ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

紙屋町から宇品方面を望む

 1937年8月1日、芸備銀行前の電車通りは日の丸の小旗を持った市民であふれかえった。日中戦争が始まり戦地に赴く第5師団兵士の見送りだ。この時、広島は確かに「軍都」の表情を浮かべていた。

 日中戦争が始まる前まで、広島城本丸跡には第5師団の司令部が置かれ、堀を挟んで東側に歩兵第11連隊。西側には野砲兵第5連隊、輜重兵第5連隊、広島陸軍病院。北は白島町に工兵第5連隊。広島駅裏の二葉の里に騎兵第5連隊が駐屯していた。また第5師団の歩兵連隊は他に福山市の歩兵第41連隊、島根県浜田市の歩兵第21連隊、山口県山口市の歩兵第42連隊があった。

 歩兵第11連隊の正門は今の広島市民病院東側の交差点あたりにあり、兵士たちは小銃を肩に完全武装でこの門を出ると本丸跡南側に広がっていた西練兵場を抜け、紙屋町交差点付近から電車通りに出た(広島市郷土資料館『広島市民と戦争』2015)。宇品港までは徒歩で行軍し、港でも多くの市民が日の丸の小旗を振った。

 1940年9月のことになるが、私の伯父精舎善明は士官学校を卒業するとすぐに広島に戻り、宇品港から歩兵第11連隊に合流するため中国に向かった。詳しい日記を残している。

 

 進軍ラッパト共ニ乗船 勇躍タリ 海送ラルヽモノ陸送ルモノ 渾然一タリ 噫ソノ感激 宇品ノ光景 忘ラレザルナリ

 

 しかし、旗を振りながら中には暗い気持ちになった人もいた。広島出身の小説家竹西寛子さんは西練兵場の東端にあった済美学校に通っていた。この幼稚園と小学校を合わせた学校は陸軍将校らの親睦団体である偕行社が経営していたから軍人と接する機会も多かっただろう。けれど竹西さんの目に映ったのは「背嚢ばかりか腹部にも腰にも荷をつけて、人間の原型をほとんど失いかけている」兵士の姿だった。(竹西寛子随筆「瀬戸内海」『山河との日々』新潮社1998)

 背嚢(はいのう)は要するにリュックサックで米や缶詰などを入れた。入りきらないものは別の背負い袋に入れ、それに鉄帽(ヘルメット)、小円匙(ショベル)、飯盒、水筒、天幕、毛布、そして小銃。日本の兵士はそれらを全部自分で運んだ。1944年の悪名高いインパール作戦に従軍した兵士の個人装備は少なくとも40kgを超えていたという。自分一人では立ち上がれないくらいの重さだった。(吉田裕『日本軍兵士—アジア・太平洋戦争の現実』中公新書2017)

 それでも兵士は黙々と行軍した。何事にも耐えなければならないのが兵士だった。竹西さんは兵士が訓練を受けている光景も綴っている。

 

 小学校が、西の練兵場の道一つ距てた東側にあったので、登校、下校の際、歩兵隊、砲兵隊、輜重隊などの演習をよく見た。見たくはなかった。とりわけ、雨の練兵場での輜重隊の演習は見たくなかった。兵士も馬も、泥まみれであった。どんなことがあっても、この兵士の家族には見せたくない、そう思うような上官の叱責の場面に幾度も出くわしている。自分の口許がふるえてくる。涙が滲んでくる。兵士も馬もあわれであった。(竹西寛子随筆「水車小屋まで」『山河との日々』新潮社1998)

現在の紙屋町一帯

 元安橋のたもとから本通りを東に歩いていくと広い電車通りにぶつかる。今は「鯉城通り」というが、昔この道は紙屋町交差点を起点にして南に鷹野橋まで延びていた。元々は広島城築城の際に掘られた西塔(西堂 せいとう)川という運河が袋町あたりから海まで続いていたのだが、近代に入って人口が増加すると下水道がないので川が汚くなり伝染病流行の原因とみなされた。それで西塔川は埋め立てられて1912年に幅約18mの広い道路になったのだ(とは言っても現在は車道・歩道合わせて幅40mなので、その半分以下ということになる)。

 また西塔川埋め立てに先行して広島城外堀の埋め立ても行われた。広島城南側の外堀は原爆ドーム前の相生橋東詰交差点から福屋デパートビル西北端の八丁堀西交差点あたりまであったが、それが埋め立てられて道路となり、1930年代には広島駅から上天満町まで続く大通り(現在の「相生通り」)として整備された。また広島城東側の外堀(「八丁堀」)は八丁堀西交差点から北に延びる「京口門通り」の西側にあったが、埋め立てられた後は民家が立ち並んだようだ。(広島地理教育研究会編『ひろしま地歴ウォーク』レタープレス2018)

 これら運河や堀の埋立地などに路面電車が初めて走ったのは1912年11月23日。広島駅前から八丁堀、紙屋町を経由して鷹野橋、御幸橋までの路線(当時は「西塔川線」)と、京口門通りを通って白島まで行く路線だった(戦後は路線が変わる)。広島駅前から紙屋町を通って己斐まで行く「本線」が全面開通したのは12月8日。以後、路面電車は広島市民の生活になくてはならないものとなった。

 1927年、電車通り(「西塔川線」)に面した紙屋町に県内最大手の金融機関芸備銀行(現 広島銀行)の鉄筋コンクリート造り5階建の新社屋が姿を現し周囲を圧倒した。翌年には芸備銀行の南隣に住友銀行広島支店が新築移転となり、このビルも芸備銀行とほぼ同じ規模だったから街の風景は一変した。そして1936年には日本銀行広島支店が袋町の電車通り沿いに新築移転し、この通りは大手町通りに代わる広島市の金融街として発展した。そして1945年8月6日を迎える。

 広島文理科大学助教授の小倉豊文さんは1945年8月6日の午後、紙屋町交差点まで来て南を遠望した。

 

 ここまできて立ちどまった俺は、また一つの新しい脅威に目をみはった。お前もよく知っているように、あそこから鷹野橋への南北の電車線路の東側は、大きな銀行や会社のビルの林立だろう。芸備、住友、大同生命、すこし間をおいて富国ビル、精養軒、日本銀行支店(中略)

 その十字の近代都市的ビル街が、あそこから一望なのだ。他の建物がみんな焼けてしまっているからね。もちろんビル自身もどれも焼けたのだが、焼けたのは内部だけで外廓はそのまま聳えている。並んでいる。しかもその窓からはまだ焔と煙を吐きながら——。何かゾッとするような壮観だったよ。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 路上にころがる人そして車などの残骸も実におびただしい数だったと、小倉さんは書き残している。

広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶の碑

 大手町通りで爆心地に最も近かったビルはレンガ造りの農林中央金庫広島支所で、爆心地からの距離は120m。このビルはもともと第一銀行広島支店だったが、1943年に第一銀行が三井銀行と合併して帝国銀行となり広島の支店も合併移転したので、農林中央金庫広島支所がその後に入った。原爆で真上から衝撃を受けて屋根の大部分が崩れ落ち、壁もかなり倒壊した。内部は全焼。職員11人が亡くなったという。

 ところが同じレンガ造の産業奨励館(爆心地からの距離160m)と違うのは、補修されて1966年まで現役の建物として使われたことだ。爆心地のレンガ造りの建物でも修理したら使えたというのには驚いた。産業奨励館との違いはなんだったのだろうか。

 ただし、建物がモニュメントではなくオフィスとして使えたということは、使い勝手が悪くなったり老朽化したら建て替えの運命を免れることが難しくなる。この場所には今はゲームセンターができている。

 鉄筋コンクリート造りのビルはさらに頑丈なので修復できたものも多いが、では、中にいた人たちが無事だったかというと、そうはならなかった。窓ガラスを叩き割って侵入した爆風が建物内部で荒れ狂ったし、その後に火災も起きた。爆心地一帯では放射線も強烈だった。

 本通りと大手町通りの交差点の角で農林中央金庫広島支所の真向かいにあった三和銀行広島支店は1929年頃にできた鉄筋コンクリート3階建てのビルだった。8月6日当日の勤務者は25人くらいと見られているが、救援の人たちが玄関から中に入ってみると、ロビーの隅に机や椅子と一緒に叩きつけられ一塊になって息絶えていたという。この建物は1947年に復旧工事が完了し、その後10年くらい使われた。(被爆建造物調査研究会『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る 未来への記録』広島平和記念資料館1996)

 元安橋東詰から南に土手道を150mくらい歩くと、「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶の碑」を見ることができる。広島ガス本社ビルは1922年にできた鉄筋コンクリート3階建て。碑のある場所のすぐそば大手町第一公園付近にあって爆心地からの距離は210mだった。

 

 この本社は爆心地から至近の距離にあり、南西の角を残して崩壊し、全焼した。火災は2日間も続いたという。建物は3階から地下室の天井まで、床と天井がそれぞれ重なって1枚となり、地上まで落下、圧砕していた。その間から花模様のワンピースの焼け残りが見え、白骨と化した遺体や蛆虫の発生した半焼死体も残されていた。(『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る 未来への記録』)

 

 30人ほどの職員がこの場所で命を奪われ、奇跡的に脱出した男女5人の職員もまもなく死亡したという。

 9棟のビルを含む大手町通りにいた人で生存が伝えられた人はいない。ここもまた全滅の街だった。建物は、9棟のビルのうち4棟が使用不能ですぐに撤去されたが、5棟のビルは修理されてしばらく使われた。そして1972年に大手町2丁目にあった広島銀行集会所が建て替えられて、この大手町通りから原爆の傷跡が消えた。

大手町一丁目の県民文化センター

 かつて島病院の東隣に広島西警察署があり、大手町通りに面していた。爆心地からの距離は約150m。木造2階建ての建物は原爆さく裂とともに圧し潰されて全焼。建物内で亡くなった職員は67人とも80人とも言われている。「西署の焼跡を視察したが、焼跡は徹底的な壊滅状態でただ灰燼の一語につきるものであった」とか。(『広島原爆戦災誌 第三巻』)

 広島西警察署の跡は現在県民文化センターになっている。大手町通り入り口にはエディオン広島本店があり、近くにショッピングモールがあり、通りには飲食店も多い。けれど、電車通りから南に市役所あたりまで続くこの細い大手町通りが、かつては広島のメインストリートだったことを知る人がどれだけいるだろうか。メインストリートだったということは、それだけ人通りも多いから、原爆による被害も大きかったのではなかろうか。

 1590年代につくられた広島の城下町は、横軸が西国街道で今の本通りはその一部となる。さらに元安橋を渡って中島本町、本川橋の先の堺町などの道の両側に町人が店を連ねた。そして縦軸としてつくられたのが大手筋(後の大手町通り)で、この通りから北を望めば広島城の天守が正面に見えた。この道の両側にも江戸時代から店が並んだ。

 近代に入って広島の街が大きく変貌するのは1894年の日清戦争から。天皇が広島にやってきて大本営が置かれ、帝国議会も開かれた。大手町通りの旅館には伊藤博文など大物政治家や軍人が宿泊したから毎晩ずいぶんと賑やかだったに違いない。それだけでなく広島市には軍隊、軍隊の仕事を請け負う労働者、商人などが大勢集まってきたから、落とした金もかなりのものだった。それで物価が上がったり、またコレラも蔓延したのだが、広島の市民の戦勝熱は戦争が終わってからもしばらく続いた。

 1900年には広島市の西練兵場に「日清戦役第一軍戦死者記念碑」という高さ11mの砲弾型の碑が建立された。その場所は、広島そごうとメルパルク広島の間くらいになる。広島に司令部のあった第五師団の戦死者を追悼するものだが、市民は戦争の勝利を意味する「戦捷記念碑」と呼び、大手町通りから北に巨大な碑を仰ぎ見たのだった。けれど日中戦争から太平洋戦争へと戦争が激しさをますと、「戦捷記念碑」の金属は剥ぎ取られて供出され、そして原爆で台座まで姿を消した。(原島広至『広島今昔散歩』中経の文庫2014)

 大手町通りが金融街として発展し、レンガや鉄筋コンクリートのおしゃれなビルが立ち並ぶのは1920年代から。早いところでは1909年、大手町二丁目にレンガ造の三井銀行広島支店ができている。第一銀行は1915年に広島支店を開設したが1920年に大手町一丁目に移転し、これまた見るからに立派なレンガ造のビルを建てた。1922年には今の平和大橋の近くに鉄筋コンクリート造りの広島瓦斯(ガス)本社ビル、1928年には西警察署の斜向かいに千代田生命広島支社の鉄筋コンクリートのビルができた。こうして1930年代までに大手町通りには9棟のビルが立ち並び、そして1945年8月6日を迎えた。

 爆心地の細工町はもともと130世帯ばかりあったが、強制疎開や自主的な疎開で被爆前には40世帯ほどになっていた。8月6日に町にいた人は間違いなく全滅だが、その日は雑魚場町の建物疎開作業に行って亡くなった人も多かったので、実際のところ細工町で何人亡くなったのかは確かめようがない。

 細工町で新聞配達をしていた岸本純太郎さんも6日は雑魚場町へ出かけた。遺体も遺骨も不明。息子で市立中学2年の純一さんは小網町の建物疎開に動員され行方不明。家にいたのは純太郎さんの妻の君子さんだけだった。府中町の東洋工業に動員されていた娘の美智子さんは6日午後4時過ぎになってやっと家の近くにたどり着いた。「爆心地に近づくにつれ、男とも女とも見分けがつかない丸焦げの遺体が転がり、怖いという感覚しかありませんでした」。美智子さんは自宅の焼け跡で母の骨を見つけた。「骨がかさかさに焼けていました」という(「中国新聞」2000.2.21)。もし美智子さんまで原爆で亡くなっていたら、岸本さん一家はこの世から跡形もなく忘れ去られてしまっただろう。

 島病院や広島郵便局についてはブログ「爆心地ヒロシマ」に書いているが、島病院は6日に県中部の町に出張していた院長の島薫さんと看護婦の入澤(旧姓松田)ツヤ子さんのほかは全滅だ。亡くなったのは80人ほどと見られる。けれど遺体を確認できたのは玄関前で黒焦げの死体となっていた婦長の宮本さんだけ。書類がみな焼けているので島院長は一生懸命思い出して「島病院戦災者(死亡)名簿」を作ったが、記すことのできた死没者は41人だけだった。3年後に病院を再建した時は、沢山の骨が掘り出された」と院長は回顧している。(中国新聞報道センターヒロシマ平和メディアセンター『ヒロシマの空白 被爆75年』中国新聞社2021)

 島病院の筋向かいには広島郵便局があった。中国新聞の特集記事「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」(2000.2.24)によると、中国新聞が確認できた広島郵便局の死者は職員173人、動員された祇園高等女学校4年生41人と引率教師1人、本川国民学校高等科2年生8人と教師1人、さらに局舎内の育児室にいた幼児8人の計232人。

 男性職員が兵隊に取られ、その代わりに多くの女性が臨時に雇われていた。それだけでは足りずに女学生が窓口業務に入り、高等科の生徒が郵便配達に回った。当時33歳だった有馬タケヒノさんの思い出を13歳だった娘のキク江さんが語っている。

 

 「大根めしが毎日のように続いていたことから、あの朝は、母に不満をぶつけ、口げんかになりました。母は出掛けしなにうつむき、『たいぎいけど、行かにゃあね』と言いました。育ち盛りの子どもに米のご飯を食べさせられない情けなさでいっぱいだったと、今にして思います」(「中国新聞」2008.1.3)

 

 「たいぎいけど、行かにゃあね」が母の残した最後の言葉。木造の広島郵便局は地下室まで爆風に圧しつぶされ、そこには大量の骨が一塊になっていた。今、その場所に立って想像しろと言われても、とても想像できるものではない。

 中国新聞の特集「ヒロシマの記録——遺影は語る 細工町」(2000.2.21)に掲載された細工町の住民一人ひとりの被爆死の記事から町全体の状況を知ることができる。

 森冨修一さんは原爆が投下された時鳥屋町の自宅にいたと見られているが、それは自分が経営する細工町の常友寝具店に行かなかったということだ。「遺影は語る」によれば、島病院南隣の原田撞球場から常友寝具店など本通り筋にかけての9世帯は7月末までに立ち退きを命じられていたから店を閉めていたのだろう。けれど、アメリカ空軍が撮影した7月25日の空中写真を見ると、これらの建物はまだ取り壊されていない (日本地図センター『広島・長崎 戦前・原爆・戦後 空中写真と地図の伝承録』2025)。

 それでビリヤード・キャット南隣にあった食堂の主人などは店を閉めてもそのままそこに住んで、8月6日まで広島郵便局に勤めていた。

 細工町の建物疎開は広島郵便局を空襲から守るためだったに違いない。いつ空襲があってもおかしくなかったのだ。それなのに住民が引っ越ししていないのには訳があった。

 中国新聞記者の大佐古一郎さんは郊外への引っ越しが決まると、県の輸送担当課長に運送業者の手配を頼んだ。引っ越しは業者の荷馬車と自分たちが引っ張る大八車が2台。トラックなどは軍の工事や軍需工場の疎開が優先で、コネで荷馬車が使えるだけまだマシだったかもしれない。でも業者は人の足元を見て高い料金をふっかけてきた。「これが県の輸送課長じきじきの指示でやる仕事だから、普通の闇運賃でとる法外な値段が思いやられる」と大佐古さんは憤慨して日記を書いている(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)。これでは貧乏な人の引っ越しは難しい。強制疎開にあったら近くの知り合いの家にでも転がり込むしかない。

 また、医者は最初から疎開が禁止されていた。救護のためとはいえ、街全体が火の海になることを想定していなかったのだろうか。

 私の父は手記にこう書いている。

 

 新聞には、相変わらず日本軍の勝利の報道が並べられていた、敵空母轟沈 最後の勝利は我にあり、本土決戦等々。

 「呉の町はもう全滅だぞ、夕べの空襲で丸焼けになったんだ」といいながら、草履と下駄を半々に履いて出勤してきたT君も、猛火に追われて逃げ回った身で呉の住人である。それが今朝はもう出勤して来たのだ。「いずれ新聞には損害軽微と出るだろうが、あれは大嘘で、呉へ来て見い、沖には軍艦がいっぱい沈んでいるんだ、グラマンの急降下の凄いこと、高射砲は撃っても撃っても、B29は1機も落ちんかったけえのお、やられるままよ。」T君の言葉をうなずいて聞いたものである。

 「新聞やラジオの大本営発表も当てにはならんぞ。」と口では言いながらもまだ戦争に負けるとは夢にも思わなかった。(精舎法雄「火焔―私の原爆体験記―」1990)

 

 細工町には8月6日、雑魚場町の建物疎開に動員がかかった。自分たちの手で街を壊してもなお、人々は広島市に空襲のないことを願い、日本の勝利の日を夢見ていたのだろうか。出かけた人は全滅だった。

 森冨さん一家の引っ越し先の鳥屋町は島病院から直線距離で100〜150mくらい。この町もまた爆心地と言っていい場所だ。けれど修一さんの二男茂雄さんにとっては鳥屋町も細工町も子どもの頃の思い出が詰まった場所だった。ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編『証言 町と人の記憶』(2010)や画集『消えた町 記憶をたどり』(2011)で詳しい証言と絵を残されている。

 一枚の絵には、常友寝具店の隣に満腹堂という二重焼屋が描かれている。学校から帰ると母から5銭もらって買いに行っていた。その並びの原田撞球場(ビリヤード・キャット)では父親の修一さんと島病院の院長がいつもビリヤードをしていた。島病院の中庭は近所の子どもたちの格好の遊び場だった。

 1945年8月6日、広島市造船工業学校3年だった茂雄さんは爆心地から2.5kmの己斐にあった工場に動員されていて助かった。午前9時過ぎに帰宅許可が出て「黒い雨」に濡れながら自宅を目指したが、市内中心部に近づくにつれてあたりはまるで「地獄絵」のよう。十日市から相生橋を渡り紙屋町まで来たが、そこから先は炎に阻まれた。茂雄さんが親戚のおじさんと一緒に自宅の焼け跡で骨を拾ったのは8月16日になってのことだった。

 8月6日の森冨家は、茂雄さんが朝6時半に家を出て、弟で市造船工業学校1年の康雄さんも中島新町(現 平和公園)の建物疎開に出た。家にいたと思われるのは父親の修一さんと、疎開先から戻っていた祖母のトメさんと末の弟の保さん、それに一緒に暮らしていた姪の藤野定子さんの5人だった。

 

 十六日に探したら、骨がそこらに転がって、姪が炊事場のタイルにさばりついて、のめりこんだように倒れ込んで、もんぺがタイルについとったんです。それで、姪じゃということがわかった。そのおじさんの子どもです。

 姪と、後の分は骨をとって、その骨を四等分したんです。(中略)だから、未だに弟がどこで亡くなったやら、親父がどこで亡くなったやら、おばあさんがどこで亡くなったやらわからんです。(ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編『証言 町と人の記憶』2010)

 

 建物疎開作業中だった康雄さんは行方知れず。自宅の焼け跡では、姪の定子さんの骨以外、転がっていた骨は何体なのか、どの骨が誰のものかわからない。父や祖母は外出していたかもしれないし、済美国民学校は8月6日が登校日だったが、保さんが登校したかどうかわからない。やむをえず、あたりに散らばっていた骨を集めて四等分し、父の修一さんと、弟の康雄さん保さん、それに祖母のトメさんの骨として故郷の墓に納めたのだ。

 やれ空襲に備えろ、疎開をしろと言われても、市民の多くにとってできることは限られていた。そして8月6日を迎え、みんな突然姿を消してしまった。

 森冨茂雄さんは60歳を過ぎてから鉛筆で絵を描くようになった。2021年に92歳で亡くなったが、茂雄さんが画集に残した絵が43枚ある。そのうち8月6日を描いたのは2枚だけ。あとは親兄弟、友だちとの思い出がいっぱいつまった、懐かしい広島の街並みを描いていた。

 「平和公園(爆心地)街並み復元図」(中国新聞社2000年)を見ると、本通りと細工町の通りの角には「常友」という寝具店があった。この店を森冨修一さんがはじめたのは1936年。自分たちの住まいは最初猿楽町で1943年に下中町に移った。ところがその住まいが1945年3月に「建物疎開」に引っかかった。

 1945年3月10日の東京大空襲から、広島市でも「疎開」が一気に進んだ。大佐古一郎さんの『広島昭和二十年』(中公新書1975)によれば、中国新聞社ビルは4月5日に「防空重要建物」に指定されて周辺の民家が強制疎開の対象となっている。森冨さんの下中町の家は広島電話局(現 NTT袋町ビル)の真ん前にあったようだが、広島電話局も間違いなく「防空重要建物」。7月25日にアメリカ空軍が撮影した空中写真を見ると、広島電話局の周りはすでに空き地になっている(日本地図センター『広島・長崎 戦前・原爆・戦後 空中写真と地図の伝承録』2025)。森冨さん一家もあわただしく引越したのだろう。

 森冨家の引越し先は店の近くの鳥屋町(現 中区大手町二丁目)だったが、同じ頃に広島市の北にある亀山村(現 広島市安佐北区)にも家を借りて、修一さんの母親のトメさん、四男で済美国民学校5年だった保さん、それに再婚した妻とその子どもの4人を疎開させている。それだけいつ空襲があるかと誰もが不安に思っていたのだろう。しかしそうなると、引越し先を見つけるのも、引越し荷物を運ぶのも一苦労だったはずだ。(ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編『消えた町 記憶をたどり』2011)

 中国新聞記者の大佐古一郎さんは大手町八丁目(当時)に家を借りていた。今は市役所の西側あたりになる。大佐古さんの日記によると、3月9日に玄関脇に小さな防空壕を作り、妻が「わが家もとうとう戦場ね」とつぶやいている。

 その翌日、東京大空襲があった。市内中心部は危険だということがはっきりした。広島市でも建物疎開が急ピッチで進められ、幼児や高齢者など市にとって「無用な人」の疎開も推奨された。その一方で、家が夜に無人になることは禁止された。焼夷弾攻撃による被害を少なくするためだという。

 5月29日、大佐古一郎さんの留守中に、広島市の東の府中町に疎開しないかという誘いがきた。

 

 東洋工業に近い鹿籠(こごもり)なので空襲の危険度はかなり高いが、すぐ裏の小さな山には横穴壕もあって裸同然の大手町より安心だという。妻は

 「いま住んでいる家を勝手に空き家にすることは、町内の防衛力を弱めることになるので許されない。だれか後に入る人がいないことには疎開できぬ」と話しておいたそうである。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 6月になって問題が片付いた。材木町の家が強制疎開になるので引越し先を探している人が見つかったのだ。

 大佐古さんが借りる家は広島市助役だった人が建てた家。今の家主はより遠方に疎開する。大佐古さんの後に入る人は貧しい一人暮らしの女性。近くにしか引越しできない。「人間の疎開はそれぞれ分に応じて行き先が違うようになっているらしい」と大佐古さんはため息をつくのだった。

本通りから見るかつて細工町だった通り

 原爆ドームに向かう川沿いの道は元安橋東詰のスクランブル交差点を渡る手前から左に入るが、交差点を渡るとすぐにまた原爆ドームの東側を抜ける道がある。けれど今回その道は通らず、そのすぐ先で左に曲がってみよう。島内科医院(当時は島病院)の看板が目に入るはずだ。そこは通りの両側がかつて細工(さいく)町と呼ばれていた。

 細工町は小さな町だったが、そこに広島郵便局と西向寺、西蓮寺の二つの寺が町の面積の三分の一を占めていた。また島病院の他、山陽医院、清(せい)病院、黒川病院と病院の多いのも目立つ。この町は、原爆で「沈黙の世界」となった。

 広島文理科大学(現 広島大学)の文学部助教授だった小倉豊文さんは知己の医師清茂基さんの消息を尋ねて細工町の焼け跡に何度も通ったという。

 

 歩いて見てしろうと目にもはっきりわかるのは、破壊と焼失の程度が、たしかに他の廃墟とはっきりちがっていることだ。郵便局や西蓮寺は木造だから当然でもあろうが、清さんの病院はコンクリート造りだったのに、やっぱり見る影もなくこっぱみじんだからね。清さん一家も建物と同じようになってしまっただろう。心当たりをかなりたずねたが、いまだにわからない。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 2000年2月21日付の中国新聞特集記事「ヒロシマの記録-遺影は語る 細工町」によると、妻のハナさんが、診察室跡で見つけた三体の遺骨のうち一体をメガネのレンズ片から夫の遺骨と確認している。茂基さんは妻子と3人で暮らしていた草津町の別宅から細工町まで通っていた。

 中国新聞は当時約40世帯だった細工町の住民のうち72人の被爆死の状況をつかみ、遺族から提供された54人の遺影とともに紙面に掲載した。被爆直後に身近な人の消息を尋ねた人たちがかなりいたのだ。学童疎開した人たち、軍隊に取られていた人たちのほか、ハナさんのように郊外に疎開していた人も多かったからだろう。『広島原爆戦災誌』は市内中心部の疎開状況をこう記している。

 

 本通り商店街地域は、被害激甚で、不明の個所が多いが現存者の一人中山良一(中山楽器店主)の資料によれば、人員疎開は、各町とも総人口の約半数が疎開し、疎開前は各町一〇〇戸から二〇〇戸あったのが、疎開後は各町とも五〇戸ぐらいになっていたという。

 大手町筋、及びその周囲の各町は、商店経営者が多かった関係上、店舗を空家同然にしておくことは事実上できなかったから、家族が交替で疎開先に帰るという方法をとっていた。(『広島原爆戦災誌 第二巻』)

 

 細工町にあった印判店「一心堂」の跡取りの西村喜一さんは郊外にある妻の実家から通勤していたが、5 日の夜は店に泊まり被爆死した。親とは別に疎開していた四女の秋子さんが焼け跡を探している。

 

 「7日に入るとまだ熱く、通りには黒焦げになった中学生や馬の死体がありました。実家跡にあった骨を拾い、陶器のかめに納めました」(「中国新聞」2000.2.21)

 

 清さんや西村さんの家族など、わずかながらも、骨を拾い状況を伝えた人もいたのだ。

元安川の灯籠流し

 陸軍船舶練習部第十教育隊は、負傷者の救護や遺体の収容のため、8月6日午後から7日にかけて次々と広島市内に入った。隊員の一人和田功さんの手記によれば、和田さんたちの小隊は7日から川の中に浮かぶ遺体の収容を始めている。

 

 八月八日、相生橋東詰の産業奨励館(原爆ドーム)の下の川岸にたどり着く。元安川に流れている死体の収容作業が始った。満潮になれば潮に乗って上へ流れ、引潮になれば下に流れて行く死体を一体ずつ引揚げた。川の中に飛び込み、泳ぎ、足に綱を掛けて岸から引寄せる。一日約五十~六十体位火葬した。特に軍人が多かったように思う。みんな水死体にある如くブクブクに膨張し、鼻から水がブクブク、泡を吹いていた。水に漬った皮膚はすっかりふやけて青白く面変りしていた。 (『広島原爆戦災誌 第五巻』)

 

 他の隊員の証言では、火葬は最初五体くらい集めておこなっていたが、遺体の数があまりにも多く、きりがないので二十体三十体とまとめて焼くようになった。数十体の膨れあがった遺体がずらりと並べられた有様は見るに耐えないものであったという。

 火葬は市内の至る所で行われた。焼けた寺院の境内、学校の校庭、そして橋のそばの空き地。今でも掘れば骨のかけらや骨粉など出てきてもおかしくない。

 1950年10月5日、その頃原爆ドームの南隣にあった五流荘というバラック建ての集会所で丸木位里さん丸木俊さん夫妻共同制作の「原爆の図」展示会が開かれた。主催は峠三吉たち「われらの詩(うた)の会」。展示された絵は「幽霊」、「火」、「水」の三部作。

 原爆投下の三日後に東京から故郷の広島に戻った位里さんは、後を追って広島に入った俊さんとともに1か月間救援活動に励んだ。けが人を運び、死んだ人を焼き、食べ物を探して歩いた。「再び繰り返すな」という思いから「原爆の図」を描き始めたのは1947年。三部作が完成するのにそれから3年かかった。

 「水」という絵には、川べりに山のように積み重ねられた遺体が描かれている。そして川の中には幾多の息絶えた人たち、まだ息のある人たち。その中に、こと切れた赤ん坊を抱く大火傷の母親の姿が見える。

 

 (前略)

 水、水。

 人々は水を求めてさまよいました。

 燃える炎をのがれて、末期の水を求めて─

 傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。

 水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、

 炎が川をつつんであれ狂う中を水に頭を冷やしながら、

 のがれのがれて、ようやくここまできたのです。

 乳をのませようとしてはじめて、

 わが子のこときれているのを知ったのです。

 20世紀の母子像。

 傷ついた母が死んだ子を抱いている。

 絶望の母子像ではないでしょうか。

 母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。

 (丸木位里・丸木俊『原爆の図』原爆の図丸木美術館1972)

 

 太田川の川べりに生まれ、太田川の恵みに育てられた丸木位里さん。自分が見た川の惨状、人から聞かされたあの日の川の惨状は、どれだけ位里さんの心を苦しめたことか。