ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 オッペンハイマーが開発のリーダーシップをとった原爆は市民を大量に殺害するための兵器だった。それでもオッペンハイマーは、「世界から戦争がなくなる」ためとして原爆の使用を正当化した。彼はその事を悔やむようになるのだが、ところが数年後に考えを改めている。そのことは原作に書かれてあるが映画には描かれていない(たぶん)。

 1949年にソ連が原爆を手に入れるとアメリカ政府内では水爆の「緊急開発計画」が論議されるようになった。しかしオッペンハイマーたちは水爆に反対する。威力が大きすぎて倫理に反するというのだ(原爆ならいいのか?)。そしてソ連の侵略を抑止するには「戦場用」核兵器がより有効であると提案した。

 映画の原作『オッペンハイマー』の著者カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンはこう指摘している。

 

 大量虐殺戦争に対する特効薬として、オッペンハイマーが戦術核兵器の方を重視したことが、予想外の結果を引き起こした。「戦いを戦場に戻す」ことによって、彼は核兵器が実際に使われる可能性を高めたのだ。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(下)贖罪』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 最初は局地的な戦争に限定して低出力の戦術核兵器が使われたとしても、それがエスカレートしてメガトン級の水爆を撃ち合う全面核戦争の危険性は十分にある。問題はそれだけではない。1951年11月に当時のアメリカ原子力委員会の委員長ゴードン・ディーンは次のように言った。

 

 「われわれが目指しているところは、通常兵器と同じようにバラエティーに富み、通常兵器と同じように使える原爆を保有することだ。そこには(核の)砲弾や誘導ミサイル・魚雷・ロケット・爆弾が含まれる」(吉田文彦『証言・核抑止の世紀』朝日選書2000)

 

 通常兵器と同じ感覚で核兵器が使われたとしたら、例えばウクライナに、たとえ小型でも、核ミサイルが何十発、何百発と打ち込まれたら、ウクライナの広大で肥沃な大地には微粒子となった大量の放射性物質が紛れ込むだろう。また放射能を帯びた土は飛び散って北半球の空を覆うだろう。それが人類にとってどれほど絶望的な出来事かとオッペンハイマーは警鐘を鳴らしただろうか。実際にはその逆で、これまで放射能を撒き散らしてきたことを隠し続けたのではなかったか。彼はアメリカという国から疎外されてもなお、原子力政策については国に忠節を尽くしたのだから。

 1964年6月5日、オッペンハイマーと同じ理論物理学者にして被爆者の庄野直美さんを前にして、オッペンハイマーは涙を流しながら「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝るばかりだったという。でも、オッペンハイマーは本当のところ何について謝ったのだろう。彼には謝らなければならないことはいくつもあったのだから。

 最後にもう一つ。2024年6月、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)は核兵器保有9か国による2023年の核兵器関連支出が914億ドル(約14兆4千億円)という推計を発表した(「中国新聞」2024.6.18)。この5年間で34%も増加している。「核の連鎖反応」は続いているのだ。地球を食い潰すまで。残された時間はあとどれくらいあるのだろうか。

 前に紹介したように、オッペンハイマーは原爆さく裂の際に出る初期放射線や「黒い雨」に含まれる放射性物質の人体への影響についてトリニティ核実験の前から予測していた。だが、アメリカ政府・軍は残留放射能の存在とそれによる被害を頑なに否定した。「非人道的な兵器」を使ったと国の内外から非難されたくなかったのだ。

 しかしその裏では放射能の長期的な影響について強い関心を持っていた。広島・長崎にABCC(原爆傷害調査委員会)を設立することが議論されたのは1946年6月。「放射線の生物学的・医学的影響の詳細で長期的な調査は、米国と人類にとって、戦時はもちろん、平和利用における産業への影響という点でも重要である」とされた。(中国新聞ヒロシマ50年取材班『ドキュメント核と人間 実験台にされた“いのち”』中国新聞社1995)

 アメリカは、将来再び原爆を使用した際、自国の軍隊の行動にどのような影響が出るかを知りたかったのだ。広島・長崎の被爆者のことを思ってのことではない。それがはっきりわかるのは、戦後に行った核実験で、核爆発の直後に兵士を爆心地付近で活動させたことだ。何も知らせず、防護服もつけないままで。それは人体実験そのものではないか。

 人体実験はそれだけではなかった。1946年7月、妊娠7か月だったヘレン・ハッチンソンさんは大学病院の医師から「貧血にいいよ」と勧められて「カクテル」を口にした。その「カクテル」に含まれていたのは放射能を持った鉄(Fe59)。放射性物質が母親の体内のどこにどのように取り込まれるのか、胎児には吸収されるのかを調べるためだった。

 投与された妊婦は829人。しかし、自分とお腹の中の赤ちゃんがそんな目に遭わされていたとは誰一人知るはずもなかった。ヘレンさんと娘のバーバラさんが人体実験の事実を知ったのは1994年1月の新聞記事だった。バーバラさんが幼い頃から病気が絶えなかった理由がこれでやっとわかったという。

 大学病院は実験を終えてから20年後に追跡調査をしていることも公表され、3人の子どもが白血病やがんで亡くなっていることが判明した。その中の一人がエマ・クラフトさんの娘キャロリンさんだ。

 

 死亡したキャロリンちゃんは、四六年九月生まれの四女。彼女を妊娠中、生活が苦しく、無料診療を求めて大学病院へ通院した。誕生後の生育は順調で、ピアノが得意だった。ところが十歳の時、突然、右太ももの痛みを訴え、すぐに手術を受けた。しかし、がんは転移し、肺からのど、脳にまで達した。(『ドキュメント核と人間 実験台にされた“いのち”』)

 

 人体実験の「モルモット」にされたのはその頃生活が苦しくて大学病院の無料診療の窓口を訪ねた人たち。それだけではない。余命あとわずかのがん患者や福祉施設で暮らす子どもたちもアメリカ各地で実験台にされたことが判明している。

 オッペンハイマーの愛したアメリカこそが、世界最初に原爆の被害者を出した国だった。それは明らかに犯罪であり、そしてそのことを隠したのもまた犯罪だ。そのどちらにも、オッペンハイマーは責任を感じなければならない。彼が「核の連鎖反応」のスイッチを押してしまったのだから。

 映画『オッペンハイマー』は、熱線で顔の皮膚が弾け飛ぶ女性や黒焦げの死体を描くとともに、一瞬ではあるが嘔吐の場面もある。それは、嘔吐が放射線によって最初に現れる症状であることをクリストファー・ノーラン監督がよく知っていたことに他ならない。

 

 悪心と嘔吐は爆撃当日にきわめて顕著で、生存者の31%、死者の16.6%にみられた。嘔吐は当日のみのものが多く、翌日以後におよんだものは比較的少ない。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『広島・長崎の原爆災害』岩波書店1979)

 

 しかし、映画に出てくる放射線障害はこれだけだったとも言えよう(私はそう感じた)。それは映画だけの問題ではなく、原作の『オッペンハイマー』にも放射能についての具体的な記述はない。ただし、オッペンハイマーが放射線のもたらす危害についてよく知っていたことだけは記されている。

 

 「原子爆弾の視覚的効果は、ものすごい。投下の後には、高さ一万フィートから二万フィートの輝く閃光が続く。爆発の中性子効果は、少なくとも半径三分の二マイル以内の生命に危険を及ぼす」(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 オッペンハイマーの伝記は、放射能が人間にどれほどの禍をもたらすかについて彼がそれ以上突っ込んだ発言をしたかどうか触れていない。でも、アメリカという国は間違いなく知っていた。そして、隠した。

 広島で外科医をしていた原田東岷さんは1948年の冬、5歳の賢二君という患者を診察した。高熱があり異常なほどに痩せこけた体。驚いたのは、血液検査でまともな赤血球や白血球がひとつも見つからないことだった。

 賢二君と母親は爆心地から800mという至近距離の榎町(えのまち)の路上で被爆した。母親は原爆の熱線に焼かれて全身黒焦げとなったが、最後の気力を振り絞って賢二君を乗せた乳母車を押して逃げた。

 その時賢二君は不思議に傷一つなかった。けれど放射線は嫌というほど浴びていたのだ。その後の発熱、下痢、出血、脱毛。5歳まで生きたのが不思議なくらいだったが、その間体調の良かった日は一度もなかったという。

 原田東岷さんはアメリカが広島・長崎に設置したABCC(原爆傷害調査委員会)を頼った。ウェデマイヤー中尉という若い病理学者が賢二君を診察して東岷さんに告げた。

 

 室外に出ると彼は「残念ですが、急性白血病で、あと二、三日しか保たないのではないでしょうか。気を悪くされないことを望みますが、私はこの病気の発生を待っていたのです(中略) これから以後、この病気が続々と発生する恐れがあり、それで派遣されたのです」。そして最後に小さな声で、ソリイ(済みません)とつけ加えた。(原田東岷『ヒロシマの外科医の回想』未来社1977)

 賢二君は三日後に息を引きとった。原田東岷さんは、8月6日の虐殺で原爆が終わったのではなかったことを思い知らされ、遅れてきた悲惨な死に自分の無力さを痛感した。

 

 「みじめだったね。その時だよ、原爆症と心中してやろうと思ったのは」(中国新聞ヒロシマ50年取材班『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社1995)

 オッペンハイマーが実際に見たかどうかはわからないが、原爆で黒焦げになった遺体の写真として知られるのは、長崎で山端庸介さんが撮った一枚だ。撮影されたのは8月10日。爆心地から約700m離れた岩川町付近の路上だ。

 2015年夏、西川美代子さんと山口ケイさんの姉妹は長崎市内で開かれた写真展でこの写真に出会い直感した。兄の谷﨑昭治(たにさき しょうじ)さんに間違いないと。

 昭治さんは岩川町近くにあった県立瓊浦(けいほ)中学校の1年生で、その日は英語と数学の試験を受けに学校へ行った。前日に父親の己之作さんが昭治さんの下宿に行き、空襲がありそうなので危ないから田舎に帰るよう説得したのだが、昭治さんは試験があるからと言って聞かなかったのだった。

 試験は10時に終わって生徒たちは帰宅の途についた。岩川町は学校を出て昭治さんの下宿があった岡町に戻る途中にある。11時2分、原爆さく裂。父親は何日も下宿のあったあたりを捜したが、見つけたのは昭治さんが持っていた水筒と傘の残骸だけ。母親のスヨさんは一度だけ夫を責めたという。原爆の前日に、首に縄をつけてでも家に連れて帰っていたら息子は助かったのにと。

 

 昭治さんを捜してまわった己之作さんは、そのことをほとんど語らなかった。妹の美代子さんは父の心中を察する。「見つけられず、つらかったと思いますよ。それから酒を飲み始めましたもんね」

戦後十数年たち、美代子さんが長崎市内に住んでいる時のこと。泊まりに来ていた父は夜遅くに帰ってきた。何をしていたのか聞くと、「昭治の下宿はここら辺だった、とうろうろしていた」と答えた。父はそれから数年後の66年8月13日に亡くなった。その数日前の8月9日には「今日は原爆の日ぞ」と言った。「口には出さなかったけど、気にはなっていた」と美代子さんは語る。「悔やんでも悔やみきれなかったんですね……」(「朝日新聞」2016.8.3)

 

 リニューアルされた広島平和記念資料館に最初に行ったとき感じたことがある。遺品がありふれた小さなパンツ一つでも、その子の写真が一枚と、家族の記憶の中にあったその子の声が一言添えてあることで、原爆で命を奪われた子どもと私との距離はグッと縮まったのだ。死んだ自分の親の思い出が蘇ったかのような、胸に迫るものがあった。

 映画の中、オッペンハイマーは広島・長崎の映像から目を背けた。それは彼の抱いた「罪悪感」の表現だろうが、その映像を観客にも見せたとしたら、どのような印象を持つだろうか。観客にオッペンハイマーと同じ「罪悪感」は無い。被爆者本人や家族の声が欠如した映像にどれだけ想いを寄せることができるだろうか。

 原水協のWebサイトにアメリカで平和運動に取り組む人の、映画『オッペンハイマー』についてのコメントが載っていた。アメリカの文化では「観客が負傷した人たちへの同情を求められるような映画のシーンを見ることに抵抗がある」のだとか。(原水協通信On The Web「映画『オッペンハイマー』に見る広島と長崎」2024.3.14)

 しかしそれは果たしてアメリカ人特有の感情だろうか。拒絶、反発、忌避。そんな感情は至る所で現れる。それを乗り越えて心を通い合わせるために、私たちにはどれほどの時間と努力が必要だろうか。

 「リリゴ」さんは憤慨される。原爆の悲惨さは黒焦げの死体一つでわかるものではない、爆心地の周辺は万単位の死体で埋まっていたのだと。しかし、見渡す限り黒焦げの死体が散乱しているから悲惨なのだろうか。そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。

 あの日、市立第一高等女学校(「市女」)1、2年生541人は爆心地から500mばかり離れた今の平和公園南側、平和大通りのあたりで建物疎開作業中に原爆に遭い、全滅した。

 市女1年生だった森本幸恵さんを母親のトキ子さんが似島で見つけたのは9日のこと。13日に亡くなるまでに幸恵さんは母親にこう話した。

 

 一時間作業し、八時休憩になり、誓願寺の大手の側で腰をかけ、友だち三人で休んでいると、ああ落下傘が三つ、きれいきれいと皆騒がれるので、自分も見ようと思い、一歩前に出て上を向くと同時に、ぴかりと光ったので、目をおさえ耳に親指を入れて伏せたら、その上に一尺はばもある大手が倒れ、腰から下が下敷きになり、頭の麦わら帽子は火がつき焼けていました。(森本トキ子「幸恵の言葉」『広島原爆戦災誌』)

 

 幸恵さんはなんとか土塀の下から這い出すことができた。塀が熱線を遮ったのだろうか、火傷は額と右手に少しあるぐらい。ところが目の前の光景に愕然とした。

 

 長いことかかり、大手の下から出ることができ、あたりの友だちを見れば、皆、目の玉が飛び出し、頭の髪や服はぼうっと焼けて、お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けてと、口々に叫んでおりました。(「幸恵の言葉」)

 

 全身を焼かれ、生きているのが不思議なくらいでも、動ける者は皆、火を逃れようと川に飛び込み、防火水槽に潜った。それはいくつもの目撃証言や「原爆の絵」によって知ることができる。

 坂本潔さんと文子さん夫婦は実の娘、市女2年生の築山城子(むらこ)さんを必死の思いで探してまわった。

 

 川の中岸辺には、生徒が三々五々折重なって肌着は破れ、髪は乱れて裸となって殆んど絶命の状態で、誰とも見分けがつかない。時に午後六時半頃。夕闇はいまより迫り冷気は加わり気はいらだつばかり。名を呼び続けて行くうちかすかな声で「ここよ。」と叫ぶわが子の声と、「築山さんはお父さんが来られていいね。」と、どこからともなく聞えた友達の叫びが、今なお耳底深く残って誰であったか判然としなかったことが、今更ながら残念である。多分仲のよかった友達同志は一緒になって、この川岸まで逃れて来て遂に斃れたのであろう。城子は川の石に腰掛けていた。朝からこの時刻まで、どんな気持ちで我々の来るのを待っていたか、よく苦しみをおさえこらえて生きていてくれた。(坂本潔 坂本文子「城子(むらこ)の最期」『広島原爆戦災誌』)

 

 城子さんはその夜に息を引き取った。城子さんの最期に心がいたむ。そして城子さんの友だちの最期にも心がいたむ。誰もが声に出して言いたかったのだ。「お父ちゃん」「お母ちゃん」と。私たちの心が揺さぶられるのはその声が聞こえるからではなかろうか。

 そしてその心の声を私たちに伝えてくださった人たちがおられたからこそ、私たちは何がこの世にあってはいけないことなのかを、はっきりと知ることができるのだ。

 つい先日、TBSラジオ「宇多丸『オッペンハイマー』を語る!」と言う番組の書き起こしをネットで見つけた。宇多丸さんが紹介した二人の被爆二世の方の映画の感想は、どちらも考えさせられる内容だった。

 ここではまず、「リリゴ」さんの感想をもとに考えてみたい。「リリゴ」さんは、映画で広島・長崎の被害を描いてほしかった、描くことはできたはずだと言われる。そしてこう訴えられた。

 

 「爆心地直下では人は一瞬で消えてなくなっていますし、その周りには万単位の黒焦げの死体です。娘の顔が燃えているとか、1つの黒焦げの死体とか、いい気なもんだな、という気持ちになりました。キノコ雲がアメリカ人にとって勝利のシンボルあることもしょうがないと思いますし、敵が核を持つのであれば、こちらも抑止力として持つべきだ、という理屈もしょうがないと思ってます。ただ、核兵器を人に使うと何が起こるか、知っておいて欲しいだけなのです。オッペンハイマーのような映画は、それが出来るチャンスだったので、勝手に残念に思ってます」(TBSラジオ『アフター6ジャンクション2』2024.4.18)

 

 私はこのブログの一番最初で、「原爆のリアル」や「正しい知識」という言葉に引っかかっているのだが、「リリゴ」さんの感想でいえば、「原爆のリアル」とか「正しい知識」が目のつくところに一つどんと置いてあって、それをもとに映画の描写は「こんなもんじゃない」と否定されているように思える。しかし私たちは、原爆で何が起きたのかという「正しい知識」を、果たしてどれだけ持っているのだろうか。

 例えば、広島の原爆死没者追悼平和祈念館に行けば膨大な量の被爆体験記がある。それを全部読まれた方もおられるかもしれないが、私自身はこれまで読んできた手記の数からすれば、あの量はとても無理だ。ましてや、文字にすることが叶わなかった記憶に、どうやったらたどり着くことができるだろう。

 「リリゴ」さんは「爆心地直下では人は一瞬で消えてなくなっています」と書かれているが、本当だろうか。広島の爆心直下には島病院があった(現 島内科医院)。8月6日、院長の島薫さんは看護婦の松田ツヤ子さんと一緒に県中部の町に出張治療に出掛けており、圧し潰され、焼き尽くされた病院の跡をその目で確かめたのは7日午後のこと。玄関先には黒焦げの遺体があった。

 遺体は婦長の宮本さんだと気がついたのは松田さんだ。金歯に特徴があったのだ。残る80人ばかりの職員や患者はみな建物ごと圧し潰されて焼かれたのだろう、瓦礫の下から多くの白骨が見つかっている。(「中国新聞」2000.2.21他)

 あの朝、病院の玄関先で、婦長の宮本さんは空を見上げていただろうか。何か落ちてくると悲鳴を上げただろうか。それとも、何もわからないまま突然に命を絶たれたのだろうか。亡骸は残っていた。でも命が一瞬にして消えたのかどうか、それは誰も確かめることはできない。ヒロシマを知ろうとすればするほど、わからないことが増えてくる。ナガサキもそうだろう。

 なお、ラジオで紹介されたもう一人の「ダークナイトJP」さんは、加害者側の視点で被爆の惨状が表現されたとしたら、私たちは果たして納得できるだろうかと提起されている。確かに。

 映画の中での聴聞会。思い出したくない過去をほじくり返されてもオッペンハイマーはひたすら耐える。妻のキティの目には、文字通り「丸裸」にされたオッペンハイマーの惨めな姿が映った。それでもキティはオッペンハイマーにきつい一言をぶつける。

 

 “Did you think if you let them tar and feather you the world would forgive you? It won't”

 「あなたがあの人たちから酷い眼に遭わされたなら、世界はあなたを赦してくれるとでも思ってたの?そうはいかないわ」(映画『オッペンハイマー』)

 

 その聴聞会は後に違法だったことが知れ渡り、ストローズを政界から葬り去ったのだが、だからといってオッペンハイマーの犯した罪が全て赦されたことにはならないというのが映画のメッセージなのだろう。原子力という火を人類にもたらした現代のプロメテウスは、死ぬまで腸を抉られるような痛みに呻くのだ。

 実際はどうだったか。イシドール・ラビは、オッペンハイマーは聴聞会で「政治的な殉教者」を演じていたと述べている。またヴァネヴァー・ブッシュは聴聞会でこう証言した。「強硬な意見を表明したことを理由に、その人が果たして国のためになるか否かを論ずるような委員会は、この委員会に限らず、この国で一切開かれるべきではないと考えます」。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(下)贖罪』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 ブッシュはこうも言っている。「自分の国が破滅への道を歩んでいると考えるとき、個々の市民は意見を述べる義務がある」。オッペンハイマーはそれを実行した。オッペンハイマーが愛するのは自由で開かれた国アメリカ。それを守るためには自分の地位も名誉を投げ捨てる本当の愛国者として生きようとしたのかもしれない。

 そうであるとすれば、聴聞会がやったことはオッペンハイマーの追い落としではなく、アメリカという国を貶めることでしかなかったと言えよう。聴聞会で評決に当たった3人の委員でただ一人、オッペンハイマーは「無罪」であり保安許可を延長するべきだと主張したウォード・エバンズは、報告書にこう記している。

 

 オッペンハイマー博士に許可を与えないこととなったら、それはわが国の国旗についた汚点である。(『オッペンハイマー(下)贖罪』)

 

 しかし結局、オッペンハイマーは政府の中枢から排除された。映画の原作は、「今やすべての科学者は、国家政策に疑問を呈した人々には深刻な結果が待っているという警告を受けたのである」と記す。今や世界は、強大な核の力に守られた政治権力によって、見えない檻に囲われてしまったのだ。

 映画『オッペンハイマー』は核の連鎖反応による世界の破滅を予言しただけでなく、オッペンハイマーを通して見たアメリカそのものを描こうとしたと言えよう。それは、オッペンハイマーの指摘した「秘密、隠蔽、管理、機密といったものに支配される体制」(中沢志保『オッペンハイマー』中公新書1995)が核の力で世界を恫喝する帝国だ。そんな原子力帝国が、今では世界にいくつもできてしまっている。

 映画の中で、オッペンハイマーはアインシュタインに、“I believe we did”と告げた。「私たちはやってしまった」という核の連鎖反応は、現在もまだ進行中だ。

 オッペンハイマーがどれだけアメリカ、そして世界の未来に危機感を持っていたかを示すエピソードに「二匹のサソリ」がある。1953年2月にアメリカ外交政策に関わる専門家を集めての講演会で述べられ、さらに同年7月に執筆された論文「原子兵器とアメリカの政策」に出てくる。

 その頃、危険とみなした人物を連邦政府から排除する「赤狩り」が始まり、オッペンハイマーと対立していたストローズが原子力委員会(AEC)の委員長に就任する。そんな厳しい状況でも、オッペンハイマーはアメリカを愛するがゆえの厳しい意見を述べた。

 論文は、「“公開”、“友好”、“協力”に基づく核の国際管理の達成に失敗して久しい」と指摘することから始まる。そしてアメリカの核兵器は広島・長崎の時点から大きく進歩しているが、アメリカ国民やヨーロッパの人たちは、核兵器が今後どのように使われようとしているか知っているだろうかと疑問を投げかける。そしてこう警告した。

 

 「我々は、おそらく、長い冷戦の時代に直面しているのであり、紛争と緊張と軍備が我々と共にあることになるだろう。そして、困難は次のようなものだ。この期間に、原子爆弾の時計は、次第に速くカチカチと時を刻む。二つの大国はお互いに他の文明と生命を終わらせる構えを取るが、自らの文明と生命も危うくせざるを得ないという状況が予想される。我々の状態は、一つのびんの中の二匹のさそりに似ていると言えよう。どちらも相手を殺すことができるが、自分も殺されることを覚悟しなければならない」(藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』ちくま学芸文庫2021)

 

 人類の破滅を未然に防ぐにはどうすべきか。オッペンハイマーが訴えるのはアメリカの原子力政策の秘密主義を廃し、ソ連との直接交渉によって軍縮を進めることだった。それはオッペンハイマーがこれまで主張してきた当然の政策。しかし、この当然のことを当時のアメリカ政府の内部から発信するのはさぞや勇気がいったことだろう。

 エドワード・テラーはオッペンハイマーに不満を抱いていた。「リーダー格の科学者が水爆開発に躊躇するのは問題だと思う」と上下両院原子力委員会の顧問ウィリアム・ボーデンに語っている。1953年11月、ボーデンはFBIに手紙を送った。水爆開発に非協力的なオッペンハイマーはソ連のスパイである可能性が高いという告発だ。

 お膳立てをしたのは原子力委員会(AEC)委員長となったルイス・ストローズ。彼らは、「原爆の父」と称賛されて大きな影響力を持つオッペンハイマーがこれ以上原子力政策に口を挟むのが許せなかった。彼らはどうしても水爆でソ連を圧倒したかったし、それは核軍拡の恩恵を受ける軍や軍需産業の意向でもあった。

 1953年12月、AECはオッペンハイマーに書簡を送った。それにはオッペンハイマーの「保安許可」を剥奪して原子力に関する国家機密から完全に締め出す決定がされたこと、そしてそれに不服があればAECの保安審査委員会に審査を請求できるとあった。オッペンハイマーは負けるのを覚悟の上で、国家権力に立ち向かうことを選んだ。

 1954年4月12日、聴聞会という名の糾弾が始まった。

 1950年1月31日、トルーマン大統領は水爆開発計画を発表する際、アメリカ原子力委員会委員長のデビッド・リリエンソールに言った。関係する全ての科学者はこの決定を公的に議論してはならないと。リリエンソールはそのことをオッペンハイマーらに伝えた時のことを日記にこう書いている。

 

 「それは葬式のようだった。特にわたしが、われわれ全員は猿ぐつわをはめられたのですね、と言った時はそんな感じだった」(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(下)贖罪』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 宇宙の深遠な真理を理解するためには世界の科学者の自由で開かれた議論が必要だというのはオッペンハイマーたちの共通した信念だった。しかし、解き明かされた宇宙の真理がいざ核兵器に応用されるとなると、人類共通の財産であるべき科学の成果は政府が作り出した「秘密のベール」に隠され、核兵器開発に携わる科学者は重要な情報へのアクセスを厳しく管理されるようになった。そして自由の国アメリカであるはずなのに、科学者は核兵器に関する政治的な発言までも禁止されてしまったのだ。

 ソ連との対立が激しくなったことによりアメリカの軍事費は急増した。それは軍、軍需産業、そして大学や研究所を大いに潤したに違いない。例えばサウスカロライナ州に1951年建設が始まったサバンナ・リバー・サイト核施設は「マンハッタン計画」で原子力分野に進出したデュポン社を通して、5基の原子炉と水爆製造に必要なプルトニウムやトリチウムを取り出す再処理工場、研究所などに巨額の資金が投じられている。(今も高レベル放射性廃棄物の処理に莫大な費用がかかっている)

 科学者はこうした軍事費で思う存分研究に邁進することができただろう。しかし、もし機密情報を漏らしでもしたら、あるいは機密情報を知ったうえで政府を批判でもしたら、その科学者は政府から危険人物と認定されて職を追われ、研究に必要な全ての情報から遮断される。

 オッペンハイマーたちは岐路に立たされた。その地位と権限を投げ打ってでも水爆開発に反対するか、それとも、政府のインサイダーの権限を使って核の国際管理のためにできる限りのことをするのか。オッペンハイマーは後者を選んだ。

 映画の中で、最初から負けることが決まっている聴聞会になぜ出るのかと問われたオッペンハイマーが、「私には理由があるんだ」と答えるのだが、そこにアインシュタインが現れて、きつい言葉を投げかける。

 

 「彼のいうことはあたっているんじゃないかね。君のことをもう愛していないとわかっているのに、まだ君はその女を追いかけているんだよ。その女というのはアメリカ政府のことなんだがね」(映画『オッペンハイマー』)

 

 アインシュタインは実際オッペンハイマーに忠告もしている。魔女狩りに屈することはない。オッペンハイマーは十分国に尽くしたし、これがアメリカの報い方だというなら、アメリカに背を向けるべきだと。

 しかしオッペンハイマーはアインシュタインには理解できないほどアメリカを愛していた。どれだけ酷い仕打ちにあっても、彼はアメリカを見捨てることはできなかった。自分の手で立ち直らせようともがき続けたのだった。

 世界最初の核融合による爆発実験は、1951年5月8日にアメリカが太平洋のマーシャル諸島エニウェトク環礁で行った「グリーンハウス」実験だが、それはまだ水爆と言えるような代物ではなかった。最初の水爆実験とされるのは同じエニウェトク環礁で1952年11月1日に行われた「マイク」実験で、それは運搬不可能な巨大な設備とでもいうべきものだったが、爆発エネルギーは10メガトン。広島型原爆の600倍以上もあった。 (実戦に使用可能な最初の水爆は、あの1954年3月1日に行われた「ブラボー」実験)

 「マイク」実験について中国新聞の年表を見ると、11月8日付の「ロサンゼルス・エグザミナー」紙に目撃者の証言として「実験はエニウェトク環礁中の幅約0.8キロ、長さ約4.8キロの小島で行われ、爆発と同時に島はガスとチリに化してしまった」とある。吉田文彦さんの『証言・核抑止の世紀』(朝日選書2000)によると、爆発の跡には直径2km、深さ50mのクレーターができたという。周辺海域の放射能汚染もとんでもないものだったに違いない。

 1950年1月にトルーマン大統領が水爆の開発を指示したことも中国新聞には載ったようだが、しかし当時の世の中はそれどころではなかったかもしれない。

 その頃は朝鮮戦争が今にも始まろうとしており、世界も広島も、実戦で3発目の原子爆弾が使われるのではないかと危機感を募らせていた。それに対して占領軍は広島の平和運動を徹底的に弾圧し、新聞などの検閲は徹底された。当時の雰囲気を今に伝えているのは、峠三吉の詩「一九五〇年の八月六日」(『原爆詩集』岩波文庫)だけかもしれない。

 広島の多くの人たちはまだ貧しさに喘いでいた。日々の生活を送るのに精一杯。その上、原爆の放射能はあの日からずっと人々を死に追いやってきた。1951年の4月から6月にかけて集められた『原爆の子』の手記の中で、小学校5年生の若狭育子さんはこう書いている。

 

 今から半年前に、十になる女の子が急に原子病にかかって、あたまのかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当てをしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。死んだ人が、わたしたちと別の人とは思われません(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫)

 

 それなのにさらにひどい爆弾ができると聞いて育子さんは恐怖に慄く。

 

 原子ばくだんは、こんなにおそろしく、にくらしいものなのに、ラジオのニュースの時、広島のときよりも何十倍もおそろしいのができて、朝せんでも使うとか使わないとか言っていました。

 おそろしいことです。(『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』)

 

 そんなアメリカの水爆実験を追いかけるように、翌年8月8日、世界にまたもや衝撃が走った。ソ連のマレンコフ首相が演説したのだ。「米はもはや水素爆弾を独占していない。ソ連はいまや水素爆弾の生産を習得した」と。しばらく経って、アメリカの新聞一面には「赤い帝国、水爆実験」の文字が踊った。それはオッペンハイマーをますます窮地に立たせた。