『オッペンハイマー』66 気になること2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「リリゴ」さんは憤慨される。原爆の悲惨さは黒焦げの死体一つでわかるものではない、爆心地の周辺は万単位の死体で埋まっていたのだと。しかし、見渡す限り黒焦げの死体が散乱しているから悲惨なのだろうか。そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。

 あの日、市立第一高等女学校(「市女」)1、2年生541人は爆心地から500mばかり離れた今の平和公園南側、平和大通りのあたりで建物疎開作業中に原爆に遭い、全滅した。

 市女1年生だった森本幸恵さんを母親のトキ子さんが似島で見つけたのは9日のこと。13日に亡くなるまでに幸恵さんは母親にこう話した。

 

 一時間作業し、八時休憩になり、誓願寺の大手の側で腰をかけ、友だち三人で休んでいると、ああ落下傘が三つ、きれいきれいと皆騒がれるので、自分も見ようと思い、一歩前に出て上を向くと同時に、ぴかりと光ったので、目をおさえ耳に親指を入れて伏せたら、その上に一尺はばもある大手が倒れ、腰から下が下敷きになり、頭の麦わら帽子は火がつき焼けていました。(森本トキ子「幸恵の言葉」『広島原爆戦災誌』)

 

 幸恵さんはなんとか土塀の下から這い出すことができた。塀が熱線を遮ったのだろうか、火傷は額と右手に少しあるぐらい。ところが目の前の光景に愕然とした。

 

 長いことかかり、大手の下から出ることができ、あたりの友だちを見れば、皆、目の玉が飛び出し、頭の髪や服はぼうっと焼けて、お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けてと、口々に叫んでおりました。(「幸恵の言葉」)

 

 全身を焼かれ、生きているのが不思議なくらいでも、動ける者は皆、火を逃れようと川に飛び込み、防火水槽に潜った。それはいくつもの目撃証言や「原爆の絵」によって知ることができる。

 坂本潔さんと文子さん夫婦は実の娘、市女2年生の築山城子(むらこ)さんを必死の思いで探してまわった。

 

 川の中岸辺には、生徒が三々五々折重なって肌着は破れ、髪は乱れて裸となって殆んど絶命の状態で、誰とも見分けがつかない。時に午後六時半頃。夕闇はいまより迫り冷気は加わり気はいらだつばかり。名を呼び続けて行くうちかすかな声で「ここよ。」と叫ぶわが子の声と、「築山さんはお父さんが来られていいね。」と、どこからともなく聞えた友達の叫びが、今なお耳底深く残って誰であったか判然としなかったことが、今更ながら残念である。多分仲のよかった友達同志は一緒になって、この川岸まで逃れて来て遂に斃れたのであろう。城子は川の石に腰掛けていた。朝からこの時刻まで、どんな気持ちで我々の来るのを待っていたか、よく苦しみをおさえこらえて生きていてくれた。(坂本潔 坂本文子「城子(むらこ)の最期」『広島原爆戦災誌』)

 

 城子さんはその夜に息を引き取った。城子さんの最期に心がいたむ。そして城子さんの友だちの最期にも心がいたむ。誰もが声に出して言いたかったのだ。「お父ちゃん」「お母ちゃん」と。私たちの心が揺さぶられるのはその声が聞こえるからではなかろうか。

 そしてその心の声を私たちに伝えてくださった人たちがおられたからこそ、私たちは何がこの世にあってはいけないことなのかを、はっきりと知ることができるのだ。