オッペンハイマーが開発のリーダーシップをとった原爆は市民を大量に殺害するための兵器だった。それでもオッペンハイマーは、「世界から戦争がなくなる」ためとして原爆の使用を正当化した。彼はその事を悔やむようになるのだが、ところが数年後に考えを改めている。そのことは原作に書かれてあるが映画には描かれていない(たぶん)。
1949年にソ連が原爆を手に入れるとアメリカ政府内では水爆の「緊急開発計画」が論議されるようになった。しかしオッペンハイマーたちは水爆に反対する。威力が大きすぎて倫理に反するというのだ(原爆ならいいのか?)。そしてソ連の侵略を抑止するには「戦場用」核兵器がより有効であると提案した。
映画の原作『オッペンハイマー』の著者カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンはこう指摘している。
大量虐殺戦争に対する特効薬として、オッペンハイマーが戦術核兵器の方を重視したことが、予想外の結果を引き起こした。「戦いを戦場に戻す」ことによって、彼は核兵器が実際に使われる可能性を高めたのだ。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(下)贖罪』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)
最初は局地的な戦争に限定して低出力の戦術核兵器が使われたとしても、それがエスカレートしてメガトン級の水爆を撃ち合う全面核戦争の危険性は十分にある。問題はそれだけではない。1951年11月に当時のアメリカ原子力委員会の委員長ゴードン・ディーンは次のように言った。
「われわれが目指しているところは、通常兵器と同じようにバラエティーに富み、通常兵器と同じように使える原爆を保有することだ。そこには(核の)砲弾や誘導ミサイル・魚雷・ロケット・爆弾が含まれる」(吉田文彦『証言・核抑止の世紀』朝日選書2000)
通常兵器と同じ感覚で核兵器が使われたとしたら、例えばウクライナに、たとえ小型でも、核ミサイルが何十発、何百発と打ち込まれたら、ウクライナの広大で肥沃な大地には微粒子となった大量の放射性物質が紛れ込むだろう。また放射能を帯びた土は飛び散って北半球の空を覆うだろう。それが人類にとってどれほど絶望的な出来事かとオッペンハイマーは警鐘を鳴らしただろうか。実際にはその逆で、これまで放射能を撒き散らしてきたことを隠し続けたのではなかったか。彼はアメリカという国から疎外されてもなお、原子力政策については国に忠節を尽くしたのだから。
1964年6月5日、オッペンハイマーと同じ理論物理学者にして被爆者の庄野直美さんを前にして、オッペンハイマーは涙を流しながら「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝るばかりだったという。でも、オッペンハイマーは本当のところ何について謝ったのだろう。彼には謝らなければならないことはいくつもあったのだから。
最後にもう一つ。2024年6月、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)は核兵器保有9か国による2023年の核兵器関連支出が914億ドル(約14兆4千億円)という推計を発表した(「中国新聞」2024.6.18)。この5年間で34%も増加している。「核の連鎖反応」は続いているのだ。地球を食い潰すまで。残された時間はあとどれくらいあるのだろうか。