旧歴の4月16日にはこんなことがありました。


 永正5年4月16日(ユリウス暦1508年5月15日)、大内義興が前将軍・足利義晴を奉じて上洛を開始、これに対し細川高国は大内義興側に寝返り、摂津・丹波・伊賀の国衆と共に挙兵し、細川澄元が京から逃亡、同年4月10日(ユリウス暦5月9日)細川高国が入れ替わる形で入京すると、前将軍・足利義晴が入京してくることから、この日足利義澄が近江国朽木方面に逃亡しました。(細川京兆家の家督争奪戦)


 天正4年4月16日(ユリウス暦1576年5月14日)、甲斐恵林寺にて武田勝頼が武田信玄の葬儀を営みました。導師は快川紹喜。 


 天正11年4月16日(グレゴリオ暦1583年6月6日)、形だけの和議を結んでいた岐阜城の織田信孝が再挙兵したため、羽柴秀吉が岐阜城の織田信孝を攻めるため、在陣している近江国木ノ本から美濃国大垣へ向かいました。(賤ヶ岳の戦い前哨戦) 


 天正13年4月16日(グレゴリオ暦1585年5月15日)、織田信長家臣・丹羽長秀が病没しました。享年51歳。「米五郎佐」と言われ、天正元年9月朝倉攻めの後、若狭国を与えられ、家臣団の中では最初に国持ち大名になりました。死因は寄生虫が原因とされます。『秀吉譜』によれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったという。エイリアンみたいな寄生虫を想像しまする。


 天正17年4月16日(グレゴリオ暦1589年5月30日)、伊達政宗の母・義姫が伊達・大崎の両陣営に和睦を求め、伊達政宗と大崎義隆との和睦が成立しました。(大崎合戦) 


 文禄4年4月16日(グレゴリオ暦1595年5月25日)、豊臣秀長の婿養子で大和国郡山城主・羽柴秀保が吉野十津川で変死しました。享年16歳。公式的には病死、俗説では小姓に抱きつかれ十津川に転落死したとされます。 


 慶長10年4月16日(グレゴリオ暦1605年6月2日)、徳川秀忠が江戸幕府2代将軍に就任しました。


 慶長19年4月16日(グレゴリオ暦1614年5月24日)
方広寺大仏殿の鐘が鋳造されました。大坂冬の陣・夏の陣の原因にもなった鐘です。


 元和2年4月16日(グレゴリオ暦1616年5月31日)、武田信玄の四女・松姫が亡くなりました。享年56歳。織田信長の嫡男・信忠と婚約を結びましたが、信玄の西上作戦により婚約は破棄され、結婚には至りませんでした。油川夫人が母で兄の仁科盛信の高遠城にて暮らしていました。天正10年(1582年)織田・徳川連合軍による甲州征伐では、勝頼は新府城から天目山へ逃れに自刃し、武田一族は滅亡しましたが、仁科盛信により新府城へ逃がされた松姫は勝頼一行と別行動を取り、海島寺(山梨市)に滞在したのち、仁科盛信の娘・小督姫、武田勝頼の娘・貞姫、小山田信茂の養女・天光院殿、そして幼き仁科信基を連れ、相模との国境の案下峠(陣馬街道)を越えて、武蔵国多摩郡恩方へ向かい、金照庵八王子市上恩方町)に入る。この時に越えた峠が松姫峠と名付けられています。八王子では草庵を築いて近所の子供たちに読み書きを教えてました。また、武田一族の菩提を弔う為に信松院を開基しました。徳川家康との親交も厚く、姉の見性院と共に保科正之を育てています。

写真は八王子・信松院にある松姫様の坐像とご位牌でする✨