土佐一宮から最御崎寺までの参詣巡行 4 | 柴犬と小規模農家の奮戦記!

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香美市から香南市へ移動し、四国霊場28番札所の大日寺に参拝した後は香南市の中心部に行きます。

いつも見ている景色の中を行く散歩感覚なのですが、こうして神社を巡りとなると、今まで目に入らなかった景色と遭遇する気分です。

 

 

熊野神社があり、参拝して行きます。

熊野神社と言えば紀州の地を思い浮かべます。

何故、ここに熊野神社かと思ったのですが、実はここは野市町新宮と言う地名なのです。

 

 

鳥居をくぐり石段を上ると、ご神木の様な大きな2本の杉に囲まれています。

熊野三山である、本宮、新宮、那智のうち、新宮を勧請した社で、祭神は速玉之男命です。

熊野信仰には自然環境が大きく影響していて、新宮に鎮座する地は太平洋の黒潮を望む巨石の場所だったとされています。

 

 

熊野神社から一旦、香南市の西端へ移動し、物部川左岸に鎮座する深渕神社に参拝に行きます。

ここ深渕地区の総鎮守です。

 

 

入り口の白木鳥居の端をくぐらせてもらい、XRを停めます。

 

 

社殿の前にも第2の鳥居があり、境内は鎮守の森に囲まれていながら明るく爽やかな雰囲気があります。

祭神は「深渕水夜礼花命(ふかぶちみずやおはなのみこと)」で、古事記にも出てくる神様で、大国主命の曾祖母に当たると言い、物部川沿いにあるということは水の神様ではないかと思います。

 

 

扁額も綺麗で、神社周辺全体も綺麗に整備されていて、地域の住民に大事にされている事が実感できます。

 

 

深渕神社から南へ国道55号線を挟んで移動し、物部川沿いにある上岡八幡宮へ参拝に行きます。

 

 

深渕神社から真南に鎮座する神社で、境内の中の駐車場が広いです。

後ろに盛り上がる小高い丘が神様が鎮座する場所と思われ、神の丘から上岡となったとも言われています。

 

 

祭神は応神天皇、神功皇后、姫大神であり、上岡地区周辺の産土神です。

この神社の旧蔵であった南北朝初期に造られた鰐口銘に「八幡」と彫刻されているところから、かなり以前から八幡宮であったことが分かると言います。

石段や石垣から威厳を感じる神社でした。

 

 

続いて東へ移動し、香宗城跡へ行きます。

香南市の野市と香我美町の境付近で、先に参拝した熊野神社の南の位置にある所にあり、かつてこの辺りを支配していた香宗我部氏の代々の居城跡です。

 

 

香宗我部氏は400年間の繁栄が続きましたが、1600年の関ヶ原の戦いの後に入国した山内氏によって所領を失い城を捨て、1615年の大坂夏の陣の後、一国一城制によって香宗城は取り壊され、数個の礎石を残すのみとなっています。

 

 

今は香宗城は城の東を流れる香宗川を外堀として利用した平城なので、周辺の大半が農地や宅地となり、遺構といえば土塁跡とみられる小さな丘だけで、土塁上に八幡宮社が鎮座しているだけです。

土塁に石碑と説明板が立っています。

 

 

さすが武士の守護神と言われる八幡様が祀られています。

 

 

その南へ移動するとポツンと鎮守の森があります。

香美神社ですが、御墓所と言う史跡です。

 

 

御墓所と書いて「おみせ」と読むらしいです。

香宗我部親秀は弟の孫である秀通を様子として家を継がせましたが、東の安芸氏と西の長宗我部氏の勢力に挟まれ苦しみ、長宗我部と同盟を結ぶことになりました。

その時に長宗我部側より長宗我部国親の三男を養子にするように要求されました。

しかし、秀通は跡継ぎはすでに決めているとこれを頑として拒否したのです。

そのため、親秀は秀通を襲撃し、「親秀公の命」と言う襲撃の言葉に秀通従者の大部分は退散し、1556年に秀通は応戦むなしく割腹自殺をし、近習8人も殉死したと言います。

その場で荼毘に付され、秀通の遺骨は高野山に送られましたが、余灰はこの地に埋められ、松を植えて墓標としたと言います。

 

 

当時はこの地を「御無所」と読んでいましたが、のちに「於美勢(おみせ)」となりましたが、さらに最近になって「御墓所」と書いて「おみせ」と読むようになったようです。

ここには香美神社と共に家臣などの墓がありますが、松などは枯れ死、または暴風雨のために倒れて無く、その跡に石の標柱が建てられています。

 

 

御墓所の南の方角にある立山神社に参拝します。

 

 

祭神は国常立命と言う、天地のはじまりの際に出現した神で、「日本書紀」では、陽気のみを受けて生まれた、全く陰気を受けない純粋な男性の神さまとして記されています。

香宗郷の総鎮守で、社内建物は、この辺りを治めていた香宗我部家の営繕でした。

 

 

江戸時代になると、この地域にあった土居村、中ノ村、野市村東野、赤岡浦西などの産土神となりました。

「三代実録」と言う記録物によれば元は立山神でありましたが、のちに立仙大明神といわれたこともあると記されているようです。

明治元年の改称の際には元称に帰り、立山神社になったようです。

 

 

本殿は文久3年(1863年)に再建されましたが、見事な彫刻だと言われています。

拝殿は本殿よりも早く文久2年の再建で、いずれも枌葺き屋根でしたが、今では銅板葺きとなっています。

室町期の戦国時代に流行した「天将軍」「勝軍地蔵」「愛宕の太郎坊・次郎坊天狗」の小祠も祀られています。

ここでタイムアップとなりましたが、後日にさらに安芸方面へと進んで行きます。

 

ここまでの行程