これから「浜松城」へ向かいます。
ここまでは以前のブログに書いた計画通りに行程を進められています。東京出張からの流れで、仕事用のスーツや革靴など、不要な大荷物をリュックに詰めたまま移動してきたので、背中も悲鳴を上げています。
最低限の荷物以外は駅のコインロッカーに預けて、駅前のバス乗り場に向かうことにします。
予定では16:00発の遠鉄バス・医科大学行に乗り、市役所前停留所に16:05着、そこから急いで浜松城天守に向かい、16:20に締め切られるスタンプを押す、という流れなのですが、ダイヤが遅れ気味らしく、実際に駅を出発できたのは16:03頃。さらに道が混んでいたため、市役所前に着いたのは16:13。
そこからはもう天守目指して猛ダッシュです。何とか入場終了時刻2分前に天守に入って一安心するも、今度は…スタンプがない!スタンプがないぞ!
天守1階を一通り見回した後に係の方に聞くと、「スタンプは天守ではなく、天守門の方です」とのこと。私の情報は古かったようです。
急いで天守門に向かうも入り口がよく分からず、ここでもマゴマゴ。ようやく入り口を見つけましたが、既に係の人は撤収作業を始めていました。
もう16:20は過ぎていましたが、スタンプ帳片手に必死の形相の私を哀れに思ったのか、スタンプを押させてくれました。大変助かりました。
残念ながら、天守や天守門内部の展示を見る時間はありませんでしたが、まあ模擬天守ですし。
取りあえず、この旅最大のボトルネックを何とかすり抜けることができたので、後はゆっくり外観を周ってみることにします。
今川家支配のころの浜松城付近には、曳馬城(引馬城とも)という城が建っていました。1568年、今川領の制圧を開始した徳川家康はこの城を落としました。
家康は、それまでの本拠であった岡崎城を嫡男・信康に任せ、1570年にこの城に入城しています。このとき、城域の拡張や改修を行うとともに、浜松城へと改称しました。引馬という名称だと、「馬を引く」=「撤退する」という意味になるので、縁起を担いで改称したものと言われています。
徳川家康は、のちに駿府に移るまで、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。
ちなみに、家康が武田信玄に完敗した三方ヶ原の戦いは、この城の僅か数キロ北で繰り広げられました。
天守は、江戸初期に失われており、今建っている天守は模擬天守です。実物よりもサイズダウンして造られているので天守台が余ったような感じになっています。
家康時代の浜松城は、土造りの城であり、石垣を備えていなかったというのが定説でしたが、最近の研究でこの説は覆されています。ただし、天守台の石垣は、家康の関東移封後に入城した堀尾吉晴の時代に築かれたもののようです。
400年の風雪に耐えた荒々しい野面積の石垣。今まで見てきた野面の石垣の中ではダントツに好みです。
青年期の家康公。家康が手にしているのはシダの葉です。シダの別名は「勝草」ということで、戦に挑むには縁起の良い植物だそうです。家康は兜の前立て(兜の正面の飾り)としてシダをかたどった飾りをつけていました。
この城も20年前に訪れているのですが、ほとんど記憶から消えていました。やはり記録することは大事ですね。
本丸から天守門を見上げる。
天守曲輪石垣。
登城を終えて一息。「浜名湖うなぎ 丸浜」さんのうな重を美味しくいただきました。
これから今日の宿泊先のある豊橋に向かいます。
日本100名城 7/100
続日本100名城 8/100


















































































