齋藤隆夫かく戦えり/グラフ社
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齋藤隆夫とは、戦前(明治45年)から、戦後にかけての政治家で、昭和11年の広田内閣に対する粛軍演説がつとに有名。
東京専門学校(現・早稲田大学)を首席で卒業後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し、公法や政治学などを修め、弁護士資格も有す。衆議院議員の当選回数13回。戦後は、吉田内閣と片山内閣で、ともに無任所大臣として入閣をはたしている。
齋藤は、その貧相な風貌から「ねずみの殿様」と綽名された。また青年時代アメリカで結核にかかり、肋骨を七本取る大手術を受けている。そのため、身体が右後方によじれており、それが演説では独特のポーズとなっている。首をユラユラ振りながら語るのも特徴。当時泣く子も黙る軍部をキリキリ舞いさせたイメージとはおよそほど遠い。
著者の草柳が齋藤隆夫に取り組んだのは、「言うべきことを言う」論者の実像を求めたからだという。
しかし当初これを「文藝春秋」に半年連載したところ、以下のような反応があったという。すなわち右からは、「国民の間にようやくまっとうな防衛論議が起こりつつあるのに、なぜ、反軍思想を紹介するのか」という頭ごなしの叱責。かたや左からは「右傾化のいま、よくぞ反戦の政治家をとりあげてくれた」と手放しの謝辞だったという。
戦後36年を経た81年(本書上梓当時)でさえ齋藤隆夫像はかくのごとく、実態とはかけ離れたものだったというわけだ。
草柳が評するに、齋藤は、反軍思想家でもなければ反戦政治家でもない。いわば、戦前の“平均的日本人”である。「天皇を敬愛し、家族の健康を願い、いつまでも郷里の但馬を懐かしみ、適当に教育パパで、娘の婚期が遅れるのを心配し、宴会用の歌曲を習い、息子たちの学徒出陣の際には『お国の為になるんだぞ』と日の丸の旗を肩にかけてやっている」という具合に。
草柳は齋藤を分析して三つの特徴を認めている。
第一に明晰さへの求心力、第二に思想の設計図が鮮明、第三にアナログ型人間(時間軸の上を誘導しながら、その変化と発展の意味をとらえる)である。
自他ともに認める齋藤の三大演説は、大正十四年の「普通選挙法案に対する賛成演説」、昭和十一年の「広田内閣に対する粛軍演説」、昭和十五年「支那事変の処理を中心とした質問演説」だという。最後の「支那事変の処理を中心とした質問演説」が軍部により、「聖戦を冒涜する非国民的演説だ」と批判され、ついには齋藤は議員除名を余儀なくされる。
草柳が取り上げた齋藤の代名詞である粛軍演説の一部。これは2・26事件直後に行われていることに注目されたい。
「国家改造を唱えて国家改造の何たるかを知らない、昭和維新を唱えて、昭和維新の何たるかを解しない、畢竟するに生存競争の落伍者、政界の失意者ないし一知半解の学者等の唱えるところの改造論に耳を傾ける何ものでもないのであります。しかもこの種類の無責任にして驕慢なる言論が、ややもすれば思慮浅薄なる一部の人々を刺戟して、ここにもかしこにも不穏の計画を醸成し、不逞の兇漢を出すに至っては、実に文明国民の恥辱であり、かつ醜態であるのであります」
「元来、わが国民には、ややもすれば外国思想の影響を受けやすい分子があるのであります。ヨーロッパ戦争の後において『デモクラシー』の思想が旺盛になりまするというと、われもわれもと『デモクラシー』にはしる。その後欧州の一角において赤化思想がおこりまするというと、またこれにはしる者がある。
思想上において国民的独立の見識のないことはお互いに戒めねばならぬことであります(中略)左傾といい、右傾と称しまするが、進み行く道は違いまするけれども、帰するところは今日の国家組織を破壊せんとするものである。唯、一つは愛国の名によってこれを行い、他のひとつは無産大衆の名によってこれを行わんとしているのでありまして、その危険なることは同じであるのであります」
「いやしくも立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家のために公明正大なるところの政治上の争いをなすべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てる如きは、立憲政治家として許すべからざるところである。いわんや、政治圏外にあるところへの軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり堕落でありまた実に卑怯千万の振舞であるのである」
軍部への容赦ない批判は、読み手には痛快だが、周辺はどれほどヒヤヒヤもんだったか。また軍部のみならず政治家に対しても、またそれを輩出せしめた国民の側にも「言うべきことを言」って憚らない。なおこれらの演説が80年も前の歴史的遺物どころでなく、現在の政治状況や国民心理を肺臓から抉って余りある。むろんこれは党利党略とは無縁ばかりか、身命を賭して吐く言論なのである。
ところで今の国会では見慣れた風景だが、齋藤はかねて演説原稿というものを持ったことがないのだそうだ。演説の数日前に草稿を完成し、これを片手に庭を歩きながら暗誦するのだという。そして齋藤は、原稿と首っぴきの政治家を「なんたる醜態か、自分のものになっていないものをよく口にできるものだ」と軽蔑したのだそう。
「金なし」「風采なし」「演説ベタ」が齋藤の選挙につきまとう三大噺だったと草柳。加えて「親分なしの子分なし」だったとも。
にもかかわらず、選挙区における人気は抜群だったという。道路の修理や架橋の陳情に行くと「ワシは国政を論ずる代議士である。兵庫県の小さな利益のためにワシを使ってはならん」と追い返してしまったのだそうだ。これは対立候補の政友会側にしてみれば、「少しも地元の利益にならない代議士」として絶好の攻撃材料に使うところであるが、政友会にかぎらず候補者たちは齋藤のサの字も口にしなかった。なんらかの形で齋藤隆夫を攻撃すると、確実に票が減ったという。
しかも政友会の地盤から減ったというのだ。これを称して地元では「齋藤宗」といったそうだ。議員除名から翌々年に行われた翼賛選挙で、政府筋からのあらゆる選挙干渉にもめげず、齋藤はトップ当選で返り咲く。地元但馬の選挙民はいつしか、天下国家のために齋藤が働けるようにすることを至上の使命と自らに言い聞かせたのだろう。
最後にこれも齋藤を知る上で、重要なエピソード。敗戦を迎え、玉音放送も聞けぬままその翌日のこと、甥の古橋藤太夫から「アメリカは日本をどうするでしょうか」と尋ねられた齋藤は、「天皇は殺さないよ、統治に必要だからね。アメリカが破壊したいのは家族制度だよ。日本人が団結するとこわいから。それから教育にも手をつけるだろうね。なにしろアメリカは国内で日本占領の研究を積んでいるからね」と的確に答えている。
またその年、保守党再建のリーダーとして吉田茂とともに東奔西走している間にも「これからの政治家は共産主義を理解しておかねばならぬ」と言ってその関係の書物を買い込んできて、(草柳は「社会党綱領」「世界共産党の現勢」など14冊ほど列挙している)読破したのだそうだ。アメリカの占領政策のゆくえや共産主義の台頭を鋭く洞察している。国家国民に責任をもつ政治家なら誰しもそういう意識は人一倍だったろうが、焼け野原となり、自らの家屋も消失し、一家で疎開している状況の中でのことだ。
齋藤はなおも語っている。「国会議員に必要なのは、見識ですよ。代議士が大臣になりたい、幸せになりたいでは国が滅びますよ」と。
さて、翻って現下の政治状況である。アベノミクス解散による選挙戦は佳境に入るが、大手紙の調査によれば、与党が大勝と報じられている。無論このまま投票日までなだれ込むのか最後までわからない。ここにきて、与党はアナウンス効果による判官贔屓を警戒するとともに慢心への引き締めのため、対する野党は言うに事欠いて、それぞれ議員定数のバーゲンセール合戦である。
しかし読売の9日付社説が言うように、定数削減は「民意を反映しにくくなるうえ、立法府自らの機能低下につながる。中小政党が議員を出せない常任委員会などが増える恐れがある。その結果、行政への監視機能を十分に果たせなくなる」との指摘にはどう答えるのか。
齋藤は、敗戦と鈴木内閣総辞職、翌十六日東久邇稔彦王に大命降下の報に接し「意外なり。予期に反すれども如何ともなす能わず。茫然自失するのみ」と日記に書いている。齋藤がもし、かかる今現在のわが国の政治状況を見たなら、同じ言葉を繰り返さないだろうか。これがこんな古い本を引っ張り出してきて紹介する所以である。