健康がテーマの雑誌『壮快』に取材協力させていただきました。

9月号のハチミツ水関連記事です。(38~39ページ)

実は『壮快』さんとのご縁は今回が初めてではなく、以前、2016年の11月号「ゆで野菜ジュース』特集でもご相談をいただきました。

コロナで旅行者の往来が途絶えたこの時期にも、こうして電話やメールなどの取材を通して記事作りに参加させていただけたことに感謝したいと思います。

いずれにしても自分は、複数の人々の死というものに直接的・間接的に関与するという、医療従事者としての宿命に適応し、馴れつつあることを感じている。

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一種の告白

 

                                     イ ヨンフン

 

恋はいつでも

思い通りにままならず

こころはまたいつも言葉のようには

簡単でなかった頃

 

ぼくはときどき

たとえば季節なんかに酔いしれて

自分に嘘をついて

刹那的に真実のようなことばで

愛してると愛してると

ぼくがあなたを

 

またある時には

誰でも構わないから

ぼくのことを抱きしめてほしいと

消えてなくなることばでいいから

愛してるとぼくのことを愛してると

お互いのなるこころはまた々にすだろうから

 

こころはいつも言葉のようには

簡単でなかった頃 

 

 

「栗園の前に栗園はおらず、栗園の後に栗園はおらず」

失数道明(1905~2002)先生はこういって栗園の学識の高さを賞賛した。江戸時代から明治維新を経て漢方医制度が消滅の路をたどり始める直前、江戸幕府最後の侍医として、栗園は日本の皇漢医学の巨匠であった。古方(傷寒方)を主とするが後世方も併用したため折衷派と呼ばれる。実際に栗園の代表的な方剤学著書『勿誤薬室方函口訣』を見ると、傷寒・金匱方に劣らず後世方の説明もかなりを占める。栗園は号で、浅田宗伯(1815~1894)先生のことである。

 

宗伯先生が前代13人の医家達の記録の中から、重要な部分を抜粋して臨床の要訣を記述したのが『先哲医話』だ。題目のとおり、先学の錚錚たる医家(先哲)のエピソード(医話)を集めて編纂した本である。多くの資料のなかから,その当時宗伯先生の目に必須と映った医学内容だけを集めて総集編にした本だけに、先生の漢方を望む視角を伺い知ることができる。もちろん江戸時代に発症率が高かった梅毒に関する話や、水銀を使用する処置方、あるいは(その時代外科手術ができなかったため)腹腔内の腫瘍を治療するための極めて強い(毒性も併せ持つ)薬などの内容については、現代において大きな意味を持たないだろう。しかし、それ以外のところでは臨床に参考できる要領が比較的細やかに記されている。

 

「患者がきたらまずその目から診よ。」

こんな言葉を私は他のどの医書でも見かけたことがない。先哲医話は、病症の解説、処方の解説、一般医論を軸とし、師匠が弟子に語り教えるかのような徒弟的な説明が合間合間に織り込まれて、実用的な医術書になっているのが特徴だ。一般的に中国や韓国の書籍は線が太いというか、厳粛でかたいイメージ、若干の不親切さを持つとしたら、日本の書物は特有の細やかで念入りな丁寧さがある。日本の国民性が医書にも反映されているようだ。

日本における漢方医学というと、所謂古方派を思い浮かべることが多いが、実際には中国や韓国に匹敵する伝統と継承が有ったことをこの本が示している。また13人の名医たちの理法と方剤に関する大枠は漢方の後学にとってたい有益で、すばらしい指南書といえる。私が見つけられなかっただけかも知れないが(そうであることを望む)、現代日本語に訳された『先哲医話』を日本の書店で求められなかった。そこで、本のなかから興味深い医話をいくつかご紹介したいと思う。

 

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病を治療するにあたっての要点は本を治めることである。鼻が痛いからと鼻だけを治療し、耳が遠いというので耳だけを治療するのは、根本を差し置いて末端に齧り付く態度だ。医師は病を成す理由を知り、これを治めなければならない。ある老医師が私に起死回生の秘法を尋ねた。答えは「あらたかな秘法などはない。ただひたすら本を求めるのみ。それ以外に言うべきことはない。」というものだった。

 

 

用薬には活変がもっとも重要だ。ある処方が脱肛を治し、またある薬は下血を止める、といった 機械的な当てはめをするのは活変を知らないからだ。ひとつの処方で万病を治し、万病にはひとつの処方に加減することで対処すること。これが活変だ。

 

 

医師の中には上手と下手がいる。目に見える病状だけを治しにかかって、強くて速い処方をもって効果を得ようとするのは下手のすることである。症状の中の病機を探り、穏やかな薬で自然と治癒を促すことは、一見回り道をするようであっても実は近道となる。これは賢明な者のとる方法であって、愚かな者にはできないことである。

 

 

60歳近い老人が(この時代は60歳も老人でした)中風になった。医師にかかって治療を受けたが治らないので訪ねてきたという。診察の結果私はこう告げた。「急いで治りたがれば3年後にかならず再発するだろう。そのときには治す術はない。もし急がずに治していけるのであればこれより15、6年は生きて天寿を全うするだろう。どちらを選ぶか決めなさい。」患者はこう答えた。「長い命を生きてなんの意味があるでしょう。わたくしの望みは、速く治すことです。」そこで異攻散加烏薬、白芷、青皮を50貼(25日分)出したところ、すっかりよくなった。ところが3年後にはたして予測どおりになった。弟子が私に緩治の処方を尋ねたので、私は"十全大補湯加減"と答えた。

 

 

ある医師が、診察をたいへんおおさっぱにしている様子なので、その理由を尋ねたところ、このように答えた。「診察をあまり細かにすると本質を見抜くことからかえって遠ざかる。望診の妙手は目撃之間(極めて短い時間)にある。例えていうなら、死刑台に向かう罪人は、肉体的に強靭だとしても、恐怖に怯え憔悴した心がそのまま瞳に現れている。ところが続けざまに見ていると、鮮明に見えていた姿(瞳の恐怖心や憔悴)が見えにくくなり、やがて消え去ってしまう。

 

 

江州のある者が虚飢不食で息も絶え絶えの様となり、慌てて林氏医員の往診を請うた。医員は診察を終えて、「血脈が衰弱して糸一筋で命を取り留めている。生きる可能性は1万分の1。」とし、投薬はたったの人参一分(0.4g)と龍眼肉一粒のみだった。周りの者たちはみな切羽詰ってじれったがるが、医員には何も言えず地団駄を踏むばかりである。翌朝になって再び往診し、医員はこう告げた。「症状は以前と変わらないが、毛穴が締まって肌が少し潤っている。これは脾と肺が回復している兆しだ。助かるかもしれない。」こうして人参と龍眼肉の量を少しずつ増やしていき、ついには病は治り九死に一生を得たのであった。北山友松がこの話を聞いて、感嘆して次のように語った。「極めて虚している者にたくさんの補薬を投与するのは、あたかも消えかかっている灯火に一度に油を注ぎ込むようなものだ。どうやって持ちこたえるというのだ。林氏は補法の核心を突き詰めたお方だ。」

 

 

土佐翁が西山で隠居生活を送っているところへ、ある日京都商人の患者がやって来て、癰疽(たちの悪い腫れ物)ができたという。これに対し土佐翁は1日に人参五匁を食すように命じた。五日後に再び診察を経て言うことには、「人参の効果が表れないとすると、不治の病かもしれない。」そのときになって患者の家族は事実を正直に告白するのだった「実のところ人参を1日に二匁五分だけ食べさせました。」これを聞いた翁は次のように伝えた。「なぜ生命を軽んじ財物を重視したのだ。生きたいのだったら、今日は五匁、明日は六匁、あさっては七匁を食べさせなさい。その後もどんどん増やしていくのです。」商人が言われたとおりにすると、果たして七日ぶりに病は治ったのだった。北山友松はこの逸話を聞いて「人参の活用を正確に理解し、補法で癰疽を治す托裏の要訣をご存知の方だ。」と語ったという。

 

 

浮腫みがある人が、急に大汗が出たり、泄瀉をしたり、あるいは浮腫みが急激に取れたりするときは、たいへん危険な予後が心配される場合で、多くは4~5日後に亡くなることになる。または医師が数回にわたり下法を用いてからも、まだ足りないと再び大きく下痢を起こさせると、突然にして浮腫みがなくなるとともに急死することがある。総じて浮腫みの治療法を例えるなら、泥水をなみなみと溜めた甕を傾けることと同じだ。突然傾けると、甕底の泥はそのままに水だけが流れ出る。かき混ぜながらゆっくり傾けると、泥が水といっしょに流れ出る。したがって汗法と下法の要訣は、緩慢に行うことである。仮に急いで行うと、症状は解消しても患者の体は潰れてしまう。これは必ず注意すべき点だ。

 

 

60代の患者が、食べ物がのどを通らず痩せ細り、骨と皮ばかりになった。はじめは食傷で病が起こったのだが、複数の医師が香砂六君子湯、七味白朮散の類の薬で治療を試みて効果がなかった。北山友松が異効散加当帰を三十貼(15日分)投与したところ、完治した。またある女性が、穀物を一切食べようとせずそれ以外のものばかり食べたがるのだが、どんな薬も効き目がなかった。この女性に四物湯加人参、白朮、橘皮を飲ませたところ、治った。弟子がその処方の理由を訊くと、師の北山は次のように答えたのであった。「脾胃の血液が虚していると枯燥して食べられなくなる。当帰は味が甘く脾胃の血を益するので、進食之剤になり得るのだ。」…「内経によると、‘手得血而能攝, 足得血而能步, 肝得血而能視’という。私はこれに、‘胃得血而能食’の一句を付け加えるべきだと考える。」

 

 

ある男の喘息を治療したことがあるのだが、夏になると必ず喘息の発作を起こし、冬になると自然に治るケースだった。その他の喘息患者とは様子が異なり、小青龍湯を投与しても効き目がまったく現れなかった。そこで香薷合六一散を飲ませると、たちまちのうちに回復した。暑病に効く薬をもって喘息を治したのは、その喘息が暑病が原因で起こったためである。このように病を治すに当たっては必ず本を求めることが必要だ。

 

 

18歳の妊産婦が臨月になり、羊水の嵩がどんどん増えてきて、全身、特に下半身の浮腫みが酷い。口舌はそこらじゅうただれて塩気を食べることができず、一日に薄い粥を一、二杯しか食べられない。小便は赤渋し大便は1日おきだった。脈は滑数で有力だった。医師は胃虚によって水分調節ができない状態と診断し、人参、白朮などの薬を用いたが、かえって病勢が悪化して私のところへやってきた。私の診断は次のとおりだった。「羊水は湿熱を帯びている。この病症は胃虚ではない。」こうして猪苓湯加車前子、黄連、梔子を投与した。総じて車前子は小便を利するだけでなく、妊娠中使用するに適している。5,6日服用したところ小便が次第にすっきりと出始め、浮腫みも少しずつ解消した。口舌もただれが癒えて食べ物を以前どおり食べられるようになった。そこで紫蘇和気飲加白朮、 黃芩に処方を変えてお産前まで服用させたところ、無事出産し母子ともに健康だった。

 

2019年9月8日、日曜日に、登録販売者試験を東京で受けてきた。

前日の土曜日の午前まで診療をしてから、急いで金浦空港に向かったのだが、何と台風による強風のため欠航。たいへんだ!

試験勉強にここ数ヶ月を費やし、各種教材、ネット講義などを駆使して頑張ってきたことを思うと、残念でならない。

あきらめて帰宅する気にもなれず、混雑を極めるカウンターで尋ねてみたところ、最終便に座席が有るという。スタッフの、「今日いっぱいは無理そうですよ(ほぼ前便欠航の意味)。」とのコメントを聞き流し、粘ってみる事にした。

幸なことに台風は速度を早めて北朝鮮方向に北上し、風は少しずつ凪いでくるようだった。

 

日曜日の朝9時を過ぎると、電車の到着ともに人々が群れとなって試験場に吸い込まれていった。受験者の性別、年齢、背景はばらばらだった。だいたいは医療関係の仕事に従事していたり、関心を持つ人たちだろうと考えた。自分もいつか日本で暮すことになったときに、少なくとも漢方薬局等でアドバイザーのような仕事に合法的なかたちで就けるようにと、準備を進めてきた受験だった。

 

私が試験を受けた教室の中には、かなりの年輩と見受けられる受験者も目についた。この方たちの人生にはどんな事情やストーリーがあるのだろう? 顔の中央に高い鼻が際立っている隣席の女性は、ずっと目を閉じて自身の脈を診ている。きっと漢方に造詣が深いか、関心が高い方なんだろうと想像できた。

試験監督官は、1秒のずれもなく決められた時間に沿って、決められた言葉を機械のように発した。これを見て私は日本の駅員のお決まりの所作、手合図を連想した。この場所が、システムがスイスの精密時計のように正確に作動する日本なのだという感慨があらためて呼び起こされた。

 

通常は国家試験というものは、正常に社会を維持させるために一定数以上の合格者を輩出するよう実施されることも多いのだが、この登録販売者試験に限っては、受験資格条件が無いからか、資格保有者を積極的に選分けて、簡単には通過させないようにする意図が見えかくれしている。適当に勉強したとこで、即不合格になるよう問題を作成した痕跡があちこちに残っている。合格率を調節するための出題者の苦悩が伝わってくる。逆にいうと、知識を十分に備えた者ならば決して落ちはしない構造にもなっているというのが、試験に対する私の総合意見である。

 

歳を取ってから試験を受けるのはたいへんではあったけれど、大きな達成感を得られた。漢方の専門医として、西洋薬の成分や作用、特徴に関して体系的な知識を持たねばという気持がもともとあって、一般用医薬品という限定付きであっても勉強を し直すことができた点で、試験が願ってもない契機になったと思う。

 

試験を終えてから新橋に向かうゆりかもめから見下ろすお台場の景色はことのほか美しく感じられた。

 

70回日本東洋医学学術総会が、628日から30日までの三日間、東京にて開催された。しばらくぶりの東京で気晴らしがてら、また、現在日本で漢方がどのあたり位置に、どのような姿で根付いているのかも気になるところで、参加を決定した。

 

結論から言うと、驚きと羨望それ自体だった。

第一に、規模の膨大さ。学術総会は緻密に計画、運営されていた。会場には参加者があふれかえり、一人ひとりの瞳は漢方への情熱で輝いていた。各セミナー室で行われる殆どすべての講座が、早目に行って座席を確保しない限り、後方で立ち見をする羽目になるほどであった。

一般演題に関するポスターの数も、自分の目を疑うほどの量だった。元来、ことの大小を問わずことごとく記録を残すという日本人の特性が、ここでも如実に発揮されているようだった。

学術総会で出会った北里大学病院漢方診療部の川鍋先生が、漢方を学び、診察し、処方する医師の数の増加傾向はもちろんのこと、大学の医学部においても漢方科目の単位数がかなり増えていると説明してくださった。

東洋的な思惟様式上に東洋医学を学ぶ韓方医師にとって疑いの余地のない概念のうちのいくつかは、西洋医学体系で鍛錬された脳を持つ人達にとっては、前提についての説明が必要なこともあることに気づかされた。特に望診について語るときがあてはまり、また患者個人個人の固体性、つまり陰人と陽人の体質について話すときや、生薬の気味について話すときなどもそのような印象を受けた。

 

今回の学会では、鍼灸治療を積極的に漢方治療の軸に入れる点において認識が広がるなど、全体的に外形を拡張することに成功している様相が見てとれた。反面、深度という面での若干の物足りなさを感じた。

 

囲碁に没頭し、たゆみなく研究すると、読み筋に明るくなるように、好ましい漢方インフラの中においては、数は多くなくとも、正しく漢方の本質を理解する層が現れ、彼らにより日本の漢方界が新しく花開くことになると確信した。既にいくつかの流派があり、日本の東洋医学の全体的なレベルが向上しているということは、数年前にソウルで出会った吉冨先生が特有の直な語り口で話を聞かせてくださっていた。

 

七物降下湯を舌痛治療にも、認知症にも適用するという川鍋先生の処方に対する理解度は、単なる頭の良さの結果ではない。漢方治療に向かう彼の情熱と持論は、読み筋に極めて明るい棋士が碁を打つ姿に重なる。

 

数年後の日本東洋医学学術総会が今から楽しみになっている。

 

 



先輩
診察室のフォトフレームのらかにっていたいつのまにか長身青年となり喪主めていました

葬儀ったたちが親睦確認するとさええていたですがそれが間違いだとこの日気づきました

いあいだにじっとったままうなだれ画面えた携帯電話液晶ろにめていました


先輩自身予見していたのだろうか

先輩SNS自己紹介コメントが、「西山むが夕日しいもの‥」となっていました

そして私宛もう水仙写真先輩感想えてへのいなどがめられたメッセージがけられていました

それなのにはなんの信実味のある返事もできなかった

あれほどっていた大切先輩だったのに‥。


たちはみな他人関係びながらもその実自分だけの世界きているのかもしれない

出会ってもいつかはれがるもの

だからこそばれたときにはそのをいっそう大切にしなければならないのに‥。

‥‥‥

‥‥‥

‥‥‥

先輩をつけてってください



こちらから連絡をせずにいると一月ほどしてまたSNS到着しました

深紅椿写真えた、『冬栢(椿)という詩一編がその内容でした

韓医院名前じだね。」前置きして


冬柏


丁薫(19111992)



백설이 눈부신

純白しい



하늘 한 모서리

荒涼とした片隅



다홍으로

深紅



불이 붙는다.



차가울사록

えきるほどに



사모치는 정화

情火 



그 뉘를 사모하여

って



이 깊은 겨울에 애태워 피는가.

この憔慮かせるか 



いいですね誠意のない返答をしただけでした



一月ほど出勤途中自分うメッセージを発見しました

先輩訃報です

急性心筋梗塞昨晩亡くなったという内容でした

葬儀場にひたらせながらめどない視界ませました

こんなふうにってしまうのならなぜ自分かな態度をとってしまったのか

かった

先輩にしたった々は20その歳月走馬灯のように々とめていきました




先輩以前して頻繁にするようになっていた反面そのものにはくなっていました

それでも先輩学問する情熱さは以前のままでというよりもむしろ衒学的色合いをめていました

あたかも自身身体的コンプレックスを膨大知識というせようとするかのように

先輩はこのごろ使処方らしているんですよたとえば虚症しては使処方数種類集約させておいてその元方体質別応用していくんです。」

った先輩やかでない口調でこうしてきました

処方やしてもまだまだりないほどだというのにらすとはなにごとだ!! ぬまで勉強しても全部つけせないのが処方というものだ。」

たちはこのすでになる画家になっていたのです


医学かう姿勢違和感はあっても先輩とは季節わるごとに安否ねあいときにはいにってにする関係きました

のことになりますが先輩しくしているという業者紹介けてそれならばと取引してみたところずいぶんとがっかりさせられる結果となりはそんな業者いだ先輩みがましくうようになりました

そんなさなかに先輩からSNSきました

安君最近どうしてる? 時間があったらわないか? でもみながら。」

先輩はこのところちょっとしくしていて‥。いたにまた連絡してびにきます。」

先輩する屈折した気持をこのようにりくどい方法表現していました



方意心悟前書には序論えて言葉げました


いていく途中にふとってみた

臨床経験処方知識ぎないけれども

思考整理進歩むとすれば

より明日けた希望となる

貴鎬先輩れる

 丁丑夏 安珍永


こうして崔先輩とのして強固になっていきました


公益勤務期間えた19982清州にて興徳韓方医院開業して韓方医としてのちをげました

開業後にもときに症状複雑処方しい患者わされるときには先輩電話してえをうのがでした


日本という未知世界かれて韓国またってきたときに今度はソウルの冬栢(椿)韓医院開業しました

こうして本当しぶりに先輩わすこととなりました

歳月三和堂韓医院にも変化をもたらしていました

鍼灸漢院長不慮事故矯正金院長までもが独立してっていき韓医院崔先輩一人っていました