まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録- -5ページ目

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 これから「浜松城」へ向かいます。

 ここまでは以前のブログに書いた計画通りに行程を進められています。東京出張からの流れで、仕事用のスーツや革靴など、不要な大荷物をリュックに詰めたまま移動してきたので、背中も悲鳴を上げています。

 

 最低限の荷物以外は駅のコインロッカーに預けて、駅前のバス乗り場に向かうことにします。

 

 予定では16:00発の遠鉄バス・医科大学行に乗り、市役所前停留所に16:05着、そこから急いで浜松城天守に向かい、16:20に締め切られるスタンプを押す、という流れなのですが、ダイヤが遅れ気味らしく、実際に駅を出発できたのは16:03頃。さらに道が混んでいたため、市役所前に着いたのは16:13。

 

 そこからはもう天守目指して猛ダッシュです。何とか入場終了時刻2分前に天守に入って一安心するも、今度は…スタンプがない!スタンプがないぞ!

 

 天守1階を一通り見回した後に係の方に聞くと、「スタンプは天守ではなく、天守門の方です」とのこと。私の情報は古かったようです。


 急いで天守門に向かうも入り口がよく分からず、ここでもマゴマゴ。ようやく入り口を見つけましたが、既に係の人は撤収作業を始めていました。

 

 もう16:20は過ぎていましたが、スタンプ帳片手に必死の形相の私を哀れに思ったのか、スタンプを押させてくれました。大変助かりました。

 

 残念ながら、天守や天守門内部の展示を見る時間はありませんでしたが、まあ模擬天守ですし。


 取りあえず、この旅最大のボトルネックを何とかすり抜けることができたので、後はゆっくり外観を周ってみることにします。

 


 今川家支配のころの浜松城付近には、曳馬城(引馬城とも)という城が建っていました。1568年、今川領の制圧を開始した徳川家康はこの城を落としました。

 家康は、それまでの本拠であった岡崎城を嫡男・信康に任せ、1570年にこの城に入城しています。このとき、城域の拡張や改修を行うとともに、浜松城へと改称しました。引馬という名称だと、「馬を引く」=「撤退する」という意味になるので、縁起を担いで改称したものと言われています。

 徳川家康は、のちに駿府に移るまで、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。

 ちなみに、家康が武田信玄に完敗した三方ヶ原の戦いは、この城の僅か数キロ北で繰り広げられました。

 

 天守は、江戸初期に失われており、今建っている天守は模擬天守です。実物よりもサイズダウンして造られているので天守台が余ったような感じになっています。


 

 

 家康時代の浜松城は、土造りの城であり、石垣を備えていなかったというのが定説でしたが、最近の研究でこの説は覆されています。ただし、天守台の石垣は、家康の関東移封後に入城した堀尾吉晴の時代に築かれたもののようです。


 

 

 400年の風雪に耐えた荒々しい野面積の石垣。今まで見てきた野面の石垣の中ではダントツに好みです。


 

 

 青年期の家康公。家康が手にしているのはシダの葉です。シダの別名は「勝草」ということで、戦に挑むには縁起の良い植物だそうです。家康は兜の前立て(兜の正面の飾り)としてシダをかたどった飾りをつけていました。


 


 この城も20年前に訪れているのですが、ほとんど記憶から消えていました。やはり記録することは大事ですね。

 

 

 本丸から天守門を見上げる。



 天守曲輪石垣。



 

 登城を終えて一息。「浜名湖うなぎ 丸浜」さんのうな重を美味しくいただきました。


 

 

 

 

 

 これから今日の宿泊先のある豊橋に向かいます。

 

 

 

日本100名城  7/100

続日本100名城 8/100

 

 

 「掛川城」を前回訪れたのは2004年のことなので、もう20年も前のことになります。

 当時「功名が辻」の大河ドラマ化も決定し、当地も盛り上がっていたようだったのは記憶していますが、城の記憶も大分おぼろげになってしまっています。

 

 掛川城は、室町時代の中期に駿河守護の今川義忠が重臣の朝比奈泰煕(やすひろ)に命じて築城したと伝わっています。当初は現在地である龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されたものです。

 

 信玄の駿河侵攻後、駿府を追われた今川氏真はこの掛川城に逃げ込みましたが、武田と示し合わせて遠江に侵攻してきた徳川氏に包囲されることとなり、1569年5月、大名としての今川家の歴史はここで閉じることになります。

 ちなみに、家康と信玄の間では、「今川との和睦はしない」「氏真は殺す」という約束になっていたらしく、氏真との和睦は信玄を怒らせる結果となり、後の武田家による遠江侵攻に繋がっていくことになります。(いずれにせよ衝突することになっていたとは思いますが)

 

 現在みられる近世城郭は豊臣政権下において入封した山内一豊によって築かれたものです。

 

 天守を含む大半の建物は、1854年の安政東海地震により倒壊してしまいました。その後、政務所である二ノ丸御殿は再建され現在に至っています。

 安政東海地震は、今クローズアップされている南海トラフ巨大地震の一つとされています。

 

 

 駅から真っすぐ10分程歩くと城が見えてきます。

 

 

 

 現在の掛川城公園の入り口にもなっている四足門。調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図(しょうほしろえず)を元に復元されました。門の内側には、入城者を調べる番所があり、本丸に通じる重要な門でした。

 

 

 

 太鼓櫓。安政東海地震以後に建てられたもので、何度か移築されたのち、1955年から今の位置に建っています。

 

 

 

 久しぶりの天守でワクワクします。

 

 

 

 この天守は1994年に戦後初の木造復元天守として再建されたものです。3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に復元されています。

 

 

 天守より見る掛川市街。

 

  

 

 二の丸御殿です。ちなみに、御殿は、川越城、高知城、二条城、掛川城の4城にしか現存しておらず、貴重な建築物と言えます。

 

 

 

 部屋の中も自由に見学できます。

 

 

 

 

 帰り際にパシャリ。

 

 

 

 

 酷暑で身体がしんどくなってきていますが、なんとか予定どおり浜松へ向かえそうです。

 

 

 

日本100名城  7/100

続日本100名城 7/100

 

 

 

 掛川駅に降り立ちました。スケジュールはここまで順調。

 さて、掛川市内には掛川城高天神城という、名城選定されている2つの城があります。

 

 高天神城は、徳川家康武田勝頼が遠江支配を巡って激しい争奪戦が繰り広げられた城であり、徳川氏が高天神城を包囲した際、勝頼が援軍を出さなかったことが武田家の求心力を低下させ、武田家滅亡を早める一因となったと言われる城なのですが…。

 

 今回パスさせていただきます。というのも、この時点で正午を過ぎており、掛川駅から高天神城まではバス+徒歩で片道40分程度、散策にも1時間程度を要し、バス自体も1時間に一本程度と少ないことを考えると、今日中に掛川城、浜松城を巡って豊橋までたどり着くのは不可能との算段です。(というか最初からそのつもりでした)

 

 でもなんと、掛川駅構内にあるビジターセンターで高天神城のスタンプは押せてしまうのです。邪道ですが、今回はスタンプだけ押させてもらい、かつちゃっかり御城印もいただいた後、掛川城へ向かいます。

 

 いつか必ず、必ず高天神城には訪れたいと思います。

 

 

 …とりあえずスタンプ上は、

日本100名城  6/100

続日本100名城 7/100

 駿府城散策の後、JRで静岡駅から金谷駅まで移動してきました。

 

 「諏訪原城」は、地図で見ると駅からすぐ近くに見えるのですが、かなり坂を登っていくことになるため、酷暑で体力消耗中の私には徒歩の選択肢はありません。


 金谷駅からバスも出ているようですが、時間が合わないので駅前に停まっていたタクシーで移動しました。思ったとおり坂道がキツかったのでタクシーで正解だったと思います。料金は1,100円くらいだったかな?

 

 

 諏訪原城は、1573年武田勝頼馬場信春に築かせた城と言われています。掛川方面を見渡せる牧之原台地上にあり、徳川氏の高天神城を攻略するために築かれました。城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。

 1575年徳川家康の手に落ちた後は「牧野城」と改名され、今度は逆に武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。

 

 ちなみに馬場信春は武田四天王の一人にして武田家きっての築城名人でもあり、私の推しでもあります。長篠合戦で戦死するまでかすり傷一つもなく、不死身の鬼美濃と称されています。(表情にも自信がみなぎっているように見えますね)


 この城の見どころは、なんと言っても複数の巨大な丸馬出の存在です。馬出とは、虎口の外側に防備強化と出撃拠点を目的に置かれた曲輪のことであり、武田の城にはよく見られます。

 ビジターセンターでスタンプを押印の後、展示物を見てイメトレをします。




 

 大手曲輪。


 

 大手北外堀。今は浅くなっていますが、当時は6m程の深さがあったようです。


 

 二の曲輪丸馬出三日月堀。壮大な馬出ですが、秋冬に来た方が下草が枯れてきて見やすくなりそうですね。




 二の曲輪北馬出より。大井川の先には富士山があるはずなのですが、夏場は富士山って見えないんですよね。



 外堀。城内でもっとも大きい横堀です。


 

 二の曲輪と二の曲輪大手馬出を繋ぐ土橋。


 

 二の曲輪大手馬出に諏訪神社が建っています。


 

 ビジターセンターに戻ってきたところ、次のバスままだ1時間近くもありました。散々迷いましたが、駅まで歩いて30分ほどと聞いたので、歩いて金谷坂の石畳を降りて金谷駅に向かうことにしました。

  

 諏訪原城を出てすぐの金谷坂石畳


 

 金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、雨が降るとぬかるむため、旅人は歩行に苦労しました。そこで江戸時代末期に約720mの石畳が造成されました。

 明治以降に舗装され、もとの面影は失われていましたが、1991年に町おこし事業として430mの石畳が復元されました。

 ちなみにちょうど20年前の夏、東海道、山陽道を自転車で走破する旅をしていた私は、自転車を引きずりながらこの石畳を登っていました。城のすぐ脇を通ったはずですが、当時は諏訪原城の「す」の字も知りませんでした。

 それにしても、こんなに歩きにくい道だったっけ?

 

 30分くらいと聞いていましたが、20分ほどで駅に着きました。ここで駿府城でのスケジュールの遅れを完全に取り戻すことができました。

 

 次は掛川に向かいます。

 

 

日本100名城  6/100

続日本100名城 6/100 

 JR東海道本線で静岡駅までやってきて、駿府城公園に向かいます。

 駅から駿府城公園までは、徒歩で15分程度です。

 

 

 「駿府城」は、武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康により近世城郭として築城されました。家康は1586年に自身が17年過ごした浜松城から駿府城に移っています。

 

 1590年の後北条氏の滅亡後、家康が関東に移封した後は、豊臣家臣の中村一氏が入城しました。

 

 江戸時代に入り、将軍職を秀忠に譲った家康は、隠居先として駿府城を選びました。ただし、隠居とは名ばかりで、実際には大御所として変わらず権勢を揮っていたものとみられています。

 

 家康が駿府を選んだ理由は、①江戸と京大坂との間に位置しており、いまだ健在の豊臣家に睨みを利かせられる、②幼少期からの馴染みがある、③比較的温暖な気候で景色もいい(なんと言っても富士山がある)、④参勤交代する西国の大名も立ち寄りやすい、など色々ありそうです。

 

 

 

 

 

 公園付近で見つけた「金陀美具足(きんだみぐそく)」のプラモデル風モニュメントです。さすが、タミヤを生んだプラモの街・静岡ですね。「どうする家康」を視聴していた方には馴染みがあると思いますが、金陀美具足は、家康が織田方に包囲された大高城への補給作戦を成功させた時に着用していたものと伝えられています。

 こんなに目立っていたら格好の的になりそうなものですが…。

 

 

 

 

 

 堀と石垣が見えてきました。この堀は三の丸を取り囲んでいる「外堀」で、部分的に現存しています。なお、三の丸は市街地化が進んでおり、官公庁や学校などが立ち並んでいます。
 
 輪郭式の縄張りです。
 

 

 

 手前が巽櫓、奥が東御門。堀は「中堀」です。近年の復元工事により、巽櫓が1989年に、東御門が1996年に、坤櫓が2014年にそれぞれ木造復元されています。

 

 

 

 

 東御門。

 

 

 

 東御門を入ったところの桝形。この切込接の美しさは江戸城に通じるものがあります。

 

 

 

 巽櫓内の展示で、家康が人質時代に勉学に勤しんだ部屋が再現されています。

 人質と言っても、幼少期の家康は今川家の軍師・太原雪斎から英才教育を受けていたと言われており、今川氏の親族衆である関口親永の娘を正室に迎えていることからも、ゆくゆくは重臣として期待されていたことが分かります。

 

 

 

 鏡石。

 

 

 

 池のようになっていますが、本丸を取り囲んでいる内堀の一部です。内堀は明治時代の陸軍駐屯中に埋められてしまいましたが、部分的に発掘され保存されています。幅約23m~30mで、深さは江戸時代には約5mありました。

 

 

 

 二の丸橋前。向こう側の建物は静岡県庁です。

 

 

 

 復元された坤櫓

 

 

 

 紅葉山庭園。2001年に完成した日本庭園です。

 

 

 

 現在も天守の発掘調査が進められています。近年の調査で、天正期(戦国期)の天守と慶長期(江戸期)の天守が重複した位置にあることが分かっています。なお、天守は失火で1635年に焼失して以後は再建されていません。

 
 

 

 

 二の丸水路。この水路は本丸堀と二の丸堀を繋ぐ水路で本丸堀の水を外に流す目的で築かれています。水路内側はは石積みで、底部にも石が敷かれていました。

 
 

 

 

 

 次の諏訪原城へ向かおうとしたところ、坤櫓でタオルを落としてしまったことが発覚し、回収するまでに時間を要したため、予定のスケジュールから電車一本分遅れてしまう羽目になりました。(たかがタオルと言いたいところなのですが、35℃超えの猛暑の中の城巡りには欠かせない)

 

 遅れを挽回できるのか。静岡駅から東海道本線に乗り金谷駅へ。諏訪原城へ向かいます。

 

 

日本100名城  6/100

続日本100名城 5/100

 本日第1弾は「興国寺城」です。この城は、北条早雲の旗揚げの城として知られており、早雲はここを起点に伊豆、小田原に進出したとされています。

 

 もっとも「北条」姓を名乗ったのは、2代目の綱成からであり、伊勢新九郎盛時というのが早雲の生前の名前です。

 

 伊勢氏は室町幕府の政所執事を務めた家柄であり、盛時の姉(または妹)の北川殿が今川義忠に嫁いだことで、盛時と今川家との関係は深いものとなりました。

 

 義忠の死後、盛時は今川家の家督争いの仲介を行い、北川殿の子である龍王丸(後の今川氏親)の地位保全に務めるなど多大な功があり、後に興国時城を与えられたようです。(実際には興国寺を与えられていないとの説もあります)

 

 氏親の子である義元にとっては、盛時は大叔父ということになりますね。

 

 

 前置きはこのぐらいにして。

 この日は三島駅近くに取ってあった宿を朝早くに発ち、JR三島駅から原駅まで移動し、原駅前から沼津市のコミュニティバスに乗り換えます。

 

 駅前のロータリーにて、もう発車時刻なのにバスが来ないな〜と思って待ってたら、先程から停まっていたこのマイクロバスがミューバスでした。路線バスみたいなのを想像してたので危うく乗り過ごすところでした。

 
 運転手さんが親切な方で、乗客も私一人だったためか、帰りのバス停と時刻まで教えていただきました。
 
 これが帰りのバス停です。1時間に1本くらいですが、この猛暑の中で30分以上かけて駅まで歩くことを考えたら、バスがあること自体が有り難い。 

 遺構はあまり残ってないですが、実はこのバス停のあたりまでが三の丸だということを後で知りました。

 
 バス停から徒歩30秒くらいで興国時城の入口が見えます。旗が立ってるのですぐ分かります。
 
 
 道を進んでいって左手に二の丸の跡があります。
 
 さらに進んでいくと、少し段が上がったところに本丸が見えてきます。さらには、その本丸を取り囲む大土塁も。
 


 大土塁の麓に神社があります。
 
 右手が北条早雲、左手が徳川家臣であり最後の城主である天野康景の碑です。
 

 興国寺城は、戦国期には今川→北条→武田→豊臣→徳川と目まぐるしく領主を変えましたが、最後はあっけなく幕を閉じることになります。
 1607年に天野康景が蓄えた竹木を窃取した天領の領民を康景の家臣が殺傷した事件があり、康景は家臣をかばって自ら出奔したため改易に処せられました。このころには、当地の地理的重要性も薄れており、興国寺城はそのまま廃城となってしまいます。


 スタンプはここで押せます。のぼりがあったので気が付きましたが、「北条五代」を大河ドラマに!という声があるようです。私も火坂氏・伊東氏の小説を楽しく読みましたので推しますよ。でも、ドラマ的には主役である当主が5人も入れ替わるのは難しそう…。
 
 土塁を登っていくと天守台の石垣が見えてきます。
 
 石垣や天守台は徳川氏の支配期に造られたようですが、瓦の出土がないことから実際には天守は築かれなかったようです。
 
 天守台から本丸・二の丸方面。連郭式の縄張りであることが分かります。
 
 天守台北側の大空堀。やはり写真では凄さが分かりにくい。
 
 空堀の下に降りてみました。

 
 土塁に不気味な横穴が…。これは太平洋戦争時に掘られた防空壕だそうです。
 
 最初のバス停付近に小さな池がありました。これもかつての堀の名残のようです。
 
 
 このあとは東海道線に乗って、静岡(駿府城)に向かいます。
 
 
日本100名城  5/100
続日本100名城 5/100

 

 今回は、東京出張の合間に「江戸城」にやってきました。

 言わずと知れた徳川将軍家の城です。

 

 東京駅から丸の内口を背に真っすぐ向かうと和田倉休憩場のあたりに着くので、まずはここでスタンプをゲット。

 

 和田倉休憩場から堀の方へ向かうと最初に見えてくるのが巽櫓です。

 巽櫓という名称は各地の城でよく使われますが、本丸から見て東南(辰巳)の角にあることから名付けられています。なので、櫓の名称で今いる位置が分かったりします。


 富士見櫓伏見櫓もそうなのですが、この巽櫓も、関東大震災で損壊したのちに解体して復元されています。石落としや狭間が確認できます。

 
 

 

 このアングルだと桔梗門富士見櫓もチラ見えします。

 

 

 

 続いてやってきました桔梗門は、本丸南口の通用門として1614年に造られました。本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登下城の門でした。写真手前の高麗門と右手の渡櫓門からなる枡形門が残っています。

 

 

 と、ここまで来たところで、桔梗門が封鎖されていることに気付きました。なんと、金曜日はここから内側には入れないそうです……。月曜休みの施設が多いのは認識していましたが、金曜もか。完全にリサーチ不足でした。

 天守台や富士見櫓を見たかったので残念ですが、江戸城ならまた来れる機会はあるでしょうから、次回の楽しみにとっておきます。

 

 

 こちらも中には入れませんが大手門。こちらも桝形門です。写真手前の高麗門は明暦大火(1657年)後に再建されたもの、奥にチラッと見える渡櫓門は戦災で焼失後、1966年に木造再建されたものです。

 

 

 

 

 明日からの土日で静岡・愛知方面の城を周遊します。

 

 

日本100名城  5/100

続日本100名城 4/100

 

 

 前日金曜日の東京出張を絡めて、土曜日に静岡県、日曜日に愛知県の名城をできるだけ多く訪問し、日曜夜に小牧空港から新潟に帰る計画です。


 8/3(土)は、公共の交通機関を使って6名城(スタンプ押印のみ含めると7名城)を訪れる超ハードスケジュール。はたして計画どおり実行できるのか…。


 以下が事前に計画した分刻みの詰め詰めスケジュールです。

 

・06:45 宿泊先の三島市内のホテルを出発

・07:02 三島駅発(JR東海道本線)-07:15 原駅着

・07:20 原駅発(沼津市ミューバス)-07:27 東根古屋着

・07:35-08:20 興国寺城散策

・08:29 東根古屋発(沼津市ミューバス)-08:36 原駅着

・08:51 原駅発(JR東海道本線)-09:38 静岡駅着

・09:55-11:15 駿府城散策

・11:31 静岡駅発(JR東海道本線)-12:03 金谷駅着

・12:05 金谷駅発(タクシー)-12:15頃 諏訪原城着

・12:20-13:10 諏訪原城散策

・13:10 諏訪原城発(徒歩)-13:30頃 金谷駅着

・13:45 金谷駅発(JR東海道本線)-13:58 掛川駅着

 (高天神城スタンプを駅構内ビジターセンターで押印)

・14:10-14:50 掛川城散策

・15:16 掛川駅発(JR東海道本線)-15:42 浜松駅着

・16:00 浜松駅発(遠鉄バス)-16:05 市役所前着

・16:10-17:00 浜松城散策

・17:47 浜松駅発(JR東海道本線)-18:21 豊橋駅着

・18:40 豊橋市内のホテルにチェックイン

・18:55-19:15 吉田城散策

 

 どこかで詰まったら、ドミノ式に後の計画も狂っていくギリギリの計画です。


 ネックになりそうなのは浜松城。スタンプが16時20分に終了してしまうので、上記の予定が少しでも押してしまうと、スタンプ未押印のまま宿泊先の豊橋に向かわなければいけなくなる。これだけはどうしても避けたいところです。


 最後の吉田城は、日没までギリギリ攻めたい気持ちの表れです。間に合わなければ翌日朝にまわる予定です。


 ちなみに静岡の城というと山中城は外せないと思うのですが、三島から往復半日コースになってしまうので今回はパス。いずれ小田原城、石垣山城とセットで訪問するつもりです。

 

 答え合わせは後のブログで書きたいと思います。

 城ではないのですが、白河小峰城訪問の後に同じ市内の「白河関跡」に行ってきました。

 

 白河関は古くから奥州の関門として置かれており、歌枕として数多くの和歌にも詠まれている名所です。

 

 
 厳かで雰囲気の良い入口です。

 
 よく整備された階段を登っていきます。

 
 能因法師などの歌が刻まれている石碑です。

 
 空堀の跡。保存状態がよいです。

 
 写真だとイマイチ伝わりにくいのですが土橋。看板の奥に土塁が築かれています。

 
 堀の内側。城でいうと主郭に相当する場所でしょうか?開けた土地が広がっています。

 
 一際目立つ大木。鎌倉時代前期の歌人、藤原家隆が奉納したと伝わる杉の木です。
 家隆さんの歌は小倉百人一首にも選ばれています。「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」の人です。

 
 1180年、源義経が平氏の追討にあたりここを立ち寄った際に、この桜の木に源氏の旗を立てたそうです。
 実際には特定はできないだろうと思うのだけど、どの桜の木だろう?

 
本日の日帰り弾丸ツアーはこれでおしまいです。

 

 

 

 「白河小峰城」は、会津若松城、盛岡城と並んで東北三大石垣とうたわれる総石垣の城です。

 

 蒲生氏改易の後に白河に入封した丹羽長重が白河小峰城を築城しました。長重は丹羽長秀の嫡男であり、関ケ原では西軍に与していたため一度は改易されましたが、その後大名に復帰し、大阪の陣でも武功を挙げていました。彼が白河藩の初代藩主となります。

 

 白河藩の締める地位は奥羽地方の外様大名の抑えであり、丹羽氏が二本松に移封して以降は、有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わりました。白河は関東と東北の境界線に位置し、かつては関所が置かれるなど、中世以前から要衝の地でありました。

 

 戊辰戦争時には、白河藩領は二本松藩の預かり地となっていたため、当地は藩主不在で係争の地となり、白河小峰城は戦火によって大半を焼失しました。

 

 城址には石垣が残るのみとなっていましたが、1991年に本丸御三階櫓が、1994年には前御門が木造建築で復元されました。

 

 今は本丸正面にあった清水門の復元工事が始まったばかりで、2025年度末の完成を目指しているようです。

 

 

映えスポットの前御門前。

 
清水門の工事が始まってて正面側は近くまで行けないのですが、同心円状に積まれている箇所が遠目で確認できます。

 
扇の勾配ですね。

 
イマイチ伝わりにくいのですが、かなり壮大な石垣です。

 
搦手側からの三重櫓。左下のやや乱れて乱積みになっている辺りの石垣は初期のころから残存している箇所だそうです。

 
三重櫓内部。この城は木造復元天守の第一号案件です。

 

 

 

 

 清水門が完成したらまた来たいです。

 

 

 

日本100名城   4/4

続日本100名城  4/4