広島二中慰霊碑
爆心地からの距離800〜900mの小網町あたりで原爆の熱線を浴びると、皮膚がめくれ、顔は親でも自分の子とわからないくらいに膨れ上がった。服が燃えて身体も火傷になった。それでもなんとか動ける人たちは無我夢中で救護所をめざし、あるいは我が家に向かった。
けれど救護所に指定されていた己斐国民学校では、ようやくたどり着いてもすぐに亡くなる人が続出し、9日朝になって校庭で火葬する時に遺体を数えたらちょうど800体だった(『広島原爆戦災誌 第四巻』)。子どもの時に己斐で被爆した森重昭さんの調査では、己斐国民学校で8月9日以降一か月の間に火葬された遺体は2300体に及んだという。(森重昭『原爆で死んだ米兵秘史』光人社2008)
爆心地から500mくらいになると熱線のエネルギーは倍にもなる。屋根瓦は原爆の熱線で表面が溶け、ぶつぶつになって固まった。1945年10月に調査に入った東京帝大の菅義夫教授が瓦を電気炉で加熱してみると同じような状態になった温度は1200〜1250度 (「中国新聞」2024.10.22)。広島の原爆の場合は強烈なエネルギーの赤外線を吸収した瓦が発熱するので、外から加熱するのと条件が異なるのではと思うのだが、とんでもない熱線の威力であったことは間違いない。最近の調査では、爆心地から850m圏内で表面がぶつぶつになった瓦が見つかっている(「中国新聞」2020.10.19)。もちろん、爆心地に近づくほど瓦の表面のぶつぶつは大きくなる。
広島平和記念公園の中、国際会議場西側の本川の土手に県立広島第二中学校(「二中」)の慰霊碑がある。爆心地からの距離は480m。
1945年8月6日の朝、この辺りで二中1年生約320人は整列して建物疎開作業前の点呼を受けていた。その時、上空にB-29爆撃機が姿を現し、ある学級では「休め」の号令がかかり担任の先生は「B29がどちらに行くか見ておれ」と言ったとか。
生徒は飛行機を見上げたままでしたから、三学級の森中武俊くんのように、原子爆弾が落ちてくるのを、はっきりと見たものもいました。
「先頭のB29から、まっ黒なドラムかんのようなものが落ちてすぐに、ほかの飛行機からパラシュートがついたものが、三つ落ちてきた」(広島テレビ放送編『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社1970)
「まっ黒なドラムかん」はおそらく原爆。次の瞬間に世界は一変した。亡くなる前に生徒が言い残した言葉によると、ピカッと光った途端に服に火がつき、同時に爆風で木やトタン板が飛んできた。爆風で本川に吹き飛ばされた生徒もいれば、一瞬にして崩れ落ちたレンガ塀の下敷きになった生徒もいた。四学級担任の箕村登先生は「川に飛び込め」と叫んだ。(中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島二中」1999.11.16 11.17)
一学級の大橋正和さんの言葉が残されている。
「倒れていて気がついたときは、顔と手の皮がやけどでむけていました。自由に退避せよ、といわれたのですが、生きていたものは、ほとんどが川にとびこみました」(『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』)




