ニューヨーク狂人日記 -64ページ目

爪きり

公園の朝、爪を切る。
直線で曲線を描く。
海岸線に張りだした山すそ。
巻き込むラインに線路を敷いていくように。

線路と車輪間にあるアソビ。
かわりにヤスリで爪の角を削る。
これまで辿ってきた凸凹道にもヤスリをかけてみようか。
ついでにポリッシュをしたっていい。
いっそのことサロンへ行こうか。
きれいな韓国ネーサンに手を握られながら過去を削り、
居心地のいい昔話に変えてしまう。
甘皮の手入れもしてもらい涼しげな顔で暮らすのもいい。

いやいや。
いやだ。

NYの地下鉄。
Fトレイン。
ブルックリンへ入ってしばらく経つと地上に出る。
Carroll St.駅と Smith St.駅の間は大きくカーブをする高架でつながれる。
後ろの車両からは、陽光を浴びた先頭付近の車両がまぶしい。
まるで過去を振り返ったときに見える、
自分とは関係のない電車のように。
車輪をきしませながら轟音とともに大きなカーブを曲がっていくFトレイン。
落ちそうで落ちない。
ヨロヨロだけどなんとか。
落ちたら負けだな。
自分の道程が高架を走るFトレインと重なっていく。


ヤスリを使うのはやめた。
シャンプーの時髪に引っかかってしまうかもしれないけれど。
いつかは角も落ち、なめらかになる。
爪は伸び、また切る。

どこかにはさむか、引っかけるかしたんだろうか。
白い部分の幅がここだけ広い。
右手親指の爪。
どこまでが必要で、どこからが不必要なんだろう?

さっきまで自分の一部であったものをゴミ箱に捨てる。


非社会と社会の間で

5時25分。
目覚ましの鳴る5分前にベッドを抜け出す。
平らになったチューブの中にあるのは、あと何回分の歯みがき粉だろう。
トマトのサンドイッチは辛子がききすぎていてうまい。
「おはよう」のメールを送り、襟つきのシャツを着た。
同じショルダーバッグなのに、
なぜかたすきがけにしていない鏡の中の自分。
黒い靴下じゃビーチサンダルがはけない。
頭のどこかが目覚めてる。

濃紺だった朝顔がピンク色にしぼむ玄関先。
見上げた空は青。
時計台の針は赤い灯をともしたまま。
忘れ物のように。
ゆっくり歩く。少しずつ。少しずつ。
駅へと向かう人々に次々に追い越されて。
たったの1人だけぼくより遅いのは、
片足を引きずるようにして歩く女性。

少しずつ。少しずつ。
昨日までとは違う世界が近づいてくる。
電車の彼方にある世界へ歩を進める。

「カチリ」はたったの1度。
ホームに入ってきたのに見送った特急。
鈍行に腰をおろし新聞を広げた瞬間、
週末の間、瞑っていた歯車が音をたてて動き出す。

目覚めて1時間半。
1日の1/16の間、そんな境界線をフラフラ。
必要ではないけれど、渡したくはない時間。
人生の正味なんて別に短くたってかまわない。

BENTO

栄枯盛衰。諸行無常。百代の過客。旅人……
日本へ帰るたび、必ず食べていたのに今ではアイデアがよぎることすらない。
いや、街中で目にすることもないような気がする。
興味がないだけなのか。
目をつぶってるだけなのか。
いつの間にか忘却の引き出しの中に。
時は残酷、人は冷酷。

今となっては、それがどうであったかすら思い出すことができないし、材料すらない。
さて、ほか弁のフタは透明だったか、それとも中身は見えなかったのか。

BENTOという単語は準英語化の道をたどっている。
雑貨屋でもBENTO BOXという名で売られていたり。
日本食人気もあるが、どちらかというとコンセプト自体が浸透中、そんな感じ。
仕切りのある四角い箱に色々なものを少しずつ。
サンドイッチは書籍で、弁当は雑誌と考えることもできる。
中身がメキシカンであっても、それはBENTO BOXなんだ。

日本人の多いNYだから、
レストランのランチタイムには昔からあった黒い箱。
企業向けの仕出し弁当屋だってこの街にはある。
Midtownにはアジア人経営のBENTO SHOPも増えはじめた。
どこの日系食材店へ行っても、弁当群が冷蔵庫の一角を占める。
彩りよいセンスあふれるもの。見ただけで食欲減退を起こすもの。


ランチタイムは頭が痛い。
「何を食べようか……」
時計の短針が11を越す頃から、苦痛にものに襲われる。
苦痛以外の言葉を知らない。
悩みに悩んだ末、行くところは同じ。
ある日解放された。
なんの気まぐれか、弁当を持っていくようになって。
食べなければならないが、食べたいに。
義務から悦楽へ。

そんな外食時代でもランチに2桁を使うことはまずなかった。
もちろん今でも。
ただ、最近、1度だけ。
友人がシェフを務める高級日本料理店で。
6月の閉店が決まり、清水の舞台から飛び降りることにした。
BENTO BOX $25也。

普通のレストランだと、黒塗りの弁当箱がテーブルの上に置かれていくだけだが、
そこは高級店。
幕の内ではなく立派な松花堂弁当が近づいてくる。
照明が絞られたテーブル席、丁寧に置かれる蓋付きの弁当箱。
「少々お待ちください」
どうやら自分でフタを開けるのは流儀違反のよう。
それまでの時間は1分にも満たなかったとは思うのだが……。
固唾を飲み、高揚感の手綱をしぼり背筋を伸ばす。
暗黒は一瞬にして極楽へ。

弁当、最大の楽しみはフタ開けるその瞬間にあるんだ。
そんなことを考えさせられた食事だった。
もちろん、フタの向こうに詰められた春も美しく、旨い。

取引きは合意の上でしなければならないのかもしれない。
コンビニに並ぶ弁当は、取引き内容として内部を開示する。
どちらも納得のいくように。
最大の悦びを犠牲にして、好きなもので腹を満たす。
お品書きだけで、くじ引きのような弁当もまた楽しいとは思うんだけど。
さて、ほか弁はどうだったろう?


実は手製の弁当を食べるときにも、フタを開ける瞬間が楽しみだったりする。
そのことを人に告げると、
「えー?だって自分で詰めて中身とか、配置とかも知ってるんでしょう?」

やっぱりぼくは自分が大好きなんだろう。

スケベ根性

会社のランチタイム。
すっかり変わった風景。
弁当、ピザ、ハンバーガー、チャイニーズ・フード、サラダ、チキン・オーバー・ライス……。
寿司パックを食べるブラジル人。
タコスを食べる日本人。

変わったのは食事ではなく、全体像しての風景。
もちろん、ひとりひとりの変化が俯瞰に手を加えているわけだけれど。

以前はうつむいている人がほとんど。
今でも、ぼくも含めて、猫背もいるが下を向いている人はあまりいない。
中には、力いっぱい背もたれに体重をあずけてサンドイッチにパクつく人も。
たまに指を舐めながら。

視線の先はコンピューター・モニター。
思い思いのランチが隙間を埋める。
食べ物の多彩さをあざけるように、その姿勢は似通っている。

昔話。
自分の机でランチを取る人のほとんどは、
新聞、雑誌、本、ハンバーガーの包み紙……紙を読んでいた。
そういえば、その昔、弁当箱は新聞紙でくるんでいた。
もちろん黙々と消化作業に集中する人もいるのはいたけど。

50年も経つと何らかの変化が体に現れるかもしれない。
椅子の生活に慣れ日本人の体型は変わった、と言われるように。
医学的なことはわからないけれど、
うつむいて食べるより、前を向いている方が身体にはよさそうだ。
さて、どんな変化だろう?


いや、見る気はないんだ。
それでも、ついつい目に入ってしまうことがある。
見てもいないのに「ジロリ」となじる視線を投げかけられたり。
「見ないように」
そんな、あからさまな素振りの演じ手になっていることもある。
用があるのに窓の外を見ながら話してみたり。
(私は無罪です……、と)
両手を上げて満員列車で通勤をするオトーさんのように。


「見られたくない」と思う。
まるでPrivate Part:恥部をのぞき込まれたような気になることがある。
画面にあるわずかばかりの材料を手がかりに、
さて、どんな空想をふくらませているのだろう?

見ないようにつとめている。
目の焦点をぼかしたりしながら。
それでも「見たい」という気持ちをかき消すことはできない。
たまたま目に入ってしまった文字、画像を手がかりに、
そのひとの深淵をのぞきこむ遊びにふける。


われわれは誰もがスケベである。

2セントの恋

食が細くなった。
病気じゃなく、年齢的なものだと思う。
朝と昼はしっかり食べるけれど、
夜は。ちょちょいとつまむ程度でこと足りる。
ごまかしているのか、ごまかされているのか、そんな程度。

こんなときには規格化されている食事がありがたい。
客観的に自分を見ることができる。
とはいっても、食の細さをはかるために食べたのではなく、
食べながら、細くなった食に気づいただけ。

半分。
10年前の。
まあ、あの当時の食べ方は異常だったから、
比較をする基準としてはちょっといただけない。
「最後の晩餐」、という言葉がいつもどこかにあった。
しかし、材料はこれしかないのでしかたない。

なんだか無性にピザが食べたくなって。
スライスじゃなく、焼きたてのホール・パイを。
ビーサンはいてピザ屋へ行く。
ペパロニのLargeパイ(直径14inch=35cm)を1枚。
昔は、軽くビールで流し込んでた。
今は、8つ切りのうち4枚の三角しか食べきれない。
しかも、あまりの満腹にダウン。
夜中まで熟睡。
「牛になるぞ~」の声を遠くに聞きながら、薄れゆく意識。


実はピザ屋でひと悶着。
片肘を突き、緩慢な動作でレジを打つ若い女。
いまさら、こんな姿に驚くはずもない。
寝ながらだって、風呂に入ってたって普通に注文できると思う。
悲しいことなのか、楽しいことなのか。
ただ、この時点では見極めができていなかった。
彼女がアホなのか、それとも別の生き物なのか。
脳速度が極端に遅いのはわかったけれど。

「$10.87で~す」
???……
引っかかったが、後ろの列が気になり、あと一度確認することにした。
20ドル札を渡す。
「はーい、$9.13のお釣りで~す」
5ドル札1枚、1ドル札4枚に10¢玉が1枚。
……

(ほーら、違ってるじゃない)
「してやったり」、そんな顔をしていただろう。
ガラス窓に貼られた横長のポスターには、
"Carry Out SPECIAL 1 Large 1 Topping $8.00!!!"
どう考えても計算が合わない。
通常の値段でレジを打っている。
ただ、精算しながら気になっていたのは、
「もしや変なrestriction(条件)があるのでは?」ということ。
たとえば、
「2Lのソーダを買われた方のみ」
「2枚購入で、2枚目はこのお値段」
といったような。
ポスターにはそんなククリは書かれていなかった。

「ちょっと。表に書いてんのと違うよね、この値段」
「ん?えっ?だって、私はあなたのオーダーどおりにレジ打っただけよ~」
(この女はアホなのか……)
オーダー内容と時間の書かれたシールの引っ付いた指先をヒラヒラすさせる女。
困ったような、媚びたようなそのモジモジを見ながら、
だんだんと大きくなっていく、アホの2文字。
ただ、ヒラヒラだけでまったく話が進まない。
レジの列も進まない。

そんなヒラヒラ、モジモジを見かねたのか、
やっと男が奥から出てきた。
話を聞きながら、ひとつひとつ丁寧にレジのボタン操作を教えていく。
女は口元に笑みを浮かべて頷いてはいるんだが……。
(アホではなくバカなのかもしれない……)
「じゃ、$2.17の返金ですね~」と言いながら
1ドル2枚札、10¢玉1枚に5セント玉1枚。
……
(おい)

結局、この店には5枚の1¢玉をむしりとられた。
女がアホなのか、店の方針なのかはわからない。
ただ、普通は客の側から発する
"Forget about pennies"
を都合よく店の側から発してしまっていることはたしか。
柔軟な発想だ。


毎日のビールは特売品。
24oz(720ml)=99¢。
どうしたわけか、同じブランドの16oz(500ml)が$1.50だったりする。
この世に不合理は多い。
2年前にマリオの店が閉まってからは、アレックスの店へ通うようになった。
マリオは毎回1¢単位のお釣を渡してくれていたが、
アレックスにはその素振りもない。
通常、2、3本買うわけだから2、3¢を巻き上げられている計算になる。
一年に換算すると……。
盆暮れのつけ届けなんて当然ない。
一向に気にならない。

ビールは
1¢x2だから気にならないのか?
ピザ屋では、
2¢x1だったから気分を害したのか?
道に1¢玉が落ちていても、拾わない、拾えないくせに。
1¢x2は2¢x1よりも軽い。



ガールフレンドに頼まれた買い物。
2¢のお釣を渡さなかったために口論となりThe END。
世界にはそんな恋だってあるかもしれない。

夏のはじめに

夏初日。
今年も同じ場所で。
同じ顔をしてるのに、昨年の彼女とは違う。
子どもたち。。

花が咲き、風が吹き、虫が飛ぶ。
猫が遊び、特別な一日を終え、種をつける。
雨が降り、雪に埋もれ、冬を耐える。
細く芽吹き、ふた葉に割れ、蔓をのばす。
雑草として間引かれ、瓦礫を放り込まれ。
残ったものは柵を、丈のある植物を抱きしめて空を目指す。
子沢山。
遠大な自然のサイクルは、死にゆく子供の数までをも知っている、

半日だけの輝き、足はすでに次の年へ向け、
子供たちのために歩み去る。
どこまでが生なのか。
どこからが死なのか。
生きることは、世代を重ねることと思い定めたように。
目的ではなく、いつかやってくる結果だけを夢見て。
生をたのしむ、それは燃えつきること。
対岸にあるわれら下等生物は、
手段にすぎぬ花というものに口元をほころばす。
「きれい」


深い藍、少し薄目のもの。
2輪ずつが、よく晴れた朝、微笑み送ってくれる。

ぼく達に必要なのはリサイクルではなくサイクル。
そんなことを考えながら、
酒屋前の歩道を掃く男に手をあげて駅へ。


雪の日も、嵐の日も。
休むことなく写真を撮りつづける友。
元気にしてるか?
同じ場所から、同じ物を、同じ角度で。
ただそれだけを、何年も、何年も。
まるで、自身をを刻みつけるように。
こんなものにとり憑かれてしまったあいつ、NYへ来ない。

ステップ

ビールを飲む。
けっこう飲む。
けっこうな量を飲む。
困ってしまうのは、1度トイレへ立つと際限がなくなる。


サッ。
ノブを握るか、握らないか。
回したのか、回さなかったのか。
一瞬のことでわからない。
手を引っ込めた若いアジア人女性は、
踏み出していた右足を斜め後ろに戻し、
もう一方は半歩ほど左に移動する。
追いかける右足。
おなかの前で組まれた両手はどこか空虚で、
ドアに書かれた、LADYという文字を見つめる。
ずっとその姿勢で立っていたかのような錯覚が突然ぼくを襲う。
2分ほどでドアが開き、メンバー交代。
手持ち無沙汰となってしまったぼくは、
店内を見回しながら来たるべき時を待つ。


今回の帰国でもとうとうお目にかかれなかった。
用心深いのか、こまめにに拾っているのか。
日本では地面に1円玉すらも見つけることがなかった。
あちこちにゴミの落ちているNYではお金も落ちている。
数にすればかなりのものが。
ほとんどは1¢玉だけれど。


立ちどまることが、
腰をかがめることが、
拾うことが、いつの間にかできなくなっている。
境目の帯はどのあたりだったろう?
1¢ををせせら笑っているわけじゃない。
拾いたいんだ。
でも、しゃがめない自分。

最高額は268ドル。
現金はネコババし、財布は郵便ポストに放り込む。
金額は覚えているのに、何に使ったのかは忘れてる。



習慣や習性といったものはなかなか抜けることがない。
「28ドル」
「9ドル」
「52ドル」
空缶集めをしている人を見かけると、ついつい合計金額をはじき出してる。
しかも瞬時に。
缶、ペットボトル、ビンの割合い。
ペットボトルのサイズ。
水や、アイスティーなど金にならないものの混合比。
実際に受け取る金額と、そこまでかけ離れていないはず。
「Free」
「it's Works!」
「Take Me Home!」
クーラー、椅子、棚、洋服、靴、古本、掃除機……。
サインをつけられ歩道で里親を求める様々な物たち。
遠くで存在を確認し、通り過ぎるころには値踏み終了。


「うんうん。うん。おや……?…」
馴染みあるデザイン。
VINTAGEブランドのSeltzer Water。
水色のデザインは、空缶集めをしていた頃からのお気に入り。
そんなこともあって、グングンと目が引かれていく。
5mで確信。
2mでゆるぎないものに。

立ちどまれなかった。
逡巡から決定まで1秒にも満ちてはいないはずだが、かけめぐる時間は重い。
照りつける2時の陽射しの下、涼しい顔で通り抜ける。
なにもなかったかのように。
ベンチの上に転がる水色のボトル。
間違いなく未開封だ。



「それにしれも長いなー」
「ん……、もしかして?」
ノブは意外なほど簡単に回ってしまい、
Gentlemanの文字の向こうに広がる空間には誰もいない。
「あぁ、あの女の子はこらえきれずに……」
欲望と理性の間で踏むステップ。
たたら。

やりたいことは何なんだ?

小心者

茶飲み友だち。
そんな言葉。
茶飲み友だちの関係というのは、飲み友だちりもむずかしそうな気がする。
よき友を見つけるのも、よき時間をともにするのも。

いったい、お茶をはさんでなにを話せばいいのか、ぼくには見当がつかない。
茶飲み友だちは、別段、用事があって会うわけでもないだろうから。
「お時間ありますか、じゃ、ちょっと」
そんな想像。
無口なぼくの口を茶ごときでこじ開けるのはむずかしい。
酒の力。
その偉大さを知る。
用がなくても、無口でも酒はいいやつだ。



Iced Teaがこわい。
この2週間、毎日のように作っている。
12cup用のコーヒーメーカーで。
味なんてわからないから別にこれで十分。

すこしずつ暑くなってきて、
家でDo Nothingなんてことをやっているときに冷蔵庫を開ける。
「シュポっ」と、ついついビールの栓を抜いてしまうのを防ぐために。
飲むのは、ほろ酔い加減は構わないんだけれど、
なんだかそれ以降の時間を損したような気持ちになることが多い。
気づいてみたら
「あ、もうこんな時間だ」
で、
Iced Tea。
たまに、ほんの少しだけバーボンを落とすことがあるくらい。


小心者で用心深い。

冷蔵庫のの中にはいつもふんだんのIced Teaがないと気がすまない。
だいたい12~24Cup分がいつもあるのだけれど、
15を切るあたりになるともういけない。
ソワソワ虫が蠢きだし、
コーヒーメーカーをONにせずにはいられなくなってくる。
きっと、ドラッグ一筋だったあの頃もこんな風だったんだろう。
ないのが常態か。
あるのが常態か。
戦中派の中には、物の溢れる現在が怖ろしいという人が多いらしい。
「いつか、なくなってしまうんじゃないか……」


色は不思議。
安心感をくれたり、攻撃してきたり。
視覚は直裁的にたくさんの情報を包み込む。
でも、ラジオが聴きたい。
直接、訴えかけてくるものだけに囚われていたくない。
耳をふさがず、目をふさぐ。
広がっていきたい。

ただ、コーヒーポットに落ちるお湯の音だけでは、
紅茶の出来、不出来はわからない。
目を開いてみる。
濃い色のついた液体、たしかに紅茶の味がする。
という気がしてるだけかもしれない。
だまし絵でないと誰がいえる。
しかし、ぼくの味覚というのはどうなんだろう?
大丈夫なんだろうか。平均的なんだろうか。
いや、そもそも味覚なんていうのはいい、悪いではなく、
そこにあるのは好き嫌いだけ。
他のすべての感覚と同じように。
ナメクジを抱きしめたい人だってきっといる。

さて、この紅茶。
好きか、嫌いかすらわからぬ紅茶。
ま、お茶の存在というのが所詮ぼくにとってはその程度のものなんだろう。
茶飲み友だちのできる可能性は一生巡ってこないな、きっと。
死ぬまで飲みだち。
死んでも飲み友だち。

少なくとも無色透明の水を飲むより充実感がある。
濃いお茶の味がする、無色透明の液体よりはましだ。

それにしても、12cupの水に2つのTea Bagというのは適当なんだろうか?
数式的見地からは。
ああ、やっぱり小心者だ。

ちょっと冷蔵庫をのぞこう。

禅の心とNon Driver's License

正式名称。俗称。あだ名。ニックネーム……
境誠輝。境セイキ。さかいせいき……
いろいろな名前。
a.k.a.


失効してだいぶ経ってしまった運転免許証。
パスポートや、グリーンカードを持ち歩くのも、面倒だし、物騒だし。
この7年でどちらも再発行2度。

「とりあえずNon Driver's Licenseでも……」
思い立って調べてみると。
出てこない。
そんなものは存在せず、いや、役所の書類としては。
正式にはNon Driver Photo ID Cardと、なんだかカクカクな名前になってしまう。
それでも、誰もがNon Driver's Licenseと呼ぶ。


日本でも自動車事故が増え、免許証を返納する高齢者が増えているらしい。
そこで、「困った」。
免許証を返すのはいいが、身分を証明するものがない。
できれば写真入りが望ましい。
そこで浮かんだのがNon Driver's License案。

うんうん。
ぼくの興味は、それがどんな名前となるのか、ということ。
警視庁のおエライさんが頭を寄せ集めた末、
「振り込め詐欺」と名称統一する国でどんな名前が生まれるのか?
感覚的には「オレオレ詐欺」のほうが間違いなくピンとくる。

「KY」だとか「アラフォー」だとか、
日本人の言葉感覚というのはとてもすぐれていると思うのだけれど、
お役所がはいると×。
勉強のしすぎで脳みその柔軟性がないんだろうか。
非運転者免許証、非運転者身分証明証、そんなところか。
なんだか漢文みたいだ。



アメリカという国は居心地がいい。
少なくともぼくにとっては。
Nonという状況をを認めてくれる。
Nonはゼロではない。
Nonにも重さがある。
無の存在。
少なくとも日本人よりも、深く禅に、ZENに根を下ろす。

「なにをやってんですか?」
「いや、なにも」
日本だとほとんどの場合、ここで怠け者の烙印を押される。
英語だと「Do nothing」
「なにもしない、ということをやっている」
もちろん「Don't do anything」というのもある。
言語学など難しいことはわからないけれど、
Nonを認める。「ない」という状態を許容・受容する姿勢がこの言葉を生み出したんじゃないだろうか。
心情的に認めてはいなくても、言葉として存在することは大きい。
とてつもなく大きい。

日本で、
「なにもしない、ということをやっている」
などと言おうものなら、間違いなく相手の顔色が変わるだろう。

怠け者の自己弁護なんだろうか?


メールで、とあるコーヒー・ショップの様子を語ってくれた人がいる。
"...... is a nice place to have a coffee and space out
People there read a book, write and do nothing....very relaxing...."
やっぱり、この言葉はやさしい。
Hug
Speak like Silence
……
こんな言葉たちが人々を包み込む。



一方で、英語力がないせいか立ち止まってしまうこともよくある。
たとえば、
「わたし、わがままだよね」
辞書を引いて出てくるのはselfish。
これじゃ微妙な心情を表すことができない。
文字面を追うと、とんでもない野郎にしかうつらない。
もちろんThesaurusなどを駆使すれば相応の言葉も見つかるのだろうし、
語彙力のある人はうまく表現出きるのだろう。、
少しだけ甘えを含んだ「わがまま」は、
日本人、日本語特有のもののような気がする。
それが許される文化。
たとえ英語に適切な表現があったとしても、「わがまま」、という文字を読むのが好き。
なんだか頭をなぜて許してあげたくなってしまう。
これがelfidhだとムチ打つな、きっと。



さて、週末はなにをしよう?
「Do Nothing」




〓〓〓〓〓〓
調べてみたら、日本は《顔写真付き住民基本台帳カード》で返納した運転免許書を代用するらしい。

rainmanな日

「あ」
ドアを開けたときに気配がする。

ポツリ。
ポタリ。
角まで歩き、たすきがけのカバンを開ける。
ノートと本を用意の布袋、次にレジ袋へ。

ポタッ、ポタッ。
大きくなる粒、濃くなる密度。
早足になる人、駆け出す人。軒下の壁に身を寄せる人。
コーヒーショップに、バーに、デリに、ファーマシーにもぐりこむ人々。
そういえば、しばらく雨やどりをしてない。

しばらくは傘をささずに降る雨を楽しむ。
朝の空は快晴、しかし次第に窓の外の空気が重くなってきていた。
出かける前にチェックした予報では、午後からはサンダーストーム。
昔から準備だけはいい、用心深いから。
だからこそ、ここまでなんとか生き残ることが出来た。
先のことはわからないけど。

道ゆく人の数が減ってきている。
遊具が動かない小さな公園、そろそろ傘を広げようか。
気まぐれに左へ折れたストリート。
道路の両側にはみっしりと葉をたたえ列をなす大樹。
四角く切り取られた歩道の近くではコンクリートがまだが白い。
支え合うように建つ家々のフロントヤードには、
水をたたえながらも、どこか笑顔の匂いのする草花。
濡れた三輪車。
80mのストリートに広げられた、樹齢50年ほどの傘、傘、傘。


歯ブラシを買うために入ったファーマシーは、
平日のこんな時間にも関わらずごった返している。
突然の、いや予報を見ればわかるのだが、
殆どの人にとって突然の雨は店に小さな幸福をもたらしていた。
レジ前で蛇行する列には、
網戸を持つ男、ビタミン剤のラベルを読む女、のど飴をにぎりしめる少女……。
進まぬ列に退屈で目を泳がせる。
入り口脇では、このときのために引っ張り出されたらしい小さな棚が。
キャスター付きの棚にぶらさがるポンチョ、折りたたみ傘……。
商売に余念ない。

「まだ、雨上がってないよ~」
ナニーに話しかけながら店を出ていく5歳くらいの少年を追い越して歩道に。
小雨を楽しみながら歩き出す。

ふらりと入った雑貨屋では思いがけない出会いもあり、
ブロック製の壁を緑と黄の市松模様に染める、
カリビアン・レストランのシャッターが閉じられている。
バーの窓から小雨の降る街を眺める男女。
かぶせていたブルーシートをたたみだす露天商。


家への角を曲がるとき、やっと晴れ間がすこし。



〓〓〓〓〓〓〓〓
rainman ニューアルバム発売記念ライブ は6月27日