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私が崔貴鎬先輩にはじめて出会ったのは、大学を卒業して、地下鉄ソウル大入口駅近くの韓医院に勤務し始めて間もない頃でした。
冠岳区の韓医師会の会合があるというので初めて参加してみたところ、大学の後輩が入ってきたと喜んで迎えてくれたのが崔貴鎬先輩で、この時の歓迎ぶりと人の良さそうな印象は強く記憶に残っています。
先輩は先天的な身体障碍のため脊椎が曲がるいわゆる「せむし」で、身長も小学生ほどしかありません。
しかし、凡庸でない堂々とした身ぶりや眼光からは、カリスマ的な牽引力が感じられました。
当時崔先輩は「三和堂韓医院」の代表院長で、二人の同期韓医師とともに、三人の特技を活かした共同診療を成功させていたことで、たくさんの後輩たちが注目し、憧れていました。
「そうか、安君といったね。臨床経験は積んでいるかね?」
ビアジョッキをカチンとぶつけながら、先輩が前おきなく質問をしてきます。
私は頭を掻いてこう答えるしかありませんでした。
「はぁ、臨床の方はまだまだです。」
「ははは‥。それはそうだろう。今度時間をつくって、白衣を持って私の医院に出勤してみるといい。そうそう。木曜日は大学院に通うといっていたね。その日の空いた時間に来るといい。大学院よりも学ぶことがたくさんあるはずだ。」
なぜこれほど良くしてくれるのか理由はわからないまま、先輩が私を一目で気に入り可愛がってくれていることが伝わってきました。
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その後ずいぶん経ってからこのときのことを尋ねたところ、先輩は、卒業してまだ日の浅い青二才が脉診について話す気概が気にいったと教えてくれました。
私の方には全く覚えがないのですが‥。
こうして私は先輩にいわれるまま、大学院と仕事の合間を縫って白衣を携え、実際に三和堂韓医院に出勤するようになりました。
医院内はたいへん広く、開放的な間取りが印象的でした。
崔院長は診察と韓方薬の処方をすべて受け持ち、漢院長は鍼灸治療や薬鍼を担当。
もう一人の院長の金院長はカイロプラクティックや矯正担当と、分業化されて診療が行われるシステムがうまく機能し、終日患者が押しよせる人気医院でした。
私は崔院長の部屋に席を取り、先輩の診察を終始拝聴し、時にはいっしょに患者の脈をとってみることもありました。
先輩が処方せんを書けば、患者を思い起こしながら、その処方が選択された理由と原理についてじっくり考え、理解できないことは先輩に教えを請いました。
学校という場ではいくら時間を費やしても学び得ない、実戦臨床のエッセンスを、ここでは余すことなく吸収することができました。
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時々は先輩が質問を投げ掛けてきました。
「安院長だったら、この患者にどんな処方を出すだろう?」
「そうですね‥。この頭痛患者には、清上蠲痛湯に二陳湯を合わせて使うと良さそうですが。」
「そう考えたか。私の所見では、胃腸の機能を考慮して補中益気湯に川芎/荊芥/防風程度を加味した無難な処方に仕上げたいところだが。」
と、このような具合いだった。
「この患者の胃腸病にはどんな処方でいくといいだろう?」
「平胃散に二陳湯をかけ合わせたところへ加味をした平陳健脾湯が適当だと思われますが。」
「悪くないね。ただ自分だったら、食後倒飽症から脾虚と考えて、香砂六君子湯がもっとふさわしいと考えるね。」
囲碁をうつときに、「第一感」というのがあります。
一番最初に、直感的に思い浮かぶ巧い一手のことをいうのですが、いってみれば韓方診断の「第一感」を、このころ崔先輩から学んでいたように思います。
診療時間が終わると、毎回のように夕食と酒を共にしてからの帰宅となりました。
居酒屋に場を移しても昼間の延長で、私たちはさらにたくさんの対話を交わしました。
「韓医師は画家と似ている。同じ対象(患者)を見て描いて(診察して)も、考え方と表現方法の違いによって絵(処方)は大きく変わってくる。」
自分達は今どんな画法で描いているのか、たとえば中国のどの画家を理想とするのか。
また、同じ十全大補湯を使うにしても、ピカソが描く十全大補湯と、美大生が描く十全大補湯は、遠目には同じに見えたとしても、内面の意識の流れと深み、"格"が違うはずだ、と。
私たちは尽きること無く語り合いました。
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あるときは私がこんな質問をしてみました。
「先輩はいつも『無難に』を口癖のようにいっておいでですが、個人的には、重要な瞬間には多少果敢な選択も必要ではないかと思います。」
先輩の答えはこうでした。
「神でないのだから、すべての病を治すことはできないということを、自分自身がよくわかっている。だから、ある患者が自分のところへやってきて、治らずにほかの医師を訪ねていくまでに、少なくとも'もっと悪くなっている'ことが無いように、という考えを捨てられない。」
このように、肩の力を抜いて診療することも、先輩から学んだことのうちのひとつです。
この頃の私は大学院の修士課程に籍を置いていたため、軍入隊を二年間延ばしている状況でした。
その二年も先輩との交流や初めての社会経験でアッという間に過ぎていき、いよいよ入隊ということなって、三年勤務の軍医官よりは18ヶ月間の勤務で済む公益勤務要員を選び、軍役を果たすべく故郷の清州に戻ることとなりました。
こうして先輩との交流は一時休止を迎えます。
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清州へ向かう前の最後の挨拶に訪ねたところ、先輩は私に大きな紙袋を用意して待っていました。
「安君、これは私が録音保存した小涯・孟華燮先生の"方薬指針"講義録だ。時間を見つけて聞いてみるといい。」
今ではもう見かけることのなくなったカセットテープに、講義内容を残さず録音してためたもので、100個以上の大量のテープが紙袋にぎっしり詰まっていました。
公益勤務要員として清州地方検察庁に配置され、18ヶ月間勤務する間、私はこの録音テープを何度も繰り返して聞きました。
毎日の公益勤務が終わった夜間には、同期が開院した韓医院で夜間診察を2時間受け持ち、診察の合間をみてはテープの講義内容をノートに整理していきました。
元々自分で書き蓄えていた整理ノートにこの講義録記録を加えると、400ページを越える分量になりました。
私はノートを製本し、題目に『方意心悟(処方の意味を心で悟る、の意)』とやや大仰な命名をしました。
『方意心悟』の前書には、序論に変えて次の言葉を掲げました。
道を歩いていく途中にふと振り返ってみた。
短い臨床経験と日の浅い処方知識に過ぎないけれども、
思考の整理が進歩を生むとすれば、
より良い明日に向けた希望となる。
貴鎬先輩に頭を垂れる。
丁丑夏 安珍永
こうして崔先輩との縁は本を通して強固になっていきました。
公益勤務期間を終えた1998年2月に、清州にて興徳韓方医院を開業して、私は韓方医としての独り立ちを遂げました。
開業後にも、ときに症状が複雑で処方が難しい患者に迷わされるときには、先輩に電話して考えを請うのが常でした。
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時は流れ、私は日本という未知の世界に惹かれて韓国を発ち、また戻ってきたときに、今度はソウルの地に"冬栢(椿)韓医院"を開業しました。
こうして本当に久しぶりに、先輩と杯を交わすこととなりました。
歳月は三和堂韓医院にも変化をもたらしていました。
鍼灸の漢院長は不慮の事故で世を去り、矯正の金院長までもが独立して去っていき、広い韓医院は崔先輩が一人で守っていました。
先輩は以前に増して頻繁に酒を口にするようになっていた反面、酒そのものには弱くなっていました。
それでも先輩の学問に対する情熱の強さは以前のままで、というよりもむしろ、衒学的な色合いを帯び始めていました。
あたかも、自身の身体的コンプレックスを膨大な知識という楯で覆い被せようとするかのように。
「先輩。私はこのごろ、使う処方の数を減らしているんですよ。たとえば、虚症に対しては使う処方を数種類に集約させておいて、その元方を元に体質別に応用していくんです。」
酔った先輩は穏やかでない口調でこう返してきました。
「処方の数を増やしてもまだまだ足りないほどだというのに、減らすとはなにごとだ!! 死ぬまで勉強しても全部は見つけ出せないのが処方というものだ。」
私たちはこの時すでに、類の異なる画家になっていたのです。
7
医学に向かう姿勢に違和感はあっても、先輩とは季節が変わるごとに安否を尋ねあい、ときには会いに行って酒を共にする関係が続きました。
少し前のことになりますが、先輩が親しくしているという業者の紹介を受けて、それならばと取引してみたところ、ずいぶんとがっかりさせられる結果となり、私はそんな業者を取り次いだ先輩を恨みがましく思うようになりました。
そんなさなかに、先輩からSNSが届きました。
「安君、最近どうしてる? 時間があったら会わないか? 酒でも飲みながら。」
「先輩。実はこのところちょっと忙しくしていて‥。落ち着いた頃にまたこちらから連絡して遊びに行きます。」
私は先輩に対する屈折した気持をこのように回りくどい方法で表現していました。
こちらから連絡をせずにいると、一月ほどしてまたSNSが到着しました。
深紅の椿の写真を添えた、『冬栢(椿)』という題の詩一編がその内容でした。
「君の韓医院の名前と同じだね。」と前置きして。
冬柏
丁薫(1911~1992)
백설이 눈부신
雪の純白が眩しい
하늘 한 모서리
荒涼とした空の片隅に
다홍으로
深紅に
불이 붙는다.
火が点る。
차가울사록
冷えきるほどに
사모치는 정화
深く染み入る情火
그 뉘를 사모하여
誰を思い慕って
이 깊은 겨울에 애태워 피는가.
この深い冬に憔慮の花を咲かせるか
私は「いい詩ですね」と誠意のない短い返答をしただけでした。
8
一月ほど前の出勤途中に、私は自分の目を疑うメッセージを発見しました。
先輩の訃報です。
急性心筋梗塞で昨晩亡くなったという内容でした。
車を葬儀場にひた走らせながら、止めどない涙が流れ視界を滲ませました。
こんなふうに行ってしまうのなら、なぜ自分は愚かな態度をとってしまったのか。
心が重かった。
先輩と共にした過ぎ去った日々は20年を越え、その歳月が走馬灯のように次々と頭を掠めていきました。
先輩の診察室のフォトフレームの中で朗らかに笑っていた幼い男の子が、いつのまにか長身の青年となり、喪主を務めていました。
葬儀は生き残った者たちが親睦を確認する場とさえ考えていた私ですが、それが間違いだとこの日気づきました。
私は長いあいだ隅の席にじっと座ったまま、うなだれ、画面の消えた携帯電話の液晶を虚ろに眺めていました。
先輩は自身の死を予見していたのだろうか。
先輩のSNS自己紹介コメントが、「陽は西山に沈むが、赤い夕日は美しいもの‥」となっていました。
そして私宛に、もう一篇の詩と、水仙の花の写真と、先輩の感想、加えて星への思いなどが込められたメッセージが届けられていました。
それなのに、私はなんの信実味のある返事もできなかった。
あれほど慕っていた大切な先輩だったのに‥。
私たちはみな、他人と関係を結びながらも、その実自分だけの世界に生きているのかもしれない。
誰と出会っても、いつかは別れが来るもの。
だからこそ良い縁で結ばれたときには、その人をいっそう大切にしなければならないのに‥。
‥‥‥
‥‥‥
‥‥‥
先輩、気をつけて行ってください。