ヒロシマを歩く1 護国神社の跡1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

護国神社鳥居の台座

 市民球場跡地が「ひろしまゲートパーク」に生まれ変わったのは1年前。正面に原爆ドームが見える散歩道が気に入った。

 この新たな観光名所もまた、あの日を偲ぶ場所の一つなのだ。広島のデルタであの日と無縁な場所など何処にもないのだから、それは当然のことではあるのだが。

 原爆が落とされた時、そこには護国神社があった。「ひろしまゲートパーク」の傍に建つ青少年センターの前庭に鳥居の台座がチョコンと置かれている。台座はコンクリート製で基礎部分が縦1.5m、横1.1m、高さ0.9m。その上に折れた柱の半球状の根元部分だけが残っていて、護国神社にあった3基の鳥居のうち北側の鳥居と見られている。

 軍国主義の時代、神社、特に靖国神社や各地の護国神社は特別な存在だった。広電家政女学校で学びながら路面電車の運転士や車掌をした人たちを描いた『チンチン電車と女学生』にこのように記されている。

 

 車掌は大きな声で停留所の名前を知らせ、主だった建物の案内もした。

 市川照子さんはこれが苦手だった。なにしろ花も恥じらう年頃だし、それまで郷里では人前で話すような経験もなかったので、とにかく恥ずかしい。それでも「次は◯◯です。お降りの方はございませんか」と懸命に声をふりしぼった。護国神社の前では停留所名を告げた後に、「敬礼願います」というのが習わしだった。乗客はみな、神社に向かって頭を下げた。(堀川惠子・小笠原信之『チンチン電車と女学生』講談社文庫2015)

 

 護国神社は爆心地からの距離約200m。原爆で建物は鳥居1基を残して全壊全焼。その時そこに何人いて何があったかを証言する人はいない。あの日の朝もお参りの人たちがいたのは間違いないのだが。

 今の原爆ドームの北隣りには自転車卸業を営む川本福一さん一家が暮らしていた。福一さんはあの日朝早くから宇品に行く用事があり、千田町の友人宅で被爆して大怪我をしたが一命はとりとめた。しかし家にいた末娘の郁江さんは焼死。焼け跡の瓦を掘り返すと、パウダーのようになった骨が出てきたという(「中国新聞」1997.7.29)。そして福一さんの妻艶子さんは学徒出陣した息子の無事を祈りに護国神社に行ったきり二度と帰ってこなかった。

 福一さんは誰よりも早く、10月には元の場所に自宅と店舗を再建した。そしてあたりに散乱していた骨を拾い集めて供養したのだが、それで原爆ドームの中に入った時、福一さんの目に留まったものがあった。クスノキが芽生えていたのだ。

 

 「19年も続く廃虚の緑化」。そんな見出しの記事が一九六四年の中国新聞紙面にある。小鳥が運んできた木の実がドーム内で芽を出したのを見つけて以来、クスノキの苗をドーム周囲に移植しては育て続ける「川本福一」の思いを報じる。「世界平和記念樹の森」にしたい、と。(「中国新聞」1997.7.29)

 

  川本福一さんの息子さんにお話を伺ったことがある。クスノキは原爆ドームの周りだけでなく、護国神社の跡にも植えていたと。息子さんの子どもの頃の仕事は朝の水やりだった。

 護国神社の跡地に市民球場ができたのは1957年。福一さんが亡き妻を偲んで植え、息子さんが毎日水やりをしたクスノキは、今どこで葉を茂らせているのだろうか。

平和公園のクスノキ