ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 光成選逸先生も8月6日は朝早くから学校に来ていたのではなかろうか。いや、真夜中に空襲警報を聞いて学校に駆けつけ、そのまま他の先生と一緒に宿直室で雑魚寝したかもしれない。

 朝7時の妻のヤエさんへの電話も、下宿ではなく学校からかけたのではなかろうか。選逸さんは、「自分一人ならば、どんなにしてでも逃げられる。いざと言う時には、七つの川があるから泳ぐよ」と冗談混じりに言ってヤエさんを安心させたというから、当然、その時夫婦で夜中にあった空襲警報の話をしたのだろう。(光成ヤエ「大き骨は先生ならむ…」いしゅたる社『いしゅたる No.16』1995)

 午前8時、職員室で生徒から縁故疎開の相談を受けていた寺沢篤雄先生は時計を見て光成先生に話しかけた。

 

 「光成先生、職員朝会の時間ですよ。」と話しかけたら、「ちょっと待ってください。急ぐ用事があるから。」といって職員室から姿が消えた。(寺沢篤雄「原爆に遭いて」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局『流灯 ひろしまの子と母と教師の記録』1972)

 

 職員室の隣には校長室・衛生室があったが、光成先生と子どもたちの白骨死体はその衛生室の前で見つかっている。

 長年被爆証言活動に尽力され、2022年に亡くなられた北川建次さんは当時竹屋国民学校の5年生。体が弱かったので疎開にはいかず、その頃は今の宝町にあった学校に通っていた。爆心地からの距離は1.3km。

 北川さんが学校に着くと、8時20分の生徒朝礼までまだ時間があったので、2階の教室でオルガンを弾いて歌を歌っていた。突然、ピカーッと光った。

 

 ピカーッと光った後ドドーンというような大きな音がして、そしてガラガラガラガラッと校舎が倒れたんです。何か体が一瞬飛ばされて宙に舞ったような感じがしましたが、それからガラガラガラガラと校舎が倒れて、何か巨大な槌で千万回叩きのめされたような感じがしたですね。2階にいたものですから何か下に落ちていくなという感じがしたんですけど、気を失ってしまいました。しばらくしてアッと気が付いたら、真っ暗闇の中にいて、めちゃくちゃに壊れた校舎の下敷きになっていました。(県立熊野高校放送部制作テレビドキュメント「さんげ〜あの夏の日は終わらない」2009)

 

 北川さんは運良く潰れた校舎の下から抜け出すことができたが、すぐに火の手が迫ってきた。担任の先生の「早く逃げなさい」の声が聞こえて一目散に逃げ出した。北川さんは語る。「火がまわってくるから、どうしようもならんわね。わたしはそのとき、友だちをみんな見捨ててにげたんです」。(石田優子『広島の木に会いにいく』偕成社2015)

 『広島原爆戦災誌』は、竹屋国民学校校舎内で亡くなった子どもたちを50人としているが、「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」ができたときに納められた竹屋国民学校の亡くなった子どもたちの名簿に記されている名前は26人。一家全滅などで子どもたちの被害の把握は難しい。名前さえも残らなかった子どもたちが広島にはたくさんいたのだ。

 8月6日朝、広島の人たちは眠い目をこすりながら学校や職場に向かった。5日午後9時30分と6日午前0時24分に空襲警報が鳴り響き、2回目の警報が解除になったのは午前2時10分。この間、広島市民は全員起きて避難しなければならなかった。そして夜が明けて午前7時9分に今度は警戒警報発令。アメリカの気象観測機「ストレート・フラッシュ」が広島に接近したのだ。観測機からは暗号電波が発信された。「判定。第一目標を爆撃せよ」と。午前7時31分、観測機は広島の空から去り、警戒警報は解除された。

 夜間に空襲警報があったら始業時刻を遅らせる学校もあったが、竹屋国民学校はいつも通りだったようだ。寺沢篤雄先生が学校に着いたのはまだ警戒警報が発令されている最中だったが、教室に入ると受け持ちの6年生の生徒が元気な声で「先生、おはよう」と言った。この生徒も原爆で命を失うことになる。

 毛利よし子さんの家では、1年生の美恵子さんはいつものように家を出たのだが、5年生の博次君は学校を休みたいと言ってグズグズしていた。「きょうは、広島が全滅になるよ。宇品にチラシビラが飛行機からまかれたよ」と言うのだ。(毛利よし子「消息不明の子どもたち」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局『流灯 ひろしまの子と母と教師の記録』1972)

 博次君は、本当は眠たかったのだと思う。1年生の美恵子さんなら警報の最中に寝ていても、5年生だとそうはいくまい。母のよし子さんが叱ると8時10分ごろになってようやく重い腰を上げた。

 

 「おとうさん、おかあさん、行ってまいりません」と申します。私も笑いながら見送っていると、また引き返してきました。「今度はほんとうに行くよ。きょうはゲートルもザツノウもいらないよ。おとうさん、おかあさん、元気でね」といったことばが、今もなお脳裏に深傷として残っています。どうして無理に登校させたのかと思うと、胸中張りさけそうです。(「消息不明の子どもたち」)

 

 しかしアメリカ軍機がビラをまいたと言う話は他にもある。正田篠枝さんは、日時が不明だが、京橋川の川面が真っ白になるほど宣伝ビラがまかれ、それには「善良なる日本国民よ、早く疎開せよ、猛烈なる、爆弾が落ち、このような残酷なことになるよ」とあって、ケガ人が苦しんでいる絵が添えられていたという。( 正田篠枝『耳鳴り』平凡社1962)

 崇徳中学4年生だった私の父もビラが撒かれたという話を耳にした。

 

 私達の作業は8月4日で終わり、5日は日曜日で休み、そしてあの6日の朝。また工場行きが始まるのである。靴を履きゲートルを巻く。靴と言っても穴のあいたボロの地下足袋であったが、その時ふと思い出したのが、昨夜祇園の工場へ出勤している3年生の1人が言った「6日にはB29が広島へ空襲に行くゆうてビラを撒いたそうな」という言葉であった。

 まあいいや、空襲はどうせ夜の事だろうから。一瞬頭に浮かんだ不安を打ち消して、数人の友と共に横川電停まで走った。(精舎法雄「火焔―私の原爆体験記―」1990)

原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

 広島国際会議場南側の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」。その台座には正田篠枝さんの短歌が刻まれている。竹屋国民学校の焼け跡から遺骨が見つかった光成選逸先生と子どもたちを悼んで読まれた歌だ。

 

 太き 骨は 先生ならむ

 そのそばに

 小さきあたまの骨 あつまれり

 

 「唉! 原子爆弾」に出てくる歌に何度も手を加えられてこの形になった。そして1971年になって、原爆で死んでいったすべての子どもたちと先生に捧げる歌として碑に刻まれた。このことについては、前にブログ「さんげの世界 愛しき勤労奉仕学徒よの章」に書いたが、もう一度書いてみたい。

 1945年3月末、光成ヤエさんは3人の子どもを連れて広島県東部の府中町(現 府中市)に縁故疎開した。政府は前年の6月に、東京都など13の都市で国民学校3年生から6年生までを対象に市外の親戚を頼っての縁故疎開を勧め、それができない家庭の子どもたちの集団疎開を決定した。広島市や呉市は1945年3月18日に学童疎開の実施を決めている。(広島市『広島市被爆70年史』2018)

 夫の選逸さんは本川国民学校の先生で、一人広島市に残った。光成ヤエさんの手記によると、新年度からは竹屋国民学校の間賀田琢爾校長が病気を理由に退職願を出していたので、その後任の校長として竹屋国民学校に転勤となった。ただし間賀田校長の身分は特別で内閣の任命によるものだったが、辞令がまだ東京から届いていなかった。『広島原爆戦災誌』が光成先生の身分を教頭としていたので、私もブログ「さんげの世界」ではそれに従ったのだが、実際には光成先生は竹屋国民学校の校長として働き、そして8月6日を迎えたのだ。

 8月4日の土曜日、選逸さんは府中町の家に帰るはずだったができなくなった。6日朝7時に電話があって、集団疎開先と学校を行ったり来たりで忙しく、当分家には帰れそうにないとのこと。これが選逸さんヤエさん夫婦の最後の会話となった。(光成ヤエ「大き骨は先生ならむ…」いしゅたる社『いしゅたる No.16』1995)

 当時竹屋国民学校は、山県郡の加計町や戸河内町など5つの町や村(現 安芸太田町)に3年生から6年生までの300人が集団疎開していた。大変なことが多かった。

 例えば食事は、朝がお椀に2杯のお粥。昼の弁当は白米だったがごく少量。そして夕食がまたお粥。粥に芋が混じっていれば上等だった。

そんな生活の中で8月初め、疎開先の一つでチフスが発生した。患者は若い守山瑛子先生と子どもが6人。

 

 原因は、面会にきた父兄のおみやげのビワということであったが、ふだんは元気そうに見えても、一度病気に罹ると、身体に抵抗力がなかった。たちまち栄養失調の障害があらわれて、急激に症状が悪化した。その上、医薬品もひどく欠乏していた。(「集団疎開児童の記 ―竹屋国民学校の場合」『広島原爆戦災誌』)

 

 駆けつけた守山先生の父親は薬を手に入れるため広島に戻って被爆死。守山先生は11日に亡くなった。光成先生も休暇をとって家に帰るどころではなかったろう。

 正田篠枝さんは「唉! 原子爆弾」の中で子どもの死、親の嘆きをいくつも歌に詠んでいる。その多くは正田さんと親しい女性の身の上話から生まれたものだが、それだけでなく、焼け野原の悲惨な光景を目にした人から伝え聞いた歌もある。

 

 いとしもよ勤労奉仕に出でし学徒いまはのきはに教師にだきつき

 大き骨は先生なりあまたの小さき骨側にそろひてあつまりてある

 焦土の中より出でし教師の鞄の中に学童の成績表がいでくる

 (正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 最初の歌は、工場や建物疎開に動員された当時の国民学校高等科、中学校、女学校の生徒たちが原爆に遭い、教師に抱きついたまま絶命した光景を歌に詠んだものだ。広島平和記念資料館は、8月6日に建物疎開作業に約8200人の子どもたちが動員され、そのうち約5900人が亡くなったと推定している。工場などで被爆して亡くなった生徒も含めると約7200人になるという。(広島平和記念資料館企画展「動員学徒 失われた子どもたちの明日」2004)

 広島文理科大学助教授だった小倉豊文さんは、8月6日、7日と、自分の子どもを探して己斐の国民学校へ向かった。7日朝にはそこで知り合いの「松木の小父さん」と出会う。「松木の小父さん」は学校で一晩中負傷者の世話をしていたようだ。

 

 校庭の屍は昨夜よりも大分その姿がふえていた。そして、もう筵もかけてなかった。屍の中には小さな中学生や女学生の姿が多かった。みんなひどい火傷で、中学生はその瞬間上半身はだかでいたらしく、下半身はズボンがボロボロになっているのが多い。女学生は上半身のシャツが焦げ、ところどころからだにくっついていて、下半身のモンペはボロボロにさけているのが多く、中にはズロース一つになっているのもあった。

「こんなんが、昨夜中お母さんお母さんいうにゃ、身につまされましたよ」

 と小父さんがいった。それはいかにも子煩悩の小父さんらしいしんみりした言葉だった。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 引率した先生もみな亡くなった。それでも先生たちは死ぬ間際まで子どもたちを何とか助けようとした。その姿は、奇跡的に助かった人によって、そして焼け野原に残された遺体を目にした人たちによって語り伝えられている。その中の坂本節子さんの証言。

 

 今が今までともに威勢よく働いていたお友達の顔は焼け爛れ、服はぼろぼろに破れ、がたがた慄えながら右往左往する有様は、何に譬えられましょうか。先生は雛鳥をいたわる母鳥のように両脇に教え子を抱かれ、生徒は恐れわななく雛鳥のように先生の脇下に頭を突込んでいます。先生の頭はいつの間にか白髪に変わり、いつもの先生よりはずっと大きく見えました。(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫1990)

 

 この先生は、県立広島第二高等女学校の波多ヤエ子先生。先生の遺体は、作業をしていた雑魚場町から300mほど離れた広島赤十字病院で同僚の先生が見つけた。一人の生徒を胸に抱き、もう一人の生徒を背中に負うたまま息絶えていた。(関千枝子『広島第二県女二年西組』ちくま文庫1988)

 正田篠枝さんの宮島口の別宅には原爆の被害を受けた親戚や知人が頼ってきたし、また近所にも原爆の被害者がいた。その人たちが語る言葉に正田さんは泣きながら耳を傾けただろう。

 

 燃える梁の下敷の娘財布ささげ早く逃げよこれ持ちて逃げよと母に

 (正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 「蒼白の娘の子の顔が」の歌、それに「子をひとり焔の中にとりのこし」の歌と同じ人から聞いたのだろうか。しかし『さんげ』では、これらの歌は別々の場所に置いてあるから、それぞれ違う人から聞いたかもしれない。原爆で潰れた家の下敷きになった人は、広島ではいくらでもいたのだ。

 「梁(はり)」は屋根を支える部材で、古い日本家屋では驚くほど太い材木が使われている。もちろん、梁が頭の上に落ちてきたらその一撃で命を落とすし、下敷きになって動けなくなり火事になってもおしまいだ。前に紹介した『絶後の記録』にある「吉崎の義姉さん」の娘の栄子さんだが、後日に白骨が焼け焦げた梁のような大きな材木の下から見つかったという。家の下敷きになった我が子を助けようとしてもどうしても助けられず、火の手が迫ったのでとうとう逃げてしまったら……。親は死ぬまで自分を責め続けたのではなかろうか。

 正田さんの歌は、家の下敷きになった人が、助けようとする家族に向かって、自分のことは放っておいて早く逃げろと叫んだ人がいたことを伝えている。なかなかできることではないと思うのだが、そんな人は他にもいた。

 土田康(やす)さんは、当時爆心地から北に1.5kmの距離にあった白島国民学校に勤めていた。原爆の爆風で何かに叩きつけられて腰椎にヒビが入り肩甲骨それに肋骨が3本骨折、首筋にはガラス片が突き刺さって出血多量、それでも火が迫ればどこかへ必死で逃げなければならない。すぐそばの逓信病院で応急手当てをしてもらい、京橋川にかかる常盤橋のたもとまで来た時だった。

 

 「お母さん!!お母さん!!」はげしい泣き声がすぐ後でする。振りかえると、すでに火のついた屋根の上に、中学一年になる男の子が上って、狂ったように叫んでいる。「お母さんはもう駄目なの、捨てて逃げて下さい。火が来るから逃げて、貴方はしっかり勉強して、立派になるんですよ。」呉服商であった○○さん一家の、母と子の最後の別離の言葉である。断腸の思いとは、このことであろう。

 「お母さん!!お母さん!!」と言う声の、次第に遠ざかりゆくのを聞きながら、私は戦争というものに対する、はげしい憤りで全身がガタガタとふるえた。この母子に何の罪があろう。(土田康「きのこぐも」『広島原爆戦災誌』)

 

 この子どもも命尽きる日まで母親に詫び続けたことだろう。ではその光景を目にし声を聞いた者はどうすればいいのか。土田康さんは、戦争というものへの「はげしい憤り」をいつまでも忘れず、そしてありのままに私たちに伝えた。正田篠枝さんもまた同じ思いだっただろう。

 正田篠枝さんの父親の逸造さんは被爆翌日の7日に平野町の自宅や工場の様子を見に出かけているが、出かけたのはそれだけが目的ではあるまい。もう6日のうちから、家族・親戚・知人の安否を尋ねて多くの人が市内に入っているのだ。

 正田篠枝さんの夫の高本末松さんは1940年に病死しているが、末松さんの長兄の高本一巳さん一家は横川駅の北にあった三篠本町(現 西区三篠町)に、そして次兄の高本光信さん一家は空鞘町(現 中区本川町)に暮らしていた。空鞘(そらざや)町は爆心地からだいたい600~700mのところにあり、『広島原爆戦災誌』によれば、木造家屋は原爆の爆風で一瞬にしてすべて倒壊し、その5分後ぐらいから煙が立ち始め、20分後には全町炎に包まれたという。行ってみても、あたり一面焼け野原だったはずだ。それでも、どこかへ逃げたかもしれないと救護所や病院を探してまわったという話はよく聞く。逸造さんたちも親戚を探して救護所をまわったのではあるまいか。

 

 まだ息をして命はあれど傷口に蛆虫わきて這ひまはりをる

(正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 傷ついた人たちが大勢押し寄せるので、救護所はどこも医者や看護婦の手が足りず、薬はあっという間になくなった。火傷の体にはびっしりとウジがわき、いくらとってもきりがなかった。

 吉川清さんと妻の生美さんは爆心地から北に1.5km離れた白島中町の自宅で被爆し、トラックで広島市の北方の可部町(現 広島市安佐北区)の臨時救護所に運ばれた。婦人会の人たちが一生懸命世話をしてくれたのだが、吉川清さんの背中から両腕にかけての大火傷は、薬がないので油を塗るだけ。傷は化膿して体中が黄色い膿汁にまみれた。さらに放射線が原因の下痢、脱毛、鼻や口からの出血があり、血の斑点も出た。

 目に見えて衰弱していく吉川さん。そこに押し寄せたのが蝿の大群だった。蝿が体に産みつけた卵はすぐにかえってウジになる。

 

 血に飢えているかのような、この小悪魔どもは、日ごとに目に見えて大きくなってゆくような錯覚に陥るほどであった。私たちが動けないことを早くも知ったかのように、少々体を動かしたぐらいのことでは逃げようともせず、傷口をなめ、卵を産みつけた。卵は一夜にしてかえって、小さな蛆虫が傷の中をモソモソと動きまわった。血と膿で肥え太った蛆虫は、やがてねばっこい血や膿の糸を引きながら、体中をところかまわず這いまわるのであった。とうとう耳の中にまではいりこんできて、モソモソしはじめた。こん畜生! 俺はまだ生きているんだゾ! 血と膿だらけでもまだ屍体じゃないゾ! 私は歯ぎしりしたが、どうしようもなかった。(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981)

 

 ウジが傷口に入り込むと痛くてかなわないというが、それだけでなく、ウジが体をウヨウヨ這いまわるということは、その人にとっても家族にとっても、あまりにも惨めな死の宣告だった。

 

 広島の川に浮かぶ遺体は数えきれないほど。郡部から応援に駆けつけた警防団や市内周辺部の町内会も収容にあたった。けれど大火傷の体はさわればズルッと皮膚がむける。しかも炎天下ではすぐに腐乱するから、川から引き上げるのは並大抵の苦労ではなかった。

 

 町会から奉仕に出るよう言われ、隣家の娘さんと出る。なんと神田川に一杯浮いている死体を、鳶口で引っかけ、土手に上げ、それを大八車に積み死体焼場に運ぶ。その車の後押しをするように言われた。大八車の上には、水で死体は膨れ上がり、仁王様のように唇がめくれ、手足の指はまるく腫れ、目玉はギョロリ、怖くて……こんな怖い姿はない。とても後押しなんかできない。二人で逃げて帰った。毎夜死体を焼く匂いが、風に乗ってきた。(野瀬節子「残されて、生きる」『平和への祈りを次代へ 中野区民戦争体験記録集第三集―広島・長崎を語り継ぐー』1995) ※京橋川は牛田あたりでは神田川と呼ばれていた

 

 正田篠枝さんの言う「長竿に鉤つけ」とは「鳶口(とびぐち)」のことだろう。棒の先につける金具がトンビの嘴のようだからという。建物を取り壊して延焼を防ぐのにも使うから、当時空襲時の救護と消防にあたった警防団はいくつも持っていた。暁部隊の中にも鳶口を持つ部隊があったが、しかし江田島から市内中心部に駆けつけた船舶練習部第十教育隊は、もともとモーターボートに爆雷を積んで敵艦に突っ込む特攻部隊なので鳶口も担架の一つも持っていなかった。手ぶらで市内に入っている。

 

 八月八日、相生橋東詰の産業奨励館(原爆ドーム)の下の川岸にたどり着く。元安川に流れている死体の収容作業が始った。満潮になれば潮に乗って上へ流れ、引潮になれば下に流れて行く死体を一体ずつ引揚げた。川の中に飛び込み、泳ぎ、足に綱を掛けて岸から引寄せる。一日約五十~六十体位火葬した。特に軍人が多かったように思う。みんな水死体にある如くブクブクに膨張し、鼻から水がブクブク、泡を吹いていた。水に漬った皮膚はすっかりふやけて青白く面変りしていた。強く皮膚を引張ると、ズルッと皮がむけたりした。(『広島原爆戦災誌 第5巻』)

 

 よくやったなと思う。神経が麻痺しなければできることではない。顔が真っ青になるどころか、私なんかは一目みただけで気絶しそうだ。

 ところで、正田さんが聞いた、遺体を鳶口でプスッと刺して引き寄せたという話は、兵士ではなく、警防団員ではなかったろうか。『さんげ』には次の歌が載っているが、野宿して遺体収容にあたる兵士は、たぶん、酒は飲みたくても飲めなかっただろうから。

 

 一日中死骸をあつめ火に焼きて処理せし男酒酒とうめく

 酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこ涙に光る

 (正田篠枝『さんげ』私家版1947)

 8月6日、多くの人が火に追われて川に飛び込み、川面は遺体で埋まった。最初に中国新聞社国民義勇隊の北山一男さんが同僚に言い残した言葉を紹介しよう。場所は爆心地から500mぐらいしか離れていない天神町だ。今は平和公園になっている。

 

 煙と炎に追われて生きている者は元安川や本川に飛び込んだ。家の下敷きになって断末魔の叫びをあげている者もあったが、火が足元まで迫ってきたのでどうしようもなかった。満潮の川には手をとり合った老若男女のいくつかの集団があったが、竜巻や川面を襲う火柱に巻き込まれて離れ離れになり、泳げぬ者から水中へ消えていった。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 川が遺体で埋まれば救援の船の航行にも支障をきたすだろう。6日夜には早速遺体の収容作業が始まった。天神町に暮らし江波の三菱重工広島造船所に勤めていた小野憲一さんの証言がある。小野さんはその日の夕刻になってやっと天神町に戻り、建物疎開作業に出ていたはずの妻と次男を必死で探す最中だった。夜7時半ごろに暁部隊の舟がやってきて、とび口で川に流れている遺体を引っ掛けて引き上げるのを目撃している。(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)

 京橋川でも正田篠枝さんの家の少し上流で7日から遺体の引き上げが始まっている。

 

 八月七、八日、昭和町の整理に行く。京橋川に勤労女学生徒の死体あり、伝馬船で引き揚げ、田村中尉が身許確認の上火葬にする。六体位と覚ゆ。昭和町は疎開した跡で生徒が跡片付けをしていて被爆し、川へ飛び込んだものと思われる。(『広島原爆戦災誌 第5巻』)

 

 もちろんそのあたりで川に飛び込んだ人たちもいたのだが、近くの鶴見橋や比治山橋が渡れたので、飛び込む人はそんなには多くなかっただろう。それよりもっと上流の泉邸(縮景園)あたりで流された人が多かったのではなかろうか。

 

 土手沿いの民家のわずかなすきまを抜けて、私は川縁へと出た。しかし意地悪く川は満潮時で、川幅一ぱいに水が流れていた。この体で、水かさの増したこの流れを泳ぎ切れるだろうか。泉邸の土手には真黒に難民がひしめき合っている。重傷を負った人だろう。身を支え切れず川へ落ち、力尽きて、のろいテンポで水の上を浮いたり沈んだりしながら、川下へ運ばれてゆく。そしてその淀んだ流の中に、表皮をとられて真赤になったおびただしい屍が、漂流している。この世に血の池地獄の再現をみた思いだった。(土田康「きのこぐも」『広島原爆戦災誌』)

 

 気のあせる人達は泳いで渡り始めたが、急流におしやられ、向こうの川原に辿りつける人はわずかしかいない。その時だった。小さな木片につかまって浮きつ沈みつ流されて行く宮田さんを見た。堤の上から「あっ」と叫んだままどうすることもできない。(倉田美佐子「通信部の解散まで 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)

 

 死んでいる人も、まだ息のある人も干潮で押し流され、満潮になるとまた押し戻されて川面に漂った。灯籠流しをみると、いつもその光景を想像する。

 正田篠枝さんは原爆に遭うとすぐに宮島口の別宅に避難したが、「原爆症」でそれから一か月以上も床に臥せた。

 

 さむ気がさしては 高熱がでました

 腹痛と下痢で ふらふら ふらつきながら

 管理の老夫婦の部屋へ

 天皇放送のラジオを聞きに行きました

 (中略)

 歯ぐきから出血 斑点が出ました

 髪の毛が ごそっ と 抜けるのは気が悪いものです

 太陽が 黒く見えるほどに 心細うありました(後略)

( 正田篠枝「八月十五日あとやさき」『耳鳴り』平凡社1962)

 

 こうしてみると正田さんはかなりの重症だ。それでも、正田家を頼って来た人たちの「見たこと、会ったこと、聞いたこと」に、正田さんは涙しながら耳を傾けた。

 

 仁王の如く腫れあがり黒焦げの裸の死骸が累累とある

 筏木の如くに浮ぶ亡きがらを長竿に鉤つけプスッとさしぬ

 川に流るる死骸引よせ処理なせる兵士の顔はまっさをなりき

(正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 最初に出てくるのは遺体収容の話だ。「唉! 原子爆弾」に時系列で歌を並べたとすれば遺体収容の前に載せるべき歌もあるので、これらの歌は、正田さんが宮島口の別宅に避難してから最初に聞いた話を詠んだもののような気がする。翌7日に自宅の様子を見に行った父親の逸造さんや会社の従業員から聞いたのではなかろうか。

 平野町へ行くのに逸造さんたちは故障した船を修理しただろうか。それなら井口から海を渡って平野町へ一直線なのだが、そうでなければ列車に乗って己斐駅まで行き、そこから市内の焼け野原を歩いて行くことになる。どの道を通っても至る所で「黒焦げの裸の死骸」を見たことだろう。

 8月6日、江田島から出動した陸軍船舶練習部第十教育隊の半井良造さんたちは広島赤十字病院の近くで一晩中火が燃え広がるのを必死で防ぎ、朝目を覚ましてみるとそこは千田町の広電車庫の前だった。目の前の負傷者の多さに驚いた。

 

 それは昨夜、宇品で見たのとは比較にならないほど大勢の負傷者だ。しかも彼らは傷(大部分は火傷)の手当ても受けず、とにかく火の中から助けだされただけという状態で寝かされているのだ。我々が近づくと「兵隊さーん。兵隊さーん。」と泣くような声で呼び、早く助けてくれ、手当てをしてくれ、と必死になって訴える。見ると皆、顔も腕も脚もひどい火傷で水ぶくれになり、紫色の皮膚はブヨブヨにふくれあがっている。(『広島原爆戦災誌 第五巻』)

 

 警戒警報のサイレンも鳴っていないのにB-29爆撃機の爆音が聞こえたので多くの人が不思議に思って空を見上げた。青い空に真っ白な落下傘が目に鮮やかだった。そこに原爆の熱線。一瞬にして顔は焼けただれ、すぐに腫れ上がり、特にまぶたや唇の腫れがひどくて親でもどれが自分の子かわからなかったと言う。こんな姿にされて生きながらえた人は少なかっただろう。炎天下に一人また一人と息絶えていった。誰が顔の大きな東大寺南大門の仁王像を連想したか知らないが、道端に横たえられていたのは何と哀れな仁王様であったことか。

 

 井口の救護所で治療を受けた後、正田篠枝さんはようやく宮島口の別宅にたどり着いた。

 

 ようやく宮島口丘の疎開先きへ、たどりつきました。次から次と多勢頼って来られます。それぞれが、見たこと、会ったこと、聞いたことを、聞かしてくれます。(正田篠枝『耳鳴り』平凡社1962)

 

 正田さんはそれからすぐに床に臥せったが、人の話には熱心に耳を傾けた。自分の体験どころではない、実に悲惨で悲しい物語が広島にはたくさんあったのだ。

 

 子をひとり焔の中にとりのこし我ればかり得たるいのちと泣きをり(正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 これが『さんげ』になると、歌が「急設治療所」の章に置かれているから、井口の臨時救護所で見た出来事ということになる。

 

 子をひとり焔の中にとりのこし我ればかり得たる命と女泣き狂ふ

(正田篠枝『さんげ』私家版1947)

 

 「唉! 原子爆弾」の歌では、泣きながらも何があったかを語っているが、『さんげ』では、母親は大声で泣き喚いているように感じる。実際はどうだったのだろう。

 目の前で我が子や親、友が生きながら焼かれていくのに何もできなかった、それどころか、背を向けて逃げたという心を抉り取られるような体験をした人が広島には大勢いた。小倉豊文さんは『絶後の記録』の中に「吉崎の義姉(ねえ)さん」の話を載せている。

 義姉さんは夫、それに3人の子どもと比治山の北の金屋町に暮らしていた。6日朝、夫は早く出勤し、義姉さんは台所で洗濯、集団疎開に行かなかった長女の栄子さんは座敷の掃除で、幼い二人の子どもは外で遊んでいた。

 そこにピカッと閃光が走った。「ピカッ」から家が崩れる「ドン」まで4秒くらいか。その間に義姉さんは無我夢中で外に飛び出し、気がつくと下の二人の子どもを両脇に抱き抱えていた。

 すると潰れた家の下から栄子さんの「お母チャーン」「イタイヨーッ」という悲鳴が聞こえてきた。義姉さんは必死で瓦をはがし材木を除けようとするが手に負えない。大声で助けを呼んでも誰も来てくれない。そのうち周りの潰れた家から火の手が上がり始めた。義姉さんは下の子どもたちを表通りまで連れて行き、比治山に逃げるよう言い聞かせた。

 

 元のところに引きかえすと、家の奥庭の方から煙が出始めている。チョロチョロ焔も見える。「もう駄目か」と思ったが、また夢中で滅多やたらに掘出し作業をつづけた。断続する長女の悲鳴は次第に弱くかすかになってゆく。しかも今までの「イタイヨー」が「アツイヨー」に変わっている。下の方に火の熱がまわったらしい。やがて掘りだす自分のからだに、どんどん火の粉が降りかかる。近所の火の手が大きくなって、あたりは見通しのきかぬようにひどい煙だ。自分の家もバチバチ大きな音をたてて燃えはじめた。ふりかかる火の粉と周囲の火の熱で、もはや自分がいたたまれなくなった。遂に万策つきた。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 義姉さんはもう逃げるしかなかった。あとで焼け跡から栄子さんの白骨が見つかったが、「お母チャン、アツイヨー」の声は死ぬまで母親を追いかけたに違いない。