旧暦の3月20日にはこんなことがありました。

大永6年3月20日(ユリウス暦1526年5月1日)、大友方の戸次鑑連(後の立花道雪)が父の名代として家臣ら2000と共に出陣し金の指揮旗を振って奮戦、大内方の佐野弾正親基、間田豊前守重安ら5000が籠城する馬ヶ岳城を攻略しました。(立花道雪の初陣)

大永8年3月20日(ユリウス暦1528年4月9日)、島津氏が使僧を都於郡に派遣して伊東氏と会談、領土の境界を定めました。

天文7年3月20日(ユリウス暦1538年4月19日)、下間頼秀が近江国で殺害されました。享年不詳。畿内で本願寺と細川晴元が衝突、天文の錯乱で山科本願寺が焼け落ち、証如が石山本願寺に移ると畿内へ戻り、一揆を率いて細川軍と戦うが、天文4年(ユリウス暦1535年)11月に証如が細川晴元と和平を結ぶと、これに先立つ9月14日(ユリウス暦10月6日)に主戦派として失脚、頼盛と共に本願寺を退去しました。追放は周囲から不審の目で見られ、晴元の家臣木沢長政は証如に下間頼秀・頼盛兄弟の赦免を願い出ましたが却下され、天文6年5月9日(ユリウス暦1537年6月6日)に証如から生害指令が出されました。天文7年3月20日(ユリウス暦1538年4月19日)、近江で証如の刺客に暗殺されたものです。

天文12年3月20日(ユリウス暦1543年4月23日)、小田原の海岸に大亀が這い上がり、北条氏康はこれを吉祥と喜び松原明神で舞を奉納して一門衆と酒宴を催しました。すると北条氏康は翌年に河越にて古河公方・両上杉連合軍8万に8千の兵で大勝しました。(河越夜戦)

元亀2年3月20日(ユリウス暦1571年4月14日)、武田信玄が相模へ侵攻するとの風説が流れ、北条氏政が上杉謙信に派兵を求めました。単なる風説でありこの時武田信玄は三河・東美濃方面へ進軍しています。

天正3年3月20日(ユリウス暦1575年4月30日)、織田信長が京都相国寺に於いて今川氏真と公家衆の蹴鞠を見物しました。蹴鞠の会に参加した公家衆は三条西実枝父子・高倉永相父子・飛鳥井雅教父子・広橋兼勝・五辻為仲・庭田重保・烏丸光康。

天正10年3月10日(ユリウス暦1582年4月12日)、織田信長が信濃国上諏訪に於いて木曾義昌・穴山信君・小笠原信嶺らに謁しました。

天正13年3月20日(ユリウス暦1585年4月9日)、羽柴秀長が2万余騎を率いて紀伊国根来坂本で根来衆・雑賀太田左近・粉河三池法印らと激突しました。

天正13年3月20日(ユリウス暦1585年4月9日)、伊達政宗が従五位美作守に叙任されました。

慶長9年3月20日(グレゴリオ暦1604年4月19日)、黒田官兵衛孝高が京都伏見藩邸で没す。享年59歳。黒田職隆の嫡男として播磨国に生まれ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国三英傑に仕えました。羽柴秀吉を天下人に押し上げた名参謀であり、キリシタンでもありました。

元和9年3月20日(グレゴリオ暦1623年4月19日)、上杉景勝が米沢城にて薨去しました。享年69歳。上田長尾家出身で、長尾政景の次男として生まれ、同じ上田長尾家出身の実子の無い叔父・上杉謙信の養子となり謙信死後、御館の乱を経て上杉家の当主となりました。豊臣秀吉に仕え五大老の一人となり会津120万石を領しましたが、関ヶ原の合戦にて敗戦し、米沢30万石に減封となりました。家督は嫡男・定勝が継ぎ米沢上杉家は幕末まで残りました。

写真は黒田官兵衛の茶碗の兜でする✨