まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録- -6ページ目

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 次は「三春城」にやってきました。

 

 城から少し離れたところにある「三春町歴史民俗資料館」でスタンプを押し、いざ登城。

(二の丸にある東屋にもスタンプ台がありましたが、インクが薄くなっていたので先に資料館で押印しておいて良かったです)

 

 私は車で二の丸前の駐車場まで行きましたが、徒歩で登ってくるのは少しつらいかもしれませんね。

 

 三春城は、1504年に戦国大名の田村義顕が築いたと伝えられています。義顕の子である隆顕の代に勢力を拡大しますが、やがて伊達氏と従属的な同盟関係になります。その際、愛姫が正室として伊達政宗に嫁いでいます。

 

 

 

 愛姫生誕の碑

 

 

 

 

 

 別名「舞鶴城」とも。確か新潟の村上城も舞鶴城だった気が。

 

 

 

 

 秀吉による奥州仕置後は、蒲生氏→加藤氏と領主を変え、1628年に松下長綱が入封した後に城は改修され、近世城郭へと生まれ変わっています。望楼型の三階櫓のほか、本丸には城主の入浴施設が築かれました。

 

 戊辰戦争では三春藩は奥羽列列藩同盟を脱退し、無血開城したことで落城を免れていますが、明治維新後の廃城令に伴い、ほとんどの建造物は喪失しました。

 

 

 本丸跡

 

 

 

 

 

 当時の遺構は多くはありませんが、蒲生氏時代に積まれたとみられる石垣がわずかに残されています。

 

 

 

 

 藩校である明徳堂の表門が唯一現存する建造物です。今は三春小学校の校門として移築されています。立派な薬医門です。

 

 

 

 

 この後は白河小峰城に向かいます。

 

 

日本100名城   3/100

続日本100名城  4/100

 

 

 

 「二本松城」は、室町時代に(二本松氏)畠山氏が築城した城です。

 

 
 1586年、伊達政宗により二本松氏は滅亡し、この地は伊達氏の所領となりますが、1591年の奥州仕置に伴い、二本松城は会津若松城主の蒲生氏郷の支城となりました。その後、何度か城主が入れ替わった後、1643年に丹羽光重(長秀の孫です)が入封して以降、明治維新に至るまで丹羽氏の居城となりました。
 
 見どころは、城づくりの名手・蒲生氏郷、加藤嘉明の2人が改修した石垣で、本丸直下の高石垣を蒲生が、箕輪門と附櫓のある三の丸高石垣を加藤が建造しています。
 
 戊辰戦争では、新政府軍に攻められ落城・焼失。明治維新後の廃城令に伴い、残存した建物も全て破却されました。
 
 1982年に二階櫓・箕輪門・多門櫓が復元され、1993年からは本丸の修復、復元が行われました。
 
 

 

  平山城の石垣ってそびえ立ってる感じがあって良きですね。

 
 

 二本松少年隊群像。戊辰戦争では、12歳から17歳までの少年兵も動員されていました。

 
 
 登城する際のワクワク感。旗も良い感じですね。

 
 
 櫓門前の石垣。このぐらいの積み加減が武骨さと洗練さのバランスが取れていて好みです。

 
 
 箕輪門は、丹羽氏が整備した櫓門です。

 
 
 これまた良いクランク。通り抜ける間に10回くらいは射抜かれそうです。

 
 

 

洗心亭(茶室)は唯一現存する建造物です。

 

 

 


 日影の井戸。日本の三大井戸の一つとされていますが、三大の基準がよく分からない。

 

 
 
 本丸が見えてきました。

 
 
 よく見ると扇の勾配。

 
 
 昔の石垣が移設展示されていました。石垣の裏側(裏込)の様子が分かります。

 
 
 搦手門跡。下を見ると門の礎石らしきものがちゃんと残ってます。

 
 
 天守台からの眺め。
 
 見ごたえ十分でした。時間が押してきたので次は三春城に向かいます。
 
 
日本100名城   3/100
続日本100名城  3/100

 今回は日帰りで東北4城を回る計画で、その第一弾が「白石城」です。

 

 白石城は、丘の上に立つ平山城で、中世の頃は白石氏(刈田氏)の居館だったと伝わっています。戦国末期には、伊達→蒲生→上杉→伊達、と目まぐるしく領主が入れ替わった後、江戸時代に入ると仙台藩家臣の片倉氏の城として落ち着きました。

 

 近世的な城に整備されたのは蒲生郷成が城主を務めていたころだそうです。

 

 戊辰戦争の際、奥羽諸藩の代表たちがこの城において白石列藩会議を開き、これが奥羽列列藩同盟の結成につながりました。

 

 象徴的存在であった三階櫓(大櫓)は、1875年に取り壊されましたが、1995年に大手一ノ門、大手二ノ門とともに木造復元されました。

 

 三階櫓は層塔型の三重三階。三階には高欄が巡る廻縁が付き、華頭窓が配されるなど、一家臣でしかない片倉氏の城としては非常に立派な作りです。

 
 大手一ノ門。この先は桝形を経て大手二ノ門に続きます。

 
 大手二ノ門は櫓門となっています。

 
 階段を上って中に入ります。

 
 三階櫓内部

 
 なぜ真田信繁の展示?と思ったのですが、大阪夏の陣で進退窮まった信繁が、激戦を繰り広げた相手である片倉重長の人物を見込んでその娘たちを託したそうです。
 信繁の娘である阿梅は重長の後室となり、大切にされたといいます。

 
 上から見ると一ノ門と二ノ門の間の桝形は変則的な形をしていますね。徐々に狭められた通路で混雑し、二ノ門前で行き詰ったところで三方向から狙い撃ちされる仕組み、ということかな。

 
 当時物の石垣は、本丸の外郭部に僅かに残っています。
 
 
 
 城から10分程歩いたところに、片倉家の奥方用人として仕えた旧小関家があるので、ついでに見てきました。この建物は1730年に造られたそうです。

 

 

 この後は二本松城に向かって南下します。

 

 

日本100名城   2/100

続日本100名城  3/100

 

 

 

 

 家族旅行の最終日に「川越城」を訪れました。この日の気温は35℃超え。流石は暑さで日本有数の街と言われる川越です。

 

 

 川越城は、15世紀半ばに扇谷上杉氏の家臣、太田道真太田道灌父子によって築かれました。

 

 江戸期に入ると、幕府は交通の要衝であったこの地を重要視しました。初代藩主酒井重忠をはじめ、明治まで川越藩を治めた8家はいずれも親藩です。歴代21人の藩主のうち8名が大老・大老格・老中など幕府の要職についており、この数は佐倉藩に続く数です。

 

 見どころはやはり本丸御殿でしょう。本丸御殿が現存しているのは、全国を見渡しても川越城のほかには高知城しかありません。廃城令により川越城も大部分が解体されましたが、この御殿は1848年の建築と「築浅」であったことが取り壊しを免れることができたようです。

 

 唐破風の屋根が目を引きます。

 
 
 玄関の左右には、櫛形塀という美しい塀を見る事が出来ます。

 
 
 大広間。戦後は中学校の体育館代わりに使われた時期もあり、天井にはバレーボールの跡が残っていたりします。

 
 
 スタンプ一覧の展示も。ちなみにここのスタンプは本丸御殿の中で押印できます。(入場料が必要です)

 
 
 品川台場と思われる図面を広げて会議中。川越藩は第一台場の担当として、江戸の海上防衛の一翼を担っていました。

 
 
 連郭式の縄張りです。

 


 童歌「通りゃんせ」の発祥の地なのだとか。

 

 

日本100名城   2/100

続日本100名城  2/100

 

 夏休みの家族旅行で関東へ。子どもたちにはお台場とTDLで楽しんでもらいつつ、私の城巡りも紛れさせてもらっています。

 

 

 この日は「品川台場」にやってきました。台場とは、幕末に設置された砲台のことで、1853年のペリー来航後に海上防衛のため日本各地に設置されたものです。

 

 この品川台場は、当初11基の設置が予定されていたところ、財政難により6つしか完成を見ませんでしたが、品川沖までやってきた黒船を牽制する効果は十分にあったようです。

 

 第三台場と第六台場の2つが現存しており、そのうち第三台場が公園として整備され開放されています。

 

 「お台場海浜公園マリーンハウス」でスタンプをもらい、現地に向かおうとしたところ、突然の雷雨。しまいには「落雷の危険があるので沿岸から離れるように」との周辺アナウンスがあり、上陸を断念せざるを得ませんでした。

 

 なので写真も下の一枚のみ。遠くでうっすらとしか見えませんが、「跳ね出し石垣」が確認できます。

 
いつかまた来たときは上陸を果たしたいと思います。
 
 

日本100名城   1/100

続日本100名城  2/100

 

 

 この日は小雨の降る中「村上城」へ。軽い登山の格好で行きました。

 

 村上城は、16世紀初頭に越後揚北衆の本庄氏によって築かれたと言われています。上杉氏支配の後、江戸期に入ると、村上氏、堀氏、松平氏などがこの地を納め、その後は譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わりました。

 

 幕末の戊辰戦争では、村上藩は抗戦派と恭順派で意見が分かれて分裂状態となり、混乱の中で多く建物は焼失。城下の諸門などはほとんど無傷で残っていたそうですが、それらも明治時代に破却されました。

 

 スタンプは、「村上城跡保存育英会」「おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)」「東北電力ネットワーク 村上電力センター」の3か所に設置されていますが、電力センターなら24時間押印可能です。

 

 「七曲がり道」と呼ばれるつづら折れの山道を進んでいきます。(実際には7回以上折れているような気がします) 

七曲がり道

 

 

 山道を10分程登ると、「四ツ門跡」が見えてきます。4方向に対して、4つの門扉を備えた特殊形状の櫓門で、全国的にも他に例がないそうです。今日では石垣を残すのみなので、石垣で囲まれた十字路のようになっています。

四ツ門跡

 

 
 

 本丸の石垣が見えてきました。下から登ってくると、中々迫力のある高石垣です。

野面積の箇所と打ち込みハギの箇所が混在しています。

 
 
 戦国期の遺構も残っているようですが、雨で足元も良くなかったので散策はパスしました。

 
 
天守台からの展望。村上市街を一望することができます。なお、かつて存在していた天守は、1667年に落雷を受け焼失、その後再建されることはありませんでした。

 
 

 良い看板ですね。

 

 

日本100名城   1/100

続日本100名城  1/100
 

 記念すべき第一城目は「新発田城」です。なぜここが最初かというと自宅から最寄りの城だからです。

 

 とは言っても、御三階櫓が再建されたころに来て以来なので記憶も朧気。今回はしっかり見てまいりたいと思います。

 

 新発田城は、江戸時代初期に新発田藩の初代藩主・溝口秀勝により築かれました。城が完全な形となったのは1654年、3代宣直の時代と言われています。

 

 この溝口さん、秀吉時代には大名格として加賀大聖寺を与えられていましたが、関ヶ原では東軍に付いています。苦渋の決断だったかもしれませんが、幕末までお家が残っていることを考えれば見事な処世術であったと言えるでしょう。

 

 本題に戻しますと、新発田城は本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門二の丸隅櫓が現存しており、現存建築が残る城跡としては新潟県内では唯一の城です。

 

 立派な表門です。金沢城などにもみられる海鼠壁が特徴的です。

 

 右手に見えるのが旧二の丸隅櫓。石垣はきれいな切込接布積ですが、これは1669年の大地震の被災後に改められたとされています。

 

 事実上の天守である三階櫓です。明治維新後の廃城令により破却されましたが、2004年に辰巳櫓とともに木造復元されました。

 

 この三階櫓の特徴は、なんといっても3つの入母屋造りの屋根に3匹の鯱が配置されていることであり、他にこのような屋根を持つ城はありません。

 攻め入った敵を鯱の位置で方向を惑わす役割があったのではないかとも言われますが、はっきりした理由は分かっていません。

 

 

 
 図のとおり、典型的な連郭式の縄張りです。

 
 

 

 

 

日本100名城   1/100

続日本100名城  0/100

私は昔から歴史(特に戦国期)が好きで、20代の頃から旅行の度に各地の城を訪れてはいたのですが、不惑の年を過ぎ、これを生涯のライフワークにしたいなあと思うようになりました。

 

100名城スタンプはこれまで素通りしていたのですが、根がコレクター気質ですので、コンプリートしたらさぞ嬉しいだろうなと想像を膨らませ、あらためて100名城と続100名城が一緒になったスタンプ帳を購入。

 

子育て中なのであまり時間は取れないのですが、これからゆっくり各地の城を巡っていきたいと思います。

 

なお、2023年まで遡って記録を付けるため、最初の数回は過去を振り返っての投稿となる予定です。