ほんとなかよし -43ページ目

ほんとなかよし

本紹介ブログ(と格好つけてる読書感想ブログw)
ノンジャンル手当たり次第読んだ本を紹介♪

ネタバレ自重・的外れで独断偏見に満ちているけど
読んだ誰かが読書をちょっとだけ好きになるブログ

だったらいいな・・・

『Franny and Zooey』(邦題『フラニーとゾーイー』)は、それぞれ別に発表された「Franny」(1955年)と「Zooey」(1957年)を1つにまとめた作品である。名門女子大で演劇や詩を学ぶグラース家の末娘フラニーは、過剰な自意識にさいなまれ、エゴの蔓延する世の中に吐き気をもよおし、デートの最中に失神する。心身のバランスをくずした彼女は、「ひたすら祈れば悟りが開ける」と説く「巡礼の道」という本に救いを見出そうと、自宅のソファーの上で子どものように丸くなって祈りの生活に入る。当然、家族にしてみれば、睡眠も食事もろくにとらない彼女が心配でたまらない。兄ゾーイーの懸命の説得もむなしく、フラニーの心はかたく閉ざされたまま。あげくの果てには、亡くなった長兄シーモアと話がしたいと言いだす始末。 そんな妹のために、兄の啓示を受けるべく、ゾーイーは久しぶりに兄の部屋に足を運ぶ。戻ってきた彼は理路整然とフラニーの過ちを指摘していく。「目の前で行われている宗教的な行為(母親はなんとかチキンスープを食べさせようとしている)に気づきもしない人間が、信仰の旅に出て何の意味があるのか」など、ゾーイーの口を借りて伝えられるシーモアの言葉にフラニーは…。


(内容説明)より


サリンジャーの作品は「ライ麦畑でつかまえて」と「ナイン・ストーリーズ」を経験済みです。今更紹介するまでもない超有名作家のサリンジャーですが、私との出会いはアニメ甲殻機動隊・笑い男が捩ったとされる「ライ麦畑でつかまえて」で名前を知り興味を抱いたのが最初でした、その後読書習慣をつけて村上春樹さんが、翻訳をするほどに好きな作家だとわかり一層興味が沸いたのが起点でした。今作品の翻訳者野崎孝さんの訳と村上春樹訳と読み比べをしたのも「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー作品が始めての経験だった印象深い作家といえます。僕の読書暦を振り返るにあたって真っ先に思い浮かぶ作家の数人に入る人ですね。サリンジャーの作風ですが、一言で言い表すのは難しいのですが、イノセンスの塊で出来上がっている様な印象を受けます。人間といった存在が何をもって大人となるのかは僕には解りませんが、大人になる前に読んでいればどんな印象をもったんだろうか?と思ってしまう小説は数ありますが、サリンジャーの作品は特にその感想を持つ作品が多く、誰しもが思春期や成長期に感じた個人と社会や世界との違和感のモヤモヤを思い返したり懐かしくなったりする作風だと思います。ただ、誰しもが思春期の自分の悩みを克明に思い出せないのと同じで、サリンジャーの作品は非常に難解で解釈が不可能と思えます。今作は妹フラニーが神経衰弱の状態に陥り兄ゾーイーが救済をする形式のストーリーです。世の中のインチキやエゴに悩む大体の像は掴めるが明確に何にたいして不安を感じているのか解らないフラニー、また天才一家と先立つ兄弟の不幸を抱えたグラース家(特にフラニーとゾーイー)の闇の部分も曖昧でぼやけています。いやむしろ闇に隠れて真相が見えない印象でしょうか、そこに神懸かった解釈の応酬なども繰り返されるので解釈が多岐に渡るのではないかなと思います。救済者であるゾーイー自身が決してまともとは言えない精神状態なのも興味深い点ではあります。この「フラニーとゾーイー」に限らずに、サリンジャーの作品共通の事ですが、適当に解釈すれば思春期の多感な少年少女の悩み事と受け止められなくはなく、反面哲学的宗教的神秘的な奥深い底なし沼を感じる事も出来ると思います。フラニーとゾーイー彼らの今後はどうなるのか?神秘的な一冊。
なおたんのブログ

恐妻家のシステムエンジニア・渡辺拓海が請け負った仕事は、ある出会い系サイトの仕様変更だった。けれどもそのプログラムには不明な点が多く、発注元すら分からない。そんな中、プロジェクトメンバーの上司や同僚のもとを次々に不幸が襲う。彼らは皆、ある複数のキーワードを同時に検索していたのだった。


5年前の惨事―播磨崎中学校銃乱射事件。奇跡の英雄・永嶋丈は、いまや国会議員として権力を手中にしていた。謎めいた検索ワードは、あの事件の真相を探れと仄めかしているのか?追手はすぐそこまで…大きなシステムに覆われた社会で、幸せを掴むには―問いかけと愉しさの詰まった傑作エンターテイメント。


内容 「BOOK」データベースより


「魔王」の舞台から数十年経た未来の世界を描く「モダンタイムス」、単独で読む事も可能ですがやはり前作を読む事を強くオススメします。伊坂作品は「砂漠」「重力ピエロ」「フィッシュストーリー」「ゴールデンスランバー」「魔王」と経験済みでした、「魔王」からは舞台を継承していますので似ていて当然なのですが、主人公の世界での立ち位置が瓜二つだったのは「ゴールデンスランバー」でした。この感覚は間違いではなく、あとがきでも作者含め解説でもある様に「モダンタイムス」と「ゴールデンスランバー」は同時期に作成された作品だそうです。「ゴールデンスランバー」を読んで面白いと感じた人は絶対に面白いと感じる事間違いなしだと思いますね。両方の作品の主人公の闘い方を見比べてみるのも一興ではないかと思います。「モダンタイムス」は不思議な作品ですね。明らかに未来が舞台となった世界が描かれているのですが、SF過ぎる味が出てきません、作家独特の空想で未来像が押し詰められている様な作品では決してなく、むしろ科学技術が進歩しても人の根本は変わっていないという虚しさの様なモノを感じる。たとえば、移動手段が、その昔蒸気機関車だったものが電車に変わったとしても人が移動する行為自体に然程変化は無いので、移動手段自体を描く必要性など皆無であるといった印象だろうか。結果、未来の話であるにも関わらず脳の中で描かれる世界像が現代のそれと同じなのだ(これは私の想像力の欠如が原因かもしれないが・・・)むしろ未来そのものを描く事が主題ではなく、未来と現代に通じる人や社会の根源部分・基本部分が変化しない事を描いているのだろうかどうかは・・・はかり知る事ができないが、そんな印象を受けました。ストーリーの主軸は、事件の真相を探るという探偵系推理モノミステリーと近い印象を受ける、実際にミスリードを誘う展開や蓋を開けてみれば的な伏線が随所に見受けられる。が、私的印象ではそれも少し違うのかなと感じています。結局真相の奥にあったものを蓋を開けて受ける印象は人それぞれなのだろうけども(実際にミステリー真相を追う事に慣れた人には受け付けない結末かもしれません・・・)僕が感じた印象は真相そのものに意味なんてなかったのかもしれないという事です。作中の表現を利用するならば「虚無」でしょうか?しかしだからといって伊坂作品が決して腐らないのは、その「虚無」を輝かせるに十分なほどの「勇気」ではないだろうか?これも作中の表現であって文字にする「勇気」はなんと陳腐な響きを与えるものなのだろうかと思うが、「勇気はあるか?」と本当に問われている様な作品であるとだけ言えます。「モダンタイムス」の作中に登場する話は様々あります、深い所では社会システム論や幸福論、俗っぽいものでは陰謀説やネットの闇といった話題です、そのどれもが一度は誰かと意見を交わした事があるテーマであると思う、同時に結論が出せないもしくは真相をつかめないものばかりだと思います、そういった各論を興味・関心を引くように書き上げて論争に巻き込んでくる、決して明確な答えを投げつけられる訳では無いのだけどゴチャマゼニなった竜巻で吸上げられた読者はゴチャマゼのまま地上に叩きつけられる!そして、その状況で見渡したときに見える景色や感情が答えなんだ!読後に何を得るのか?楽しみな作品だと思います。おそらくですが、再読すればまた違った答えを見つけられるかもしれません。最後に、今作品は若干ハードボイルドな展開が多いです、村上春樹作品のハードボイルド展開が好きな人には楽しめるかな?でも伊坂作品は安定感のあるハードボイルドなので物足りなくてもしょうがないですからね、またそこが良い所なんですからwあと、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の社会と個人の葛藤にも近いものを感じました。また作中で登場する(作品名は隠されていましたので明かしませんが)グレゴール・ザムザが虫に変身しちゃうw作品も読まれると面白いかもしれませんよ^o^僕は、「魔王」で出た宮沢賢治詩集や「モダンタイムス」での芥川作品に手を出してみようか検討中です。


なおたんのブログ

なおたんのブログ

会社員の安藤は弟の潤也と二人で暮らしていた。自分が念じれば、それを相手が必ず口に出すことに偶然気がついた安藤は、その能力を携えて、一人の男に近づいていった。五年後の潤也の姿を描いた「呼吸」とともに綴られる、何気ない日常生活に流されることの危うさ。新たなる小説の可能性を追求した物語。


内容 「BOOK」データベースより


「肉体の悪魔」の後で「魔王」に昇格したwなんて訳ではありません。「魔王」は昨年からの再読となります。「魔王」の舞台から50年後を描いた伊坂作品「モダンタイムス」が文庫化を迎えたとあって購入したのですが続編小説を読むならば前編を読んで復習しておくべきでしょうと再読に至った次第でございます。伊坂さんの作品は若者が社会と闘うって図式が多く、それでいて現実離れした特殊能力を備える登場人物が様々な絡みや奇跡を起す魅力溢れる作品が多い。「魔王」も同じく特殊な能力を持ってしまった男が社会の大きな潮流を前に立ち上がるといったロマン溢れる内容になっている。ファシズム・憂国・国防となかなかハードな内容を取り扱っているにも関わらず、読みやすく理解し易いのは作家の文章力の凄さと同時に、それが主題として描かれていないからかもしれない。あくまで世界観や思想は背景でしかなく中心に描かれているのは個人(特に若者)が社会の潮流の中をどう生き抜くかといった姿勢であり心構えの様な気がする。題名を考えて作品を読み解く事は読書の一つの楽しみ方であるが、「魔王」は一体誰なのか?の疑問が付きまとう・・・単純に主人公安藤の立ち向かう一人の男を指すのかもしれないし社会全体を指すのかもしれない。「モダンタイムス」ではこの辺の落としどころを探してみるのも一興かなと考えています。伊坂作品は人気がありますね、若者に勇気や情熱を与える作風が多いのと特殊能力を差し引いて等身大で描かれる同年層の人物に感情移入し易んでしょう!それにしても伊坂作品を読んでいて思った事は・・・結構作者って若者に失望しているんじゃないかなぁ~って事ですね、実際この本が売れちゃうって事は反面若者が理想像に追いつききれていないって事になる。作中にもあるし、他の作品にもあるけども伊坂作品の良さは「青臭さ」でしょう。今の僕達に青臭さってあるのかな?実際忘れちゃったり様々な理由で「青臭さ」を捨てて生きている若者に憂いを感じているのではないかな?そんな事を思って読みふける。


第一次大戦下のフランス。パリの学校に通う15歳の「僕」は、ある日、19歳の美しい人妻マルトと出会う。二人は年齢の差を超えて愛し合い、マルトの新居でともに過ごすようになる。やがてマルトの妊娠が判明したことから、二人の愛は破滅に向かって進んでいく…。


内容 「BOOK」データベースより


先に読んだ「赤と黒」の著者スタンダールとラディゲは親友だったそうです。「赤と黒」そして「肉体の悪魔」共通するのはどちらも恋愛小説!名作を比較する事は無意味な事だとは思いますが、あえて恋愛小説を連読したので比較してみましょう。「赤と黒」は長編小説と言って良いボリュームがあるために恋愛そのものと同時に王政から市民へと権力が変遷する社会背景などが書かれています。その時代を生きる人間達の思惑や方向性なども垣間見れて読み応え十分な作品となっています。その反対と言っては失礼ですが「肉体の悪魔」は恋愛の当事者が中心となった小規模な範囲で話が展開します。といっても第一次大戦下といった世界的規模の変遷期である事に変わりはないのですが、その激流ですらも遠い地の話として描かれている(意図的に社会と隔絶する意味で主人公を15歳にした?)。作中でも情熱はエゴイズムだ!と言いきる辺りがラディゲの恋愛観が垣間見えると思います。恋は盲目って言葉がぴったりかもしれませんね。ただし両雄とも規模こそ違えど面白さは抜群です!あえて甲乙つけるならばボリューム少なく現代人にも理解し易い純粋な愛(純粋の基準はあえて控えます)が描かれている「肉体と悪魔」が読みやすい点で良しって所でしょうか?これはあくまで読みやすいってだけですよ、作品自体の比較は僕には不可能ですので作品の良し悪しは皆様が判断してくださいw無責任・・・最後に「肉体と悪魔」の見所を一つ、やはり終幕のひき方ですね!この終り方は予想していなかったぁ~なんとなく内容説明にある破滅へ向かうって空気は読み取れるし、ベタな展開だなぁ~とは思っていましたが幕の締め方には流石名作だなっと思わせられましたね。現代ではどう読み解かれるのでしょうか気になるところですね~特に遺伝子の受継ぎなんて価値観が定着しちゃった現代人には一風変わった受け止め方をされるのかもしれませんね、それだけに当時の人々はこの作品にどんな思いをもって読んだのだろうと思い馳せるのも古典小説の醍醐味かもしれませんね。いやぁしかし古典なんて言って時代が変わっても色褪せない恋愛小説って本当に凄い事だと思いますね。

十九世紀後半のフランスに起こった絵画運動で、現代日本でも絶大な人気を誇る「印象派」。“光”を駆使した斬新な描法が映し出したのは、未だ克服せざる「貧富差」による“闇”であった。マネ、モネ、ドガからゴッホまで、美術の革命家たちが描いた“近代”とは―。


内容 「BOOK」データベースより


美術に限らず作者の生い立ちや時代背景・社会思想等を知る事で作品を倍以上に楽しむ鑑賞法がある。今作品は印象派の歴史や社会変遷を重視・紹介する事で絵に潜む隠れたメッセージや隠喩などを読みとくことにより絵を一層楽しめる存在にする一冊だ。美談ばかりではない歴史を紐解く事は絵の怖い部分をも覗き見る事になるのだが、それでいて絵の価値が色褪せないどころか一層魅了されてしまう不思議さが味わえるのも本書の良い所である。作者の他著書タイトルが「怖い絵」(ベストセラー?)なのも頷ける程に怖い歴史や胸糞の悪い表現なども多いのが事実で、美術に清廉を求めている人には少し受け付けない雰囲気があるかもしれません、あとは美術系を紹介した本にありがちな事ですが挿絵として登場する各印象派作品が文章の途中で差し込まれている構図も読書物としては流れを分断する構図になっており読みにくい事この上なしです。後ろのページにまとめて絵を載せていれば美術鑑賞本にもなって良いのになぁ~編集や構造に口出しするほど偉そうな事を考えてしまいました。読みにくかった・・・全体のテイストですが、絵そのものの技法技術や印象派画家を紹介するのではなく時代・歴史を重視して紹介しています、大学の講師をされている作家ならではの世界美術史の授業って印象でしょうか?他の美術紹介本とは一線をきした俗っぽさが目立ち、奇妙奇天烈な画家人生を紹介する偉人本のテイストとは大きく異なる印象を受けました。最後の方にあるまとめを読まない限り、この作者は美術そのものを愛しているのだろうか?ただ歴史に美術作品を埋もれさせたいだけなんじゃないのか?等と思ってしまいましたが・・・是非まとめ文章を読んでみましょう。作者が美術に魅了されている事も十二分に判る良い締めで綴られています。締めがなかったら受け付けなかったかも・・・


印象派といえば、京都市美術館で印象派展を見たのと、「月と六ペンス」のモチーフとなったゴーギャンが最近での接点でしょうか・・・本書で紹介されている歴史は海外欧州古典作品に馴染みのある時代を紹介しているので色々と学ぶ事が多かったです。しかし僕は美術作品を絵から受ける印象以上の情報を得る事に魅力をあまり感じない。そりゃ~作者の様に大学で講師を務める程に学術性を高める目的があれば情報に価値が生まれるんだろうけど、ちょっと暇潰しに美術館巡りでもしてみるかって程度の僕にとって余計な情報は「うんちく」レベルのそれを脱しない。美術館の中でもうんちくを垂れてる人が多い!腹が立つ、てめぇが描いたわけじゃね~だろうと!絵画作品は目の前に通り過ぎる僅か数分の間に人を魅了する芸術作品で、その魅了が高まって人を集めるようになる。それだけで凄いじゃないか!観るだけでいいんだよ!・・・っと詰らない戯言を感情的に言ってみて終了とします。