「祖国と青年」5月号では、日本青年協議会・大葉勢清英さんが「両陛下のご訪問を受け止めたパラオの人々の声」と題する巻頭言を書かれていますので、以下、ご紹介します。
パラオ当局の予想を超えた熱烈な奉迎
両陛下のパラオご訪問に際し、日本会議は四月五~十日、「パラオ慰霊奉迎団」を派遣。奉迎団の現地活動は実質九日で終了したが、私は十~十一日と引き続き現地に残り、両陛下のご訪問をパラオの人々がどのように受けとめたのか、取材活動を行った。
両陛下がご訪問になった八、九日、コロールとペリリュー島で奉迎を行ったが、特に八日のコロール中心街の奉迎では多くのパラオ人が姿を見せ、熱烈に両陛下を歓迎した。お車はゆっくりと進み、両陛下は両側の窓を開け、満面の笑みで人々にお応えになった。
パラオの人々の歓迎ぶりは、パラオ当局の予想を超えるものだった。ジェニファー・アンソン副大統領特別補佐官は、「両陛下のご訪問は、パラオにとって最も名誉で最も重要なことでした。当初は警備や車両規制を厳しく行う計画でしたが、両陛下は窓を開けてゆっくり進んでほしいと希望されました。今まで外国の要人が来る時は、車両規制をして速く進み、窓は開けず、日程も知らせないというものでしたが、両陛下は、大統領や酋長だけでなく、一般人との交流も大切にされました」「私も警察車で両陛下のお車に同行しましたが、国際空港のアイライ州から道路脇で両国の国旗を持って歓迎している人もいて、私の人生であんなに多くの人を見たのは初めてでした」と語った。
両陛下のお車を白バイで先導したメルビン・ウベデイ警部も、「あれだけたくさんの人を見たことはありません。独立記念日のパレードよりもたくさんの人で私も興奮しました」と語り、観光局の職員も、「奉迎場所の距離は当初短く想定していましたが、余りに人数が増えて長い距離となり、期待以上の歓迎となりました」と同じく語った。
沿道の一人一人との交流をも大切にされる両陛下の御心とパラオの人々の歓迎の真心が呼応した歴史的な奉迎に参画できたことの喜びをしみじみと思った。
両陛下の慰霊で深められた両国の絆
九日、両陛下は、ぺリリュー島の「西太平洋戦没者の碑」並びに「米陸軍第八十一歩兵師団慰霊碑」でご供花になり、祈りを捧げられた。この慰霊のお姿もパラオの人々に深く刻まれた。
パラオで発行されている「Island Times」と「TIA BELAU」の二紙はいずれも一面で「両陛下は戦歿者に追悼の誠(敬意)を捧げた」との見出しで記事を掲載し、観光局の職員は、「両陛下の祈りの場面は、当日パラオでもNHKワールドで生中継され、多くのパラオ人が真剣にテレビに見入っていました」と述べた。
ジェニファー・アンソン副大統領特別補佐官は、「パラオは日本との関係と共にアメリカとの関係も重視していますし、パラオ人で戦争で苦しい経験をした方も多くいます。全ての戦歿者に捧げられた両陛下の慰霊は、許しの心と平和を願う気持ちを示す非常に意義深いものでした」と述べた。
陛下は、パラオへのご出発に際し、「この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したい」とお述べになったが、この慰霊のご姿勢は、多くのパラオ人の共感を呼んだ。
八日の両陛下とレメンゲサウ大統領夫妻のご会見では、大統領が遺骨収集を「加速させたい」と述べ、戦後埋められた約二百カ所の日本軍の洞窟や壕を「順次開けていきたい」と語った。パラオの遺骨収集は、平成十六年にぺリリュー島でカナダのテレビ局が無許可で壕を開けたことに対し、パラオ当局による遺骨収集の規制が強化されて以降、進展が滞っていた。ぺリリュー島では約二千六百人のご遺骨が見つかっておらず、今後の遺骨収集の促進が期待される。
また、両陛下の慰霊の御姿に特に感動したのは、厳しい戦争時代を経験したパラオ人だった。コロール老人会のフミコ・キンジョウ氏は、「両陛下を迎えた兵士たちの心境はこの歌に現れているのではないか」と軍歌「露営の歌」をカタカナで筆記したメモを取り出し、実際に披露。そしてさらに両陛下をお見送りするのに相応しい歌として同じく「蛍の光」を上げ、涙ながらに歌ってくれた。
陛下は、昨年末のお誕生日に際し、「先の戦争では三百万を超す多くの人が亡くなりました。その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課された義務であり、後に来る時代への責任であると思います」とお述べなった。
両陛下のパラオご訪問は、戦歿者を悼みつつ、日本がよりよい国であるよう努めることの大切さを、私たち一人一人に投げかけている。