小野小町ゆかりの随心院

金澤成保 

 

 

 京都・山科に、真言宗善通寺派の大本山・随心院を訪れた。絶世の美女といわれた小野小町ゆかりの門跡寺院で、国の史跡に指定され、平安時代の面影も感じさせる優雅なお寺である。本尊は、如意輪観世音菩薩で、今回本堂の改修と仏像の修復を記念して「京都非公開文化財」の特別公開がなされると知り、参拝させていただいた。地下鉄東西線の小野駅から東南に徒歩10分ほどにある。

 

(小野小町の絵。随心院のHPより)

「才色兼備」の小野小町

 随心院のある地域は「小野郷」とよばれ、遣隋使で知られる小野妹子や、“冥土通い”の伝説でも知られる学者・歌人の小野篁を輩出した「学問の家柄」小野氏一族が栄えた地で、随心院は小野小町の屋敷の隣に建てられたと伝わる。小町の父母や生没年は明らかではないが、仁明・文徳・清和3代の天皇にわたり宮中に仕え、810〜889年(弘仁元年〜寛平元年)の間に和歌を執筆していたと推定されている。出身地は、秋田県湯沢、ここ山科など諸説がある。

 

(特別公開された本堂の本尊と諸仏。写真は随心院のHPより)

 

 その美貌や恋にまつわる多くの伝承が、小町が”絶世の美女”だったという伝説へ発展したと想われるが、その往時の容姿は知ることはできない。小町を描いた絵画は後世の作であり、随心院に祀られる「卒塔婆小町坐像」は老婆となった像で、鎌倉時代の作と見られている(小町終焉の地と伝わる補陀洛寺(小町寺)の「小町老衰像」も、小町90歳の姿といわれ若かりし時の面影を偲ぶことはできない)。

 

 

 学問の家柄の出であることからか、漢詩の素養も豊かで和歌を詠む能力に優れ、平安時代を代表する女性歌人であった。和歌の名手を総称した「六歌仙」と「三十六歌仙」の両方に名を連ねるほどの優れた歌人で、揺れ動く恋の情感や無常観を謳った作風は、当時から高く評価されていた。「勅撰和歌集」である『古今和歌集』には、小野小町の歌が18首も収められた。

 

 

                   花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

 

の句は、『小倉百人一首』でもっとも有名な歌のひとつとなっている。花に例えて、自らの美しさも色褪せてしまったとの嘆きが読み取れ、自分の美貌の衰えを歌ったと思われる和歌が多いことから、恋多き美貌の女官のイメージが定着したのではないか。『古今和歌集』の編者であった紀貫之は、仮序文に「小野小町は、昔の衣通姫(そとおりひめ)の流れを汲む人で、その歌は人の心を打つが強いところがない。例えるなら悩める美女の風情とでも言おうか」と評している。衣通姫は、「古事記』に登場する絶世の美女で「美しさが衣を通して輝くほど」と讃えられ、恋の歌を多く詠んだ。この紀貫之の評が、美女小町のイメージを多くの後世の人々に抱かせる元になったと想われる。

 

(随心院の「はねず踊り」。「はねず」(薄紅色の古名)の梅が咲き誇るなか、

華やかな衣装の地元の少女たちが、唄に合わせ小野小町と深草少将の「百夜通い」を演じて舞踊る。

写真は「そうだ京都、行こう」のブログより)

 

 小野小町の伝説としてもっとも有名なのが、深草少将の「百夜通い」(ももよがよい)。深草少将の熱心な求愛に小町はなびかず、「百夜通い続けたら契りを結ぶ」と深草少将へ告げる。深草少将は雨の日も風の日も通い続けるが、99日目の大雪の夜に倒れ、息絶えてしまう。この話は実話ではなく、深草少将も実在していない。室町時代に能楽を大成した観阿弥・世阿弥らが、『通小町』や『卒塔婆小町』など「小町物」の謡曲として創作したものとされる。小町は、多くの男性を夢中にさせた絶世の美女でありながら、生涯独身を貫き「老衰落魄」の中で亡くなったとする伝説が、世に広まっていった。

 

随心院の由来と境内

 随心院は、もともとは平安時代の正暦2年(991)に、仁海僧正が一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、「牛皮山 曼荼羅寺」の塔頭として建立したのが始まりとされる。仁海は、亡き母親の生まれ変わりとして飼育していた牛が死ぬと、その牛の皮に「両界曼荼羅」を描き本尊としたことに因んで「牛皮山」の山号がつけられた。仁海は洛中の「神泉苑」での祈雨をして9回も雨を降らすことに成功し、法力に秀でた“雨僧正”の異名をとったといわれる。

 

 

 歴代天皇の祈願所となり、鎌倉時代の寛喜元年(1229)に、後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り「隨心院門跡」とも称されるようになった。江戸時代以降には「五摂家」の一条家・二条家・九条家の出身者が入寺し門跡寺院としての歴史を重ねている。鎌倉以前は多くの寺領を持っていたが、「承久の乱」や「応仁の乱」で伽藍を焼失している。現状の姿は、慶長4年(1599)に住持となった関白九条兼孝の子・増孝により再興されたもので、それに因んで寺紋は九条家の「九条藤紋」が使われている。

 

 本堂は、桃山時代の再興の際に建立された建築で寝殿造り、本尊の如意輪観世音菩薩と諸仏が安置されている。今回の「特別公開」では、内陣まで進むことが許され、間近に本尊と諸仏を参拝でき、感激であった。

(本尊の如意輪観音菩薩坐像。写真は「そうだ京都、行こう」のブログより)

 

 本堂前の表書院大玄関、賓客のための薬医門が江戸初期の寛永年間(1624 - 1631年)の建立で、いずれも江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の義娘で九条家に嫁いだ天真院尼の寄進によるとされる。そのほか総門ともともと政所御殿であった庫裏は、江戸中期の宝暦3年(1753)に二条家の御殿から移築されたものといわれる。

 

 奥書院は江戸初期の建立で、狩野派による「舞楽の図」「節会饗宴の図」「賢聖の障子」「虎の図」が各室の襖絵に描かれている。表書院も寛永年間の建立で、襖絵は狩野永納時代の作、「花鳥山水の図」「四愛の図」が描かれている。

(表書院「四愛の図」。写真は随心院HPより)

 

 宝暦年間(1751 - 1764年)に、九条家の寄進によりに建造された能の間には、小野小町の一生を描いた鮮やかな薄紅色を基調とした平成21年(2009)制作の「極彩色梅色小町絵図 」の襖絵が、飾られている(写真撮影可)。

 

 庭園のうち主庭といえるのが、表書院と本堂の間にある一面の苔庭と、本堂の横の「心字池」を中心とした池泉鑑賞式庭園である。派手な石組はないが、池に注ぐ水音が心地よい。奥書院の前にも同じように苔と刈込を主体とした庭園がある。ツツジやサツキの花々と、新緑の緑が美しい。

 

 薬医門に向かって手前左に、約230本の梅の木による「名勝 小野梅園」がある。毎年3月中旬ごろまでに薄紅梅色「はねずいろ」の薄紅梅が見頃となる。「はずね踊り」の名称も、この梅の開花に因んでいる。

 

 

 小町が暮らしたといわれる小野氏邸宅跡には、小町がこの井戸の水を使い化粧をしていたと「都名所図会」に記されている「化粧井戸」があり、本堂裏には、醍醐寺の守護女神を祀る清瀧権現社と小町に送られた千束の恋文を奉納したとされる「小町文塚」がある。