旧暦の3月18日にはこんなことがありました。

弘治2年3月18日(ユリウス暦1556年4月27日)、毛利元就が尼子氏討伐のため吉川元春ら石見に出陣させ、石見大森銀山を入手しました。

永禄3年3月18日(ユリウス暦1560年4月13日)、徳川家康に亀姫が生まれました。。母は築山御前、松平信康の同母妹です。長篠の合戦に先立ち長篠城の奥平信昌を味方に付けるため、織田信長と徳川家康との相談の上で奥平信昌に嫁ぎました。これにより徳川家にとって外様であった奥平信昌は譜代となりました。亀姫は後に奥平家が美濃加納に封じられたことから加納御前と呼ばれました。

永禄5年3月18日(ユリウス暦1562年4月21日)、六角義賢が洛中洛外に徳政令を発しました。(蜷川家文書)

永禄7年3月18日(ユリウス暦1564年4月28日)、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏勢を上杉謙信が撃破している隙を突いて、野尻湖のそばにある信濃野尻城を武田方が攻め落城させました。(武田信玄の信濃侵攻)

永禄12年3月18日(ユリウス暦1569年4月4日)、菱刈隆秋が島津氏に違約して蒲生越中守を討ち、島津義虎の大隅羽月城を攻める。

永禄12年3月18日(ユリウス暦1569年4月4日)、毛利元就が使者を将軍義昭に派遣し、大友宗麟との講和を受け入れました。

元亀4年3月18日(ユリウス暦1573年4月19日)、朝倉義景が多湖宗右衛門尉に近江十乗坊への赴援を依頼し、自身の出陣を約しました。

元亀4年3月18日(ユリウス暦1573年4月19日)、後に江戸幕府大老となる土井利勝が生まれました。父は水野信元ですが、徳川家康の落胤説もあります。

天正7年3月18日(ユリウス暦1579年4月13日)、御館の乱にて上杉景虎に付いた上杉憲政が上杉景勝により討ち取られました。享年57歳。

天正9年3月18日(ユリウス暦1581年4年21日)、吉川経家が山名豊国の逃げた鳥取城に救援のため派遣され入城しました。山陰攻めで羽柴秀吉が鳥取城を囲み、山名家重臣の中村春続、森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、山名豊国は単身で秀吉の陣中に赴き家臣団の助命を条件に降伏しました。しかし、その家臣団が主君である山名豊国を追放して毛利家の吉川元春に城主の派遣を要請、家臣の牛尾元貞を派遣するが、戦闘で負傷したために吉川経家が派遣されました。(鳥取城の戦い)

天正15年3月18日(ユリウス暦1587年4月15日)、徳川家康が上田の真田昌幸と松本の小笠原貞慶を駿府城に呼び会談しました。これにより真田昌幸は豊臣秀吉との面会に上京することとなりました。

写真は吉川経家公の像と鳥取城でする✨