ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 宇品の陸軍共済病院は爆心地からの距離約3km。爆風で窓ガラスは砕け散り、戸棚も机も椅子も全部吹き飛んでめちゃくちゃになった。けれど運よく火災が起きず、職員に死者・重傷者も出なかったので、すぐさま押し寄せる負傷者の治療にあたった。

 負傷者のほとんどは火傷で、治療は鎮痛・消炎効果のあるチンク油の塗布だった。何年か分のチンク油を使い果たしたという。ところでネットでチンク油の効能書きを見てみたら、軽度の火傷に使用とあった。ひどい火傷、全身火傷に使ったらどうなるのだろう。でもあの時、膨大な数の負傷者への応急手当てとしてチンク油を塗るだけでもマシな方だった。臨時の救護所ではただの食用油を塗っていたのだ。

 宇都(うと)乙女さんは爆心地から1kmばかり離れた雑魚場町で原爆の閃光を浴びた。逃げる途中でトラックに拾われて夫の勤務する共済病院にたどり着いたが、顔は腫れ上がり眼は塞がり、それに服が焼けて裸になっていたから、夫の信さんは乙女さんから声をかけられるまで自分の妻に気づかなかった。

 病院には宇都夫妻の子で広島一中1年生の桂三さんも雑魚場町から逃れてきていた。ズボンはずたずたに裂け、上半身は赤黒く腫れただれていた。夜になって、「もう僕は助からん、僕は先に死ぬから母ちゃんは助かって下さい」と言い残して息を引きとった。桂三さんだけでなく、大火傷の人はその日のうちに次々と息絶えていった(宇都信「奇蹟に生きる妻」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 乙女さんの火傷は顔、首、両肩から腕にかけて。そして両足。それでも火傷で死ななかったのは、胴体と大腿部が火傷を免れたのが幸いしたようだ。夫の信さんが、暑さを防ぐにはむしろ厚手の服が良いのだとネルの下着を着るよう勧めたのだ。「無茶振り」がこの時は良い方に転がったという話だが、これも、もう少し爆心地に近いところだとネルの下着まで燃えてしまったことだろう。

 火傷では命を落とさなかったが、乙女さんの容態は悪化の一途をたどった。

 

 やがて患部は甚だしく化膿して、特に顔面、頸部は白蠟細工が溶け落ちるように、あるいは水蜜桃が爛熟して崩れてゆくように、膿液はリバノール湿布の下から溢れるように流れて枕を濡らした。歯齦も化膿し崩れて出血したので、食餌を与えるのに難渋した。(「奇蹟に生きる妻」)

 

 ひどい化膿は白血球の減少が原因だろう。乙女さんの血液検査をしてみると、被爆から一週間目で白血球数は3600。それからは測るたびに200、300くらい減っていった。医師はずっと強心剤やリンゲル、ブドウ糖、ビタミンB、Cの注射を打ち続けたが、どれだけ効果があったかわからない。8月下旬には白血球数はついに800を切った。そして全身に皮下出血班が現れ、本人も周囲も死期が近いことを受け入れざるをえなかった。

 それでも乙女さんは一命を取り留めた。夫の信さんは、思いつきで打ってみた止血剤が功を奏したと思っている。でも本当のところは誰にもわからない。

 原爆がさく裂した途端に地上に到達する放射線として中性子線やガンマ線がある。中性子は原子核を構成する粒子で電気的に中性だ。ガンマ線は強いエネルギーを持つ電磁波の一種。どちらも透過力が強く、分厚い鉛やコンクリートの部屋の中にでも入っていなければ避けることはできない。

 広島での調査によると、爆心地から1km以内で初期放射線をまともに浴びたら死を免れることはできなかった。1.1km地点が生きるか死ぬかの境目で、半数が60日以内に死亡している(広島市国民保護協議会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)。では残りの半数の人は何もなかったかといえば、被爆体験記を読んでみるととんでもない、急性の放射線障害が出て医者から何度も「ご臨終です」と言われたけれど不思議に生き延びて、同じ場所で被爆した友人はみんな死んだのに自分だけが生き残ったというのが実態だ。

 地上に降り注いだ中性子は土などに含まれる様々な物質の原子核に吸収される。するとそれらの物質は自ら放射能を持ち(誘導放射能)、ガンマ線やベータ線(電子の流れ)を出す。誘導放射能を持つ物質としては、アルミニウム28(半減期2.3分)、マンガン56(半減期2.6時間)、ナトリウム24(半減期15時間)などが代表的という。これらの物質は土に大量に含まれているからだ。原爆がさく裂してから1分以内に地上に届く放射線を「初期放射線」と呼ぶのに対して、その後に地上に残るこれらの放射線を「残留放射線」という。

 残留放射線にはもう一つ、ウランそのものやウランが核分裂してできた物質から出る放射線がある。広島の原爆に使用されたウラン235は51.55kg、そして実際に核分裂して爆発したウラン235は912gと推定されている。(静間清「広島原爆線量評価に果たした被曝建造物および被曝資料の役割(その1)  残留放射能の深度分布」『広島平和記念資料館 研究報告第14号』2019)

 ウラン235は核分裂すると多くの種類の放射性物質に変化する。代表的なものはヨウ素131(半減期8日)、ストロンチウム90(半減期28.9年)、セシウム137(半減期30.07年)だ。これらの物質から出てくるベータ線の飛ぶ距離は空気中で1m、水中で数mmぐらいなので、外部被曝はそれほど心配することはないと言われる。しかし、飛ぶ距離が短い分、狭い範囲にエネルギーが集中して放出されるから、ベータ線を放出する物質が皮膚や体内組織に付着すると影響は大きい。

 セシウム137は民家の白壁に染み付いた「黒い雨」の跡から微かながら検出されている。またその黒いシミからはごく微量のウラン235も見つかっている。ウラン235が出すのはアルファ線。陽子2個と中性子2個の原子核が飛び出したものだ。空気中では2〜3cmしか飛ばないが、しかし体内で局所的に被曝すると、ガンマ線やベータ線の20倍も影響が大きいという。

 このような放射線による被害についてはブログ「人類の自殺」にも書いたが、改めて、なんとか被害を避ける方法はないのか、事前に取り組んでおくことはないのか、考えてみたい。

 日銀広島支店のコンクリートの厚さを測り、原爆の放射線はこの建物の壁や天井を透過しなかったと結論づけたのは核物理学者の庄野直美さん(1925-2012)だ。「七〇センチの壁と土のうを置いた天井を全く透過できないことは、いうまでもない」と断言されている(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地 生と死の40年』日本放送出版協会1986)。

 一方、燃料会館のコンクリート壁の厚さは日銀広島支店より薄いだろうが、地下室であれば、ほぼ真上から襲ってくる放射線は1階から3階までの床と天井のコンクリートにさえぎられたと想定することができる。とすれば野村英三さんは原爆さく裂時の初期放射線を浴びなかったとしても不思議ではない。

 しかし気になることがある。それは、窓から入ってきた爆風に放射性物質が含まれていたかどうかということだ。

 

 爆発直後の核分裂片は、火球の炎に巻き込まれて急速に広がり、一秒後には火球の最大半径二〇五メートルと同じ放射能球になっている。これから出るガンマ線は、火球の輝きが一〇秒後に消えた後も、そこに残る核分裂片から引き続いて放射され、二〇秒後まで続く。

 一方で、火球の内部の核分裂片の一部は、衝撃波(一秒後には爆発点から七〇〇メートルに到達)とその後部から追いかける突風に引かれて、火球の外部へ拡散していく。その突風は外側へ吹いた後で、すぐに内側への少し弱い吹き返しを行なうので、核分裂片の外側への拡散は、比較的ゆるやかであろう。(庄野直美「日銀広島支店の被爆者〜奇跡の生還の科学的分析〜」NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地 生と死の40年』日本放送出版協会1986)

 

 庄野さんは、爆心地の建物に飛び込んだ爆風に放射性物質が含まれていたかどうか断定していない。それに対して広島市の「核兵器攻撃被害想定専門部会報告書」(2007)は「建物内への放射性物質の侵入が予想される」としている。

 実際どうだったのだろう。それを検証することは困難だろうが、でもこだわってみたのは、建物内で放射線の影響を受けなかったとすれば、野村さんや平岩さんに深刻な被害を与えたのは、屋外に出た後の放射線ということになる。広島市内中心部では、原爆さく裂直後でも、人を生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込むほどの強烈な残留放射線が飛び交っていたのだろうか。

 政府は、核爆発があった時は「屋内に地下施設があれば地下へ移動しましょう」と言う。しかし同時に「爆発地点からなるべく遠く離れましょう。その際、風下を避けて風向きとなるべく垂直方向に避難しましょう」とも言っている(『武力攻撃やテロなどから身を守るために』国民保護ポータルサイト2005)。それは被曝をできるだけ避けるためなのだが、しかし、建物の中に逃げ込んだら火と煙が追いかけてくるかもしれないし、強い放射線を出す物質が飛び込んでくるかもしれない。遠くに逃げようとすれば、地上ではすでに残留放射線があふれているだろう。進退窮まるとは、このことか。

 元安川の河岸から、野村英三さんは救援を求めて西の己斐方面に走った。本川町から土橋を経て己斐まで約3km。途中炎と煙で幾度となく身の危険を感じたという。しかし己斐に着いてもそこは負傷者ばかりで、草津まで行ってやっと救援の兵士を見つけた。しかしそこもまた負傷者であふれ、それに振り返ってみれば市内中心部は火と煙に覆われていて、野村さんは救援隊を連れて戻ることを断念した。河岸に残った同僚とその後二度と会うことはなかった。

 6日のうちに草津からさらに西の廿日市(はつかいち)の実家に戻った野村さんに異変が起きたのは9月1日だった。

 

 九月一日の夜、急に悪寒を感じ、四〇度前後の発熱はその後七、八日間つづいた。この間廿日市町では、毎日毎日何人となく自分のような状態のものが死んでいった。咽喉は痛んでくるし、出血斑紋は五、六カ所も出る。歯茎がくさり、悪性下痢は十日以上もつづいて、からだはクタクタに衰弱していった。薬は無し、医師は手当ての方法が分らぬらしく、親戚も家族も諦めていたという。(野村英三「爆心に生き残る」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 それは典型的な急性放射線障害だ。しかし不思議なのは、爆心地のすぐそばで被爆しているのに症状が出るのが遅かったことだ。広島逓信病院の蜂谷道彦院長の手記によれば、被爆者の嘔吐、下痢は6日当日から始まり、粘膜が壊死してしまう口内炎や内出血による皮膚の斑点は9日には確認されている。そして18日頃になると血の斑点は死の前兆としてすっかり恐れられるようになった(蜂谷道彦『ヒロシマ日記〈平和文庫〉』日本ブックエース2010)。野村さんはビルの地下室にいたから、床や天井のコンクリートが放射線をかなり防いでくれたということだろうか。

 コンクリートが厚いので知られるのは日銀広島支店だ。しかし、だからといって中にいた人に放射線の被害がなかったわけではない。平岩好道さんは日銀広島支店3階で被爆した(平岩好道「原爆体験記」庭山慶一郎編『原爆の記 広島財務局原爆被災者の記録』大蔵財務協会1980)。部屋の窓は爆心地に向いていないから原爆さく裂時の初期放射線の直撃はなかったろうし、そしてコンクリートが厚いので放射線が天井をすり抜けてくることはないという。しかし、それでも平岩さんは8月20日から髪の毛が抜け始めた。31日に東大附属病院で血液検査をしてみると赤血球は通常の半分しかなく、白血球は普通最低でも3500はあるはずが、なんと500しかなかった。手厚い治療を受けなかったら死を免れることはなかっただろう。

 平岩さんは初期放射線を浴びなかったとしても、建物の外に出た時に雨に濡れている。放射能を持った「黒い雨」と考えてよかろう。そしてその後18日まで日銀広島支店に寝泊まりしている。外はまだ放射能が残っていたはずだ。同じように野村さんも「黒い雨」を浴びている。爆心地近くにいたら、生死に関わるほどの放射線を浴びるのは避けようがないということだろうか。

 燃料会館は爆心地から170mという至近距離だから熱線はほぼ真上からやってくる。窓際にいるのでなければ熱線による直接の被害は考えにくい。しかし爆風の破壊力は凄まじく、ガラスはもちろん机も椅子も壁も床も、あらゆるものが凶器になったはずだ。即死をなんとか免れて建物から脱出した人たちが、目が見えなくなってきたり、気分が悪くなったり、頭が痛かったりしたのは、出血がひどかったせいかもしれない。

 しかし現代でも救急車とかドクターヘリとかを呼ぶのは難しい。川向こうの広島郵便局から最初に火が出て、しばらくすると燃料会館も燃え始めた。産業奨励館も商工会議所も同じように燃え出した。こんな火の海にはとても近づけないだろう。

 野村さんたちは熱気に耐えられず川に降りた。けれど、川も安全な場所ではなかった。

 

 元安川の水の一部が盛り上ったと思ったら クルクルと円柱となって空高く舞い昇った。水の竜巻だ!。その中から風下に水が落ちている。火勢は熾烈だ。川向いの煙が火の粉とともにわれわれに襲いかかった。ウワーと一同石段を上って広場に逃げると、とたんに火の粉がまた襲いかかってくる。止むなくもとの石段の石垣の隅に、一同小さく固まってしまった。(野村英三「爆心に生き残る」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 元安川の火災旋風は中国新聞から建物疎開に出た水原智識さんの証言にもあるが、元安川だけでなく、原民喜は縮景園横の京橋川で竜巻が起こったと手帳に書いているし、紙屋町の芸備銀行(現 広島銀行本店)で被爆した高蔵信子(あきこ)さんは、電車通りを火の塊が旋風となって2、3分おきに吹いてきたと語っている。これでは市内中心部はどこにも逃げ場がない。

 野村さんたちの他にも燃料会館から逃げ出した人たちがいる。爆風で机の脚が体に突き刺さった女性を紹介したが、この人は火に追われて同僚と一緒に元安川に入ったが、同僚はみんな流されてしまったと言い残している。川の中に逃げても、誰もが負傷していたし、川はその時満潮で足が川底につかなかったから、そのうちに力尽きてしまった人が多かったのだろう。この女性は助けられて広島赤十字病院に運ばれたが、8月11日に亡くなっている。

 燃料会館の職員を目撃した人がいる。午後4時ごろ、燃料会館の前に女性事務員が二人座っていたという。また夜になって焼けた燃料会館の中に入ったら40歳くらいの男性一人と20歳くらいの女性二人が傷ついた姿で横たわっていたと証言した人もいる。(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)

 その二人の女性のうちの一人は、もしかしたら当時21歳の竹本ムツミさんかもしれない。同僚の女性と広島市近郊の救護所までたどり着き、父親に家まで連れて帰ってもらっている。けれど、16日に亡くなった。同僚も自宅に戻ってすぐに亡くなったらしい(中国新聞「ヒロシマの記録 遺影は語る 中島本町I」1999.7.13)。竹本さんが亡くなったのは、おそらく放射線のせいだろう。

左に親水テラス、右に原爆ドーム

 地下室が突然真っ暗になったら誰でもびっくりする。自分の頭から血が流れ、足元に死体が転がっていたりしたらもうパニックだ。そして野村さんは更なる恐怖に襲われた。

 

 奥の方から闇をついて、助けてくれーと男の声だ。その声がつづいて聞えてくる。そして直ぐ泣き声にかわった。オオーン、オオーン、と。自分は急いで登りつめたとたんに、頭をごつんと打った。手でさわってみるとコンクリートの壁らしい。両手で押してみたが、ビクともしない。出られない!(野村英三「爆心に生き残る」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 地下室でまず怖いのは、爆弾の直撃、今ならミサイルの直撃で建物が崩落し閉じ込められることではなかろうか。この場合、建物の地上部にいても命はなかろうが、暗闇の中に閉じ込められたまま、ゆっくりと死がやってくるのを待つというのも勘弁してほしい。

 野村さんは水道管が破裂して地下室が水没するのを恐れたが、それだけでなく火災の心配もある。実は燃料会館の1階から上は全焼したが地下室は燃えなかった。住友銀行広島支店や広島富国館なども地下室は燃えていない。しかし、爆心地から130mの千代田生命は「地下の一部を除いて焼きつくされ」とあり、710m離れた福屋百貨店は「内部は完全に焼失した」とある(広島平和記念資料館『ヒロシマの被爆建造物は語る』1996)。地下室まで焼けてしまうかどうかは、その時になってみないとわからない。たとえ地下室が焼けなくても、煙が充満すれば助かる可能性はほとんどない。

 もちろん現代のビルには非常用電源もあれば、スプリンクラー、防火扉などの設備も整っているだろう。しかし核爆発で建物そのものが破壊されたとしたら、それでもちゃんと機能してくれるだろうか。やはり火災が起きた場合は建物から速やかに離れたほうがいいだろう。

 野村さんは地下室から出られないのでパニックに襲われたが、ふと我に返ってみると1階にいた。出入り口が完全に塞がっていたのではなかったのだろう。1階には同僚の広瀬さんがいたので一緒に窓から外に飛び降りた。外は粉塵が太陽を覆って半月の夜のような暗さだったが、広瀬さんの顔や手から血が流れているのが見えた。

 元安橋の向こうは火がちらついていたので二人は相生橋の方に逃げ、腰を下ろしたのは、今は親水テラスになっているあたりの石段だった。野村さんは手記にその場所を家屋疎開の跡と書いているが、実際は埋立地でまだ空き地だったところだ。そこに即死を免れた同僚が集まってきた。

 

 この間に組合を逃れて来たものが、自分とともに男四人女四人計八人となった。そしてみな石段に腰を下ろして、一ところにかたまっている。片方の目がだんだん見えぬようになったという女、気分が悪くなったという男、頭が痛むと訴えるもの、みなそれぞれに外部の負傷と内部の故障をもっている。(「爆心に生き残る」)

 

 ここで広瀬さんは息を引き取った。まだ19歳だった。(朝日新聞社広島支局『爆心 中島の生と死』朝日新聞社1986)

 

旧燃料会館地下室の階段

 野村英三さんの8月6日の行動を少していねいに見てみよう。被爆当時燃料会館だった建物は鉄筋コンクリート造り地下1階地上3階建で、1929年に大正屋呉服店として建造された。しかし戦争の激化で1943年に呉服店は閉店し、翌年に県燃料配給統制組合が建物を取得した。1945年3月になると「重要建物」である燃料会館周辺の建物は、延焼を防ぐためにすべて撤去されている。

 1945年8月6日、出勤した燃料配給統制組合の職員は37人。朝礼が終わり、野村さんが仕事を始めようとすると机の上に置かれているはずの書類がなかったので、野村さんは地下室に降りてあちこち探し回った。『ヒロシマの被爆建造物は語る』(広島平和記念資料館1996)には、建設会社が保管していた建物の平面図が掲載してあるが、これを見ると建物の地下は地上部の4割くらいの広さで、いくつかの小部屋に分かれていた。どの部屋も書類の保管庫として使われていたのだろう。

 突然ドーンという大きな音が聞こえ、電灯が消えて地下室は真っ暗になった。何か小石のようなものが落ちてきて野村さんの頭に当たった。

 その時、上の階ではどんなことになっていただろうか。被爆当時14歳だった女性が、燃料会館で被爆した姉が死ぬ前に語った話を手記に載せている。

 

 姉との再会後に聞いた話ですが、職場で席に座っているときに被爆し、そのとき、机の足が体にぐさっと突き刺さったそうです。その刺さった足を自分で引き抜いて、建物の近くを流れる元安川にみんなが水を求めて逃げたため、姉も一緒に逃げました。川に入るとみんな流され、次々と亡くなっていったそうです。姉は最後の力を振りしぼり、流されないようどこかにつかまり、必死に耐えていました。そこへ通りかかった人に助けられ、そのまま広島赤十字病院まで運んでもらったとのことでした。(匿名「つらい想い出~姉との別れ~」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 吹き飛ばされた机の脚が体にグサッと突き刺さるほどの強烈な爆風が建物内を吹き荒れたのだ。朝日新聞の松本栄一さんが9月下旬に燃料会館を南西方向から撮影した写真、そして写真家の菊池俊吉さんが10月1日に爆心地側から撮影した写真を見ると、屋上のコンクリート製の手すりが吹き飛ばされているのがわかる。窓はガラスがなくなっているのはもちろん、鉄枠が全部外側に捻じ曲げられている。(Webサイト中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「広島原爆の視覚的資料 ―1945年の写真と映像」)

 爆風は地下室にも押し寄せていた。

 

 自分は階段の直ぐ下に立っていた。上ろうかと思って足を階段にかけた。そして二、三歩上りかけたが、どうも変な具合だ。階段の状態が無い。板切れや、瓦や、砂や、ごちゃごちゃに混じった坂になっている感じだ。

 柔らかな俵のようなものが足の下にある。おかしい。両手でそっとさわってみた。半分位砂の中に埋もれている。あっ人間だ! (野村英三「爆心に生き残る」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 その人はすでに息絶えていた。

平和公園レストハウス(旧燃料会館)

 内閣官房が発行しているリーフレット『武力攻撃やテロなどから身を守るために』(国民保護ポータルサイト2005)には、核攻撃による放射線被害を防ぐために国民に次のような行動を勧めている。

・とっさに遮蔽物の陰に身を隠しましょう。近隣に建物があればその中へ避難しましょう。地下施設やコンクリート建物であればより安全です。

・上着を頭から被り、口と鼻をハンカチで覆うなどにより、皮膚の露出をなるべく少なくしながら、爆発地点からなるべく遠く離れましょう。その際、風下を避けて風向きとなるべく垂直方向に避難しましょう。

・屋内では、窓閉め・目張りにより室内を密閉し、できるだけ窓のない中央の部屋に移動しましょう。

・屋内に地下施設があれば地下へ移動しましょう。

・屋外から屋内に戻ってきた場合は、汚染物を身体から取り除くため、衣類を脱いでビニール袋や容器に密閉しましょう。その後、水と石けんで手、顔、体をよく洗いましょう。

・安全が確認できるまでは、汚染された疑いのある水や食物の摂取は避けましょう。

・被ばくや汚染のおそれがあるため、行政機関の指示などにしたがい、医師の診断を受けましょう。

 

 政府は、Jアラートが鳴ってから少し避難する時間があることを前提としているのだろうか。市民は地下街などに逃げ込んだことにして、熱線や爆風による被害はなく、さく裂と同時に地上に到達する初期放射線にも触れていない。飛散した放射性物質を体に付着させない、吸い込まないことだけを重視している。

 しかし、これで本当に大丈夫なのだろうか。現実的と言えるだろうか。とはいっても、広島の体験記を読んでみても、こうしたら安心だと言えることはないような気もする。でも何かヒントはないか、まず、爆心地に最も近い場所で助かった野村英三(えいぞう)さんの体験を追ってみよう。

 爆心地から170mという至近距離にあった燃料会館(現 平和公園レストハウス)の地下室にいた野村さんは、原爆さく裂の瞬間、頭に小石のようなものが当たって少し血が流れたが大きなケガではなかったようだ。建物から脱出して今の親水テラスがあるあたりの空き地に逃げたが、そこで猛火に囲まれてしまった。そのうちに雨が降り出し土砂降りになったが、それは放射能を持った「黒い雨」だった。

 野村さんは救援を求めて炎の中をくぐって西の己斐方面に向かった。

 

 九月一日の夜、急に悪寒を感じ、四〇度前後の発熱はその後七、八日間つづいた。この間廿日市町では、毎日毎日何人となく自分のような状態のものが死んでいった。咽喉は痛んでくるし、出血斑紋は五、六カ所も出る。歯茎がくさり、悪性下痢は十日以上もつづいて、からだはクタクタに衰弱していった。薬は無し、医師は手当ての方法が分らぬらしく、親戚も家族も諦めていたという。(野村英三「爆心に生き残る」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 それでも野村さんは奇跡的に一命を取り留め、その日燃料会館に出勤した37人の中で唯ひとりの生存者となった。

現在の広島市内中心部

 今は原爆ドームと呼ばれている産業奨励館は、レンガ造りで鉄骨やコンクリートも組み合わせた建物だったが、内部は木の梁をわたして床や天井を張っていたと見られる(Webサイト「arch-hiroshima」)。ピカッと光った瞬間に真上から襲ってきた原爆の衝撃波・爆風で、その天井や床はいとも簡単にスポッと抜けたか、あるいは粉々になってしまっただろう。中にいた人は逃げられない。

 では現代のビルだったらどうだろうか。今時のビルはどれも見た目は鉄骨とガラスでつくられている。81年前と同じように高度600mで16キロトンの原爆がさく裂したとして、まさか床が抜けることはあるまいが、ガラスはやはり粉々に砕けて吹き飛んでしまうのではあるまいか。穴が開くぐらいですんだとしても、そこから入り込んだ爆風は室内のあらゆるものを吹き飛ばしてしまうのは間違いない。ガラスも机も椅子もロッカーも全てが凶器となる。薄い内壁も壊れてしまうだろうから、安全な場所はないと思わなければなるまい。そして発火する。建物自体は難燃性でも、部屋の中には可燃物が山とあるだろう。

 中にいた人は生きて外に脱出できるだろうか。Jアラートが鳴ったら床に伏せてしばらく息を潜めているべきか、それともすぐに非常階段を駆け降りるか、どちらが良いかわからない。いや、どちらもダメかもしれない。東京では2028年に高さ385mの超高層ビルが完成予定で、広島市には2027年度に160mのビルができるという。最近のビルは背が高いのだ。途中の階が火に包まれた時、街中が火の海ならば屋上に逃げてもヘリが救助に来てくれることはあるまい。

 外に出ても危険は待ち構えている。市内中心部であれば周りを囲む高層ビルが熱線を防いでくれそうな気もするのだが、その代わり、上から何が落ちてくるかわからない。原爆ドームは、瓦礫が当時のまま残されているという感想をよく眼にするのだが、平和記念資料館ホームページのデータベースで産業奨励館の写真を見てもらえばよくわかるだろう、その年の秋ごろまでは、そばの道路上に巨大なコンクリート片や石柱が積み重なって通れる状況になかった。上からレンガが一個落ちても当たったら死んでしまいそうだが、現代のビルだったら外壁のパネルが落ちてくるかもしれないし、ガラス片が雨アラレと降り注ぐかもしれない。人間が吹き飛ばされて落ちてきてもおかしくない。

 そして、外に出ても目の前の道路は火の河になっていることだろう。81年前の広島は路面電車が火を吹いた。

 

 それでフッと向こうの方見ましたら、電車がそのまま走ってたんですが、この車体がこのまま燃え上がりました。ワァーッと。あのビャッコウ、真白い光で全体がヴォーッと燃え上がったんですよ。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地——生と死の40年——』日本放送出版協会1986)

 

 今だったら、自動車が道路を埋め尽くしている。熱線で一気に燃え上がるだろう。逃げられない。逃げるとすれば地下街だが、それはまた後の話としよう。

 政府は、核爆発が起きたときは「近隣に建物があればその中へ避難しましょう」「爆発地点からなるべく遠く離れましょう」と勧める(『武力攻撃やテロなどから身を守るために』国民保護ポータルサイト2005)。 間違いではない。けれど現実的ではない。

 広島の原爆の場合、爆心地から1.5kmあたりでも熱線をまともに浴びたら命が危なかった。1km以内なら絶望的だろう。けれど500mあたりの至近距離でも全員が瞬時に息絶えたわけではない。少しでも動けたらどこかへ逃げようとしたし、動けなかったら助けが来るのをひたすら待った。でも、市内至る所で発生した火災は、その最後の望みまでも打ち砕いてしまった。

 平和記念資料館の南側、当時の材木町で被爆した市立第一高等女学校(市女)の1、2年生も多くが原爆さく裂後の火災に巻き込まれた。被爆当時5歳で父親と市女の姉を失った藤田真知子さんが『原爆の子』に作文を載せている。

 

 母と兄は、まい日まい日よるおそくなって、つかれて帰って来られる。私は、その顔を見るたびに、がっかりするのだ。母の話をきくと(中略)多くの生徒は、にげるために川にとびこんだけれども、やけどをしていたので、みんな死んでしまった。うかんでくる市女の生徒の死体は、制服もぼろぼろになっていて、顔の色は茶色にこげており、だれがだれだか、さっぱりわからなかったそうだ。私の姉も、きっとその中にいたのでしょう。

 また、せいがん寺の前の大きな水そうには、もえて来る火から四人の生徒をかばいながら、先生が生徒におおいかぶさるようにして、五人いっしょに死んでおられたそうだ。きけばきくほど、かなしいことばかりだった。(長田新編『原爆の子』岩波文庫)

 

 火に囲まれ逃げられなくなった生徒を誓願寺の前にあった大きな防火用水槽に入れ、その上に覆い被さったのは森政夫先生。自分も生徒も大火傷でとても助かる命ではなかったけれど、それでも先生は最後まで身を挺して生徒を守ろうとした。

 これが爆心地になると、人は一歩も動けなかったのではあるまいか。ビルの中にいてもまずだめで、外にいたら尚更だ。燃料会館(現 平和公園レストハウス)の地下室で被爆した野村英三さんの目撃証言がある。

 

 急いで元安橋のところへ来た。ふと橋の上を見ると、中央手前のあたりに、まる裸の男が仰向けに倒れて、両手両足を空に伸ばして震えている。そして左腋下のところに何か円い物が燃えている。(野村英三「爆心に生き残る」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 島病院から120mの距離なので爆心地と言っていい。野村さんの「原爆の絵」の説明では、さく裂から10分後のことだ。丸裸なのは熱線で服が一瞬にして燃えたからだろう。でも野村さんは体を焦げたように黒く塗ってはいない。炎に焼かれていないからだろうか。

 その人は震えていたという。息絶える直前だったのか直後だったのか。まだ生きていたとすれば、その眼には何が映っていたのだろう。脳裏には何が浮かんだのだろう。