ニューヨーク狂人日記 -2ページ目

腰痛見聞録6:One year later

こんな松が








こんなになりました。










ポートランドへ越してきて昨日で1年。










松ぼっくりがなるのはいつだろう?





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腰痛見聞録5:白い時間

「白い時間」
角のない乱雑さで続く行列を眺めなら。
そんな言葉を思い出し
そこから見える風景を蘇らせていた。

ずっと以前。
たしかブログに書いたことがあるはず。
まだ、アメブロではなかったころのやつに。

不思議なことだけれど。
ずっと。
何度も。
重ねてきた引っ越しの中
(ニューヨークでは珍しいことなのだけれど)
バスルームにはいつだって大きな窓があった。

恵まれてきたのか。
心のどこかでそんな部屋にこだわり
探し求めていたのかもしれないな。

とにかく
「白い時間」だった。
思い出されるのは。



大きいのでもない。
小さいのでもない。

便器のフタを下ろし
窓からの光景をずっと眺めていた。
眼の。
頭の。
焦点を定めることなく。
考える側の頭を
ほとんど使うことなく。

一日のうちのそんな時間。
自分の中から色素が溶け出し、
次第に白色と同化していく。
それがぼくの白い時間だった。

NYを後にしたときに喪ったと思っていたもの。
今、大きな窓はないけれど、
それでもそれは確実にある。
大きく開いている。
今もぼくには白い時間がある。


この時間を抜きにして
今のぼくはない。
きっとこれからのぼくも。



昨年訳した本の中には
Quiet Time(静なる時間)というものがあった。

似て異なるもの。
長針は重なろうとするのかもしれないが
短針は微妙に避け続ける。

ぼくの方は白くなくてはならないのだ。

時には5分ほどでもOKだけれど。
たまに1時間ほども座っている。
気づくと夜が明けていたり。
秋の虫が鳴き出していたり。



結局のところそんなものなのだ。



1986年9月30日。

28年前の今日、
ぼくはサンフランシスコに降り立った。
グレイハウンド・バスターミナル前のホテル。
開け放たれた窓。
夜気にのり遠くから喧騒が聞こえてくる。



結局はそんなものなのだ。



28年前。
夜の成田からシンガポール航空に乗り込んだ。

3週間前。
夜の成田からシンガポール航空に乗り込んだ。



結局はそんなものなのだ。








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腰痛見聞録4:直線の意思を持つ変な点線

そうそう。

腰のリハビリも兼ね、ダウンタウンを散歩。
鼻歌を歌ってしまったために脱線をしてしまっていた。
意識がポートランドから熊本経由で
ニューヨークのソーホーへ飛んだりして。



舞い落ちはじめた落ち葉の中、
足を向けたのはApple Store。
新しく発売されるiPhoneを手にするためではなく、
人の列を見物するために。
実際のところテレビで見たことはあるがけれど、
本物を見たことはなかったから。
「見てみようか」
不意にそんな考えが浮かんできて。

その日帰宅して見た日本発のニュースでは
「今回初めてのSIM Free版が発売されるので、発売日未定の中国へ送るためか中国人の数が多い」
そんなことを言っていたが、この時点でそんな知識はない。

Apple Storeの1ブロック手前から
人々が歩道に座り込んでいる。
青いポロシャツの店員が整理するからなのか、
それなりの節度を保ちながら。
歩道の一方に2列らしき線を描きながら。
直線ではなくて
意思のかけらをも感じさせない不規則な曲線を描きながら。

腺は続いていく。
結び目があったり、
ほつれがあったり、
破線となったり、
太さを変えながら
目的だけは着実に持った
ベクトルを描きながら。

「いや、あなたじゃないでしょう」
どう見てもご縁がなさそうな
中国人バー様の二人組とか、
ホームレス風の人とか
いわゆるバイト系と思しき人たちがポツリポツリ。

午後2時過ぎだった。
路上に立って携帯をいじくっている店員に訊いてみると
発売は明日とのこと。
250人ほどの列。

寝袋。
キャンピングチェア。
水のペットボトルを1ケース携えている者。
小さなベッドには犬が眠っている。
トランプに夢中の二人組。
ギターを抱え歌っている男。
編み物をする女。
紙袋に包んだワインらしきものを持っているおっさん。
なぜか署名運動をしているカップル。
もちろんPCで、スマートフォンで
なにかをやっている人、人、人……。



そう不思議なんだ。
いや、変なんだ。

こんな人々を俯瞰してみると
その8割がホームレス系の方々に見えなくもない。
他の街であったなら間違いなくそっち系で間違いはない。
この街にはそんな人がなんと多いことか。
「ホームレスの方々」
と言い切れないところが
この街を、ポートランドを
「変わった」街と呼ぶゆえんだ。

一応、その道のエキスパートを自認するぼくですら
ぱっと見では断定することができない。
そんな人がなんと多いことか。
そしてiPhoneを持っていたりする。

この街では「風」の人が老若男女を問わず多い。
多すぎる。

そこが「変わった」、「変な」街で。
そんなところに惹きつけられるアメリカ人は多い。
もちろん「風」の風体に惹かれるわけではなく、
そんな人たちのライフスタイルを通し追求した結果が、
「風」となり、その数が街に変わった勢いをつけているに過ぎないのだけれど。
大学教授であり、
主婦であり、
団体職員であり、
店員であり、
ミュージシャンであり、
ジュース屋の店員であり、
本物のホームレスであり。



列の中にはどこかでテイクアウトしてきたのだろう。
ステーキを食べている人もいた。

とにかく変な街を凝縮した行列だった。



「ポートランドのことが知りたい」
iPhoneの発売時期に来てみればいい。





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腰痛見聞録3:バナナと腰とリンゴと

「バナナは腰にいい」
ずっと以前に耳にして。
今でもどこか信じている。
信じるものは救われる。
のか?

機嫌のいい時は鼻歌を歌っているらしい。
いや、鼻歌を歌っている時は機嫌のいい時らしい。
ぼくの場合は。
まあ、不機嫌な時に鼻歌を歌う人は少ないと思うのだけれど。
とにかくそういうことらしい。
過去にぼくを観察していた人、談。

それにしも、だ。
落ち葉の舞い始めた
ポートランドのサウスパークを歩きながら
この歌を口ずさむのは
世界広しといえどもぼくくらいのものではないだろうか?





♪泉の広場で会いましょうと
あなたの言葉を思い出す
最後のバスはもうすぐ出るのに
いつまでも、いつまでもセンタープラザ
いつまでも、いつまでもセンタープラザ♪

切ない歌詞。
メロディーは昭和感バッチリの、敏いとうとハッピー&ブルー「風」。

気に入っていたカレー屋があり
たまに足を運んでいた。
熊本市にあるバスセンター内ショッピング街『センタープラザ』の歌だ。
ビルディング内にはいつもこの歌が流れていた。
(たぶんエンドレステープで】
今もあの空間はこのメロディーで埋められているのだろうか?

ポートランドでセンタープラザ。
これは〈不思議〉の部類に入ると言ってもいいだろう。



バナナ同様。
どこかでリンゴを信じてる。

いくつだったのだろう?
とにかく幼かったらしい。
ぼくの母親が。

何の病気かは知らないが、
医者に見放された母親が
深夜、こっそり(?)とリンゴを食べたらしい。
いや。、祖母がリンゴをすりおろしたものを食べさせてくれたのだったっけ?
とにかくリンゴを食べた母親は翌日に全快。

ぼくもできるだけリンゴを食べるようにしている。



バナナとリンゴ。
リンゴとバナナ。

『センタープラザの歌』を口ずさみながら。
リンゴとバナナのことを考えながら。
Apple Storeへと向かう。



そういえば、こんな出来事があった。
確か2002年の秋だったはず。
まだ、ニューヨークのソーホーを根城にしていた頃。

道端に腰を下ろしてビールを飲んでいると
男が話しかけてくる。

「Apple Storeってどこだろう?」
「ほら、あそこの角のところに見えるだろう。
あそこは韓国人の店だから緑のも、赤いのも安くてうまいよ」
なぜか憮然として男は立ち去った。

しばらくしてからわかったのだが、
男は当時オープンしたばかりのApple Store
ニューヨーク1号店へ行きたかったらしい。
こっちは知らないんだから、
興味がないんだからしようがない。

まだAppleが
普通名詞>固有名詞だった頃。



Apple Storeへ向かう。
『センタープラザの歌』を口ずさみながら。




検索してみたらありました。
この歌、いまでも現役のようです。
いいぞ!
ある意味すごいとも言えるけれど。




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腰痛見聞録2:変

「不思議」と言ったらいいのか?
ここでは「変わってる」という言葉を使うべきなのか?

書きだそうとしたら
そんなところでけつまずいてしまった。
こんな時には辞書を引こう!

とは言っても、1年前に送り出した本の箱は
いまだ未開封。
(今週よりやっと、暫時開封できることになりました)
とりあえずネットにある『大辞泉』を見てみることに。

【不思議】(形動)1.どうしてなのか、普通では考えても想像ができないこと。説明のつかないこと。
2.(仏語)人間の認識・理解を超えていること。人知の遠く及ばないこと。
3.非常識なこと。とっぴなこと。
4。怪しいこと。不審に思うこと。

【変わった】、【変な】
という見出しはないので、ここでは
【変】(形動)1.普通と違っているさま。様子がおかしいさま。
2。思いがけないさま。

辞書の解釈を見てみると、
「不思議」の方は原因が不明、または特定できない。
そんな場合みたいで。
(箱を開けて『新明解国語辞典』でのそれぞれの解釈を見るのが楽しみになってきた)

そういった意味では、
先日「急に腰が良くなっていた」
と書いたのは辞書的には正しいようだ。
偉いな。

そして今使おうとしているいるのは
【変】の方になる。
とはいえ、
【変】だと現代のニュアンス的には
思い浮かべるイメージが少し違っている。
ここではやはり「変わっている」という
言葉をあてるほうがしっくりとくるな。



そう、
ポートランドは変わった街だ。
昨今、アメリカで日本で注目を集めるこの街。
変わった街だ。
とぼくは思う。

「一風変わった」と言う方がいいかもしれない。
人によってはやはり「変」というのかもしれない。
ともあれ、そこには明らかな原因があるはずだから
ここでは「不思議」ではなく、
「変わった」という言い方に統一しておこうと思う。

もっともアメリカと日本では
その注目のされ方、
焦点を当てている場所、
あるいは温度に。
(かなりの)差があるように思われるのだが。

まあともかく、変わった街ではある。



腰の調子がいい。
リハビリを兼ねてダウンタウンを歩いてみることにした。
目的地は……。





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腰痛見聞録1:四ッ山漬の朝。たいらぎ最中の夜。

「おっ!いい感じになったね」
会う人、会う人が異口同音に言う。
ニコリと笑いながら。

8月24日から9月10日まで、
日本へ帰っていました。






今朝、目をさますと、腰の痛みがほぼ消えているのを発見した。

半年ばかり放置プレイにしていたこのブログ。
更新しようと思い立ったのは8月31日の朝。

大牟田市『スタジオガンボ』で朝を迎え、
貨物列車を眺め、
四ツ山漬の看板を見上げたりしながら
その日最初の一服をしている時だった。

「『腰痛持ちの東方見聞録』とでもするか」
言葉が浮かび、東京へ移動する頃には
『腰痛見聞録』に変わっていた。
ただ、語呂がいいから。
それだけの理由で。

思ったのはいいのだけれど。
時差ボケやら、
旅行中にたまっていた仕事の整理やら。
帰国からあっという間に1周間が経ち。
「さて、明日から書くか」
そんなことを考えた翌朝に消えていた腰痛。

不思議なもんです。



考えてみるまでもない。
「この一年を一文字で表すとすると?」
大きな筆を持った坊さまが
毎年字を書いていくのだけれど。
今回の旅を一文字で表すとすると
『痛』

出国2週間前に痛めた腰は回復せぬまま飛行機に。
地獄の責め苦の計14時間ほど。
福岡→東京のフライトでは風邪を頂戴したらしく、
咳が止まらない。
(止まったのはなんと昨日)
毎夜、夜中に咳がひどくなる。
咳をする度に膨れ上がる胸部・下腹部。
腰痛用のコルセットに圧迫され、
肋骨にヒビが入ったようだし。

とにかく
『痛』

そんな苦痛を伴侶とした14日あまりの旅。
感じたこと、考えたこと。
そして今の自分。
そんなことをしばらくたらたらと。
書き綴っていきます。




日本の皆さん。
実に遠回しに言ってくれてありがとう!
「おっ!いい感じになったね」
みんなやさしいのです。

横浜・母宅へ着くなり、
「あら~、あんた肥ったね~。どうしたと?あら~。ほんと……。あらあら……」
直球ど真ん中のかーちゃんでした。

そう、ポートランドへ越して1年弱。
ビールの量は減っているというのに。
40年近く変わらなかったGパンサイズが危機。
数字にすると4kgは増えている。



そんなことを交えながら、
明日からボチボチいきます。




<苦楽を共にした旅の伴侶たち>
     *写真は一部です

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ももひきの消えた日

やっとかなきゃいけないことをやっとやった。
とは言え、「やった」、そのほとんどは待つということだったのだけれど。
やっと電話がつながり、やっと少しだけ前進。
この「やっと」までが大変なんだ。

水筒から熱いコーヒーを飲み、たばこを1本。
ビルディングへと向かう。

交差点で左側からカラフルなドレスが近づいてきた。
立ち止まり、30代と思しき黒人女性に道を譲る。

"Thank you."
"You are welcome."

6年?7年?それとも8年?

すんなりとこの言葉が出てくるようになってから
いったいどれくらいになるだろう?
いつものことだが、よくわからない。

遠くから見るとそこには厳密な境界線が引かれているのかもしれない。
自分の中にある日本人がすり減り、
アメリカという膜が不均等、不完全にかぶさっていく。

言葉としては確かにあった。
それでも、日本人の(古い)文化の中には
「どういたしまして」
といった感情はあまりなかったのではないだろうか。

言葉としては知っていても
「どういたしまして」
口に出した記憶はない。

それを日常会話の中で使うことを知ったのは
中学校1年生の教科書:New Prince English Course
すんなりと口から出るのに30年ほどかかった計算だ。
いまだ日本語で口に出した記憶はない。



歩いている時に線は見えてこない。
大陸を歩き、国境を越えた(越える)と知るのは、
そこに小屋が設けられているからだ。
副次的なものから一次的存在を知るだけ。
ぼくらの目に線は見えない。
地面に引かれているわけでもない。
引かれているところももしかしたらあるかもしれないが、
それはごく薄く表層に描かれているに過ぎず、根っこはない。



Spring Breakで学生が少なくなっているせいもあるだろう。
桜の花びらが湿ったアスファルトを埋めているからかもしれない。
それでも、一歩進んだ、という安心感が大きいのではないだろうか。

ゆっくりとしている。
ゆったりとしている自分がいる。
いや、ももひきをはいていないせいかもしれない?
最後にはいたのはいつだっけ?
いつものことながらこれも思い出せない。
少しだけ心に余裕の生まれたとき、
ももひきをはいていない自分に気づいた。



●月X日はももひきとサヨナラする日。
多くの、またはあらゆる物事をピシリ、ピシリ。
そうして日々を送ることのできる人がいる。
いや、ほとんどの人はそうなのかもしれない。

それはきっと気持ちのいい生き方なのだろう。
すべてが右から左へ、上から下へ軽快に移動をしていく。
あるべきものがあるべき場所へと動いていく。
だが、ぼくにはできない。

●月X日と決めることなく
<ひとにぎり>という掌で時間帯をすくう。
そうした感覚でビールの栓を抜いたりしながら生きている。

そういえば学生の頃は年に数度●月X日という日があった。
制服が夏のものになったり、冬のものになったり。
▲~☆にかけては中間服という実に微妙な
ファジーな、いうなればグレースピリオドという時間があったり。

永井荷風「あめりか物語」冒頭には
ある日を境にして一斉に夏服へと衣替えをする女達の記述がある。
紐育という街が一斉に明るく、華やかに染まるその日。
人生の、生活の中に意識的に節目を設けるというのはやはり気持ちがよさそうだ。

かといって、そんな生き方をするにはもう遅すぎる。
いつも何かを動かしている。
そんな日々はぼくには送れそうもない。



さて、長袖のジャケットを脱ぐのはいつだろう。

半ズボンはいつ頃からはこうか?

あー、やらなきゃならないことが山ほどある。
まー、なんとかなるだろう。

そうしてまたももひきを穿く。



歩行者用の信号が秒読みを始め赤へと変わった。
車はやってこない。
渡る人はいない。

期日を決めてももひきを脱ぎはきするようになったぼくは、
なんだかやさしくなれないような気がする。
あくまで、ぼく、個人的なことなのだけれど。





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寿命



「この木は何年生きているんだろう?」

ポートランドも住宅地へ出るとそこここに巨木が生えている。
と言うよりも、巨木の間に建物があるといった方が正解に近い。
人間は地球に間借りさせてもらっているに過ぎない。
そんなことを感じさせる町。

木を見上げ、
きっと10年後もぼくはそんなことを考えていると思う。

そして苔。
年間を通じ雨の多い町は、
木の幹、コンクリートの上、石、枕木……
あらゆるところで苔が元気に生きている。
苔好きのぼくにとっては実に心和む町だ。
実のところ、ポートランドへ越してきた理由の
上から3番目くらいに苔がいる。
いつか離れる日がやってこないとも限らない。
それでもぼくは苔を見るたびにこの町の風情を思い浮かべるだろう。



いったいどれくらいが経つのだろう?
毎度のことだけれど正確なことは思い出せない。
健康診断と名のつくものを最後に受けたのは
高校生のとき以来ではないだろうか。
まあ、最後に病院へ行ったのが1986年だからしようがない。

結果は?
現在わかっている範囲ではそれほど悪いことはない。
かと言って両手を上げて喜べるものでもないみたいだ。
中性脂肪、血糖値、白血球数がやや高め。
そうしたわけで1週間前から食生活改善中。
こんなところが変に生真面目だったりする自分が少しおかしい。
臆病なんだな。

そりゃ20歳の頃は<太く短く>と思ったさ。
Born To Be Wildさ。

それにしてもここまで生き延びてきたら。
決して小さいとは言えない山河を踏み分けてきたのだから。
細くてもいいからも少し生きたい。
というのが実に正直な気持ち。

長く生きたからといって
そこに素晴らしい未来が約束されているわけではないけれど。
やりたいことが山ほどある。
「それに向けて努力しているか?」
訊かれれば微笑みながら首を横に振るしかないけれど。

まあ、あそこにも、そこにも。
大雨の後の河原のように
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
大きなやつ、小さなやつ。
未練という名の石が転がっている。

一つでも多くの石を掌に取り眺めていたいから。
あと少しは長生きをしたいと思う。



自分の前には無限が広がっていると思っていた。
少なくとも自分の前だけにはね。
今は限りあるものをいかに大切にするか。
それほど大切にはできないけどな。

見上げる巨木もいつかは倒れる日がやってくる。
切り倒されるかもしれない。
千代に、八千代には現実でとしてありえない。
永遠だと思っていた。



失くさないように。
自分なりに気をかけていた。
それでも気づいてみると「寿命が尽きかけているかも?」
そんな思いにつきまとわれはじめた。
「おかしい……」んだ。

この頃は実に音が気になってしまって。

失くなりやすいものだけれど。
失くさなければいつまでも使えるものと思っていた。
一片の疑いすらもなく。
それこそ、そこには永遠が封じ込まれている。
無意識下で思っていたのだろう。

どうやら耳栓も寿命を迎えつつあるみたいだ。
今あるものは1年近く失くすことなく使い続けてきた愛用品(?)。
名前はチャビー。

それでもこの頃雑音が気になってしようがなくて。
迷いに迷って。
思い切って新しいものに取り替えてみた。

効果が格段に違う。
違うメーカーだから製品の特性の違いかもしれないが。
自分の中では寿命という判断を下しつつある。

気になってみてネットで検索してみる。
騒音対策のページでは「おすすめの取替時期は2週間」
メーカーサイトを見てみると「毎日使い捨てがおすすめです」
いずれにしろ機能が劣化していくということらしい。

それでも働き盛りのお父さんを首にしてしまう
リストラ担当者のような気持ちになって
きっと次のものもなかなか捨てられないんだろうな。
まだまだ生きているものを姥捨て山に捨てちまうなんて。
そこは地獄なのか?
それともパラダイスなのだろうか?



昨日、耳栓を取り替えた。
使い終えたものを。
役割を終えたものをいかに扱うか。
これが只今の悩み。
いっそ一升瓶にでも放り込んでその量を楽しんでみるか?







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鏡の国のアイツ 2


(つづき)

鏡はいつの間にか汚れてしまうものらしい。
いや、鏡だけではないのだろう。
なんだっていつの間にか汚れてしまう。
ぼくの心だっていつの間にか汚れが層をなしている。
曇りのなかった時だってきっとあったとは思うのだが。

ただ、鏡の場合はどうしてもそれが目立ってしまうというだけだ。
そこには透明性が求められているのだから。

鏡に求められる機能というのは、
向かって立つものの姿を忠実に映すということだ。
これに尽きる。
そしてほとんどの鏡は
よくしつけられた犬以上に実に忠実だ。
ただ、ひとつの致命的ともいえる欠点を除いては。

これは鏡の欠点ではあるが、
欠点であるがゆえの長所と見ることもできる。



鏡の中のぼくは左手で歯ブラシを動かしていた。
実のところ歯ブラシは右手に握られていたのだが。
ぼくの持っている<右>と<左>の観念が間違っていない限り、
ぼくは右手に持ったブラシで左下の奥歯を磨いていた。

左手を肩のあたりまで上げてみた。
アイツは右手を上げて返事をしてくる。
右目でウィンクを送ると。
左目で返してくる。

鏡の中ぼくは間違っている。
いや、アイツだ。
ぼくとはまったく反対の行為をしている。
左手に持った歯ブラシで右下奥歯を磨いている。
ぼくとの裏側の行為をしている。

鏡の中、すべての世界が反転をする。
現実と偽りの区別をつけるためなのか?
そうは言っても完全な反転ではない。
ぼくがジャンプするとアイツもジャンプする。
前へ踏み出せば、アイツも近づいてくる。
振り返れば、(たぶん)アイツも後ろを向いている。
振り返っているときに、
「どうせ見てないからサボっちゃおう」
あいつが鼻くそでもほじくっていたらどうしようか?

とにかく、鏡の中ぼく、アイツは左右を除いて
(たぶん振り返っている時も。性善説だ)
実に忠実に立つ者の姿を再現する。
当人には感じ取ることのできない微妙な遅れを伴うだけで。

そうして、鏡の汚れというものは
その忠実性を欠落させてしまうのだ。
黒いペイントスプレーで塗りこまれた鏡を
人がなんと呼ぶのかぼくは知らない。



湯気に曇る鏡には拭き跡がくっきりと浮かび上がる。
さっきまでピカピカにしか見えなかった鏡でも。
どんなにきれいに磨き上げたつもりでも
完璧に痕跡を消してしまうことは不可能だろう。

微細な水泡で覆われていた鏡からは
しばらくの間だが汚れさえも消えてしまったかのように思われる。
そして前に立つ自分さえも。
時間とともに少しずつ浮かび上がってはくるのだけれど、
完全に像を結ぶまでは
「実のところ自分はこの世界から消えてしまったのではないか?」
時としてそんな不安にとらわれてしまうこともある。

曇の去った後、
鏡の上に浮かぶ様々な汚れ。
普段、気になることはないのだけれど、
気になり始めると実に様々なものが
あちら側の世界との間を遮っている。

付着物。
髪の毛やホコリなどもあるが
そのほとんどは液体の飛散したものだ。
歯磨き中の唾液であったり。
化粧水や整髪料であったり。
石鹸であったり。
中でも一番多いのは水滴だろう。
手を、顔を洗う際に飛び散ってしまう
微細、無数の水滴。

あたりまえのことだけれど、
こうして水滴というものの跡を見つめていると
そこには様々なものが含まれていることがわかる。
詳しいことは知らないが
いろんなミネラルや、不純物、時には毒素ということもあるのだろう。
純以外のものを不純物という。
さて、純とはいったいなんなんだろうね。

いやいや。
そもそも純粋水というものがこの世に存在すると仮定をしても、
そうしてそこで洗う手の表面も、
皮膚から分泌されるのものも一切の不純がないと仮定した場合、
鏡に付着した水滴は跡を、痕跡を残しとどめておくものなのだろうか?
純粋というのはそこまで貴いものなのだろうか?
どうして人は純を求めてしまうのだろうか?



不純。
耳にしても、目にしても。
とかく悪い印象が伴う。

不純異性交遊
不純物
不順な動機
などなど。

純粋であること。
それは手放して喜んで迎え入れるべきものなのだろうか?
もちろん純粋ということが数の上からは貴重であることはわかる。
数が少なければそれは善なのだろうか?
その立場はそれほど貴いものなのだろうか?

ぼくにはそう思えない。



大きな鏡の中、自分の姿がだんだんくっきりと浮かび上がってきた。
アイツが右手に歯ブラシを持ちかえた。


(おしまい)



TRADER JOE'Sで見かけた鏡の中のビール
「???」
よく見るとTRADER JOSE(トレダー・ホセ)という名のメキシコ産ビールだった






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鏡の国のアイツ 1

やっと雪がとけてきた。



いつの間にやらよごれてしまうものらしい
鏡というものは。

鏡を見ていた。
シャワーを浴びて。
お湯を出す2分ほど前から換気扇を回していると
部屋の中に滞留ができあがるのだろう。
鏡は曇らない。

シャワーを浴びながらヒゲを剃る。
まずは右顎の下を上から下へ。
次は下から上へ。
そうして顔全体を剃っていく。

手探りだ。
海の中で目を開けられないのよりずいぶん簡単だ。
左手でヒゲのありか、伸び加減を確認しながら
右手に持ったT字カミソリで剃っていく。

鏡を使わなくなってから20年近くになる。
全盲の人が毎朝の散歩へ出るように
実に慣れたものだ。

もみあげの下とか、ほくろの周りとか。
しっかりと見ればきっと剃り残しはあるのだろうけれど
気にはとめない。
ある程度のものは剃っているので
周囲に不快な思いをさせることがそれほどあるとは思えない。
せいぜい失笑を誘うくらいだろう。

第一、そんな細部がわかるほどに
他人と接近することは日常生活においてまずない。

まあ、意見の分かれるところだろうけれど
ぼく自身はこれでいいと思っている。



髪の毛は長い。
ヘアスタイルを整えるという理由だけで
後ろでしばることのできるように伸ばしている。
別段、何かに反抗しているだとか、
自分を主張したいからだとかではない。

坊主頭にしてもいいのだが、
こちらだと定期的にメンテをしなければ
空き家のフロントヤードに伸びる芝生のようになってしまう。
おまけに頭の形だって悪い。

そういったわけでお出かけ前は実に簡単だ。
寝ぐせのついた髪を濡らし、
目の粗いブラシでオールバックにしてしばる。
それだけ。



ハナ毛……?
さすがに少しは気になる。
別に穴から飛び出していても
生きていく上で何の差し障りがあるわけでもない。
-いや、かえって身体にはいいのかもしれねい。
髪と違って伸ばしたことがないので実際のところはわからないのだが-
それでも気にはしている。
その、気にし度合いは世間一般レベルよりは低いだろうが。

もし、穴の奥からのぞいたり引っ込んだりしている、
そんなハナ毛を抱えた境と出会っても
笑って見過ごしてください。

切ることはないけれど
それでも抜いたりはする。

これは周囲のため。
ひいてはその一事で人間を判断されてしまうことを忌み嫌うという理由だけから。
ハナ毛1本で人間を決めつけられてしまうのではやはりかなわない。

まだまだ遠いぞ、バカボンのパパへの道は。

これも勘で抜いていく。
誰もいない部屋、本でも読みながら。
-これをやっていると、なかなかページが先に進まないのだけれど-
穴の入り口付近、親指と人差指の腹で
飛び出した、飛び出しそうな毛を見つけていく。
見つけるとどちらかの腹と一方の爪ではさみ
一思いに引き抜く。
手当たり次第に抜いていく。



鏡を覗き込みながら入念に歯を磨いていく人がいる。
本来ならばそうした方が磨き残しもなくて
もちろん歯のためにもいいのだろうが。
やったことがない。
そうして虫歯だらけの自分になってしまったわけだが。
一向に鏡は見ない。



縦1m、横1.5mほど。
浴室の鏡は大きい。
美術館で見ればこの程度の絵画は小品の部類に入るのだろうが
小さな部屋では巨大であることこの上もない。
加えてそこに写っているのは美とはかけ離れた人物像で
まってく洒落にだってなりはしない。



洋服を着てから、
襟のひっくり返りだとか、
色のバランスだとか、
シルエットだとか、
ネクタイの結び目だとか。
チェックすることはまずない。

だいたい、50年も洋服を着ていると
自分の姿というものはだいたいわかってしまい、
おかしいだとか、
似合わないだとか。
そんなものは洋服を着る前の段で危険信号が発せられてくる。

襟のひっくり返りだとか、
ネクタイの曲がりだとか。
これまでにも気づいたり、指摘されたり。
そんなことは枚挙に暇がない。
しかし、そもそもそんなことは
個人的にはあまり気にならない。
今でもズボンのチャック全開で歩くことがたまにはある。
さすがに恥ずかしいけれど。



それでも歯を磨きながら鏡に向かっている。
シャワーカーテンやドアに向かうのも(誰も見ていないとはいえ)おかしい。
ただそれだけの理由だろう。
電車の中で脚を組んでしまうのとそれほど変わりはしない。
ただなんとなく鏡の方を向いているだけ。
消去法でたどり着いた先が鏡の前であった。
ただそれだけのこと。

あ、便利なことがひとつあった。
時として口端から垂れる白い唾液。
鏡の前に立つとこいつが洗面台の前に落ちてくれる。
よくできたもんだ。

それにしても鏡に写る歯磨き中の自分。
あと一人の自分はなぜかいつも片方の手を腰に当てている。
これておて消去法でやはり腰という場所に落ち着いたに過ぎない。
よくできたもんだ。
歯磨きをしながら一方の手で鉄アレイを上下させるほど
器用ではないしやる気もない。



鏡を見ている。
いやでも写ってしまう自分の姿を。

いや、決して自分の姿がいやなわけじゃない。
それなりの愛着を持っている。

それでも鏡という物体の性質上の問題で
選択の余地なく姿が映し出されてしまうという事実に
どこか忸怩たるものを拭い去ることはできない。



鏡の前に立ちながら
ただ、その表面だけを覗きこんでいる自分に気づくことがある。
ガラスの向こうに人影があるのはわかっているのだが
意識はその表面だけに集められていく。



ただひとつだけ
鏡の中自分を見つめることのあることに今気づいた。
口ヒゲをはさみで揃える時だ。
こればかりは30年経っても勘で済ませることはできない。
しばらく前まではバリカンでゴシゴシするだけで
鏡いらずだったのだが。

そうだバリカンを買おう。

(つづく)





窓硝子の中蛍光灯を絡めとれり




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