先日、近所のおじいさんが亡くなった。95歳。今だったら中学2年生くらいで徴用され、広島の三菱重工広島機械製作所で被爆した。途中野宿し二日がかりで歩いて家に戻ったと私に話してくださった。
今年の1月には98歳のおばあさんが亡くなっている。広島市から北に車で1時間くらいのところにあるお寺で、被爆した人たちの看護にあたった。ついこの間まで杖をついて元気よく散歩しておられたような気がするが、施設に入られ亡くなられるのはあっという間だ。お二人に限らず、あれを聞いておけばよかった、これを尋ねておけばよかったと思うのは、いつも話を聞けなくなってから後のこと。
私の母は今96歳。頭も体もまだしゃんとしているが、あの日のことは頭の中が真っ白になって思い出せないと言っていた。でも昨年、同じ町内に住む被団協の箕牧智之さんが被爆体験記集を作りたいと言われ、頑張って書いてもらった。
戦後八十年み山に抱かる九十五老の涙は盡きずいくさ止まざり
私の涙の源泉の一つは慟哭の広島へ入った十五歳の夏。三次高等女学校三年の私達は八月十八日にトラックに分乗して市内の銀山町に集合し、そこから私は数人の友と一緒に矢賀小学校の救護所へ。そこで目にした状景は魚をびっしり並べたような被爆者の姿。ハエがぶんぶん舞っていました。山の中からぽっと出た少女に出来ることはお粥を炊く、包帯を洗う位。苦しんでいる人に声すら掛けられません。夜寝室に当てられた教室から見た校庭には死者が山のように積まれ、木切れで覆い焼く炎の色、匂い。それだけ覚えています。
原爆に直接遇っていない私が言葉にするのもおこがましいけれど、焼け野原のヒロシマの惨状、生き残った人の苦痛の様をこの目で見、心に焼きついた悲しみ怒りは八十年経た今も決して消えず、戦争の絶えない世界のニュースにふき出す涙を押さえることが出来ない九十五歳の私。(精舎悦子「戦後八十年」北広島町原爆被害者の会『被爆80年〜北広島町の被爆者たちは〜』2025)
母の気持ちは、「今が平和でうれしい」ではなかった。あってはならないことが今も世界で繰り返されていることに涙ぐむ。そういえば、私の父、精舎法雄は1990年に書いた被爆体験記の最後をこう締めくくっている。8月6日の夜に思つたことだ。
「これが戦争であったのか。戦争とはこんなにまで悲惨で恐ろしいものであったのか。これまでは勝つと教えられ、勝ったと有頂天になっていたが、勝っても負けても、幾百幾千の、いや幾百万とも知れぬ人々の命が奪われ、その数倍の家族まで悲しみの底に沈まねばならない。もう戦争は嫌だ、絶対に嫌だ。」ひとり心の中に叫んだのである。(精舎法雄「火焔—私の原爆体験記—」1990)
私の父が今生きておれば、今の日本や世界の有り様をどう思うだろう。
ブログを書き始めてからこの秋で10年が過ぎる。でも、これまで長くご一緒させていただいた人たちの思いを受け継いでいくためには、まだまだやめられそうにもない。