話被害は、彼と関わりのある会社内の一部の社員が被ることになるのです。
仕事中であろうが、休日であろうが、早朝だろうが深夜であろうが・・・。
多少の面識さえあれば、男性、女性関係なく、所かまわず携帯電話が鳴りました。
私には、電話がかかってきた社内の人から、「なんとかしてほしい」という相談が相次ぎました。
しばらくして、彼は休職を余儀なくされました。
その後の彼は、月に2回、会社の産業医と面談するために出社していました。
その時も、周りの人に、自分がうつ病であることや、人の悪口などを言って歩きまわったそうです。
彼には個人情報保護など全く関係がありません。
冷たくあたった相手に対しては、社内のメールアドレスあてに、個人攻撃をしてきたそうです。
親身になってくれた人のアドバイスは、メモに書き残していました。
その理由を電話で尋ねると、「自分が自殺した際に、なんらかの証拠になるはずだから」とのこと。
彼を思い、叱咤激励のつもりで投げかけた言葉でも、これでは揚げ足を取られかねません。
言葉を慎重に選ぶ必要が出てきてしまうのです。
その他にも、彼の行動は、人を不快にさせるものばかりだったのです。
理解が出来ない行動が続くと、当初「病気だから仕方がない」という周りの暖かい目も、「あいつは変なやつだ、関わらないほうがいい」となってしまうのです。
そんな折、私は休職中の彼の自宅を訪ね、久しぶりに会うことにしました。
電話では度々話していましたが、会うのは3年ぶりになります。
目の前にいる彼は、私の知っている以前の彼とは別人でした。
まるで表情がないのです。
目はうつろ、口をポカンと開けています。
言葉にも感情が無く、生気が全く感じられませんでした。
「うつ」という病は、これほど人を変えてしまうのかと、恐怖心を覚えました。
その時の会話で印象に残っていることは、
「自分がこうなったのは会社のせいだ、上司のせいだ、会社にこんなふうにされたんだ」
という言葉でした。
会社に対する被害者意識・・・。
上司に対する被害者意識・・・。
今週、彼は自殺しました。
奥さんと小学生の子供3人を残したまま・・・。
彼は、多くの怒りを抱えたまま、この世を去ったのだと思います。
うつ病というのは、誰もがなり得る病気だと言われていますが、まだまだ一般社会には理解されていません。
なぜなら、多くの人は、彼らを理解しようとするのではなく、関わりを持たないようにしようとするからです。
しかし、もし自分の家族の誰かがうつ病になったらどうでしょう。
他人だから関わらない、というわけには行きません。
そもそも、なぜ人は「うつ病」のような病気になるのでしょうか。
彼の死を機に、自分なりに考えてみました。
日本は先進国の中でも、年間自殺者数が圧倒的に多い国です。
アメリカに比べれば、日本人は我慢する人が多いのです。
よって、多くの人は、仕事や人間関係のトラブルで消耗してやつれます。
結果的に絶望し、自殺することさえあるのです。
ニュースなどで、殺人事件の犯人が真面目でおとなしい人だったと伝えられると、
「そんな人がなぜ?」と騒ぎになることがあります。
しかし、それは全く逆だと思うのです。
おとなしいからこそ、憎しみを発散できずにため込んでしまう。
この憎しみの感情を処理できなければ、いずれは周囲に危害を加える人が現れても不思議ではありません。
おとなしく、コミュニケーション能力のない抑制型の人は、「許せない」ことがあっても怒りに蓋をしてしまいます。
それが度重なれば、心の中の圧力は高まるのです。
怒りに蓋をし続ければ、それは肉体的にもあらわれてきます。
疲れやすいとか、偏頭痛とか、食欲がなくなるとか、吐き気がするとか・・・。
それは当然のことだと思います。
攻撃性を外に向けられないで、自分に向けてしまっているのですから、自分の中の葛藤はたいへんなものがあるでしょう。
その心の葛藤でエネルギーを消耗し、疲れてしまうのです。
怒りを抑えることは、たいへんなエネルギーを必要とします。
怒りを抑えている人は、何も仕事をしなくても消耗します。
怒りを表現できない「抑制型」の人は、消耗してやつれ、やがて病気になります。
うつ病になるような人は、長年にわたって怒りに蓋をしてきたのではないでしょうか。
彼もきっとそうだったはずです。
「非抑制型」の人は、根がわがままだから自分が病気になるよりも、どちらかというと周囲の人を病気にします。
ところが抑制型の人はわがままを言えません。
日々我慢します。
昨日も我慢した、一昨日も我慢した、その前の日も、その前の日も我慢した。
そうした長い我慢の末に、ある日突然、爆発するのです。
その怒りの過程は、「線」で見れば理解できるのですが、「点」では理解できなくなっています。
不満が爆発したときには、世の中からも、会社からも「点」で判断され、批判されてしまうのです。
それがまた悔しいのです。
「あの人に、以前このようなことをされたから、私はこうしたのだ」という流れの「線」を説明しても、不快な行為をしたという「点」で判断されます。
それがまた不当に思えてしまう。
限界点を越えたときには、もう「誰が許せない」とか「あのことが悔しい」とかではなく、すべてが融合して憎しみの渦になってしまっているのでしょう。
あまりにも毎日、次から次へと悔しいことが起きるので、冷静に現実を処理することができなくなってきます。
抑制型の人であれ、非抑制型の人であれ、特定の対象への敵意を越えて、憎しみが無差別になったときには、ストレス耐性度も極端に低くなっています。
それがどこにも向けられないとき、自分に向くことがあります。
それが抑制型の人のうつ病であり、自殺という形ではないでしょうか。
彼を見ていて強くそう思いました。
度々、駅の構内で傷害事件が起きることがあります。
それも、ちょっと体が触れただけという理由からです。
おそらくこういう事件を起こすのは、非抑制型の人でしょう。
もちろん非抑制型の人でも、生活のために我慢していることはあります。
ただ、抑制型の人に比べれば、非抑制型の人はすぐに怒りを表現します。
一方、抑制型の人が何かを起こすときは、すでに蓋をされた怒りの圧力が限界点に達したときなのです。
抑制型の人の爆発を見た人は、ストレス耐性度が低いと思うかもしれませんが、「面」で見れば、「そこまで追い込まれていた」ということだと思うのです。
「面」で見るとは、その人の長い我慢の歴史という「線」を、その人が置かれている人間関係の構造まで考慮して見るということです。
その人だって日常生活で満足をしていれば、ストレス耐性度は普通にあります。
来る日も来る日も悔しいことばかりがあると、次第にストレス耐性度が落ちてくるのです。
極端にストレス耐性度が低い人、ちょっとしたことでも怒りを表す人は、慢性的な「許せない」という感情に苦しんでいる人のはずです。
憎しみの感情に苦しんでいる人には、「ほっ」とする時がありません。
「ほっ」とできる機会があれば、苦しくても何とかもつものです。
しかしその「ほっ」とがないのです。
カーッとなって相手に暴力をふるうほどストレス耐性度が低くなる前に、一つひとつのことを人に説明をすれば良いではないかと思うかもしれませんが、抑制型の人にはそれができません。
一つひとつ悔しいことを日々関係者に説明をして処理すればいいものを、処理しないで過ごすのです。
口下手でおとなしいため、望ましい社会生活を送るためのコミュニケーション能力が欠如しているのです。
そして、怒りが積もりに積もって爆発したときには、誰だって興奮して、言葉になりません。
「これはこうだから、あの人のすることはおかしいのではないか」などと自分の気持ちを理路整然と説明する心理的余裕はありません。
生真面目な人が殴る、蹴る、叩くなどの暴力をふるうのは、長年にわたって抑えられてきた怒り、憎しみ、恨み、屈辱などが、波が砕けるように一気に飛び散ったときなのです。
ことここに至るまで追いつめられてしまう人は、真面目で口下手、お人好しの抑制型の人なのです。
このような人に、「人を許しなさい」などと言うのは酷だと思います。
そんなことを言う人は、人から痛みつけられた経験のない人か、あるいは逆に、自分が人を利用している人であるとしか考えられません。
文字数の関係で、続きは後日書きます。