旧広島大学理学部1号館
もう少し爆心地に近づいてみよう。旧被服支廠のレンガ倉庫から西に歩いて2kmほど、広島大学東千田キャンパス内に旧広島大学理学部1号館が残されている。鉄筋コンクリート造り3階建てのゴツい建物で、学生時代ちょっとだけ中に入ったことがあるが、薄暗くひんやりしていたのを憶えている。この建物はかつて広島文理科大学本館で、1945年6月に大部分が「本土決戦」のために設けられた地方行政組織である中国総監府に接収されて8月6日を迎えた。爆心地からの距離は南に約1.4km。
高本達寿さんは当時服部直彰副総監の運転手をしていた。8月5日の夜は宿直で、朝の警戒警報が解除されると一旦自宅に戻り、再び出勤したのは8時前だった。
副総監室に挨拶にいき、副総監の上衣をとって洋服掛にかけた。これはいつも私がする習慣であった。そこへ秘書の女の子が冷たいタオルを持って来て、副総監に渡そうとしたとき、B29 の爆音が聴こえた。
「窓からのぞいて見よ。また B29 が来とるじゃないか……。」と、副総監が言った。
私と秘書は、教室の腰高の窓から空を仰いだ。その瞬間、閃光を感じた。
私はとっさに窓の下の壁のところに伏さった。何秒かして、奇妙な音響がし、体が宙に浮いて吹っとばされた。
この頃、校庭にバラックを建てて、防衛召集の兵隊がたくさんいたが、それが使用していたらしい鉄製ベットが、どうしたわけか、三階の窓から中へ飛びこんで来て、転っている私の体の上に落下した。そこへ壁の煉瓦がガラガラと崩れおちて来た。私はベットを被っていて奇跡的に助かった。まったく一瞬の出来事であった。(高本達寿「炸裂下の服部副総監」『広島原爆戦災誌 第三巻』)
高本さんに火傷はなかったようだ。副総監室の窓は南西に向いているので熱線の直撃を免れたのだろう。けれどさく裂から3秒後に襲ってきた爆風の被害は酷かった。閃光を感じてとっさに伏せても吹き飛ばされている。窓の下の壁にへばりついてもダメだったのだ。その上、吹き飛ばされたところに窓から鉄製のベッドが飛び込んできた。重たい鉄製のベッドがビルの3階の高さまで飛ばされるとは、にわかには信じられないような話だ。
高本さんは頭を負傷し、ガラスも体にたくさん突き刺さったが、ベッドやレンガが直撃していれば命はなかったのではなかろうか。机についていた副総監もケガで済んだが、女性秘書は立ったままだったから、部屋の外まで吹き飛ばされて亡くなった。爆心地から離れた鉄筋コンクリートのビルの中でも危険はいっぱいだったのだ。
その後、本館の建物内部は全焼した。広島文理科大学助教授の小倉豊文さんが大学にたどり着いたのは6日の夕方5時。「あの頑丈そうに外からは見えた鉄扉が、中央から内側にペコンとへこんでいた」という。そして1階にあった小倉さんの研究室はその後の火災で部屋全体がまだ炭火をおこしたように燃えていた。他の研究室では灰の中から人骨が出てきたという。爆風で壁や機械に叩きつけられて亡くなった人の骨だった。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)


