まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録- -4ページ目

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 山形市から車を走らせ小一時間、米沢城にやってきました。

 実はこの城には昨年も訪れたていたのですが、スタンプ帳を忘れるという失敗をしてしまったため、今回はそのリベンジを果たします。


 さて、米沢城は鎌倉時代にこの地を治めていた長井氏によって築城された城ですが、その後伊達氏の支配下となり、晴宗の時代にはこの地が本拠地となりました。あの政宗もこの城で生まれています。

 豊臣政権を経て、徳川の時代に入ると、会津から大幅に減封された上杉氏がこの地にやってきます。以後、明治維新まで上杉氏の居城であり続けました。



 絵図をご覧のとおり、連郭式の縄張りです。ただし、現在では本丸の堀、土塁などに遺構を残すのみとなっています。

 
本丸を囲む堀



上杉謙信


上杉景勝直江兼続


上杉鷹山像。江戸中期の藩主です。藩政改革を行い、米沢藩を深刻な財政難から救ったことで知られています。


有名な言葉です。


現在では本丸の大部分をこの上杉神社が占めています。


上杉家の家紋は「竹に雀紋」です。


 時間があったので、春日山林泉寺にも立ち寄ってみました。元々上杉氏の本拠地があった春日山(新潟県上越市)の山麓に同名の寺がありましたが、上杉氏の米沢移転に伴いこちらに移ってきました。藩主の正室や直江兼続など重要な家臣の墓が安置されています。


 上杉景勝正室の菊姫のお墓です。謙信亡き後、景勝は景虎との後継者争いに勝利したものの、いまだ領内の政情は安定しておらず、隣の武田氏と争っている余裕はありませんでした。
 また、跡目争いをした景虎は北条氏からきた養子だったこと、この頃は武田勝頼も北条氏との関係が悪化していたことから、上杉・武田は共通の敵対相手として北条氏をみるようになっていました。自ずと上杉・武田の関係は強化されることとなり、甲越同盟の証として武田信玄の娘である菊姫が嫁いでくることとなりました。

 
 こちらは上杉景勝の実母であり、謙信の姉でもある仙洞院のお墓です。


 直江兼続夫妻のお墓です。



 これで山形県内の日本100名城、続日本100名城はコンプリートです。


日本100名城  10/100

続日本100名城 13/100

 山形城は、豊臣政権下にあった最上義光が大改修を実施し、現在の城の基礎を築き上げました。次いで1622年に入封した鳥居忠政が、さらなる改修整備を行い、今の姿が完成。

 典型的な輪郭式の平城で、現在は市街地化が進んでしまった三ノ丸までを含めると、周囲6.5kmとかなり広大な城です。ちなみに下の写真はデザインが気に入って購入した御城印帳です。


 

 最上時代には、57万石の大大名の居城であり、その後も米沢の上杉、仙台の伊達、秋田の佐竹ら、外様大名を監視する役目を担ってきた山形城ですが、やがてその必要性も失われ、城主の変遷とともに石高も減少。最終的には5万石となり、城の修理すらおぼつかない状況になっています。

 
 車が入れるのは、この二ノ丸北不明門からのみとなります。不明門(あかずのもん)とは、通常は使用されることがなく、ほとんど開かれることがない門を指す呼称です。

二ノ丸北不明門の石垣

二ノ丸を囲む堀

最上義光の騎馬像。直江兼続が攻めてきた際、自らが陣頭となって向かっていく勇ましい姿を再現したものだそうです。

二ノ丸東大手門。1991年に木造造で復元されました。

高麗門の造りです。

高麗門をくぐると枡形、そして櫓門へ続きます。


櫓門。梁材として使用されている檜は台湾の協力を得て輸入されたものだそうです。


二ノ丸東大手門前の堀。堀に平行してJRの線路が走っています。

本丸一文字門。ここが本丸の大手となります。
平成以降、現存する絵図面を元に、石垣、大手橋、高麗門、枡形土塀が復元されています。写真右側の櫓台の上に櫓門がありましたが、立面図などの史料が不足しており復元に至っていません。

本丸の堀。

 二ノ丸南大手門付近の雁木。大部分は後に復元されたものですが、右下の方の一部は当時の状態が残っています。
 ちなみに城の世界では、雁木というのは石塁の上に素早く登るために設置された階段のことを指しますが、多分新潟県民の多くは建物の庇を長く張り出したアーケード状のものをイメージすることでしょう。

 鶴岡に続きここでも擬洋風建築を見つけました。1878年に病院として建築されたもので、1966年に今の場所に移築。現在は山形市郷土館として使用されています。

 この後は米沢に向かって南下します。


日本100名城  10/100
続日本100名城 12/100

 今回は、1日で山形県の3名城を巡って帰宅する日帰り旅です。

 自宅のある新潟市を早朝に出発し、鶴ヶ岡城→山形城→米沢城の順に訪れ、夕方帰宅する計画です。


 鶴ヶ岡城の起源は古く、もともとは鎌倉時代から戦国期まで庄内地方を治めた武藤氏の居城でした。当時は「大宝寺城」と呼ばれていました。

 武藤氏が滅びた後は上杉家の支配を経て、1601年に最上義光の支配するところとなります。ところが、「最上騒動」なる内紛により最上家は改易となってしまいます。

 1622 年、譜代である酒井忠勝が入封し、現在の「鶴ヶ岡城」として整備。以降、幕末までの250年間、鶴ヶ岡城は酒井家・庄内藩の藩庁として機能しました。

 1871年の廃藩置県により廃城となり、建物は取り壊されましたが、現在は鶴岡公園として整備されています。


 案内板。輪郭式の城であったことが分かります。現在では、本丸および二の丸の堀の一部が残存しています。


 本丸御殿の跡。


 本丸の中心部には荘内神社が建てられています。明治に入り、旧藩主を追慕して創建されたものであり、藩祖である酒井忠次ら4人を御祭神としています。




 賽銭箱の隣に甲冑が飾られていましたが、これって家康のやつですよね?

 
 堀。石垣は主要部にのみ築かれ、大半は土塁だったようです。


 ここからは城とは関係ないのですが、鶴岡には状態の良い擬洋風建築が多く残されています。


 鶴岡公園内にある大宝館。大正時代に建造されたもので、物産陳列場や図書館として利用されました。ドームっぽい赤い尖塔が特徴的ですね。


 城の三の丸にあたる場所には、致道博物館があり、旧鶴岡警察署庁舎旧西田川郡役所などを見ることができます。

旧鶴岡警察署庁舎

旧西田川郡役所


 致道館にも立ち寄りました。

 第9代庄内藩主の酒井忠徳が1805年に創設した藩校です。廃校後も鶴岡県庁、鶴岡警察署、女子今日の明倫学校、尋常小学校などに利用されてきました。往時の貴重な建物が現存しており、入場料無料で見学できます。


表御門


 
講堂



聖廟

 

  次は、山形城に向かいます。



日本100名城    9/100

続日本100名城 12/100


 久しぶりの更新です。

品川台場」には一昨年に訪れたのですが、あまりの雷雨で上陸できなかったので、今回はそのリベンジを果たします。


 品川台場は江戸湾防衛を目的に幕府が築いた砲台で、西欧式の築城技術を取り入れた日本で最初の本格的な近代城郭です。

 お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って「御」を付け、御台場と称したことが由来です。

 当初は11基の予定でしたが資金不足などにより、完成したのは第一、第二、第三、第五、第六台場の5基に留まりました。明治維新後は陸軍省が管理を経て、民間に払い下げられました。

 現存するのは、第三、第6六台場の2基です。第六台場は上陸が許可されておらず、現在では地続きになっている第三台場のみが一般に公開されています。


 木造の階段を上がって内部に入ることができます。



 海側の石垣は切込接の布積みで、隙間なくきれいに積まれています。最上段が外側に張り出す「跳ね出し石垣」は、西欧由来の技術であり、五稜郭の半月堡にも見られる構造です。
 重機も運搬船もない時代、海上にこのように石垣を積む技術があったこと自体が驚異です。


 階段の右側の石垣です。積み方が海側とは異なります。


 外周部は土塁で囲われており、内側が平坦な窪地となっています。


 第三台場が「台場公園」として整備されたのは1929年のこと。そこからもう1世紀も経つんですね。


 砲台跡。ただし、記録をもとに1933年に復元されたものです。なお、大砲は実際に使用されたことはありませんでした。


 火薬庫跡。同じようなものが複数あります。


 陣屋跡。基礎部分のみが残されています。


 かまど跡。1928年の台場公園開園に伴い設置されたもの。

 私がお台場を訪れる日はいつも天気が悪かったので、ようやく訪れることができました。









 今回の旅程の最後の城、「小牧山城」にやってきました。

 小牧山は濃尾平野の中にポツンと立つ標高86mの低山で、真っ先に連想したのはドラえもんに出てくる裏山です。

 このように市街地に囲まれている低山は私の郷里である新潟県には存在しません。私にとっての平野は市街地か田んぼであり、山と言えば真の山間部、といった感じなので、ここの景色は新鮮味を覚えます。

 

 小牧山城の歴史は、1563年織田信長は美濃攻略の為に本拠を清州から小牧山に移したことから始まります。山頂に石垣が築かれるなど、石を多用しており、当時としては画期的な城でした。
 城の南側には城下町も整備されましたが、1567年に信長が岐阜に居城を移したため、小牧山城はたった4年でその役割を終えることとなりました。

 城下町まで造るくらいだから、信長も仮住まいのつもりではなかったのだろうけど、想定よりも早く美濃平定が成ったということなのかな?

 

 この城に再度スポットがあたるようになったのは、それから17年後の1584年。天下人に近づきつつある羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間で「小牧・長久手の戦い」が起こりました。

 家康は、ここで羽柴軍を迎え撃つため、わずか5日間で土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築いたといわれています。もっとも、この城で直接戦いが行われることはありませんでした。

 

 山と城跡は、江戸時代を通して尾張徳川家の領地として保護を受け、一般の入山は禁止されていました。明治維新後も尾張徳川家の所有地でしたが、1927年に国に寄付され、現在は山全体が公園として整備されています。

 

 

 麓から見た小牧山。山頂に天守風の歴史資料館が建っています。


 

 小牧山北駐車場に車を停めて、搦手側から遊歩道を通って登城します。


 

 空堀の跡のようです。


 

 

 山頂が近づいてくると所々に発掘されたとみられる石垣が見えてきます。



 

 

 やっと山頂まで来ました。資料館の下の石垣は、最近になって復元されたものです。


 

 山頂からの展望。




 大手道の方まで行きたかったのですが、今も発掘調査中のようで迂回ルートになっており、時間もなかったので駐車場に戻ることにしました。



 

 駐車場の近くに土塁断面の展示があります。地層を見ると、黒い層、黄色い層、礫層からなっており、新たに堀を掘って出た土で土塁を高めた証左となっています。




 

 今回の旅はこれにて終了。実質2日間で、9城を巡るハードな旅でした。

 

 

 

 小牧空港からFDAで帰ります。新潟空港までは離陸から40分くらい。


 

 久々の飛行機が楽しくて、子供のように窓から写真をパシャパシャ撮っていると、何やら見慣れた小山が……!?


 

 なんと、飛行機が小牧山の上空を通過。まったく意図せず空撮に成功しました。


  

 

日本100名城    9/100

続日本100名城 11/100

 「岡崎城」にやってきました。この城は徳川家康の生誕の地としてよく知られています。

 

 1530~1531年頃、家康のおじいちゃんである松平清康が、それまで本拠としていた明大寺より龍頭山の砦へと移り、本格的な城を構えたのが、岡崎城の始まりです。岡崎城は、矢作川と 菅生川(乙川)との合流点に立地しています。矢作川が西方に、菅生川が南方に対する天然の要害となっています。

 

 家康は、1542年にこの城の城内で誕生します。少年期は人質として他国で過ごしましたが、桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことを契機に、この岡崎城を本拠に自立しました。

 1570年、家康は本拠を浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。1579年に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。

 1590年に家康が関東に移封すると、豊臣家臣の田中吉政が城主となりますが、江戸期以降は、「本多(康重系)家」「水野家」「松井松平家」「本多(忠勝系)家」と、徳川家の譜代大名が歴代の城主を務めました。

 

 歴史的には徳川色の極めて強い岡崎城ですが、現在残る近世城郭の多くは田中吉政時代に築かれました。秀吉の譜代である吉政は「二十七曲(まがり)」を始め城郭の東側を堅固にする等、 江戸の家康に対する防備の備えをしました。また、城下町全体を堀と土塁でぐるりと囲む総構にするなど、大規模な都市開発を行いました。

 

 また、1617年、本多康紀が城主のときに、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ望楼型の複合天守が建てられています。ただ、この城も明治の廃条令によって廃城となり、天守を含むすべての建物が取り壊されてしまいます。

 

 廃城令の際、旧藩士から保存を希望する声が明治政府に多数寄せられた結果、本丸・二の丸跡が保管対象となり、現在の岡崎公園として整備されました。現在では、本丸と周辺の曲輪、石垣、堀などの遺構が残っています。

 また、1959年復興天守が造られ、2010年には東隅櫓が再建されています。

 

 

 下図のとおり、三の丸部分については市街化が進んでしまい、城の痕跡はほとんど残っていません。

 

 

 1993年に木造再建された大手門から城内に入ります。今は国道1号線沿いに建っていますが、本来はこの場所にはなかったようです。白漆喰総塗籠めで切込接の石垣でできている綺麗な門です。

 ちなみに、岡崎市は良質な花崗岩(御影石)の産地としても有名で、ここの石垣にも当然に地元産の御影石が使われています。

 

 

 本多平八郎忠勝像。
 公園内に常駐しているガイドさんから聞いた話では、1769年以降、本多忠勝の子孫が岡崎藩主となったため、本多忠勝が岡崎藩祖とされたそうなのです。三河藩の初代藩主である本多康重(同じ本多でも別系統)が藩祖ではないのか??と思ってしまいますが。

 

 

 本丸西側の坂谷曲輪からぐるっと周って歩いていきます。石垣は吉政の時代から築かれてきましたが、場所によって積み方は様々であり、それぞれ異なる年代に築かれているようです。 

 

 

 坂谷曲輪を歩いていると天守が見えてきました。岡崎城には古写真が残っており、それを元にRC造りで再建されてはいるものの、最上階に本来なかった廻縁が付けられるなど、必ずしも図面どおりの復元とは言えないことから、分類上は「外観復元天守」ではなく「復興天守」という位置づけとなります。

 


 東照公産湯の井戸。家康の産湯に、この井戸の水が用いられたと言われています。

 

 

 東照公えな塚。家康が生まれたときのえな(へその尾・胎盤)を壺に入れて埋めたと伝えられる塚です。昔はえなを埋めて子供の成長を願ったそうです。


 

 埋門(うずみもん)から本丸に入っていきます。 

 

 

 近年、大きく育った樹木の根が内側から石垣を押し出し、各所に孕みやズレが出てきています。岡崎市では、石垣保存修理計画を策定しており、石垣を傷めている樹木の伐採を計画的に進めているそうです。

 下の写真は、埋門の石垣ですが、石と石の間にさりげなく計器や透明の棒状の物が取り付けられており、歪みの変動を測っているそうです。

 

 

 埋門付近からみた復興天守。内部は資料館のようになっています。

 

 

 天守の前にある家康遺言の碑です。

「私の命はそろそろ尽きてしまうのだが、将軍が、ちゃんとしていれば、私は安心して死ねる。
もし、将軍の政道がその理にかなわず、民衆が苦労していることがあったら、他の人に変わってもらうべきである、たとえ、政権が他家に移ったとしても、民衆が幸せならば、それが私の本意であり、恨みに思うことはない。」

というようなことが書いてあります。

 


 天守からの展望。



 龍城神社(たつきじんじゃ)は天守のすぐ隣にある神社です。家康の偉業を讃えるための東照宮として創建されました。社殿は日光東照宮の御神木で建立されています。


 

 本丸を取り囲む清海堀は、岡崎城築城者の西郷清海からきており、岡崎城の最も古い構成要素の一つです。かなり深さはありますが、近年の発掘調査の結果、後の時代に土砂が堆積したことが明らかになっており、本来はもっと深かったと考えられています。

 

 

 家康公・竹千代像ベンチと天守。右側には廊下橋も見えますが、現在は通行禁止になっています。


 

 本丸の南側、龍城堀に映える鮮やかな神橋。なお、この橋はここが公園として整備されるようになってから架けられたものであり、江戸時代以前に存在していたものはありません。




 敷地内にある三河武士のやかた家康館にも様々な展示がありましたが、時間がなかったのでササッとみて終わりにしてしまいましたが、グレート家康公「葵」武将隊という観光PR部隊の方たちが案内をしてくれるようです。

 

 この後は犬山城へ向かうことも考えましたが、帰りのフライトまでの時間を考慮し、最後に小牧山城に向かうこととしました。


 

日本100名城   9/100

続日本100名城   10/100

 設楽原から1時間ほど車を走らせて「古宮城」にやってきました。今回レンタカーを借りたのはこの城を訪れたかったからです。


 ちなみに公共の交通機関で行く場合、新城駅までJRで行き、最寄りの新城栄町・新城駅口バス停から作手高里行きのバスに乗ることになるのですが、朝7時台の便を除くと最速で12:07の便になってしまいます。

 これでは古宮城だけで1日が終わってしまいます。


 さてスタンプですが、古宮城から少し離れた作手歴史民俗資料館で押すことができます。


 この神社から城内に入っていきます。


 古宮城は、1572年に武田信玄により、馬場信春

の縄張で築かれたと伝わります。


 東三河進出の拠点として築かれましたが、勝頼が1575年の長篠・設楽原の戦いで敗れた後は戦線が後退し、廃城になったものとみられています。


 この城の見どころは複雑で個性的な縄張りです。


 神社脇の登城口を登っていくと両袖枡形虎口が現れます。両袖枡形虎口って初耳なのですが、両側に鉤の手状に左右対称の土塁を設け、方形の枡形状の空間を設けた虎口のことをいうそうです。

 

 案内図の③を見ると、枡形が2つ並んだような形になっています。


 案内図③の左側の方の虎口です。主郭に通じる正面玄関で三方を土塁で囲まれています。



 櫓台の上から見た枡形虎口。主郭への入口も喰違いになっていて、防御力高めです。


 主郭と西曲輪方面を繋ぐ通路。櫓台から見下ろしています。


 主郭。ここはただ広い空間が広がっています。

 主郭と西曲輪を分断する大堀切と土橋。


 西曲輪。

 西曲輪を取り囲む土塁。

 西曲輪外側の土塁より。シナモンロールのように段土塁、帯曲輪、土塁、帯曲輪が連続しており、しかも上に登る道が分かりにくい。

 
 西曲輪の下の方まで来ましたが、縄張りが複雑過ぎて、今どこにいるのか分からなくなった…。


 

 往時は西側を除く3方が泥炭層の湿地に囲まれており、天然の要害となっていました。

 比較的単調な造りの東側に対し、西側の縄張りが極めて複雑なのは、このためでしょう。


 決して大きな城ではありませんが、見どころは十分でした。次は家康生誕の地・岡崎に向かいます。



日本100名城    8/100 

続日本100名城 10/100

 前回の長篠城訪問のブログの続きです。「設楽原決戦場」は長篠城から西に3、4km程離れた辺りにあります。




 1575年5月18日、織田・徳川連合軍は長篠城手前の設楽原に着陣しました。原といっても、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なる場所であり、互いに相手陣の全容を見渡せない場所でありました。

 信長はこの点を利用し、3万の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努めました。


 現在、地元の人々の手によって馬防柵が再現されています。 

 この馬防柵の材料である丸太については、岐阜や岡崎から連合軍の兵一人一人が1本ずつ運んできたと伝えられています。 




 

 信長到着の報を受けた武田陣営では、翌5月19日に軍議が開かれました。信玄時代からの重臣たちは、信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれていますが、武田勝頼は決戦を行うことを決定します。

 そして長篠城の牽制に3千ほどを置き、残り1万2千を設楽原に向けました。

 

 馬場信春内藤昌豊山県昌景土屋昌次ら歴戦の将たちは、この日の軍議を嘆き、「このような事態になった上は一命を賭して戦おう」と陣所としていた大通寺の井戸に集まり、訣別の水盃を交わして出陣して行ったという話があります。

 この4人はいずれもこの戦で落命しました。

 

 これがその井戸です。大通寺は、長篠城の目と鼻の先にあります。




  

 5月20日深夜、酒井忠次率いる4千の別動隊が長篠城の背後に位置する鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させ、長篠城の牽制に置かれていた武田兵をも撃退します。これにより武田軍は、連合軍の本軍と酒井隊に挟撃される形となり、いよいよ前進する他に道がなくなってきます。

 写真は大通寺付近からみた鷲ヶ巣山砦方面。矢印の山が鳶ケ巣山と思うのですが当たっているかな?


 

 

 5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が攻撃を開始します。

 

 私がむかし歴史の授業で習った「長篠の戦い」は、織田・徳川連合軍が横1列に1,000挺ずつ3段に分けた鉄砲3,000挺で一斉交代射撃を行って、戦国最強を誇る武田騎馬隊を完膚なきまでに叩きのめしたというものでした。…が、この鉄砲3段撃ちは今では否定されていますし、武田軍のうち騎兵はごく一部だったのではないかとも言われています。

 

 この屏風図の通りの戦ではなかった?


 

 

 実際に来てみると分かりますが、設楽原って東西で見るとかなり狭い。屏風図のように騎馬隊の大軍が一斉に突撃するような広さはないように思われます。

 

 馬防柵より武田陣営を臨む。向こう側まで300〜400メートルくらい? 


 

 ちなみに、武田軍にも鉄砲は存在しており、勝頼もその有用性を認識していた可能性は高いと思います。

 しかし、当時は鉄砲弾薬の材料である硝石を国内で調達することができず、必然的に南蛮からの輸入に頼るほかありませんでした。また、弾丸に使われた鉛についても国内産だけでは消費に追い付かず、多くが輸入により賄われていたようです。

 こうなると、対外貿易の中心地である堺を抑え経済力もある織田と、物流ルートに乏しい甲斐を本拠とする武田では、用意できる弾薬の差は大きかったものと思われます。

 現代風の言い方をすると、両者には明確な地域格差がありました。

 

 

 連合軍の勝因をまとめると、①兵数の優位性(3万8千vs1万5千)、②馬防柵のほか土塁や空堀を交えた簡易的な陣地による地理的優位性、③圧倒的な弾薬量を背景とする攻撃力の差、というところではないでしょうか。

 

 

 

 土屋昌次の子孫が建立した碑があります。昌次は相手陣営の三重柵の二重まで突破したところ、この辺りで一斉射撃を受け戦死したといいます。


 

 

 馬場信春の墓は、長篠城の近く、農地と竹藪に囲まれたひっそりとした場所にありました。勝頼が退却を始めると、信春は内藤正豊らとともに殿を務め、勝頼の退却を確認した後に戦死しました。



 これから7年後に武田家は滅ぶことになりますが、この戦が武田の終わりの始まりであったように思います。


 このあとは古宮城に向かいます。

 本日の予定は、まず豊橋でレンタカーを借りて、長篠城→古宮城→岡崎城→小牧山城という経路で4城を巡ったのち、小牧空港近くの営業所でレンタカーを返却してそのまま新潟空港行のフライトに乗ります。

 

 電車での移動も考えましたが、そうすると時間の都合上、公共交通機関でのアクセスが悪い古宮城をスキップせざるを得なくなります。

 

 古宮城は推しの馬場さんが築いた城なので是非行きたいですし、縄張りが面白そうですし、地理的に長篠城とセットで周ると効率が良いですし、…ということでレンタカーで周遊することにしました。

 

 最高38℃の酷暑のなか、エアコンの効く車で移動できるので、結論としてはこれが最適解だったと思います。

 

 

 

 さて、豊橋から1時間ほど車を走らせて「長篠城」にやってきました。まずは長篠城史跡保存館でスタンプをゲット。

 

 

 まずは周辺の位置関係を把握。JRの線路が城を分断していますね。

 

 

 

 1575年の「長篠・設楽原の戦い」で有名な長篠城は、東三河の山間部にあり豊川(寒狭川)と宇連川が合流する地点に築かれています。
 城は、1508年、今川氏の傘下にあった菅沼元成により築かれました。
 
 今川家の衰退後は、三河進出を目論む武田氏と徳川氏の間で何度も争奪戦が繰り広げられました。

 そして1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて城を攻撃しました。城の救援に駆けつけた織田・徳川連合軍は、長篠西方の設楽原で武田軍と激突し大勝しました。
 信長は、わずか500の兵で城を守りぬいた奥平貞昌を称賛し、「信」の字を与え信昌と改名させました。
 
 この攻防戦で城が大きく損壊していたこともあり、信昌は新城(しんしろ)に城を築き、長篠城は廃城となりました。
 
 
 駐車場から入るとすぐに本丸を囲む堀が見えます。往時は水堀でした。 
 城の反対側は川に面した断崖絶壁で攻略はまず不可能ですので、必然的にこちら側の防御が重要になります。

 

 

 

 

 帯郭から本丸へ向かう土橋です。このあたりに門があったようです。

 

 

 本丸は方形に近い感じですね。周囲は土塁と川に囲まれています。

 

 

 

 土塁の上に登ってみます。

 

 

 厩跡。線路の向こうは野牛郭という郭がありますが、そちらには行けなそう。


 

 

 この城を語るうえで鳥居強右衛門は外せません。


 武田軍に包囲された長篠城は、兵糧庫も焼失してしまい、落城寸前に追い込まれていました。

 そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断しました。そこで使者に選ばれたのが強右衛門でした。身分は高くなく、雑兵の類であったようです。

 

 武田の包囲網の中、命がけで城の脱出に成功した強右衛門は、1日足らずで家康がいる岡崎城に到着しました。

 このとき、家康の援軍要請を受けた信長が3万の援軍を率いて到着しており、3万8,000もの織田・徳川連合軍が、翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていました。

 

 これを聞いた鳥居強右衛門は、援軍が到着することを知らせるため長篠城に戻りますが、城の一歩手前で武田軍に捕らえられてしまいます。

 武田方からは、城内に向かって援軍が来ないと叫べば助命し、知行も与えると言われた強右衛門でしたが、逆に「援軍はすぐ到着する。それまで持ちこたえよ」と叫んだため、磔の刑に処せられました。

 

 磔にされたのは長篠城の対岸で、城から良く見える場所でした。今は木が生い茂っていて見えにくいですが、距離にして数百メートルしか離れていません。


 

 城兵たちは、強右衛門の雄姿を見て大いに士気が上がり、武田軍の猛攻から城を守り抜くことができたのだといいます。

 

 武田軍は設楽ヶ原に布陣した際、長篠城に抑えの兵を残したほか、長篠城を見下ろせる5つの砦を築きました。徳川の重臣・酒井忠次は夜襲により、この5つの砦をことごとく落とすことに成功し、さらには長篠城を取り囲む兵を撃退しました。
 これにより長篠城は武田軍の包囲から解かれることになります。


 

 

 城を出て、川の対岸にやってきました。この地で強右衛門は磔の刑に処せられました。




 

 

 近くの新昌寺に強右衛門の墓があります。


 


 食糧庫のあった場所。





 強右衛門が城への呼び掛けを行った地。




 元々予定はしていなかったのですが、やはり戦の現場を見たいと思い、設楽ヶ原に向かうことにしました。


 

日本100名城  8/100

続日本100名城 9/100

 豊橋駅に着いたのは、18時過ぎでした。


 既に6つの城を巡って歩いてきてクタクタでしたので、取りあえずホテルにチェックインして汗を流すことに。もうこのまま寝てしまいたい気持ちもありましたが、今日「吉田城」を訪問できれば、明日のスケジュールがグッと楽になります。(明日のスケジュールについては別記事にて)

 ので、頑張ってもう一度足を動かすことにします。

 

 吉田城は、1505年に今川氏親の命を受けた牧野古伯が築城しました。

 その後の争奪戦を経て今川家が支配を固めることになりますが、1565年には今川家を離反した松平家康(のちの徳川家康)に攻略されます。

 その後、家康の三河統一による酒井忠次の配置、家康の関東移封による池田輝政の入城と続きます。現在みられる吉田城の基礎は、輝政の時代に造られています。

 江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配しましたが、前期は転封が激しく、中期以降は松平(大河内)氏が城主となりました。

 

 

 

 スタンプは、吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)内でも押せるのですが、時間が10時~15時と限られているので、22時までオープンしている豊橋市役所東館で押すことにします。まずは日が暮れる前にできるだけ吉田城を見学しておきたい。

 

 吉田城は豊橋公園の中にあります。というか、吉田城の本丸を中心とした一部が豊橋公園として整備されています。今にも日が暮れそうなので巻き巻きで見ていきます。



 もし堀が残ってたら、中々の規模の城ですね。

 


 南御多門石垣。打込接の石垣です。


 

 実質的な天守として使用されていた鉄櫓(くろがねやぐら)は1954年に産業文化大博覧会の開催にあわせて模擬再建されました。ちなみに往時は三重櫓が5基も存在していたそうです。





算木積みっぽいけどやや粗めの鉄櫓石垣。


 

 

 北御多門跡。高低差のある桝形になっていて攻めにくそうです。なんとか写真撮れてるけど、もう相当暗い。


 

 

 鉄櫓のすぐ背後には豊川が流れています。川を天然の堀とする後堅固の縄張りです。

 ただ、吉田城の堀は豊川とは繋がっていませんが、城への物資の搬入に豊川の水運は利用されており、そのための水門跡が残されています。(時間の都合で確認できず)


 

 

 帯曲輪の方からも映える写真が撮れそうですが、もう真っ暗になってしまったので、引き上げることにします。

 

明日は朝からレンタカーを借りて城巡りをする予定です。

 

 

日本100名城  7/100

続日本100名城 9/100