京田辺の月読神社

金澤成保 

 

 京田辺では棚倉孫神社に加え、平安京の南北軸の南の起点となった霊峰「甘南備山」の北方にある月読神社もお参りした。JR学研都市線・大住駅の北西に徒歩で20分ほどにある神社で、「隼人舞」の発祥の地として知られる(京田辺市無形文化財)。「隼人舞」は、古代九州大隅の部族・隼人が大和王権に服従し、奈良時代にこの地・大住に住み、その後裔たちが宮廷の大嘗祭や当社に奉納してきたといわれる民俗芸能である。ちなみに大住の地名は、九州の大隅に由来するといわれている。

 

(写真は、京田辺市HPより)

月読神社の由来と境内

 大住の月読神社の起源は、平城天皇が大同4年(809)の譲位後、政争のため宮都を平安京から平城京へ戻そうと画策した際、造宮使がその道すがら大住山において霊光を拝し、ここに神殿を造ったのが始りといわれる。

 月読尊(つきよみのみこと)に、その親とされる伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)と伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀る延喜式内社で、神格は高く大社に位置づけられていた。中世にはたびたび兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した。ご利益は、五穀豊穣、事業成功、地域安全。鳥居に懸けられた注連縄は、緑に着色されているよう。

 

月読み」とは、月の満ち欠けによって暦を知り、また潮の干満を知ることであり、航海や漁労など海に携わる人々にとって必須の技術であっただろう(「神社巡遊録」の記事を参照)。九州南端の海洋民であった隼人が、この地に移り住み「隼人舞」を伝承してきたのは、このことと関係しているのではないだろうか。

 

 鎌倉時代初めに、源頼朝から神馬の献上があったとも伝えられ、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置された。大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良・興福寺の荘園であった。当社の神宮寺として、福養寺が明治の初めごろまで存在し、広大な社域に六坊が備わっていたが、神仏分離令が徹底され、すべて廃寺となっている。

 

 境内に置かれた灯籠の「火袋」(光源を入れる部分)には、丸型の窓が和紙で覆われており、満月を表しているようにも見える。

 当社の鳥居と社殿は東向きに建っている。鳥居の先は、石段を下る形になっており、いわゆる「下り宮」である。境内を進んでいくと途中で小さな水路を渡り(境内参道を途中で区切る堀や池は、その先の神域や聖域の「結界」となる)その先に二の鳥居が建っている。拝殿は、瓦葺の平入り入母屋造りで、昭和58年の改築。

 

 現在の本殿は、一間社春日造り、銅板葺(もとは桧皮葺)の建物で、明治26年(1893)建造された。本殿を囲む瑞垣の正面に、素木の鳥居を配置する珍しい構造が見られる。この春日造は、奈良の春日大社の形式で、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。

 

 本殿の左側(南側)に境内社の「御霊神社」が鎮座している。御祭神は少名毘古那神(すくなひこなのかみ)。「クサガミさん」とよばれ腫物に霊験があると言われている。由緒は不明だが、江戸時代以前は本社の方が「御霊社」とよばれていたため、古くからの信仰はこの社が継承しているのかも知れない。

 

 社殿前の左側(南側)の森の中には、円形の池があり、その中心に浮かぶ島に辨財天が祀られている。

参道途中の左側(南側)には、「足之神様」の祠がある。足を守護し、安全な旅を守る道祖神的な神として祀られてきたものと想われる。

 

「足之神様」の向かいには天満宮が鎮座しており、石段前の右側(北側)には金比羅神社が祀られている。金比羅神社の向かい、石段前の左側(南側)に小高い丘があり、その上に稲荷神社が鎮座している。

 

 神社の周辺には、古墳時代中期の4、5世紀にかけて築造されたと見られる前方後円墳の「大住車塚古墳」と「大住南塚古墳」がある。