ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 先日、近所のおじいさんが亡くなった。95歳。今だったら中学2年生くらいで徴用され、広島の三菱重工広島機械製作所で被爆した。途中野宿し二日がかりで歩いて家に戻ったと私に話してくださった。

 今年の1月には98歳のおばあさんが亡くなっている。広島市から北に車で1時間くらいのところにあるお寺で、被爆した人たちの看護にあたった。ついこの間まで杖をついて元気よく散歩しておられたような気がするが、施設に入られ亡くなられるのはあっという間だ。お二人に限らず、あれを聞いておけばよかった、これを尋ねておけばよかったと思うのは、いつも話を聞けなくなってから後のこと。

 私の母は今96歳。頭も体もまだしゃんとしているが、あの日のことは頭の中が真っ白になって思い出せないと言っていた。でも昨年、同じ町内に住む被団協の箕牧智之さんが被爆体験記集を作りたいと言われ、頑張って書いてもらった。

 

 戦後八十年み山に抱かる九十五老の涙は盡きずいくさ止まざり

 

 私の涙の源泉の一つは慟哭の広島へ入った十五歳の夏。三次高等女学校三年の私達は八月十八日にトラックに分乗して市内の銀山町に集合し、そこから私は数人の友と一緒に矢賀小学校の救護所へ。そこで目にした状景は魚をびっしり並べたような被爆者の姿。ハエがぶんぶん舞っていました。山の中からぽっと出た少女に出来ることはお粥を炊く、包帯を洗う位。苦しんでいる人に声すら掛けられません。夜寝室に当てられた教室から見た校庭には死者が山のように積まれ、木切れで覆い焼く炎の色、匂い。それだけ覚えています。

 原爆に直接遇っていない私が言葉にするのもおこがましいけれど、焼け野原のヒロシマの惨状、生き残った人の苦痛の様をこの目で見、心に焼きついた悲しみ怒りは八十年経た今も決して消えず、戦争の絶えない世界のニュースにふき出す涙を押さえることが出来ない九十五歳の私。(精舎悦子「戦後八十年」北広島町原爆被害者の会『被爆80年〜北広島町の被爆者たちは〜』2025)

 

 母の気持ちは、「今が平和でうれしい」ではなかった。あってはならないことが今も世界で繰り返されていることに涙ぐむ。そういえば、私の父、精舎法雄は1990年に書いた被爆体験記の最後をこう締めくくっている。8月6日の夜に思つたことだ。

 

 「これが戦争であったのか。戦争とはこんなにまで悲惨で恐ろしいものであったのか。これまでは勝つと教えられ、勝ったと有頂天になっていたが、勝っても負けても、幾百幾千の、いや幾百万とも知れぬ人々の命が奪われ、その数倍の家族まで悲しみの底に沈まねばならない。もう戦争は嫌だ、絶対に嫌だ。」ひとり心の中に叫んだのである。(精舎法雄「火焔—私の原爆体験記—」1990)

 

 私の父が今生きておれば、今の日本や世界の有り様をどう思うだろう。

 ブログを書き始めてからこの秋で10年が過ぎる。でも、これまで長くご一緒させていただいた人たちの思いを受け継いでいくためには、まだまだやめられそうにもない。

 太平洋戦争中、全国各地で街が火の海になり防空壕に避難しても助からなかった人たちがたくさんいた。海軍がつくった、まさに「軍都」である呉市は、市街地を囲む山々に横穴式の公共防空壕だけで延べ26,000m掘っていた。約80機のB-29爆撃機が呉市市街地を襲ったのは1945年7月1日深夜。

 

 B29はゆうゆうと海の側から侵入して来ました。亀山神社の左側(和庄地区)の方にキツネ火が連なるように燃え始め〈きょうこそ戦わんにゃならん〉と覚悟しました。炎は休山山ろくの和庄地区から灰ケ峰山ろくの平原地区、再び休山ふもとの長迫地区へと市街地の東周辺部から中心部へと広がり、“暴君ネロ”の火攻めでした。(中国新聞者呉支社『改訂版呉空襲記』中国新聞社1975)

 

 呉市は約8万発の焼夷弾で全市火の海となった。呉警察部の調べでは22,052戸が全焼し、半焼は116戸。死者1817人、重傷者116人、軽傷337人、行方不明52人で被災者は122,535人。逃げ遅れて焼死した人も多かったが、風下の和庄地区では防空壕に煙が入って多くの人が窒息死した。助かったひとり宮本澄枝さんが逃げ込んだ防空壕は入り口が5か所あり、計画では6000人が収容できる大きな防空壕だった。両親や妹と一緒に壕に入ってすぐにドカンと大きな音がして壕が揺れ、電気が消えた。中は人がいっぱいで身動きができない。誰かがローソクに火をつけたが、すぐに消えた。酸素が欠乏してきたのだ。

 

 煙がごう内へ猛烈に流れ込んで息苦しくなりました。「水を、水を下さい。だれか水を下さい。子供が、子供が死んでしまう」母親の号泣を聞いてもどうすることも出来ません。

「水を、水を」と叫び続けた人も号泣していた人も次第に静かになりました。(『改訂版呉空襲記』)

 

 宮本さんはなんとか助かったが、この防空壕では550人が亡くなったとされる。中国新聞の大佐古一郎さんは焼け出された中国新聞呉支社の社員からこんな話を聞いている。

 

 「海軍をあまりに信頼し過ぎていたから、市民の被害が大きくなった。防空壕も街に近い横穴ほど死者は多かった。これは壕の奥が山の中腹へ吹き抜けになっていたため、街の炎や煙が吸い込まれたからだ。しかし中には土に顔をくっつけて、かすかに呼吸しながら生き残った人もある。荷物も防空壕に頼り過ぎて地方への疎開を遅らせたため、多量を焼いてしまった」(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 私も昔、呉の防空壕を見学したことがある。藪をこいで行くと山の中に大きなトンネルがあり、トンネルの反対側からは呉の街が一望できた。空襲の時、あのトンネルは巨大な墓場でしかなかったのだろうか。 

 完全装備の核シェルターでも、換気口が一か所でも破損したら煙が充満してしまうかもしれない。逃げ道はない。酸素がなくなってしまう前に救援が来ることを祈るしかない。地下街だったらどうだろう。ここは火災が発生するかもしれない。爆風に吹き飛ばされてもまだ動ける人は、火の気のないところ、煙のこないところを探して逃げ惑うのだ。

 理論物理学者の庄野直美さん(1925-2012)は核シェルターについてこう述べている。

 

 シェルターは、爆風・熱線・初期放射線を避けるのには一応有効でしょう。しかし、火事嵐を含む大火災に対しては全く無力です。1メガトンの核爆発では(中略)爆心地から15キロの円内に置いて火災や大火災が発生します。そのために、シェルターの中の人間は、窒息死するか焼死するでしょう。(庄野直美『ヒロシマは昔話か—原水爆の写真と記録―』新潮文庫1984)

 

 日本核シェルター協会は、核シェルターの条件として「外部からの粉塵や火災による煙、汚染された空気を遮断する気密性がある。また、これらを浄化するフィルターを備えた換気装置も必要である」としている(「日本核シェルター協会」ニュース2025.5.1)

 

 コンクリート製のシェルターは火災の熱を遮断するものとなっているだろうが、ただし日本核シェルター協会モデルルーム見学記事の最後の指摘が気になった。

 

 地上出入り口のドアを開けるとすぐにコンクリート造りの階段が地下へ続く。20段ほどを下りると、分厚い防爆扉があった。鉄筋コンクリートの枠にコンクリートを流しこんだもので、厚さ20センチ、重さ約1トン。ドアの外側を300度で2時間熱し続けても、内側の表面は15度しか上がらないという。(中略)

 中は約22.5平方メートル、高さは2.8メートルあり、思ったより広々とした印象だ。スイス製の換気装置を備え、蓄電池も用意してあった。スイスの規格にならい、緊急用の脱出口もある。

 この換気装置では、放射性降下物やサリンなどの化学物質、細菌やウイルスなどを除去できるといい、停電時には手動で動かすこともできる。ただ、一酸化炭素を除去することはできないため、地上で大きな火災が発生した場合は、一時的に外からの給気を止める必要があるという。(「朝日新聞GLOBE+」2023.07.20)

 

 シェルターに一酸化炭素が充満したら大変なことになる。核爆発が起きてからどれだけの間換気装置を停止しないといけないだろうか。広島原爆の場合、当時の広島管区気象台は次のように観測している。

 

 江波山よりの観測によれば、火災は爆発5分経過してから、市中より転々と煙が立ち始め、爆発30分後には既にかなり大きな火災群を舟入町、天満町、国泰寺方面其他に見るに至り、10~14時頃最盛、夕方になつて稍衰へたが業火は夜空を炎々と焦し市内一帯火の海で、爾后も各所に延焼、翌日 10時頃から段々部分的になつたが、局部的には尚3日間以上燃え続き、余燼は一週間に及んだ。(広島管区気象台「廣島原子爆彈被害調査報告(氣象関係)」1947)

 

 当時の広島市の本庁舎は地下1階地上4階の鉄筋コンクリート造りだったが、原爆さく裂直後に周辺の民家から火が出て街全体が火の海となり、市役所も午前10時ごろに火の手が上がって自然鎮火したのは午後3時ごろだった。現代でも街全体が火災となればビルにスプリンクラー設備があっても限界があろう。その時、シェルターの換気口はいつまで閉じておけばいいのだろうか。

 アラートが鳴って核シェルターに避難したら本当に核爆発が起きたとする。そうなると、どれだけの間シェルターの中に籠っていなければならないだろうか。2023年5月に日本核シェルター協会が公開したモデルルームでは、「7人の家族とペットが2週間核シェルターで過ごすことを想定して、食料、水、日用品、トイレットペーパーなどの備蓄品を用意」とある。(「日本核シェルター協会」2023.5.10)

 前にブログ「人類の自殺」を書いた時は、広島なら1945年8月6日から2週間以内に爆心地から半径2km以内に入った人は被爆者として認定されるので、放射線の被害を避けるに2週間という期間が設定されたのかもと想像したのだが、実際はスイスの基準に従っているのかもしれない。

 

 スイスは「シェルターで2週間生活できる」ことを想定しています。核爆発によって発生する放射線(ラドン222)が2週間後には10分の1に減るからです。(「朝日新聞2024.6.17)

 

 ラドン温泉なら聞いたことがあるが、核爆発でラドンが発生することをこの記事で初めて知った。調べてみるとラドン222は無味無臭、無色のガスで、半減期は約3.8日。崩壊してポロニウム(Po218)や鉛(Pb214)などに変化していく過程で出るアルファ線による内部被曝が問題となる。このラドンガスはウラン238が変化したラジウム鉱石から発生し、地中から漏れ出してウラン鉱山労働者の肺ガンの原因となり、さらに密閉性の高い石造りの家などで室内のラドン濃度が高いままだと喫煙に次ぐ肺ガンの危険因子となるようだ。(環境省ホームページ「放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料」2025)

 ではどうして核爆発でラドン222が発生するのだろう。水爆の構造は今もなお軍事機密だが、一般に3F爆弾であろうと言われている。まずプルトニウム原爆で核分裂(fission)を起こし、これが引き金となって重水素や三重水素が核融合(fusion)して大爆発する。この水爆をさらにウラン238で包むと、核融合によって生じる高速中性子がウラン238を核分裂(fission)させる。水素爆弾は核融合と核分裂でメガトン級の爆発力ととてつもない高熱を発生させるが、ウラン238が核分裂してできる大量の「死の灰」も人類に深刻な被害をもたらす。それを最初に目の当たりにしたのが1954年3月1日の水爆実験「ブラボー」だった。この時ラドン222も大気中に放出されたと考えてよかろう。

 ラドン222はガスだから防塵マスクでも防げない(核シェルターのフィルターは防げるのだろうか)。酸素ボンベ付きの防毒マスクでないと無理だろう。でも市民全員が酸素ボンベを常に携帯はできないから、やはり放射能が減少するのをじっと待つしかない。

 でも、本当に何千何万の人たちが2週間もシェルターに籠っていられるのだろうか。統制が取れるのだろうか。私自身は精神衛生上3日が限度のような気がする。けれどラドン以外の放射性物質を考えれば2週間どころの話ではないかもしれないし、逆に、一刻も早くシェルターから脱出しなければならない事態が発生するかもしれない。

 もし核シェルターが必要とされるような悲しい世の中になったなら、自治会の加入は任意だなどと言ってはおれなくなるだろう。日頃からシェルターを維持管理するために役割分担を決め、定期的に訓練を行なって、長期にわたる避難生活が維持できるよう準備しておかなければならない。

 核シェルターが小さなコミュニティ専用で、いざという時にそのシェルターに逃げ込む人数が確定しているなら、備蓄する水や食料の数量も決めやすいし、運営も比較的やりやすいだろう。けれど都心部の地下鉄駅が核シェルターに転用されるとなると、さまざまな問題点が出てくる。スイスのルツェルン市では1970年代に2万人規模の核シェルターが建設された。維持・管理にあたる職員は700人。シェルターの中には病院からクリーニング施設、ラジオ局、駐在所や刑務所まで揃っている。でも実際に避難訓練をしてみると惨憺たる結果となった。

 

 トンネルの両端に350トンという巨大な防爆扉が設置されていますが、ひとつが完全に閉まりきらないという問題が発見されました。

 また、核シェルターが巨大すぎて迅速な移動ができないという問題も発生しました。先般お伝えしたように、スイスでは非常事態宣言が出てから5日間以内にシェルター内の備品を整えて、シェルターにこもるというルールがあります。しかし、あまりにも巨大すぎるため、演習では目標の25%しか達成できませんでした。20,000人分の食糧や水などの備蓄品の運搬や、避難誘導がうまくいかないことが判明しました。(日本核シェルター協会「スイス訪問記~2万人収容! 世界最大規模の核シェルター、Sonenberg核シェルター視察レポート」2023.8.2)

 

 このシェルターの規模は2,000人に縮小された。

 新宿区の昼間人口は約80万人。2,000人規模の核シェルターを整備するとなると400カ所必要になる。地下鉄の構内だけではとても足りない。現在、東京都で緊急避難施設に指定されているのは小学校や中学校が多いが、これらの施設をすべて核シェルターに改修するとなればどれだけの時間と費用がいるだろうか。そして水や食料の備蓄計画、地域住民による避難や施設・設備運営の訓練……。核シェルターのために社会の仕組みまで変えなければならなくなってきそうだ。

 当分の間、核シェルターの設置はあってもごく一部ということになりそうだ。そうなると、いざという時は隙間だらけの「緊急避難施設」でなく、わずかな核シェルターに避難者が殺到する。

 核シェルターの運営責任者にとって辛い仕事になろう。都心の地下鉄構内を改修した核シェルター。アラートが鳴り、核ミサイルが到達するまであと5分。地下鉄構内にはもともと人が多かったが、さらに周辺から続々と人が押し寄せて、すでに立錐の余地もない。定員オーバーとなれば、爆発予定時間前でも防爆扉を閉めなければならない。無理やり入ろうとする人を押し返し、扉は閉ざされていく。国民を守るはずのシェルターが、国民を排除し見殺しにする施設になってしまうのだ。

 都心で働く普通の会社員にとって、「今日はちょっと胸騒ぎがするから自宅のシェルターでリモートワークします」なんていうのは夢物語に近いだろう。世の中が物騒になれば誰もが会社の近くにシェルターを望むのではなかろうか。ただそうなるとシェルターの規模は必然的に大きくなり、その費用も高額となる。複数の防爆扉だけでなく、その奥に放射性物質の侵入を防ぐ気密扉も必要だ。換気設備も放射性物質を除去するフィルターが必要で、しかもそのフィルターは核爆発の爆風に耐えるものでなければならない(爆発時にフィルターを防護するシャッターが降りるのだろうか)。さらに大人数が籠るのだからエアコンも欲しいし、特に日本であれば平時から湿気に気をつけなければならない。そうなると非常用電源はいつまで持つ設計にするのだろうか。水や食料、医薬品の備蓄はどうすればいいのだろう。

 以前調べてみた。広島市が2022年につくった災害時の安全確保計画によると、広島駅とその周辺に、時間帯によっては6万人も訪れていて、そんな時にもし大地震が起きたら帰宅困難者が約8,500人出ると見込んでいる。しかしホテルなどの受け入れ可能人数は3,430人。そして備蓄してある飲料水は2,420人分、食料は910人分しかない。(広島都心地域都市再生緊急整備協議会「広島都心地域都市再生安全確保計画」2022)

 こうした不特定多数の、しかも何万人もの人が集まる場所に核シェルターを作るとしたら、施設を作る費用だけでなく、施設を維持・管理する費用もかなり高額になるだろう。巨大なシェルターを常時運営するには複数のスタッフも必要となってくる。何せ今ごろの戦争は自国の安全保障のためと称してある日突然に先制攻撃している。平時から備えを万全にしておく必要があるのだ。

 よその国はどうしているのだろう。ロシアの隣国フィンランドは人口約550万人だが、全国約5万か所に約480万人収容できる市民用シェルターが設置され、中でも人口約65万人のヘルシンキ市には約5500カ所あるという。

 

 市中心部に近いメリハカ地区の地下約20メートルにあるシェルターは、駐車場やサッカーコート、ジムや子ども向けの遊び場として使われている。周辺の集合住宅の住民ら6000人を収容できる。避難者は、シェルターの運営などの労働、自由時間、就寝の三交代制で動く想定で、簡易の3段ベッドは2000人分用意してある。

 政府の指示が出ると72時間以内にジムや遊び場の運営者が設備を撤去する。ベッドやトイレの設営は避難者自らが行い、食料や寝具なども各自で持ち込まなくてはならない。「我々が提供するのは最低限生き延びるために必要な安全な場所と水のみ。民間防衛はサービスではなく、市民自らも役割を果たさなくてはならないのです」(「朝日新聞GLOBE+」2023.7.24)

 

 フィンランドの市民は、シェルターの設営や運営を行政に依存していないのだ。自分たちがシェルターの中で生き延びるために常日頃から何が必要かを考えて取り組んでいるのだろう。

 核戦争に耐える「核シェルター」とはどんなものだろうか。2023年に家庭用のモデルルームを見学したという新聞記事がある。

 

 地上出入り口のドアを開けるとすぐにコンクリート造りの階段が地下へ続く。20段ほどを下りると、分厚い防爆扉があった。鉄筋コンクリートの枠にコンクリートを流しこんだもので、厚さ20センチ、重さ約1トン。ドアの外側を300度で2時間熱し続けても、内側の表面は15度しか上がらないという。

 そんな重たい扉を開くと、物置を兼ねた広さ12平方メートルほどの気密室兼除染室があり、さらに扉がもう一枚ある。この扉の奥がメインのシェルター個室だった。こころなしかひんやりとしている。完成したばかりでコンクリートから湿気がでるため、除湿器が稼働していた。

 中は約22.5平方メートル、高さは2.8メートルあり、思ったより広々とした印象だ。スイス製の換気装置を備え、蓄電池も用意してあった。スイスの規格にならい、緊急用の脱出口もある。(朝日新聞GLOBE+ 2023.07.20)

 

 お値段は4000万円。私にそんなお金があったら、どこかの島に家を買って魚釣りや畑仕事をしながらリモートワークをすると思うけれど、今は個人の話ではない、誰もが入れる公共の核シェルターの話だ。

 設備でまず考えなければいけないのが「防爆」と「換気」だろう。地下鉄駅を核シェルターとして整備するなら、複数の出入り口に爆風を防ぐ防爆扉を新たに設置しなければならない。戸締りのシャッターや防火扉では心許ないのだ。広島の原爆では、爆心地からの距離が380mの日銀広島支店の鉄製のシャッターが窓枠ごと吹き飛ばされた。爆風は地下室にも侵入し、金庫室の前の鉄格子のドアを吹き飛ばしている。爆心地から約2.7km離れていた広島陸軍被服支廠でも、窓を覆う鉄扉が原爆の爆風でへこんでしまった。爆風の威力は凄まじいのだ。

 こんな想像ができる。突然アラートが鳴り、ミサイル到達予想時刻の1分前になると地下鉄駅のシャッターが一斉に降り始めた。防爆扉はまだできていなかった。上空で核弾頭がさく裂すると、爆心地に近いところのシャッターは簡単に吹き飛んでしまい、尖った破片が地下を埋め尽くした人たちに襲いかかった。走っていた列車は爆風で破損して急停車した。乗客を避難誘導し、それから修理に回すとすればかなりの時間を要するだろう。ケガ人の輸送、食料や水の緊急輸送がはたして可能だろうか。

 爆風が通り過ぎた後、地下鉄構内を埋め尽くした人たちはパニックに襲われるに違いない。今自分たちが吸っている空気に放射性物質が混じっているかもしれないのだ。1945年の広島・長崎と違って放射能が怖いことは誰もが知っている。爆風でケガ人も出たが、放射能があり火災も発生しているから外には出られないし、救急車は来てくれそうにない。電気が消えた。どこからか煙の匂いがしてきた。換気が不十分だと一酸化炭素中毒の心配がある。でも、どうしたらいいかわからない。誰かリーダーシップを発揮してくれる人はいないのか。

 ミサイル飛来のアラートが鳴り、東京都庁から急いで逃げるとすればどこがいいだろうか。私は入ったことがないが、地下鉄大江戸線の都庁前駅が最も近くて広い地下施設かもしれない。

  では都庁前駅にどれくらいの人数が逃げ込むのだろう。1万人以上? 心配なのは駅に降りる階段が狭く急なことだ。大勢の人が「将棋倒し」になったらこれだけで大惨事だ。

 2023年11月6日、国と東京都は、弾道ミサイルが飛んできたという想定で、緊急一時避難施設に指定されている地下鉄大江戸線の練馬駅で住民避難訓練を行った。

 

 ミサイル発射を伝える全国瞬時警報システム(Jアラート)が発令されたことが伝えられると、住民ら約20人が、落ち着いた足どりで都営地下鉄練馬駅の地下へ避難。改札近くでまとまってしゃがみ込み、両手で頭を守るなど流れを確認した。(産経新聞2023.11.6)

 

 この住民避難訓練からどんな課題が見えただろうか。練馬区の国民保護計画に特に変わったところがないから、この避難訓練では問題点が生じなかったことになる。でも果たしてそうだろうか。この避難訓練を報じた朝日新聞は、「不特定多数の人が集まる避難中に群衆雪崩が起きる恐れもある」と指摘するが、他にも心配なことがある。報道写真を見ると参加者は階段を降りてすぐのところにうずくまっているのだ。地下鉄構内で熱線や初期放射線は防げても、爆風が地下鉄駅入り口から階段を伝って飛び込んできてもなんらおかしくない。地下であってもどこか物陰に隠れなくてはならないのだ。

 また政府は、緊急一時避難施設として「1人当たり0.825平方メートルを基準にコンクリート造りの堅牢な建物や地下施設を指定するよう求めている」(朝日新聞2023.11.7)。0.825平方メートルというと畳半分。人が横になることを想定していないのだ。でも核ミサイルが上空で爆発したとしたら、安全な場所への避難は簡単なことではない。

 地下鉄の構内にはいつまで留まる必要があるだろうか。もちろん爆発の一瞬だけではない、その後の火災や「黒い雨」などフォールアウトも避けなければならない。最短でも1日? できれば3日? そうなるとどうしても水や食料、トイレや毛布の心配をしなくてはならなくなる。

 2024年、東京都は大江戸線の麻布十番駅に「地下シェルター」の整備を決めた。

 

 都関係者によると、地下シェルターは、攻撃の長期化で地上での生活が困難になった住民らが身を寄せる施設となる。長期滞在できるよう、水・食料のほか、換気設備や非常用電源、通信装置などを備え付ける。都は、麻布十番駅構内の防災備蓄倉庫を改装する方向で設計を始める予定で、新年度当初予算案に調査費を計上する。完成は数年後になる見通しだという。(読売新聞オンライン2024.1.5)

 

 この記事からすると、水・食料、換気設備や非常用電源、通信装置があるのが「シェルター」。そうなると地下鉄構内など都が指定する「緊急一時避難施設」は、核戦争においてはそれらが満足にない名ばかりの避難場所ということになろう。

 市内中心部の高層ビルの中にいたらどうしたらいいだろう。高層ビルといえばやはり東京都だが、私はタワマンには縁がない。行ったことがあるのは修学旅行の引率で東京スカイツリー。でもその日は雨で視界がゼロだった(残念)。六本木ヒルズにも生徒と一緒に行ったことがあるが、ここは、高さは高さでも値段の高さにビビッた。良かったのは東京都庁の展望室。景色もいいし無料なのがありがたい。

 報道によると、2026年4月20日の地震で展望室に通じるエレベーターが緊急停止し、観光客など約310人が1時間ほど展望室内で待機したが大事には至らなかった。都庁は地震対策が万全であることをアピールするが、ではミサイルが飛んできた場合はどうするのだろうか。

 ミサイルによる攻撃と言っても複数のパターンがあるが、高層ビルでまず思い出されるのが2001年9月11日に起きた「アメリカ同時多発テロ」だ。ハイジャックされた旅客機が突っ込んだニューヨーク世界貿易センタービルでは、旅客機が突っ込んだ階の上層にいた人たちが避難できず、炎と煙、そして建物の倒壊により全員が死亡した。通常弾頭のミサイルでも、高層ビルに突っ込んだらとんでもないことになるだろう。

 核弾頭のミサイルが新宿駅の上空あたりでさく裂したらどうなるだろうか。都庁の本庁舎もガラスだらけなので熱線も初期放射線も建物の奥深く入り込むだろう。そして爆風がガラスを割って飛び込んでくる。建物の構造はびくともしなくても、内部を仕切る壁は分厚い鉄筋コンクリートなのだろうか。壁が薄ければ人は壁ごと吹き飛ばされるし、壁が頑丈だったら人は壁に叩きつけられる。そしてどこかで火災が発生する。

 やはりミサイルが飛んでくる前に避難しなれければならないが、タイムリミットは5分くらいか。ふだん都庁舎にざっと1万人はいるようだが、それだけの人数が短時間の内に整然と避難階段を降りなければならない。最近の小学校の火災を受けて避難訓練の中身が問われているが、では都庁では庁舎内にいる全員が避難階段を降りてみるという防災訓練は定期的に行われているのだろうか。そんなPRビデオは探しても見つからなかった。

 全員無事に地上まで降りたとしてもまだ問題がある。政府は「屋内に地下施設があれば地下へ移動しましょう」(『武力攻撃やテロなどから身を守るために』国民保護ポータルサイト2005)というのだが、1万人、近くのビルからの避難者も含めたらもっと多くの人たちを収容する地下施設が都庁のどこにあるのだろう。東京都避難施設一覧を見ると、都庁地下駐車場が緊急避難施設に指定されているが、そこはすでに車で埋まっているのではなかろうか。

 核爆発が起きてしまったら、さらに新宿駅方面から即死を免れた人たちが、大ケガ、大火傷の体を引きずり助けを求めてやってくるだろう。都庁には水や食べ物が備蓄してあり、応急手当てもしてくれる。これからどうしたらいいか指示してくれる。誰もがそう思うのではなかろうか。

 1945年8月6日、鉄筋コンクリートの学校で、下足箱のある地下室にいたので助かったという人がいる。でも今そのような場所に生徒全員が隠れる広さはない。核ミサイルがさく裂した後で生徒を集合させるとなると、ガラスが散乱していても体育館に集めるしかなかろう。でも火災旋風が起きたら延焼は避けられない。傷ついた子どもを抱えてどこかまた別の場所に避難しなければならない。

 

 上着を頭から被り、口と鼻をハンカチで覆うなどにより、皮膚の露出をなるべく少なくしながら、爆発地点からなるべく遠く離れましょう。その際、風下を避けて風向きとなるべく垂直方向に避難しましょう。(『武力攻撃やテロなどから身を守るために』国民保護ポータルサイト2005)

 

 核ミサイルが飛んできて爆発した場合、街の人たちに爆心地はすぐにわかるだろうか。街全体が破壊されているし、爆発直後は粉塵に太陽が隠れて暗くなっているから周りの様子がわからない。政府の情報発信能力が維持されていて、電波の状況が良くて、各人のスマホが壊れていなければいいのだが。

 広島市ぐらいの規模なら、照準点はどうしても市の中心部になるだろう(レーダーサイトなど軍事上の重要施設があれば別。また東京などは複数のミサイルが飛来するのではなかろうか)。であれば、とにかく市の中心から離れることを考えるしかない。

 平和公園近くにある本川小学校だったら、どんな避難計画を立てたらいいだろうか。かつての広島原爆の照準点となったのは本川小学校そばの相生橋で、当時は広島市の中心と言っても良かったが、現代であれば広島駅エリアと紙屋町エリアを両にらみして八丁堀交差点あたりを核ミサイルの照準点にしてもおかしくはなかろう。県庁までの直線距離が約500m。広島市役所なら1200m。そして本川小学校も1200mだ。今の本川小学校の鉄筋コンクリートの建物は、崩壊はしないだろうが、爆風で内部はメチャクチャになる。本川橋を渡って平和公園に逃げ込むか、相生橋を渡ってサッカースタジアムの広場に避難すべきか。避難距離が短いのはいいのだが、爆心地に近くなるのが問題だ。だったら残留放射線が少ない方を選び、相生通りを西に走って広瀬橋を渡り、太田川放水路の河川敷に避難するのはどうだろうか。昔に比べて市内の道路幅は2倍に拡張されているので、火災を避けることもできるかもしれない。

 でも、避難に時間を要すれば、それだけ「黒い雨」に濡れる可能性が高くなる。前にちょっと書いたが、救急バッグの中のポケットレインコートやゴーグル、マスクで身を守るしかない。これでなんとか放射性物質の皮膚への付着、体内への取り込みはかなり防げると思う。ただし、中性子やガンマ線を防ぐことはできない。

 八丁堀交差点に一番近い学校は幟町(のぼりちょう)小学校。距離は400m。どうしたらいいだろう。近くに地下街はないし、逃げるとしたら縮景園だが、かつてはここも火災旋風に襲われ「黒い雨」にも降られて大変なことになった場所なのだ。