『オッペンハイマー』63 原子力帝国13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 オッペンハイマーがどれだけアメリカ、そして世界の未来に危機感を持っていたかを示すエピソードに「二匹のサソリ」がある。1953年2月にアメリカ外交政策に関わる専門家を集めての講演会で述べられ、さらに同年7月に執筆された論文「原子兵器とアメリカの政策」に出てくる。

 その頃、危険とみなした人物を連邦政府から排除する「赤狩り」が始まり、オッペンハイマーと対立していたストローズが原子力委員会(AEC)の委員長に就任する。そんな厳しい状況でも、オッペンハイマーはアメリカを愛するがゆえの厳しい意見を述べた。

 論文は、「“公開”、“友好”、“協力”に基づく核の国際管理の達成に失敗して久しい」と指摘することから始まる。そしてアメリカの核兵器は広島・長崎の時点から大きく進歩しているが、アメリカ国民やヨーロッパの人たちは、核兵器が今後どのように使われようとしているか知っているだろうかと疑問を投げかける。そしてこう警告した。

 

 「我々は、おそらく、長い冷戦の時代に直面しているのであり、紛争と緊張と軍備が我々と共にあることになるだろう。そして、困難は次のようなものだ。この期間に、原子爆弾の時計は、次第に速くカチカチと時を刻む。二つの大国はお互いに他の文明と生命を終わらせる構えを取るが、自らの文明と生命も危うくせざるを得ないという状況が予想される。我々の状態は、一つのびんの中の二匹のさそりに似ていると言えよう。どちらも相手を殺すことができるが、自分も殺されることを覚悟しなければならない」(藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』ちくま学芸文庫2021)

 

 人類の破滅を未然に防ぐにはどうすべきか。オッペンハイマーが訴えるのはアメリカの原子力政策の秘密主義を廃し、ソ連との直接交渉によって軍縮を進めることだった。それはオッペンハイマーがこれまで主張してきた当然の政策。しかし、この当然のことを当時のアメリカ政府の内部から発信するのはさぞや勇気がいったことだろう。

 エドワード・テラーはオッペンハイマーに不満を抱いていた。「リーダー格の科学者が水爆開発に躊躇するのは問題だと思う」と上下両院原子力委員会の顧問ウィリアム・ボーデンに語っている。1953年11月、ボーデンはFBIに手紙を送った。水爆開発に非協力的なオッペンハイマーはソ連のスパイである可能性が高いという告発だ。

 お膳立てをしたのは原子力委員会(AEC)委員長となったルイス・ストローズ。彼らは、「原爆の父」と称賛されて大きな影響力を持つオッペンハイマーがこれ以上原子力政策に口を挟むのが許せなかった。彼らはどうしても水爆でソ連を圧倒したかったし、それは核軍拡の恩恵を受ける軍や軍需産業の意向でもあった。

 1953年12月、AECはオッペンハイマーに書簡を送った。それにはオッペンハイマーの「保安許可」を剥奪して原子力に関する国家機密から完全に締め出す決定がされたこと、そしてそれに不服があればAECの保安審査委員会に審査を請求できるとあった。オッペンハイマーは負けるのを覚悟の上で、国家権力に立ち向かうことを選んだ。

 1954年4月12日、聴聞会という名の糾弾が始まった。