紙屋町から宇品方面を望む
1937年8月1日、芸備銀行前の電車通りは日の丸の小旗を持った市民であふれかえった。日中戦争が始まり戦地に赴く第5師団兵士の見送りだ。この時、広島は確かに「軍都」の表情を浮かべていた。
日中戦争が始まる前まで、広島城本丸跡には第5師団の司令部が置かれ、堀を挟んで東側に歩兵第11連隊。西側には野砲兵第5連隊、輜重兵第5連隊、広島陸軍病院。北は白島町に工兵第5連隊。広島駅裏の二葉の里に騎兵第5連隊が駐屯していた。また第5師団の歩兵連隊は他に福山市の歩兵第41連隊、島根県浜田市の歩兵第21連隊、山口県山口市の歩兵第42連隊があった。
歩兵第11連隊の正門は今の広島市民病院東側の交差点あたりにあり、兵士たちは小銃を肩に完全武装でこの門を出ると本丸跡南側に広がっていた西練兵場を抜け、紙屋町交差点付近から電車通りに出た(広島市郷土資料館『広島市民と戦争』2015)。宇品港までは徒歩で行軍し、港でも多くの市民が日の丸の小旗を振った。
1940年9月のことになるが、私の伯父精舎善明は士官学校を卒業するとすぐに広島に戻り、宇品港から歩兵第11連隊に合流するため中国に向かった。詳しい日記を残している。
進軍ラッパト共ニ乗船 勇躍タリ 海送ラルヽモノ陸送ルモノ 渾然一タリ 噫ソノ感激 宇品ノ光景 忘ラレザルナリ
しかし、旗を振りながら中には暗い気持ちになった人もいた。広島出身の小説家竹西寛子さんは西練兵場の東端にあった済美学校に通っていた。この幼稚園と小学校を合わせた学校は陸軍将校らの親睦団体である偕行社が経営していたから軍人と接する機会も多かっただろう。けれど竹西さんの目に映ったのは「背嚢ばかりか腹部にも腰にも荷をつけて、人間の原型をほとんど失いかけている」兵士の姿だった。(竹西寛子随筆「瀬戸内海」『山河との日々』新潮社1998)
背嚢(はいのう)は要するにリュックサックで米や缶詰などを入れた。入りきらないものは別の背負い袋に入れ、それに鉄帽(ヘルメット)、小円匙(ショベル)、飯盒、水筒、天幕、毛布、そして小銃。日本の兵士はそれらを全部自分で運んだ。1944年の悪名高いインパール作戦に従軍した兵士の個人装備は少なくとも40kgを超えていたという。自分一人では立ち上がれないくらいの重さだった。(吉田裕『日本軍兵士—アジア・太平洋戦争の現実』中公新書2017)
それでも兵士は黙々と行軍した。何事にも耐えなければならないのが兵士だった。竹西さんは兵士が訓練を受けている光景も綴っている。
小学校が、西の練兵場の道一つ距てた東側にあったので、登校、下校の際、歩兵隊、砲兵隊、輜重隊などの演習をよく見た。見たくはなかった。とりわけ、雨の練兵場での輜重隊の演習は見たくなかった。兵士も馬も、泥まみれであった。どんなことがあっても、この兵士の家族には見せたくない、そう思うような上官の叱責の場面に幾度も出くわしている。自分の口許がふるえてくる。涙が滲んでくる。兵士も馬もあわれであった。(竹西寛子随筆「水車小屋まで」『山河との日々』新潮社1998)





