光成選逸先生も8月6日は朝早くから学校に来ていたのではなかろうか。いや、真夜中に空襲警報を聞いて学校に駆けつけ、そのまま他の先生と一緒に宿直室で雑魚寝したかもしれない。
朝7時の妻のヤエさんへの電話も、下宿ではなく学校からかけたのではなかろうか。選逸さんは、「自分一人ならば、どんなにしてでも逃げられる。いざと言う時には、七つの川があるから泳ぐよ」と冗談混じりに言ってヤエさんを安心させたというから、当然、その時夫婦で夜中にあった空襲警報の話をしたのだろう。(光成ヤエ「大き骨は先生ならむ…」いしゅたる社『いしゅたる No.16』1995)
午前8時、職員室で生徒から縁故疎開の相談を受けていた寺沢篤雄先生は時計を見て光成先生に話しかけた。
「光成先生、職員朝会の時間ですよ。」と話しかけたら、「ちょっと待ってください。急ぐ用事があるから。」といって職員室から姿が消えた。(寺沢篤雄「原爆に遭いて」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局『流灯 ひろしまの子と母と教師の記録』1972)
職員室の隣には校長室・衛生室があったが、光成先生と子どもたちの白骨死体はその衛生室の前で見つかっている。
長年被爆証言活動に尽力され、2022年に亡くなられた北川建次さんは当時竹屋国民学校の5年生。体が弱かったので疎開にはいかず、その頃は今の宝町にあった学校に通っていた。爆心地からの距離は1.3km。
北川さんが学校に着くと、8時20分の生徒朝礼までまだ時間があったので、2階の教室でオルガンを弾いて歌を歌っていた。突然、ピカーッと光った。
ピカーッと光った後ドドーンというような大きな音がして、そしてガラガラガラガラッと校舎が倒れたんです。何か体が一瞬飛ばされて宙に舞ったような感じがしましたが、それからガラガラガラガラと校舎が倒れて、何か巨大な槌で千万回叩きのめされたような感じがしたですね。2階にいたものですから何か下に落ちていくなという感じがしたんですけど、気を失ってしまいました。しばらくしてアッと気が付いたら、真っ暗闇の中にいて、めちゃくちゃに壊れた校舎の下敷きになっていました。(県立熊野高校放送部制作テレビドキュメント「さんげ〜あの夏の日は終わらない」2009)
北川さんは運良く潰れた校舎の下から抜け出すことができたが、すぐに火の手が迫ってきた。担任の先生の「早く逃げなさい」の声が聞こえて一目散に逃げ出した。北川さんは語る。「火がまわってくるから、どうしようもならんわね。わたしはそのとき、友だちをみんな見捨ててにげたんです」。(石田優子『広島の木に会いにいく』偕成社2015)
『広島原爆戦災誌』は、竹屋国民学校校舎内で亡くなった子どもたちを50人としているが、「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」ができたときに納められた竹屋国民学校の亡くなった子どもたちの名簿に記されている名前は26人。一家全滅などで子どもたちの被害の把握は難しい。名前さえも残らなかった子どもたちが広島にはたくさんいたのだ。