ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

旧日銀広島支店から市役所方面を望む

 651号の前方、爆心地から500mの白神社(しらかみしゃ)付近で被爆した電車もあった。当時船舶砲兵部隊の小隊長だった大塚宗元さんは宇品で市内中心部に行く電車に乗り込んだ。電車はかなり混んでいた。原爆に遭ったのは白神社が右手に見えてきた時。ピカッと光った瞬間に大塚さんはドッと床に伏せたという。砲兵隊での訓練がそうさせた。そしてすぐに走っている電車から飛び降りた。

 

 それでフッと向こうの方見ましたら、電車がそのまま走ってたんですが、この車体がこのまま燃え上がりました。ワァーッと。あのビャッコウ、真白い光で全体がヴォーッと燃え上がったんですよ。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地——生と死の40年——』日本放送出版協会1986)

 

 あたりは真っ暗闇。その中を燃えながら走っていく電車を見て、大塚さんは「地獄の火の車」を思い浮かべた。乗っていた人は皆焼け死んだことだろう。「乗車していた客1人が車両から飛び降りて助かり」という記録はもしかしたら、大塚さんのことかもしれない。大塚さんの乗っていた電車は、本通入口付近で残骸となっていた木造車体の103号ではなかろうか。

 白神社近くではもう一両被災している。川本俊雄さんが1945年11月ごろ日銀広島支店を撮った写真に写っているが、この電車は半鋼製の201号と見られている。日銀広島支店の記録に「電車道に停まった電車に火がついて、もの凄い炎をあげて燃え、三階の窓の高さも越えていた」という電車だ。(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌』)

 201号は炎上する前に脱出した人が何人かいた。前に紹介した日銀広島支店勤務の山下隆子さんがそうだし、日銀広島支店に駆けつけた相原勝雄さんは通用門前で「全身焼き爛れて苦しむ見知らぬ女車掌」を目撃している。(相原勝雄「原子爆弾体験記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 中国配電に勤めていた児玉冨美子さんは逃げる途中、日銀広島支店のそばで電車の運転士らしい人が線路上に横たわったまま「お客さん逃げて下さい」と叫んでいるのを目撃した。

 しかし電車の中は乗客が座ったまま焼け焦げて黒いシルエットのように見えた(児玉冨美子「焼けた路面電車の中で座ったままの黒焦げの乗客、車外に倒れて『お客さん、逃げてください』と叫ぶ運転手」広島平和記念資料館「市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)」)。田坂元さんは「原爆の絵」で、赤く焼けただれた電車の中には8人くらい炭化した遺体が折り重なっていたと証言し、また貞徳ミヤコさんは、電車の床板が焼け落ちて人々は突っ立ったまま黒焦げになっていたと絵に添え書きされている。逃げられなかった人たちの痛ましい姿だった。

 南千田町の臨時の火葬場では、「白神社で被爆した女運転手」と書かれ布に包まれた遺体が目撃されている。15、6歳くらいの女学生のように見えたが、そのあまりにも無残な姿を見かねた人が布で包んであげたのだろう。(松長静子「原爆が残した爪あと」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

被爆電車651号

 651号を描いた「原爆の絵」が見つからない、手記も出てこないとなると、近くを走っていた電車でどんなことがあったかを調べて651号の状況を推測するしかない。加藤一孝さんの『もう一つの語り部 被爆電車物語』(南々社2015)には、被爆直後に広島電鉄の社員が市内を歩いて調べた電車の被災場所と全壊・半壊といった被災の状況が紹介されている。

 浅野図書館前で被爆した651号から南に300mちょっと離れた市役所前には427号が同じように脱線していた。この路面電車は脇本恭一さんが「原爆の絵」に描いている。市役所前にはもう一両木造車体の122号が半焼していたようだが、脇本さんの絵の中の電車はひしゃげていても原型は保っているから、122号ではなく鋼製車体の427号の可能性が高いと思われる。

 市役所前の電車が脇本さんの目にとまったのは8月7日午前6時ごろ。広島一中3年生の長男を捜しまわっている最中だった。電車の中では運転士が立ったまま真っ黒に焼け焦げていたが、車掌や他の乗客の姿が見えないのが不思議だった。電車のそばに血みどろの死体が一つ。それ以外は紙屋町あたりまで人っこ一人見えなかった。(脇本恭一「脱線してひしゃげた電車 黒こげの運転手・死んだ馬」広島平和記念資料館「市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)」)

 427号が止まっていた場所は爆心地からだと南に1020m。これに近い状況の電車は、今は胡町の三越がある場所、当時の中国新聞社ビルの前あたりで被爆した421号だろう。爆心地からは東に840m。この電車には石田明さんや米澤鐡志さんらの証言が残されている。

 石田明さんは午前8時前に広島駅で己斐行きの421号に乗った。定員45人の車内はすし詰め状態。それでも北側の窓から見える景色でもうすぐ八丁堀の停留所と思われた時にピカッと光った。その瞬間、石田さんは気を失った。

 

 ようやく意識をとりもどしたときは何も見えません。真暗闇です。

 わたしの体の上には呻き声が幾重にも重なっており、手も足もその重みでうごかず、しばらく起き上がることができませんでした。どうにか手さぐりで車の外に這いずり出ましたが、人影もみえず、人の気配もなく無気味な静寂がひろがっていました。(石田明『被爆教師』一ツ橋書房1976)

 

 石田明さんは1985年に「市電己斐行き被爆者の集い」をもった。参加の呼びかけに応じたのは米澤鐡志さんら7人。被爆当時11歳だった米澤さんは母親と一緒に電車に乗ったのだが、二人とも電車の真ん中でぎゅうぎゅう詰めになっていたからガラスで傷つくこともなく、倒れている人を踏み越えるようにして電車を降りた。他の人は、突然開いたドアから転げ落ちたり、気がついたら子どもを抱きしめて電車の外に倒れていたり。集いに参加した一人浜田忠雄さんは、帽子をとりにすぐに電車に戻ったら車内にはもう誰もいなかったと証言されているから、421号は運転士、車掌も含め全員が脱出したようだ(米澤鐡志『ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』小学館2013)。電車はその後全焼した。

被爆電車651号

 一刻も早い復旧が必要だったのは電気だけではない。水道も鉄道も必要だし、食料の配給を絶やすわけにはいかない。そして路面電車もだ。被爆から三日後の8月9日に己斐―西天満町間を走った路面電車は、短い距離ではあったが、市民にとってすごく励ましになったという。車掌として乗車した堀本(旧姓 赤松)春野さんの手記がある。

 

 己斐の宮島線の詰所に行き、顔も知らない会社の人からキップも釣銭もない鞄を手渡され「お金のない人からは電車賃をもらわんでも、ええで」と言うことでした。(中略)

 乗客は無口な人が多く、「おお電車が動くんか」と驚かれる人。「鉄橋が怖いけんのー」と有難がる人。「火傷の人、斑点が見える人」色々でした。(広島電鉄『広島電鉄開業100年創立70年史』2012)

 

 この「一番電車」は、2005年に堀川惠子さんが『チンチン電車と女学生』(日本評論社)を出版し、2015年にはNHKがドラマ「一番電車が走った」を放送。またペンネーム「さすらいのカナブン」さんがweb漫画『原爆に遭った少女の話』を描いて今に伝えている。

 浅野図書館の前では路面電車が一両脱線していた。爆心地からの距離は720m。岸田貢宜(みつぎ)さんが8月9日に撮った写真を見ると、鋼鉄製の車体は残っているが窓ガラスもドアも吹っ飛んでいる。アメリカ軍が撮影した8月8日の空中写真にもこの路面電車が写っている。けれど11日に撮影した写真では消えているから、この電車は11日までに千田町の広島電鉄車庫に移されたことになる。(加藤一孝『もう一つの語り部 被爆電車物語』南々社2015)

 同じ路面電車でも木造の車体が焼けて鋼製の台車しか残っていなかったら修復も大変だったろう。爆心地付近では台車もグチャグチャになっている写真がある。こうなると修理は難しく、広島電鉄の社史には被災した108両のうち27両を廃車にしたとある。(『広島電鉄開業100年創立70年史』)

 でも広島の復興のためには、人が足りなくても部品が足りなくても、できる限り修理しなければならない。浅野図書館前で被爆した路面電車の修理が終わったのは翌年3月。この電車が、現在「被爆電車」として毎日市内を走っている2両のうちの1両、651号だ。広島電鉄の人たちの努力が形となって今に残されている。

 ところで、651号についてウィキペディアを開いたら、こんなことが書いてあった。

 

 なお被爆時に本車に乗車していた客1人が車両から飛び降りて助かり、その後50年以上生存した。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

 まだこの記事の裏付けが取れていないが、読んで気になったのは、651号の車内には何人の乗客がいて、その人たちはどうなったのかということだ。中国新聞を検索してみたが、出てこない。わずかに「定員は80人で多くの乗客が犠牲になったとみられる」(「中国新聞」2021.8.19)とあるだけ。では手記や「原爆の絵」に出てこないかと探してみた。しかし、路面電車を描いた「原爆の絵」はたくさんあるが、651号と思われる絵が見つからない。手記も出てこない。

 現在の中国電力本社ビルは地上16階建てだが、被爆当時そこには5階建ての中国配電本店ビルがあった(当時発電・送電は別会社)。原爆で建物は全焼、爆風で建物内にいた人は壁に叩きつけられ、ガラス片や木片、コンクリート片が体に突き刺さった。出勤していた従業員272人のうち40人が即死し、1年以内に163人が亡くなっている。(被爆建造物調査研究会『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る 未来への記録』広島平和記念資料館1996)

 窓の鉄枠も吹き飛んで凶器となった。

 

 ある死体は、窓のスチ-ル・サッシュの槍のようにとがった破片が頭に突き刺さり、もう一人は裂けたサッシュが背中をつらぬいて、そのまま吹きとばされ、壁面にハリツケになっていた。(『広島原爆戦災誌 第三巻』)

 

 中国配電本店は爆心地からの距離680m。即死を免れて助かったと思ったら放射線が襲ってきた。当時20歳の西本茂子さんは9月に入って症状が出ている。

 

 三九度以上の熱。全身に〇・五ミリ位の紫色の斑点(皮下出血班)があらわれた。足の五、六個所が化膿してきた。頭髪は脱毛。熱は続いた。歯ぐきから出血。血の塊りがブラブラし取り除くとまた出血、血尿血便での痛み喘ぎ喘ぎ死線をさ迷いながら一カ月半を過した。(西本茂子「被爆体験について」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 それでもなんとか動ける人は避難先から会社に戻ってきた。当時31歳の田中常松さんは中国配電本店ビルの地下室にいた時に爆風で壁に叩きつけられ、県北の妻の実家で背中に刺さった無数のガラス片を取り除くのに10日くらいかかった。田中さんが会社に復帰したのは9月初め。家を失った社員が中国配電本店ビルの5階で共同生活をしていた。

 ゆっくり療養ができなかったのだ。爆心地から半径2km以内の電気設備が壊滅し一刻も早い復旧が求められていた。たとえば病院。広島逓信病院では蜂谷道彦院長が生きるか死ぬかの大けがだったが、代わりに指揮をとった眼科医の小山綾夫さん、外科医の勝部玄さん、看護婦さんたちが徹夜で負傷者の治療にあたり、そして7日の朝を迎えた。蜂谷さんの手記にこう書かれている。

 

 小山君は頭も繃帯している。大怪我をしていてよく頑張ってくれるものだと思わず瞼の熱くなるのを覚えた。無疵の勝部君が小山君と一緒に私のところにきた。外科の看護婦の高尾さんが白衣を血まみれにしてその後へついてきた。高尾さんは怪我も火傷もない。皆、患者の手当てで徹夜した組だ。運転手の井口君が機転をきかせて、焼け残りの自動車のヘッドライトとバッテリーをはずして明かりをつけてくれたから助かったと異口同音にいう。お陰で一夜中患者の手当ができたのだ。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記〈平和文庫〉』日本ブックエース2010)

 

 各地から救援隊が駆けつけて、変電所を応急修理し、傾いた電柱を起こして電線を張り、7日には焼け残った宇品に灯りがついた。しかし電線は足りないし「原爆症」で倒れる人も出て、市内の焼け野原に電灯が灯るには長い時間が必要だった。

 白神社から平和大通りを越えると鯉城通りの東側は小町(こまち)になる。この町に今は中国電力ビルがそびえているが、その南隣には1955年まで市立浅野図書館があった。原民喜の小説「夏の花」にも出てくる。

 1945年8月8日、原民喜は野宿していた広島駅裏の東照宮から長兄の手配した荷馬車に乗り、原家の人たちとともに広島市郊外の八幡村に移った。その行程は、饒津(にぎつ)神社から常盤橋を渡り、泉邸(せんてい 縮景園)の横を通って京口門通りを南に向かい、福屋百貨店のところからは西に進んで紙屋町交差点を南に折れ、電車通りを鷹野橋まで一気に下ったと思われる。

 

 馬車はそれから国泰寺の方へ出、住吉橋を越して己斐の方へ出たので、私は殆ど目抜の焼跡を一覧することが出来た。ギラギラと炎天の下に横わっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上つた屍体がところどころに配置されてゐた。(中略)国泰寺の大きな楠も根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満ちている。 (原民喜「夏の花」青空文庫)

 

 「浅野図書館は屍体収容所となっていた」。たったこれだけの記述だが、小説家の原民喜にとってショッキングな光景だったのではあるまいか。

 浅野図書館は、最後の広島藩主である浅野長勲(ながこと)が浅野家広島入城300年を記念して1920年に小町に建設したことに始まり、1931年に広島市に寄贈して広島市立浅野図書館となった。鉄筋コンクリート造り2階建ての建物は原爆で全焼し、15人の職員のうち4人が亡くなった。特に貴重な図書は疎開していたが約7万冊の本や多くの資料が焼失した。

 図書館業務は1946年10月から比治山にある頼山陽を顕彰して建てられた山陽文徳殿で再開し、小町に戻ってきたのは1949年6月。そして1955年2月に国泰寺町の市役所南側に図書館の新しい建物ができ、1974年になって基町に開館した広島市立中央図書館に引き継がれた。(広島市立図書館『広島市の図書館(要覧)2024年度』) 

 国泰寺町時代の浅野図書館は国道2号線沿いにあり、自動車の騒音がひどいと問題になったようだが、私が高校生の時は日曜日によくお世話になった(たいていはお昼寝)。

 広島市立中央図書館と広島市映像文化ライブラリーは2026年4月1日に広島駅とつながる「エールエールHIROSHIMA」に移転し、広島市郷土資料館サテライトも併設される。また、浅野家ゆかりの「浅野文庫」や広島の文学資料を保存・活用する専門図書館も計画されており、縮景園のそばに2029年度の開館を目指すという。

 広島の図書館には広島の文化が凝縮されている。また図書館そのものにも広島の歴史がある。でも、それらが書庫の中で眠っているだけだったらつまらない。図書館には、もっともっと発信してほしい。ワクワクさせてほしい。まずは新しい中央図書館。はたしてどんな姿を見せてくれるだろうか。

かつて広島第一県女があったあたり

 竹西寛子さんの小説『管絃祭』の中、作者の分身である村川有紀子と仲が良かったのが三井直子だ。直子は学校の中では優等生だったが別の一面があり、「昨夜、健さんのマントに隠れて一緒に映画を観に行った」というのだ。健さんは許婚者らしかったが、戦時下にあって女学生が、特に風紀に厳しい第一県女の生徒がそんなことをするなんてと、有紀子は呆れもし、また眩しくもあった。

 有紀子も直子も情熱のある若い女教師に憧れ、自分たちも将来は奈良の女子高等師範学校に学び教師になることを夢見た。広島に女子師範学校ができる前のことだ。

 けれど戦争が夢を消した。そして消されたのは夢だけではなかった。

 有紀子たちが3年生の時は全員が出汐町の陸軍被服支廠に動員されたが、4年生になると動員先は200人が府中町の東洋工業、50人が高須の広島航空で、どちらの工場も広島市の郊外にあった。そして50人が第二総軍の救護班「看護組」に選抜され、また何人かが第二総軍司令部暗号班に編入された。直子は「看護組」に入った。

 8月5日、有紀子は直子からの手紙を受け取った。

 

 「新しい作業場はいかがですか。木村さんに聞きましたが、足の傷が良くないそうですね。あなたはすぐ化膿するたちだから、後をお大事に。こちらは救護班ということで、看護実習です。折入って相談したきことあり。そちらの今度の休日と次の休日を教えて下さい。嘘の理由をこしらえて、私もその日を休みます。では、近いうちに。」(竹西寛子『管絃祭』新潮社1978)

 

 翌6日、有紀子は熱が出て東洋工業を休んだが、直子は看護実習で登校日だった。三井直子とはそれきり会っていない。何を相談したかったのかは永久にわからない。

 

 …余燼のすっかり消えるのを待って学校の敷地の内にはじめて入った時、有紀子は、焼け失せた校舎の敷石の上に、焦げた木や瓦礫と絡み合うようにして散らばっていた焼死体の手足の骨に、思わず身を竦めた。咽喉元を、目に見えない掌に抑えられたような気がして、知らず知らずのうちに敷石の前に跪いてしまうと、しばらくは金縛りにあった感じでその場から動けなかった。

 焼け野原の深閑としたひろがりが、じつにさびしい。

 これが私たちの学校なのか。これが私たちの町なのか。(『管絃祭』)

 

 第一県女4年生で東洋工業に動員されていた坂本美枝子さんの手記には、9月下旬になって校舎の焼け跡の整理に行ったとある。理科実験室跡の溶けてぐにゃぐにゃになったガラス、防空壕にあった焼けたモンペの切れ端を見て皆で泣いた。(坂本美枝子「勤労奉仕・学徒動員に関するアンケート」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 戦後、被服支廠のレンガ造りの倉庫が第一県女の臨時の教室になった。『管絃祭』の中、有紀子はうす暗い教室で直子を探した。聞きたいことがあったし、話したいこともあったのだ。けれど、直子だけでなく、同じ同級生のウーやんもオンちゃんも、スーちゃんも、あの日から二度と教室に姿を現すことはなかった。

 今、第一県女の正門の跡に立つ「追憶の碑」には、36人の4年生の名前が刻まれている。

平和公園対岸の本川浜胡子(はまえびす)神社

 1945年8月6日、爆心地から約600mの県立広島第一高等女学校(「第一県女」)でどんなことがあったのか知ることは難しい。『広島原爆戦災誌』には、原爆で木造の校舎は倒壊して炎上し、当日登校していた「第二総軍第一県女救護班」(「看護組」)の4年生約50人は生き残った者がいないとある。

 4年生で府中町の東洋工業に動員されていた桑田トミ子さんはピカッと光った後、湧き上がる巨大な雲にしばらく見とれていた。自分の母と姉がその雲の下で死んでいったことも、多くの下級生、そして学校に行っていた同級生の命が絶たれたことも、その時はまだ何も知らなかった。

 

 その頃学校で授業をしてた看護組の方が二人、頭の髪はまっすぐにつっ立ち、もんぺは浦島さんのように房になっている。学校が直撃を…と先生に言って倒れてしまわれたとか。翌朝亡くなられたと後で聞く。(桑田トミ子 無題 広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 同じ4年生だった竹西寛子さんは、戦後30年が過ぎ、自身の広島と向きあう中で小説『管絃祭』を書いた。1978年に単行本が出版されている。「爆心地から南東に約〇・六キロメートルしか離れていなかった」女学校、すなわち第一県女に通った村川有紀子が竹西さんの分身だが、小説の中に出てくる様々な人が、それぞれ竹西さんの記憶をたどり、思いを語っている。

 被爆前の広島を語るのは、村川家に住み込みで働いていた千吉だ。

 

 徐州が落ちた。花火を打ち上げて提灯行列。武漢三鎮攻略。提灯行列。焼け崩れた黒い町も広島なら、提灯行列で目抜の電車通りが火縄みたいに揺れていたのも広島。血のついた日章旗や軍服、青龍刀に便衣隊服、手榴弾まで陳列した大東亜博覧会が開かれたのも同じ広島です。(竹西寛子『管絃祭』新潮社1978)

 

 広島は、日本全体がそうだが、ずっと戦争をしていた。千吉自身も戦地で人に言えないようなことをしてきたという。その行き着くところが原爆だった。千吉は父と母と妻の三人の身内をみな原爆で失った。悔やんでも悔やみきれないが、時を遡ることはできるはずもなかった。

 戦後30年経って母がガンで亡くなり、村川有紀子がそのことを知人の滝沢治子に知らせると、治子からの返書に、「辛いでしょう。風や雲を父や母と見るまでに、私は三十年近くもかかりました」とあった。

 女学生の治子は動員先にいて6日は広島に戻ることができなかった。7日、8日、9日と両親を捜してまわった。心の中で父を、母を呼び続けた。そして今も年に一度広島を歩いているという。

 

 ……暑い毎日だった。

 ズックをはいた足の裏が、熱した針の束で刺されるようなのにたまらなくなって、時々地団駄を踏んでは通りという通りを歩き、この手に棒切れを持って燃え殻を掻き分けたものだった。

 浜胡子神社の境内に立ったまま、治子は相変わらず記念公園の木立をながめている。さらにその川向こうの、消えてしまった家々をながめている。物音を聞いている。(『管絃祭』)

 

 治子の家は元安川の川岸から東へ500mも離れていなかったという。袋町国民学校や第一県女のある街になる。

第一県女の「原爆犠牲者追憶の碑」と門柱

 白神社から平和大通りを東に200mちょっと歩くと、緑地帯の中に県立広島第一高等女学校(「第一県女」)の「原爆犠牲者追憶の碑」を見ることができる。そばには石の門柱が一本。この場所にかつて第一県女の正門があり、碑のある緑地帯と北側の数棟のビルが建っている一帯が第一県女のあった場所だ。爆心地からの距離は約600m。原爆で残ったのは4本の門柱だけで、これも1946年に学校の移転に伴い撤去されたが、1955年になって一本が碑とともに今の場所に設置され、他の3本は現在後身の広島皆実高校の「憩いの森」に置かれている。

 第一県女は1年生が爆心地から800mばかり離れた小網町付近で建物疎開作業中に被爆し、223人が亡くなった。本人の日記や制服、近親者の手記がいくつも残されている。

 8月6日朝、熱で寝込んでいた広島一中3年生の浜田平太郎さんは突然の青白い光とものすごい爆風に驚き、猿楽町の銀行に出勤した姉と第一県女1年生で「建物疎開」作業に出た妹の孝子さんが心配でいても立ってもいられなかった。孝子さんが己斐国民学校にいるとの知らせがあったのはその日の午後3時過ぎ。平太郎さんは大八車を借りると一目散に己斐に走った。そして学校に着くと「浜田孝子。浜田孝子。第一県女の浜田孝子」と叫び続けた。けれどいくら呼んでも返事がなく、諦めかけたその時だった。

 

 一人の裸足の少女が、よたよたと私のほうに近づいてきました。

 最後の力をふりしぼっているように見えました。

 とても、見ていられないほど、顔は火傷でパンパンに腫れ上がり、目は糸のように、細くつぶれていました。手の皮は、めくれて垂れ下がっていました。

 まるで幽霊のようでした。

 モンペは、熱線で焼けおちて、ずたずたに破れ、下着だけになっていました。うえのほうは白い半そでのブラウスと、モンペの胸の部分の布がわずかに残っており、その柄に見覚えがありました。

 「孝子か」と聞きました。

 その少女は、こくりとうなずきました。(浜田平太郎『泉 第二集 原爆と私』私家版2012)

 

 草津の自宅に戻った孝子さんが息を引き取ったのは翌日早朝だった。

 同じ第一県女1年生の大下靖子(のぶこ)さんは6月13日から学校の夏服を縫い始めたと日記に書いている。

 

 「今年は白色ではなくて國(こく)防色かねずみ色のやうなきれで制服を作るやうになりました。それは何故(なぜ)かと申しますと敵機來(らい)襲の時白いものは目標になりやすいので」とつづり、帰宅後に母からもらったきれが「國防色でしたのでうれしくてたまりませんでした」と胸弾ませている。(「中国新聞」2008.8.18)

 

 着物をほどいた布で頑張って縫った半袖の夏服だったが、「国防色」はかえって原爆の熱線を吸収してしまったようだ。靖子さんも己斐国民学校に収容され、そこから県西部の大竹町(現 大竹市)で待つ両親のもとに運ばれて、6日深夜に息を引き取った。広島平和記念資料館に寄贈された夏服は半分焼けてなくなっている。血まみれのシュミーズとともに被爆の惨状を今に伝えている。

白神社と被爆クスノキ(真ん中の木に被爆樹木のプレート)

 しかし国泰寺の焼けたクスノキも頑張った。1946年の春に芽を出したというのだ。

 

 …ある日、爆心地に近い国泰寺の大楠木の根元に、黒山の人だかりがした。焼け残ったこの老樹は、一枚の葉もなく、枝も幹も黒焦げになって、かろうじて立っているようすであった。その根元から一メートルほどのところに、青い双葉の小さな芽が一つ、ぽつんと出ている。

 「あッ! 芽が出ている!」

 通りかかった一人が発見して声をあげた。そばを歩いていた人たちがかけよって、楠木の根方を取り囲んだ。(中略)七十五年間、草木も生えぬ——といわれた原爆砂漠に、一年もたたぬ翌年の春、こうして青い芽が吹いたのだ。(浜井信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト2011)

 

 けれど、国泰寺の大クスノキは結局全部枯れてしまった。1952年撮影の写真には、国泰寺の墓地に一本、折れて枯れたクスノキが写っている(岩波書店編集部『立ち上がるヒロシマ1952』岩波書店2013)。そしてその最後の枯木も1955年には取り除かれた。(Webサイト「蓬莱山国泰寺」)

 ただ、すぐそばで生き返ったクスノキもあった。国泰寺の隣の白神社(しらかみしゃ)のクスノキだ。この神社も原爆で全壊全焼。社司(今の宮司)と家族4人、参拝者1人の5人がその場で亡くなっている。(「中国新聞」2024.10.29)

 後に白神社の宮司になった宗像紀道さんが子どもの頃の思い出を語っている。

 

 「境内にあった木々はすべて真っ黒焦げ。皆刈って、焚き木として使いました。クスノキもたくさんあり、根元が残っていたのでしょう。その年の暮れ、小さな芽が出ているのを見つけました。“これはクスノキの芽じゃろうか”と家族で話したのを覚えています。幹がありませんから、最初は何の木か分かりませんでしたよ」( 杉原梨江子『被爆樹巡礼』実業之日本社2015)

 

 原爆に焼かれても再び若葉が萌え出した木といえば沼田鈴子さんを勇気づけたアオギリが有名だが、広島文理科大学の学生だった勝田神能(しんのう)さんが1947年に爆心地から6km以内の約500本の樹木を一人で調べている。「クスノキやウメは爆心地から0.5キロ以内で新芽を出したが、アカマツは2キロ以上でも枯死」「キョウチクトウは2キロ以内に50株以上で広島で最も多く生き残った」(「中国新聞」2011.1.7)。一方、一度芽を出しても力尽きて枯れてしまった木もあったのだ。

 国泰寺は戦後再建され1978年に己斐に移転した。その跡には大きなホテルが建っているが、ホテルの前の「愛宕池」と何本かの被爆樹木がかつての大寺の面影を残している。一方白神社は岩礁の上に神殿があり、毛利氏が神殿を造営する前は船の航行の安全のため白い紙を立てていたと伝えられる。けれど私は、かつて遠浅の海の波打ち際に突き出ていた岩礁そのものが御神体だったのではないかと想像している。だったら神社を移すわけにもいかないだろう。戦後に境内地は大きく削られたが白神社はそのまま鎮座し、クスノキの他にも、狛犬や常夜灯、手水鉢などが被爆の痕跡を今に残している。

比治山の被爆クスノキ

 鯉城通りに戻ろう。日銀広島支店の南隣には国泰寺という曹洞宗の大きな寺があった。1945年8月6日、日銀広島支店の3階で被爆した広島財務局の平岩好道さんたちは火に追われて国泰寺の墓地に逃げ込んでいる。「そのとき、世にも珍しいお湯の雨を体験した。相当の夕立であった」(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌 第三巻』)という。「黒い雨」がお湯のように熱かったという証言も珍しい。この時平岩さんたちは燃える日銀広島支店を呆然と眺めていたのだが、自分たちの背後の火災までは気が回らなかったのだろうか。『広島原爆戦災誌』には、国泰寺の大伽藍も全壊全焼し、住職やその家族、修行僧ら40名が即死したとある。

 江戸時代、国泰寺は広島藩主浅野家の菩提寺だった。墓地には豊臣秀吉の遺髪塚や大石内蔵助の妻理玖(りく)の墓があり、樹齢300年という4本の巨大なクスノキも有名だった。

 平岩さんの上司だった赤井了介さんは避難する前に3階の南側の窓から見た光景が目に焼き付いている。

 

 …隣の国泰寺境内にある天然記念物として有名なあの大楠木の一本が根こそぎにされ宙に飛び上がった。さても偉大なそして威力のあるものかなと驚嘆した。(赤井了介「広島の戦禍を追憶して」庭山慶一郎編『原爆の記 広島財務局原爆被災者の記録』大蔵財務協会1980)

 

 どれくらい大きなクスノキだったか。1949年から1961年まで中国新聞夕刊に連載されて評判になった「がんす横丁」には次のように記されている。

 

 あの樟は四本あったが、北側にあったものが一番大きくて周囲は二丈四尺(約7.3メートル)、中央の東にあるもの一丈九尺(約5.8メートル)、中央の西にあるもの一丈六尺(約4.8メートル)、南側にあるもの一丈三尺(約4メートル=いずれも大正十四年の記録)。全国でも珍しい樟として、昭和三年十一月内務省から天然記念物に指定されたが、原爆の厄にあって樹齢三百年の名木も一瞬に枯木になり、昭和二十一年十二月、三滝の某製材所に二万四千円で売り払らわれた。

 なお、一番大きい樟の切り口は四畳半もあって、これらの樟を切って板にするには半年もかかったとのことである。(「中国新聞セレクト」2018.5.13)

 

 比治山の中腹にある被爆クスノキなどは、いつ見ても大きいなと思うのだが、そのクスノキの幹周りが4.4mだから、国泰寺のクスノキがいかに巨大だったかがわかる。それが宙に飛んだ⁉︎ 中国新聞の松重美人さんが1945年9月に撮った写真を見れば、一番でかいクスノキがボキッと根元から折れている。(中国新聞ホームページ ヒロシマ平和メディアセンター「ユネスコ『世界の記憶』登録候補 広島原爆の視覚的資料 ―1945年の写真と映像」) 。原爆の爆風で吹き飛んだというのは本当かもしれない。そして残ったクスノキにも火がついた。

 やがてクスノキはみな枯れてしまい、撤去が始まったのは1949年。斧とスコップでの手作業で、「人力で根を切るのは大変な仕事だった」と記録されている。(中国新聞社『増補ヒロシマの記録 被爆40年写真集』1986)