『フレンチ・コネクション』(1971年)でアカデミー作品賞・監督賞ほか5部門受賞、『エクソシスト』(1973年)で全世界にオカルト・ブームを巻き起こしたウィリアム・フリードキン(William Friedkin、1935~)が、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による1953年の傑作フランス映画『恐怖の報酬(Le Salaire de la peur)』をハリウッドでリメイクしたサスペンス大作。ユニバーサルとパラマウントという2大メジャー・スタジオが、当時破格の2000万ドル(現在の100億円相当)以上といわれる製作費を共同出資。ロケは北米・南米・ヨーロッパの3大陸、アメリカ・フランス・イスラエル・メキシコ・ドミニカ共和国の5か国に及び、2年を超える製作期間を費やしてようやく完成した。だが、1977年6月の全米初公開時、批評が賛否に分かれたこと以上に、歴史的大ヒットを続けていた『スター・ウォーズ』の直撃を受け、興行的に失敗。北米以外の国(日本も含む)では、フリードキン監督に無断で本編121分が大幅にカットされた92分の【短縮版】(『Wages of Fear 』と改題)が公開され(日本公開:1978年3月25日)、まともに評価されることもなく公開は終了。以後、日本では数回の【短縮版】TV放送、1991年のセル・ビデオ(北米公開121分版)発売を最後に一切見ることが不可能になっていた。出資した2大スタジオが互いに興行失敗の責任を回避し、作品の権利を積極的に主張しなかったことによって、世界的に過去数十年間にわたって上映できない状況が続き、北米以外ではDVDも発売されなかった。日本では、熱狂的なファンが再公開やDVD化のリクエストの声を上げるも実現せず、オリジナル版を見ることは半ば絶望視されていた。しかし2013年、フリードキン監督は複雑極まりない権利問題を解きほぐし、自ら指揮を執って121分【オリジナル完全版】の5.1ch、4Kデジタル・リマスター化に着手。同年のベネチア国際映画祭でプレミア上映され、以後、2014年ロサンゼルス、2015年パリ、2016年カンヌ国際映画祭、2017年ロンドンで上映され、各地で再評価されて今日に至っている。そして2018年11月24日に、日本でも『恐怖の報酬【オリジナル完全版】』のタイトルで劇場公開された。 本作では、南米のジャングルを舞台に、反政府ゲリラによって爆破された油田の火災を鎮火させるため、ひとり1万ドルの「報酬」と引き換えに、危険なニトログリセリン運搬を引き受けた4人の男たちの命運が描かれる。主演は『JAWS/ジョーズ』『オール・ザット・ジャズ』の米国の名優ロイ・シャイダー(Roy Scheider、1932~2008)。そして、世界各国からフリードキン監督好みの性格俳優が結集⇒フランスから『まぼろし』のブルーノ・クレメル(Bruno Cremer、1929~2010)、スペインから『バロック』のフランシスコ・ラバル(Francisco Rabal、1926~2001)、モロッコから『RONIN』のアミドゥ(Amidou、1935~2013)が出演。
私は中学1年時頃を境にして、時の経つほどに、その生き方についても、その芸術作品についても、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(1853~90)よりもウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin、1848~1903)にずっと魅力の虜(とりこ)になっていった(前掲「本ブログ〈April 17, 2018〉」参照)。 私の見るところ、原理的に突き詰めれば、ファン・ゴッホは自己を“内包的に”確認していく人間であり、ゴーギャンは自己を“外延的に”拡大していく人間である。要するに、両者の特長を強いて比較的に見定めれば、前者が自己の深まりにおいて、後者が自己の拡がりにおいて、それぞれ秀でた芸術家である―。本然の若さに溢れた中学→高校→大学時代の私が、晩年に母国フランスを離れて、地球の裏側のポリネシアで、“人間の根源”を執拗に探求し続けた芸術家ゴーギャンに強い憧れを燃やし続けたことは言うまでもない。私は1980年代の半ば、ゴーギャンへの想いが募るあまり彼の足跡をたどって初めてタヒチ行きを決行した―。
オランダのポスト印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853/03/30~1890/07/29)の謎に包まれた死の真相に迫るミステリー・ドラマにして、世界初の全編“動く絵画”のみで構成された異色のアート・アニメーション。本作はダグラス・ブース、ヘレン・マクロリー、シアーシャ・ローナン、クリス・オダウドをはじめとする一流キャストが実際にファン・ゴッホの絵のモデルにもなっている登場人物たちを演じ、その実写映像を基に、総勢125人の画家たちがファン・ゴッホのタッチを模して描いた62,450枚もの油絵を使用してアニメーション化された。監督と脚本を手がけたのは、画家の顔と映画作家の顔を併せもつドロタ・コビエラと、『ピーターと狼』(2006年)の製作で第80回アカデミー賞短編アニメ賞に輝いたヒュー・ウェルチマン。キャストの撮影から絵画の完成までの全過程には4年を要し、監督のウェルチマンは「我々はこの120年で最も遅い映画制作法を発明した」と振り返った。第30回ヨーロッパ映画賞長編アニメ映画賞を受賞し、また第90回アカデミー賞長編アニメ映画賞にもノミネートされている。 描かれるのは、郵便配達人である父からファン・ゴッホの手紙を託された青年アルマンが、ファン・ゴッホの真実を求めて旅をする物語。一般的には銃による「自殺」とされているファン・ゴッホの死だが、そこには説明のつかない、不可解な事実が隠されている。ファン・ゴッホが遺した手紙をきっかけに、アルルからパリ、そして彼が最期の日々を過ごしたオーヴェールに行き着くアルマンとともに、観客はファン・ゴッホの描いた絵画の世界へと誘われ、入り込んだような感覚を覚えていく…。映画はファン・ゴッホの人生を探す旅を、彼自身が描いたとしか思えない油絵で描写し、伝記的な回想部分はモノクロの水彩画で表現。肖像画で見たさまざまな登場人物がファン・ゴッホを語り、彼の情熱・孤独・愛が、彼自身の人生が浮かび上がる。37歳という若さで、彼はなぜ命を絶たなければならなかったのか?彼は本当に自分の腹を銃で撃ったのか?そして、次第に姿を見せる偉大な画家の魂…。 アーティストたちによる情熱の結晶である本作はまた、気が遠くなるような制作過程を踏んだからこその魅力に溢れている。映画はまず、俳優たちが役を演じる実写映画として撮影された。彼らはファン・ゴッホの絵画に似せて作られたセットで、あるいは撮影後にCGアニメーションでファン・ゴッホの絵と合成させるためのグリーンバックを背景に演技を披露。それをとらえた映像は特別なシステムでキャンバスへ投影され、長期にわたる特訓でファン・ゴッホのタッチを完璧に習得した画家たちの筆で油絵に。各国から選ばれた画家たち~5,000人以上の応募者の中から日本人画家の古賀陽子を含む125人が選抜される~は、各俳優の特徴を残しつつも、絵画に登場する人物の風貌や雰囲気をうまく混ぜ合わせ、動く肖像画へと生まれ変わらせた。本編の1秒は、12枚の油絵を撮影した高解像度写真によって構成されている。こうして豪華キャスト陣の名演と、それを元に描かれた62,450枚もの油絵が、ファン・ゴッホの世界に新たな生命を吹き込んだ―。
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホの生涯 : (ファン・ゴッホ、正式名「Vincent Willem van Gogh」。なお、オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部である。) 1853年3月30日、フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部、ベルギーとの国境にほど近いブラバンド地方フロート・ズンデルト(Groot-Zundert)で、牧師の家に生まれる。 男3人、女3人の6人きょうだいの長男(その前の初子は死産)で、4歳下のテオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh、1857/05/01~1891/01/25、通称テオ〈Theo〉)とは終生にわたり、強い絆で結ばれていた(テオは親兄弟と確執関係にあったフィンセントの唯一の理解者で、兄に生活費を援助するなどして支えた人物だった)。 フィンセントは小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる「農場の家と納屋」と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンス(Constant Cornelis Huijsmans、1810~86)という画家がこの学校で教えており、フィンセントも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、フィンセントはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。 1869年7月、16歳のフィンセントは伯父の経営する美術商グーピル商会に入社、ハーグ(Den Haag)支店に勤務。その3年後にはテオも同社の別支店に就職し、この頃からテオとの文通が始まる。兄弟の往復書簡はフィンセントが死ぬまで続けられた。 グーピル商会で、絵画について熱心に学んだフィンセントは一時、ロンドン支店に栄転。しかし、失恋のせいもあって仕事に身が入らなくなり、接客能力がないと見なされて1876年1月に解雇されてしまう。それは両親にとっても屈辱的な出来事であり、フィンセントは汚名返上を目指し奮闘する。イングランドで教師をしたり、オランダのドルトレヒト(Dordrecht)で書店員として働いた後、彼は父親と同じ牧師になるために勉強することを決意。しかし神学校の試験に合格できる学力を備えることができず、ベルギーのボリナージュ(Borinage)という極貧の炭鉱地帯にある教会の伝道師見習いとなる。ところが、彼は教会の所有物や自分の食べ物・衣服さえも、貧しい炭鉱夫たちに分け与えるという極端に献身的な行動が教会にとって望ましくないという理由で、この低い役職からも解雇されることに。 窮地に陥ったフィンセントの元へ、最愛の弟テオが兄を絶望から呼び戻そうと訪ねてくる。テオはフィンセントに、芸術への愛を活かして芸術家を目指すべきだと提案した。27歳のフィンセントは最後の希望に賭け、テオからもらった教本を頼りに絵の独学を開始。驚異的な創作意欲を発揮し、着実に画才を伸ばしていった。 やがて彼は、ハーグに住む義理のいとこで、オランダで最も有名な現役画家アントン・モーヴ(Anton Mauve、1838~88)の教えを受ける。しかし、アトリエで子連れの娼婦と同棲し始めたことなどが原因でモーヴと仲違い。フィンセントは両親のいるニューネン(Nuenen)の牧師館へと戻るが、教会や牧師を批判し、父親と激しく争うようになる。まもなく父親が心臓発作で急死すると、母親や妹たちから父親に心労をかけていたことを責められた。ここで最初の傑作「ジャガイモを食べる人々」(1885年4~5月)を完成させるも家族との関係は修復しがたく、ベルギーのアントウェルペン(オランダ語:Antwerpen、英語:Antwerp〈アントワープ〉、フランス語:Anvers 〈アンヴェール〉)へ。ここで日本の浮世絵を知った。 1886年、フィンセントはパリのモンマルトルに住むテオの家に転がり込む。テオのつてでコルモン画塾へ通い出し、ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec、1864~1901)やエミール・ベルナール(Émile Bernard、1868~1941)ら、若く才能ある画家たちと出会った。 それから3か月、フィンセントはテオのおかげで最も興味深い新進画家グループの中心となっていたが、パーティー三昧の生活に嫌気がさす。そこで傾倒している浮世絵に描かれているような陽の光と花々を求めて、単身南フランスへと向かうことにする。 非常に珍しいことに、1888年2月20日、彼がプロヴァンスのアルル(Arles)に到着したときは雪が降っていた。ほどなくして雪は解け、花々が一斉に咲き乱れる。そこで、オランダ時代の技法とパリで学んだスタイル、さらに浮世絵の研究を融合させた、フィンセント独自の新しい画風が花開く。次々と新しい作品を描き上げたフィンセントは、パリから画家仲間を呼び寄せて共同生活を送れるアトリエを作ろうと、黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」-フィンセントによる1888年9月制作の油彩画)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借りた。だが、やって来たのは食費と家賃が無料という条件につられたポール・ゴーギャン(Paul Gauguin、1848~1903)だけだった(1888年10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、フィンセントとゴーギャンの共同生活が始まった) 。2人の間に競争心や反感が生じ始めると、“黄色い家”では頻繁に口論が起きるようになる。そして、その生活はある晩~1888年12月23日~の諍いの後、フィンセントが自分の左耳を切り落とし馴染みの娼婦に手渡した事件で終焉を迎える。事件の翌日、ゴーギャンはアルルを去り、フィンセントは地元のアルル市立病院に収容された。 2週間が経ち、フィンセントの発作はすっかり収まったように見えたが、すぐにまた健康状態が悪化。彼の退去を求め、市長への嘆願書に署名した住民たちからの圧力を受けて、フィンセントは1889年5月、アルルから25キロ離れたサン・レミ(Saint-Rémy)の精神療養院に入院する(嘆願書は、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、フィンセントを家族が引き取るか精神病院に収容するよう求めるもの)。 やがて1890年5月、健康状態が回復し退院できることになったフィンセントは、パリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェール・シュル・オワーズ(Auvers-sur-Oise)という寂れた保養村へ移り住む。彼がその地を選んだ理由には、芸術家の鬱病治療を専門とする医師ポール・ガシェ(Paul-Ferdinand Gachet、1828~1909)の存在があった。ガシェ自身も絵画を嗜(たしな)んでおり、現在のアマチュア画家以上になりたいと熱望していた(ガシェは週に数度パリで診察を行なっていたが、1890年3月に初めてゴッホの診察をし、健康回復のために彼をオーヴェールに招いた)。 フィンセントは当初、ガシェ医師と友情を深め、オーヴェールにうまく馴染んでいると思われた。しかし経済面、健康状態、弟テオとその生まれたばかりの子供(1890年1月31日にテオ夫妻〈妻ヨー〉に息子が生まれ、兄と同じフィンセント・ウィレム〈Vincent Willem van Gogh〉と名付けられた)、周囲からの孤立など、依然として様々な不安を抱えていた。さらにガシェ医師との関係にも次第に不和が生じていったらしい。ある日曜の晩~1890年7月27日~、ラヴー宿(Auberge Ravoux)に戻ったフィンセントは、腹に致命傷を負っていた。彼は自分で撃ったと主張したが、持って出た油彩道具は持たずに戻り、銃も持っていなかった。結局、油彩道具と銃は発見されていない。そして2日後~1890年7月29日午前1時半~、フィンセントは最愛の弟テオに看取られて息を引き取る。享年37歳。オーヴェールに到着してからわずか10週間で、70点の油彩を残していた。
作品データ : 原題 ERIC CLAPTON:LIFE IN 12 BARS 製作年 2017年 製作国 イギリス 配給 ポニーキャニオン/STAR CHANNEL MOVIES 上映時間 135分
「ギターの神様」と評されるエリック・クラプトン(Eric Clapton、1945~)の波乱に満ちた壮絶な人生に迫る珠玉の音楽ドキュメンタリー。関係者インタビューを極力入れず、ザ・ヤードバーズ、クリームなどのバンド期、そしてソロ活動の未発表映像を中心にした映像群のほか、日記や直筆の手紙、デッサンなどの貴重な資料を繙(ひもと)き、本人によるナレーションでクラプトンの人生を描いていく。さらにジョージ・ハリスン、ジミ・ヘンドリックス、B・B・キング、ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ビートルズ、ボブ・ディランなど豪華アーティストの貴重なアーカイブ映像も盛り込み、クラプトンと彼を取り巻く人びとからその時代が切り取られる。監督は『ドライビング Miss デイジー』などの製作で知られるリリ・フィニー・ザナック。
ストーリー : グラミー賞を18回受賞、「ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)」入りを3回果たすなど、長年音楽界を牽引し続ける世界的スーパースター、エリック・クラプトン。ジェフ・ベック(Jeff Beck、1944~)、ジミー・ペイジ(Jimmy Page、1944~)とともに、「世界3大ロック・ギタリスト」とも称されている。 お金や名声よりも音楽性を優先し、愚直なまでにブルースに身を捧げ、天才の名をほしいままにしてきたが、私生活では欲望と愛情、快楽と幸せの区別もつかないまま、いつも“何か”を探して彷徨(さまよ)い続けてきた。酒、ドラッグ、女、そして音楽、全てのものに溺れていく―。 イギリスのリプリーで生まれたクラプトンは、実の母親から拒絶され、祖父母に育てられた。この幼少期のトラウマとなった複雑な家庭環境から、彼は自己破滅的な怒りと世間に対する不信感を抱き、寂しさ・怒り・拒絶という感情を和らげるため、ラジオ番組で紹介されていたブルース・ギターの世界に奥深く逃げ込む。チャック・ベリー(Chuck Berry、1926~2017)らから時代を遡るようにしてブルースへの関心を深め、16歳の時に初めて聞いたロバート・ジョンソン(Robert Johnson、1911~38)の存在は決定的だった。レコードやラジオを相手にひたすら模倣の日々を続け、自分のスタイルを確立する。 クラプトンの名を人々に知らしめたザ・ヤードバーズ(The Yardbirds)を経て、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ(John Mayall & The Bluesbreakers)に在籍し日夜ライブでブルースを奏でていたこの頃、「Clapton is God(クラプトンは神)」という落書きが町中に見られた。マーシャルアンプとギブソンのレスポールを組み合わせ、奇跡の音色を生み出し、「ギターの神様」と呼ばれる。その後に組んだ伝説的バンドであるクリーム(Cream)は、ザ・ビートルズ (The Beatles) 、ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) とともに一世を風靡するがメンバー同士の不和により、クラプトンはバンドを脱退。共にブルースを追求する真の仲間を求め、ブラインド・フェイス(Blind Faith)、デレク・アンド・ザ・ドミノス(Derek and the Dominos)などバンドを転々とする。 ギターのテクニックと抜群のルックスを併せ持つクラプトンが興味を持った女性は、いとも簡単に彼に靡(なび)いていく。その病的なまでの女性遍歴は、幼少期に愛情に飢えたことによるものも大きいだろう。親友であるジョージ・ハリスン(George Harrison、1943~2001、ザ・ビートルズのメンバー)の妻パティ・ボイド(Patricia Boyd、1944~)に熱を上げてしまい、ロマンチックなペルシャの恋物語と自らの報われない愛を重ね合わせ、「いとしのレイラ」(原題:Layla、1971年)を制作し、捧げる。「よくないのは分かっていたが、衝動を抑えられなかった」とクラプトン自ら当時の心境を語る。しかし、儚く散った失恋に追い打ちをかけるように、祖父や、心を許し合った友ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix、1942~70)、デュアン・オールマン(Duane Allman、1946~71)が次々とこの世を去ったことなどから、深刻なドラッグ中毒へ転落、それから重度のアルコール依存症に陥ってしまう。 「どん底に沈んでいた時期に自殺を図らなかった唯一の理由は、死んだら酒が飲めなくなると思ったからだ」とクラプトン本人が語るように、70年代は昼間から酒浸りになりコンサートでも碌に演奏できず、ステージ上で観客に向かって悪態をついたり、人種差別発言などで物議を醸す。復帰不可能と思われていたクラプトンであったが、80年代初頭に復帰を果たす。クラプトン・ファンだけでなく、ロック・ファンの多くがクリームのような、あるいはそれを凌ぐようなサウンドを期待し、“ギターの神様”復活に胸を膨らませていたが、鋭いギタープレイなどはどこにもなかった。もはや、テクニックを見せつけて周囲に認められるというのではなく、力まず実にリラックスしてゆったりし、ただ余裕をもって音楽を楽しんでいる“レイドバック・サウンド(Laidback Sound )”として評価されるようになる。 そんな折~1991年3月20日~、4歳の息子コナーがマンションの53階から誤って転落し亡くなってしまう。失意のどん底に突き落とされ、周囲からは、再びドラッグと酒の世界に舞い戻ってしまうのではと危惧されていたが、その事件により、ようやくクラプトンは正気を取り戻した。音楽が再び彼の痛みを和らげてくれたのだ。これから先の人生は、死せる息子を思いながら生きるという覚悟のもと、音楽制作に没頭。「ティアーズ・イン・ヘブン(Tears in Heaven)」(1992年)で見事グラミー賞を獲得し、完全復活を果たす。ドラッグとアルコールではなく、音楽と節制、健康で幸福な人間関係に拠り所を、生きる力と癒やしを見出したのだ。1998年には、依存症患者を支援する施設クロスロード・センター・アンティグア(Crossroads Centre Antigua )を設立。その後も野太くひずんだヘビーな音色、人生を感じさせてくれる滋味深い大人の声でを魅了していく。 時にはブリティッシュ・ロック、時にはレゲエ、時にはカントリー、時にはポップにその身を置いてきたクラプトンだが、根底にはブルースの血が脈々と流れている。幼き頃の過酷な家庭環境、親友の妻への許されざる恋、お互い認め合ったライバルや友人の死。そこから抜け出すために陥った、ドラッグとアルコール。どうにか人生を取り戻そうとした矢先に訪れた、最愛の息子の死。そう、クラプトンはブルースで自分の人生の悲哀を詩に込め歌い上げているのだ。苦しみや葛藤や痛みなどを癒やすためにただ歌い、弾く。詩に隠された繊細な感情、そしてブルースへの愛情。いつだって、音楽に全力で向き合ってきた。そして、傍らには音楽があって、仲間や支えてくれる人がいた。だからこそ、クラプトンは孤高でいることができ、彼の音楽は人の心を打つのである。彼は言う、「ずっと欲しかったものをやっと見つけた。最高の人生じゃないかな」。 天国と地獄を行きつ戻りつするような過酷で数奇に満ちた人生を経て、初めて自分の居場所を見つけた今だから振り返ることができる、クラプトン自らが赤裸々に語る、音楽と愛と魂の軌跡―。
▼予告編
Eric Clapton 「Layla(邦題:いとしのレイラ)」(作詞・作曲:エリック・クラプトン&ジム・ゴードン〈Jim Gordon、1945 ~〉)at Live Aid 1985 : (Eric Clapton performing with Phil Collins at Live Aid in front of 100,000 people in the John F. Kennedy Stadium, Philadelphia USA on the 13th July, 1985. ここにイギリス会場から到着したフィル・コリンズがドラマーとして参加。cf. 本ブログ〈December 10, 2018〉)
“Layla” by Eric Clapton with lyrics : (「Layla」は、流麗なギターによる前半部分と、後半のピアノコーダ部分から成り、ロックの代表的なラブソングの1つである。)
“Tears in Heaven” by Eric Clapton with lyrics(作詞・作曲:エリック・クラプトン&ウィル・ジェニングス〈Will Jennings、1944~〉) : [「ティアーズ・イン・ヘブン」は、クラプトンの息子「コナー(Conor)」に捧げる鎮魂歌である。1986年8月、クラプトンはイタリアのファッションモデルで女優のロリ・デル・サント(Lori Del Santo)との間にConorを授かる。彼は自分によく似た息子をとても可愛がり、父親としての時間を大切にしたいと決意していた。しかし、1991年3月20日午前11時、当時4歳半だったConorがニューヨークのアパート(高層マンション)の、たまたま開いていた踊り場の窓から転落して死亡した。あまりにも悲劇的な事態に激しいショックを受け、自宅に引き篭もってしまうクラプトン…。しかし、やがて彼は、Conorの死を悼む曲を作ることで、その悲しみを乗り越えていく。―「これからは息子のために生きる。息子への想いを音楽で捧げたい」、「幼いころ、母親から拒絶されて音楽に出会い、自分は救われた。息子を亡くし、(自暴自棄になりかけた自分を)再び音楽が救ってくれた」]