旧暦の3月19日にはこんなことがありました。
延徳4年3月19日(ユリウス暦1492年4月15日)、小笠原民部長棟が生まれました。智勇に優れた人物で、天文2年(ユリウス暦1533年)高遠頼継、知久氏の軍勢を伊那谷に破ると、天文3年(ユリウス暦1534年)対立する伊奈(松尾)小笠原氏の当主小笠原貞忠を打倒し甲斐国に追放し、分裂していた小笠原氏を統一しました。また弟の信定を鈴岡城に入城させた。天文8年(ユリウス暦1539年)、敵対していた諏訪頼重と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げました。
明応8年3月19日(ユリウス暦1499年4月29日)、肥後守護・菊池能運が相良為続を八代城に攻めました。
天文2年3月19日(ユリウス暦1533年4月13日)、陶興房勢が筑前柑子岳城を攻めました。
天文17年3月19日(ユリウス暦1548年4月27日)、小豆沢にて織田信秀が今川方の大将・太原雪斎に敗れました。織田信秀は岡崎城を武力で攻略することをめざし、庶長子信広を先鋒とし4,000余の兵を率いて安祥城から矢作川を渡河して上和田に着陣。今川義元も松平氏救援のため約1万の兵を太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将として出陣させました。この日今川軍と織田軍先鋒の織田信広が接触し小豆坂で合戦となりました。はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢でしたが、信広隊も劣勢を悟って無理をせずに兵を信秀本隊のある盗木の付近まで下げ、本隊と合流して勢いを盛り返した織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった。ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなりました。(第2次小豆沢の戦い)
天文18年3月19日(ユリウス暦1549年4月16日)本多平八郎忠勝の父・本多平八郎忠高が安祥城にて討死しました。主君・松平広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めました。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに昼夜たがわず責め続けたがこの日、本多忠高が敵の矢に眉間を貫かれ討死しました。享年不詳。(第3次安祥合戦)
天文24年3月19日(ユリウス暦1555年4月10日)、伊達政宗の父が将軍義輝の偏諱を賜り、伊達輝宗を名乗りました。
永禄3年3月19日(ユリウス暦1560年4月14日)、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救うため、島津義弘が島津忠親の養子となって飫肥城に入りました。
永禄7年3月19日(ユリウス暦1564年4月29日)、筒井順慶の叔父で後見人の筒井順政が泉州堺で没しました。享年不詳。
天正2年3月19日(ユリウス暦1574年4月10日)、羽柴秀吉が北近江長浜城に移り、領内百姓の条規を定めて初めて織田信長麾下の城持ち大名となりました。
天正10年3月19日(ユリウス暦1582年4月11日)、穴山信君が信濃国上諏訪に於いて織田信長に謁しました。(織田信長の甲州征伐)
天正11年3月19日(ユリウス暦1583年4月30日)、羽柴秀吉が長浜城から木ノ本に移動し布陣しました。(賤ヶ岳の戦い)
天正18年3月19日(ユリウス暦1590年4月13日)、後北条氏征伐へ向かう豊臣秀吉が徳川家康居城の駿河国駿府城に到着しました。
慶長6年3月19日(グレゴリオ暦1601年4月21日)、岩崎城主、後に三河国伊保初代藩主の丹羽氏次が没しました。享年52歳とも53歳とも。小牧・長久手の戦いにて弟・氏重に岩崎城を守らせ自身は小牧に出陣しました。この時弟・氏重を池田恒興と鬼武蔵・森長可に討ち取られています。
慶長19年3月19日(グレゴリオ暦1614年4月27日)、小笠原流馬術の達人・小笠原貞経が没しました。享年72歳。
写真は島津義弘公の騎馬像でする✨