毎年開催されていた「全国韓医学学術大会」が、コロナ以降はオンライン講義に代えられた。環境の変化にいつのまにか慣れさせられていくことが不思議な気分だ。ただ時々は、疎遠になっていく大学時代の同期、先輩後輩に会う機会が失われたことを残念に思う。

 

約10年前のことだ。K院長やJ院長はソウルで時々会うこともあったが、その日は釜山からL院長が上京していて、本当に久しぶりに4人組が揃ったというわけだ。漢字の意味もわからず右往左往していた韓医大の予科生時代、『皇帝内経』を注釈の一つ一つまで丁寧に読み込む勉強会を結成したときのメンバーだ。

 

今ではそれぞれの道を歩んでいるが、スタートを共にしたという同士意識がよみがえり、思い出を語りあった。その最中、Lが意表をついて尋ねた。もし、もしもただ一つの処方せんをもって患者を診るしかないとしたら、どの処方を選ぶか。ただし、いくつかの薬剤の加減は許すという条件だ。

 

Jがまっさきに頸を横に振った。ケース・バイ・ケース、個別の患者に合わせるのが韓方。陰陽、寒熱、虚実の区分と、環境の違いまでを考慮して無限大に広がっていく処方を、ただひとつに帰納することはできない、という意見だ。としても、どうしてもと言うなら、少なくとも気血陰陽の二虚証である四君子湯と四物湯を、適当に加味しながら使っていくという。

 

Kは学生時代から体質医学に心酔し、造詣も深かった。『東医寿世保元』に関する彼の洞察は四象医学を貫通しており、実際に臨床でも古方と四象方だけを使うという。実はKの父親も韓医師で、学生当時その父親がこう言っていたことが今でも思い浮かぶ。「Kは四象医学に縛られるばかり、現代の代表的な神経症処方の'帰脾湯'ひとつもまともに使えないでいる」と。そのKの発言だ。「太極が見えないから陰陽に分け、陰陽も曖昧だと四象で分類して人間を理解しようとするのが韓医学だ。つまり四象と陰陽の前に人間そのものの太極があるはず。Lの問いの核心は、太極である人間の本質を定義せよ、という命題だ。この問題は今後我々が時間をかけて解いていかねばならない課題だろう。」

このとき、何か理由は忘れたが対話を中断しなければならないことが起きて、席を立つことになった。

 

そのとおり。処方するということは、見方を変えれば人間の本質を見極めることと同じだ。ひとびとの言葉や行動は多様でも、結局のところ人間の属性は一定の範疇の中でおさまる。同様に病症も、表立ってはたいへん複雑でも、結局はその病症を解く基準は陰陽、虚実など少数の範疇にとどまっている。

 

そのときわたしはふとある韓薬業者の顔が思い浮かんだ。韓医大生時代から始まり、韓医師になった後も鍼術を習いに通った晩竹先生の鍼術院でのできごとだ。その日は慶尚道地方から一人の韓薬業者が先生の鍼術を見学に来ていた。韓薬業者とは、1982年を最後に廃止された免許制度だが、無医村等で手近な医療施設として、韓方薬を出したり、不法ではあるが慣習的に簡単な鍼治療も施していた。鍼灸師制度は1962年に先に廃止されて、それ以降は韓医師のみが鍼治療をおこなえることになっていた。

 

今の私くらいの年輩だった彼は、「晩竹先生が陽谷穴の場所をやや陽池穴側に寄せて取穴するのはどんな理由があるものだろう。」と私に声をかけてきた。話によると、数年前にも一度訪ねてきたことがあったが、そのときに学んだ糖尿鍼が非常に効果があったとのことで、内庭、通谷、前谷を補い、陽谷、解鶏、小海を瀉することの原理について話を交した記憶がある。また脾正格と腎正格の糖尿患者の区分方について訊いたり、当時としては珍しかった董氏鍼の下三皇穴の話もした。

 

そんな彼が発つ前に、自身が最も頻繁に使うといって、ひとつの処方を紹介してくれた。参朮健脾湯から高麗人参を除き、香附子、木香、檳榔、當歸などが加わる処方だった。はじめは白扁豆を入れて胃炎や胃下垂など胃腸病の特効薬として使い始めたという。そのうち胃腸の活性化が万病を治療する根本であることに気づき、これに適当に加減をしながら多方面に使用するようになったという。

 

低血圧には人参を入れ、不眠には酸棗仁を、心悸には蓮子肉をいれるというふうにだ。裏急後重には黃連を加味し、便秘には郁李仁、肉蓯蓉を加味する。そうしたところ、治癒率が上がることを知り、今では全身の各所の痛症、手足痺、上熱(潮熱)症状はもちろん、頸強や耳鳴り、さらには爪の病気にいたるまで、ほぼすべての疾患に応用しているということだった。

 

私に韓医学的なひらめきをくださった金烏先生の言葉が思い浮かんだ。「韓医師ならば、方薬合編、東医宝鑑など数多くの処方を使ってみなければならないだろう。だが、韓医学とは何かを悟る頃になると、使う処方の数は数個に減るものだ。」という。

 

一生を鍼師として生きてこられた晩竹先生にしても、処方に悩み考え込んでいる私のところへやってきて、このようにおっしゃった。「そんなに緊急の病気でもないのに、なにをそんなに悩んでいるのか。男性なら六味地黄湯に、女性なら四物湯に平胃散を入れればいいではないか。男性は精力を良くしてお腹を楽にしてやればよし、女性は血液を補充して温め、巡りを良く、消化も良くしてやればいいことだろう。」 そして、「医師の真心を込めた、頼もしくあたたかい一言が大切だ。あなたには病症を治すためにもうひとつ、'鍼'という方法があるではないか。」と。

 

 

 

 

ただ一つの処方を問うLの禅問答のような問いかけの後、私は人間と韓医学の本質を突き止めようと常に努力した。以前のカルテと処方箋を引っ張り出してきて見直しながら、時間の流れと共に好む処方が変化したことを確認し、その変化の各過程で心酔していた何人かの医家たちが思い浮かんだ。そして、今の自分でもやはり同じ処方を出すか、と自らに訊ねた。

 

『傷寒論』と『金匱要略』のなかで張仲景先生が究極的に伝えようとすることが何かに気づき、臨床を通して確信にいたるころ、私はLに会いに釜山行きKTXに乗った。

海の近くの丘の上に位置するカフェでLが真っ先に口を開いた。「もし金元四大家のうちの一人である李東垣先生に、ご自身にとってのただひとつの処方を尋ねたら、何とお答えになるだろう。そもそもこれまでの自分の臨床の歴史は、東垣先生の理論を理解し実践する過程だった。」彼はあたかも芸能人の熱烈なファンのような熱心さで、李東垣の著書『脾胃論』と「補中益気湯」について滔々と語り始めた。

 

傷寒論における、外から侵入する外邪の強弱の問題から、脾胃論はその治療パラダイムを転換し、体の中の脾胃の元気がどれだけ充満しているかで人の生死や疾病の予後が決まるというのが、東垣先生の中心理論だ。

 

東垣先生は早くから内経を探求し、胃気が生を維持する根本だという点を明らかにした。体が弱くて脾胃の機能が虚に傾くことで疾病に振り回されると、そのときの症状があたかも強力な外感実症であるかのように、傷寒病のごとく脉洪大な発熱症状として現れることに気づいた。こんなときに熱を引かせるためといって冷たい性質の薬を使ってはたいへんなことになる。こうして東垣先生は、傷寒論の段階を越える処方といえる「補中益気湯」を作り出しました。

 

としたら、脾胃が虚になる根本的な原因は何でしょう。体を冷やしたから、また食事の規則性と節制が崩れて、など様々な原因があるでしょう。ここで、東垣先生が注目した根本的な原因が、まさに「七情の火」つまりストレスです。

 

黃芪、人参、白朮、甘草などで脾胃を補う処方は多い。補中益気湯は少量の柴胡と升麻が特徴だ。冷たい薬は通常からだの中で下に降りていくが、柴胡や升麻はその冷たい性質にもかかわらず、上に解けていきます。力を失った脾胃の機能を黃芪、人参、白朮、甘草で上に引き上げつつ、少量の柴胡と升麻が七情の欝火を解きほぐすと同時に、その冷たい性質をスムーズに上方に引き上げる。

 

さらに、東垣先生は『脾胃論』の最終部で、ストレスを減らすための二つの方法を提示した。現代にもよく考えてみる価値があると思われる。

1. 遠欲(欲を抑えよ)

2. 省言箴(言葉を省みる)

 

大学病院で婦人科を専門に診ていたLが突然故郷の釜山に戻り、こじんまりとした韓方医院を運営しながら、その間どのように補中益気湯との縁を繋いできたかについて、自身の臨床経験を熱心に語り続けた。

 

60代女性。いつも食欲がなく無気力。補中益気湯に山査、麦芽、白豆久、鹿茸を加味した。

70代男性。肩臂痛。補中益気湯に麦門冬、五味子を入れて柔らかく循環させながら、少量の黃柏で腎水を救け陰中の伏火を取り除き、紅花少々で心血を養したところ、たいへん効果があった。

小児のアレルギー性鼻炎。補中益気湯の季節加味方のなかの春方を使うが、柴胡を増量し川芎、防風、荊芥、蘇葉、薄荷を追加。

酒病。酒毒を解く。補中益気湯に半夏、白芍藥、黃芩、黃栢、葛根、川芎を加える。

麦門冬と五味子が柔らかく循環を促す加味方だとしたら、半夏と茯苓はやや強く循環をさせる作用がある。これ以外にも、ここに書ききれないほどのたくさんの臨床経験を聞いた。

歴代の医家のなかで補中益気湯をもっとも多く応用した明代の薛己が残した『内科摘要』を参考にしても良いだろう。

 

L院長は海辺のタワーマンションに住んでいる。広安大橋が目の前に飛込んでくる夜景は圧巻だ。私がうらやましがったことへの彼の反応がまた驚きだった。釜山で生まれ育った地元民にとって、海はいつもそこにあるもので、それが持つ価値について考えてみたこともなかったというのだ。高層階の窓から海を見下ろすことに格別な感興もかんじないのだそうだ。それもそうかもしれないと思った。海雲台の新築タワーマンションの値段はソウルをはじめとした外地の人がやってきて釣上げてしまったというのが彼の主張だ。

 

 

 

 

私にとってのただ一つの処方の話は、引き続いてソウルに戻るKTXの中で、車両のつなぎ部分に体をもたせかけた姿勢での通話を通して続いていった。『傷寒論』と「桂枝湯」がその中心だ。

 

まず、『傷寒論』からみよう。傷寒論は、六経体制で疾病を分類する。すなわち、太陽病、陽明病、少陽病、太陰病、少陰病、厥陰病だ。最初の病理体系で、もっとも基本的な方法で人体を区分したものだ。陰陽のふたつだけ分けて治療に臨むには、病気の変化が複雑すぎるため、それをもっと具体性をもって分けたのが傷寒六経体系だ。

 

急性か慢性的かなどで分けたマクロ的且つ至極単純な病理体系だ。傷寒論をみる目ができれば、どんなに複雑に見える病でもひとまず六経の観点で把握できる。つまりは病がどんな特性をもつか、どんな段階かをふまえ基本的な対処法を立てることができる。

 

病が傷寒六経の順序通りに進むというのは理論に過ぎない。臨床は理論と異なる。三陽病は表病で、三陰病は裏病だが、実際は陽明病や少陰病は臨床で診ることがほとんどない。患者が応急センターや集中治療室に行くからで、町の医院に行くことがないからだ。熱が酷く出て、痙攣までしている患者を小さな医院につれてくることはない。陽明病はそれほど危篤な熱病だ。少陰病は死にそうに横になっている状態だ(脉微細、但欲昧)。脈が絶えそうで、横たわったままずっと寝ているのだから、ひとりで医院に来ることもできない。

 

少陽病と厥陰病は複雑で、これは「慢性病」だ。三陽病の中で慢性病が少陽病となり、三陰病の中で慢性病が厥陰病になるのだ。少陽病はかならずしも陽明病を経て至るものではない。表病(太陽病)が酷い熱病(陽明病)を通過して慢性病(少陽病)に行き着くのではないということだ。大部分はそのまま慢性病に移る。特に、陰病を見てみよう。太陰病から、必ずしも死にそうな段階(少陰病)を経て厥陰病にいたるわけではない。虚弱な人は大部分、太陰病からそのまま慢性化して厥陰病になる。

 

太陽病、太陰病は、病の大多数に該当し、珍しくない病だ。表病の多くは太陽病で、裏病の大多数は太陰病だ。頭痛がする、腰が痛い、目が痛い等はみな太陽病だ。指が痛い、皮膚トラブルがあるなどもみな太陽病だ。太陰病は腹痛、嘔吐、泄瀉だ。基本的に三陰病(太陰病・少陰病・厥陰病)は差がない。部位も共通だ。お腹の中で起こる。病症は腹痛で、嘔吐や泄瀉はそれに続くものだ。太陰病はありふれた病だ。少陰病は提網に症状がないほどに人が死に行くことを表現したものだ。厥陰病は陰病裏病が慢性化したものだ。

 

傷寒論のもっとも中心となる処方は桂枝湯だ。桂枝湯はすべての処方の始祖であり、表証だけでなく裏証まで広範囲に治療することができる。実際に太陽病の主方であり、太陰病、厥陰病の主方でもある。臨床で頻繁に用いる傷寒処方の大部分が桂枝湯の変化型処方や合方だといえる。

 

辛くて温かい性質の桂枝と、酸っぱくて涼しい性質の芍薬が、各々反対の方向に柔らかく発散と収斂をさせながら、外から侵入した外邪を追い出し、力を失っていた体内の抵抗力を蘇らせる。また、桂枝と芍薬は、反対の作用をしながらも、ともに甘味を持ち、補う力がある。このように、精気を盛んにし邪気を追い出す原点であり、理想の処方が桂枝湯だ。甘草、生薑、大棗は症状を緩和させ、栄衛を調節する役割をする。一方で、もっとも重要なポイントは脾胃を補う役割だ。傷寒論で正気または元気を保存し育てる核心は、脾胃にある。

 

桂枝湯は太陽病、太陰病、厥陰病で主軸となる処方で、さらに少陽病処方のなかで頻繁に使用される柴胡桂枝湯でも重要な役割をする。要するに桂枝湯は、急証である陽明病と少陰病を除き、緩慢だったり慢性化した病症を治すことができる処方だ。桂枝と芍薬の比率を調節しながら、気分・血分の虚証によって黃芪、當歸、人蔘、膠飴などを加味し、ここへ白朮、茯苓、附子、乾薑、細辛、五味子、龍骨、牡蠣、生地黃、麥門冬、吳茱萸、麻黃、石膏、半夏、大黃等々を自由に加減することができれば、桂枝湯ひとつで万病を治すことができるだろう。

 

実際に臨床では、表裏をともどもに温めて順行させる桂枝湯に、脾胃を直接潤補する膠飴が追加される小健中湯をよく使うが、『金匱要略』でもっとも重要な「虚労門」に、代表的な補法処方として搭載されている。これにより、もともと慢性病治療が得意な韓方治療の長所が最大限発揮される。芍薬と桂枝の比率を固定せずに患者の自律神経の状態をみて変化させる妙味があり、黃芪や當歸を気血にあわせて追加する。それ以外にも人蔘、白朮、玉竹などを入れるなど応用する。

 

実際に私は桂枝湯を小健中湯のように芍薬と桂枝の比率を調節し、黃芪と當歸を気血に合わせた分量で入れて使う。デリケートで気を使うことが多い人には龍眼肉、茯神、遠志、酸棗仁を加味し、小中高校生や受験生には酸棗仁の代わりに石菖蒲を入れる。神経が極めて繊細な人には竹茹、梔子、黃連の中から、消化不良の人には山査、神曲、麥芽、砂仁、白豆久の中から、通気のためには木香、枳殼の中から適切に加味して処方する。四物湯を合わせればかの有名な双和湯になる。

 

KTXがソウルに到着するころに私の話もおわった。時間が流れて我々はまた違う考えを持つようになるかも知れないが、いずれにせよ人間と韓医学をつなぐ洞察の時間は続いていくことだろう。

 

今度は私がお尋ねしよう。東洋医学を学び、生業とするみなさんにとって、ただ一つの処方は何ですか。

 

 

追記1;韓国韓医学の『東醫壽世保元』の’四象医学’に関するK院長の興味津々な話は、次の機会またさせていただければと思います。

追記2;慣れきった習慣と深いマンネリズムから抜け出すために、'椿漢方クリニック'を整理することに決めました。長い間使わずにいて凝り固まってしまった思考と筋肉を目覚めさせる、新しい方式を探しに行くときが来たと感じました。

 

がんに関する小考

 

 東洋医学の原典である『内経』に、疾病の4段階についての説明があります。

   心動→気欝→瘀血→積聚(=癌)

ストレスが発生するとまずはじめに心の動揺が起こります。(心動)

これが気の欝滞を引き起こし(良く流れていた気がつかえて塞がってしまうこと)、

そうするとその次には血が濁ってもつれ合います。(瘀血)

瘀血とはある種の'死んだ血'のことになりますが、「百病必瘀」といって、すべての病は瘀血から起こるという理論があります。

『内経』のなかで皇帝は'百病生於気'、つまり一足早く'気'の段階で病を静めることを論じています。

ただし、通常ですと瘀血の段階になってはじめて目に見える治療が可能になります。

また、瘀血段階になってもなお長期に放置すると、塊ができ始めます。「久瘀成塊」

塊が体の中で勢力を形成したものが積聚です。

その昔人々は癌を積聚と呼びました。

もり、集まり()、塊となったものが積聚であるなら、塊が三つ集まって''となり、それが''になってできる'やまい 'が""ということです。

 

 心→気→血→病の順で説明する疾病の4段階理論は、エネルギー→気体→液体→固体という4段階の進行に言い換えられます。

心気はエネルギーであり血病は物質です。

エネルギーが清く澄んでいれば物質もエネルギーにしたがって清く澄みます。

エネルギーが濁って汚れていれば物質も濁り汚れます。

エネルギーが物質を左右するのです。

つまり、エネルギーを充満させればすべての病気を退けることができます。

反対にエネルギーが虚弱であれば、いつでも病の取り入る隙があるのです。

 

 

がんの正体

 

現代の医学では通常、人体にできたガンの塊を発見するのはそのサイズが直径10㎜ほどになったときです。

ときには5㎜程度で発見することもあるでしょうが、運が良ければのことです。

一つのガン細胞が直径10㎜の腫瘍になるまでにかかる時間は何と約10年といわれています。

本当に長い歳月です。

ガンは、いったん発見されたとなれば少なくとも10年ものの慢性疾患ということです。

'初期ガン'という単語のはらむ矛盾!

直径10㎜の腫瘍は1臆個のガン細胞が集まってできています。

1個のガン細胞が10臆個に膨らむのに必要な細胞分裂の回数は約30回です。

nを分裂回数としたときに、細胞は(2のn乗)個に増えるのですが、2の30乗がすなわち10臆個です。

10億個になるとその次からは手の施しようもなく幾何級数的な増え方をします。

たった1年のあいだに、3回の細胞分裂で直径が二倍の20㎜、細胞の数は80臆個に膨れ上がります。

 

ガンの塊が直径20㎜を超えると危険とされています。

したがって通常20㎜以下を'初期ガン'と呼び、"ガンは初期に発見すれば克服できる"といって、摘出手術や抗癌剤で対抗します。

ところがしばしば、「ガンは治ったけど患者が逝ってしまった」という荒唐な結果が起こってしまいます。

毒性がたいへん強い抗癌剤に、患者が耐えられなかったためです。

放射線治療にしても、原子爆弾が爆発するときに起こる放射能を浴びるのと同じことです。

果たして生命が無傷でいられるでしょうか?

 

『内経』にある言葉を引用してみます。

善治者 治皮毛    もっとも優れた治療を行う者は、病がごく浅いうちに治す

其次 治肌肉     其の次は肌肉の時点で治し

其次 治筋脉     其の次は筋肉と血脉の時点で治し 

其次 治六腑     其の次は六腑にて治し

其次 治五臓     其の次は五臓にて治す

治五臓者 半生半死  五臓に至って治療する場合は、半分は生き残り半分は死す

 

病は深く入り込む前に治療すべきことをいっています。

ガンができるというのは、病がすでに五臓六腑を占領したことを意味します。

ここで我々韓医学の精気神論をみると、「精充、気壮、神旺」という表現を用いて人体の免疫力の強化について説明しています。

免疫力を養うことが、ガン治療の核心ということです。

免疫力を強化するとガンは自然消滅し「養正則積自除」、

免疫力が弱くなるとガンは自然とまとわりついて来るということです。

 

 

がんの治療法

 

'水升火降'とは、人体内部での気の昇り降りを指します。

下から上に水の気運が昇り、上にある火の気運を下に降ろすのが正常な流れです。

そうしたときに体は正三角形の模様で安定します。

ところが多くの人はその反対で、体の中の気が中央~上方向にばかり沸き上がって逆三角形の不安定な状態になっています。

下にある水気運(腎臓の管轄)が上に上がれず底にたまり、上にある火気運(心臓の領域)が下へ降りず上にばかり上昇しています。

上下が不通になると心身は不安定になります。建物のエレベーターが故障して動かなくなっているのと同じ状況です。

 

乗降機の故障原因は私たちの体の中の丹田(へそ下4.5㎝の関元穴)にあります。

気運を下に下げなければなりません。丹田に気運を集めるのです。

そうして丹田がちゃんと稼働すると、自然と気の乗降運動'水升火降'がなされます。

「丹」は生命エネルギーを意味し、田は田畑です。つまり丹田とは、生命エネルギーが育つ田畑という意味です。

また丹田は私たちの身体の中でもっともがんとの関わりが深い場所です。

がんとはとどのつまり体温の問題だという前提で、体温を上下させるのが丹田だからです。

したがって丹田が生きていればがんにかかりにくくなります。

 

『東医宝鑑』で丹田は玉炉と呼ばれます。玉でできた火炉です。

この丹田という火炉の火が消えずに稼働している人は、免疫力が最高潮に達しあらゆる病疫を遠ざけるとされます。

丹田が絶えず沸いていると、瘀血と積聚が溶け、がんも溶解してなくなります。

すべてのがん患者の特徴は、丹田が冷えていることです。

 

腹を立てたりストレスを受けたりすると、体温が上がるのではなく下がります。

怒っている間は体温が一時的に上がるように感じられますが、すぐにガクンと下がります。

怒りの熱は中から生成されてじわじわ染みてくる熱エネルギーではなく、体外へと消耗される火だからです。

顔が頻繁に火照る人の丹田はいつも冷えきっています。

過度なストレスのせいで胸部が熱っぽい人ほど下腹部の温度は冷めています。

ガン細胞は35℃でもっとも増殖が盛んで、39℃で死滅すると言われています。

臍下丹田の体温1℃がこんなにも重要なのです。

 

周囲をみるとがんにかからない二つが見つかります。

人の中では知的障害者で、人体の中では心臓です。

知的障害はそれ自体はたいへん残念な障害ですが、当人は社会との交流が希薄な自閉的状態であるがゆえにストレスを感じません。

ストレスから自由だという点が核心です。

心臓がんもありません。

理由は心臓が体の中で一番熱いからです。

この二つのケースから、自ずと結論が導き出せます。

がんにかからないようにするには、まずはストレスを避け、ふたつ目には体温をあげることです。

 

 

 

健康がテーマの雑誌『壮快』に取材協力させていただきました。

9月号のハチミツ水関連記事です。(38~39ページ)

実は『壮快』さんとのご縁は今回が初めてではなく、以前、2016年の11月号「ゆで野菜ジュース』特集でもご相談をいただきました。

コロナで旅行者の往来が途絶えたこの時期にも、こうして電話やメールなどの取材を通して記事作りに参加させていただけたことに感謝したいと思います。

いずれにしても自分は、複数の人々の死というものに直接的・間接的に関与するという、医療従事者としての宿命に適応し、馴れつつあることを感じている。

 右矢印右矢印右矢印動画へリンク

 

一種の告白

 

                                     イ ヨンフン

 

恋はいつでも

思い通りにままならず

こころはまたいつも言葉のようには

簡単でなかった頃

 

ぼくはときどき

たとえば季節なんかに酔いしれて

自分に嘘をついて

刹那的に真実のようなことばで

愛してると愛してると

ぼくがあなたを

 

またある時には

誰でも構わないから

ぼくのことを抱きしめてほしいと

消えてなくなることばでいいから

愛してるとぼくのことを愛してると

お互いのなるこころはまた々にすだろうから

 

こころはいつも言葉のようには

簡単でなかった頃 

 

 

「栗園の前に栗園はおらず、栗園の後に栗園はおらず」

失数道明(1905~2002)先生はこういって栗園の学識の高さを賞賛した。江戸時代から明治維新を経て漢方医制度が消滅の路をたどり始める直前、江戸幕府最後の侍医として、栗園は日本の皇漢医学の巨匠であった。古方(傷寒方)を主とするが後世方も併用したため折衷派と呼ばれる。実際に栗園の代表的な方剤学著書『勿誤薬室方函口訣』を見ると、傷寒・金匱方に劣らず後世方の説明もかなりを占める。栗園は号で、浅田宗伯(1815~1894)先生のことである。

 

宗伯先生が前代13人の医家達の記録の中から、重要な部分を抜粋して臨床の要訣を記述したのが『先哲医話』だ。題目のとおり、先学の錚錚たる医家(先哲)のエピソード(医話)を集めて編纂した本である。多くの資料のなかから,その当時宗伯先生の目に必須と映った医学内容だけを集めて総集編にした本だけに、先生の漢方を望む視角を伺い知ることができる。もちろん江戸時代に発症率が高かった梅毒に関する話や、水銀を使用する処置方、あるいは(その時代外科手術ができなかったため)腹腔内の腫瘍を治療するための極めて強い(毒性も併せ持つ)薬などの内容については、現代において大きな意味を持たないだろう。しかし、それ以外のところでは臨床に参考できる要領が比較的細やかに記されている。

 

「患者がきたらまずその目から診よ。」

こんな言葉を私は他のどの医書でも見かけたことがない。先哲医話は、病症の解説、処方の解説、一般医論を軸とし、師匠が弟子に語り教えるかのような徒弟的な説明が合間合間に織り込まれて、実用的な医術書になっているのが特徴だ。一般的に中国や韓国の書籍は線が太いというか、厳粛でかたいイメージ、若干の不親切さを持つとしたら、日本の書物は特有の細やかで念入りな丁寧さがある。日本の国民性が医書にも反映されているようだ。

日本における漢方医学というと、所謂古方派を思い浮かべることが多いが、実際には中国や韓国に匹敵する伝統と継承が有ったことをこの本が示している。また13人の名医たちの理法と方剤に関する大枠は漢方の後学にとってたい有益で、すばらしい指南書といえる。私が見つけられなかっただけかも知れないが(そうであることを望む)、現代日本語に訳された『先哲医話』を日本の書店で求められなかった。そこで、本のなかから興味深い医話をいくつかご紹介したいと思う。

 

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病を治療するにあたっての要点は本を治めることである。鼻が痛いからと鼻だけを治療し、耳が遠いというので耳だけを治療するのは、根本を差し置いて末端に齧り付く態度だ。医師は病を成す理由を知り、これを治めなければならない。ある老医師が私に起死回生の秘法を尋ねた。答えは「あらたかな秘法などはない。ただひたすら本を求めるのみ。それ以外に言うべきことはない。」というものだった。

 

 

用薬には活変がもっとも重要だ。ある処方が脱肛を治し、またある薬は下血を止める、といった 機械的な当てはめをするのは活変を知らないからだ。ひとつの処方で万病を治し、万病にはひとつの処方に加減することで対処すること。これが活変だ。

 

 

医師の中には上手と下手がいる。目に見える病状だけを治しにかかって、強くて速い処方をもって効果を得ようとするのは下手のすることである。症状の中の病機を探り、穏やかな薬で自然と治癒を促すことは、一見回り道をするようであっても実は近道となる。これは賢明な者のとる方法であって、愚かな者にはできないことである。

 

 

60歳近い老人が(この時代は60歳も老人でした)中風になった。医師にかかって治療を受けたが治らないので訪ねてきたという。診察の結果私はこう告げた。「急いで治りたがれば3年後にかならず再発するだろう。そのときには治す術はない。もし急がずに治していけるのであればこれより15、6年は生きて天寿を全うするだろう。どちらを選ぶか決めなさい。」患者はこう答えた。「長い命を生きてなんの意味があるでしょう。わたくしの望みは、速く治すことです。」そこで異攻散加烏薬、白芷、青皮を50貼(25日分)出したところ、すっかりよくなった。ところが3年後にはたして予測どおりになった。弟子が私に緩治の処方を尋ねたので、私は"十全大補湯加減"と答えた。

 

 

ある医師が、診察をたいへんおおさっぱにしている様子なので、その理由を尋ねたところ、このように答えた。「診察をあまり細かにすると本質を見抜くことからかえって遠ざかる。望診の妙手は目撃之間(極めて短い時間)にある。例えていうなら、死刑台に向かう罪人は、肉体的に強靭だとしても、恐怖に怯え憔悴した心がそのまま瞳に現れている。ところが続けざまに見ていると、鮮明に見えていた姿(瞳の恐怖心や憔悴)が見えにくくなり、やがて消え去ってしまう。

 

 

江州のある者が虚飢不食で息も絶え絶えの様となり、慌てて林氏医員の往診を請うた。医員は診察を終えて、「血脈が衰弱して糸一筋で命を取り留めている。生きる可能性は1万分の1。」とし、投薬はたったの人参一分(0.4g)と龍眼肉一粒のみだった。周りの者たちはみな切羽詰ってじれったがるが、医員には何も言えず地団駄を踏むばかりである。翌朝になって再び往診し、医員はこう告げた。「症状は以前と変わらないが、毛穴が締まって肌が少し潤っている。これは脾と肺が回復している兆しだ。助かるかもしれない。」こうして人参と龍眼肉の量を少しずつ増やしていき、ついには病は治り九死に一生を得たのであった。北山友松がこの話を聞いて、感嘆して次のように語った。「極めて虚している者にたくさんの補薬を投与するのは、あたかも消えかかっている灯火に一度に油を注ぎ込むようなものだ。どうやって持ちこたえるというのだ。林氏は補法の核心を突き詰めたお方だ。」

 

 

土佐翁が西山で隠居生活を送っているところへ、ある日京都商人の患者がやって来て、癰疽(たちの悪い腫れ物)ができたという。これに対し土佐翁は1日に人参五匁を食すように命じた。五日後に再び診察を経て言うことには、「人参の効果が表れないとすると、不治の病かもしれない。」そのときになって患者の家族は事実を正直に告白するのだった「実のところ人参を1日に二匁五分だけ食べさせました。」これを聞いた翁は次のように伝えた。「なぜ生命を軽んじ財物を重視したのだ。生きたいのだったら、今日は五匁、明日は六匁、あさっては七匁を食べさせなさい。その後もどんどん増やしていくのです。」商人が言われたとおりにすると、果たして七日ぶりに病は治ったのだった。北山友松はこの逸話を聞いて「人参の活用を正確に理解し、補法で癰疽を治す托裏の要訣をご存知の方だ。」と語ったという。

 

 

浮腫みがある人が、急に大汗が出たり、泄瀉をしたり、あるいは浮腫みが急激に取れたりするときは、たいへん危険な予後が心配される場合で、多くは4~5日後に亡くなることになる。または医師が数回にわたり下法を用いてからも、まだ足りないと再び大きく下痢を起こさせると、突然にして浮腫みがなくなるとともに急死することがある。総じて浮腫みの治療法を例えるなら、泥水をなみなみと溜めた甕を傾けることと同じだ。突然傾けると、甕底の泥はそのままに水だけが流れ出る。かき混ぜながらゆっくり傾けると、泥が水といっしょに流れ出る。したがって汗法と下法の要訣は、緩慢に行うことである。仮に急いで行うと、症状は解消しても患者の体は潰れてしまう。これは必ず注意すべき点だ。

 

 

60代の患者が、食べ物がのどを通らず痩せ細り、骨と皮ばかりになった。はじめは食傷で病が起こったのだが、複数の医師が香砂六君子湯、七味白朮散の類の薬で治療を試みて効果がなかった。北山友松が異効散加当帰を三十貼(15日分)投与したところ、完治した。またある女性が、穀物を一切食べようとせずそれ以外のものばかり食べたがるのだが、どんな薬も効き目がなかった。この女性に四物湯加人参、白朮、橘皮を飲ませたところ、治った。弟子がその処方の理由を訊くと、師の北山は次のように答えたのであった。「脾胃の血液が虚していると枯燥して食べられなくなる。当帰は味が甘く脾胃の血を益するので、進食之剤になり得るのだ。」…「内経によると、‘手得血而能攝, 足得血而能步, 肝得血而能視’という。私はこれに、‘胃得血而能食’の一句を付け加えるべきだと考える。」

 

 

ある男の喘息を治療したことがあるのだが、夏になると必ず喘息の発作を起こし、冬になると自然に治るケースだった。その他の喘息患者とは様子が異なり、小青龍湯を投与しても効き目がまったく現れなかった。そこで香薷合六一散を飲ませると、たちまちのうちに回復した。暑病に効く薬をもって喘息を治したのは、その喘息が暑病が原因で起こったためである。このように病を治すに当たっては必ず本を求めることが必要だ。

 

 

18歳の妊産婦が臨月になり、羊水の嵩がどんどん増えてきて、全身、特に下半身の浮腫みが酷い。口舌はそこらじゅうただれて塩気を食べることができず、一日に薄い粥を一、二杯しか食べられない。小便は赤渋し大便は1日おきだった。脈は滑数で有力だった。医師は胃虚によって水分調節ができない状態と診断し、人参、白朮などの薬を用いたが、かえって病勢が悪化して私のところへやってきた。私の診断は次のとおりだった。「羊水は湿熱を帯びている。この病症は胃虚ではない。」こうして猪苓湯加車前子、黄連、梔子を投与した。総じて車前子は小便を利するだけでなく、妊娠中使用するに適している。5,6日服用したところ小便が次第にすっきりと出始め、浮腫みも少しずつ解消した。口舌もただれが癒えて食べ物を以前どおり食べられるようになった。そこで紫蘇和気飲加白朮、 黃芩に処方を変えてお産前まで服用させたところ、無事出産し母子ともに健康だった。

 

2019年9月8日、日曜日に、登録販売者試験を東京で受けてきた。

前日の土曜日の午前まで診療をしてから、急いで金浦空港に向かったのだが、何と台風による強風のため欠航。たいへんだ!

試験勉強にここ数ヶ月を費やし、各種教材、ネット講義などを駆使して頑張ってきたことを思うと、残念でならない。

あきらめて帰宅する気にもなれず、混雑を極めるカウンターで尋ねてみたところ、最終便に座席が有るという。スタッフの、「今日いっぱいは無理そうですよ(ほぼ前便欠航の意味)。」とのコメントを聞き流し、粘ってみる事にした。

幸なことに台風は速度を早めて北朝鮮方向に北上し、風は少しずつ凪いでくるようだった。

 

日曜日の朝9時を過ぎると、電車の到着ともに人々が群れとなって試験場に吸い込まれていった。受験者の性別、年齢、背景はばらばらだった。だいたいは医療関係の仕事に従事していたり、関心を持つ人たちだろうと考えた。自分もいつか日本で暮すことになったときに、少なくとも漢方薬局等でアドバイザーのような仕事に合法的なかたちで就けるようにと、準備を進めてきた受験だった。

 

私が試験を受けた教室の中には、かなりの年輩と見受けられる受験者も目についた。この方たちの人生にはどんな事情やストーリーがあるのだろう? 顔の中央に高い鼻が際立っている隣席の女性は、ずっと目を閉じて自身の脈を診ている。きっと漢方に造詣が深いか、関心が高い方なんだろうと想像できた。

試験監督官は、1秒のずれもなく決められた時間に沿って、決められた言葉を機械のように発した。これを見て私は日本の駅員のお決まりの所作、手合図を連想した。この場所が、システムがスイスの精密時計のように正確に作動する日本なのだという感慨があらためて呼び起こされた。

 

通常は国家試験というものは、正常に社会を維持させるために一定数以上の合格者を輩出するよう実施されることも多いのだが、この登録販売者試験に限っては、受験資格条件が無いからか、資格保有者を積極的に選分けて、簡単には通過させないようにする意図が見えかくれしている。適当に勉強したとこで、即不合格になるよう問題を作成した痕跡があちこちに残っている。合格率を調節するための出題者の苦悩が伝わってくる。逆にいうと、知識を十分に備えた者ならば決して落ちはしない構造にもなっているというのが、試験に対する私の総合意見である。

 

歳を取ってから試験を受けるのはたいへんではあったけれど、大きな達成感を得られた。漢方の専門医として、西洋薬の成分や作用、特徴に関して体系的な知識を持たねばという気持がもともとあって、一般用医薬品という限定付きであっても勉強を し直すことができた点で、試験が願ってもない契機になったと思う。

 

試験を終えてから新橋に向かうゆりかもめから見下ろすお台場の景色はことのほか美しく感じられた。

 

70回日本東洋医学学術総会が、628日から30日までの三日間、東京にて開催された。しばらくぶりの東京で気晴らしがてら、また、現在日本で漢方がどのあたり位置に、どのような姿で根付いているのかも気になるところで、参加を決定した。

 

結論から言うと、驚きと羨望それ自体だった。

第一に、規模の膨大さ。学術総会は緻密に計画、運営されていた。会場には参加者があふれかえり、一人ひとりの瞳は漢方への情熱で輝いていた。各セミナー室で行われる殆どすべての講座が、早目に行って座席を確保しない限り、後方で立ち見をする羽目になるほどであった。

一般演題に関するポスターの数も、自分の目を疑うほどの量だった。元来、ことの大小を問わずことごとく記録を残すという日本人の特性が、ここでも如実に発揮されているようだった。

学術総会で出会った北里大学病院漢方診療部の川鍋先生が、漢方を学び、診察し、処方する医師の数の増加傾向はもちろんのこと、大学の医学部においても漢方科目の単位数がかなり増えていると説明してくださった。

東洋的な思惟様式上に東洋医学を学ぶ韓方医師にとって疑いの余地のない概念のうちのいくつかは、西洋医学体系で鍛錬された脳を持つ人達にとっては、前提についての説明が必要なこともあることに気づかされた。特に望診について語るときがあてはまり、また患者個人個人の固体性、つまり陰人と陽人の体質について話すときや、生薬の気味について話すときなどもそのような印象を受けた。

 

今回の学会では、鍼灸治療を積極的に漢方治療の軸に入れる点において認識が広がるなど、全体的に外形を拡張することに成功している様相が見てとれた。反面、深度という面での若干の物足りなさを感じた。

 

囲碁に没頭し、たゆみなく研究すると、読み筋に明るくなるように、好ましい漢方インフラの中においては、数は多くなくとも、正しく漢方の本質を理解する層が現れ、彼らにより日本の漢方界が新しく花開くことになると確信した。既にいくつかの流派があり、日本の東洋医学の全体的なレベルが向上しているということは、数年前にソウルで出会った吉冨先生が特有の直な語り口で話を聞かせてくださっていた。

 

七物降下湯を舌痛治療にも、認知症にも適用するという川鍋先生の処方に対する理解度は、単なる頭の良さの結果ではない。漢方治療に向かう彼の情熱と持論は、読み筋に極めて明るい棋士が碁を打つ姿に重なる。

 

数年後の日本東洋医学学術総会が今から楽しみになっている。

 

 

1

私が崔貴鎬先輩にはじめて出会ったのは、大学を卒業して、地下鉄ソウル大入口駅近くの韓医院に勤務し始めて間もない頃でした。

冠岳区の韓医師会の会合があるというので初めて参加してみたところ、大学の後輩が入ってきたと喜んで迎えてくれたのが崔貴鎬先輩で、この時の歓迎ぶりと人の良さそうな印象は強く記憶に残っています。

先輩は先天的な身体障碍のため脊椎が曲がるいわゆる「せむし」で、身長も小学生ほどしかありません。

しかし、凡庸でない堂々とした身ぶりや眼光からは、カリスマ的な牽引力が感じられました。

当時崔先輩は「三和堂韓医院」の代表院長で、二人の同期韓医師とともに、三人の特技を活かした共同診療を成功させていたことで、たくさんの後輩たちが注目し、憧れていました。

 

「そうか、安君といったね。臨床経験は積んでいるかね?」

ビアジョッキをカチンとぶつけながら、先輩が前おきなく質問をしてきます。

私は頭を掻いてこう答えるしかありませんでした。

「はぁ、臨床の方はまだまだです。」

「ははは‥。それはそうだろう。今度時間をつくって、白衣を持って私の医院に出勤してみるといい。そうそう。木曜日は大学院に通うといっていたね。その日の空いた時間に来るといい。大学院よりも学ぶことがたくさんあるはずだ。」

なぜこれほど良くしてくれるのか理由はわからないまま、先輩が私を一目で気に入り可愛がってくれていることが伝わってきました。

 

2

その後ずいぶん経ってからこのときのことを尋ねたところ、先輩は、卒業してまだ日の浅い青二才が脉診について話す気概が気にいったと教えてくれました。

私の方には全く覚えがないのですが‥。

こうして私は先輩にいわれるまま、大学院と仕事の合間を縫って白衣を携え、実際に三和堂韓医院に出勤するようになりました。

医院内はたいへん広く、開放的な間取りが印象的でした。

崔院長は診察と韓方薬の処方をすべて受け持ち、漢院長は鍼灸治療や薬鍼を担当。

もう一人の院長の金院長はカイロプラクティックや矯正担当と、分業化されて診療が行われるシステムがうまく機能し、終日患者が押しよせる人気医院でした。

私は崔院長の部屋に席を取り、先輩の診察を終始拝聴し、時にはいっしょに患者の脈をとってみることもありました。

先輩が処方せんを書けば、患者を思い起こしながら、その処方が選択された理由と原理についてじっくり考え、理解できないことは先輩に教えを請いました。

学校という場ではいくら時間を費やしても学び得ない、実戦臨床のエッセンスを、ここでは余すことなく吸収することができました。

 

3

時々は先輩が質問を投げ掛けてきました。

「安院長だったら、この患者にどんな処方を出すだろう?」

「そうですね‥。この頭痛患者には、清上蠲痛湯に二陳湯を合わせて使うと良さそうですが。」

「そう考えたか。私の所見では、胃腸の機能を考慮して補中益気湯に川芎/荊芥/防風程度を加味した無難な処方に仕上げたいところだが。」

と、このような具合いだった。

 

「この患者の胃腸病にはどんな処方でいくといいだろう?」

「平胃散に二陳湯をかけ合わせたところへ加味をした平陳健脾湯が適当だと思われますが。」

「悪くないね。ただ自分だったら、食後倒飽症から脾虚と考えて、香砂六君子湯がもっとふさわしいと考えるね。」

 

囲碁をうつときに、「第一感」というのがあります。

一番最初に、直感的に思い浮かぶ巧い一手のことをいうのですが、いってみれば韓方診断の「第一感」を、このころ崔先輩から学んでいたように思います。

 

診療時間が終わると、毎回のように夕食と酒を共にしてからの帰宅となりました。

居酒屋に場を移しても昼間の延長で、私たちはさらにたくさんの対話を交わしました。

「韓医師は画家と似ている。同じ対象(患者)を見て描いて(診察して)も、考え方と表現方法の違いによって絵(処方)は大きく変わってくる。」

自分達は今どんな画法で描いているのか、たとえば中国のどの画家を理想とするのか。

また、同じ十全大補湯を使うにしても、ピカソが描く十全大補湯と、美大生が描く十全大補湯は、遠目には同じに見えたとしても、内面の意識の流れと深み、"格"が違うはずだ、と。

私たちは尽きること無く語り合いました。

 

4

あるときは私がこんな質問をしてみました。

「先輩はいつも『無難に』を口癖のようにいっておいでですが、個人的には、重要な瞬間には多少果敢な選択も必要ではないかと思います。」

先輩の答えはこうでした。

「神でないのだから、すべての病を治すことはできないということを、自分自身がよくわかっている。だから、ある患者が自分のところへやってきて、治らずにほかの医師を訪ねていくまでに、少なくとも'もっと悪くなっている'ことが無いように、という考えを捨てられない。」

このように、肩の力を抜いて診療することも、先輩から学んだことのうちのひとつです。

この頃の私は大学院の修士課程に籍を置いていたため、軍入隊を二年間延ばしている状況でした。

その二年も先輩との交流や初めての社会経験でアッという間に過ぎていき、いよいよ入隊ということなって、三年勤務の軍医官よりは18ヶ月間の勤務で済む公益勤務要員を選び、軍役を果たすべく故郷の清州に戻ることとなりました。

こうして先輩との交流は一時休止を迎えます。

 

5

清州へ向かう前の最後の挨拶に訪ねたところ、先輩は私に大きな紙袋を用意して待っていました。

「安君、これは私が録音保存した小涯・孟華燮先生の"方薬指針"講義録だ。時間を見つけて聞いてみるといい。」

今ではもう見かけることのなくなったカセットテープに、講義内容を残さず録音してためたもので、100個以上の大量のテープが紙袋にぎっしり詰まっていました。

 

公益勤務要員として清州地方検察庁に配置され、18ヶ月間勤務する間、私はこの録音テープを何度も繰り返して聞きました。

毎日の公益勤務が終わった夜間には、同期が開院した韓医院で夜間診察を2時間受け持ち、診察の合間をみてはテープの講義内容をノートに整理していきました。

元々自分で書き蓄えていた整理ノートにこの講義録記録を加えると、400ページを越える分量になりました。

私はノートを製本し、題目に『方意心悟(処方の意味を心で悟る、の意)』とやや大仰な命名をしました。

『方意心悟』の前書には、序論に変えて次の言葉を掲げました。

 

道をいていく途中にふと振り返ってみた。

短い臨床経験と日の方知識に過ぎないけれども、

思考の整理が進を生むとすれば、

より良い明日に向けた希望となる。

貴鎬先輩に頭を垂れる。

 丁丑夏 安珍永

 

こうして崔先輩との縁は本を通して強固になっていきました。

 

公益勤務期間を終えた1998年2月に、清州にて興徳韓方医院を開業して、私は韓方医としての独り立ちを遂げました。

開業後にも、ときに症状が複雑で処方が難しい患者に迷わされるときには、先輩に電話して考えを請うのが常でした。

 

6

時は流れ、私は日本という未知の世界に惹かれて韓国を発ち、また戻ってきたときに、今度はソウルの地に"冬栢(椿)韓医院"を開業しました。

こうして本当に久しぶりに、先輩と杯を交わすこととなりました。

歳月は三和堂韓医院にも変化をもたらしていました。

鍼灸の漢院長は不慮の事故で世を去り、矯正の金院長までもが独立して去っていき、広い韓医院は崔先輩が一人で守っていました。


 

先輩は以前に増して頻繁に酒を口にするようになっていた反面、酒そのものには弱くなっていました。

それでも先輩の学問に対する情熱の強さは以前のままで、というよりもむしろ、衒学的な色合いを帯び始めていました。

あたかも、自身の身体的コンプレックスを膨大な知識という楯で覆い被せようとするかのように。

「先輩。私はこのごろ、使う処方の数を減らしているんですよ。たとえば、虚症に対しては使う処方を数種類に集約させておいて、その元方を元に体質別に応用していくんです。」

酔った先輩は穏やかでない口調でこう返してきました。

「処方の数を増やしてもまだまだ足りないほどだというのに、減らすとはなにごとだ!! 死ぬまで勉強しても全部は見つけ出せないのが処方というものだ。」

私たちはこの時すでに、類の異なる画家になっていたのです。

 

7

医学に向かう姿勢に違和感はあっても、先輩とは季節が変わるごとに安否を尋ねあい、ときには会いに行って酒を共にする関係が続きました。

少し前のことになりますが、先輩が親しくしているという業者の紹介を受けて、それならばと取引してみたところ、ずいぶんとがっかりさせられる結果となり、私はそんな業者を取り次いだ先輩を恨みがましく思うようになりました。

そんなさなかに、先輩からSNSが届きました。

「安君、最近どうしてる? 時間があったら会わないか? 酒でも飲みながら。」

「先輩。実はこのところちょっと忙しくしていて‥。落ち着いた頃にまたこちらから連絡して遊びに行きます。」

私は先輩に対する屈折した気持をこのように回りくどい方法で表現していました。

 

こちらから連絡をせずにいると、一月ほどしてまたSNSが到着しました。

深紅の椿の写真を添えた、『冬栢(椿)』という題の詩一編がその内容でした。

「君の韓医院の名前と同じだね。」と前置きして。

 

冬柏


(19111992)


 

백설이 눈부신

雪の純白が眩しい


 

하늘 모서리

荒涼とした空の片隅に


 

다홍으로

深紅に


 

불이 붙는다.

火が点る。


 

차가울사록

冷えきるほどに


 

사모치는 정화

深く染み入る情火 


 

뉘를 사모하여

誰を思い慕って


 

깊은 겨울에 애태워 피는가.

この深い冬に憔慮の花をかせるか 

 

 

私は「いい詩ですね」と誠意のない短い返答をしただけでした。

 

 

8

一月ほど前の出勤途中に、私は自分の目を疑うメッセージを発見しました。

先輩の訃報です。

急性心筋梗塞で昨晩亡くなったという内容でした。

車を葬儀場にひた走らせながら、止めどない涙が流れ視界を滲ませました。

こんなふうに行ってしまうのなら、なぜ自分は愚かな態度をとってしまったのか。

心が重かった。

先輩と共にした過ぎ去った日々は20年を越え、その歳月が走馬灯のように次々と頭を掠めていきました。




先輩の診察室のフォトフレームの中で朗らかに笑っていた幼い男の子が、いつのまにか長身の青年となり、喪主を務めていました。

葬儀は生き残った者たちが親睦を確認する場とさえ考えていた私ですが、それが間違いだとこの日気づきました。

私は長いあいだ隅の席にじっと座ったまま、うなだれ、画面の消えた携帯電話の液晶を虚ろに眺めていました。

 

先輩は自身の死を予見していたのだろうか。

先輩のSNS自己紹介コメントが、「陽は西山に沈むが、赤い夕日は美しいもの‥」となっていました。

そして私宛に、もう一篇の詩と、水仙の花の写真と、先輩の感想、加えて星への思いなどが込められたメッセージが届けられていました。

それなのに、私はなんの信実味のある返事もできなかった。

あれほど慕っていた大切な先輩だったのに‥。

 

私たちはみな、他人と関係を結びながらも、その実自分だけの世界に生きているのかもしれない。

誰と出会っても、いつかは別れが来るもの。

だからこそ良い縁で結ばれたときには、その人をいっそう大切にしなければならないのに‥。

‥‥‥

‥‥‥

‥‥‥

先輩、気をつけて行ってください。




 

書店の医学・健康書籍コーナーに行ってみると、「健康のためには糖質制限が必須」といった、脱・糖質を勧める本が目立ちます。

なるほど、現代の私たちの食生活を見渡してみると、甘味と、白い食品=精製された穀物にあふれています。

パスタ・ラーメン・パン・菓子などを口にする回数が一昔前に比べ激増しています。

 

肥満症を含めた各種生活習慣病の主犯として、糖質食が指摘されています。

炭水化物は大きく、糖質と食物繊維に分けられるのですが、そのうちの糖質が体の敵となります。

 

たんぱく質は胃酸にて、脂肪は胆汁にて分解されますが、糖質を分解するには一つではないたくさんの消化酵素が必要になります。

それで、「消化する際に代謝エネルギーを多く要し、時間も長くかかるなど、体に無理がかかるので糖質食を減らそう」、という結論になるのです。


 

糖質過剰摂取の問題点はもう一つあります。

余剰分の糖質は、脂肪に転換されて私たちの体に蓄積されてしまいます。

人体は、脂肪なら限りなく貯蔵できるようになっていますが、血糖の貯蔵量には限界があります。

血糖値を固定値にセットするためには、入ってきた糖質をその都度エネルギー源として消費しなければならないのですが、流入量が多すぎて燃焼しきれなくなると、剰余分を脂肪に変えて貯蔵することになります。

 

むしろ脂肪そのもののかたちで摂取されると、消化されてケトン体に変わるため、際限なく流入することはありません。

脂肪分が一定量以上入ってくるとお通じを通して排出されるのです。

つまり肥満する原因は、脂肪分の過多摂取よりも、糖質を消費できないくらいにたくさん取ったためであることが多いということです。

 

同じ炭水化物でも、食物繊維は消化過程で消化酵素を使いません。

また食物繊維が入ってくると腸内の有益菌が活性化して発酵作用を進めてくれるので、大便の質・量が改善されます。

こうして腸内環境が整えられると、結果として体全体の免疫力を増加させられるという重要な効果があります。

代謝エネルギーを使用しない点で体に負担とならず、そればかりか免疫力まで向上させてくれるので、食物繊維はたくさん摂取してもよいと思われます。