『Franny and Zooey』(邦題『フラニーとゾーイー』)は、それぞれ別に発表された「Franny」(1955年)と「Zooey」(1957年)を1つにまとめた作品である。名門女子大で演劇や詩を学ぶグラース家の末娘フラニーは、過剰な自意識にさいなまれ、エゴの蔓延する世の中に吐き気をもよおし、デートの最中に失神する。心身のバランスをくずした彼女は、「ひたすら祈れば悟りが開ける」と説く「巡礼の道」という本に救いを見出そうと、自宅のソファーの上で子どものように丸くなって祈りの生活に入る。当然、家族にしてみれば、睡眠も食事もろくにとらない彼女が心配でたまらない。兄ゾーイーの懸命の説得もむなしく、フラニーの心はかたく閉ざされたまま。あげくの果てには、亡くなった長兄シーモアと話がしたいと言いだす始末。 そんな妹のために、兄の啓示を受けるべく、ゾーイーは久しぶりに兄の部屋に足を運ぶ。戻ってきた彼は理路整然とフラニーの過ちを指摘していく。「目の前で行われている宗教的な行為(母親はなんとかチキンスープを食べさせようとしている)に気づきもしない人間が、信仰の旅に出て何の意味があるのか」など、ゾーイーの口を借りて伝えられるシーモアの言葉にフラニーは…。
(内容説明)より
サリンジャーの作品は「ライ麦畑でつかまえて」と「ナイン・ストーリーズ」を経験済みです。今更紹介するまでもない超有名作家のサリンジャーですが、私との出会いはアニメ甲殻機動隊・笑い男が捩ったとされる「ライ麦畑でつかまえて」で名前を知り興味を抱いたのが最初でした、その後読書習慣をつけて村上春樹さんが、翻訳をするほどに好きな作家だとわかり一層興味が沸いたのが起点でした。今作品の翻訳者野崎孝さんの訳と村上春樹訳と読み比べをしたのも「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー作品が始めての経験だった印象深い作家といえます。僕の読書暦を振り返るにあたって真っ先に思い浮かぶ作家の数人に入る人ですね。サリンジャーの作風ですが、一言で言い表すのは難しいのですが、イノセンスの塊で出来上がっている様な印象を受けます。人間といった存在が何をもって大人となるのかは僕には解りませんが、大人になる前に読んでいればどんな印象をもったんだろうか?と思ってしまう小説は数ありますが、サリンジャーの作品は特にその感想を持つ作品が多く、誰しもが思春期や成長期に感じた個人と社会や世界との違和感のモヤモヤを思い返したり懐かしくなったりする作風だと思います。ただ、誰しもが思春期の自分の悩みを克明に思い出せないのと同じで、サリンジャーの作品は非常に難解で解釈が不可能と思えます。今作は妹フラニーが神経衰弱の状態に陥り兄ゾーイーが救済をする形式のストーリーです。世の中のインチキやエゴに悩む大体の像は掴めるが明確に何にたいして不安を感じているのか解らないフラニー、また天才一家と先立つ兄弟の不幸を抱えたグラース家(特にフラニーとゾーイー)の闇の部分も曖昧でぼやけています。いやむしろ闇に隠れて真相が見えない印象でしょうか、そこに神懸かった解釈の応酬なども繰り返されるので解釈が多岐に渡るのではないかなと思います。救済者であるゾーイー自身が決してまともとは言えない精神状態なのも興味深い点ではあります。この「フラニーとゾーイー」に限らずに、サリンジャーの作品共通の事ですが、適当に解釈すれば思春期の多感な少年少女の悩み事と受け止められなくはなく、反面哲学的宗教的神秘的な奥深い底なし沼を感じる事も出来ると思います。フラニーとゾーイー彼らの今後はどうなるのか?神秘的な一冊。