宇品の陸軍共済病院は爆心地からの距離約3km。爆風で窓ガラスは砕け散り、戸棚も机も椅子も全部吹き飛んでめちゃくちゃになった。けれど運よく火災が起きず、職員に死者・重傷者も出なかったので、すぐさま押し寄せる負傷者の治療にあたった。
負傷者のほとんどは火傷で、治療は鎮痛・消炎効果のあるチンク油の塗布だった。何年か分のチンク油を使い果たしたという。ところでネットでチンク油の効能書きを見てみたら、軽度の火傷に使用とあった。ひどい火傷、全身火傷に使ったらどうなるのだろう。でもあの時、膨大な数の負傷者への応急手当てとしてチンク油を塗るだけでもマシな方だった。臨時の救護所ではただの食用油を塗っていたのだ。
宇都(うと)乙女さんは爆心地から1kmばかり離れた雑魚場町で原爆の閃光を浴びた。逃げる途中でトラックに拾われて夫の勤務する共済病院にたどり着いたが、顔は腫れ上がり眼は塞がり、それに服が焼けて裸になっていたから、夫の信さんは乙女さんから声をかけられるまで自分の妻に気づかなかった。
病院には宇都夫妻の子で広島一中1年生の桂三さんも雑魚場町から逃れてきていた。ズボンはずたずたに裂け、上半身は赤黒く腫れただれていた。夜になって、「もう僕は助からん、僕は先に死ぬから母ちゃんは助かって下さい」と言い残して息を引きとった。桂三さんだけでなく、大火傷の人はその日のうちに次々と息絶えていった(宇都信「奇蹟に生きる妻」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)
乙女さんの火傷は顔、首、両肩から腕にかけて。そして両足。それでも火傷で死ななかったのは、胴体と大腿部が火傷を免れたのが幸いしたようだ。夫の信さんが、暑さを防ぐにはむしろ厚手の服が良いのだとネルの下着を着るよう勧めたのだ。「無茶振り」がこの時は良い方に転がったという話だが、これも、もう少し爆心地に近いところだとネルの下着まで燃えてしまったことだろう。
火傷では命を落とさなかったが、乙女さんの容態は悪化の一途をたどった。
やがて患部は甚だしく化膿して、特に顔面、頸部は白蠟細工が溶け落ちるように、あるいは水蜜桃が爛熟して崩れてゆくように、膿液はリバノール湿布の下から溢れるように流れて枕を濡らした。歯齦も化膿し崩れて出血したので、食餌を与えるのに難渋した。(「奇蹟に生きる妻」)
ひどい化膿は白血球の減少が原因だろう。乙女さんの血液検査をしてみると、被爆から一週間目で白血球数は3600。それからは測るたびに200、300くらい減っていった。医師はずっと強心剤やリンゲル、ブドウ糖、ビタミンB、Cの注射を打ち続けたが、どれだけ効果があったかわからない。8月下旬には白血球数はついに800を切った。そして全身に皮下出血班が現れ、本人も周囲も死期が近いことを受け入れざるをえなかった。
それでも乙女さんは一命を取り留めた。夫の信さんは、思いつきで打ってみた止血剤が功を奏したと思っている。でも本当のところは誰にもわからない。



