ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

旧広島大学理学部1号館

 もう少し爆心地に近づいてみよう。旧被服支廠のレンガ倉庫から西に歩いて2kmほど、広島大学東千田キャンパス内に旧広島大学理学部1号館が残されている。鉄筋コンクリート造り3階建てのゴツい建物で、学生時代ちょっとだけ中に入ったことがあるが、薄暗くひんやりしていたのを憶えている。この建物はかつて広島文理科大学本館で、1945年6月に大部分が「本土決戦」のために設けられた地方行政組織である中国総監府に接収されて8月6日を迎えた。爆心地からの距離は南に約1.4km。

 高本達寿さんは当時服部直彰副総監の運転手をしていた。8月5日の夜は宿直で、朝の警戒警報が解除されると一旦自宅に戻り、再び出勤したのは8時前だった。

 

 副総監室に挨拶にいき、副総監の上衣をとって洋服掛にかけた。これはいつも私がする習慣であった。そこへ秘書の女の子が冷たいタオルを持って来て、副総監に渡そうとしたとき、B29 の爆音が聴こえた。  

「窓からのぞいて見よ。また B29 が来とるじゃないか……。」と、副総監が言った。 

 私と秘書は、教室の腰高の窓から空を仰いだ。その瞬間、閃光を感じた。

 私はとっさに窓の下の壁のところに伏さった。何秒かして、奇妙な音響がし、体が宙に浮いて吹っとばされた。  

 この頃、校庭にバラックを建てて、防衛召集の兵隊がたくさんいたが、それが使用していたらしい鉄製ベットが、どうしたわけか、三階の窓から中へ飛びこんで来て、転っている私の体の上に落下した。そこへ壁の煉瓦がガラガラと崩れおちて来た。私はベットを被っていて奇跡的に助かった。まったく一瞬の出来事であった。(高本達寿「炸裂下の服部副総監」『広島原爆戦災誌 第三巻』)

 

 高本さんに火傷はなかったようだ。副総監室の窓は南西に向いているので熱線の直撃を免れたのだろう。けれどさく裂から3秒後に襲ってきた爆風の被害は酷かった。閃光を感じてとっさに伏せても吹き飛ばされている。窓の下の壁にへばりついてもダメだったのだ。その上、吹き飛ばされたところに窓から鉄製のベッドが飛び込んできた。重たい鉄製のベッドがビルの3階の高さまで飛ばされるとは、にわかには信じられないような話だ。

 高本さんは頭を負傷し、ガラスも体にたくさん突き刺さったが、ベッドやレンガが直撃していれば命はなかったのではなかろうか。机についていた副総監もケガで済んだが、女性秘書は立ったままだったから、部屋の外まで吹き飛ばされて亡くなった。爆心地から離れた鉄筋コンクリートのビルの中でも危険はいっぱいだったのだ。

 その後、本館の建物内部は全焼した。広島文理科大学助教授の小倉豊文さんが大学にたどり着いたのは6日の夕方5時。「あの頑丈そうに外からは見えた鉄扉が、中央から内側にペコンとへこんでいた」という。そして1階にあった小倉さんの研究室はその後の火災で部屋全体がまだ炭火をおこしたように燃えていた。他の研究室では灰の中から人骨が出てきたという。爆風で壁や機械に叩きつけられて亡くなった人の骨だった。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 出汐町にあった広島陸軍被服支廠は爆心地からの距離約2.7km。鉄筋コンクリートとレンガで造られた4棟の倉庫が現在耐震工事中だが、被爆当時は広大な敷地に本部の建物や工場、大きな木造倉庫もあった。しかし縫製や製靴などの機械や製品、原材料はほとんどが郊外に疎開されていて、当時被服支廠で勤務していたのは主に事務部門と、疎開作業がまだ続いていた倉庫部門の人たちだった。

 加藤(旧姓 土肥)春江さんは女学校を4年で終えると女子挺身隊員として被服支廠に動員された。8月6日の朝、正門そばのレンガ倉庫2階の事務室、いつものように仲良しの下迫さん、小川さんとおしゃべりをしている最中だった。

 

 3人が喋っていたとき、突然カマドの火を炊いているときの音の何十倍かと思われるようなボーッという音がした。瞬間、オレンジに赤を混ぜたような火の柱が天窓からサーッと落ちた。3人があわてて机の下に入った。そして、にじり寄りながら大声で「どうなったんかねー!」と叫んだ。と、同時に私の背中にドスン、とイスが当たり、次々と物が飛んできた。

 耳の底までゴー、ゴー、と爆風が入る。3人が手をつなぎ、じっと目をつむった。キャアーキャアー、逃げ回るような声、物が倒れる音、物が壊れたり飛んでぶつかる音、何分経ったか、いまだにあの長い、と思われた爆風の静まるまでの異様な感覚はハッキリ憶えている。(加藤春江「広島・原爆投下の日」かとうけんそうNOTE)

 

 鉄筋コンクリートの骨組みにレンガ壁の倉庫は原爆の衝撃波でもなんとか持ちこたえた。とはいっても倉庫の壁のあちこちに亀裂が入り、塀は押されて上部が持ち上げられた。塀の変形した部分は、今は切り取って平和記念資料館に展示してある。

広島陸軍被服支廠のレンガ塀

 見て驚くのは窓だ。爆心地側の窓を覆う鉄製の扉が内側に凹んでいる。窓には鉄格子と金網も取り付けられていたが、熱線は窓際にいた人の肌に金網の模様を焼き付け、爆風は窓ガラスを粉々に砕き、金網や鉄格子まで吹き飛ばした。加藤さんに大した火傷やケガがなかったのは運が良かった。

広島陸軍被服支廠の窓の鉄扉

 原爆がさく裂してから爆風が被服支廠を襲うまでの時間は6.5秒と見られている。その間に加藤さんたちが頑丈な机の下に頭だけでも潜り込ませたのが正解だったのだろう。

 一方、異常を感じても身を伏せなかった将校もいた。レンガ倉庫の事務室で被爆した被服支廠長の佐藤種三郎さんがこう書いている。

 

 前に立っていた属官が顔半面火傷して倒れており、隣で窓に直角に腰をかけていた下士官は、椅子と共に倒れて人事不省になっている。 (中略)室内の将校達は椅子にかけたまま、反対の窓際まで飛ばされて倒れたり、勢い余ってベランダから飛び降りたものもあり、大きな台風に吹き荒らされた跡のような、惨憺たる有様であった。(佐藤種三郎「広島被服支廠での原爆被災終戦処理について」若松会『陸軍経理部よもやま話 続編』1986 旧被服支廠の保全を願う懇談会編『赤レンガ倉庫は語り継ぐ—旧広島陸軍被服支廠被爆証言集—』2020所収)

 

 被服支廠での人の被害は、死亡1名、負傷20〜30名だった。

 最初に原爆のガラスの被害について書いてみたが、それは、政府の国民保護ポータルサイトに「爆風で壊れた窓ガラスなどで被害を受けないよう、できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動する」と書いてあるからだ。確かにガラスは怖い。そして現代はオフィスビルも住宅もガラスだらけ。もちろん少々の地震や台風にはびくともしないだろうし、ビルの窓ガラスは万が一割れても飛び散らないよう加工されているはずだ。しかし、ミサイルの直撃や核爆発による衝撃波にはとても耐えられないだろう。

 では、危険を感じた時に直ちに身を伏せたり、窓のない部屋に逃げ込んだりできたら大丈夫なのだろうか。

 ヒロシマは爆風の恐ろしさを事細かに伝えている。爆心地から離れたところから見ていこう。広島の原爆では、ガラスの破損が爆心地から南西に27km離れた玖波町(現 大竹市)まで達している(広島管区気象台「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」1945)。玖波町からは海の向こうに広島市上空が見えるのだ。

 もっと近寄ってみよう。私の父は当時崇徳中学4年生で、爆心地から南に4〜5km、南観音町の沖の埋立地(現観音新町)につくられた三菱重工広島機械製作所の工場内で原爆に遭った。

 

 「さあ今日の作業は、スクラップを片付けてから始めようで」組長の指示で取りかかろうとした。

 その時である。窓の外が真っ白に輝いたのは。天も地も、建物も、眼前に見える一切の景色が白い輝きの中に静まった。ピカッという瞬間的な光ではなかった。しばらく時間があったように思う。「おかしい、どうしたんだ」頭では考えたがそのまま作業姿勢に返った。

 その瞬間「ガッツ」

 物凄い衝撃を全身に受けた。ハッと気が付くと地面には、ガラスや屋根に葺いてあったスレートの破片、鉄材料や工具類が散乱し、足の踏み場もないと言う形容そのものであった。その中を、安全な場所を求めて一目散に走った、何も聞こえない、何も考えない、ただ走るばかりであった。(精舎法雄「火焔―私の原爆体験記―」1990)

 

 父がいた工場は鉄骨にスレートの屋根、板壁の建物で、爆風で屋根も壁も壊れ窓ガラスは飛散して骨組みだけになった。木造の建物は爆風で潰れた。父は後頭部に一か所ガラスでケガをしたぐらいで済んだが、同級生にはたくさんのガラス傷でシャツを真っ赤に染めた者が何人もいた。会社の診療所に行ってみると、そこはすでに長い行列ができていた。

 『広島原爆戦災誌』によると、広島機械製作所と江波にある三菱の造船所を合わせて、ガラス傷や打撲による重傷者は200人以上と推定されている。広島機械製作所の工場内の死者は3人で、一人は爆風で腸が破裂し、あとの二人は倉庫や食堂内で落下した梁の下敷きになって亡くなっている。

 爆心地から4km離れていても爆風の被害は大きかった。けれど爆心地に近づけばもっと酷くなる。これまで見てきたガラスの被害だけでなく、あらゆる物が凶器となり、さらには人間までが吹き飛ばされてしまうのだ。

 峠三吉のメモには、包帯交換が終わって三木正さんが峠三吉にこう話しかけたとある。「涼しい風が吹きますなぁー」「此処は明るい所ですか暗い所ですか?」。この時は助かったという安堵感にまだ浸っていたのだろうか。でも、すぐに三木さんは辛い現実に直面する。

 同じ陸軍被服支廠に収容された三木さんの妹は8月13日に亡くなった。この人は、峠三吉の詩「倉庫の記録」に出てくる「K夫人」のモデルだ。そして一か月後にはわが子の死を知らされた。いとこが市役所で紙包みに入った遺骨を受け取り持って来てくれたのだ。三木さんの手の平に乗せられた紙包みはとても軽かった。子どもの頃に駄菓子屋でアメ玉を包んでもらった紙袋を思い出した。 (中国新聞社『証言は消えない——広島の記録I』未来社1966)

 三木さんは、「見えない眼で私は泣いた」と記している。(三木正「めしいとなりて」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975) 

 妻も子も亡くし、三木さんの孤独な救護所生活が続いた。被服支廠には遠方の医師会が入れ代わり立ち代わり治療に入ったが、8月下旬に来た医師会は次のように記録している。

 

 …この頃はすでに落命する者は落命し、同救護所には二〇数人の重傷者が残存するだけであったが、これらの人々も次々に死んでいった。ハエのすごい発生のなかで、苦難な救護作業であった…(『広島原爆戦災誌 第一巻』)

 

 別の救護所だが、橋本くに恵さんがその頃の状況をこう記している。

 

 二十三日頃武装解除が伝達され、二十五日暁部隊は解散、兵隊はそれぞれ帰郷し、その後を県の衛生班が引継いだが、医薬、食糧、水、看護人とそのほとんどが不足し、日に日に死者続出。校庭で屍を焼く異臭と哀哭にみち、酷暑に加え豪雨がつづいた。不潔はその極に達し、赤痢が発生、うんか以上の蠅の襲来に困った。(橋本くに恵「忘れ得ぬ親切」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 三木さんも左腕がひどく化膿してウジがわき、悪臭を放つようになった。腕を切断しなければいけないのだが体が衰弱しているのでそれもできず、成り行きに任せるしかなかった。そして両眼の回復は絶望と聞かされて毎日泣き続けた。それでも他の患者はみな下痢をしたのに、三木さんには急性の放射線障害が出ず、奇跡的に命を保つことができた。腕も切らずに済んだ。8カ月の療養生活の中で次第に生きる気力が湧いてきた。

 

 妻の死と子供の入院看護中にあの原爆の火をあびてより、八カ月ぶりで床をはなれた痩身蒲柳五尺七寸五分の虚弱な私が、あれだけの傷を負いながら余病も併発せず、二十数万の屍の中から蘇ったことは、むしろ奇蹟といわなければならない。私は生き抜かなければならない。そう自分自身に言いきかせ、盲いた両眼の掌をはなして鞭うつように私はベッドを離れたのである。(「めしいとなりて」)

 

 1947年秋、三木正さんはヒサ子さんと結婚した。原爆で心と体の傷を負ったもの同士の二人三脚での再出発だった。(『証言は消えない——広島の記録I』)

 広島陸軍被服支廠に勤める三木正さんは、8月6日朝、爆心地から1.7km離れた広島市舟入病院(現 舟入市民病院)にいた。赤痢に罹った生後1年6か月のわが子の看病で病院にずっと寝泊まりしていたのだ。妻は2週間前に赤痢で亡くなっていた。

 7時31分に警戒警報が解除されてホッとしたひと時、三木さんは亡くなった妻を思い、母を失ったわが子のことを考えていた。すると、かすかに飛行機の爆音が聞こえてきた。B-29爆撃機に間違いない。「敵機だな!」と三木さんは大声を上げた。

 

 すると人々の返事の代わりに、ざあーというような、経験したことのない異様な轟音が遠方から聞こえた。一瞬!病室の窓ガラスの向こうをにぎりこぶし大のマグネシュームが燃えるような青色がかった蛍光色の火のかたまりが斜めに流れた。焼夷弾だ! ととっさに病室の子供にかけよった。子供は眼をさまし、私の顔を見てにっこりした。(三木正「めしいとなりて」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 わが子の笑顔が三木さんの目に映った最後の光景となった。子どもを抱き上げようとした途端に強い衝撃を受け、気がついたら、目が見えない。瞼をこするとぬらぬらした。体もぬらぬらした。三木さんの両眼は飛んできたガラス片で破裂し、体中血まみれになっていたのだ。

 わが子の泣き声が聞こえない。どこにいるのか分からない。絶望と混乱の中で泣き叫び逃げ惑った。足を釘で踏み抜き、下水溝に落ち、コンクリートの塀にぶつかった。

 

 「早く!早く!」と誰かの手を引いているらしい若い女の声がする。私は思わず「お願いします」と両手をさし出す。その人は「さあいらっしゃい」と気軽に手をとってくれた。 (「めしいとなりて」)

 

 手を差し伸べてくれた人は一人だけではなかった。看護婦さんらしい人は頭と顔と右腕に包帯を巻いてくれた。これで三木さんは自分がひどいケガをしているのがわかった。兵士が三木さんを戸板に乗せてどこかの建物の中に運び、そこでは中年の女性が親切に世話をしてくれた。

 やがて三木さんは勤務先の陸軍被服支廠に収容された。旧知の峠三吉が三木さんを訪ねて容態を記録している。

 

 血の惨染める所の下には皆蓮根の如く小さく深き穴あき繃帯に着いてぢゃりぢゃりと砂まじりに硝子の破片の出づるもあり、苦痛に耐へぬ時は声に出さぬまゝ立てたる片脚をふるはせてこらふ。

 思はず小声に「あっ」と魂切ることあり、看護婦もあまりの無惨さに折々は手も進まず。(中略)

 顔面を蔽へる繃帯を次第に解く。さすがに苦しい恐怖を覚ゆ。頬や秀でた前額の大小の創を現して最後に眼部を蔽へる血痕ガーゼを静かにめくる。(皮膚の切れ端などが裏面にこびりついてはがれる)と正に正視するに耐へず、嘗て両眼のありし個所は肉と血と膿と泥とを溜めてぐちゃぐちゃに裂けた大きな穴となりあり、看護婦直ちに新しきガーゼにて蔽ふ。

(峠三吉「メモ 覚書 感想」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)

 爆心地から4.5kmの長束修練院にいたヨハンネス・ジーメス神父は原爆の爆風で両手と頭にケガをした。他の修道士もほとんどが飛んできた木材やガラスでケガをしていた。重傷者は出なかったが、部屋の壁に突き刺さったいくつもの大きなガラス片を見て、重傷者がいないのはたまたま運が良かっただけということがよくわかった。(ヨハンネス・ジーメス「原爆!」カトリック正義と平和広島協議会『破壊の日 外人神父たちの被爆体験』1983)

 爆心地に近づくにつれて飛んできたガラスによる被害も大きくなる。金谷満佐子さんは平野町の自宅で西向きの出窓から上空のB-29爆撃機を眺めていて被爆した。爆心地からは南に約1.7kmの場所だ。

 

 「ブルーン」

 突然屋根すれすれの高さに眼前を機影が横切った。かつてないことであった。

 「おや! B29! どこへ!」

と素早く上昇して行った機を求め、西方の空を仰いだ瞬間

 「ボッ!」

 まるで写真のマグネシュームを焚くにも似た赤黄色の光体が、眼前いっぱいに浮かんだかと思うと、「パッ!」と炸裂した。そして私は体中にパラパラッと弾丸でも打ちこまれるような感じと、うずくような熱さを覚えながら、分からなくなってしまった。(金谷満佐子「ケロイドを残して」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 気がつくと体は何かの下に埋もれていた。それは落ちてきた天井板や瓦、崩れた壁土、吹き飛んだ襖、ガラスの破片。そこから這い出して逃げる途中でわかったのだが、顔と右手は大火傷で、背中が無数のガラスで傷つきブラウスが血まみれになっていた。

 金谷さんが収容されたのは出汐町の広島陸軍被服支廠。たどり着いてまた意識を失い、気がついた時には目が見えなくなっていた。火傷で顔全体が「豆腐と蒟蒻(こんにゃく)をつきまぜたよう」にブクブクに膨れ上がっていたのだ。けれど火傷の治療はガーゼを取り替えて脱脂綿で膿を拭うくらい。それがまたメスで切り裂かれるように痛かった。

 

 背中の傷はそれにも劣らなかった。縦横無数である。短いのや長いの、深いのや浅いの、とりどりである。ガラスを出すたびに、「ジャリ」というメスの響き、殊に後頭部の傷はピンセットで破片がつまみ出されるたびに、息の根も止まる思いがするのだった。(「ケロイドを残して」)

 

 金谷さんは幸いなことに急性の放射線障害が出なかったので何とか命を保つことができた。右手にケロイドができて、背中のガラス傷の痕も残ったが、金谷さんは、それぐらいは我慢しなければいけないと思うのだった。でも、被爆から2年がすぎても体の奥からガラスの破片が出てきたのには驚かされた。

 金谷満佐子さんが被爆体験記「ケロイドを残して」を書いたのは1947年だが、広島市が1965年に金谷さんの体験記を含む29編を『原爆体験記』として出版した時はすでに消息不明になっていた。金谷さんの原爆の傷痕は少しずつ失せていったのだろうか、それとも、体と心の苦しみはいつまでも続いたのだろうか、分からないままとなっている。

 内閣官房の「パンフレット」に、学校での避難訓練の様子が写真で紹介されている。校庭で遊んでいた子どもたちがJアラートを聞くと急いで体育館の中に避難し、中央部でしゃがんでいる。教室では机の下に身を伏せている。(内閣官房『弾道ミサイル落下時に取っていただきたい行動の例(避難訓練の場面から)』国民保護ポータルサイト)

 通常弾頭のミサイルなら、まずは重要な軍事施設を狙うだろうと思っていたのだが、実際には21世紀の現在も戦争はそんな「紳士的」なものではなかった。トマホークミサイルは一発3億円とも5億円とも言われる高価な代物だが、それよりも精密誘導システムのない「安価」なミサイルやドローンをめちゃくちゃに撃ちまくって、いつどこに落ちてくるかわからない方が、一般市民に恐怖心を植え付けられると考えているのだろうか。

 

 テルアビブ南郊リション・レツィヨンの庭付き邸宅が並ぶ一角では14日、イランからのミサイルの直撃を受け、壁が崩れ、屋根が飛ばされた家が数十軒に上っていた。付近の道路には、がれきや割れたガラスが飛び散り、まるで大地震の後のようだった。

 銀行員アレックス・ストルボルさん(60)は14日午前5時頃、自宅の地下にある防空壕で妻と就寝中、爆音と窓ガラスが飛び散る音で跳び起きた。近所の家にミサイルが直撃したのだ。住民2人が死亡し、ストルボルさんの家も爆風で屋根が吹き飛ばされ、居間の壁が崩れた。

 一命を取り留めたストルボルさんは「妻とともに生き残っただけ幸運だ」と語った。(「読売新聞」2025.6.15)

 

 でも「パンフレット」で政府が国民にやってほしいと言っているのは、「爆風で壊れた窓ガラスなどで被害を受けないよう、できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動する」ことくらいだ。ミサイルが直撃したらおしまいだから注意しても無駄と言うことなのか、それとも、ミサイルの危険性を煽りすぎて国民を怯えさせてもまずいとでも思っているのだろうか。

 ヒロシマの経験から言えば、ガラスの被害だけでも、もっと怖がる必要がある。机の下に潜っていれば安心とはとても言えない。

 広島上空600mでさく裂した原爆からは超高圧の空気の壁とも言える衝撃波が発生し音速を超えるスピードで周辺に広がった。そしてその後を爆風が吹き抜けた。爆心地から北に4.5km離れた長束のイエズス会修練院(後に修道院となり2025年閉鎖)、ヨハンネス・ジーメス神父はこの木造3階建ての建物内で被爆した。

 

 窓からドアにむかって歩いているとき、やや遠くの方からやって来たような、中程度の強さの爆発音がきこえた。その瞬間——たぶん光が見えてから十秒ほど経過していた——窓や梁の折れる烈しい音が起こり、ガラスの破片が霰のように私をめがけて飛来した。みると、窓枠が残らず内側にむけてへし折られている。その瞬間に、はじめて私は爆弾が炸裂したのだということをさとった。(ヨハンネス・ジーメス「原爆!」カトリック正義と平和広島協議会『破壊の日 外人神父たちの被爆体験』1983)

 トマホークミサイルは核弾頭搭載可能なミサイルとして開発されたが、この核ミサイルは1987年にアメリカと当時のソ連との間で結ばれた中距離核戦力(INF)全廃条約により廃棄された。しかしINF条約は2018年にアメリカのトランプ大統領がロシアに条約破棄を通告して2019年に失効している。いざとなれば短期間で核を搭載したトマホークを配備することは可能だろう。でもその前に、通常弾頭のミサイルでもとんでもない代物だということをシャジャレ・タイエべ小学校の大惨事は教えてくれる。

 ブログ「人類の自殺」で、核戦争が今起きたらどうなるかと書いたのは2年くらい前だが、そのブログの最初に、弾道ミサイルが飛んできた時の市民の取るべき行動について政府の広報を紹介した。もう一度見てみよう。

 

 …弾道ミサイルは、発射からわずか10分もしないうちに到達する可能性があり、弾道ミサイル着弾時には、爆風や建物等が破壊されたことに伴う破片などが発生します。

 これらによる身体への被害を避けるため、Jアラート(全国瞬時警報システム)が流れたら、落ち着いて直ちに次のような行動をとってください。

 屋外にいる場合

 近くの建物の中または地下へ避難する

 屋内にいる場合

 窓から離れる または窓のない部屋へ移動する(内閣官房国民保護ポータルサイト)

 

 また政府は次のことも推奨している。

 

 みなさんの身の回りで急な爆発が起こった場合は、警報が発令された、されていないに関わらず、以下のことに留意しましょう。

 とっさに姿勢を低くし、身の安全を守りましょう。

 周囲で物が落下している場合には、落下が止まるまで、頑丈なテーブルなどの下に身を隠しましょう。

 その後、爆発が起こった建物などからできる限り速やかに離れましょう。

 警察や消防の指示に従って、落ち着いて行動しましょう。

 テレビやラジオなどを通じて、行政機関からの情報収集に努めましょう。

(『武力攻撃やテロなどの緊急事態から身を守るために(パンフレット)』内閣官房国民保護ポータルサイト)

 

 ヒロシマと同レベルの核兵器の場合、爆心地から数キロメートル以上離れた場所なら、こうした行動も(とっさに取れるのであれば)無意味ではなかろう。けれど通常弾頭のミサイルや爆弾は建物を直撃する。コンクリートを貫通する能力をもったミサイルがすでに使われている。狙われた建物の中にいたら助かるのは難しいのではなかろうか。さらに、シャジャレ・タイエべ小学校では子どもたちが避難した講堂に時間差攻撃で第二弾のミサイルが撃ち込まれたと見られている。日本政府はミサイルが着弾したら「爆風や建物等が破壊されたことに伴う破片」が発生すると警告するが、それどころではない。人間の破片が現に飛び散っているのだ。

 政府も一般市民も、もっと具体的に、戦争とはこんなにも酷いなものだということを認識する必要があるのではないか。それには、パレスチナやイランの現状とともに、ヒロシマ・ナガサキの警告もあらためて必要とされるのではなかろうか。

 21世紀もまた「戦争の世紀」になってしまった。スーダンなどアフリカ各地で内戦が続き、ロシアはウクライナに侵攻し、イスラエルによるガザの虐殺。そして2026年2月28日、アメリカとイスラエルは突然イランに武力攻撃を仕掛けた。

 この日、イラン南部にあるシャジャレ・タイエべ小学校がミサイル攻撃を受けた。イギリスBBCが3月6日に衛星画像などを使って検証したところ、映像では鉄筋コンクリート造りと思われる建物の2階から黒煙が噴き出していて、別の写真からは、建物の天井と2階床部分が破壊されて崩れ落ち、あたりに瓦礫が散乱している様子が確認された。

 

 同日中に後から撮影された映像には、学校の建物が大きく破損している様子が映っている。がれきの中を救急隊が捜索にあたり、動揺した様子の家族が複数人、中庭をゆっくりと歩き回っている。中には泣き叫んでいる人もいる。

 広く拡散された1本の動画は、位置情報から学校で撮影されたものと確認できる。この映像には、現場の救助隊が子どもの切断された腕をがれきの下から発見する様子が映っている。がれきの中から見つかった教科書や血の付いた通学リュックも、映像に収められている。(BBCNEWS JAPAN「【検証】イランの学校と近隣の軍事施設は攻撃を複数回受けていた……人工衛星画像から明らかに」2026.3.6)

 

 ネットでさらに検索してみると、3月8日付の「ハンギョレ新聞」が、イギリスを拠点とする中東専門オンラインメディア「ミドルイースト・アイ」の報道を引用していた。今回の学校へのミサイル攻撃は複数回あり、最初の攻撃のあと教師が子どもたちを祈祷室(講堂)に避難させ、保護者に子どもを家に連れて帰るよう連絡したが、続く2回目の攻撃でミサイルがこの避難場所を直撃し、避難していた子どもたちが多数死亡したという。ユニセフは、この学校で死亡した子どもは168人としている(日本ユニセフ協会Webサイト2026.3.30)。また教師や親も複数亡くなっているようだ。

 亡くなった人たち一人ひとりに顔があり名前があり、家族があり未来があった。ミサイルが飛んでくる前までは……。

 宣戦布告もないままに国の指導者は戦争へと突っ走り、民間人が多数被害に遭っても意に介さない。兵士は命令されるままにミサイルを発射する。あとはコンピュータの指示に従って感情を持たないミサイルが正確に目標を捉えるのだ。「ニューヨーク・タイムズ」などの報道によると、小学校を攻撃したのはアメリカ軍の巡航ミサイル「トマホーク」だとか。遥か遠くから、事前に設定された目標まで、レーダーに探知されにくい低空を正確に誘導されて飛んでいくという。トマホークは鉄筋コンクリートなどを貫通する能力も高いそうだ。ビルの内部で爆発すれば、ビル内のあらゆるものが凶器と化してしまう。

 日本も400発のトマホークの保有を決定し、もうすぐやってくる予定だ。子どもたちを八つ裂きにしたばかりの兵器なのだが、日本のミサイルもその能力を十二分に発揮するとでもいうのだろうか。

 某高校放送部の生徒が坪井直さんからお話を伺ったのは2014年3月。当時坪井さんは88歳だったが、熱い語りに圧倒された。どこからあんなエネルギーが湧いてくるのかと不思議に思ったものだ。

 戦後、坪井さんは学校の先生になったが、そのころは頭から足まで火傷の痕がはっきり残り、被爆の隠しようがなかった。放射線の影響はもっと深刻だった。2021年10月24日に96歳で亡くなった坪井さんの死因は不整脈。長年苦しんだ慢性再生不良貧血に心臓がとうとう悲鳴を上げたのだ。坪井さんは他にも狭心症、大腸がん、前立腺がんを患い、被爆してから亡くなるまで十数回の入院、3度の危篤状態を経験した。それでも生徒に全力で向きあい、自ら「ピカドン先生」と名乗って被爆体験を語った。

 坪井さんが最も辛かったのは結婚を反対されたことだ。後に妻となる鈴子さんの家族は、被爆者は短命だから結婚しても不幸になると二人を責めた。反論しようにも、坪井さんは当時入退院を繰り返していて何も言えなかった。それでも、二人は一緒になることを諦めなかった。

 

 盆踊りの日でした。今宵は娘への監視の目も緩むだろうとばかり、踊りなど眼中になく、夕暮れでの語らいに大喜びではしゃぎすぎの感もありました。そのため、帰宅時刻は大幅に遅れ、「しまった!」と思いましたが、後の祭りで、命の恩人の我が母に「息子は人さらいか!ひとでなしか!」と罵声を浴びせたのでした。私は母の忍耐に合掌するのみでした。(坪井直「七年ごしのロマンス」広島県原爆被害者団体協議会『「空白の十年」被爆者の苦闘』2009)

 

 二人はあの世で結ばれようと睡眠薬を飲んだこともあった。けれど、いつしか熱心ないい先生だという評判が鈴子さんの家族にも伝わり、二人の愛が実ったのは知り合ってから7年後の1957年のことだった。

 その鈴子さんが亡くなったのは1992年。死因は脳出血。まだ59歳だった。坪井直さんが平和運動に専念するようになったのはその翌年からだ。

 

 放射線の影響で造血機能が破壊され、3回も危篤になった。その時も教員仲間が輸血を買って出てくれたんですよ。みんなに支えられたからこそ助かった。そう思うと、じっとしておられんのです。生涯をかけて恩返しがしたい。(中国新聞「『生きて』日本被団協代表委員 坪井直さん<1> ヒロシマの顔」2013.1.16)

 

 不思議に生かされた命。その命のある限り「恩返し」がしたかった。それは教員仲間だけでなく、被爆直後の瀕死の坪井さんを「生きろ」と励ましてくれた人たち、似島で声をかぎりに我が子の名を呼んだ母のフクヨさん、長年支えてくれた妻の鈴子さん、そして被爆体験に耳を傾けてくれた教え子たちにも。

 また、あの地獄のような広島で助けてあげられなかった人たちには、申し訳ないという思いも強かった。あの時は何もできなかったが、だからこそ、無念の思いで死んでいった人たちのために坪井さんは生きているかぎり平和と核兵器廃絶を求めて「ネバーギブアップ」。そしてその言葉を、私たちに託した。