stage5は四国カルストの北側エリアで仁淀川水系へと移ってきましたが、さらに北方面へと移動し、仁淀川源流部の石鎚連山を越えて行くルートとなってきます。
まずは国道による県境ルートを走破して行きます。
■走行日2014年7月~8月
stage6の行程の前半は、国道494号線の全線一気走破です。
国道494号線は起点地が愛媛県松山市で、終点地が高知県須崎市の総延長143.7キロの3ケタ国道で、かつての松山街道と言われる山間部を縫うように通るルートに沿ったような行程で、3ケタ国道ならではの「酷道」でもあります。
今回は終点地の須崎市から起点地の松山市まで走るというもので、秘境国道の全線走破を以前から一度やってみたかった行程です。
stage1、2の西南部以来の長距離行程となりますので、早朝、日の出前に出発します。
まずは494号の起点地の手前にある国道56号線の土佐市と須崎市の境にある名古屋坂の旧車道の峠越えからスタートとします。
国道56号にある現在の「新名古屋トンネル」の手前から苔むした旧車道へ入っていきます。
1キロほど登っていくと境のトンネルに着きます。
トンネルの手前には民家もあり、かつてはこの道をバスが走っていたと言います。
このトンネルは名古屋坂を抜ける初代の車道トンネルで、“樫迫(かじさこ)トンネル”と言います。
竣工は昭和4年とありました。
ちなみに土佐市側には楮佐古(かじさこ)という地名があります。
煉瓦と側壁の石組が歴史を感じさせます。
トンネルを越えると須崎市となり、土佐市側の道よりも明るく開けていて民家も数件あり、ミカン畑の間を通って行きます。
ちなみに「名古屋」という名の由来は、この境にある山が「ナコシの山」と呼ばれていたことや、文化文政期の書物にも“名越坂(なごしさか)”という峠名で出てくることから古くから付けられていたそうです。
“名古屋坂”の歴史は古く、1496年頃からあったとされる石畳の古道があり、標高250mの尾根の鞍部を越えていて茶屋もあったと言われています。
やがて、現在のトンネルである“新名古屋トンネル”が見えてきます。
写真では見えませんが、この旧道と新道の間には2代目のトンネルがあり、今では会社の物置き場となっています。
2代目のトンネルには“な古や隧道”と表示されています。
名古屋坂を下ったところの吾桑(あそう)という地区に国道56号線と国道494号線の分岐点があり、そこが494号の終点地となります。
ここの終点地をスタート地点として、逆に起点地の松山市向けて遡って行きます。
吾桑の集落を抜けると、早速に佐川町へと向かう斗賀野峠へのクネクネ道が始まります。
以前はこの峠道の交通量がけっこう多くて、こうしてバイクも止めることも出来ませんでしたが、今はバイパスが通っていて交通量は極端に少なくなりました。
曲がりくねった国道の峠道では、すぐ下に先ほど通った道を見ながら走る事になります。
このクネクネ道を登ると須崎市と佐川町の境に着きますが、バイパスはこの辺までの開通で、そこからは交通量も多く、佐川町への町境表示は少々狭い道筋にあるのでバイクでも止められず、表示板の撮影は出来ませんでした。
少し峠方面へ進むと、“斗賀野峠”へ続く旧道と峠をトンネルでパスする抜けるバイパスとの分岐点に来ます。
もちろん、分岐からは峠を越える旧道を進みます。
“斗賀野峠”を越えます。
峠と言う事で普通はここが町境と思ってしまいますが、境はかなり手前です。
この時から40年近く前、この峠を自転車で越えた事がありますが、その当時、峠には茶屋があってそこで休んだ事があります。今はもうありませんが・・・・。
峠を越えた佐川町側もUターン道の連続で、峠道の険しさを味わうような道を下ります。
通る車は全くありませんので、峠道の独り占めといった感じで楽しく走行して行きます。
途中には「志士脱藩の道」の表示板があります。
坂本龍馬さんが脱藩の際に梼原町まで通ったとされる道で、ここから先ほどの“斗賀野峠”を越えて、そこから“朽木峠”という古道を通って梼原まで向かったと言われています。
やがて峠下の斗賀野という地区の景色が広がってきます。
佐川町は中心地の佐川と、斗賀野、尾川、加茂、黒岩という地区に別れていてそれぞれ雰囲気があります。
斗賀野は畜産試験場などもあり、地元の遠足場にもなるほどのどかな地域です。
斗賀野の地区へ下るとJRの斗賀野駅があり、いつものように特に用件は無いのですが、とりあえず立ち寄ります。
すると、突然大雨が降り始めました。
タイミングが良くてラッキーでした。
雨が止むまでしばしの雨宿りとなりました。
斗賀野からは小さな峠の“猿丸峠”を越えて、佐川の町へと入って行きます。
佐川の町の入り口にかかる小さな橋は“サエンバ橋”とありました。
ここから一端右折をして、佐川町の集落を抜けるように走ります。
佐川には高知県を代表する名酒“司牡丹(つかさぼたん)”の酒蔵があり、今を去る4百有余年徳川家康から土佐24万石を賜った山内家の家老、深尾和泉守重良(ふかおいずみのかみしげよし)が、ここ佐川領一万石を預かることにより、従っていた家商の御酒屋が前身だったそうです。
そして幕末、坂本龍馬さん、中岡慎太郎さん亡き後の陸援隊長、後の宮内大臣、田中光顕氏などがこの酒を愛飲したと言います。
その他、佐川は植物学者である牧野富太郎氏の出身地でもあります。
国道494号線は佐川の町から国道33号線との重複区間を走り、越知町方面へ向かいます。
その途中から旧街道の“赤土峠(あかつちとうげ)”を越える道を行きます。
その峠道は田中光顕氏らが越えた脱藩の道であり、「四国のみち」として保存されています。
標高120mの“赤土峠”に着きます。
峠には「脱藩志士集合之地」と表示された記念碑が建っています。
ここでは志士たちの峠の茶屋で主人も交えての、ささやかな宴会が行われたそうです。
古里に別れを告げる惜別の宴であったといいます。
しかし、峠でゆっくりとすることは出来ず、月光に冴えわたる赤土峠に心を残しながらも、志士たちは月明かりの道を急いだそうです。
今回のルート