ニューヨーク狂人日記 -63ページ目

月曜の冒険家

「そこに山があるから」
登る人がいる。
「目の前にごはんとピザがあったから」
いっしょに食べてしまう冒険家もいる。
うどんにおいなりさんはOKだけど、
たこ焼きをおかずにご飯を食べれない。
最後にラーメンライスを食ったのはいつ?

あるHefeweizenが飲みたくて、ネットで見つけたバーへ。
徒歩20分ほどの距離。
日常生活で早足になるのは、
終わりかけたHappy Hourへ向かうときくらい。
「1日10分は陽にあたった方がいいよ」
そんな言葉を信じ、日なたを選んで歩く。
華氏100度の街でも日なたと呼ぶのだろうか?
なんだか夏に似合わない言葉。



「そこにギネスがあったから」
たどりついたらどしゃ降りだった。
情報は古くHefeweizenはない。
長髪、ひげ、黒いTシャツからのぞくTatoo。
若いバーテンダーは、
意外なほどのやさしい笑顔であやまってくる。
小心者の上、汗をかき過ぎたぼくの指がさすギネス。


泡の具合を調節しながら念入りに注いていく。
ぬるく寡黙なギネス。

凄まじい、を少し絞ったくらいの音量で流れるのは、暑苦しいヘビーメタル。
お呼びでない、バーへと迷い込んだらしい。
暑さを中和させるためだろうか、
天井から下げられた2台の箱型テレビからは無音のホラー映画が流れる。

酒を飲むにはちょうどいい、何かを書くには高すぎるカウンター。
突っ伏して眠ってしまうには頃合いの高さだが、肘をついて本を読むには疲れてしまう。
100度の日光を遮るように閉められた、分厚く黒いカーテン。
そのこちら側で読む池波正太郎『剣客商売』が、どうしたわけか心地いい。
Chemistry



ビタミンなんとかを作るため、日なたを選んで帰る。
蚊取り線香を買うために立ち寄った99¢ストア。
棚の中段に水鉄砲を見つけ、お店の人にお願いする。
「水を入れてください」

緑、黒、緑。
グルメフードのお店でオリーブの試食。
土曜日に初めて作ったハムスに入れるため、コンテナに少しだけ。
近所の庶民的なスーパーより安いのはどうして?
いまだにわからぬ値段のマジック。


「ネットで調べたあと1軒の方へも行ってみようか」
そんな考えもよぎったけれど、どしゃ降りをおそれアパートのドアに鍵を差し込む。

冷蔵庫の中にはよく冷えたCoorsの缶。
「そこに山があるから」登りたいんだが……。

天国への切符

あたり前の話だけれどNYの地下鉄に入場券はない。
旅立つ者も残される者も対等の対価を払う。



東京・山手線や大阪・環状線は今でもグルグルできるんだろうか?
暑苦しい夏の日、たまに世話になったんだけれど。

ここ数日は落ち着いているけれ「涼を求める」
それだけのために地下鉄に乗ることがある。
あの電車に乗って、
窓からあの町を見て、
本を読んで、
居眠りをして、
次の電車に乗る。

どこまで乗っても$2.25。
一生乗り続けても$2.25。
有効期限なんてケチなものはない。
腐らないんだから。
一旦乗車した者は、どれだけの時間をかけて旅をしても構わず、
気の向いた時に降りる権利が与えられている。
たぶん降りない権利だって。

乗車料金が$1の昔から、いまだ旅の途上にある人だっているかもしれない。
ハドソン川で上がる花火を見たことのない人が。

最近では構内トイレを開放する駅も多い。
「それなり」の格好と雰囲気があれば食べるものはあっちからやって来る。
必要はないかもしれないが、降りるときに1ドル紙幣を握らせていく人だってたまにはいる。
たまには地上駅のホームで陽にあたるのもいい。
胸いっぱいに潮風を吸い込むのも気持ちいいもんだ。
冷暖房完備、読み物にだって困らない。



NYと東京、タダが多いのはどっち?
少なくとも気楽なタダで東京に負けることはない。
地下鉄の無料乗車券(Metro Card)だって手に入る。
もちろん運と情報力が必要だけれど。

5月には、運、の方で4枚の乗車券が転がり込んだ。
1回コッキリのやつだけど。
それでも、地下鉄で一生を過ごす覚悟であれば十分に過ぎる。


いつも通りすぎる銀行前。
赤いポロシャツ姿のネーさんが声を上げながらフライヤーを配る。
無料乗車券がもらえるらしい。

5人ほどの列、最後尾につき順番を待つ。
「ご職業は?」
「当行に口座をお持ちですか?」
「旅行、投資、家……、まとまった金をお持ちだとしたらどれ?」
そんな簡単な質問で乗車券を手にする。
アンケートとは言っても、タッチスクリーンに触りながらだから情報は自動蓄積・解析される。
かたわらの机にはダンボールいっぱいの赤い封筒。

4回とも旅行と答えた。
行き先はその時々で南米であったり、アフリカであったり。
別れ際に赤い封筒入りの乗車券を渡される。

10分ほどの時間を費やし、アンケートに答え、乗車券をもらう。
乗車券をばらまいて統計を取る。
あわよくば新規口座開設まで。
その辺の足し算引き算はぼくにはまったくわからない。
まあ、この規模の銀行が損になることをやるはずはないんだろうけど。
誰もが得をした気分。


3回目の時だった。
ぼくの前に立つのは中国系青年。
流暢な英語はこちらで生まれたか、少なくとも教育を受けている。
「で、旅行はどちらへ行きたいの?」
微笑みながら質問をするスーツ姿のきれいな銀行ネーさん。
「日本に行きたいんです」
照れたような笑みを浮かべながら、小さな声で青年は答えてくれた。

どしゃぶり

聞こえてくるのはいつだってザ・モップス。
拓郎じゃなくて。

鳴り出しててやまない。
A地点からB地点へと向かう途中、
近所のグリーンマーケットはお休み。
仕方なく図書館前で開かれている方へと足を向けた。

普段だったら絶対にこんなことしないのに。
昨日からきゅうりのぬか漬けが無性に食べたくて。
思いは募るばかり。
会うことのできない恋人のように。

♪……たどりついたら いつも雨ふり
そんなことのくり返し
やっとこれで オイラの旅も終ったのかと思ったら
いつものことでは あるけれど
あーここもやっぱり どしゃぶりさ……♪
         (ザ・モップス『たどりついたらいつも雨ふり』)

きゅうりを求めて旅は続く。
きっと不安を抱えていたのだろう。
どこかに。

開いている保証なんてどこにもない。
途中のベンチで一服していると、
ペットボトルの水で犬に水浴をさせている女。
ブルブルッ、水を切る都会のの猟犬。
クーラー・ボックスをゴロゴロと引いていく父子。
チャコールの大袋とBBQグリルをのせたカートを押す男。
July 4th(アメリカ独立記念日)3連休の空気が散らばる歩道。

数日前の新聞にはKoby(小林尊くん)の記事。
コニーアイランドで開催されるホットドッグ早食いコンテスト、
今年は不参加であることを伝えていた。
たまたま行った4年前が最後の勇姿となったのだろうか。



「あ、閉まってる……。じゃ、あそこに行ってみようか」
減速をしながらハンドルを切るわけにはいかない。
NY生活のほとんどは徒歩だから。
愕然として途方にくれる。
12時の陽にあぶられながら、旅の手段が徒歩だった頃のことを思う。
たどりついたグリーンマーケットもどしゃぶりだったらどうしよう。
その時、今日のきゅうり頭がどんな反応を示すか自分でもわからない。
次の宿場へ向かう気力は持ち合わせてるか?
こんな時には車生活が少しうらやましくもある。


1週間前に初めて会った人が事故に巻き込まれてしまった。
高速道路での玉突き。
本人に怪我はなかったが車は廃車とのこと。
車生活だってどしゃぶりの可能性をはらんでいる。
「いつも」、「ここも」ということだって。

「なにやってんだ、このタコ!」
「すいません、大丈夫ですか?」
事故のとき。
ウンコ中に鍵をかけ忘れたドアを開けられてしまったとき。
本性というか、その人の立ち位置がよくわかる。
過去に2度遭った事故のどちらもが「このタコ」攻撃。
結局は目撃者がいたので、2件とも自分の保険に傷はつかなかったけれど。


●車の中には常に数枚の25¢硬貨を用意しておきましょう。
●万一、事故を起こしてしまい、たとえ自分が悪くても"Excuse me"と言ってはいけません。
●警察に停車を命じられたら、あわてずに、ゆっくりとした動作で免許証を取り出しましょう。

アメリカへ来た当時に読んだ日本人向けマニュアル。
生活編・自動車の項。

そんな国に住んでいる。
明日、234歳を迎えるアメリカ。
運転免許のマークシートを塗りつぶしていた頃、ぬか漬けを作る自分なんて想像してなかった。



B地点はどしゃぶりではなく快晴。
どっさりと買い込んだきゅうり。
いつの間にか歌は鳴りやんでいた。


♪……今日という日がそんなにも大きな 一日とは思わないが
それでもやっぱり 考えてしまう
あーこのけだるさは何だ……♪

正しい別れ方

130円~160円。
入場券の値段。
1ヶ月有効の定期入場券まである。

それにしても、入場券なんていう不思議な切符があるのは、
今でも存在するのは日本くらいじゃない?
知る限りの国、町はどこでも、誰でもホームまで行ける。
ただで。
日本特有の別れの美学なのか。



夜と朝の狭間をさまよう。
ぼくの朝、彼らの夜。
空港へ向かう始発駅で券売機に$5.70を入れる。
発車のアナウンスが聞こえてしばらくすると、、
先程まで入り口で抱き合っていた女が後ろに座った。
聞こえてくる車掌とのやりとり。
「じゃ、$12になります」
「……そんなに?」
彼女が口にしたのは、ぼくと同じ行き先なのに。
入場券を買うことなく、最後まで別れを惜しんでいた男はもう眠っているのだろうか。



遠くへ行くことなんてそうそうなかったに違いない。
旅立ちや別れは汽車と直結していたんだろう。

帰ってくる別れ。
帰らぬ別れ。
自分たちの力ではどうすることもできない別れ。

人々は儀式としてプラットホームに立つ。
ある者は両手を上げ。
ある者は両手を広げ。
「万歳!」の声。
すすり泣き。
そんな別れに、儀式に立ち会う資格。それが入場券。
特別なものだった。


船、飛行機、もちろんそれ以前には徒歩での別れがあった。
玄関先、町外れまで共に出かけ、後ろ姿が消えてゆく。
あるいは人ごみに、建物や木々の中に溶けこむまで見送る。
文字にたがうことなく。
送られる方も、途中、何度も何度も振り返り、別れを惜しむ。
あっという間に終わってしまった紙テープ。
それでも、いつまでも港に佇む船の別れ。
どちらも、今となってはかなわないことだけれど、
永遠(とわ)ではなく、再会を期する別れはFade Outがいい。
少しずつ、少しずつ。
消えてしまう別れより、小さくなる別れの方がいい。
そして、何の前触れもなくいきなり現れてほしい。
トランスポートしてきたみたいに。
わがまますぎか。



今でも入場券の別れをする人はいるのだろうか。
熱の冷めやらぬ恋人や、年老いた親を見送る以外にはいないような気がする。
それほど、別れというものが日常のものになってしまったんだろう。
人はどこへでも旅立ってしまうから。
地球の上でも、心の果てまでも。



私鉄駅に入場券はないのだろうか。
別れはここにだってあるはずなのに。
改札を挟んでの別れに満足した人はいるのだろうか。

セキュリティーの厳しくなった空港での別れのシーンも変貌してしまった。
大きな動物に咀嚼されるような気持ちでゲートへと向かう。
何者かに大切な物を取り上げられたような気持ちで駐車場へと向かう。
まだ、そこに見えているのに。
人波にドアの向こうへ押し込まれる方がどれだけましか。
非常と言われる発車ベルや汽笛に、タイムテーブルに持ち去られる方がまだいい。
まだ、そこにいるのに別れなくてはならない。
10mが無限大。
唐突でなければ小さくもならない。

それでも空港や駅では心がときめく。
無数の別れと再会の軌跡・奇跡を感じる。

電話を切るタイミングがむずかしくて。
正しい別れ方を考えている。

別れの値段

線に鈍感なところがある。

小学校は線路の向こう。
越境通学。
線路という線をこっちから、あっちへ。
あっちから、こっちへ。

どうして親にそんなアイデアが生まれたのか。
はっきりしたことは知らない。
親父の母校、成績のいい学校、そんなとこだろう。

線路の向こう、異郷との往復をするようになり、
それまでの友達と少しずつ疎遠になっていく。
白い目で見られ、ヒソヒソと噂さされていたんだろう。
そりゃそうだ。
ぼくが線路を越えるということは、
「おまえらアホとはつきあわん」
背中でそういっているようなもんだから。

向こう側にいる同級生にしても、
「線路を越えてやってくる変なやつ」
だったに違いない。
先生の目にも胡散臭いものとして映っていただろうし、
節々でそんな視線を感じてもいた。
平等に扱いたくても、地面を掘り返す子供がそこにいるのではお話にならない。
見て見ぬふり。暗黙の了解。

市内の多くの校区は目に見えぬ線で区切られていた。
大通りなどの。
ぼくのこっち側と、あっち側の間だけ線路という太く厚味のある線がある。
そんな線を毎日越えて行くということは、
子供の中の何かを変える。時には破壊する。


線は越えるものなのか、死守という言葉のように守るものなのか。
ぼくの中でそんなものが混乱するときがある。
その場でわかることは少ないのだけれど、振り返ってみると。
あっさりと越えたり、
守ることの諦めがよすぎたり。
軽い気持ちでアメリカへ来たり、
ホームレス一歩手前で抵抗を考えなかったり。

線路を越える日常で、線に対して不感症となったんだろう。
人が躊躇するものを気負いなく越えたかと思えば、
男女の一線を超えることができずに翻弄されてみたり。
小さな頃、線と対峙をしなければならなかったせいか、
この齢になっても踏みにじったり、逆にからめ取られたり。

もちろん、線に沿って歩いたことだってある。
深夜の3時過ぎ、線路の上を南に歩く。
電車で30分ほどのところに住む、つきあいだしたばかりの彼女の家を目指して。
別に約束をしていたわけでもなく、酒酔い運転で行くことを躊躇したわけでもない。
とにかく線路を歩いて行きたかった。
ドアをノックするわけでもなく、
朝陽を背に受けた小さな火の見櫓の半鐘を見上げ始発の電車で帰る。
川下りの船に乗るように。


越境通学はぼくの人生を少しシフトしたのかもしれないが、
いとこの人生にもいたずらをした。


朝寝坊をしたときには小銭を渡されて家を出る。
走る。
駅員に小銭を渡し階段を駆け上がる。
駆け下りる。
陸橋で線を障害物をまたぐ。
開かずの踏み切りに飲み込まれないための渡し賃。

地元の駅には西と東に入り口があり、
小学生といえども入場券を持たぬ者は通せんぼ。
それにしても最近では日に何枚の入場券が売れるんだろう?


別れ。
正しい別れ方。
そんなことを考える中、駅での別れのシーンが浮かび、
硬い紙に印刷された切符が、変に角々した改札跡が蘇える。


130円。

廃墟を塗る

電車の窓に映る廃墟に釘づけに。

廃墟なんて珍しくもないのに。

無機質な空港の建物や芝生ばかりを見てたからか。


最上部に残る、取り外されたサインの跡。

陽に、風雪にさらされたビルディングは、

時の分だけ世間知らずの灰色がにじむ。

海水浴から戻った夜、風呂場で見つけた水着の跡みたいに。

RAMADA PLAZA JFK

ぼんやり、しかしはっきりと。



通り過ぎてきた空港の無機。

ボデガ、スクールバス、渋滞した黒いハイウェイ、煉瓦造りの倉庫……。

通り過ぎゆく有機。


廃墟が佇んでいたのは、無機と有機の入り混じるところ。

非日常世界から日常へと帰ることのできなかった者のように。

帰ることを拒んでいたのか。

周囲に異界を広げながら時間は止まってしまった。

不揃いに伸びた雑草の生命はどこにあるのか。

帰ることができなかったのか。




どうして廃墟に目を奪われたんだろう?

一瞬とはいえ、ぼくの時間がそこで静止してしまったのはなぜ?

一歩、一歩と現実へと近づきつつある真っ只中で。



空港のトイレ。

歯を磨き、髭を剃り、髪を整え、着替えを済ます。

小便、ゴミ、洗剤、汗……。

地下鉄駅。深部へ行くほどに強くなる日常の臭い。

一度踏み出した非日常から日常へと戻る旅。


自分の中で次第に濃くなっていく日常。

久々にたどり着いた日常は、偶然にも同じ場所、同じ時間から始まる。

取り決めがどこかで、誰かによってなされていたかのように。

まだ内部には非日常が残っているというのに。

「カタン……カタン…」

パブリックスペース清掃員の持つ塵取りがコンクリートを打つ。

飛散した非日常を掃き集める音がする。


カリブ系、南部系、アフリカ系のBlackたち。

メキシカン、ドミニカン、プエルトリカン。

中国人、韓国人、インド人。

街中を歩くにつれ、非日常ではほとんど見ることのなかった日常がぼくを染めていく。


今はこれがYes。

非日常というのはやはりNoでしかありえないのだろうか。

そしてぼくは非日常を日常にするために歩く。

走らない。

その時、日常という風景は一度廃虚となり、異景として通り過ぎていくのだろうか。



非日常は虚ではない。

あとひとつの実。

新たな日常を手に、あの廃虚となったホテルを黄色いペンキで塗りたい。

壁に青色のクロスを張りたい。

草をむしり、干して燃やしたい。

そんなとき、あのボデガは、黒いハイウェイは非日常となるしかないのか。

日常の量というのは決められてしまっているのか。

「サヨナラ」と手を振るのではなく、

「いってきます」と額に軽く手を添えたい。



誰もが心に廃虚を持つ。


「カサリ」

地下鉄口で手にした新聞。

広げる前にこれまでの日常が強固となった音をたてた。

とりあえずは、今、待つ、持つ日常へ身をゆだねて歩きはじめる。

少しずつ増やしていくために。

休みの日には廃虚にペンキを塗りながら。

Boarded Up

N20100627Boarded Up


日本では見られない光景が存在するNY

きらびやかな電飾、劇場街、年末のカウントダウン……。

タイムズスクエアと聞いて思い浮かべるのはそんな光景だろう。


「あいつは大丈夫かな……」

地下鉄清掃職員である友の笑顔

経費削減のため地下鉄では大幅なダイア改正が実施される。

先立って行われたToken Booth(券売所)、清掃職員の大幅削減。


無人となって1ヶ月以上が経つタイムススクエア:47丁目&Broadway駅。

地上へ出て飛び込んでくるのはTKTS。

ブロードウェーの当日割引き券を求める人の列。

そんな駅のToken Boothが。


先週まではガラス張りの虚ろな箱に過ぎなかったのだが、

昨日は巨大な木箱がゴロリ。

見事なまでに、四方から巨大な板が打ち付けられていた。

初めて見る人がToken Boothという言葉をはじき出す余地はない。


観光客、通勤者。

キョロキョロしながらゆっくりと歩む人。

わき目もふらず早足で通り過ぎる人。

そんな渦の中、巨大な木箱の前に佇む。

24年前のNYを思い浮かべながら。



バスは確実にNYへ近づいている。

窓の向こうを流れる煉瓦造りの大きなアパート。

ここにも、ここにも、あそこにも……。

どの外壁もところどころが黒い煤でおおわれている。

板を打ち付けられた窓、窓、窓……。

瓦礫群。

それまでのどの街とも違うことを感じ取った身体は硬直をはじめていた。

NYという街にやって来たことに反応しはじめていた。

1986年、ブロンクス。



ガラスには受容・許容がある。閉ざされていたとしても。

板にあるのはを拒絶。その向こうにあるものはなんなんだ?


ぼくたちはそんな時代を生きているのかもしれない。

そこへと向かう途次、Grace Period(猶予期間)なのかもしれない、今は。

地上の喧噪を遠くに聞きながらヒヤリとする背中。





サイコロの裏側

1の裏は6。
2の裏は5。
3の裏は4。
表と裏の合計はどれも7。
いったい誰が考えたのか
丁(偶数)の裏はいつだって半(奇数)。


裏目の出ることがある。

酔った身体を電車に放り込んだ。
目覚めたのは三つ先の駅。
歩いて帰ろうか。
電車を降りるとき、
腕を組んで眠っているホームレスに1ドルを渡す。
なんだか申し訳なくて。
かたくなに受け取ろうとしない男。

たまに言葉をかわす近所のホームレスにねだられて、
「腹減ってんだよ。スープキッチンが開くには時間があるし……」
金を渡す。
散歩からの帰り道、大通りの向こう側を歩くあいつ。
ブラウンバッグに包まれたものを口に運ぶ。

思い込みが、行動が裏目に出てしまうのはよくあること。
丁にはったんだが壷を開けてみると半。
自分の掌の上でさえ難しいのに、放たれてしまったものを制御する術はない。



トランスポーターを持っている。
行く先はラスベガスだけ。
タバコの匂い、スロットマシンの派手な音。
今では聞くことのなくなったコインを吐き出す豪勢な音。
緑色のテーブルを見つめる人々。ため息、叫び声。
喧噪の中でもサイコロの転がる音は聞こえる。


決まりごとのような生活を送っていると、
付随するものまでが決まってくる、決まっていることがある。
朝の鈍行電車。
閑散とした車内には見覚えのある顔がポツリ、ポツリ。

最初にドアが開いたとき、ぼくはラスベガスにいた。
喋り声よりも先に届く強烈な匂い。
どちらも空気に乗ってくるはずなのだが。


たまに乗り合わせる2人の女。
いつも大きな声で喋りつづける。
しかし、襲いくる強烈な香水の匂いがぼくをラスベガスに連れて行く。
匂いというよりも臭いが。

長距離バスを降り、カジノへ足を踏み入れた瞬間に包まれたあの香水の匂い。
馴れとはおそろしいもので、最近ではそこまで気にならなくなったが、
今朝のは強烈だった。
おしゃべりと香水の波状攻撃はよりにもよって隣に座る。
ちょうど特急といあわせてしまったため、席ほとんどはうまってしまった。

当人になんらかの思惑がなければ香水をつけることはない。
思いの矢印を悪い方向へ向けるはずもない。

受け取る人によるが、完全に裏目に出てしまうことがある。
サイコロの裏側が。
でも、合計がいつも7だからそれでいいのかな。


ラスベガスへ行くのは冬の方がまだましだ。
あ、斜め前の席が空いた。
しかし、この2人は次の駅で降りる。


You Are Good Man

あれも「拾った」うちなのか。
たしかに腰をかがめて手にとった。
ポケットにも入れた。5分にも満たない時間だったけれど。
カウントできるのなら最高記録だ。
記録の詳細はない。


ちょうど去年の今頃、よく晴れた日のこと。
乾いて間もないコンクリートからの照り返しで、
目をすぼめなければ歩けないような午後だった。
それでも歩道に浮かぶしみのようなものを見落とすことはなかった。
いや、お日様の光を避け、少しうつむきかげんで歩いていたのかもしれない。


止まってはいけない。歩きながら。
色気を起こしちゃいけない。
中身をたしかめようなんて。
まずは消えること。
それでもズボンの右前ポケットに入れる数秒で、
2つ折りにされたのが20ドル札の束であることはわかった。
厚味と重さから見積もると50枚は下らない。
財布、免許書、クレジットカード……。
良心のヒモとなる余分なものもついてきていない。
もちろん名前なんて書いてあるわけもない。


遅い1日のスタートにしては格好の餞別のはずだった。
5分間の幸福劇場。
幸せとは握りしめて愛でるものではなく、通り抜けていくものだ。

近づいてくる足音に荒い息づかいが重なりはじめた。
いきなり、
「あのさー、さっきお金拾ってたよね」
「あぁ」
「あれね、俺が落としちゃってさー」
「ぁぁ」
左肩の向こうには自宅前ですれ違った男の顔がある。
幸せが通り抜けていった瞬間。
「あ、そうなんだ」
あっさりすぎるほど、まだ陽の温もりの残る札束を男の掌に落とす。
「ありがとう。手間かけたね」
来たばかりの道をなぞるように小さくなる男の背中。


駅へ向かいつつ、
(いやー、名前なんて書いてないもんなー。やっぱりぼくはオメデタイやつなのかなー?)
そんなことを考えながら歩いていると肩を叩くやつがいる。
考え事をしていたからか、大通りの騒音のせいか足音には気づかなかった。
いや、聞こえなかった。
また、さっきの顔がそこに
「どうしたの?」
息の上がってしまっている男に声をかけると
「Hey, you are good man!」
短い言葉だけを残し、今度は軽く走るような足取りでとって返す。


たとえGood Manがお人よしのバカ、という意味であったとしても。
男を信じたい。
人を信じることのできる自分は消えていなかった。
まだ、なんとか、少しだけはGood Manである自分がちょっぴりうれしくもあり、誇らしくもあり。


だまされても、裏切られても。
学ばなきゃいけないんだが。



コミュニティー・ガーデンに近づくと温度が落ちる。
切り抜かれた大地。
土が、植物が呼吸をする。
這うようにつるを伸ばす朝顔一輪。

コンクリートは息をしない。
濡れた和紙のように地球を包み込む。頑丈に。
穴を掘り、腹ばいになって涼をとることはできない。
猫や犬の爪が立たない。
澄み切った、冬の晴天下で暖をとることもできない。
5日前のバケットを突き崩すスズメにもはがたたない。


ホームへの階段が見えてきた。
湿気混じりの重く、熱い風に包まれ足取りまでが重くなる。
そろそろ扇子を持ち歩く季節だ。
作りたての風をあてるたびに考える。
数えてみると今年で3年目。
この夏の終わる頃には結論が出るんだろうか?
エネルギー保存の法則。
体を使って風を作り出す。
得なのか、損なのか。
運動をし、熱を持たせながら悦楽というには淋しすぎるものを作り出す。
じっと動かずに耐えるか、熱い空気を動かすか。


この街の地下鉄も経費節減に余念がない。
それでも、こんなところを削るのはNYらしくない。
それとも、車庫を出たばかりで右肩上がりの途中なのか。
開かれたドアに踏み込むと、あまり冷房が効いていなかった。
大きくなってくる真新しい銀色がはじくライトを見ながら、
おなじみのキンキンに冷えた車内を期待していたのに。
予測と現実の間で踏むたたら。
不快なほど暑くはないが、裏切りというのはいつもきつい。
期待をしてしまう方もよくない。


相変わらずガラガラのこの電車。
ダイヤの変わる来週からはどうなることやら。
乗り込んできた女性はひとつ離れた席に座る。
50代の大きな黒人のおばちゃん。
青いブラウスからむき出しになった腕は、ぼくのふくらはぎより太い。
2駅間耐えたが熱は落ち着くことをしらない。
脳内に広がるサーモグラフィーの画像には、
ひとつ離れた席に大きく真っ赤な島が見える。
空気ごしに伝わる体温。
車内温度と同化しようとする人々の熱はむなしい。


新らしくなった路線図を見に行くふりをして席を立ち、
オレンジから青になる。