「栗園の前に栗園はおらず、栗園の後に栗園はおらず」

失数道明(1905~2002)先生はこういって栗園の学識の高さを賞賛した。江戸時代から明治維新を経て漢方医制度が消滅の路をたどり始める直前、江戸幕府最後の侍医として、栗園は日本の皇漢医学の巨匠であった。古方(傷寒方)を主とするが後世方も併用したため折衷派と呼ばれる。実際に栗園の代表的な方剤学著書『勿誤薬室方函口訣』を見ると、傷寒・金匱方に劣らず後世方の説明もかなりを占める。栗園は号で、浅田宗伯(1815~1894)先生のことである。

 

宗伯先生が前代13人の医家達の記録の中から、重要な部分を抜粋して臨床の要訣を記述したのが『先哲医話』だ。題目のとおり、先学の錚錚たる医家(先哲)のエピソード(医話)を集めて編纂した本である。多くの資料のなかから,その当時宗伯先生の目に必須と映った医学内容だけを集めて総集編にした本だけに、先生の漢方を望む視角を伺い知ることができる。もちろん江戸時代に発症率が高かった梅毒に関する話や、水銀を使用する処置方、あるいは(その時代外科手術ができなかったため)腹腔内の腫瘍を治療するための極めて強い(毒性も併せ持つ)薬などの内容については、現代において大きな意味を持たないだろう。しかし、それ以外のところでは臨床に参考できる要領が比較的細やかに記されている。

 

「患者がきたらまずその目から診よ。」

こんな言葉を私は他のどの医書でも見かけたことがない。先哲医話は、病症の解説、処方の解説、一般医論を軸とし、師匠が弟子に語り教えるかのような徒弟的な説明が合間合間に織り込まれて、実用的な医術書になっているのが特徴だ。一般的に中国や韓国の書籍は線が太いというか、厳粛でかたいイメージ、若干の不親切さを持つとしたら、日本の書物は特有の細やかで念入りな丁寧さがある。日本の国民性が医書にも反映されているようだ。

日本における漢方医学というと、所謂古方派を思い浮かべることが多いが、実際には中国や韓国に匹敵する伝統と継承が有ったことをこの本が示している。また13人の名医たちの理法と方剤に関する大枠は漢方の後学にとってたい有益で、すばらしい指南書といえる。私が見つけられなかっただけかも知れないが(そうであることを望む)、現代日本語に訳された『先哲医話』を日本の書店で求められなかった。そこで、本のなかから興味深い医話をいくつかご紹介したいと思う。

 

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病を治療するにあたっての要点は本を治めることである。鼻が痛いからと鼻だけを治療し、耳が遠いというので耳だけを治療するのは、根本を差し置いて末端に齧り付く態度だ。医師は病を成す理由を知り、これを治めなければならない。ある老医師が私に起死回生の秘法を尋ねた。答えは「あらたかな秘法などはない。ただひたすら本を求めるのみ。それ以外に言うべきことはない。」というものだった。

 

 

用薬には活変がもっとも重要だ。ある処方が脱肛を治し、またある薬は下血を止める、といった 機械的な当てはめをするのは活変を知らないからだ。ひとつの処方で万病を治し、万病にはひとつの処方に加減することで対処すること。これが活変だ。

 

 

医師の中には上手と下手がいる。目に見える病状だけを治しにかかって、強くて速い処方をもって効果を得ようとするのは下手のすることである。症状の中の病機を探り、穏やかな薬で自然と治癒を促すことは、一見回り道をするようであっても実は近道となる。これは賢明な者のとる方法であって、愚かな者にはできないことである。

 

 

60歳近い老人が(この時代は60歳も老人でした)中風になった。医師にかかって治療を受けたが治らないので訪ねてきたという。診察の結果私はこう告げた。「急いで治りたがれば3年後にかならず再発するだろう。そのときには治す術はない。もし急がずに治していけるのであればこれより15、6年は生きて天寿を全うするだろう。どちらを選ぶか決めなさい。」患者はこう答えた。「長い命を生きてなんの意味があるでしょう。わたくしの望みは、速く治すことです。」そこで異攻散加烏薬、白芷、青皮を50貼(25日分)出したところ、すっかりよくなった。ところが3年後にはたして予測どおりになった。弟子が私に緩治の処方を尋ねたので、私は"十全大補湯加減"と答えた。

 

 

ある医師が、診察をたいへんおおさっぱにしている様子なので、その理由を尋ねたところ、このように答えた。「診察をあまり細かにすると本質を見抜くことからかえって遠ざかる。望診の妙手は目撃之間(極めて短い時間)にある。例えていうなら、死刑台に向かう罪人は、肉体的に強靭だとしても、恐怖に怯え憔悴した心がそのまま瞳に現れている。ところが続けざまに見ていると、鮮明に見えていた姿(瞳の恐怖心や憔悴)が見えにくくなり、やがて消え去ってしまう。

 

 

江州のある者が虚飢不食で息も絶え絶えの様となり、慌てて林氏医員の往診を請うた。医員は診察を終えて、「血脈が衰弱して糸一筋で命を取り留めている。生きる可能性は1万分の1。」とし、投薬はたったの人参一分(0.4g)と龍眼肉一粒のみだった。周りの者たちはみな切羽詰ってじれったがるが、医員には何も言えず地団駄を踏むばかりである。翌朝になって再び往診し、医員はこう告げた。「症状は以前と変わらないが、毛穴が締まって肌が少し潤っている。これは脾と肺が回復している兆しだ。助かるかもしれない。」こうして人参と龍眼肉の量を少しずつ増やしていき、ついには病は治り九死に一生を得たのであった。北山友松がこの話を聞いて、感嘆して次のように語った。「極めて虚している者にたくさんの補薬を投与するのは、あたかも消えかかっている灯火に一度に油を注ぎ込むようなものだ。どうやって持ちこたえるというのだ。林氏は補法の核心を突き詰めたお方だ。」

 

 

土佐翁が西山で隠居生活を送っているところへ、ある日京都商人の患者がやって来て、癰疽(たちの悪い腫れ物)ができたという。これに対し土佐翁は1日に人参五匁を食すように命じた。五日後に再び診察を経て言うことには、「人参の効果が表れないとすると、不治の病かもしれない。」そのときになって患者の家族は事実を正直に告白するのだった「実のところ人参を1日に二匁五分だけ食べさせました。」これを聞いた翁は次のように伝えた。「なぜ生命を軽んじ財物を重視したのだ。生きたいのだったら、今日は五匁、明日は六匁、あさっては七匁を食べさせなさい。その後もどんどん増やしていくのです。」商人が言われたとおりにすると、果たして七日ぶりに病は治ったのだった。北山友松はこの逸話を聞いて「人参の活用を正確に理解し、補法で癰疽を治す托裏の要訣をご存知の方だ。」と語ったという。

 

 

浮腫みがある人が、急に大汗が出たり、泄瀉をしたり、あるいは浮腫みが急激に取れたりするときは、たいへん危険な予後が心配される場合で、多くは4~5日後に亡くなることになる。または医師が数回にわたり下法を用いてからも、まだ足りないと再び大きく下痢を起こさせると、突然にして浮腫みがなくなるとともに急死することがある。総じて浮腫みの治療法を例えるなら、泥水をなみなみと溜めた甕を傾けることと同じだ。突然傾けると、甕底の泥はそのままに水だけが流れ出る。かき混ぜながらゆっくり傾けると、泥が水といっしょに流れ出る。したがって汗法と下法の要訣は、緩慢に行うことである。仮に急いで行うと、症状は解消しても患者の体は潰れてしまう。これは必ず注意すべき点だ。

 

 

60代の患者が、食べ物がのどを通らず痩せ細り、骨と皮ばかりになった。はじめは食傷で病が起こったのだが、複数の医師が香砂六君子湯、七味白朮散の類の薬で治療を試みて効果がなかった。北山友松が異効散加当帰を三十貼(15日分)投与したところ、完治した。またある女性が、穀物を一切食べようとせずそれ以外のものばかり食べたがるのだが、どんな薬も効き目がなかった。この女性に四物湯加人参、白朮、橘皮を飲ませたところ、治った。弟子がその処方の理由を訊くと、師の北山は次のように答えたのであった。「脾胃の血液が虚していると枯燥して食べられなくなる。当帰は味が甘く脾胃の血を益するので、進食之剤になり得るのだ。」…「内経によると、‘手得血而能攝, 足得血而能步, 肝得血而能視’という。私はこれに、‘胃得血而能食’の一句を付け加えるべきだと考える。」

 

 

ある男の喘息を治療したことがあるのだが、夏になると必ず喘息の発作を起こし、冬になると自然に治るケースだった。その他の喘息患者とは様子が異なり、小青龍湯を投与しても効き目がまったく現れなかった。そこで香薷合六一散を飲ませると、たちまちのうちに回復した。暑病に効く薬をもって喘息を治したのは、その喘息が暑病が原因で起こったためである。このように病を治すに当たっては必ず本を求めることが必要だ。

 

 

18歳の妊産婦が臨月になり、羊水の嵩がどんどん増えてきて、全身、特に下半身の浮腫みが酷い。口舌はそこらじゅうただれて塩気を食べることができず、一日に薄い粥を一、二杯しか食べられない。小便は赤渋し大便は1日おきだった。脈は滑数で有力だった。医師は胃虚によって水分調節ができない状態と診断し、人参、白朮などの薬を用いたが、かえって病勢が悪化して私のところへやってきた。私の診断は次のとおりだった。「羊水は湿熱を帯びている。この病症は胃虚ではない。」こうして猪苓湯加車前子、黄連、梔子を投与した。総じて車前子は小便を利するだけでなく、妊娠中使用するに適している。5,6日服用したところ小便が次第にすっきりと出始め、浮腫みも少しずつ解消した。口舌もただれが癒えて食べ物を以前どおり食べられるようになった。そこで紫蘇和気飲加白朮、 黃芩に処方を変えてお産前まで服用させたところ、無事出産し母子ともに健康だった。