『オッペンハイマー』68 気になること4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 映画『オッペンハイマー』は、熱線で顔の皮膚が弾け飛ぶ女性や黒焦げの死体を描くとともに、一瞬ではあるが嘔吐の場面もある。それは、嘔吐が放射線によって最初に現れる症状であることをクリストファー・ノーラン監督がよく知っていたことに他ならない。

 

 悪心と嘔吐は爆撃当日にきわめて顕著で、生存者の31%、死者の16.6%にみられた。嘔吐は当日のみのものが多く、翌日以後におよんだものは比較的少ない。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『広島・長崎の原爆災害』岩波書店1979)

 

 しかし、映画に出てくる放射線障害はこれだけだったとも言えよう(私はそう感じた)。それは映画だけの問題ではなく、原作の『オッペンハイマー』にも放射能についての具体的な記述はない。ただし、オッペンハイマーが放射線のもたらす危害についてよく知っていたことだけは記されている。

 

 「原子爆弾の視覚的効果は、ものすごい。投下の後には、高さ一万フィートから二万フィートの輝く閃光が続く。爆発の中性子効果は、少なくとも半径三分の二マイル以内の生命に危険を及ぼす」(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 オッペンハイマーの伝記は、放射能が人間にどれほどの禍をもたらすかについて彼がそれ以上突っ込んだ発言をしたかどうか触れていない。でも、アメリカという国は間違いなく知っていた。そして、隠した。

 広島で外科医をしていた原田東岷さんは1948年の冬、5歳の賢二君という患者を診察した。高熱があり異常なほどに痩せこけた体。驚いたのは、血液検査でまともな赤血球や白血球がひとつも見つからないことだった。

 賢二君と母親は爆心地から800mという至近距離の榎町(えのまち)の路上で被爆した。母親は原爆の熱線に焼かれて全身黒焦げとなったが、最後の気力を振り絞って賢二君を乗せた乳母車を押して逃げた。

 その時賢二君は不思議に傷一つなかった。けれど放射線は嫌というほど浴びていたのだ。その後の発熱、下痢、出血、脱毛。5歳まで生きたのが不思議なくらいだったが、その間体調の良かった日は一度もなかったという。

 原田東岷さんはアメリカが広島・長崎に設置したABCC(原爆傷害調査委員会)を頼った。ウェデマイヤー中尉という若い病理学者が賢二君を診察して東岷さんに告げた。

 

 室外に出ると彼は「残念ですが、急性白血病で、あと二、三日しか保たないのではないでしょうか。気を悪くされないことを望みますが、私はこの病気の発生を待っていたのです(中略) これから以後、この病気が続々と発生する恐れがあり、それで派遣されたのです」。そして最後に小さな声で、ソリイ(済みません)とつけ加えた。(原田東岷『ヒロシマの外科医の回想』未来社1977)

 賢二君は三日後に息を引きとった。原田東岷さんは、8月6日の虐殺で原爆が終わったのではなかったことを思い知らされ、遅れてきた悲惨な死に自分の無力さを痛感した。

 

 「みじめだったね。その時だよ、原爆症と心中してやろうと思ったのは」(中国新聞ヒロシマ50年取材班『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社1995)