普通人の映画体験―虚心な出会い -20ページ目

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2018年12月10日(月)ポレポレ東中野(東京都中野区東中野4-4-1 ポレポレ坐ビル地下、JR東中野駅西口北側出口より徒歩1分)で、14:50~鑑賞。

「スパイネーション/自白」

作品データ :
原題 자백
英題 SPY NATION
製作年 2016年
製作国 韓国
配給 東風
上映時間 106分

韓国公開 2016年10月13日
日本公開 2018年12月1日

韓国・国家情報院による〈北朝鮮スパイ捏造事件〉の真相を暴いた韓国製ドキュメンタリー。ソウル市の公務員が北朝鮮のスパイとして逮捕されたことに違和感を覚えた非営利独立メディア「ニュース打破」が、真相を追求する。韓国の放送局MBCを解雇された後に、「ニュース打破」でディレクターを担当したチェ・スンホが監督を務める。

ストーリー :
2013年1月、華僑の脱北者でソウル市の公務員だったユ・ウソン(2004年に脱北→延世大学卒業後2007年に公務員になる)が“北朝鮮のスパイ”として逮捕された。だが、国家情報院が提示した明白な証拠は、彼の妹ユ・ガリョの「自白」証言だけ…。北側の国の脅威と闘ってきた、韓国の心臓部ともいえる国家機関による逮捕劇に疑念を抱いたチェ・スンホ監督は、自身が立ち上げた新メディア「ニュース打破」取材班と共に動き出す。取材を進めていくと、国家情報院の協力者が証拠書類の捏造を暴露する遺書を残して自殺を図る。2015年10月、ユ・ウソンは最高裁判所より「無罪」宣告を受ける。しかし、スパイ捏造事件はこれだけではなかった。韓国、中国、日本、タイをめぐる長期の粘り強い追跡取材の末、映画は40年間途切れることなく続いてきた国家権力の中枢によるスパイ捏造の深い闇へと切り込んでいく…。

▼予告編

2018年12月10日(月)ポレポレ東中野(東京都中野区東中野4-4-1 ポレポレ坐ビル地下、JR東中野駅西口北側出口より徒歩1分)で、12:20~鑑賞。

「共犯者たち」

作品データ :
原題 공범자들
英題 CRIMINAL CONSPIRACY
製作年 2017年
製作国 韓国
配給 東風
上映時間 105分

韓国公開 2017年8月17日
日本公開 2018年12月1日

イ・ミョンバク(李明博)とパク・クネ(朴槿恵)政権の約9年にわたる言論弾圧の実態を告発した韓国製ドキュメンタリー。監督は韓国のジャーナリスト、チェ・スンホ(崔承浩、1961~)。チェ・スンホは公営放送局MBCの名物ジャーナリストだったが、イ・ミョンバク政権によって2012年にMBCを不当解雇されたのち、非営利オルタナティブメディア「ニュース打破」で調査報道を続け、『スパイネーション/自白』と本作を発表。2017年9月に始まった経営首脳退陣を求めるMBC労組の長期ストライキ闘争終結後、同年12月、MBC社長に選任された。

ストーリー :
2008年、“米国産牛肉BSE問題”などの報道により国民の支持を失いかけたイ・ミョンバク政権は、メディアへの露骨な介入を始める。狙われたのは、公共放送局KBSと公営放送局MBC。政権に批判的な経営陣は排除され、調査報道チームは解散、記者たちは非制作部門へと追いやられた。両局の労働組合はストライキで対抗したものの、政権が送り込んだ新たな経営陣は解雇をはじめ懲戒処分を濫発、検察も容赦なくストを弾圧。その結果、政府発表を報じるだけの「広報機関」に成り下がった両局は、〈セウォル号惨事〉【2014年4月16日、仁川から済州島へ向かった旅客船セウォル号が転覆・沈没し、修学旅行中の生徒らを含む299人が死亡、5人が行方不明となった大惨事】で「全員救助」の大誤報を流し、〈崔順実(チェ・スンシル)ゲート事件〉【パク・クネ大統領の親友で民間人のチェ・スンシルが国政に介入した「国家の私物化」事件】の隠蔽に加担することになった…。しかし、それでも諦めない本物のジャーナリストたちがいた。局内に残った記者たちは、メディアの存在意義をかけて、さらに激しいストライキに突入。一方、不当解雇されたチェ・スンホ監督たちは、市民の支援で立ち上げた独立メディア「ニュース打破」で調査報道を継続。言論弾圧の「主犯」である大統領と、権力に迎合してメディアの腐敗をもたらした放送業界内の「共犯者たち」をカメラの前に立たせ、その実態と構造を明らかにしていく…。

▼予告編

2018年12月7日(金)吉祥寺オデヲン(東京都武蔵野市吉祥寺南町2-3-16、JR吉祥寺駅東口徒歩1分)で、13:55~鑑賞。

「くるみ割り人形と秘密の王国」

作品データ :
原題 THE NUTCRACKER AND THE FOUR REALMS
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 ディズニー
上映時間 100分


E.T.A. ホフマン(1776~1822)のメルヘン『くるみ割り人形とねずみの王様』(1816年)を基に、ピョートル・チャイコフスキー(1840~93)が音楽を手がけたバレエの名作「くるみ割り人形」(1891年)として知られる幻想的な物語を、ディズニーが実写映画化したファンタジー。監督は『ギルバート・グレイプ』のラッセ・ハルストレムと、『ジュマンジ』のジョー・ジョンストンが務め、くるみ割り人形に導かれて不思議な世界に迷い込んだヒロイン、クララの大冒険を圧倒的な映像美とともに描き出す。主演は『インターステラー』のマッケンジー・フォイ。キーラ・ナイトレイ、モーガン・フリーマン、ヘレン・ミレンら豪華キャストが脇を固める。さらにバレエ界からも、ミスティ・コープランドやセルゲイ・ポルーニンといったトップダンサーたちが参加した。

ストーリー :
14歳の少女クララ(マッケンジー・フォイ)は愛する母を亡くして以来、心を閉ざしていた。クリスマス・イブ、クララは鍵のかかった卵形の箱をもらう。そこには「あなたに必要なものは、すべてこの中にある」との母からのメッセージが添えられていた。しかし、鍵が見当たらず、箱を開けることができず…。母の遺した言葉の意味を知るために、クララは鍵を探し始める。その晩、名付け親であるドロッセルマイヤー(モーガン・フリーマン)のクリスマス・パーティーに行ったクララは、彼からのプレゼントを受け取る糸をたどるゲームに参加すると、いつの間にか不思議な世界へ足を踏み入れてしまう。鍵を探すクララは、息を呑むほど美しくて幻想的な世界へ迷い込む。それは、色とりどりの花と緑で覆われた“花の国”、キャンディやマシュマロでできた“お菓子の国”、雪と氷がクリスタルのように輝く“雪の国”、そして謎の多い“第4の国”からなる秘密の王国だった。そこでプリンセスと呼ばれて戸惑うクララだったが、この世界を創り上げたのが亡き母であったことを知る。しかし、第4の国を支配するマザー・ジンジャー(ヘレン・ミレン)が反乱を起こし、王国は存亡の危機に瀕していた。母が愛した王国を救うため、クララは心優しいくるみ割り人形のフィリップ(ジェイデン・フォーラ=ナイト)とともに、第4の国に旅立つ。それは、この美しい世界に隠された真実を探す旅の始まりでもあった…。

▼予告編

2018年12月4日(火)ヒューマントラストシネマ有楽町(東京都千代田区有楽町2-7-1 有楽町イトシア・イトシアプラザ4F、アクセス:JR山手線・有楽町駅中央口から徒歩1分)で、17:40~ 鑑賞。

A GHOST STORY

作品データ :
原題 A GHOST STORY
製作年 2017年
製作国 アメリカ
配給 パルコ
上映時間 92分


『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケイシー・アフレックと『キャロル』のルーニー・マーラの共演で、事故死した男が幽霊となって残された妻を見守る切ない姿を描いたファンタジー・ドラマ。アフレックが白いシーツ姿の幽霊となってさまよい続ける夫役を、マーラがその妻役を演じる。デヴィッド・ロウリー監督がメガホンを取り、『セインツ 約束の果て』(2013年)の監督&主演コンビが再結集した。

ストーリー :
アメリカ・テキサスの郊外。若い夫婦のC(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラ)は、田舎町の小さな一軒家で幸せな日々を送っていたが、ある日突然、夫Cが自動車事故に遭い、突然の死を迎える。妻Aは病院でCの遺体と対面し、その亡骸にシーツを被せると、悲しみをこらえてその場を後にする。しかし、亡くなったはずのCは、シーツを被ったまま静かに起き上がると、そのまま妻のいる自宅へと戻ってきてしまう。Mは幽霊となったCの存在に気付かないが、Cは悲しみに暮れるMを見守り続けた。やがてMは前に進むため、ある決断をし、Cは妻の残した最後の想いを求め、彷徨い始める…。

▼予告編

2018年12月4日(火)ヒューマントラストシネマ有楽町(東京都千代田区有楽町2-7-1 有楽町イトシア・イトシアプラザ4F、アクセス:JR山手線・有楽町駅中央口から徒歩1分)で、15:25~ 鑑賞。

「おかえり、ブルゴーニュへ」

作品データ :
原題 CE QUI NOUS LIE(「私たちを結ぶもの」)
英題 BACK TO BURGUNDY
製作年 2017年
製作国 フランス
配給 キノフィルムズ/木下グループ
上映時間 113分


CE QUI NOUS LIE

『猫が行方不明』『スパニッシュ・アパートメント』のセドリック・クラピッシュ監督がフランス・ブルゴーニュを舞台に、ワイン醸造家の父の死をきっかけに10年ぶりに再会した3兄妹の悲喜こもごもを、四季の移ろいとともに描いたヒューマンドラマ。出演は、『間奏曲はパリで』のピオ・マルマイ、『FOUJITA』のアナ・ジラルド、『FRANK フランク』のフランソワ・シビル。

ストーリー :
フランス・ブルゴーニュにあるドメーヌ(ワイン生産者)の長男ジャン(ピオ・マルマイ)は、10年前、世界を旅するために故郷を飛び出し、家族のもとを去った。その間、家族とは音信不通だったが、父親が末期の状態であることを知り、10年ぶりに帰郷する。 家業を受け継ぐ妹のジュリエット(アナ・ジラルド)と、別のドメーヌの婿養子となった弟のジェレミー(フランソワ・シビル)との久々の再会も束の間、父親は亡くなってしまう。残されたブドウ畑や自宅の相続をめぐって様々な課題が出てくるなか、父親が亡くなってから初めてのブドウの収穫時期を迎える。 3人は自分たちなりのワインを作り出そうと協力しあうが、ジャンは離婚問題を抱え、ジュリエットは醸造家としての働き方に悩み、ジェレミーは義父との問題に揺れながら、それぞれが互いに打ち明けられないでいた……。

▼予告編



▼冒頭映像-私を限りなく惹きつけてやまないシーン :


(窓が切り取る少年の顔。毎朝、目の前に世界が真新しく広がっていた、全てが変わり続けていく、日々は更新されていくものだと疑いもなくポジティブに思い込めたその頃。…やがて青年となった窓辺の僕はもう、毎日の新しさを無邪気に確信したりはしえないのだと気づいてしまっている。それでも、窓外に広がるブドウ畑のその向こうに、何かがあるのではと、ここでないどこかを夢見て僕/ジャンは旅立った。…そうして10年。世界は見た。が、到底、見切れるものではないと苦い覚醒と諦めを抱いてジャンは、かつてそこから逃げ出したもの~ブルゴーニュの土地と自然、家業のワイン造り、父の影、家族~の下へ舞い戻る―。)

◆セドリック・クラピッシュ(Cédric Klapisch、1961~)監督のインタビュー(「都市生活者を描き続けた監督がワイン農家を撮った理由」)(webDICE-骰子の眼 2018-11-16) :
──あなたの映画には家族が頻繁に登場します。一方、この映画であなたは初めて自然を撮影しました。
ブドウ園の真ん中で撮影するなんて、本当に不思議な気持ちです。私は、都会が舞台ではない映画を作ったことがないということに、そこに行くまで気づきませんでした。『おかえり、ブルゴーニュへ』以前は、街路や建物の中にいる人々だけを撮影してきました。それが、パリでも、ロンドンでも、サンクトペテルブルクでも、バルセロナでも、ニューヨークでも、私は同じ映画を作ってきたのです。そのたびに、私はその街とそこに住む人々の心理状態の関係を掘り下げてきました。でも、11本の映画を撮ったあと、私は変化が必要だと感じました。何かほかのものを見たい。そして自然に目を向けたのです。
そして、私は田舎や海に行かずにパリで1年間過ごすことができなくなりました。いままで一度も撮影したことのないものを撮影しなければと感じていたのです。この自然を求める気持ちはどんどん強くなっています。年齢に関係しているのかどうかはわかりませんが、確かに、私が最近感じている社会的変化に関係していると思います。
都市生活者と農業と食物の関係は変化しています。一時的な流行だけではありません。都会に住む人々にとってそれはとても重要なものになってきました。都会と田舎の境目がなくなってきたのです。ドキュメンタリー『Tomorrow』(15)※はこの問題を雄弁に語っています。
※(引用者註)『Tomorrow パーマネントライフを探して』(原題:Demain/監督・出演:メラニー・ロラン、シリル・ディオン/2015年/フランス/120分)
映画の中で私たちは、仮想世界に住んでいます。その世界が、物事の関係を正常な状態に戻したいと私たちに思わせてくれる。間違いなく、仮想現実と現実の間にある距離感によって、私たちはフラストレーションを募らせるのです。一方、料理法とワインという領域を描くのは初めてなので、私は、もっと直接的に、基本に戻ろうと考えました。

──キャラクターの関係は?どうして兄弟妹に焦点を当てることになったのですか?
2010年の初めに、ロマン・デュリス(Romain Duris、1974~)と話し合ったアイデアについて考えていました。70歳の父親と40歳の息子の物語です。でもこのテーマに取り掛かろうとした時、それをもっと子供時代に近づけたいと思うようになったのです。大人になっていく過程を語りたいと。そこで自動的にキャラクターたちの年齢を下げました。そして、兄弟2人と妹1人というアイデアに行き着いたのです。私自身の家族構成を反対にしたのかも。私には姉妹が2人いて、私が唯一の息子だったからです。この兄弟妹を演じる、私がフィルムに収めたいと思う俳優を探しました。ピオ・マルマイ(Pio Marmaï 、1984~)に会って、この役にピッタリだと思いました。それに彼は理想的な年齢でした。フランソワ・シビル(François Civil 、1989~)とは、TVシリーズ「Call My Agent!」(15~)で仕事をしたばかりでした。ピオとフランソワは真実味のある兄弟になると確信しました。
そこから、彼らと組む女優を探しました。正直言うと、すでに私の心にはアナ・ジラルド(Ana Girardot 、1988~)がいましたが、正しい選択をするために、たくさんのほかの女優とも面接しました。男くさい2人の兄弟の間で生き残る能力がある女性が必要でした!そういう意味で、アナは最高でした。そして私は望み通りの3人の俳優を見つけたのです。3人が兄弟妹のようになっていくのを見るのは最高でした。素晴らしかった。ある時は、彼らが映画の主導権を握りました。最初は、ピオ・マルマイ演じるジャンの物語が強かったけれど、四季が進むにつれて、サンティアゴ(Santiago Amigorena、1962~)と脚本を書き直し、この兄弟妹の物語になりました。彼らはその素晴らしい関係によってこの映画を虜にしました。サンティアゴと私は目の前で繰り広げられる出来事の語り手になりました。物語を構築しながら、私たちは時間を織り込んでいったのです。

──あなたは、特に父親の重要性を示し、“可能性”=“不確実性”を連想させています。この作品でも父親をフラッシュバックに登場させています。『家族の気分』(96)の父親のキャラクターに似ていますね。
確かに家族についての物語なので、『家族の気分』に共鳴するところはあります。私たちが『おかえり、ブルゴーニュへ』を書き始めた時、サンティアゴが「キャラクターの子供時代を見せることが重要だ」と言っていたのを思い出しますが、私はすぐに同意しました。
そして突然、エリック・カラヴァカ(Éric Caravaca 、1966~)演じる父親のキャラクターが生まれました。この映画のエリックは素晴らしい。エリックを使おうと思ったのは、サンティアゴの映画『Les Enfants Rouges』(14)のナレーションを務めていた彼の声にしびれたからです。『おかえり、ブルゴーニュへ』では、父親の声にその存在感をもたせるためには、エリック・カラヴァカの声でなくてはならなかった。でもあなたの言う通り、この映画では、父と息子の関係について率直に語ることが重要でした。加えて、私は年齢を重ねれば重ねるほど、人は父親との関係に失敗したという気持ちを抱くのではないかと思うようになりました。母親は、概してもっと、あるいは有り余るほどの存在感があります。父親から受ける不在という感覚、あるいは隔たりという感覚を、自分が父親になった時に思い出すのです。

──年齢を重ねると映画製作は良くなると思いますか?それは自分に当てはまりますか?
ご存知のように、全部ではない。これもまた、ワインと同じです(笑)。熟成して良いものもあれば、良くないものもある。
とにかく、年齢を重ねて良くなっている監督は実際にいます。『わたしは、ダニエル・ブレイク』(16)のケン・ローチ監督がそうだと思います。ジョン・ヒューストン、黒沢明、ヒッチコックといった監督たちも時間とともに良くなっていった。でもうまく年を取らなかった監督もいるのです。
私に関しては、今の私より10年後のほうが良くなっているかどうかはわからない。自分の映画の中で、いちばんうまくいったのは『青春シンドローム』(94)だと思います。私の初期の作品です。とはいえ、不思議な話ですが、私はそこから“進歩”してきたと思っています。当時よりも今の方がより良い監督になったと思っています。でもそれは、私がより良い映画を作っているということではありません。私にとってそれは、映画製作の偉大なる謎なのです。
人は熟練とノウハウを得るために必死で仕事をします。でもそれが良い映画を作る保証にはならないのです。私は成功する映画は、自分の知らないところで起こると考えています。それは経験や熟練を超えている。これに気づくことで私は自発性を培いました。私は、願望や直感を優先させて映画を作らねばならないと思います。毎回、その直感が私を作品に押し込み、1~2年を私から奪っていきます。毎回、私は歩み始めるけれど、自分がどこに向かっているのかわからない。その浮かんでいる感覚が大切なのです。自信があるから、必ずしも正しい道を行っていることにはならない。
かなりあとになって、自分が良い映画を作ったのか、そうでないのかがわかります。前もって知ることはできないのです。ワインを例にとると、去年通りにやれば、上手に熟成するとは限らない。微妙な事柄や悪天候を考慮に入れながら、喜んで今を受け入れることが必要なのです。どうなるのか、どこに隠れているのかわからなくても、集中して探し続けることです。強烈を求めて急いで物事をしようとするかもしれない。でも辛抱強さが必要です。強烈さを求めながら、辛抱強くなることです。

■私感 :
心温まる、いい映画と出会った!
家と家族と土地と人の“命のめぐり”を讃える、滋味豊かな作品だ。決してべたつかず、毒々しくなく、そこにはありふれた、おのが日常にそっと寄り添う優しさがある。
本作はセドリック・クラピッシュによる『スパニッシュ・アパートメント』(2001年)、『ロシアン・ドールズ』(2005年)、『ニューヨークの巴里夫』(2013年)の “青春三部作”から、4年ぶりの長編最新作である。これまでパリ、ロンドン、バルセロナ、ニューヨークなど街路や建物ばかりの都会を撮り続けてきた現代フランスを代表する人気監督のクラピッシュだが、自身のキャリア12作目の本作で初めて、田舎を舞台に自然撮影に挑み、四季折々の美しいブドウ畑を映し出した。
クラピッシュは今回、ワインの名産地ブルゴーニュに腰を据えて、移ろう季節や自然~見渡す限りのブドウ畑、遮るもののない突き抜けた空、風にそよぐ木々~はもとより、そこでの人間模様~家族、きょうだい、父と子の四季のようにめぐる命と心模様~に、どこまでも温かな慈しみの眼差しを注いでいる―。
首尾の整った見事な作品だった。私好みの、嫋々たる余韻を残す作品だった。
2018年12月4日(火)ヒューマントラストシネマ有楽町(東京都千代田区有楽町2-7-1 有楽町イトシア・イトシアプラザ4F、アクセス:JR山手線・有楽町駅中央口から徒歩1分)で、13:00~ 鑑賞。

「恐怖の報酬」

作品データ :
原題 SORCERER
[謎めいた原題“SORCERER”は、フリードキン監督がジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィス(Miles Davis、1926~91)のアルバム・タイトル「ソーサラー」(1967年/「魔術師」の意)からヒントを得て命名された。なお、本編中の、カッセムとマンゾンが乗るトラックの側面にそのフランス語SORCIERという言葉が記されている。また、ニーロとスキャロンのトラックのボンネットにはLAZARO(ラザロ:死から蘇生したキリストの友人の名)と記されている。]
製作年 1977年
製作国 アメリカ
配給 コピアポア・フィルム
上映時間 121分


『フレンチ・コネクション』(1971年)でアカデミー作品賞・監督賞ほか5部門受賞、『エクソシスト』(1973年)で全世界にオカルト・ブームを巻き起こしたウィリアム・フリードキン(William Friedkin、1935~)が、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による1953年の傑作フランス映画『恐怖の報酬(Le Salaire de la peur)』をハリウッドでリメイクしたサスペンス大作。ユニバーサルとパラマウントという2大メジャー・スタジオが、当時破格の2000万ドル(現在の100億円相当)以上といわれる製作費を共同出資。ロケは北米・南米・ヨーロッパの3大陸、アメリカ・フランス・イスラエル・メキシコ・ドミニカ共和国の5か国に及び、2年を超える製作期間を費やしてようやく完成した。だが、1977年6月の全米初公開時、批評が賛否に分かれたこと以上に、歴史的大ヒットを続けていた『スター・ウォーズ』の直撃を受け、興行的に失敗。北米以外の国(日本も含む)では、フリードキン監督に無断で本編121分が大幅にカットされた92分の【短縮版】(『Wages of Fear 』と改題)が公開され(日本公開:1978年3月25日)、まともに評価されることもなく公開は終了。以後、日本では数回の【短縮版】TV放送、1991年のセル・ビデオ(北米公開121分版)発売を最後に一切見ることが不可能になっていた。出資した2大スタジオが互いに興行失敗の責任を回避し、作品の権利を積極的に主張しなかったことによって、世界的に過去数十年間にわたって上映できない状況が続き、北米以外ではDVDも発売されなかった。日本では、熱狂的なファンが再公開やDVD化のリクエストの声を上げるも実現せず、オリジナル版を見ることは半ば絶望視されていた。しかし2013年、フリードキン監督は複雑極まりない権利問題を解きほぐし、自ら指揮を執って121分【オリジナル完全版】の5.1ch、4Kデジタル・リマスター化に着手。同年のベネチア国際映画祭でプレミア上映され、以後、2014年ロサンゼルス、2015年パリ、2016年カンヌ国際映画祭、2017年ロンドンで上映され、各地で再評価されて今日に至っている。そして2018年11月24日に、日本でも『恐怖の報酬【オリジナル完全版】』のタイトルで劇場公開された。
本作では、南米のジャングルを舞台に、反政府ゲリラによって爆破された油田の火災を鎮火させるため、ひとり1万ドルの「報酬」と引き換えに、危険なニトログリセリン運搬を引き受けた4人の男たちの命運が描かれる。主演は『JAWS/ジョーズ』『オール・ザット・ジャズ』の米国の名優ロイ・シャイダー(Roy Scheider、1932~2008)。そして、世界各国からフリードキン監督好みの性格俳優が結集⇒フランスから『まぼろし』のブルーノ・クレメル(Bruno Cremer、1929~2010)、スペインから『バロック』のフランシスコ・ラバル(Francisco Rabal、1926~2001)、モロッコから『RONIN』のアミドゥ(Amidou、1935~2013)が出演。

ストーリー :
【メキシコ・ベラクルス】
広場を見下ろすホテルの一室。窓際に立っていた男が煙草をもみ消し、ウィスキーグラスを手にする。玄関のドアが開き、サングラスに帽子をかぶった初老の紳士が現われる。サイレンサー付きの銃で男を射殺した殺し屋ニーロ(フランシスコ・ラバル)は、エレベーターで階下に降り、何事もなかったようにホテルを後にする。

【イスラエル・エルサレム】
アラブ系の若者3人が連れ立って歩いている。彼らはショルダーバッグを銀行の前に置いたまま、停留所からバスに乗り込む。バスが出発して間もなく、バッグの中の時限爆弾が爆発し、現場は阿鼻叫喚の大惨事に。アジトに集合した若者たちが慌ただしく逃走準備を始めると、外に軍の特殊部隊の車輌が次々と到着。兵士たちは一斉にアジトに突入。反撃する間もなく2人が射殺され、1人が拘束されてトラックで連行される。ただ一人難を逃れたカッセム(アミドゥ)は、群衆の中に紛れ、遠ざかる同志の姿を見送る。

【フランス・パリ】
投資家のマンゾン(ブルーノ・クレメル)は、書籍編集者の妻と優雅な生活を送っている。だが、妻から結婚10周年記念の腕時計をもらった日、証券取引所の頭取から不正取引を追及される。告発までに24時間の猶予を得たマンゾンは、共同事業者で義弟のパスカル(Jean-Luc Bideau)に、財界の実力者たる彼の父に損失金を補償してもらうよう交渉しろ、と詰め寄る。 高級レストランで、妻と妻の友人と食事をしていたマンゾンは、パスカルに呼び出される。パスカルは父から自分の責任は自分で取れと突き放されたとマンゾンに告げると、車の中で拳銃自殺を遂げる。マンゾンは仕事で先に店を出るという妻宛ての言伝(ことづて)をレストランの支配人に託すと、その場から一目散に逃げ出した。

【アメリカ・ニュージャージー州エリザベス】
アイリッシュ・マフィアの一味が、ビンゴ開催中の教会に押し入った。ドネリー(Gerard Murphy)以下4人の男たちは、神父たちを銃で脅し、売上金を強奪。逃げようとした一人の神父の脚にドネリーが一発見舞った後、一味はすぐさまスキャンロン(ロイ・シャイダー)が運転する車でその場から逃走した。強奪成功に浮かれていた男たちは、まもなく車内で内輪揉めとなり、運転を誤ったスキャンロンは大事故を起す。3人の仲間は即死か瀕死の状態。消火栓から吹き出す水しぶきが事故現場を濡らす中、血まみれのスキャンロンはかろうじてその場から逃げ延びた。 夜、安ホテルの前でスキャンロンは友人のヴィニー(Randy Jurgensen)と会う。ヴィニーが語るには、ドネリーが撃った神父は対抗組織のボス、カルロ・リッチ(Cosmo Allegretti)の弟で、生き残ったスキャンロンに対し、殺しの指令が出ているというのだ。国外に高飛びしろというヴィニーの忠告に従い、スキャンロンはボルティモアの桟橋で仲介者と会うことに―。

【南アメリカ・ポルヴェニール】
ジャングルに囲まれた南米ポルヴェニール(Porvenir)。そこは犯罪者や、ならず者などが暮らす街だった。ある日、300キロほど先の山上の油井で突然、爆発事故が発生した。炎は見る間に広がって、石油の貯蔵タンクが次から次へと爆発。油田火災を鎮火するには爆薬による爆風に頼るしかないものの、石油会社の倉庫にあった40ダースものダイナマイトは反政府ゲリラに盗み出されており、残ったニトログリセリンを険しい山道をたどって火災現場まで運ぶ以外に方法はなかった。早速、僅かなショックでも大爆発を起こす消火用ニトロをトラックで運搬する志願者が募られた。最終的に選出されたのは、祖国を追われ、この熱帯の地に流れ着いたニーロ(メキシコ・ベラクルスで標的を射殺した殺し屋)、カッセム(イスラエル・エルサレムで爆弾テロを実行したアラブ・テロリスト)、マンゾン(フランス・パリで不正取引を追及され、逃亡した投資家)、スキャンロン(アメリカ・ニュージャージーで教会を襲撃し、ビンゴ売上金を強奪したアイリッシュ・マフ ィア)の4人の男たち。4人はその煉獄の地から逃れるため、各1万ドルの現金および国外へ出られる旅券の“報酬”と引き換えに、この命がけの危険な任務を請け負うことに。2台のトラックに分乗した彼らは、道なき道を300キロ、密林の奥へと突き進んでいくが、途中には洗濯板のような悪路、転回困難な狭路、崩落寸前の吊り橋、道を塞ぐ巨大な倒木、吹きすさぶ大嵐、出没する反政府ゲリラなど想像を絶する困難が待ち受けていた。彼ら4人は無事、現場にたどり着けるのか?その人生を賭けた男たちの運命の激流やいかに?

▼ウィリアム・フリードキン監督メッセージ入り予告編 :



▼ The Bridge Scene :

2018年11月30日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、18:00~鑑賞。

Fantastic Beasts-The Crimes of Grindelwald

作品データ :
原題 FANTASTIC BEASTS:THE CRIMES OF GRINDELWALD
製作年 2017年
製作国 イギリス/アメリカ
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 134分


大ヒットファンタジー『ハリー・ポッター』シリーズの原作者J・K・ローリングが自ら脚本を担当し、同シリーズと同じ魔法ワールドを舞台に、魔法動物学者ニュート・スキャマンダーの冒険を描いた『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(本ブログ〈December 25, 2016〉)の続編(『ファンタスティック・ビースト』シリーズ第2弾)。舞台を前作のニューヨークからロンドンとパリに移し、主人公ニュートが仲間や魔法動物たちとともに、魔法界と人間界を脅かす、史上最強の“黒い魔法使い”ことグリンデルバルドに全力を尽くして立ち向かうさまを描き出す。前作に続きデヴィッド・イェーツ監督がメガホンをとり、ニュート役の主演エディ・レッドメインほかメインキャストが続投。ホグワーツ魔法魔術学校の先生(後にハリー・ポッターが入学した際の校長)、アルバス・ダンブルドア役に、ジュード・ロウが新たに出演している。

ストーリー :
前作の結末で、強力な“黒い魔法使い”ゲラート・グリンデルバルド(ジョニー・デップ)は、ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)の活躍により、アメリカ合衆国魔法議会(MECUSA/メクーザ)に捕らえられた。だが、グリンデルバルドは宣言通りに脱獄し、取り巻きたちを集めはじめる。取り巻きのほとんどは、グリンデルバルドの真の計画に気づいていなかった。グリンデルバルドは純血の魔法使いを増やし、ノー・マジ(マグル)~NO MAGICの略で、魔法使いではない普通の人間のこと~の世界を支配しようともくろんでいたのだ。アルバス・ダンブルドア(ジュード・ロウ)はグリンデルバルドの計画を阻止するべく、ホグワーツ魔法魔術学校の教え子だったニュートに協力を依頼する。「黒い魔法使いを倒せるのは、君だけだ。」おっちょこちょいで、シャイで人見知りながら、1本筋の通った正義感と博愛の精神を持つニュートは、その依頼を引き受けるが、その時はまだ、どんな危険が待っているのか知らずにいた。大きく揺れる魔法界。愛と忠誠心は試練にさらされ、深い絆で結ばれていた友人や家族の間にさえ、無数の溝が生まれていく。試されるニュートと仲間たちとの絆─果たして彼らは世界を黒い魔法使いの手から守れるのか?

▼予告編



▼特別映像 :



▼ニュート役を演じたエディ・レッドメイン(Eddie Redmayne、1982~)、ティナ役(MACUSAで働く正義感の強い魔法使い)を演じたキャサリン・ウォーターストン(Katherine Waterston、1980~) インタビュー :

【以下は、同名映画(1)〔本ブログ〈December 13, 2018〉〕の続き…】

■私感 :
ファン・ゴッホと言えば、ゴーギャンともども、私の場合すぐに少年時代の懐かしい思い出が頭の中をよぎる。幼少の頃から絵を描(か)くのが好きだった私は、小学時代に初めて、ある絵描きから直接、ファン・ゴッホの何枚かの名作を見せられた。そしてゴーギャンについては、中学1年時の「美術」担当の教師を通して初めて、その存在を知らされた(cf.本ブログ〈April 17, 2018〉)。

私が本作・本編を鑑賞したのは、ひとえにファン・ゴッホタッチの“動く芸術世界“を体感したかったからだ。この10月下旬~11月上旬に、映画館「ココマルシアター」で本作の予告編を何回か観ながら、私は<実写映像→油絵→CGアニメーション>という前人未到の本作の制作方法にすこぶる興味をそそられていた―。

念のため言えば、私はファン・ゴッホの“死の真相”をテーマ化する本作のストーリー自体~死の真相は何だったのか?~に、さしたる関心があったわけではない。当の予告編では、「世界初、全編が動く油絵で構成されたアート・サスペンス」と謳(うた)われるとともに、「愛され続けた名画の数々が、作者ファン・ゴッホの死の真相を明かすべく100年の時を経て動き出す」旨が強調されていた。だが、小学生時分から数十年にわたって自分なりに地道に“ファン・ゴッホ観”を培ってきた私の場合、いつ頃からだろうか、彼の死の真相を“謎が謎を呼ぶ”サスペンスタッチでミステリーのように解明していく物語の展開については、書籍にしろ映画にしろ、何かしら一般~読者・観客~受けを狙った通俗的・常識的・単線的な発想法を感じ取り、どうにも頂けない気分にとらえられてきた。

私はこれまでに、自殺か他殺かなど彼の死因をめぐる話をいろいろ聞かされたり、自らもあれこれと調べたりして、結局その死の真相は永遠の謎であると独りで納得してきた。この希代の芸術家に対すべき思想的態度は、その死因をいたずらに特定するのではなく、却(かえ)っていつまでも解けぬ謎のままに放置しておくことではないか―。

本作の終盤で(ガシェ医師からアルマンに向かって)語られる、フィンセント・ファン・ゴッホの死に至る事情は、こうである。
ガシェ医師はある日、フィンセントと口論になる。―ガシェは何かの拍子に、フィンセントから「えせ絵描き」と言われる。美術愛好家であり、自らも絵画を描くアマチュア画家だったガシェ。彼はついカアッとなって言い返す。「お前は弟のテオに金銭的な援助をずっと要求し続けている。兄への送金が続き、それが原因でテオの夫婦仲は険悪になっている。しかも、テオ自身は重傷の梅毒にかかっている…。弟の苦労が分かるか、それで芸術家としての価値があるのか。兄貴ならもっとしっかりしろ!お前のせいで、テオはそのうち、まいって死んでしまうぞ…」。フィンセントはしたたかにショックを受け、とっさに表に飛び出してしまう。…まもなく普段何かと彼をからかっていた村の悪餓鬼(わるがき)ルネ・スクレタンと出会い、一悶着を起こしている間にスクレタンの持つ拳銃が暴発し弾が彼の腹部を直撃する。撃たれた彼は、苦痛に咽(むせ)びながらも少年の犯罪を庇(かば)って自ら自殺を装うことを決断し、甘んじて予期せぬ死を受け入れる。…駆けつけたガシェに、フィンセントはベッドに臥せりながら、息も絶え絶えに言う。「誰にとっても、この方がいいんだ」と。「私があんなことを言ったばかりに…」とガシェは泣き崩れる―。

本作の当のストーリー展開は、2011年に出版された『Van Gogh:The Life』(Steven NaifehとGregory White Smithの共著、日本未翻訳)の提起する“ゴッホ他殺説”の影響下にある。ピューリッツァー賞受賞の作家2人、スティーブン・ネイファー(1952~)とグレゴリー・ホワイト・スミス(1951~2014)は、10年間にわたってファン・ゴッホの膨大な数の手紙を分析すると共に多数のファン・ゴッホ研究家にインタビューして書き上げた同書の中で、「ファン・ゴッホは自殺したのでなく、整備不良の銃を持って遊んでいた少年2人(兄弟)が偶発的に撃った銃に撃たれて死亡した可能性が濃厚」と主張した―。

一般に解釈に当たって問われる思想的姿勢は、一面的なそれを墨守するのではなく、いかに多面的なそれを提示するかにかかっている。ファン・ゴッホの場合も、死因を拳銃自殺とする定説を固定化するよりも、その伝説化に待ったをかけるという意味合いで、『Van Gogh:The Life』→本作『ゴッホ~最期の手紙~』のごとく、“他人に意図的にか偶発的にか、拳銃で撃たれ、その傷がもとで死んだ”とする説が提唱されることに、私は一定の意義と価値を見出す。
しかし忘れてはならない、この“ファン・ゴッホ〈自殺/他殺〉事件”は、今を去ること約130年前の出来事であることを。事件の真相はいまだに闇に封じ込められており、もはやタイムマシンでも開発されない限り、自殺か他殺かを一義的に決めることはおよそ不可能である。今日的状況下では、誰もがファン・ゴッホ像を様々な逸話や伝説にちなむ種々雑多な思いで縁取りはしても、誰一人として事件の陰にひそむ“たった一つの真実”を語れる者はいない。彼の死因を究明することは今や、難中の難事、そこにいかに衆知を集めても、所詮は藪の中、決定的な答えが得られない、永遠の謎が絡みつく。事ここに至って、私たち現世を生きる人々は心静かに深く期すべきであろう。ファン・ゴッホの死因については自殺か他殺かの、ひいては彼のトータルな人生については狂気か愛かの、こうした二者択一的(⇒一義的)次元を“超えて”(不可知のままに判断停止して)~つまりは好色家、狂人、天才、怠け者、探求者等々の様々なレッテル貼りを脱却して~、あくまでも彼の芸術作品それ自体を、生前数枚しか売れなかった彼の絵画が後世に残すに足る作品かどうかの透徹した鑑賞眼をもって、積極的に最大限享受しなければならない、と。

「実写撮影された映画が、世界中から集まったアーティストにより、ファン・ゴッホタッチの動く油絵として生まれ変わった」という―。私は“動く油絵”なるものに無性に惹かれて、本作を見に行った。
本作の上映が始まる。スクリーン上で動く絵画の展開に注目!油絵が実際に動いている(グルグルと回っている…)かのように見える映像…。限りなくファン・ゴッホ調の「絵画」に近い「映画」だ…。
しかし、画面に私の目が釘付けになり続けたのは、上映開始から20~30分程度だったろうか。何と次第に目がチカチカし、頭がクラクラし、重苦しい不快感が胸に動き始めたではないか!やむなく私は腕を組んで瞑目、そして程なく恐る恐る目を半眼に開いて画面を見やる…。以後、眼力を保つべく、おもむろに目を閉じたり開けたりを何度も繰り返しながら、私はやっとの思いで九十数分間、本作を何とか最後まで見終えたのだった。

映画鑑賞中に体に変調を来たすなどという、わが人生史上初めての珍事!これは一体、どういうことか!?私は生来、三半規管が弱い体質でもなければ、心身ともに至って健康に育ってきたというのに…。

ドロタ・コビエラ監督の前掲インタビュー(前掲「本ブログ〈December 13, 2018〉」)によれば、「フィンセントの強烈な色遣いを90分間も見続けるのは、観客にとって辛いのではと思」い、“回想シーン”~フィンセントが実際に描かなかった生活の場面~については、ファン・ゴッホ風の油彩画ではなく、写実的なモノクロ水彩画(モノクロームのデッサン)で形作ったとのこと。確かに画面には、全編がほぼカラーのファン・ゴッホタッチと部分的にモノクロの水彩タッチというメリハリの利いたコントラストの妙が披露されていた。
だとすれば、この制作陣の“創意工夫”に与かって、私の身に起きた体調不良の症状もあの程度で治まったのだろうか。逆に言えば、仮に当の回想シーンがモノクロで挿入されていなかったなら、当の症状はより高じて悪化していたのだろうか。さらに思うに、モノクロ・シーンで目が一休みしても次に打って変わって強烈なカラー・シーンに反転するなら、目の慣れという点で、却って落ち着いた安定的な視線を保持することが難しくなりはしないだろうか…。

私は今回、本作の吹替版を観た。もともと字幕版を観たかったのだが、たまたま「ココマルシアター」では吹替版だけしか上映されていなかったためだ。字幕版、とりわけ英語〈字幕版〉(英語の字幕付きの映画)を推奨する思想的立場に立つ私にとって(cf.本ブログ〈July 18, 2018〉)、やむをえざる日本語〈吹替版〉の鑑賞となったが、この“不測の”事態は何を物語るのだろうか。
一般に字幕版の場合、その字幕を追いかけていると、肝心の画面から目が離れがちになる。だから、画面~まして本作のようなファン・ゴッホ的油絵ならなおのこと~をじっくり目を据えて観るためには吹替版が望ましいと言われる。
しかし私の場合、英語ペラペラで、字幕不要とまでは断じないまでも、英語の活用場面に適応できる一定の表現能力を持つがゆえに(英語「話し言葉」を英語「書き言葉」で確認できる英語〈字幕版〉があるに越したことはないが)、本来的に吹替版は無用である。そんな私が今作で余儀なく吹替版に接するいたったわけだが、当初は画面~一秒一秒のすべてが綺麗なアート~に視線を集中して探るように見入る鑑賞態度については、やはり〈字幕のない〉吹替版の方が字幕版よりも、その効率性を多少なりとも高めるに違いないと楽観していた。が、事はそれほど単純に進むものではない。
私はやはり根っから吹替版は駄目なのだ。英語の上から日本語を被(かぶ)せる、言語間の根本構造の違いを無視した吹替版では、どんなにアフレコが巧妙であっても、オリジナル・キャストが発する言語(英語)の個性やリズムが失われ、映画全体の雰囲気が壊されていく―。私は本吹替版に目を向け続ける間、せっかくの油絵を堪能するには程遠く、いたずらに胸のうちが掻き乱され、不快な想念の中に沈潜し、何か割り切れない違和感に囚われつづけた。

どうやら私が映画館内で体調不調という思わぬ不覚を取った事態は基本的に、激烈なファン・ゴッホタッチの“動く油絵”の問題に起因することは間違いない。しかし私の場合は、それに付随した原因として、日本語〈吹替版〉の問題も看過するわけにはいかないだろう。

映画の序盤でファン・ゴッホ調の“動く芸術”に目が疲れ一頓挫した私は、中盤以降、時に睡魔に襲われて目を力なく閉じ、時に気力を振り絞って目をぱっと見開いて、何とかして“ストーリー”を追いかけようと腐心した。しかし既述通り、もともと当のファン・ゴッホの死因究明ミステリー自体が私の大(たい)した関心事ではなかった。そして案の定、主人公アルマンを探偵役とする、ファン・ゴッホの死の真相の謎解きという、いかにも陳腐化した単調な筋立てに、私はいい加減飽き飽きし、ストーリーに執拗に食らいつく気力も次第に萎えていくのだった…。

私は中学1年時頃を境にして、時の経つほどに、その生き方についても、その芸術作品についても、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(1853~90)よりもウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin、1848~1903)にずっと魅力の虜(とりこ)になっていった(前掲「本ブログ〈April 17, 2018〉」参照)。
私の見るところ、原理的に突き詰めれば、ファン・ゴッホは自己を“内包的に”確認していく人間であり、ゴーギャンは自己を“外延的に”拡大していく人間である。要するに、両者の特長を強いて比較的に見定めれば、前者が自己の深まりにおいて、後者が自己の拡がりにおいて、それぞれ秀でた芸術家である―。本然の若さに溢れた中学→高校→大学時代の私が、晩年に母国フランスを離れて、地球の裏側のポリネシアで、“人間の根源”を執拗に探求し続けた芸術家ゴーギャンに強い憧れを燃やし続けたことは言うまでもない。私は1980年代の半ば、ゴーギャンへの想いが募るあまり彼の足跡をたどって初めてタヒチ行きを決行した―。

ゴーギャンは生前の一般受けは悪かったが、死後西洋文明と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に世界的な名声と尊敬を獲得して今日に至っている。
もっとも、現在の私は自らの思想的立場に徹して、ゴーギャンの芸術的たたずまいについて疑義を質(ただ)したい点がある。晩年の彼が遺した作品の数々には、モーブやマゼンタで美しく彩られた香ばしき“地上の楽園”の姿と、そこに住まう妖艶な表情を身にまとった女たちが収められている。問題視すべきは、ゴーギャンのこの芸術作品の艶やかな美にまつわる甘美な世界観についてだ。
ゴーギャンその人は実際問題として、タヒチという遥か遠くの異国に住む人々を、文明の穢れを知らない「楽園」の住人と文明に目覚める前の「野蛮人」のどちらを思い描いていたのか。果たして彼の場合、タヒチがフランスの植民地として直面する現実から目を背けず、タヒチ人を楽園の住人/野蛮人とする極端に相反する二つの意識をもろともに相対化できたのか。ことさらにタヒチ共同体~タヒチ人やタヒチ文化~を幻視も蔑視もせず、ひたすらタヒチ住民の素顔をありのままに直視し、彼ら一人一人と心を隔意なく通わせることが、まさしくゴーギャン自身の逃れがたく背負い続けるべき課題としてあり続けたのだろうか…。

観察眼、想像力、感受性、表現力など、芸術家として類(たぐい)まれな資質に恵まれたはずのゴーギャン。しかし、そんな彼とて、しょせんは一介の“画家”にすぎない…のか。いや、そもそも芸術家の制作態度に対して、世界観的な構えで歴史的・社会的な意義づけを課する根源的な問いを投げつけること自体、野暮の骨頂!と言うべだろうか…。

アート 雪の結晶 cf. ファン・ゴッホの名作「雪景色」(1888年、油彩・キャンバス、個人蔵) :
【「雪景色」は、ファン・ゴッホのアルル時代(1888年2月~89年5月)の絵画。遠くにアルルの街並みが見え、雪化粧をした田園風景が何とも仄々(ほのぼの)と美しい。手前に配した板囲いのおかげで、雪の白さが柔らかく映え、落ち着いた美しさが漂う。これは、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(2017年8月~2018年3月/北海道立近代美術館→東京都美術館→京都国立近代美術館-前掲「本ブログ〈December 13, 2018〉」注記参照)で日本初公開となった、個人蔵の魅力あふれる貴重な一枚である。ファン・ゴッホの数ある名作の中でも、北海道生まれの、北国の蕭々とした冬景色を愛(め)でてやまない私が、現時点で一番好きな作品にほかならない。】

アルル時代のゴッホ「雪景色」
ファン・ゴッホはアントウェルペン時代(1885年末~86年初頭)→パリ時代(1886年~88年初頭)を通して、ジャポニスム※の影響下、日本の浮世絵から独特の構図と色彩感覚、遠近法を学んだ。1888年2月20日、彼が南仏のアルルに到着した時、そこには意外にも一面の銀世界が広がっていた。何と60cmもの大雪が降り積もっていた。アルルは温暖な地中海性気候の土地。ところが、記録的な寒さで珍しく雪が降り続いていたのだ。アルルの雪は、明るい陽射しを反射した、暖かみのある穏やかな雪だった…。すで浮世絵を通して日本に降る雪の絵を見ていたファン・ゴッホは、アルルの雪景色に日本美を見出し、遠い日本に思いを馳せる。彼は歌川広重(1797~1858)や浮世絵版画の作品を参考にして、地平線を高くした構図、前景に大きく茂みや板囲いを配置して雪の白さを引き立たせる構図などが際立つ名作「雪景色」を仕上げるにいたった。

※ジャポニスム(仏語:Japonisme)は19世紀後半に欧米で起こった日本美術ブーム。工芸品と浮世絵を中心とする日本美術への強い興味で、フランスを中心に、ヨーロッパのほぼ全域からアメリカまで、西洋世界の広範囲で生起した。
2018年11月27日(火)「ココロヲ・動かす・映画館○(通称ココマルシアター)」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-8-15、JR吉祥寺駅北口徒歩約5分)で、16:25~鑑賞。

LOVING VINCENT

作品データ :
原題 LOVING VINCENT
製作年 2017年
製作国 イギリス/ポーランド
配給 パルコ
上映時間 96分

日本公開 2017年11月3日

Loving Vincent
オランダのポスト印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853/03/30~1890/07/29)の謎に包まれた死の真相に迫るミステリー・ドラマにして、世界初の全編“動く絵画”のみで構成された異色のアート・アニメーション。本作はダグラス・ブース、ヘレン・マクロリー、シアーシャ・ローナン、クリス・オダウドをはじめとする一流キャストが実際にファン・ゴッホの絵のモデルにもなっている登場人物たちを演じ、その実写映像を基に、総勢125人の画家たちがファン・ゴッホのタッチを模して描いた62,450枚もの油絵を使用してアニメーション化された。監督と脚本を手がけたのは、画家の顔と映画作家の顔を併せもつドロタ・コビエラと、『ピーターと狼』(2006年)の製作で第80回アカデミー賞短編アニメ賞に輝いたヒュー・ウェルチマン。キャストの撮影から絵画の完成までの全過程には4年を要し、監督のウェルチマンは「我々はこの120年で最も遅い映画制作法を発明した」と振り返った。第30回ヨーロッパ映画賞長編アニメ映画賞を受賞し、また第90回アカデミー賞長編アニメ映画賞にもノミネートされている。
アップ
描かれるのは、郵便配達人である父からファン・ゴッホの手紙を託された青年アルマンが、ファン・ゴッホの真実を求めて旅をする物語。一般的には銃による「自殺」とされているファン・ゴッホの死だが、そこには説明のつかない、不可解な事実が隠されている。ファン・ゴッホが遺した手紙をきっかけに、アルルからパリ、そして彼が最期の日々を過ごしたオーヴェールに行き着くアルマンとともに、観客はファン・ゴッホの描いた絵画の世界へと誘われ、入り込んだような感覚を覚えていく…。映画はファン・ゴッホの人生を探す旅を、彼自身が描いたとしか思えない油絵で描写し、伝記的な回想部分はモノクロの水彩画で表現。肖像画で見たさまざまな登場人物がファン・ゴッホを語り、彼の情熱・孤独・愛が、彼自身の人生が浮かび上がる。37歳という若さで、彼はなぜ命を絶たなければならなかったのか?彼は本当に自分の腹を銃で撃ったのか?そして、次第に姿を見せる偉大な画家の魂…。
アーティストたちによる情熱の結晶である本作はまた、気が遠くなるような制作過程を踏んだからこその魅力に溢れている。映画はまず、俳優たちが役を演じる実写映画として撮影された。彼らはファン・ゴッホの絵画に似せて作られたセットで、あるいは撮影後にCGアニメーションでファン・ゴッホの絵と合成させるためのグリーンバックを背景に演技を披露。それをとらえた映像は特別なシステムでキャンバスへ投影され、長期にわたる特訓でファン・ゴッホのタッチを完璧に習得した画家たちの筆で油絵に。各国から選ばれた画家たち~5,000人以上の応募者の中から日本人画家の古賀陽子を含む125人が選抜される~は、各俳優の特徴を残しつつも、絵画に登場する人物の風貌や雰囲気をうまく混ぜ合わせ、動く肖像画へと生まれ変わらせた。本編の1秒は、12枚の油絵を撮影した高解像度写真によって構成されている。こうして豪華キャスト陣の名演と、それを元に描かれた62,450枚もの油絵が、ファン・ゴッホの世界に新たな生命を吹き込んだ―。

炎 フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホの生涯 :
(ファン・ゴッホ、正式名「Vincent Willem van Gogh」。なお、オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部である。)
1853年3月30日、フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部、ベルギーとの国境にほど近いブラバンド地方フロート・ズンデルト(Groot-Zundert)で、牧師の家に生まれる。 男3人、女3人の6人きょうだいの長男(その前の初子は死産)で、4歳下のテオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh、1857/05/01~1891/01/25、通称テオ〈Theo〉)とは終生にわたり、強い絆で結ばれていた(テオは親兄弟と確執関係にあったフィンセントの唯一の理解者で、兄に生活費を援助するなどして支えた人物だった)。
フィンセントは小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる「農場の家と納屋」と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンス(Constant Cornelis Huijsmans、1810~86)という画家がこの学校で教えており、フィンセントも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、フィンセントはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。
1869年7月、16歳のフィンセントは伯父の経営する美術商グーピル商会に入社、ハーグ(Den Haag)支店に勤務。その3年後にはテオも同社の別支店に就職し、この頃からテオとの文通が始まる。兄弟の往復書簡はフィンセントが死ぬまで続けられた。
グーピル商会で、絵画について熱心に学んだフィンセントは一時、ロンドン支店に栄転。しかし、失恋のせいもあって仕事に身が入らなくなり、接客能力がないと見なされて1876年1月に解雇されてしまう。それは両親にとっても屈辱的な出来事であり、フィンセントは汚名返上を目指し奮闘する。イングランドで教師をしたり、オランダのドルトレヒト(Dordrecht)で書店員として働いた後、彼は父親と同じ牧師になるために勉強することを決意。しかし神学校の試験に合格できる学力を備えることができず、ベルギーのボリナージュ(Borinage)という極貧の炭鉱地帯にある教会の伝道師見習いとなる。ところが、彼は教会の所有物や自分の食べ物・衣服さえも、貧しい炭鉱夫たちに分け与えるという極端に献身的な行動が教会にとって望ましくないという理由で、この低い役職からも解雇されることに。
窮地に陥ったフィンセントの元へ、最愛の弟テオが兄を絶望から呼び戻そうと訪ねてくる。テオはフィンセントに、芸術への愛を活かして芸術家を目指すべきだと提案した。27歳のフィンセントは最後の希望に賭け、テオからもらった教本を頼りに絵の独学を開始。驚異的な創作意欲を発揮し、着実に画才を伸ばしていった。
やがて彼は、ハーグに住む義理のいとこで、オランダで最も有名な現役画家アントン・モーヴ(Anton Mauve、1838~88)の教えを受ける。しかし、アトリエで子連れの娼婦と同棲し始めたことなどが原因でモーヴと仲違い。フィンセントは両親のいるニューネン(Nuenen)の牧師館へと戻るが、教会や牧師を批判し、父親と激しく争うようになる。まもなく父親が心臓発作で急死すると、母親や妹たちから父親に心労をかけていたことを責められた。ここで最初の傑作「ジャガイモを食べる人々」(1885年4~5月)を完成させるも家族との関係は修復しがたく、ベルギーのアントウェルペン(オランダ語:Antwerpen、英語:Antwerp〈アントワープ〉、フランス語:Anvers 〈アンヴェール〉)へ。ここで日本の浮世絵を知った。
1886年、フィンセントはパリのモンマルトルに住むテオの家に転がり込む。テオのつてでコルモン画塾へ通い出し、ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec、1864~1901)やエミール・ベルナール(Émile Bernard、1868~1941)ら、若く才能ある画家たちと出会った。
それから3か月、フィンセントはテオのおかげで最も興味深い新進画家グループの中心となっていたが、パーティー三昧の生活に嫌気がさす。そこで傾倒している浮世絵に描かれているような陽の光と花々を求めて、単身南フランスへと向かうことにする。
非常に珍しいことに、1888年2月20日、彼がプロヴァンスのアルル(Arles)に到着したときは雪が降っていた。ほどなくして雪は解け、花々が一斉に咲き乱れる。そこで、オランダ時代の技法とパリで学んだスタイル、さらに浮世絵の研究を融合させた、フィンセント独自の新しい画風が花開く。次々と新しい作品を描き上げたフィンセントは、パリから画家仲間を呼び寄せて共同生活を送れるアトリエを作ろうと、黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」-フィンセントによる1888年9月制作の油彩画)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借りた。だが、やって来たのは食費と家賃が無料という条件につられたポール・ゴーギャン(Paul Gauguin、1848~1903)だけだった(1888年10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、フィンセントとゴーギャンの共同生活が始まった) 。2人の間に競争心や反感が生じ始めると、“黄色い家”では頻繁に口論が起きるようになる。そして、その生活はある晩~1888年12月23日~の諍いの後、フィンセントが自分の左耳を切り落とし馴染みの娼婦に手渡した事件で終焉を迎える。事件の翌日、ゴーギャンはアルルを去り、フィンセントは地元のアルル市立病院に収容された。
2週間が経ち、フィンセントの発作はすっかり収まったように見えたが、すぐにまた健康状態が悪化。彼の退去を求め、市長への嘆願書に署名した住民たちからの圧力を受けて、フィンセントは1889年5月、アルルから25キロ離れたサン・レミ(Saint-Rémy)の精神療養院に入院する(嘆願書は、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、フィンセントを家族が引き取るか精神病院に収容するよう求めるもの)。
やがて1890年5月、健康状態が回復し退院できることになったフィンセントは、パリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェール・シュル・オワーズ(Auvers-sur-Oise)という寂れた保養村へ移り住む。彼がその地を選んだ理由には、芸術家の鬱病治療を専門とする医師ポール・ガシェ(Paul-Ferdinand Gachet、1828~1909)の存在があった。ガシェ自身も絵画を嗜(たしな)んでおり、現在のアマチュア画家以上になりたいと熱望していた(ガシェは週に数度パリで診察を行なっていたが、1890年3月に初めてゴッホの診察をし、健康回復のために彼をオーヴェールに招いた)。
フィンセントは当初、ガシェ医師と友情を深め、オーヴェールにうまく馴染んでいると思われた。しかし経済面、健康状態、弟テオとその生まれたばかりの子供(1890年1月31日にテオ夫妻〈妻ヨー〉に息子が生まれ、兄と同じフィンセント・ウィレム〈Vincent Willem van Gogh〉と名付けられた)、周囲からの孤立など、依然として様々な不安を抱えていた。さらにガシェ医師との関係にも次第に不和が生じていったらしい。ある日曜の晩~1890年7月27日~、ラヴー宿(Auberge Ravoux)に戻ったフィンセントは、腹に致命傷を負っていた。彼は自分で撃ったと主張したが、持って出た油彩道具は持たずに戻り、銃も持っていなかった。結局、油彩道具と銃は発見されていない。そして2日後~1890年7月29日午前1時半~、フィンセントは最愛の弟テオに看取られて息を引き取る。享年37歳。オーヴェールに到着してからわずか10週間で、70点の油彩を残していた。

ストーリー :
1891年の夏。南フランス・アルル。無気力な日々を過ごしていた青年アルマン・ルーラン(ダグラス・ブース)は、郵便配達人の父、ジョゼフ・ルーラン(クリス・オダウド)から1通の手紙を託される。それは、父の親しい友人で1年ほど前に自殺したオランダ人画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(ロバート・グラチーク)が弟・テオ(ツェザリ・ウカシェヴィチ)に宛てて書いたまま出し忘れていたもの。パリに住んでいるはずのテオを探し出して、手紙を届けてやってほしいという。
アルルでは、自分の耳を切り落として精神病院へ送られた外国人の画家は評判がいいとは言えなかった。彼を知る警官によれば、フィンセントが病んでしまったのは、彼が画家たちの宿にしたいと願った“黄色い家”に友人のポール・ゴーギャン(ピョートル・パムワ)が来たことが原因だという。疎まれていた友人に対する父の思いに絆(ほだ)されるように、願いを聞き入れたアルマンはパリへと旅立つ。テオの消息をつかめないまま画材商のタンギー爺さん(ジョン・セッションズ)を訪ねると、そこで聞かされたのは意外な事実だった。兄フィンセントの死に打ちひしがれたテオは、その理由を自問しながら半年後、後を追うように亡くなったというのだ。
タンギー爺さんはアルマンに、フィンセントのことを語って聞かせる。テオによれば、フィンセントは幼いころから不幸な子どもだった。自分が生まれる前に死産でこの世を去った同じ名前の兄がいて、本来愛されるべきは兄だと、自分は疎まれていると感じていたという。画商、牧師の道を志すも挫折。28歳にしていまだ無職の彼は、テオの献身的な援助を受けて絵筆をとる。パリに出て芸術家仲間と交わるが、彼らから学ぶと去って行った。たった8年で素人から仲間に一目置かれる画家にまで成長したフィンセントが、こんなに早く死んでしまうとは―。
父の友人に対して自分が偏見を持っていたと気付いたアルマンは、その死に疑問を抱く。フィンセントが最期の日々を過ごした、パリ北西部のオーヴェール・シュル・オワーズでの主治医(精神科医)、ポール・ガシェ(ジェローム・フリン)は「完治していた」と言っていたのに、なぜ自分を撃ったのか?
真相を見つけ、手紙を受け取るべき人を探すため、アルマンはオーヴェールへと向かう。ガシェ医師の家を訪ねるが、彼は数日の間、留守だという。「フィンセントは邪悪な人だった」と言う家政婦ルイーズ(ヘレン・マックロリー)の証言を不審に思いながら、ガシェを待つことにしたアルマンは、ラヴー宿に逗留する。そこはフィンセントが最期の10週間を過ごした場所だった。
宿の娘、アドリーヌ・ラヴ-(エレノア・トムリンソン)も、フィンセントについて「几帳面で静かな人だった」と語り始める。1年前、銃弾を腹に受けたフィンセントは這うように帰ってきた。ほどなく往診に来たガシェは、なぜか銃弾を摘出しなかった。翌日の午後、知らせを受けたテオが駆けつけ、明け方の1時頃にフィンセントは息を引き取ったという。
ガシェ医師を待つ間にアルマンは真相を求め、静かな村オーヴェールに小波(さざなみ)を立てる。フィンセントが好きでよく行っていたオワーズ川でボートを貸している男(エイダン・ターナー)は、フィンセントがガシェ医師の娘、マルグリット(シアーシャ・ローナン)とボートに乗っていたと語る。ガシェ医師の家でピアノを弾いていた娘だ。アドリーヌによれば、マルグリットは今もフィンセントの墓に毎日、花を供えているという。しかし、マルグリットは「人違いよ」と否定する。ガシェ医師とフィンセントが口論していたという証言。フィンセントに嫌がらせをしていたスクレタン兄弟、特に弟のルネ・スクレタン(Marcin Sosinski)の存在。風変わりな赤毛の少年。不自然な傷跡を語るマゼリ医師(ビル・トーマス)の話。一体なぜ、精神的には安定していたはずのフィンセントが自殺したのか?死にたいなら、なぜ、頭ではなく腹を撃ったのか?
父の友情のために、画家の追悼のために、そして何より自分自身にために、答えを見つけ出したいアルマンの前に、ついに気まぐれなガシェ医師が姿を見せる。彼は何を語るのか。フィンセントが最期に見たものとは、果たして…?
アルマンの“旅”は、情熱と驚愕に満ちたフィンセント・ファン・ゴッホの人生と思いがけない形で交わっていくのだった…。

▼予告編




▼ Behind the Scenes :



▼ Wrocław painter training :
(公募オーディションで選ばれた総勢125名のペインティング・アーティストたちの実際の作業は、ポーランドのグダニスク〈Gdańsk〉、ヴロツワフ〈Wrocław〉、ギリシャのアテネにある3か所のスタジオで遂行された。)



◆ドロタ・コビエラ(Dorota Kobiela、1978~)脚本/監督 オフィシャル・インタビュー(映画パンフ〈編集:矢澤一範・若林ゆり〉『ゴッホ~最期の手紙~』〈税込み800円〉) :
Q:『ゴッホ~最期の手紙~』のアイデアはどのようにして生まれたのですか?
自分のふたつの情熱―絵画と映画―を合体させ、油彩で映画を作りたいと思ったのです。この作品を制作しようと思い立ったとき、私は30歳でしたが、それはフィンセントが油彩を描くようになったのと同じ年齢でした。彼の作品以上に私が愛しているのは、私に影響を与えた彼の生き方です。私は人生を通して鬱と闘ってきました。そして、フィンセントが同じように大きな人生の挫折から20代という若さで再起し、芸術を通して世界に美をもたらす道を見出したことに感銘を受けました。彼の手紙はどん底にあった私を救い、この映画を作るきっかけをくれたのです。

Q:当初の予定である短編から予定を変更して長編映画を作ることにした理由は?
ファン・ゴッホの展示会に入場するために3時間以上並んだヒュー・ウェルチマン(共同脚本・共同監督)に、この映画が長編にならないか検討してみようと説得されたのです。フィンセントの風景画をベースにペインティング・アニメーションを動かし、彼の作品に関するインタビューの数々で構成すればいけると判断しました。そこで、この方向で脚本を練り、思い描いた製作方法を実現するためにコンセプト・トレーラーを作りました。その反応を見て、この作品は予備知識のない人たちから映画関係者、アーティスト、アニメーターにまで響くだろう、そして、世界中の人たちが私たちのビジュアル・アプローチを気に入ってくれるという自信を持ちました。

Q:この映画の製作中に直面した課題は?
間違いなく最大の難問は、長編映画用に脚本を書き直すことでした。私は自分自身のことを監督であって、脚本家ではないと思っていたのです。このプロジェクトは長編ドキュメンタリーと共通点が多いと感じていたので、手に入る限りのドキュメンタリー映画を見ていました。初稿はポーランド語で書いたので翻訳しなければなりませんでしたが、費用も時間もかかります。英語で映画を撮るのだからと、以降の原稿は英語で書くことにしました。そこでヒューに手伝ってもらい脚本を書き、彼を共同脚本に選びました。

Q:フィンセントの人生のどの部分を重点的に描くか、どのように決められたのですか?
彼の人生を切り取ったストーリー、特定の作品から始まるストーリー、ドイツ時代に焦点を絞ったストーリー、モンマルトルのボヘミアン芸術家だったころのストーリー、たくさんのストーリーを書きました。ですが、出来上がった最初の具体的な脚本の設定は、彼の最期の日々でした。これは心に響きましたし、その時期に描かれた作品と、その中に死を前にした彼が定期的に接触を持っていた人々―気まぐれなガシェ医師、彼の娘で三度も描かれているのにその顔はいつも隠れているミステリアスなマルグリット・ガシェ、そしてフィンセントが亡くなった宿の主人の娘で溌剌としたアドリーヌ・ラヴー―の絵が含まれているという事実が好きだったのです。

Q:回想シーンをモノクロで挿入することにした理由は?
おもな理由は二つあります。まずフィンセントの強烈な色遣いを90分間も見続けるのは、観客にとって辛いのではと思ったのです。作中でたくさんの回想シーンを使ったことにより、これらのセクションに違うスタイルを取り入れることができました。
もう一つの理由として、存在しないフィンセントの作品を作りたくなかったのです。回想シーンの大部分はフィンセントが描かなかった生活の場面なので、フィンセントの作風で回想シーンを作ってしまったら、彼ならどのようにこのシーンを描くだろうかと最初から想像してしまい、彼の作品からかけ離れたものになってしまうと思いました。モノクロになったのは、多くのリサーチで参照したその時代の白黒写真が回想シーンの彩色アプローチに影響したためです。

Q:『Loving Vincent(原題)』というタイトルにした理由は?
いくつかあります。このプロジェクトは、私の思いの結晶です。私は7年間、このプロジェクトにかかりきりでした。フィンセントの作品と彼の手紙に対する思いと、彼の戦いに対する尊敬の念が7年間ずっとわたしを支えてくれました。そして、フィンセントを愛さずにいられなかったのは私だけではありません。ペインターのチームは1枚1枚丁寧に油彩のフレームを描きました。映画の1秒のために10日間かけ、1フレームごとに筆を動かしました。彼の作品に対する多大な献身と敬意のなせる業です。それに、彼は弟への手紙に「愛するフィンセント(Your Loving Vincent)」とよく署名しているんです。そしておそらく、もっとも重要なのは、フィンセントを愛する人が世界中にたくさんいることです。だからこそ、私たちは世界初の全編油彩の長編映画を製作するリスクを負う決意をしたのです。この映画が彼のことをさらに知ったり、彼の手紙を読んだり、彼の作品を直に鑑賞したりするきっかけになってくれればうれしいです。微力ながら、より多くの人にフィンセントを知ってもらう手助けができればいいなと思っています。彼にはその価値があるから。みなさんにフィンセントを大好きになってほしいです!

◆ヒュー・ウェルチマン(Hugh Welchman、1975~)共同脚本/共同監督/製作 オフィシャル・インタビュー(同上) :
Q:なぜファン・ゴッホの映画を作ろうと思われたのですか?
フィンセントの人気は死後高まっていて、現在、その影響力はどの時代よりも大きいです。彼の作品は観るものに直接語りかけてくるようです。たとえその絵にほとんど、いや、まったく興味がなくても。いくつかの仕事に失敗して28歳で無一文になった彼は、この絶望的な状況から這い上がり、芸術家としての活動を開始しました。28歳で初めて絵筆を手にし、10年後には芸術の天才となりました。10年間、彼は驚くべき猛勉強を重ね、今日に至るまで人々の心を励まし慰めている一連の作品を世に送り出しました。フィンセントの物語は、彼の作品と一緒に提示することで、初めて精神的な部分まで正しく語ることができると思っていました。そして、私たちは油彩と彼の作品という手段を使い、私たちの映画の世界の構造を形成したのです。

Q:取り上げるファン・ゴッホの作品をどのように決められたのですか?
円熟期の作品を使いたかったので、映画の舞台をアルルとオーヴェール、また短期間ですがパリに設定しました。この時期の重大な場面で彼の近くにいた人たち―郵便配達人ルーラン、ミレー、ガシェ医師、マルグリット・ガシェ、タンギー親父、アドリーヌ・ラヴー―の肖像と、これらの土地の屋内と風景を選びました。彼の最もよく知られる作品をできる限り取り入れようとしたので、全部で130点以上の彼の作品を使っています。

Q:ファン・ゴッホの映画を製作するにあたりどのような準備をされたのですか?
伝記、学術書、エッセイ、そしてフィクションと、フィンセントに関するさまざまな書籍を40冊ほど読みました。4年かけて6カ国19カ所の美術館を訪れ、400点近いファン・ゴッホの作品を鑑賞しました。ほかにも、彼の人生を描いたメジャーな映画やドキュメンタリーを見たり、ファン・ゴッホ美術館で専門家にインタビューしたりしました。

Q:本物の俳優を使って撮影することにした理由は?
まず製作上の理由と、次に実用的な面で理由がありました。製作上の理由は、フィンセントが肖像画を描くときには実際の人間を使ったこと、そして、その絵に実際の人間の感情をもたらしたいと思っていたことです。私たちが実際の人間に目の前にいてほしい、彼らの感情を感じたいと思うのと同じです。人間の顔に本当の人間らしさを与えることはアニメーションにとって常に課題で、素晴らしいアニメーション映画の大半で人間以外のキャラクターや簡略化された漫画的な人間のキャラクターが描かれています。実用的な理由は、俳優を使って実写撮影することで、アニメーションでは何カ月もかかる素材を数日で作ることができたからです。ですが、コンセプト・トレーラーを作るまでこの技術が成功するか確信が持てませんでした。最初のラフな低予算のテストの結果を見て、これはいけるかもしれないと思いました。

Q:プロジェクト最大の課題は何でしたか?
このプロジェクトが実現可能だと信じてもらうことでした。相応しいパートナーを探すのは容易ではありませんでしたし、ほとんどの映画出資のスペシャリストは真新しい試みへの協力に難色を示しました。幸い、私たちを信用し、103×60センチの大きさのキャンバスに62450枚ものフレームを1枚1枚手描きできると信じてくれる、勇気ある素晴らしい人たちに出会うことができました。私たちが考案したのは、間違いなく、これまでで最も遅い長編映画の製作方法でしたから、果たして実現できるのかと疑問を持つのも当然だと思います。

◆ファン・ゴッホ調の油絵を描くという本作の企画に日本人画家として唯一参加した古賀陽子(1986~)のインタビュー(webDICE-骰子の眼 2017-10-20 ) :
──最初に、どのような経緯でこの映画に参加することになったのでしょうか?
実は、もともと特別ゴッホに思い入れがあるわけではなかったんです。たまたま母が朝の情報番組『あさチャン!』の世界のニュースを紹介するコーナーで、全て手描きの油絵の映画が現在制作中で、画家を募集しているというのを知って「完成したら一緒に観にいこうね」と言われたんです。私はぜひ参加したい!とすぐネットで検索して、ワールドワイドで募集していることを知りました。/今は、デジタルで絵を描く仕事はありますが、手描きの油絵の仕事ってほんとうにないので、なんとか自分の手描きの油絵で仕事がほしいと思っていたら、まさにそういう仕事でしたし、映画の制作に携われるってすごいなと思って、応募を決めました。/2016年の4月初旬に、応募フォームに入力していままで描いた油絵の作品の画像を添付して応募したら、ポーランドに採用試験を受けにくるようにと連絡があり、すぐポーランドに行って5月30日から採用試験を受けて、トレーニングという名の二次試験を受け、採用されたんです。そのままポーランドに残って絵を描くことになりました。/ポーランドに行ってみて、制作に参加して、ゴッホの絵を模写したり、彼の画風で描くことによって、やはりゴッホはすごい画家であることをあらためて思い知らされました。どんどん好きになっていきましたね。

──いきなりの映画制作の現場で不安はありませんでしたか?
白黒のリアルなシーンなら自分に向いているかなと思って応募したんですけれど、人が足りているので、ゴッホのタッチのカラフルなシーンを任されて、ちょっと焦りました(笑)。

──振り返って、古賀さんが採用されたのはどこがポイントだったと思いますか?
採用試験では主人公の青年アルマン・ルーランのアップを描いて受かったので、イタリア留学中に勉強した解剖学が役に立ったのかなと思います。人物の表情の流れは筋肉や骨に添っているもので、人体を描くときに、骨格や筋肉を把握した上で描くという勉強が活きたのかなと思います。/普段から肖像画を描くことが多いので、人物のアップのシーンを描きたかったのですが、人物の引きの絵、カラスが飛んでいる絵や教会の絵が回ってきたのは想定外でした。

──どのような場所で、どれくらい制作したのですか?
ヴロツワフという街にあるスタジオで個室のアトリエを与えられ、日によって違う光が入らないように、カーテンを閉めて作業していました。トレーニングと試験が1ヵ月くらいあって、その後週5~6日で3ヵ月作業していました。その間集中力を保つのがめちゃくちゃ大変でした。/しんどいと思ってしまったら本当にしんどくなってしまうので、自分を奮い立たせました。シーンを通して見ると動いていますが、一コマやっと終わってもまた同じ絵の連続なので、技術的にはもちろん、精神的な大変さがありました。これが6ヵ月や1年だったら耐えられなかったかもしれませんが、私は3ヵ月と期間を決めていたのでがんばることができました。/シーンによって異なりますが、一日平均6コマ、トータルで約580コマを描きました。それだけがんばっても作品にしたら1分弱にしかなりません(笑)。/アトリエでは、制作側が考えているレベルに対する理想の速さを100%として、成績が壁に張り出されるんです。それによってお給料も変わってきます。私も始めは遅かったんですけれど、最後には100%以上になりました。私がいたスタジオ全体としても、他のスタジオに比べて成績が悪かったんですけれど、最終的に1位になって喜び合いました(笑)。

──制作体制については?
私のいたスタジオには、もともと画家だった人が上司として監修していました。毎日データをメインスタジオに送って監督がチェックして、何か指示があれば上司から聞いて絵に反映させていました。

──一緒に作業したのは、どんな画家だったのですか?
私のいたスタジオには10人いたのですが、建物の修復をしている人や、英語の先生をしながら絵の活動をしている人、大学を休業してやっている18歳の子もいれば、4、50代の方、家族を置いて来ているスペイン人や、アメリカ人、マケドニア人など、国も境遇も本業も様々でした。

──制作中で大変だったことは?
監督からのOKがないと次に進めないのですが、例えばカラスを黒で描いていても、途中で「やっぱり青にして」と言われて、前のコマに戻って泣く泣く描きなおしたりしたのは精神的に疲れました。教会のシーンを任されたときは、ゴッホの「オーヴェルの教会」をとにかく模写をしていたんですが、「似ているだけじゃだめ、かすれ具合まで同じにして」と言われて苦労しました。

──そこには古賀さんというひとりの画家としての作家性は込められていると思いますか?
そのときは自分が何かを一から作り上げるという創造の楽しさというよりも、ただただ制作を、作業すること自体を楽しんでいました。そこにも自分なりのこだわりを加えたり。

──作品は、ゴッホの最期の日々を克明に描いていますが、古賀さんご自身もゴッホの気持ちを想像したり、ゴッホになりきるような意識もあったのでしょうか?
ゴッホについては、すごい意思を持っているのに、本人が知るなかでは絵が1枚しか売れてなかったり、というエピソードは泣けましたし、彼の生き様や悲劇的な人生に共感しました。

──完成した作品をご覧になったときは、どんな気持ちでしたか?
物語のなかに自分のシーンが入っているのを観て感慨深いものがありました、カットされてない!って(笑)。苦労してきたので、愛着が半端なかったです。/ゴッホの人生だけでなく、さらに死について深く迫っているというその着眼点と、ミステリータッチになっているところもすごく面白かったです。ゴッホの死生観も描かれていて、感動的でした。

──ゴッホの幻の作品の復元作業にも尽力されましたが、この作品への参加は古賀さんにとって大きかったですか?
そうですね、ゴッホのファンなら実際に美術館に行ったり画集を見て彼の作品をたくさん知っていると思いますが、この作品にはいろんなゴッホの作品が盛り込まれていて、視覚的に動く絵としてゴッホの作品を体験できるということはすごい意味のあることだと思います。/今回復元した「恋人たちのいるラングロワの橋」※についても、明確な答えではないですが、実在しない作品に思いをはせるきっかけになる意義のあるプロジェクトで、参加できて光栄です。

※日本初となるオランダのファン・ゴッホ美術館との国際共同プロジェクト「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」が、2017年8月26日~10月15日、北海道立近代美術館(札幌市)で開催された。同展には、ファン・ゴッホの幻の作品「恋人たちのいるラングロワの橋」の世界初の復元画が展示された。資料や同時代に描かれた作品~「水夫と恋人」(1888年)など~をもとに、この難易度の高い、緻密な復元作業を直接担当したのが古賀陽子である。彼女のコメント:「復元にあたり、ファン・ゴッホの色彩やタッチの絶妙なバランス感覚と力強い表現力を肌で感じ、彼の作品の素晴らしさに改めて感嘆しました。探求をやめないファン・ゴッホの、絵ごとに変わりゆく画風の中に一貫した〈ファン・ゴッホらしさ〉を発見・表現することは、手探りで困難な作業です。この復元に正解はありませんが、失われた、もう誰にも観ることのできない作品に想いを馳せながら進める作業は、とても貴重な経験です。」なお、同展は〈札幌展〉の後、2017年10月24日~2018年1月8日に東京都美術館で、2018年1月20日~3月4日に京都国立近代美術館で、それぞれ開催された。

──イギリスとポーランドの合作で世界各国の画家が参加しての制作ですが、日本でもこうした国際的なプロジェクトがたくさん生まれたらいいですね。
ぜひ実現させたいですね!芸術の力って文化の違いを越えて交流できること。政治的に冷え切っていたとしても、芸術でそれを乗り越えることができる。そういうものが日本から発信されれるって考えただけで素晴らしい大きな意義のあることですね。

──今作の原題は『Loving Vincent』ですが、古賀さんをはじめ、参加したクリエイターの「ゴッホ愛」が伝わる映画になっていると感じます。
もともとゴッホが好きで参加した方も、ただ絵を描きたくて参加した方もきっと最終的にみんなゴッホが大好きになっているんじゃないかと思います。ゴッホは、絵に対する情熱の強さが彼の表現に表れている。その思いの強さこそがゴッホかなと思います。それは見習ってできることではないですが、少しでも近づきたい。ゴッホ自身も浮世絵に影響をされて、それを自分のなかで昇華させて自分のスタイルを確立したので、この経験を私の作品にも活かしたいと思っていて、タッチひとつひとつに魂が込められた、そうした表現力を私も身につけたいなと思います。

【「映画『ゴッホ~最期の手紙~』(2)」[本ブログ〈December 15, 2018〉]へ続く…】
2018年11月27日(火)吉祥寺プラザ(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-11-19、JR吉祥寺駅北口サンロード突き当たり左)で、13:30~鑑賞。

作品データ :
原題 ERIC CLAPTON:LIFE IN 12 BARS
製作年 2017年
製作国 イギリス
配給 ポニーキャニオン/STAR CHANNEL MOVIES
上映時間 135分


「エリック・クラプトン」

「ギターの神様」と評されるエリック・クラプトン(Eric Clapton、1945~)の波乱に満ちた壮絶な人生に迫る珠玉の音楽ドキュメンタリー。関係者インタビューを極力入れず、ザ・ヤードバーズ、クリームなどのバンド期、そしてソロ活動の未発表映像を中心にした映像群のほか、日記や直筆の手紙、デッサンなどの貴重な資料を繙(ひもと)き、本人によるナレーションでクラプトンの人生を描いていく。さらにジョージ・ハリスン、ジミ・ヘンドリックス、B・B・キング、ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ビートルズ、ボブ・ディランなど豪華アーティストの貴重なアーカイブ映像も盛り込み、クラプトンと彼を取り巻く人びとからその時代が切り取られる。監督は『ドライビング Miss デイジー』などの製作で知られるリリ・フィニー・ザナック。

ストーリー :
グラミー賞を18回受賞、「ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)」入りを3回果たすなど、長年音楽界を牽引し続ける世界的スーパースター、エリック・クラプトン。ジェフ・ベック(Jeff Beck、1944~)、ジミー・ペイジ(Jimmy Page、1944~)とともに、「世界3大ロック・ギタリスト」とも称されている。 お金や名声よりも音楽性を優先し、愚直なまでにブルースに身を捧げ、天才の名をほしいままにしてきたが、私生活では欲望と愛情、快楽と幸せの区別もつかないまま、いつも“何か”を探して彷徨(さまよ)い続けてきた。酒、ドラッグ、女、そして音楽、全てのものに溺れていく―。
イギリスのリプリーで生まれたクラプトンは、実の母親から拒絶され、祖父母に育てられた。この幼少期のトラウマとなった複雑な家庭環境から、彼は自己破滅的な怒りと世間に対する不信感を抱き、寂しさ・怒り・拒絶という感情を和らげるため、ラジオ番組で紹介されていたブルース・ギターの世界に奥深く逃げ込む。チャック・ベリー(Chuck Berry、1926~2017)らから時代を遡るようにしてブルースへの関心を深め、16歳の時に初めて聞いたロバート・ジョンソン(Robert Johnson、1911~38)の存在は決定的だった。レコードやラジオを相手にひたすら模倣の日々を続け、自分のスタイルを確立する。
クラプトンの名を人々に知らしめたザ・ヤードバーズ(The Yardbirds)を経て、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ(John Mayall & The Bluesbreakers)に在籍し日夜ライブでブルースを奏でていたこの頃、「Clapton is God(クラプトンは神)」という落書きが町中に見られた。マーシャルアンプとギブソンのレスポールを組み合わせ、奇跡の音色を生み出し、「ギターの神様」と呼ばれる。その後に組んだ伝説的バンドであるクリーム(Cream)は、ザ・ビートルズ (The Beatles) 、ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) とともに一世を風靡するがメンバー同士の不和により、クラプトンはバンドを脱退。共にブルースを追求する真の仲間を求め、ブラインド・フェイス(Blind Faith)、デレク・アンド・ザ・ドミノス(Derek and the Dominos)などバンドを転々とする。
ギターのテクニックと抜群のルックスを併せ持つクラプトンが興味を持った女性は、いとも簡単に彼に靡(なび)いていく。その病的なまでの女性遍歴は、幼少期に愛情に飢えたことによるものも大きいだろう。親友であるジョージ・ハリスン(George Harrison、1943~2001、ザ・ビートルズのメンバー)の妻パティ・ボイド(Patricia Boyd、1944~)に熱を上げてしまい、ロマンチックなペルシャの恋物語と自らの報われない愛を重ね合わせ、「いとしのレイラ」(原題:Layla、1971年)を制作し、捧げる。「よくないのは分かっていたが、衝動を抑えられなかった」とクラプトン自ら当時の心境を語る。しかし、儚く散った失恋に追い打ちをかけるように、祖父や、心を許し合った友ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix、1942~70)、デュアン・オールマン(Duane Allman、1946~71)が次々とこの世を去ったことなどから、深刻なドラッグ中毒へ転落、それから重度のアルコール依存症に陥ってしまう。
「どん底に沈んでいた時期に自殺を図らなかった唯一の理由は、死んだら酒が飲めなくなると思ったからだ」とクラプトン本人が語るように、70年代は昼間から酒浸りになりコンサートでも碌に演奏できず、ステージ上で観客に向かって悪態をついたり、人種差別発言などで物議を醸す。復帰不可能と思われていたクラプトンであったが、80年代初頭に復帰を果たす。クラプトン・ファンだけでなく、ロック・ファンの多くがクリームのような、あるいはそれを凌ぐようなサウンドを期待し、“ギターの神様”復活に胸を膨らませていたが、鋭いギタープレイなどはどこにもなかった。もはや、テクニックを見せつけて周囲に認められるというのではなく、力まず実にリラックスしてゆったりし、ただ余裕をもって音楽を楽しんでいる“レイドバック・サウンド(Laidback Sound )”として評価されるようになる。
そんな折~1991年3月20日~、4歳の息子コナーがマンションの53階から誤って転落し亡くなってしまう。失意のどん底に突き落とされ、周囲からは、再びドラッグと酒の世界に舞い戻ってしまうのではと危惧されていたが、その事件により、ようやくクラプトンは正気を取り戻した。音楽が再び彼の痛みを和らげてくれたのだ。これから先の人生は、死せる息子を思いながら生きるという覚悟のもと、音楽制作に没頭。「ティアーズ・イン・ヘブン(Tears in Heaven)」(1992年)で見事グラミー賞を獲得し、完全復活を果たす。ドラッグとアルコールではなく、音楽と節制、健康で幸福な人間関係に拠り所を、生きる力と癒やしを見出したのだ。1998年には、依存症患者を支援する施設クロスロード・センター・アンティグア(Crossroads Centre Antigua )を設立。その後も野太くひずんだヘビーな音色、人生を感じさせてくれる滋味深い大人の声でを魅了していく。
時にはブリティッシュ・ロック、時にはレゲエ、時にはカントリー、時にはポップにその身を置いてきたクラプトンだが、根底にはブルースの血が脈々と流れている。幼き頃の過酷な家庭環境、親友の妻への許されざる恋、お互い認め合ったライバルや友人の死。そこから抜け出すために陥った、ドラッグとアルコール。どうにか人生を取り戻そうとした矢先に訪れた、最愛の息子の死。そう、クラプトンはブルースで自分の人生の悲哀を詩に込め歌い上げているのだ。苦しみや葛藤や痛みなどを癒やすためにただ歌い、弾く。詩に隠された繊細な感情、そしてブルースへの愛情。いつだって、音楽に全力で向き合ってきた。そして、傍らには音楽があって、仲間や支えてくれる人がいた。だからこそ、クラプトンは孤高でいることができ、彼の音楽は人の心を打つのである。彼は言う、「ずっと欲しかったものをやっと見つけた。最高の人生じゃないかな」。
天国と地獄を行きつ戻りつするような過酷で数奇に満ちた人生を経て、初めて自分の居場所を見つけた今だから振り返ることができる、クラプトン自らが赤裸々に語る、音楽と愛と魂の軌跡―。

▼予告編



音譜 Eric Clapton 「Layla(邦題:いとしのレイラ)」(作詞・作曲:エリック・クラプトン&ジム・ゴードン〈Jim Gordon、1945 ~〉)at Live Aid 1985 :
(Eric Clapton performing with Phil Collins at Live Aid in front of 100,000 people in the John F. Kennedy Stadium, Philadelphia USA on the 13th July, 1985. ここにイギリス会場から到着したフィル・コリンズがドラマーとして参加。cf. 本ブログ〈December 10, 2018〉)


音譜 “Layla” by Eric Clapton with lyrics :
(「Layla」は、流麗なギターによる前半部分と、後半のピアノコーダ部分から成り、ロックの代表的なラブソングの1つである。)


音譜 “Tears in Heaven” by Eric Clapton with lyrics(作詞・作曲:エリック・クラプトン&ウィル・ジェニングス〈Will Jennings、1944~〉) :
[「ティアーズ・イン・ヘブン」は、クラプトンの息子「コナー(Conor)」に捧げる鎮魂歌である。1986年8月、クラプトンはイタリアのファッションモデルで女優のロリ・デル・サント(Lori Del Santo)との間にConorを授かる。彼は自分によく似た息子をとても可愛がり、父親としての時間を大切にしたいと決意していた。しかし、1991年3月20日午前11時、当時4歳半だったConorがニューヨークのアパート(高層マンション)の、たまたま開いていた踊り場の窓から転落して死亡した。あまりにも悲劇的な事態に激しいショックを受け、自宅に引き篭もってしまうクラプトン…。しかし、やがて彼は、Conorの死を悼む曲を作ることで、その悲しみを乗り越えていく。―「これからは息子のために生きる。息子への想いを音楽で捧げたい」、「幼いころ、母親から拒絶されて音楽に出会い、自分は救われた。息子を亡くし、(自暴自棄になりかけた自分を)再び音楽が救ってくれた」]