旧日銀広島支店から市役所方面を望む
651号の前方、爆心地から500mの白神社(しらかみしゃ)付近で被爆した電車もあった。当時船舶砲兵部隊の小隊長だった大塚宗元さんは宇品で市内中心部に行く電車に乗り込んだ。電車はかなり混んでいた。原爆に遭ったのは白神社が右手に見えてきた時。ピカッと光った瞬間に大塚さんはドッと床に伏せたという。砲兵隊での訓練がそうさせた。そしてすぐに走っている電車から飛び降りた。
それでフッと向こうの方見ましたら、電車がそのまま走ってたんですが、この車体がこのまま燃え上がりました。ワァーッと。あのビャッコウ、真白い光で全体がヴォーッと燃え上がったんですよ。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地——生と死の40年——』日本放送出版協会1986)
あたりは真っ暗闇。その中を燃えながら走っていく電車を見て、大塚さんは「地獄の火の車」を思い浮かべた。乗っていた人は皆焼け死んだことだろう。「乗車していた客1人が車両から飛び降りて助かり」という記録はもしかしたら、大塚さんのことかもしれない。大塚さんの乗っていた電車は、本通入口付近で残骸となっていた木造車体の103号ではなかろうか。
白神社近くではもう一両被災している。川本俊雄さんが1945年11月ごろ日銀広島支店を撮った写真に写っているが、この電車は半鋼製の201号と見られている。日銀広島支店の記録に「電車道に停まった電車に火がついて、もの凄い炎をあげて燃え、三階の窓の高さも越えていた」という電車だ。(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌』)
201号は炎上する前に脱出した人が何人かいた。前に紹介した日銀広島支店勤務の山下隆子さんがそうだし、日銀広島支店に駆けつけた相原勝雄さんは通用門前で「全身焼き爛れて苦しむ見知らぬ女車掌」を目撃している。(相原勝雄「原子爆弾体験記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
中国配電に勤めていた児玉冨美子さんは逃げる途中、日銀広島支店のそばで電車の運転士らしい人が線路上に横たわったまま「お客さん逃げて下さい」と叫んでいるのを目撃した。
しかし電車の中は乗客が座ったまま焼け焦げて黒いシルエットのように見えた(児玉冨美子「焼けた路面電車の中で座ったままの黒焦げの乗客、車外に倒れて『お客さん、逃げてください』と叫ぶ運転手」広島平和記念資料館「市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)」)。田坂元さんは「原爆の絵」で、赤く焼けただれた電車の中には8人くらい炭化した遺体が折り重なっていたと証言し、また貞徳ミヤコさんは、電車の床板が焼け落ちて人々は突っ立ったまま黒焦げになっていたと絵に添え書きされている。逃げられなかった人たちの痛ましい姿だった。
南千田町の臨時の火葬場では、「白神社で被爆した女運転手」と書かれ布に包まれた遺体が目撃されている。15、6歳くらいの女学生のように見えたが、そのあまりにも無残な姿を見かねた人が布で包んであげたのだろう。(松長静子「原爆が残した爪あと」広島原爆死没者追悼平和祈念館)







