ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

広島二中慰霊碑

 爆心地からの距離800〜900mの小網町あたりで原爆の熱線を浴びると、皮膚がめくれ、顔は親でも自分の子とわからないくらいに膨れ上がった。服が燃えて身体も火傷になった。それでもなんとか動ける人たちは無我夢中で救護所をめざし、あるいは我が家に向かった。

 けれど救護所に指定されていた己斐国民学校では、ようやくたどり着いてもすぐに亡くなる人が続出し、9日朝になって校庭で火葬する時に遺体を数えたらちょうど800体だった(『広島原爆戦災誌 第四巻』)。子どもの時に己斐で被爆した森重昭さんの調査では、己斐国民学校で8月9日以降一か月の間に火葬された遺体は2300体に及んだという。(森重昭『原爆で死んだ米兵秘史』光人社2008)

 爆心地から500mくらいになると熱線のエネルギーは倍にもなる。屋根瓦は原爆の熱線で表面が溶け、ぶつぶつになって固まった。1945年10月に調査に入った東京帝大の菅義夫教授が瓦を電気炉で加熱してみると同じような状態になった温度は1200〜1250度 (「中国新聞」2024.10.22)。広島の原爆の場合は強烈なエネルギーの赤外線を吸収した瓦が発熱するので、外から加熱するのと条件が異なるのではと思うのだが、とんでもない熱線の威力であったことは間違いない。最近の調査では、爆心地から850m圏内で表面がぶつぶつになった瓦が見つかっている(「中国新聞」2020.10.19)。もちろん、爆心地に近づくほど瓦の表面のぶつぶつは大きくなる。

 広島平和記念公園の中、国際会議場西側の本川の土手に県立広島第二中学校(「二中」)の慰霊碑がある。爆心地からの距離は480m。

 1945年8月6日の朝、この辺りで二中1年生約320人は整列して建物疎開作業前の点呼を受けていた。その時、上空にB-29爆撃機が姿を現し、ある学級では「休め」の号令がかかり担任の先生は「B29がどちらに行くか見ておれ」と言ったとか。

 

 生徒は飛行機を見上げたままでしたから、三学級の森中武俊くんのように、原子爆弾が落ちてくるのを、はっきりと見たものもいました。

 「先頭のB29から、まっ黒なドラムかんのようなものが落ちてすぐに、ほかの飛行機からパラシュートがついたものが、三つ落ちてきた」(広島テレビ放送編『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社1970)

 

 「まっ黒なドラムかん」はおそらく原爆。次の瞬間に世界は一変した。亡くなる前に生徒が言い残した言葉によると、ピカッと光った途端に服に火がつき、同時に爆風で木やトタン板が飛んできた。爆風で本川に吹き飛ばされた生徒もいれば、一瞬にして崩れ落ちたレンガ塀の下敷きになった生徒もいた。四学級担任の箕村登先生は「川に飛び込め」と叫んだ。(中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島二中」1999.11.16 11.17)

 一学級の大橋正和さんの言葉が残されている。

 

 「倒れていて気がついたときは、顔と手の皮がやけどでむけていました。自由に退避せよ、といわれたのですが、生きていたものは、ほとんどが川にとびこみました」(『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』)

 

 多くの人が助けを求めた己斐国民学校救護所の状況は、当時の真木賢三校長の手記によって知ることができる。

 

 職員みんなと正門の方に行ってみると、今まで気がつかなかったが、被爆者の無惨な群が門内の地上といわず、建物の中、廊下にもいっぱいである。全裸半裸で焼けただれた皮膚をたれさがらせ、うずくまり、横になり、うめいている。消火作業中にたどりついた人たちであろう。

 門外にも倒れているし、まだやって来ている人もある。ちょうど幽れいの絵にある手つきのように、また、泳いでいるようなかっこうで、ひょろひょろと歩いて門内にはいるとばったり倒れる。

 そして、「水、水、水をくれー」と訴える。水のある所は便所の手洗い場も足洗い場も、折り重なるように倒れている人が多い。

 とにかく、こんな人たちの間をまたいで通らなければ歩かれない程だった。できるだけ外に倒れている人に手を貸して建物の中に入れてやるのがせいいっぱいで、机上計画の救護所受付などできたものではなかった。

 なお悪いことには、救護用の市から預かっていた薬品類を急に計画変更でみんな草津の学校へ転送した後であったことだ。(真木賢三「腐臭・屍臭のあけくれ 被爆当時の学校の一例」広島市役所『原爆体験記』1966) 

 

 大竹の陸軍病院軍医の土方頼己さんが下士官や看護婦5人とともに己斐国民学校救護所に駆けつけたのは6日昼前で、それからの二日間は食事も取らず水も飲まず、数え切れないほどの患者の治療にあたった。でも火傷の治療は皮膚の炎症を抑えるチンク油を塗るのが精一杯。8日になって下士官が、「どうもおかしい。軍医どの。今までの怪我とは全然違います。きのう軍医殿が治療された患者は、つぎつぎ死んでいきます」と言ってきた。土方さんが「そんなばかなことはない」と怒っても、事実は下士官の言う通りだった。(『広島原爆戦災誌 第二巻』)

 己斐に住んでいた名柄敏子さんはこう記す。

 

 幾百人となく押しかけたあの患者に五人や七人の医者で何の役になるだろう。長蛇の列もいつか乱れ教室に廊下に溢れた人々の群は遂に校庭の木陰に迄一っぱいとなってその呻き声叫び声は只悲愴の一語に尽きる。私は隣組から割当てられたその人達の奉仕班にも働いた。鼻もちぎれんばかりのあの死臭漂ふ中をお粥お結びお茶を券と交換に配って歩いたがそれを嬉こんで食べる人は少なかった。

 朝叫び昼に呻いてゐた人々は夕方には最早哀れにも骸となってゐて私達の胸をつまらせた。その修羅場の中で最も私の心に喰ひ込み今なお涙と共に忘れえぬ場面は廊下やあの木陰で何の恥らいもなき全裸半裸の中学生女学生達が瀕死の苦悶の中から『天皇陛下万歳お母ちやんさよーなら』を絶叫してゐる姿。(名柄敏子「原爆体験記録」『広島原爆戦災誌 第二巻』)

 

 草津に住んでいた浜田平太郎さんの手記によれば、己斐から医薬品を転送したという草津国民学校でも状況はたいして変わらなかった。医者は、薬がないと言ってゴマ油のようなものを塗るだけだったという。

広島第一県女追憶之碑

 県立広島第一高等女学校(「第一県女」)の1年生は6月に夏の制服を縫った。1年6組大下靖子(のぶこ)さんの日記が新聞で紹介されている。

 

 「今年は白色ではなくて國防色かねずみ色のやうなきれで制服を作るやうになりました。それは何故かと申しますと敵機來襲の時白いものは目標になりやすいので」とつづり、帰宅後に母からもらったきれが「國防色でしたのでうれしくてたまりませんでした」と胸弾ませている。(「中国新聞」2008.8.18)

 

 同じ組の山田緑さんは6月17日の日記に、「今日は一日中家に居た。そして夏服を縫った。夕方それを着て、お使いに行った。初めて着たのでうれしくてたまらない」と書いている。(広島平和記念資料館企画展「動員学徒―失われた子どもたちの明日―」2004) 

 

 でも本当のところは、白い夏のセーラー服が着たかったのではあるまいか。

 8月6日、第一県女1年生は小網町あたりで建物疎開作業中に被爆。多くの生徒が先生に励まされて、全身火傷の姿で、土砂降りの「黒い雨」の中を、救護所の己斐国民学校を目指した。

 

 体中、ぶよぶよに焼けたゞれそれが雨にたゝかれ白くふくれ上がってゐる。わずかに身に纏ふものと云へば破れモンペ、ズロース一つパンツの破れひどひのは殆んど全裸のまゝの女学生中学生達が『助けてー助けてー』と叫び乍らどんどん上って来る。(名柄敏子「原爆体験記録」『広島原爆戦災誌 第二巻』) 

 

 薄手で濃い色の着物をほどいて縫った上着やブラウス、モンペは原爆の熱線にひとたまりもなかった。

 ブログ「富士見町まで」に書いたばかりだが、当時広島一中3年生だった浜田平太郎さんは妹で第一県女1年生の孝子さんを捜しに6日午後、己斐国民学校に駆けつけた。

 

 一人の裸足の少女が、よたよたと私のほうに近づいてきました。

 最後の力をふりしぼっているように見えました。

 とても、見ていられないほど、顔は火傷でパンパンに腫れ上がり、目は糸のように、細くつぶれていました。手の皮は、めくれて垂れ下がっていました。

 まるで幽霊のようでした。

 モンペは、熱線で焼けおちて、ずたずたに破れ、下着だけになっていました。うえのほうは白い半そでのブラウスと、モンペの胸の部分の布がわずかに残っており、その柄に見覚えがありました。

 「孝子か」と聞きました。

 その少女は、こくりとうなずきました。(浜田平太郎『泉 第二集 原爆と私』私家版2012)

 

 平太郎さんは孝子さんを大八車に乗せて草津の自宅へ連れて帰った。亡くなったのは翌日未明。母親に看取られたのがせめてもの救いと言えるだろうか。

 山田緑さんは己斐の自宅にたどり着き、その日の深夜に亡くなった。己斐国民学校から大竹の自宅に運ばれた大下靖子さんが亡くなったのもその日の深夜。後に広島平和記念資料館に寄贈された靖子さんの制服は半分以上が焼けて無くなり、下着のシュミーズがかろうじて形をとどめている。

 第一県女1年生223人の中には大火傷の体で17日間生きた生徒もいたが、結局のところ誰一人助かった生徒はいなかった。

 広島平和記念資料館に、小網町で被爆した広島市立中学生徒3人の遺品を一体の姿にした「三位一体の遺品」が展示されている。遺品は2年生の福岡肇さんの上着とズボン、1年生の津田栄一さんの帽子とベルト、そして1年生の上田正之さんのゲートルだ。

 福岡肇さんは江波の国民学校に収容され11日に亡くなった。ブログ「広島平和記念資料館の軌跡」に書いたが、母親のとみゑさんは我が子を看取ることができなかった。渡された遺骨が本人のものかどうか定かではなく、小網町で見つかった上着とズボンだけが我が子の思い出の品となった。

 肇さんの上着は右袖が肩のところからなくなっている。左は肘のところから焼けてボロボロ。胸のボタンは全部無くなっていて、引きちぎられているように見える。ズボンも前をとめるボタンがなく、ところどころ焼け焦げている。朝礼の最中なのでまだ上着を着ていたが、原爆の熱線で上着もズボンも燃えだしたので慌てて脱ぎ捨てたのではなかろうか。

 津田栄一さんは父親が遺体を見つけた。道路に仰向けに倒れていて、顔は赤く膨れ上がり、喉と胸に大きな穴があいて肋骨が見えた。上田正之さんは近所の人が見つけた。大火傷で全身の皮膚がベロリと剥けていたという。「お母さん、お母さん」と泣き続けていたが、親に会えないまま8日に息を引き取った。(高橋昭博他『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』日本放送出版協会1982)

 爆心地から1.2km離れた場所で被爆した坪井直さんはシャツから火が出たので脱ぎ捨てている。市立中学の生徒は800〜900mあたりで熱線を浴びたのだから生徒全員の上着やズボンが燃えてもおかしくない。全身火傷は熱線だけでなく、着ていた服が燃えたせいでもあるだろう。

 2年生の檜垣浩さんの父親兵市さんは三菱重工広島機械製作所の人事課に勤めていて、当時事務所は己斐の善法寺に疎開していた。己斐までたどり着いた我が子の姿を一目見て兵市さんは愕然とした。

 

 顔面は火傷で仁王の面の如く膨れ上り、二の腕から先は剣道の固手の如く腫れ、上半身は脚も背も、表も裏も火傷でただれた上を更にマーキロを塗って貰ったから、皮を剥がれた兎のようで、どんなに見ても助からぬ命だと直感した。(檜垣兵市「浩よ、ねむれ」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 松重美人さんの御幸橋の写真に広島市立中学1年生の沓木(くつき)明さんの後ろ姿が写っている。沓木さんも上着は着ておらず、シャツは血に染まっているようだ。写真に写っていない顔面や手はどんな具合だったのだろう。警察官に油を塗ってもらっているようにも見える。

 自宅が比治山の東側の段原で、小網町から我が家を目指すのに御幸橋を通るのは不思議なことではない。沓木さんも親に会いたい一心で3kmの道のりを御幸橋まで歩いたのだろう。けれど、沓木さんはそれからの行方がわからない。小網町で被爆した広島市立中学の1、2年生は半数が行方不明のままだ。どこにもたどりつけないまま、この世を去っていったのだ。

天満川沿いにあった広島市立中学慰霊碑

 爆心地からの距離が1km以内になると熱線だけでも全滅するし、さらに初期放射線も致命傷となる。

 平和公園から本川橋を渡って西に歩けば広島電鉄の土橋(どばし)電停がある。爆心地からの距離は800m。この辺り一帯でも「建物疎開」に動員された多くの人が原爆の熱線に焼かれた。

 当時崇徳中学4年生だった私の父も土橋電停の南側の小網町で8月4日までの一週間、建物疎開作業をやらされた。寿座という劇場の前に集合したと手記に書いているが、この劇場があったのは小網町の東の端、今は広電の江波線と平和大通りが交差するあたりだ。

 祇園町の三菱重工業第二十製作所の職域義勇隊は8月6日から小網町に出動した。当時、崇徳中学3年の大前民生さんもこの職域義勇隊の一員だった。

 

 八月六日、私は朝七時頃に寄宿舎を出発し、八時前に現地に到着しました。そして同級生百二十人余りとともに、家屋の大きな柱にロープを掛けて引っ張り、家を壊す作業を開始しました。そのとき、サイレンが鳴り、雲ひとつない澄み切った上空にB29が飛んでいるのを見ました。はっきりと飛行機が見えたのは覚えていますが、その瞬間、青白いものすごい閃光がピカッと光り、それからは何も分かりません。気がついたときには何かの下敷きになっており、一トン爆弾が至近距離に落ちたのだと勝手に想像しました。(大前民生「平和が一番のぜいたく」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

(サイレンについてはブログ「8時15分に警報は鳴ったか?」)

 

 大前さんは、たまたま建物の陰に入っていて火傷を免れた。けれど家を崩した後の瓦や木材を片付けていた人たちは悲惨だった。

 広島市立中学の慰霊碑はかつて小網町にあった。天満川にかかる緑大橋のたもとだ(堤防工事のため2017年に移転)。市立中学1、2年生約300人はこのあたりで朝礼中に原爆に遭った。駒田耕治さんの母親まち子さんは手記にこう記している。

 

 「飛行機の音がしたから僕は上を向いた。 そしたらキラキラ光る物がみえたよ、それから吹き飛ばされて何もわからなくなったんだ。気がついてみたらこんなことになっていたよ。まわりで友達が沢山死んでいたよ。」

 被爆した時のことを耕治はこう語ってくれました。全身大火傷、顔は腫れ上がり、手の指先に焼けた皮膚が垂れ下がり、上半身は裸、焼け残ったゲートルが僅かに付いている状態でした。(駒田まち子「思い出」旧制広島市立中学校同窓会編『鎮魂』1977)

 

 山本利和さんの父親熊八さんの手記によると、ピカッと光った後、防火水槽に入る者や川に飛び込む者がいたが、息子の利和さんは何人かの級友と励まし合って第一避難所に指定されていた己斐国民学校を目指した。けれどそこはすでに満杯だったので第二避難所の廿日市の国民学校に向かった。たどり着いた時は2、3人になっていた (山本熊八「口髭」旧制広島市立中学校同窓会編『鎮魂』1977)。広島市立中学の第二避難所が今の廿日市小学校ならば土橋からの道のりは12km。全身大火傷の体でよくもまあ歩けたことだ。

 北山二葉さんは東練兵場まで逃げて動けなくなってしまった。午後3時ごろになると今度は自分の顔がこわばってくるのに気がついた。

 

 だんだん顔がこわばって来た。両手をそっと頬にあて、離してその空間を計って見れば、その広さは二倍にもなっているような気がする。視界がだんだん狭くなって来た。ああ、今に目が見えなくなる。せっかくここまで逃れたけれど、所詮私は死ぬ運命だったのだろうか。 (北山二葉「あッ、落下傘だ」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 熱線を浴びた顔が大きく膨れ上がったという証言はいくつも見つかる。それは家族や友人でも見間違うほどの変わりようだった。

 鶴見橋付近で建物疎開作業をしていた広島女子商業学校1年の松原美代子さんの手記がある。松原さんはピカッと光るとすぐに地面に伏せたのだが、立ち上がってみると上着とモンペは焼け失せて下着だけの姿になっていた。

 

 そこで気がついたのですが、両手両腕、両脚、顔と、身体の3分の1以上が大火傷を負っていたのです。それもひどい火傷で、皮膚は腫れあがり、セロファンのようにつるりとむげて、中から真っ赤な肉を見せていました。両手の指や腕の皮膚はまるでボロ布のように垂れ下がり、ところどころ、黄色になって血を含んでいました。(松原美代子「私の被爆体験とヒロシマの心 」Webサイト「ワールド・フレンドシップ・センター」)

 

 でもその時は自分の顔を見ることができない。驚いたのは、同じクラスの友だちに声をかけられた時だった。

 

 私はその人が最初だれだかまったく判りませんでした。顔全体が大火傷で大きく腫れあがって裂け、顔の形がありません。特に下唇は大きく腫れあがり、首と顎の区別さえつかないほどでした。ぱっちりと可愛かった目はどこにあるのか見分けもつきません。かの女は同じクラスの友人だったのです。(「私の被爆体験とヒロシマの心 」)

 

 広島第二県女2年生の本地文枝さんは爆心地から1kmちょっとの雑魚場町で被爆し広島女子専門学校に収容されたが、その見るも無残な姿は、捜しにきた母親の静代さんにとって衝撃的だった。

 

 作法室の入り口の近くに、その“物体”はあった。顔はたらいのようにふくれ上り、顔一面に白い薬が塗られていた。全身焼けこげ、下着や服の残りかすが身についているが、まるでわかめのようである。その子は寝息をたてていた。

「本地さんです」

 静代は思わず叫んでいた。

「これはうちの子じゃありません。うちの子は、私に似て、顔が細うて小さいんです。うちの子じゃあ、ありません」(関千枝子『広島第二県女二年西組』ちくま文庫1988)

 

 けれど耳元で名前を呼ぶと、「ハイ」と返事をした。その声はまさしく我が子の声だった。

 本地文枝さんは8日未明に息を引き取った。でも母親に会えただけまだマシだった。顔を焼かれ、名札も焼け失せ、声もだせず、誰にも見つけてもらえなかった人はたくさんいたに違いない。その人たちはどんな思いで死んでいったのだろうか。

 北山二葉さんは顔の火傷に心が折れそうになったが、市の中心部は一面火の手が上がり、ぐずぐずしてはおれなかった。北山さんは三人の子どもの名前をかわるがわるに呼び、「母ちゃんは死にはしないよ。大丈夫よ」と自分を励ましながら逃げた。そしてようやく広島駅裏の東練兵場までたどり着いた。

 

 私はその頃から、自分の火傷が少しずつ痛むような気がして来た。しかし、それは普通の火傷の耐えられないような激痛と違って、何か自分のからだでない遠いところの痛みが伝って来るような鈍痛だった。両手の皮膚のむけたところは黄色な分泌物がにじみ出て、それが小豆粒ほどの玉になってボトボト落ちている。顔もきっとこの通りむごたらしい傷になっているのであろう。まわりには奉仕隊の幼い女学生や中学生が地面をころがりながら「お母さん、お母さん」と気違いのように泣き叫んでいる。その二目と見られない火傷や、血だるまの無残な姿を見ていると、私は何ものへぶつけていいか分らない怒りが、腹の底からこみ上げて来るのだった。 (北山二葉「あッ、落下傘だ」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 火傷があまりにも酷いと痛覚神経まで麻痺してしまうのだろうか。当時国民学校5年生だった矢口久代さんも似たような経験をしている。

 久代さんは6日朝、校庭で朝礼の最中に「ピカーッ」と猛烈な光を浴び、そして吹き飛ばされた。家が横川だから学校は三篠(みささ)国民学校だろう。爆心地から北に1.8kmくらいだ。

 久代さんも気がつくと上着がなくなり、モンペは胴と足首のゴムのところが残っているだけ。パンツだけの姿になっていた。全身が火脹れで、特に右の太ももは皮膚が裂けて垂れ下がり、赤身が出ていた。それでも、いとこの賢ちゃんが手を引っ張ってくれたので家の近くまでたどり着くことができた。二人は防空壕の中に収容された。

 

 防空壕はだんだん火傷をした人で一杯になって来ました。と同時に、だんだんと火傷の痛みが感じられて来るのです。私はもう堪えられなくなって声をあげて泣きました。賢ちゃんも泣き出しました。私たち二人ではありません。防空壕の中の人々はみんな声をあげて泣いたのです。(長田新編『原爆の子』岩波文庫)

 

 久代さんが我が家に戻ってみると、建物疎開作業に出ていた兄も、近くで遊んでいた弟も、そして母親も全身を焼かれていた。兄の顔は一目見てもう二度と見る気になれなかった。弟は「お母さん、お父さん」とひっきりなしに叫んだ。久代さんにできることは、泣きながら弟の名前を呼ぶことだけ。弟はその日のうちに息を引き取った。

 9日から矢口さん一家は江田島にある知り合いの病院に移った。そこでできる限りの治療をしてもらったのだが、兄は10日、母親は27日に亡くなった。その間、久代さんは熱にうなされ意識が朦朧としていたが、医師がこう言っていたと後で聞かされた。「この火傷の手当ては、どうしたらよいのかわからないのだという事が今わかった」。

 広島女子商業学校の1、2年生も鶴見橋付近の建物疎開作業に動員されていた。1年生だった村輿(むらこし)文子さんの体験記がある。8月6日は、空襲に備えて黒い服を着てくるようにと先生から言われ、紺色の木綿の着物地で縫った長袖のブラウスともんぺを着ていった。現場で生徒は一列になり、村輿さんは列の先頭で壊した家の瓦を持ったその時だった。写真のフラッシュの何万倍もの光が走ったように感じ、大きな爆発音がした。とっさに両手で顔を覆って地面に伏せた。しばらくして、ああ自分は生きていたと思って立ち上がったが、頭の中はしばらく混乱したままだった。

 

 薄暗くてどんよりした中をみんなの行く方向に付いて走っていきました。着ていたブラウスともんぺは、焼けてしまったのか溶けたのか、もんぺの裾に入れてあった白いゴムひもだけが残っていました。(中略)腰から下の両足先までと、肩から手先までやけどをして、着ていた衣服は溶けたように無くなり、裸同然だったのですが、そのときは全く気が付きませんでした。後で思えば本当にみじめな格好をしていたことになります。白い下着だけが汚れて残っていたと、後に母から聞きました。(村輿文子「悲しい体験」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 鶴見橋あたりでは、爆風は原爆のさく裂から約3秒後に襲ってきた。学校で教わった通りに伏せたので吹き飛ばされずに済んだようだ。けれど、熱線はまともに浴びた。薄手で熱を吸収しやすい濃い色の服はあっという間に燃えてしまい、白い下着だけがかろうじて体を守ってくれたと思われる。

 村輿さんの体験記には、顔を火傷したとは書かれていない。でも他の生徒の顔は大火傷だった。同じ1年生の西岡愛子さんは手記にこう書いている。

 

 「一緒に逃げよう!」と手を延べてくれた友が一番親友である内田久江さんだと云うことが、名前を聞いて始めてわかり、とてもうれしかったのです。もう、髪の毛は逆立、顔も手も足も皮がはがれてぶらさがり、目もつぶれかけて、私も同じ、すごい有様でした。死体がゴロゴロころがってる中を、二人で泣きながら、手を取り合って逃げると、後から数人、親友の山下元子さん達が追って来ました。お互い名前を聞く迄誰が誰だかわからない程の形相でした。(西岡愛子「被爆体験について」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 村輿さんはとっさに手で顔を覆ったから火傷しなくて済んだのだろうか。

 2007年に広島市が出した「核兵器攻撃被害想定専門部会報告書」では、熱線は光と同時に届き、その放射継続時間(エネルギーの8割を放出するのに要する時間)は「16キロトンの空中爆発で1.4秒」としている。また、広島市長崎市原爆災害誌編集委員会の『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店1979)には、さく裂後0.1〜0.2秒の間に最も強い熱傷を生じるとある。とすれば、閃光を感じてから顔を覆うのでは遅いのではなかろうか。最初から何かの陰に入っていなければ、顔の火傷を免れることはできないのではなかろうか。

 小西三次さんは原爆が投下された時14歳。爆心地から西に10km離れた廿日市(はつかいち)の港で作業中に突然背中に焼けるような熱さを感じ、振り向いたら東の空に原爆の火の球が見えた。

 

 太陽の丸みで言うたら三つぐらい下に赤い球があった。太陽よりちょっと原爆の丸い球の方が径がこまかった(小さかった)。ピカピカピカピカ光って熱い熱い熱い、ズーッとその熱さが続いとった。(小西三次さん 五日市高校放送部ビデオ作品『ヒロシマを伝えたい』2011)

 

 やがて火球は上昇し、太陽と重なったころに爆風が襲って来た。

 小西さんが「熱い!」と感じたのは原爆の熱線のせいだ。原爆のさく裂によって生じた火球からは強烈なエネルギーを持った紫外線、可視光線、赤外線が放出されるが、地上に到達して人に被害を与えるのは主に赤外線だと考えられている。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『広島・長崎の原爆災害』岩波書店1979)

 では熱線(主に強烈なエネルギーを持った赤外線)は人の体をどのように焼いたのだろうか。NHKは2015年に、松重美人さんが撮影した有名な御幸橋の写真を分析し、NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」を放送した。NHKの取材に応じて熱傷の専門医である原田輝一さんは写真を見てこう語った。

 

 「われわれが遭遇する熱傷は、熱湯や炎、いわゆる熱そのものと接触して起こる熱傷です。ところが、原爆では光を浴びて、その光を吸収した皮膚が熱を発生させ、皮膚の内部から熱傷が起こって表に顔を出してくるのだろうということが、あの写真を見てよく分かりました。(中略)

 光線(または閃光)熱傷、『フラッシュ・バーン』の特徴だと思います。それを示す唯一の写真だと思うんです」(NHKスペシャル取材班『原爆死の真実 きのこ雲の下で起きていたこと』岩波書店2017)

 

 原田さんが示したのは、松重さんの2枚目の写真の右端に写っている女性と思われる髪がボサボサの人。左腕の服が破れているように見えるのは、実は肩から垂れ下がっている皮膚ではないかというのだ。赤外線を吸収した皮膚内部の水分が蒸発により膨張して、皮膚がその圧力に耐えきれなくなってパッと剥がれてしまったというのが原田医師の推測だ。

 体験した人の手記がある。爆心地から約1.6km離れた鶴見橋のたもと。空がパアッと光ったと思った途端、北山二葉さんは地面に叩きつけられた。

 

 ふと自分で吸う息がとてもくさいのに気がついた。「これは黄燐焼夷弾というのかも知れない」私は無意識に鼻と口を、バンドにはさんでいた手拭で思い切りぬぐった。その時私は初めて自分の顔に異状を覚えた。ぬぐった顔の皮膚がズルッとはがれた感じにハッとした。

 ああ、この手は——右手は第二関節から指の先までズルズルにむけて、その皮膚は無気味にたれ下っている。左手は手首から先、五本の指がやっぱり皮膚がむけてしまってズルズルになっている。

 「しまった。火傷だっ」と魂の底からうめいた。(北山二葉「あッ、落下傘だ」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書1975)

旧日銀広島支店営業場

 8月6日の朝、日銀広島支店1階の営業場にいた女性職員は6名。うち2名のケガは酷かった。

 

 なお、営業場では、早出当番の女子事務職員数名が負傷したとみられているが、その中の一人本田美保子さんはその時机の上を拭いていた。強烈な爆風とともに吹き飛んできたシャッターや窓ガラスの破片などを不運にも全身に浴びて無数の切傷を負いその場にたおれた。出血多量のため昏睡状態に陥り二日後の八日朝、地下金庫前の廊下で最後の息を引きとった。(日本銀行広島支店『みたまやすかれ』1977)

 

 爆心地に向いていた窓は鉄製のシャッターが閉まっていたが、そのシャッターや窓ガラスが吹き飛んだという。シャッターの破片や砕けた窓ガラスとともに爆風が建物内を吹き荒れただろう。それだけでなく、正面玄関の分厚いドアを吹き飛ばして入ってきたり、3階の窓が開いていたから、そこから入ってきた爆風もあったのではなかろうか。とにかく営業場はとんでもないことになっていた。7日に吉田町(現 安芸高田市)の税務署から救援に駆けつけた竹山正さんの証言がある。

 

 又、一階の営業場に目をやってみると、机や椅子・テーブルそしてソファー等、あらゆる什器備品が爆風により無秩序に折り重なっていた。ところが、よく見るとそれらは大して壊れていなかったようにみえた。さすがは日銀、建物はおろか机・椅子までも頑丈に作ってあるのだなと変なところで感心したのを覚えている。(竹山正「もう広島には住みたくない」難波康博編『街が消えた日 広島財務局編』私家版2004)

 

 しかし机や椅子が頑丈であればいいというものでもなかった。

 

 フッと、一息をつく時があった。二階から営業場の壁に目をやると、壁や天井にいっぱいキズがついていた。中でも天井に机の当たった跡がくっきりと付いていた。それを見た時、改めて爆風のものすごさに驚かされた。(「もう広島には住みたくない」)

 

 日銀広島支店の建物は一階、二階が吹き抜けになっている。その高い天井に重たくて頑丈な机が爆風に吹き飛ばされてぶち当たっていたというのだ。人にあたれば、机でも凶器になるのは間違いない。

右がかつての厨房、左が宿直室

 また1階にあった宿直室の外の通路では、外和田今一さんと秦博さんがコンクリートの壁に叩きつけられて亡くなっていた。東側の通用門から入ってすぐの「面会室」が当時の宿直事務室で「第2応接室」が宿直室。今は警備員室になっている部屋が当時は厨房だった。目撃者の証言が残っている。

 

高山「そうです。今の厨房の前の角を回ったあたりです。あそこの壁には血がベットリついて壁が欠けてしまっていましたね。(後略)

若林「壁が落ちてうずもっておられましたのでね。ほんとにお気の毒でした」(被爆十七回忌座談会『にちぎん』1961 日本銀行広島支店『みたまやすかれ』1977所収)

 

 ぶつかって壁が崩れるほどの爆風の威力なら、今時のビルの薄い内壁などひとたまりもないだろう。窓から離れても、窓のない部屋に逃げ込んだとしても、それで安心とはいえないのだ。