
作品データ :
原題 GAUGUIN - VOYAGE DE TAHITI
製作年 2017年
製作国 フランス
配給 プレシディオ
上映時間 102分
フランスのポスト印象派を代表する人気画家ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin、1848/06/07~1903/05/08)。40代の頃、制作の場としてフランス領タヒチ島を訪れたゴーギャンと、そこで出会った女性との愛と苦悩の日々を綴る伝記ドラマ。
ゴーギャンを演じたのは、『ブラック・スワン』『モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由』のヴァンサン・カッセル。ゴーギャンその人に似せて、近代文明を捨てた野蛮さを身に纏った芸術家の才気を見せつけている。 そして、ゴーギャンのタヒチ時代の数々の傑作に登場する、奔放な美と神秘に満ちた野生の娘たちを一つに凝縮した存在が、原住民の娘テフラであり、彼女を演じる17歳のツイー・アダムスを現地で“発見”したことも本作を成功に導いていると言える。
監督はテレビシリーズや短編などを手掛けてきた、本作が長編2作目となるエドワール・ドゥリュック(Edouard Deluc)。映画のベースとなったのは、ゴーギャンが自ら書いた紀行エッセイ“Noa Noa”※。ドゥリュック監督はこの本に惹かれ、壮絶なまでに野性の美を尊び、純粋な芸術を追求してタヒチの森の奥へ、内部へと突き進む男の姿を映し出した。
※自伝的随想“Noa Noa”は、1893~94年に執筆され、1901年に出版された。ゴーギャンは実は、生涯に2度、南洋の島タヒチに移住している。1891年、43歳の時にタヒチに移住(同年4月1日にフランスのマルセイユを出港し、ニューカレドニアのヌメアを経て、同年6月9日にタヒチのパペーテに入港)、1893年8月に一度フランス本土のパリに戻るが、1895年9月には再びタヒチに移住、そして1901年9月にマルキーズ諸島のヒバ・オア島に移住し、1903年5月8日に同地で54歳で死去した。“Noa Noa”は、最初のタヒチ滞在での日々を執筆したものであり、パリでの1901年の初版出版時には、ゴーギャンはタヒチではなく、マルキーズ諸島にいたことになる。タイトルの「Noa Noa」とは、タヒチ語で「かぐわしい香り」を意味する形容詞「noanoa」という語である。邦訳本は、岩波文庫版『ノア・ノア-タヒチ紀行』(前川堅市訳、1960年)、ちくま学芸文庫版『ノアノア』(岩切正一郎訳、1999年)。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853~90)、ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839~1906)らと並び、“ポスト印象派(Post-Impressionism)”と総称され、19世紀最大の芸術家の一人として知られる天才画家ゴーギャン。彼は芸術華やかなりし19世紀フランスに誕生した画家たちの中でも、ひときわ野生を切望し、作品のモチーフにも異国情緒と神秘を持ち込んだ。1876年にはパリのサロンへの入選を果たすものの、次第に彼の関心はどこか遠い未開の地へと移っていく。そして、パナマやマルティニーク島への旅を経て、ついに見つけた「地上の楽園」、それがタヒチだった。
第一期タヒチ時代を描いた本作では、この時代の作品として後年世界に衝撃を持って迎えられることになる名画誕生の瞬間を、ポリネシアの奔放な大自然のなかで大胆に見せていく。黒髪の“原始のイヴ”をモデルとして、数々の作品を生み出していく“熱帯のアトリエ”における芸術家のデモーニッシュな内面の力が明かされていく―。
ストーリー :
1891年パリ。画家として名をなしながらも、作品が売れず行き場を失っていたゴーギャン(ヴァンサン・カッセル)は、絵画制作の場をフランス領タヒチに求め、わずかな資金を手に一人旅立つ。彼が島の奥地の森へと分け入ったとき、運命的な出会いを果たす。それは野性的な輝きを放つ美少女テフラ(ツイー・アダムス)との出会いだった。彼女の“自然の美”に新たなインスピレーションを得たゴーギャンは、後年傑作の評価を得ることとなる作品を次々に生み出していくのだが…。
▼予告編
◆ エドワール・ドゥリュック監督 インタビュー(CinemaCafe.net- 2018.2.15) :
Q:いまでこそ芸術史に名を遺すポール・ゴーギャンですが、家族や社会から理解されず、拒絶を味わっていますね。どうしようもない内なる衝動にかられて創作活動を行うゴーギャンの姿に、芸術家の本質を垣間見たようで、とても胸を打たれました。創作のためには、倫理も、家族をも犠牲にしてしまうゴーギャンの衝動を、監督ご自身はどのようにとらえていますか?
「『ノア・ノア』の中からも実際に感じられるのは、絵画史上で自分の立ち位置を確立したかったということです。彼は、自分は正しいと思っていたし、自分が求めていることも、行くべき道もわかっていたわけです。当時は自分が正しいということを証明できなかったかもしれませんが、現在は歴史的に重要な画家として認められており、各地で話題となる人物となった。振り返ってみれば、彼は正しかったということになりますね」
Q:他者からは理解されにくいけれど、己を貫くことで独自性の強い傑作を残し、彼の名を後世に残すことにもなりました。ゴーギャンの場合は、最終的に高い評価を得ることになりましたが、自分が納得いく作品を生み出したとしても、誰しもが高く 評価されるとは限りません。芸術家にとっての“報酬”とは何だと思われますか? また、監督であるご自身にとっての一番の“報酬”とは?
「自分も含めて、いかなるアーティストもそうだと思うけれど、自分を理解してもらえるというのが一番大きな報いだと思う。作品を観てもらえるのが最も嬉しいことですが、さらに自分のアプローチを理解してもらえることが一番の報いだと思っていると思います。でも、必ずしもそれが起きるとは限らない。ゴーギャンの場合は、とても過激な部分があって、自分は貧しさには怯えない、芸術のために生きて死ねるという強い信念があり、実際にそうなってしまった。彼は、家族をはじめいろいろな犠牲を払い、孤独の中に生き、困難を経験しました。彼にとって貧しくて唯一困ることは、創作活動ができないことだったんです」
Q:映画では、2度あるタヒチへの移住のうち最初の旅を描いています。タヒチでの野性的な暮らしに心を残しながらも、強制的に文明=フランスへと戻らざるを得なくなる。そんなゴーギャンの“敗北”に焦点を当てた理由は何だったのでしょう。
「『ノア・ノア』の紀行文の最後に描かれていますが、彼はみすぼらしいアーティストとしてフランスに強制送還されたわけです。彼は野性的な人間になりたいと思っていましたが実際は、なかなかそうはいきませんでした。ただ、そんな終わりを迎えつつも、芸術的視点からすれば、タヒチでの日々は光り輝くような色彩が生まれたときであり、作品が芸術として昇華する時期でもありました。人間としては貧しくてお金が無くてみすぼらしくても、画家としては自分が求めている絵画に出会い進化するという時期。当時の彼を見るとたしかに敗北を喫したかもしれませんが、いまある栄光をつかんだ時期だとすれば、それは“成功”といえるかもしれない。とても興味深い時期なのです」
Q:同じ創作に関わる者として、 監督がゴーギャンに共感する部分、うらやましく感じる部分などはあるのでしょうか?
「彼をうらやましく思うことは一切ないですね。大きな犠牲を払い、過酷な人生を送りましたからね(笑)。家族や子どもを失うなど、私が絶対に経験したくないことばかり。だた、過激なまでに自分の道を追い求めたことには敬意を表します。彼は家族や友人と一切関係を切っていった。そして、常に怒りを抱えつつ、世の中を考察しながらその動きに目を配り、行く末を心配したり他者に気を配ったりしている。そこはとてもリスペクトしているし、インスピレーションの源になりますね」
◆ エドワール・ドゥリュック監督に直撃! (LEE-「愛した楽園と黒髪の女たちとの知られざる悲劇」(2018/01/23)) :
Q:本作では、ヴァンサン・カッセルがゴーギャンを演じていますね。
「ヴァンサンには早い段階で企画に入ってもらいました。今回の作品におけるゴーギャン像は、ゴーギャン本人が(紀行エッセイの中で)語っていたゴーギャン像、ヴァンサン・カッセルが演じるゴーギャン像、そして僕の考えるゴーギャン像と、色んなものが交じり合い、色んな人の力が加わって出来上がっています。映画のコアはゴーギャンとタヒチの出会い、それが彼の生き方にどんな影響を与え、反映されているか、同時に彼の芸術や作品にどのように反映されるようになったか、ということです。本作を作ることにより、僕はタヒチについてもかなり詳しく知るようになりました」
Q:詳しく知ることにより、ゴーギャンの絵画に対する見方そのものも変わりましたか?
「僕は、単にゴーギャンがどう生きたか、彼の才能がどのように開花していったか、ということだけではなく、タヒチのマオリ文化(ニュージーランドの先住民を起源とするポリネシアの文化)の終焉というものも同時に描きたかったのです。というのも彼がタヒチに到着したのは、まさにマオリの王が亡くなるという象徴的な出来事が起きた週でした。つまりゴーギャンは、2500年も続いたマオリ文化が終焉を迎える、その大きな転換期に居合わせ、どんどん変わりゆく歴史を、絵画に描き込んでいった、ドキュメンタリー的な要素もあるからです。それは、単なるメランコリー以上の悲劇的なものでした。僕は彼の絵の中に、そうした要素をも強く感じるようになりました」
Q: 絵が生まれる瞬間を目撃できるのも、とてもスリリングな体験でした。そういう場面を撮る際には、どのような点にこだわりましたか?
「彼が最初にタヒチに滞在した1891年から数年の作品をもとに、想像を膨らませました。絵をそのまま映し出すような教育的なことではなく、その瞬間の真実を描きたいと思いました。つまりゴーギャンとテフラの関係性――彼女の表情や互いに交わし合う視線がどう絵画に反映されているか。同時に、テフラの表情はタヒチの歴史そのものを反映してもいる。一方で、ゴーギャン自身も自分について理解を深め、人類について色々考えさせられるようになっていた。加えて原始的な文化が終焉し、人々がいかに文明化に向かっていくか、そういうすべての瞬間が絵画に描き込まれているので、映画でも、とにかくその“瞬間の真実”を描こうと心を砕きました」
Q:無知な私には、有名な絵画の何点かしか「あ!」と分かるものはなかったのですが、実際に監督は何作品くらいの“絵画”を本作の中に入れ込んだのですか?
「一度目のタヒチ滞在で、ゴーギャンはトータル66作品くらい、平均すると月に4、5作品描きました。その66作品を見れば、彼がいつどこでどういう人々に出逢い、どういう場所や環境に暮らしたかということが分かってくるので、映画でも、ほぼ66点の絵画を感じさせる要素や瞬間を入れ込みました。どの瞬間から爆発的に色が鮮やかになったか、あるいはモデルとなった女性たちとの出会いにより、どのように絵が進化していったか、なども分かりますよ」
Q:ゴーギャンがテフラと陥る三角関係はフィクションだそうですが、映画の見どころでもあると思います。監督は、そうしたロマンスを通して、何を照射したかったのですか?
「実際にゴーギャンの隣にはヨテファという若者が住んでいて、一緒に森へ木を拾いに行ってヨテファに彫刻を教えたり、2人には強い関係性がありました。実際に何があったかはわかりませんが、ヨテファはとてもハンサムで、当時13歳だったテフラとも同い年。そんな若者が隣に住んでいたら、テフラと何も起こらないなんてあり得ない、不自然だと僕は想像しました(笑)。だって、ゴーギャンは年老いた、貧乏で病気持ちの白人ですから」
「そして、彼らの関係は非常に象徴的でもあるんです。というのもゴーギャンは、ヨーロッパの絵画界の色んな決まり事や型にはまることを打破し、文明を否定して野生の自分として野蛮になり、それを認めて欲しいという一心でした。でも結局、テフラがヨテファになびいてしまうのは、ゴーギャンがどんなに頑張っても、結局はよそ者でしかなく、彼がなりたいと思うワイルドな人間にはなれない。受け入れてもらえず、いつまでたっても異質な存在でしかなかったのです」
「また、ゴーギャンがテフラを家に閉じ込めてしまうのは、野蛮だけれども決して文明化されずに汚れなきピュアさを保ち続けて欲しい、という気持ちを表した象徴的な行動でした。ところがゴーギャンが何を望もうと、パペエテ(タヒチの玄関口)に着くとテフラも文明化されてしまうし、自分も結局は入植者にしか過ぎないわけです。つまり現地の人にとっては毒みたいなものであり、決して相いれないものである、ということを彼らの愛の形を通して描きたかったのです」



2015年2月、「いつ結婚するの?」(タヒチ語:Nafea faa ipoipo〈ナフェア・ファア・イポイポ〉?)は、プライベートセールに掛けられて~スイス人コレクターのルドルフ・シュテヘリンからカタール王室(匿名扱い)へ~(当時)絵画史上最高額となる3億ドル(日本円で約360億円)で落札された―。

ゴーギャン畢生の(4メートル近くの幅がある)大作である。画面の左手上にはフランス語で「D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous」と題名が書かれている。この謎めいたタイトルを持つ作品は、ゴーギャンの2度目のタヒチ滞在中に描かれた。ゴーギャンは当時、絶望的な状況に追い詰められていた。遠く離れたヨーロッパでの愛娘アリーヌの死、悪化する病の苦しみ、そして借金いや増す経済的な困窮…。親友の画家ダニエル・ド・モンフレエに宛てた書簡(1898年2月)によれば、「私は十二月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした」(ポール・ゴーギャン著/ダニエル・ゲラン編/岡谷公二訳『ゴーギャン オヴィリ~一野蛮人の記録~』みすず書房、1980年)。
ゴーギャンがこの世に残す遺書代わりに自らの画業の集大成として描き上げたのが、「ドゥ・ヴェノ・ヌ ケ・サム・ヌ ウ・アロ・ヌ」(英語:Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?)にほかならなかった。彼は同作の完成後、砒素を服し自殺を図るが、自殺は未遂に終わる…。ゴーギャン自身の人生観‐死生観‐世界観の物語性を具現した、この深遠な哲学的・芸術的作品は、やがて観る者の心をとらえて離さず、後世の記憶に残ることとなった。
この油絵の横長の画面上には、右から左へ、人間の生の様々な局面~人間の生から死への経過~が、一連の物語のように表現されている。ゴーギャン自らがその構図を、(前掲書の引用文に続いて)次のように明らかにしている。
「右手の下に、眠っている幼児と、うずくまっている三人の女。緋色の着物をきた二人の人間が、それぞれの思索を語り合っている。この、自分たちの運命に思いをいたしている二人を、かたわらにうずくまった人物――遠近法を無視して、わざと大きく描いてある――が、腕をあげ、驚いた様子で眺めている。中央の人物は、果物をつんでおり、一人の子供のかたわらに二匹の猫がいる。それに白い牡山羊。偶像は、神秘的に、律動的に腕をあげ、彼岸をさし示しているように見える。うずくまった人物は、偶像の言葉に耳を貸しているらしい。最後に、死に近い一人の老婆が、運命を受け入れ、諦めているようにみえる。……彼女の足もとに、あしでとかげをつかんだ一羽の白い異様な鳥がいるが、これは、言葉の空しさをあらわしている。」
この大作の発する具体的なメッセージは何か。ゴーギャン自身は生前、その全容を詳(つまび)らかにしていない。しかし、混迷する現代社会に生きる私たち「観客」は知っている。その、ゴーギャンの制作した最大の作品にして最高傑作が、私たち一人ひとりの内的世界に各様の物語を誘発してやまず、不断に各人の“生きざま⇔死にざま”を重く問いかけてくることを―。
■私感 :
ゴーギャンと言うと、私がすぐに連想することがある。
それは、私の中学生時代に出会った、「図工」(美術)担当の小沼先生のこと。彼は実に温厚篤実な人柄で、生徒たちの人望を集める年配の紳士。また、かつて「日展」にも入選したことのある、郷里では歴(れっき)とした画家だった。私自身、「君は画才がある」と言われながら、じかに一定期間彼から絵画の手ほどきを受けたものだ。
ある日~中学1年時だったと思う~の、「ファン・ゴッホの絵画」をテーマ化した授業時だった。小沼先生は「ひまわり」を始め、ファン・ゴッホの名作(複製)数点を提示しつつ、噛んで含めるように面白おかしく解説する。そして、話が一段落して後、彼は今度はファン・ゴッホとゴーギャンとの共同生活について切り出し、この二人の天才の関係が次第に悪化して、ファン・ゴッホの「耳切り事件」が発生したことにまで言い及んだ―。
私は一瞬、自分の耳を疑った。初めて知った事件だったのだ。1888年12月23日、ファン・ゴッホは自らの左耳を切り落とす!ゴーギャンとの9週間にわたる共同生活に行き詰まって―。そもゴーギャンとは何者ぞ!当時の私の場合、ファン・ゴッホについてはいくらか知識があったが、ゴーギャンについてはその名前すら知らなかった。
当の授業時、さらに小沼先生はタヒチ時代のゴーギャンの絵画(複製)を何点か~個々の絵の題名が何だったか、今は全く記憶になし!~示して簡単な説明を加える―。すべて瞠目すべき作品だった。何という野性味たっぷりの、ダイナミックな絵づくり!私は地球の反対側にまで赴き、冒険的な波乱に富む生涯を送ったゴーギャンその人に新鮮この上ない好奇心を煽(あお)り立てられたのだった―。