京田辺の棚倉孫神社
金澤成保
京田辺の寿宝寺、観音寺、一休寺をお参りした後、棚倉孫(たなくらひこ)神社を参拝することにした。棚倉孫神社は、京田辺に古くから祀られている神社で、木津川の西岸、霊峰の「甘南備山」の山裾に鎮座しており、JR学研都市線の京田辺駅を西に歩いて10分ほどのところにある。ユニークな神輿:瑞饋神輿(ずいきみこし)が伝えられ、毎年秋の例祭に巡行する(京田辺市の無形文化財)。秋に収穫される唐辛子・金柑・千日紅・白米・豆類などの26種類ほどの野菜や穀類で飾られる御輿で、屋根は瑞饋(ずいき:サトイモの葉柄)で葺かれている。天下平定、災難除け、健康長寿のご利益が授かると信仰されてきた。
棚倉孫神社の由来と境内
当神社の社紀によると、ご祭神は、推古天皇31年(623)に、相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命を勧請したとある。『日本三代実録』貞観元年(859)正月に、畿内267社の中に「棚倉孫神」があり、従五位下から従五位上の神位を賜っている。また10世紀前期の『延喜式神名帳』の中の式内大社に列しており、古代では重要な神社であった。
高倉下命は天照大御神の曾孫で、別名を天香古山命、また手栗彦命ともされ、『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨に父命の饒速日命(いざはやひのみこと)とともに降り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功をたてられた、といわれる。天神を祀る神社であったことから、江戸時代には「天神社」さらに転じて「天満宮」とも称されたのだろう。
祭神の高倉下命は、古代海洋民族の尾張連や海部氏の遠祖とされているが、これらの氏族がこの地域や当社との関わりを持っていた形跡は残されていない。国語学者の吉田金彦は、棚倉(タナクラ)を「田のクラ、すなわち田の谷・低いところ」と読み、この地域にあった「棚倉の野」が、万葉集に謳われていると指摘している。
棚倉(タナクラ)は、「田の谷」であると同時に「田の神の降臨地」であり、当社のご祭神・高倉下命は「棚倉」との相似からの混同であり、当社が式内大社であり得たのは、天神の天香語山命を祀るからではないかとの説があって、説得力がある。
現在の神社社務所は、天保15年(1844)に建て替えられた建物で、棚倉孫神社の神宮寺、真言宗の智積院管下にあった松寿院であった。明治初期に神仏分離政策によって廃寺となっている。
(写真は、「神社巡遊録」のサイトより)
本殿の前に建つ拝殿は、棟札から江戸中期の明和5年(1768)の再建とされている。「縁高欄」をめぐらした建物で、屋根は昭和に檜皮葺きから銅板葺きに変わっている。
本殿は、東面して建てられており、流造りの一間社で朱塗りの塗装がされている。桃山時代の建築と見られる。石鳥居は、元禄15年(1702)に淀藩藩主・石川主殿頭憲之が奉納したもの。
境内には、春日造りの金比羅神社があり、金山比古命・金山比売命が祀られている。幕末の嘉永4年(1851)の境内配置図にはすでに金比羅社が見える。現在の社は仮本殿として昭和に建て替えたもの。
(写真は、「神社巡遊録」のサイトより)
五社殿は、平成17年に改築された新しい建物であるが、天保10年の絵馬にはすでに祠が記されており、五社殿の原型だと思われる。正一位寶蓮稲荷大明神、紅梅殿・老松殿、春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩、多賀神社、稲荷神社の五社が祀られている。
絵馬殿の建築年代は不明だが、天保10年(1839)に奉納された角力図にこの建物があることから、それ以前に建てられたものと見られる。台風で大きく破損し、平成12年に修復されている。