旧暦の4月10日にはこんなことがありました。



永正5年4月10日(ユリウス暦1508年5月9日)、細川高国が仁木高長、伊丹元扶、内藤貞正、河内国の畠山尚順と呼応して細川澄元討つ為に4月9日に挙兵すると、敗れた細川澄元・三好之長は将軍足利義澄と共に山中為俊を頼り近江国甲賀へ逃れました。この日細川澄元に入れ替わり細川高国が入京しました。



天文11年4月10日(ユリウス暦1542年5月24日)、大永6年(ユリウス暦1526年)に里見義豊との合戦で焼けた鶴岡八幡宮で、北条氏康がこの日、由比ヶ浜大鳥居を造営しました。



永禄3年4月10日(ユリウス暦1560年5月5日)、播磨国姫路にて後藤又兵衛基次が後藤基国の次男として生まれました。後に黒田二十四騎、黒田八虎に数えられた猛将です。又兵衛が生まれた後藤家は鎌倉時代から播磨国に本拠を置く名門であり、初めは三木城の別所氏に仕え、後に御着城主の小寺政職に仕えました。この頃に又兵衛の父・基国が亡くなったらしく、又兵衛は黒田官兵衛孝高に養育されました。ところが又兵衛の伯父の藤岡九兵衛が黒田官兵衛に謀反を起こし、官兵衛は九兵衛と又兵衛を追放処分としました。その後、又兵衛は仙石秀久の元で過ごしたとされます。その後官兵衛は又兵衛を呼び戻し、家臣の栗山利安に預け知行100石としたとされます。黒田家に復帰してからは数多の戦で活躍しましたが、黒田官兵衛死後、息子の黒田長政と反りが合わずに出奔しました。長政は余程悔しかったのか「奉公構」とし、他家で又兵衛を召し抱えられないようにしました。その後又兵衛は大坂の陣にて大坂城に入りました。詳しくは下記を、


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1



天正6年4月10日(ユリウス暦1577年5月16日)、織田信長が、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀の三人を丹波へ出陣させ、荒木氏綱の園部城を包囲し、取水路を断って攻めました。荒木氏綱は降参して退城し信長は明智光秀の軍勢を入城させました。(信長公記)



天正8年4月10日(ユリウス暦1580年5月23日)、石山本願寺を退去した本願寺顕如光佐が紀伊国鷺森へ到着しました。



天正9年4月10日(ユリウス暦1581年5月12日)、織田信長が、お小姓衆五、六人を従えて、竹生島に参詣。帰城すると女房衆が遊び呆けていたので、これを成敗しました。

(信長公記)



天正10年4月10日(ユリウス暦1582年5月2日)、織田信長が甲斐国甲府を出発し甲斐国右左口峠に御成しました。また、恭順した甲斐国の穴山信君へ 甲斐国「本地」を安堵し、甲斐国を宛行った河尻秀隆への知行分と「入組」地の件は河尻秀隆・穴山信君双方の「年寄」が合議の上で交換し、境界を設定して領知すべきことを通達しました。(吉多助五郎氏所蔵文書)



天正13年4月10日(グレゴリオ暦1585年5月9日)、高野山の木食応其上人が老僧を伴って石田三成を介して陣中の羽柴秀吉に対面し、「無条件受諾、一山他事なき由」と発して高野山の降伏を秀吉に伝えました。(秀吉の雑賀攻め)


木喰応其については下記を、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F%E5%BF%9C%E5%85%B6



天正15年4月10日(グレゴリオ暦1587年5月17日)、九州攻めに出陣した豊臣秀吉が筑前高良山に着陣しました。(秀吉の九州平定)



天正16年4月10日(グレゴリオ暦158年4月10日)、上杉景勝が参議・従四位下に昇進しました。(公卿補任)



天正16年4月10日(グレゴリオ暦1588年4月10日)、毛利輝元が参議・従四位下に昇進しました。(公卿補任)



写真は後藤又兵衛所用の兜でする✨