旧歴の4月15日にはこんなことがありました。 


 大永3年4月15日(ユリウス暦1523年5月29日)、毛利元就が青屋出羽入道友梅の青屋城を攻めるべく吉田郡山城を発しました。この当時はまだ毛利元就は毛利家当主では無く、甥の幸松丸の後見人でした。後見人の筆頭である外祖父・高橋久光が青屋出羽入道友梅に討ち取られたため、弔い合戦を行ったものです。 


 天文14年4月15日(ユリウス暦1545年5月25日)、高遠頼継討伐の武田晴信が六千の兵を率いて杖突街道の杖突峠に布陣しました。


 弘治3年4月15日(ユリウス暦1557年5月13日)、島津貴久が蒲生範清の大隅北村境の矢筈城を攻めました。この戦で島津義弘は5本の弓矢を受けて重傷を負うが、激戦の末に島津が勝利し、蒲生範清は降伏、蒲生救援の菱刈左馬権頭は自刃。またこの戦は日本史上初めて双方が鉄砲を用いた戦でした。(島津貴久の三州統一)


 永禄元年4月15日(ユリウス暦1558年5月3日)、島津貴久が蒲生範清方の菱刈隆秋を大隅北村に破りました。ちょうど一年前から交戦していた蒲生範清に大隅大口・馬越等の諸城に拠る菱刈隆秋が応援として来たために戦に及んだものです。(島津貴久の三州統一) 


 永禄元年4月15日(ユリウス暦1558年5月3日)、古河公方足利義氏が鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣しました。歴代の古河公方の中では足利義氏だけが鶴岡八幡宮を参詣しました。 


 永禄4年4月15日(ユリウス暦1561年5月28日)、奥三河の菅沼一族が今川氏に背き、松平元康の傘下に入りました。菅沼氏はその時々で従属する勢力を選んで来ましたが、この時は今川から力を付けてきた松平の傘下に入りました。後に多くの菅沼氏が武田に従属しますが、野田城主・菅沼定盈は徳川家康に従属し続けました。 


 永禄6年4月15日(ユリウス暦1563年5月28日)、上杉謙信が、離反した唐沢山城の佐野昌綱と祇園城の小山秀綱を攻めました。永禄6年(1563年)2月、北条氏康は信玄の援軍を得て、上杉方の武蔵における最重要拠点・松山城を攻撃、これを陥落せしめた。上杉謙信は越中から急遽越後へ引き返し、雪に埋もれた三国峠を越えて関東へ戻り救援に向かっていたが、間に合わなかった。関東を留守にしている間、他の関東の多くの城も北条方に寝返っていたため、謙信はこれらを次々に攻め寄せて降伏・開城させていった。この謙信の勢いの前に、佐野昌綱はあえなく降伏し、唐沢山城は開城。謙信がこの年の冬から翌年の春に至る関東出兵で降伏・開城させた城は、武蔵の騎西城・忍城、下野の唐沢山城・祇園城、下総の古河城・結城城、常陸の小田城など多数に上りました。 


 永禄11年4月15日(ユリウス暦1568年5月11日)、足利義秋が越前一乗谷城に於いて元服、義昭と改名しました。(言継卿記、朝倉記) 


 永禄11年4月15日(ユリウス暦1568年5月11日)、伏見宮家八代の伏見宮貞康親王が没しました。享年22歳。 


 永禄12年4月15日(ユリウス暦1569年5月1日)、毛利元就・吉川元春・小早川隆景が四万の大軍を率いて大友方の筑前立花城を攻め、戸次鑑連らが防戦しました。 


 永禄12年4月15日(ユリウス暦1569年5月1日)、織田信長が摂津国入江城と山城国普賢寺谷城を攻略しました。(多聞院日記2) 


 元亀2年4月15日(ユリウス暦1571年5月8日)、武田軍「御先衆」が三河国足助城を攻略しました。(孕石文書) 


 天正8年4月15日(ユリウス暦1580年5月28日)、本願寺顕如が美濃国某と能登国坊主衆中・門徒中へ織田信長との和平は正親町天皇からの命令であり、協議の結果大坂退出となったことを伝え、諸国門徒は遠近を問わず難路を越えて開山聖人御座所に参詣することこそが報謝であり、信心を行い阿弥陀如来へ帰依すれば極楽往生できることを通達しました。(明淳寺文書、法融寺文書)


 天正10年4月15日(ユリウス暦1582年5月7日)、織田信長が細川藤孝に通達。遠江掛川に至った信長は丹後宮津城の細川藤孝に、武田討伐が早々に落着したことに我ながら驚いたこと、東国は余すところなく制圧したこと、近々安土城に帰還したら詳細を知らせると伝えました。 


 天正17年4月15日(グレゴリオ暦1589年5月29日)、毛利輝元が広島城の築城に着手、鍬入れを行いました。普請奉行には、穂井田元清(毛利元就四男)と二宮就辰(毛利元就の庶子)が担当し、黒田如水が縄張りを行いました。

写真は鶴岡八幡宮でする✨