ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

広島平和記念公園の「マルセル・ジュノー博士記念碑」

 ジュノー博士は9月8日に岩国に着くと翌日府中町の東洋工業に間借りしていた県庁に向かった。途中瓦礫だらけの街を眺めながらジュノー博士は案内役の松永勝さんたちにこう言った。医大を出たばかりの松永さんは英語ができた。

 

 「…たった一発の爆弾で何万という人が殺され、あれから一か月も経っているというのに、毎日のように傷ついた人々が死んでいますね。ひどい人殺しです。人間のどこにこんなことをする権利があるのでしょうか。これは悪魔がやったとしか思われません。そうです。アメリカの悪魔のしわざです。私はこのように征服だけを目的とした、人間を虫けらとも思わない戦争を心から憎みます」(大佐古一郎『平和の勇者ドクタージュノー 探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』蒼生書房1989)

 

 松永さんは、どこかに置き忘れていたものを突然目の前に突き出されたように感じた。原爆に遭ったあの日からずっと虚脱状態にあったけれど、今人間の心が蘇ってくるようだった。確かに原爆は「悪魔のしわざ」なのだ。日本人が口を閉ざしているのにジュノー博士は真正面からアメリカを告発したのだ。そして「人間を虫けらとも思わない戦争を心から憎みます」と断言する。そんなジュノー博士に松永さんは心の底から信頼を寄せるようになった。

 ジュノー博士は県庁で知事と面会し15トンの医薬品の提供を申し出ると、翌10日は福屋百貨店から始まって広島市北部、そして袋町国民学校の臨時救護所を見てまわった。ジュノー博士は自ら診察し、患者を励ましてもいる。「もう少し頑張るんですよ。ニ、三日中にはいい薬が来ますからね」と。

 医薬品のリストにあったのは、ペニシリン、乾燥血漿、ブドウ糖、リンゲル、サルファ剤…。ペニシリンはどうもどこかで盗まれたようだが、他の医薬品は大いに役立ち松永さんたちを感激させた。

 血漿は血液から血球を除いたもので輸血の代わりに用いられた。サルファ剤は抗菌薬。それ以上深くは立ち入らないが(無知をさらしそうなので)、ジュノー博士がもたらした医薬品について、当時県衛生課の嘱託医で袋町国民学校にいた嘉屋文子さんはこう語っている。

 

 …三途の川を渡りかけた患者をずいぶん救いましたよ。特に血漿やサルファ剤は即効でしたからねえ。あのころは、注射薬など使ったことのない人が多かったので、薬がドカンと体内に入ると、すぐ反応したんですよ。治療は誰かれの区別はなくすべて無料で、ほんとうに仁術でしたねえ(『平和の勇者ドクタージュノー 探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』)

 

 1979年、広島平和記念公園に「マルセル・ジュノー博士記念碑」が建立された。碑銘は「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている」。2004年には袋町小学校平和資料館と広島市まちづくり市民交流プラザの間にジュノー広場がつくられ顕彰碑が建てられた。そして2025年には広島市が故人として初めて特別名誉市民の称号を贈った。それでも今ジュノー博士の功績を知る人は少ないだろう。けれど、ジュノー博士の怒りは、忘れていいものではない。

 当時県の衛生課に勤めていた松永勝さんの回顧談にも大田萩枝さんとマルセル・ジュノー博士の出会いの場面が出てくる。それは9月10日のことだった。

 

 焼けただれて外形だけになったビルは、一昨日の雨で地階が水浸しになっており、一階の病室になっている各教室にも水たまりが点々とあった。被爆前まで県病院の眼科に勤務していた若い女医の大田先生が、階段横の診療所で外来患者を診ており、年輩のふたりの看護婦は、蚊帳が吊ってある病室で患者の面倒をみていた。銘仙のブラウスと黒っぽいモンペの下に海軍の長靴を履いた小柄で細面の大田先生は、私たちを笑顔で迎え、ジュノー博士の差し出すタバコを「私は吸えませんので……」と手で制したあと、博士の矢継ぎ早の熱のこもった質問に、積極的に答えてくれた。(大佐古一郎『平和の勇者ドクタージュノー 探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』蒼生書房1989)

 

 大田さんは、救護所には薬品がないので治療のしようもなく、自分たちは患者を激励することと死亡診断書を書くことしかできないと訴えた。言いたくてたまらなかっただろう。「食ってかかった」というのはこのことか。しかしそれは日本政府に責任がある。被爆から1か月も経つというのに、日本政府による組織的な救援は全くなされていなかったのだ。

 赤十字国際委員会の駐日代表ジュノー博士が来日したのは一か月前の8月9日。赤十字国際委員会のメンバーで手分けして連合国軍捕虜への援護活動を始めた。広島県向島の捕虜収容所に向かったフリッツ・ビルフィンガーさんには、もう一つ任務を与えた。それは広島の罹災状況を正確にできるだけ早く報告すること。ビルフィンガーさんからの電報がジュノー博士のもとに届いたのは9月2日だった。

 

 三十日広島着、恐るべき惨状……町の八〇%壊滅、全病院は破壊または大損害をこうむる。仮設二病院視察、惨状は筆舌に尽くし難し。爆弾の威力は凄絶不可思議なり。回復したかに見える多数の犠牲者は、白血球か何かの崩壊、あるいは創挫傷により突如致命的な再発をきたし、事実上相当数死亡す。およそ十万人以上の負傷者がいまだ市周辺の仮設病院にあって、器材、包帯、医薬品は完全な欠乏状態にあり。連合軍上層部からの特命を重大要求として求め、直ちに町の中心部に救援の落下傘を投下するよう要請されたし。…(『平和の勇者ドクタージュノー 探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』)

 

 ジュノー博士はGHQに行って、4人の高級将校にビルフィンガーさんの電報と日本の外務省からもらった広島の写真を見せた。炭化した遺体、焼けただれた体から垂れ下がる皮膚、骨まで焼けている人間の姿を初めてみたアメリカ人将校の表情は歪んだ。ジュノー博士は要求した。直ちに10万人分の包帯、サルファ剤、血漿を広島に送り、救援隊を編成するようにと。

 回答があったのは9月7日。GHQは15トンの医薬品、病院用物資を援助するとのこと。そして翌日広島に向かう飛行機にはジュノー博士の席も取ってあると言ってきた。

 1945年10月上旬、大田萩枝さんが袋町国民学校の救護所で治療しているところを菊池俊吉さんが写真に撮った。その写真は現在、中国新聞ホームページの「ヒロシマ平和メディアセンター」にある「広島原爆の視覚的資料 —1945年の写真と映像」を開くと見ることができる。

 10月1日、「学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会」が派遣した調査団が広島市で調査を開始し、日本映画社が記録映画の撮影を始めた。菊池俊吉さんと林重男さんがスチール写真撮影担当として参加している。中国新聞ホームページを見ると、菊池さんは袋町国民学校で10月5日から7日までの間に30枚ほど写真を撮っている。

 写真の中で、袋町国民学校はまだ瓦礫の中にあった。窓は窓枠ごと吹っ飛んだまま。そこに「むしろ」がかけてあるが、強い日差しを遮ることはできても、枕崎台風のような暴風雨には無力だったろう。広島逓信病院の蜂谷道彦院長が9月17日の日記に枕崎台風の猛威を描写している。

 

 夕食後、風と雨とがますます強くなった。烈風というより暴風だ。風と雨とが断続的に波を打って吹きこみだした。我々の部屋の雨除けのカーテンは瞬く間に吹き飛ばされ、蚊帳が吹き上げられて横一文字になり旗のようにひるがえりだした。部屋の中は雨ざらしだ。電灯は消え、風はうなりをたてて吹き荒び、雨は遠慮会釈なく振り込む。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記 〈平和文庫〉』日本ブックエース2010)

 

 菊池さんの写真に戻ると、袋町国民学校の玄関には「袋町救護病院」の看板が見え、赤十字の旗が掲げられている。けれど病院といっても名ばかりだ。校舎内の写真を見ると、廊下と教室を隔てる壁がガラス窓ごとなくなっている。柱があるだけ。教室は負傷者で埋まり、猛烈に増えたという蠅を避けるために蚊帳がつってある。大田さんが診察しているのは廊下だ。大田さんと二人の看護婦さんは白衣もないまま、ケガや火傷の治療に通ってくる患者に包帯を巻いている。消毒したり軟膏を塗ったり、10月になってもまだそれくらいのことしかできなかったようだ。

 大田さんが袋町国民学校の救護所に移ったのは9月8日ごろ。8月下旬から県の衛生課が袋町国民学校の2階に移っており、県直轄の救護所ということでの安心感はあった。でも救護所所長の島薫さんは治療もそこそこに爆心地で壊滅した島病院の患者や職員の安否を尋ねて回ることが多かったようだ。結局ここでも大田さん一人きりきり舞いしなくてはならなかった。大田さんの胸の奥には鬱憤が溜まっていたのではなかろうか。

 ある日、また軍服姿の外国人がやってきた。大田さんは「差し出されたタバコを払い落とさんばかりに、いりませんと言ってしまった」(広島県医師会『傷痕II—戦後40年』1985)。晩年には、「猛烈な剣幕で食ってかかった」とも語っている(井上恭介『ヒロシマ——壁に残された伝言』集英社新書2003)。

 実はその外国人こそ、赤十字国際委員会の駐日代表マルセル・ジュノー博士。広島に15トンもの救援医薬品を運んできた人だった。

 大田萩枝(はぎえ)さんは当時県立広島病院に勤める23歳の眼科医で、爆心地から約2.2km離れた牛田町の自宅で被爆した。幸いケガは軽く、持っていた救護カバンの医薬品で近所の人たちの傷の手当てをしたが、薬や包帯はすぐになくなった。8日になると大田さんも頭が割れるように痛くなり、9日は何か黒いものを吐いた。それから大田さんには体調不良がずっとついてまわることになる。

  県立広島病院は爆心地に近い水主(かこ)町、現在の加古町にあって原爆で壊滅した。即死を免れた職員は医薬品を疎開してあった広島市西部の古田国民学校に移り、大田さんも10日から15日まで古田で治療にあたった。とは言っても、「私達は外来で赤チン、チンクエール塗るだけです。膿がついた筆で塗るんですから、塗らん方がましなくらいでした」と回顧している。(広島市医師会『ヒロシマ医師のカルテ』1989)

 8月15日に戦争が終わったと告げられても救護活動は終わらない。動ける職員の再配置が行われ、大田さんは上流川町(現 胡町)にあった日本勧業銀行広島支店の焼けただれ雨漏りのする建物に移った。そこで救護所の事実上の責任者となった大田さんは、「毎日処置をせずに死亡診断書ばかり書きました。今日は何人死んだ、何人死んだと…」(『ヒロシマ医師のカルテ』)。その頃から急性放射線障害による死者が急激に増え、医師も看護婦も全く成すすべがなかった。

 9月初め、外国人記者が突然救護所に現れた。一人の女性が声を荒げた。「この子を米国に連れて帰り見世物にしてください!」。女性の子どもは全身火傷で頭は裂けて骨がむき出しになり、ただ死を待つだけだった。大田さんも怒りが込み上げ、その外国人記者を睨みつけた。

 後になってその外国人記者は広島の惨状を世界に発信したウィルフレッド・バーチェットさんだと聞かされた。大田さんは悔やんだ。その時自分がもっと大きな心を持っていたら、自分の体験や思いを聞いてもらい世界中に広めてもらうこともできただろうにと。

 ただバーチェットさんの手記には広島逓信病院を訪れたとしか書かれていない。大田さんが出会ったのは別のアメリカ人記者の可能性があるのだが、バーチェットさん自身も広島逓信病院で患者とその家族の「燃えるような憎悪」がナイフのように自分を突き刺したと書いている。案内をした広島逓信病院外科医の勝部玄さんは「帰りなさい、これ以上ここにいるのなら、私はあなたの命に責任が持てません」と言った。けれど、別れ際にこうも言っている。

 

 「どうぞ、あなたの見たことを報告し、あなたの国の人びとに——彼は当然のように私をアメリカ人だと思っていた——この病気に詳しい専門家を何人か送ってくれるように、そして彼らに治療に必要な薬を持たせてくれるように頼んで下さい。さもなければ、この人びとは皆、死ぬ運命にあるのです」(ウィルフレッド・バーチェット『広島TODAY』連合出版1983)

 

 それは、当時の広島の医師の誰もが願ったことではなかろうか。

 8月12日から2、3日間、黒川孝一さんたち尾道の医師が袋町国民学校で被爆者の治療にあたっている。鉄筋コンクリートの建物は窓が壊れ内部も焼けてしまったが、夏の強い日差しは遮ってくれるから、多くの負傷者が逃げ込んだり、軍隊や警防団が動けない負傷者を運び込んだりしたのだろう。それがそのまま臨時の救護所ということになった。

 

 八月十二日、吉本良槌先生等と共に、袋町小学校に至り、一、二泊した。ここで吾々は始めて原爆症の実態に直面した。重症被災者が、ぎっしり収容されて居り、オレフ油の臭が立ち込めていた。夜になると校庭で死者を焼く火が見え、悪嗅と共に異様な光景であった。(中略)患者は、被服で覆われない身体の部分は殆ど、二度乃至三度の火傷であった。(黒川孝一「原爆広島救護行」広島県医師会『原爆日記 第II集』1970)

 

 「オレフ油」とは医薬用のオリーブ油だが、そんな上等の油があったのだろうか。いずれにしても、治療と言っても傷口に消毒液を塗るか火傷に油を塗るぐらいしかできなかったようだ。

 戦争が終わると軍隊が引き上げて行政が負傷者の救護活動を担い、袋町国民学校も県直轄の救護所となった。市外から毎日医者や看護婦がやってくるようになった。しかし黒川さんたちが8月24日ごろに再び袋町国民学校に行ってみると状況はさらに悪くなっていた。生きのびていた患者にも髪の毛が抜けるなど「原爆症」の症状が現れたのだ。それなのに医薬品も食糧も看護する人も圧倒的に足りなかった。いったいどれだけの人が息を引き取っていったのだろうか。

 前のブログ「広島平和記念資料館の軌跡」にも書いたが、広島市職員の村上敏夫さんが重傷の妻文子さん、生後2カ月の佑子さんとともに市役所近くの袋町国民学校臨時救護所に移ったのも8月下旬のようだ。被爆直後は知人の家で静養したが、敏夫さんは市役所の仕事が待ったなしだったし、それに、いつまでも知人の好意に甘えるわけにもいかなかっただろう。

 

 上の二人の子供は田舎へ疎開させ、妻と幼児—絶望視した仮死状態から奇蹟的に蘇生した—を灼熱の炎天下を乳母車で焼失した学校跡の仮救護所に運んだ。

 外廓だけ焼け残ったコンクリートの吹きさらしに死人の血のついた一枚の荒筵(あらむしろ)に眼帯の妻、栄養失調の幼児と三人一枚の薄い毛布の中で今にも断れそうな細い生命の糸をつないだ。まして公務の暇々(ひまひま)の扶養と看護は言語に絶して惨めだった。生きることの如何に苦しいかを知った。

 霜の寒さが極度に傷口に沁みる十一月初め名ばかりの家に漸く雨露を凌ぐことが出来た。(村上敏夫「三児に残す吾が家の原爆記録」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 村上敏夫さんは、包帯や傷薬に覆われて誰かわからない姿の文子さんを玄関脇の教室に横たえ、後ろの柱に「患者 村上」と大きく書いた。今では、村上さん一家がこの場所で生き抜いた証だ。袋町小学校平和資料館に柱ごと保存展示され、原爆も戦争もこの世にあってはならないと訴え続けている。

 三好茂さんの長女で広島女子商業学校3年の美代子さんは胡町の福屋百貨店に入っていた広島貯金支局分室に動員中。次女で袋町国民学校高等科1年の登喜子さんは雑魚場町(三好茂さんは、作業現場は隣の新川場町と手記に記している)で建物疎開作業。二人とも何かあった時は広島市の西にある五日市町の親戚を頼るように言ってあった。何せ三好さんの家は広島市のど真ん中。空襲にあったらひとたまりもないが、さりとて町工場の一工員である三好さんが郊外に別宅を求めることなど、とてもできることではなかったろう。

 三好茂さんが五日市に行ってみると、役場から連絡が来ていた。登喜子さんは広島市の東にある奥海田村(現 海田町)の国民学校に収容されているが、ひどいケガだとのこと。茂さんが列車に飛び乗ったのは9日の夜8時。

 

 学校に着いたのが朝一時半ごろ。講堂?の板の間は多数の収容者でいっぱい。みんな全身焼けただれたり負傷した人ばかり。うんうんうなっています。奥にいる、いる。その中にただ一人、登喜子がいたのです。ほんとにほんとに嬉しかった。登喜ちゃんー。あとはただ涙で口がきけない。よかったね、よかったねだけ。着ていた白のセーラー服は、血でカチカチに固まっていた。

 「おとうさん、おねえさんは?」「うん、……。ねえさんは、おかあさんや弟や妹といっしょに、いなかに逃げたよ。」とうそをつく。すまない。(三好茂「こんな幼な子を犠牲に」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局『流灯ーひろしまの子と母と教師の記録ー』1972)

 

 夜が明けてみると、登喜子さんは左手首と耳のケガがひどいことがわかった。後頭部にガラスが食い込んでいることも後でわかった。大きいのは長さ6cm、幅1.5cm、厚さ3mm。茂さんはそれから不眠不休で看病した。用便が近かったという。放射線による下痢症状だろう。

 12日になって姉の美代子さんが五日市の親戚の人と一緒に登喜子さんを訪ねてきてくれた。ケガはしていたが無事だったのだ。登喜子さんがか細い声で聞いた。「お母ちゃんは?」。美代子さんは、「もうすぐ来るからね」と答えるしかなかった。(「中国新聞」2014.10.13)

 登喜子さんの容態は日に日に悪化していった。登喜子さんはお茶が飲みたいとせがんだ。

 

 「おとうさんが持ってくるよ。」と、這うようにして取って来て飲ます。末期の水になろうとは。手の指を見れば、だんだん紫色に変わってくる。今晩一晩でも、もてばよいが。

 「おとうさん、おとうさん、おかあさんや繁治、博子、操、みんな死んだのでしょう。」

 登喜子さん、死ぬなよ、泣けてきた。涙が自然と流れ落ちる。(「こんな幼な子を犠牲に」)

 

 登喜子さんが息を引き取ったのは14日朝の9時。茂さんと美代子さんは抱き合って泣いた。その日のうちに火葬に付し、翌日お骨を拾って列車に乗り、広島駅に着くと「玉音放送」が流れていた。

 翌16日、茂さんは袋町国民学校に行って、壁に担任の加藤先生宛の伝言を記した。「三好登喜子 奥海田国民学校デ 死亡致シマシタ 父三好茂」。

元安川の川べりには公設市場があった

 袋町国民学校西校舎の壁に残された伝言の中には、我が子の死を担任の先生に伝えたものもある。

 

 加藤先生 本校高二(八月十六日) 三好登喜子 奥海田国民学校デ 死亡致シマシタ 父三好茂

 (※「高二」は「高一」の間違い)

 

 袋町国民学校高等科1年の担任だった加藤好男先生は市役所の東にあった雑魚場(ざこば)町、今は広島国泰寺中学があるあたりで生徒に作業の指示をすると報告のために現場を離れた。加藤先生も爆風に吹き飛ばされたがケガや火傷は軽く、すぐに作業現場にとって返したが、生徒の姿はどこにもなかった。翌日、学校近くの広島富国館で大火傷をした瓢(ひさご)文子さんを見つけただけ。広島富国館は1945年6月に地下から5階まで広島電信局が入ったが、被爆直後から1階は臨時の救護所になっていた。

 7日、加藤先生はひどい熱が出て広島を離れた。広島に戻ってきたのは8月10日。それからは子どもの安否を尋ねて学校にやってくる人の対応にあたり、チョークで壁に記録していった(井上恭介『ヒロシマ——壁に残された伝言』集英社新書2003)。三好茂さんが学校にやってきたのはたまたま加藤先生が不在の時で、やむをえず壁の伝言で加藤先生の教え子である登喜子さんの死を報せたのだろう。

 三好茂さんは当時の材木町78番地、今は広島平和記念資料館東館の北西の角あたりに自宅があった。家族は妻のヨシ子さん、広島女子商3年生の美代子さん、袋町国民学校高等科1年の登喜子さん、中島国民学校4年生の繁治さん、同じく1年生の博子さん、3歳の操さんの7人で、もうすぐ6人目の子どもが生まれる予定だった。

 8月6日、茂さんは家から1.5kmほど南にあった勤め先の工場内で被爆したが、腰を打ったくらいで助かった。「黒い雨」が降る中を自宅に戻る途中、建物の下敷きになっている人を引っ張り出し、焼けただれて水を求める人には水をあげ、午後3時ごろになってようやく今の平和大通りの南側、天神町通りまで戻ってきたが、そこから先は炎と煙で進むことができなかった。元安川の川端で一晩過ごし、家の焼け跡に立ったのは翌朝5時ごろ。材木町の焼け跡はまだ燻って煙が出ていた。

 三好さんは1975年に「原爆の絵」を描いている。それは自宅の焼け跡で見つけた頭蓋骨。両手、両足、胸部の骨は見当たらなかった。ただ、腹帯の焼け残りだけが、妻のヨシ子さんであるという冷酷な事実を伝えていた。

 三好さんの幼い3人の子どもは分散授業所のある誓願寺に行ったのか、それとも近所で遊んでいたのかわからない。元安川の川べりにあった公設市場付近を捜してみた。

 

 数人ばかりの、男か女かわからない子どもが、犬ころが焼け死んだのと見まちがうばかりに、黒く茶色にかちかちになって死んでいた。蒸し焼きにあったのか、まるくなって死んでいる。この中にいるのか、いやわからない。どこの子かも判断できなかった。(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)

 

 結局、繁治さん、博子さん、操さんはどこを捜しても見つからなかった。

 袋町国民学校1年生だった西京節子さんの行方もわからない。節子さんは母親の豊子さん、祖父の金次郎さん、弟の紘一さんと袋町近くの新川場(しんせんば)町に暮らしていた。父親の一雄さんが兵隊に取られ、母親の豊子さんは秋山アサコさんと同じく広島市役所で働いて家族を養っていた。8月6日は早出で節子さんが学校へ行く前に出勤し、節子さんとはそれっきりになってしまった。

 原爆で全身にガラスが突き刺さった豊子さんは近くの広島赤十字病院に担ぎ込まれた。翌日、妹の夫掛川浅雄さんが西京さん一家の安否を尋ねてまわったのだが、このあたりのことは2000年にNHKスペシャル「オ願ヒ オ知ラセ下サイ〜ヒロシマ・あの日の伝言〜」を制作した井上恭介さんの『ヒロシマ——壁に残された伝言』(集英社新書2003)に詳しい。

 掛川浅雄さんは7日、最初に西京さんの家の焼け跡に向かった。幼い紘一さんはすでに死んでいて、金次郎さんはリヤカーに乗せて運ぶ途中で息たえた。掛川さんは二人の遺体を焼いてから豊子さんを捜して歩き、広島赤十字病院で見つけた。豊子さんは、立てるようになるまで2か月かかったほどの重傷だった。

 掛川さんは豊子さんを自分の家に連れて帰り、それから袋町国民学校に行ったのだが、節子さんの遺体も遺品も見つけることはできなかった。掛川さんはその後も何度か学校を訪れ、その間にススで真っ黒になった校舎の壁にチョークで伝言を書いた。

 

 西京節子

 新川場町

 西京一夫(ママ)ノ長女

 本校一年生

 生死不明

 左記に知セ下サイ

 (『ヒロシマ——壁に残された伝言』)

 

 掛川さんは自分の名前と住所を記し、さらに「母アリ」と書き足した。その「母アリ」という文字には、節子さんの母親豊子さんの悲痛な叫びがこもっている。

 

 どんなにか熱かったでしょう。母がいなくて淋しかったでしょう。それのみが心をはなれず、胸の中がかきむしられるようです。私は、二人の子供と父を亡くしながら、だれの死顔も見ていないのです。私だけではない、多くの人がそうだったろうと思います。でも、一目でいいから、わが子を抱いてやりたかったと、いとおしくていとおしくて、それのみ心に残ってはなれません。(西京とよ子「一目会いたかった」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局『流灯ーひろしまの子と母と教師の記録ー』1972)

 

 『広島原爆戦災誌』には袋町国民学校の被爆時の状況としてこう記してある。

 

 作業中の児童・教職員は全員熱線と爆風にさらされ、ある者は即死し、ある者はひん死の重傷を負った。作業中、被爆した者の中で、一人として生存者がいないから、当時の状況ははっきりしないが、後日の調査によって、全員の死体が校内で発見されていないことから、動ける重傷者はそれぞれ一応は避難したようである。(『広島原爆戦災誌 第四巻』) 

 

 秋山アサコさんも掛川浅雄さんも学校中をくまなく捜したに違いない。それでも見つからなかったということは、子どもたちも親に会いたい一心で火の中を家に向かって駆けったのかもしれない。

袋町小学校平和資料館

 旧日銀広島支店から東に150mも歩けば袋町小学校平和資料館に着く。今はこじんまりした建物だが、元は袋町小学校(被爆時は袋町国民学校)の西校舎として1937年に建てられた鉄筋コンクリート造り地下1階地上3階で教室の数が21もある立派な建物だった。その一部が残されているのだ。爆心地からの直線距離は460m。爆心地からの距離約350mの本川国民学校についで近い。

 8月6日、袋町国民学校の3年生以上の子どもたちはほとんどが縁故疎開や県北の村(現 三次市)への集団疎開で広島市を離れ、学校や自宅近くの分散授業所に通っていたのは140人ほどと見られる。また今の中学1、2年生にあたる高等科の生徒が70人くらいいた。

 当時2年生だった太田睛(ひとみ)さんは校庭に集合して取り壊された木造校舎のあと片付けを始めた。「たまたま素足でいたんです。先生から『危ないぞ』と言われてゲタ箱がある地下室に降り、靴を手に駆け足で階段を上がる途中でしたね」(「中国新聞」1995.1.5)。その途端にピカッときた。

 4年生だった友田典弘さんは疎開先での生活になじめず大手町の自宅に戻っていた。6日は弟で2年生の幸生さんと一緒に登校したが、遅刻して靴を脱ごうと地下室に降りていた時に閃光が走り爆風に吹き飛ばされた。気がつくと右足にガラス片が刺さっていた。その時地下室には友だちの嵐貞夫さんもいたので一緒に外に出てみると、先に校庭に出ていた幸生さんは真っ黒になって死んでいた。ズックに書かれた名前で弟とわかった。校庭にいた子どもたちは70人ほどと見られるが(市立袋町小学校『ふくろまち 創立120周年記念誌』1993)、助かった者はいない。

 学校が市内中心部にあるということは、保護者も近くに住んでいたということだ。助けに行くこともままならなかった。当時紙屋町に暮らしていた秋山アサコさんは市役所に勤め、袋町国民学校に3年生の優君と1年生の映子さんが通っていた。

 

 戦争は、だんだん深刻になって食糧難になり、一食分は外米と大豆を混合したものがお茶碗に一杯(八分目)くらい、ときには鉄道草とぬかのまじったお団子を食べました。二つめは、咽喉がイガイガして通らないこともありました。一食分のお弁当を、二人はお昼前に食べていたそうです。夜は空襲がたびたびあり、寝まきを着ることもできず、そのまま寝て、空襲のたびに土蔵の二階へ避難しました。(秋山アサコ「五人の子どもを失う」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局『流灯ーひろしまの子と母と教師の記録ー』1972)

 

 それでも二人の子どもは6日も元気よく登校していった。

 その日、アサコさんは市役所で被爆し体に多くのガラス片が突き刺さった。やがて市役所が燃えはじめ、逃げ遅れた秋山さんたちは隣の市公会堂の池の中に逃げ込んだが、そこにも火の粉は容赦なく襲いかかった。(『広島原爆戦災誌 第三巻』)

 アサコさんが学校へ子どもたちを捜しに行くことができたのは翌日になってから。二人の姿はどこにも見えなかった。

旧日銀広島支店の小さな慰霊碑

 旧日銀広島支店の地下室に残されている金庫はいつ見ても圧倒される。火災が3階と2階の一室に止まり1階や地下室に及ばなかったのは金庫にとっても幸いだった。けれど爆風は地下室にも押し寄せ金庫前の廊下入り口の鉄格子が吹き飛ばされて、その跡は今も残る。生き残った行員が心配したのは、果たして金庫は開くのだろうかということだった。

 試してみると二つある金庫のうち二号金庫はすぐに開いた。けれど一号金庫のダイヤルはジャリジャリして素直に回ってくれず苦心したという。(難波康博編『消えた伝統の音—日本銀行広島支店編—』2005)

 吉川智慧丸支店長は8月8日から営業再開することを決断し、また壊滅的被害を被った市内金融機関とも協議して日銀広島支店のカウンターを区切り、そこで市内金融機関の営業を再開することにした。市内のどこの金融機関も火災に遭っており、金庫は無事でも冷めるまでしばらく扉を開けることができない。それで日銀広島支店の金庫内で無事だった紙幣を融通することにしたのだ。こんな証言が残されている。

 

 「預金の払い出しに来られるお客さんで、通帳、印鑑が焼かれて、無通帳、無印鑑扱いで、お客さんが『大体このくらい預金残高があったように思う』という言葉を信用して支払っていた」(田辺良平『広島の金融復興記』渓水社1987)

 

 預金の引き出し、火災保険の払い戻しなどで訪れる人が日毎に増え日銀広島支店は大混雑になったという。けれどその間にも、一人また一人と、「原爆症」で斃れた職員のいたことを忘れてはならない。

 屋上のガラス天井は補強していたのにあっさり潰れてしまったから雨の日は仕事にならなかった。その応急修理から始まり、門扉や窓の修理、壁の塗り直しなどの工事が終わったのは1946年11月。それからこの建物は1992年まで日銀広島支店として使われた。日銀広島支店が基町に移転したのに伴い、建物は2000年に広島市に無償貸与されて一般公開され、2023年には内装工事の完成に合わせて説明パネルも置かれた。

 けれど、もったいないなと思う。旧日銀広島支店には原爆の物語がたくさんあるのに、まるで何もなかったかのように素知らぬ顔をしている。以前、この建物の歴史を知るために日銀広島支店の警備員になった難波康博さんの言葉を思い出す。

 

 ここへ来れば、この建物に来れば何か大きな資料があるんじゃないかって気がしたんです。ところが来たら何もない。原爆の傷跡、どれが傷跡かわからない。一般のお客さんが来ていろいろ質問されても答えようがない…(県立熊野高校放送部ビデオ番組「この場所が語らせる」2007)

 

 支店長室の壁の傷跡も遠目で見たら気づきにくい。地下金庫室前の鉄柵の蝶番がちょっと欠けているのも見落としてしまいそうだ。そして3階から激落死した山下美智子さんを弔って姉の松田勝子さんが裏口近くに置いた小さな慰霊碑も、スロープの陰に隠れてしまっている。「この場所が語らせる」ためには、広島市にも私たちにも、もっとできることがあるはずだ。