まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 この度の熊本地震により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。熊本城や八代城の石垣の一部が崩落したとの報道もあり、非常に残念な思いです。まずは、人々の暮らしにいち早く平穏が訪れるよう祈念しております。


 さて、前回の記事で鮫ヶ尾城の登城について触れましたが、その足で春日山城を訪れました。越後守護代の長尾為景が改修し、子の景虎(上杉謙信)が更に整備を重ねた、日本を代表する巨大山城の一つです。

 

 まずは春日山城跡ものがたり館でスタンプをゲット。


 ものがたり館の隣には、監物堀・監物土居と呼ばれる堀や土塁が復元されています。これらは総構にあたります。
つまり城の外郭部ということです。

 春日山城は非常に広大なため、車道が通じている春日山神社までは、車で向かいます。ということで、さっきの監物堀から車を数分走らせ、春日山神社の駐車場まで移動。既に結構山を登ってきたけど、どんだけ広いん?

 
 謙信像がお出迎え。

 まずは現地案内図を確認。春日山神社の右脇から尾根伝いに登っていきます。

 上杉謙信を祭神とする春日山神社は、1901年に創建されました。この神社の脇に登城道があります。

 千貫門があったとされる場所。 ここには本丸へ向かう敵への侵入を阻む、空堀や切岸など遺構が残っています。
 千貫門の名の由来はよく分かりませんが、たぶん大坂城の千貫櫓と似たような理由ではないでしょうか。

 堀切

 ここも堀切

 ようやく見えてきた大きめの廓。この辺りからが直江屋敷になります。写真の奥の方が段になって高くなっているのが分かると思います。

 上下3段の連続した廓となっています。

 名門直江家は、謙信の父・長尾為景の頃からの重臣です。大河ドラマ「天地人」でも有名な直江兼続は、兼続は景勝時代の上杉家の政治・外交・軍事を一手に担うほどの逸材で、秀吉からも豊臣姓を与えられるなど高く評価され、厚遇されていました。

 御花畑跡とされる廓。名前は優雅ですが、城郭としては重要な位置です。戦国時代の城では、負傷者の治療や病気への備えとして薬草を栽培する場所が設けられることがありました。春日山城の御花畑も、薬草を育てる場所だったという説があります。 

 御花畑は、千貫門→直江屋敷→御花畑→毘沙門堂→本丸という、本丸北側の防御ライン上にあることから、本丸を守る帯曲輪的な役割を持った場所であったとも考えられます。

 御花畑を越えると見えてくるのは、謙信が出陣前にここで祈願していたという毘沙門堂

 毘沙門天は、仏教における四天王の一人で、北方を守護する武神です。武勇、国家の守護、邪悪を討つ正義を象徴する存在で、戦国武将から広く信仰されていました。
 謙信は単に「戦いに勝ちたい」というよりも、「正義のために戦う武将」という理想を毘沙門天に重ねていたようです。 

 毘沙門堂は、1849年の大火で被害を受けましたが、1928年に修復されました。 小窓からは堂内に安置された毘沙門天の姿が拝見できます。

 目線を下にやると二の丸が見えます。ここの紹介は後ほど。

 毘沙門堂のすぐ先には護摩堂跡。護摩とは、仏教、特に真言密教で行われる重要な修法で、祭壇の炉で護摩木を焚き、仏に祈願する儀式です。

 上の方に本丸らしき廓が見えてきました。写真は、毘沙門堂から平坦に続いている道ですが、やや幅広くなっている箇所もあります。○○廓などという名称はなさそうですが、通路と帯曲輪の両方の役割を持った場所なのかもしれません。

 最後の登り。本丸の虎口らしき場所を抜けていきます。

 開けた場所に付きました。ここが本丸です。


 眼下には上越市街。

 本丸の隣には空堀を挟んで天守台と呼ばれる廓があります。この城は典型的な中世山城であり、天守は存在してい居ないはずですが、城内最高所の廓だからこう呼ばれているのかな?櫓など何かしら重要な建築物はあったのかもしれません。

 長くなったので、続きは後編に書きます。

 新潟県妙高市にある鮫ヶ尾城を訪れました。 

 信濃国から程近いこの山城は、戦国時代、武田氏の北方進出に備え、春日山城を守る南方の重要拠点として機能しました。


 1578年には上杉謙信が跡継ぎを決めずに急死したため、養子の景勝景虎が家督を争う「御館の乱」が勃発します。

 最後には景虎が鮫ヶ尾城へ逃れますが、景虎側に付いていたはずの城主の堀江宗親が景勝方へ寝返ったため景虎は逃げ場を失い、1579年3月、鮫ヶ尾城で自害しました。この出来事によって景勝が上杉家の当主となり、上杉家の内乱は事実上決着しました。

 しかしながら、この内乱とも言える争いで上杉氏が弱体化している間に、織田信長、そしてその死後は羽柴秀吉が圧倒的な力を付けており、上杉氏は対抗力を失っていくことになります。


 まずは遠景から。中央手前の小山がそれです。山頂部の本丸にあずまやが設置されているのが見えたおかげで全体像が分かりました。

 さて、スタンプは麓にある斐太(ひだ)歴史の里総合案内所にあります。ここの係の方いわく、1週間くらい前に麓で熊が現れた痕跡があったんだとか。今日は私の前に登城者が1人いただけだそうで、人気もあまりないので心配ではありますが、熊鈴を鳴らしながら気をつけて登ります。


 ここのすごいところは、城趾であると同時に、弥彦時代末期の高地性の環濠集落の遺跡でもあるということなんですよね。

 再現された竪穴住居もありました。


 たくさんの堀切が尾根をぶった切っているのが分かります。

 案内所でいただいたマップ。大手口は南登城道なのですが、この道は案内所には通じておらず、登山という意味ではメインルートではなさそうです。あまり人が通らない道は熊との遭遇率も高くなりそうなので、ここは東登城道から登り、北登城道から下りて戻りたいと思います。


 山城には付き物となった熊注意の掲示。

 案内所から歩き始めるといきなり大きな池が。なるほど、水に恵まれた土地だから古代より集落がつくられていたのかな。

 登山道の脇にも水がちょろちょろと流れています。

 うっすらとしか分からないけど、古代の環濠跡。

 U字型にくっきり残った堀切なのですが、草木が鬱蒼としていて写真では上手く伝わらない…。

 堀切の間を通る土橋。

 ここは東一ノ丸。ここに来るまで急峻な斜面を登ってきました。


 この堀切も肉眼ではしっかり見えるのですが、写真にするとやはり分かりにくい。良い写真の撮り方があるなら教えてほしい。

 ロープにつかまって堀切を登るような箇所も乗り越えながら、ようやく目印のあずまやが見えてきました。

 ようやく本丸に到着。あずまやは雪で柱が傾いたそうで、ロープで規制されています。ここまで所要30分くらい。

 本丸のすぐ北側の小廓に位置する米蔵跡。この蔵は落城の際に炎上したとの伝承があり、今でも焼け焦げた米粒が見つかるそうです。付近を探しましたが、私は見つけることはできませんでした。

 米蔵跡から見た本丸。こちらも堀切で分断されています。

 本丸下の腰郭。

 帰り道の北登城道。こちらはあまり見るべきものはなさそう。

 高速道路の下をくぐると舗装道路が現れました。ここまで来れば一安心。

 運動不足の40代の私でも、往復1時間弱といったところです。今日は他にも上杉氏の縁の地を周る予定なので、先に進みます。


日本100名城  16/100

続日本100名城 21/100

 近くなのでいつでも来れる新発田城。木造再建とはいえ、この三重櫓はいつ見ても良いですね。

 とはいえ、今日の目的は土橋門復元整備予定地の確認です。そう、新発田城では、かつて二の丸から本丸への正面口にあたる城門である土橋門の復元が予定されているのです。
 
 これが往時の土橋門です。写真が残っているので、再現度の高いものが期待できますね。

 これが古写真と同じアングルから取った写真です。復元予定地は現在は市道になっているため、市道を脇に付け替えるようです。なお、土橋の西側には今も本丸堀が残っていますが、東側は埋め立てられています。

 これが現地にあった復元予想図。帯曲輪は枡形虎口に近い機能を果たしていたように見えます。
 この図をよく見ると、帯曲輪も往時に近い姿に復元し、土橋東側の外堀も復元してくれるのかな。しかし、復元整備基本計画のHPを見る限りは、外堀復元まではせず芝張りなどで公園整備にすると記載されていました。どっちが最新なのでしょう。


 土橋門のあった場所。両脇の土塁は今も残っています。

 別アングルより。

 ここは土橋門東側の外堀があった場所。ここには以前、老人福祉施設があったと記憶しています。元々ある土塁の脇に土を積んでいるけど、これはどうするのでしょう。

 工事にはまだまだ時間がかかりそうですから、進捗を楽しみにしたいと思います。

 前回の記事に書いた平林城の後に、江上館(えがみやかた)に立ち寄りました。


 この辺りは、平安時代には奥山荘(おくやまのしょう)という摂関家の荘園でしたが、鎌倉幕府創立の功臣である和田氏の一族が地頭となり、この地に入りました。

 南北朝時代になると、奥山荘は北条・中条・下条の3つの地域に分割され、このうち中条を継承したのが中条氏となります。北条を継承した黒川氏とは、元は同族でありながらも度々争いました。

 戦国時代、中条氏を含む下越地方の国衆たちは揚北衆と呼ばれました。揚北衆については、過去記事で説明しています。上杉謙信の時代の当主・中条藤資は重臣として一門衆に次ぐ待遇にあったといわれます。



 さて、江上館に着きました。今にも熊が出没しそうな平林城と異なり、平地に造られた城なので安心感がありますが、住宅街の中に溶け込んでいて、たどり着くのに苦労しました。


 ガイダンス施設である奥山荘歴史館が隣接しています。12月以降は冬季休館となるので、今日はもうギリギリですね。


 典型的な室町期の方形居館ではありますが、南北に馬出のような曲輪を設けていることや虎口が食い違い構造になっており、防御力を高めています。
 とはいえ、主郭は60メートル四方程度の規模であり、大規模な戦闘に耐えるのは難しそう。有事の際は付近の山城である鳥坂城が詰城として利用されていたようです。

 江上城と言わず、江上「館」というのは、もともと居館だった場所に防御施設が増設されていって城化した経緯からなのでしょうか。


 小規模な堀の向こうが南郭です。

 南郭からみた主郭。虎口が食い違いになっています。

 四方を土塁で囲まれた主郭。

 ミニチュアと説明が書いてあるので、主郭内にどこにどのような建物があったのかイメージがわきます。
 ちなみに北側の方が生活空間、南側の方が儀礼的な行事を行う公的空間であったようです。

 地元の子たちが土塁の上でランニングしていました。

 主郭と北郭を繋ぐ虎口。

 奥の方に見える橋の先が北郭です。南郭と同様に食い違いになっています。

 北郭側の堀跡。

 北郭。

 県内には方形居館の遺構はあまり例がないので勉強になりました。もう雪も降ってきており、今回が今シーズン最後の城めぐりになりそうです。


 本日は秋晴れの中、新潟県村上市にある平林城にやってきました。平林城は、揚北衆色部氏の居城として知られる山城です。


 平林城は、元々は南北朝時代に南朝に付いた平林氏の城でしたが、北朝方の色部氏が攻め滅ぼし、本拠地としたものです。

 1508年、守護代である長尾為景(上杉謙信のお父さんです)に攻められ落城、以降は長尾氏(後の上杉氏)に帰属しました。
 麓の居館と背後の山城から構成されていますが、この長尾氏との戦で落城して以降、山城部分については再興することはなかったようです。
 上杉謙信時代の当主・色部勝長は、北条氏康との戦や川中島合戦、下野の佐野城攻撃などで武功を挙げており、謙信の信任も厚かったようです。信長の野望で上杉氏をプレーする方にとっては馴染みの名前かもしれません。
 1598年、上杉景勝の会津移封に伴い、色部氏も越後から移っており、平林城は廃城となりました。
 
 写真正面の要害山(標高281m)に山城が築かれました。

 麓の駐車場に到着しました。いきなり立派な土塁を見ることができます。


 山城にはお決まりの看板ですが、今年は各地で本当に熊の目撃情報が多いので、戦々恐々としています。全国の山城ファンは困っているのではないでしょうか。

 車で通りかかったお爺さんが、まさに今から入城しようとしていた私を見つけ、「70cmくらいの子グマが見つかったばかりだ」と教えてくださいました。子グマがいるということは…、ですよね。
 お爺さんは登城するわけでもなく、私に注意を促した後にそのまま来た道を引き返して行ったので、もしかするとボランティアで見回りをされている地元の方なのかもしれません。

 案内図。山城まで含めるとかなり見どころがありそうですが、自身の中で策定した「山城ガイドライン」に基づき、今回は麓の居館のみの見学とします。

 ちなみに、私の山城ガイドラインは、次の8条から成っています。
①早朝、夕刻の登城を避ける。
②他に登城者がいなそうな場合(麓の駐車場に車が停まっていないなど)は極力登城しない。やむを得ず登城する場合は登城前に家族に行き先を伝える。
④熊鈴は必須。また、音楽をかけるなどして、無音で静かに歩かない。
⑤見通しが悪い場所を極力避ける。
⑥直前に熊の目撃情報があった場合には登城しない。
⑦熊とおぼしき痕跡を見たら即時撤退する。
⑧春、秋は警戒レベルを引き上げる。

 今回、駐車場には他に車はなかったため、②に抵触、さらに⑥、⑧にも抵触しますので、撤退を検討すべき状況なのですが、なかなか登城欲には勝てず、見通しの良さが維持できる範囲に限定して見学することにしました。

 縄張り図を再確認します。現在地は岩館と呼ばれる曲輪の北虎口の前にいるようです。

 岩館曲輪の土塁。

 岩館曲輪は、本城の中で最も広い曲輪であり、平坦地が続いています。適度に木も伐採されており、今のところ視界も良さそうです。

 歩いて進んでいくと「下ると虎口へ」との看板。

 上から見た虎口。縄張り図でいうところの弁天虎口に当たるのかな。枡形になっているのが判ります。

 下ってみて中曲輪側を臨む。この写真の右側がさっきの岩館ですが、切岸になっています。

 奥の切岸の向こう側がさっきいた岩館曲輪。背中側はさらに切岸があって下っており、下には小川(滝矢川)が流れています。虎口は見通しが悪いので早く脱出したい。

 岩館曲輪中曲輪の間にある土塁と堀。草木が茂っていると分かりにくいですが、岩館側はかなり高さがあり、迫力があります。ここが一番見たかったところです。

 中曲輪も同様に平坦地となっています。

 さらに奥に進むと殿屋敷と呼ばれる城主の居館があった曲輪があるのですが、奥の方は視界が薄暗くなってきており、なんとなく嫌な感じがしたので、ここで引き返すことにしました。こんな書き方をすると霊的なものを恐れているように見えますが、怖いのは熊だけです。
 たとえ火縄銃を持っていたとしても、熊とのいくさに勝つのは難しそうです。熊の駆除に関しては様々な意見がありますが、個人的には人間の生活が最重要視されるべきと考えていますし、ハンターの方たちに対する処遇なども見直してほしいです。

 駐車場にこじんまりとした無人のガイダンス施設があり、平林城や色部氏についての解説を読むことができます。写真を撮り忘れましたが、新しい綺麗な建物です。











 いつか条件が整えば要害山の方まで登ってみたいですね。

 今回は「新発田重家の乱」を巡る2つの城について触れたいと思います。


 遡ること戦国時代。上杉謙信には実子がなく、自らの甥にあたる景勝、北条氏との同盟の証として送られてきた景虎の2人を養子としていました。ところが、世継ぎを事前に決めることなく1578年に謙信が死去。その直後から景勝と景虎の跡目争いが起き、越後を二分する「御館の乱」に発展していきます。
 現・新発田市を地盤とする揚北衆新発田重家は、御館の乱で景勝方に組し、大きな功績をあげたものの、論功行賞で軽んじられ不満を持っていました。

 その状況を知った隣国の蘆名氏伊達氏は景勝への新発田氏の反乱工作を企て、1581年、「新発田重家の乱」が勃発しました。当時、越後には越中(富山)、信濃(長野)、上野(群馬)の三方面から織田氏の軍勢が迫っており、そのうえ内乱まで起きるのですから、上杉氏は内憂外患、四面楚歌。絶体絶命の大ピンチに陥りました。
 幸いにして本能寺の変を機に織田軍は撤退したため、上杉氏は西方、南方の危機を免れましたが、新発田氏に手を焼く状況はその後も変わりませんでした。
 この年、新発田軍は新潟湊を奪い、急遽砂州に新潟城を築城しました。日本海航路の重要拠点を手にいれ、重家は物流と軍事の面から優位に立とうとしました。一方の景勝方はこれに対抗し、10キロほど離れた平地に木場城を築き、番城としました。

 2つの城に関して動きがあったのは1583年2月。新潟城主・新発田綱朝・綱之父子が木場城を攻撃したことを皮切りに、両者は応戦態勢となりました。
 5月には、景勝自らが率いた軍が信濃川河口の中島の城にある新発田綱之を攻撃しましたが、大きな戦果を挙げることはできず、景勝は兵を引き上げました。
 2年後の1585年、景勝は新潟城に再度兵を差し向けました。ここでは力技ではなく、玉木屋、若狭屋という城下の商人を内通させ、その手引きによって城内に侵入。内通していた城内の者も蜂起し、城内は混乱に陥ります。そこへ景勝軍の本隊が突入し、ほとんど戦わずに新潟城を陥落させたと伝わります。
 新潟を奪われた新発田氏は、その後徐々に劣勢となり、追い込まれていくこととなります。

 さて、新潟城の位置は白山神社付近にあったといいますが、遺構も見つかっておらず詳細な位置は不明です。

 旧新潟町の総鎮守である白山神社。多くの新潟市民にとって最も馴染みの深い神社です。建立の年代は不詳ですが、延喜(901年~)とも寛治(1087年~)とも伝わります。上杉景勝が戦勝の際に寄進するなど、戦国時代には既に大社であっとようです。


 白山神社に併設された白山公園は、1873年に国内最初の都市公園として認可されたものの一つです。瓢箪池、蓮池という2つの池を備えた回遊式の庭園です。


 公園内に、新潟城に関する案内板もありました。

 絵図には三重櫓のようなものが2つ描かれていますが、新発田氏がこのような立派な城を築く力があったのかどうか疑問が残ります。

 今度は新潟城から車で約20分、木場城に移動します。
弧状を呈する自然堤防上に木場集落があり、集落には木場八幡神社があります。現在は神社を含めて「宮の森・木場城公園」として整備されています。


 当時の城の想像図が現地案内板にありますが、遺構はなく、その規模や縄張りなど詳細は不明なままです。
 案内板を見て知りましたが、木場城の推定地はこの公園内ではなく、もう少し離れた場所にあるようです。

 公園から車で数分のところで木場城推定地の杭を発見しました。この杭以外には何も目印となるようなものはなく、この場所までたどり着くのも正直苦労しました。

 だだっ広い新潟平野に広がる水田のバックに弥彦山(左)と角田山(右)。新潟を象徴するような田園風景です。この風景は当時も今も大して変わりないのかもしれません。
 

 木場城は、新発田氏の滅亡後も新潟津の番城として存続しますが、1598年に上杉景勝が会津移封になると廃城になったようです。

 以上、何の遺構も残していない二城の紹介でしたが、想像力を働かせて往時の様子を思い浮かべるのも楽しいものです。

 今回は水原城(すいばらじょう)跡および水原代官所跡を訪れました。韓国にある水原華城(スウォンファソン)ではなく、新潟県阿賀野市の話です。


 鎌倉時代以降、この地を治めてきたのは、前回安田城の訪問記事でも触れました大見氏でした。
 大見氏はその後、主筋の安田氏、分家筋の水原氏、下条氏へと枝分かれしていきました。水原氏に関しては、南北朝時代、武蔵野合戦で武功を上げた大見盛家が足利尊氏より白河庄水原郷を与えられ、水原盛家と改めたのが始祖とされています。
 戦国時代を通じて水原氏は上杉氏に従属し、当時の当主である水原満家は、川中島の戦いや小田原の戦いなどにも旗下として参加しています。謙信死後の跡目争いである御館の乱では景勝方で戦いましたが、上杉景虎の同盟である会津からの軍勢に苦戦し水原城を侵略されます。御館の乱終結後は行賞として旧領に復しました。
 新発田重家の乱でも景勝方につきましたが、この際に満家は放生橋にて戦死したとされています。満家には嫡子が居なかったのですが、断絶を惜しんだ上杉景勝は大関親憲に水原氏を継がせ、親憲は水原親憲と改めました。
 水原城周辺は阿賀野川の水害を直接受けることも少なく水田耕作に適していたので、親憲時代には、宗家の安田氏が1,232石に対して3,414石の大身となっており、揚北衆の中では色部氏の4,868石に次ぐ大きさになっていました。
 1598年に景勝が会津に転封となると、親憲は猪苗代城代に任じられ、水原城は廃城となります。その後、新発田城に入封した溝口秀勝によって跡地に陣屋が置かれました。
 1746年には、この地は幕府の天領となり、水原城の跡地に水原代官所が置かれました。代官所は幕末に廃止されるまでの約120年間続きました。代官所は、年貢の徴収と民政、福島潟の開発のほか、外様である新発田藩、村上藩の監視などの役割を果たしました。

 現在、跡地には1995年に木造復元された水原代官所が建っています。(城としての遺構はなさそうです。)


 徳川家の葵の紋が幕府の公的施設であることを示しています。


 門の左側に設置されている杉原常陸介碑。「すぎはら」って誰よ?と思うのですが、水原親憲のことです。
 大坂冬の陣において親憲は、鉄砲隊を率いて佐竹軍を救出するなど大活躍しました。既に齢70を越える老兵ではありましたが、「謙信以来、弓矢のぬくもりを持った男」と家康から称賛され、感状をたまわっています。
 ところが、その感状の宛名が「水原」ではなく「杉原」と書き間違えられていました。将軍家からの感状なので、親憲は異議を申し上げることもなく、なんと姓の方を「杉原」(読みは「すいばら」のまま)に改めました。

 さて、代官所の中を見てまわります。

 代官所の図。堀で囲まれていたようです。

 年貢収納確保や民政などに関する執務を行った公事場(くじば)


 訴所(うったえどころ)。主に名主など村方役人が、農地や年貢・税あるいは用水のことなどについて、ここで陳情していたようです。

 犯罪者の取り調べを行った白洲(しらす)。当時の拷問器具などが再現されています。

 湯呑所(ゆのみどころ)。役人や奉公人の休憩室です。

 手前から、上ノ間(かみのま)、中ノ間(なかのま)、使者ノ間(ししゃのま)。

 水原親憲の肖像画。

 情緒ある中庭。

 廊下。

 上御湯殿(かみおゆどの)。お風呂です。

 温故堂(おんこどう)という学問所も代官内にありました。幕末の1850年に作られたと伝わります。

 代官所全体の模型。

 城というよりも代官所の跡地としての見どころがたくさんありました。

 代官所の近くには越後府の跡もあります。
 1869年初頭、新潟府の本庁が新潟町に開かれましたが、直後に信濃川の分水をめぐる関屋掘割騒動が発生し、交通の便が悪く他地域と隔絶した新潟町から越後全域を統治するのは困難と判断されました。
 そこで政府は、越後・佐渡を管轄する越後府を水原に設置し、同時に新潟町の行政と外交を担当する新潟県を並立させることにしました。しかし内政と外交が分離したこの体制は非効率であったため、同年7月に両者を統合して水原県を設置し、翌1870年に本庁を新潟町へ移して新潟県とした。その後、新潟町は幕末の開港5港の一つとして発展していくことになります。

 代官所は水原で一番の高台に築かれました。敷地はこの地の豪農・市島家により寄贈されました。

 写真は1996年に当時の平面図を基に再建されたです。

 近くにある瓢湖(ひょうこ)は白鳥の飛来地として有名です。1626年に新発田藩主・溝口氏が渇水対策用に造営を開始した人造湖で、1639年に完成しました。湖名は、当時の形がひょうたんに似ていたことによります。

 白鳥は、毎年10月頃になると冬を越すためにシベリア方面からやってきます。瓢湖は日本で最初に白鳥の餌付けに成功した名所でもあり、2008年にはラムサール条約の登録湿地となっています。


 鎌倉時代から戦国時代にかけて、越後には揚北衆あがきたしゅう)と呼ばれる国人衆たちがいました。

揚北というのは阿賀野川の北岸を指す地域であり、現在で言うと新潟県の北部にあたります。



 揚北衆は鎌倉時代からこの地を治めてきたプライドからか独立心が強く、後に越後を支配するようになった守護の上杉氏や守護代の長尾氏としばしば対立しました。また、揚北衆の中でも対立を深めたり、共闘したりしています。

 そんなこんなで、揚北衆の存在は、戦国時代の後期に至るまで越後の政情の不安定要素であり続けました。


 揚北衆をざっくり一覧表に整理してみました。


 謙信死後の跡目争いである「御館の乱」と、御館の乱の論功行賞の不満が噴き出した「新発田重家の乱」は、揚北衆にとって二大ターニングポイントでした。ここで景勝に恭順しなかった国人衆は、滅亡または没落していきました。

 この2つの乱については、いつか別記事で触れられたらいいなと思います。


 さて、今回訪れるのは、揚北衆の中でも大見氏の末裔、安田氏の居城であった安田城です。揚北の中では最南端に位置しています。

 安田氏は、戦国時代に上杉家の家臣として活躍。当時の城主・安田長秀は謙信より血染めの感状を受けています。

 長秀は長尾政景の妹(つまり景勝の叔母)を妻にしていることからも分かる通り、揚北衆の中ではゴリゴリの景勝派です。御館の乱では、景虎を支持する会津の蘆名氏より攻撃を受けています。

 1598年に上杉氏が会津に移封となると、安田氏も付き従って会津に移ります。安田城には本庄城に入った村上頼勝の配下である吉武右近が入城。さらに村上氏の改易により1618年に堀直寄が村上城(本庄城から改名)に入り、安田城はその次男である堀直時の番城となります。1644年に直時の子、堀直吉は村松城に移り、安田城は廃城となりました。


 安田城の遺構は少ないですが、主郭を取り囲む内堀や土塁が残されています。主郭内は、現在公園として使われています。


 公園の入り口に安田城の案内看板がありました。

 主郭を囲む内堀です。蓮の葉がすごい。萎れちゃってて全然映えないのですが、時期がよければきれいなんでしょうね。

 向こう側が主郭です。植物が生い茂ってますが、土塁が残っているのが分かります。


 堀の西側の方には、体育館(写真の左側の建物)が建っていますが、こちらは二の丸になっていたようです。

 東側の方にまわると蓮がなくなっていて見やすい。
 …ん、堀の奥の方に白い鳥が?

 白鳥が訪れていました。別の記事でいずれ紹介したいと思いますが、同じ阿賀野市内には瓢湖(ひょうこ)という全国でも有数の白鳥の飛来地があります。この白鳥も瓢湖から散歩に来ていたのかもしれません。

 主郭部に入ります。内部は至って普通の児童公園になっています。


 でも隅の方を見ると、明らかに土塁っぽい。

 土塁の上部は、3m✕3mくらいの平坦地になっています。物見櫓でもあったのでしょうか。

 範囲が狭いので、15分もあれば一通り見てまわることができます。

 余談ですが、旧・安田町(現在は阿賀野市の一部)の主要産業は窯業酪農で、安田瓦は会津若松城の屋根瓦にも採用されています。また、「ヤスダヨーグルト」(飲むやつです)は、駅や高速のICのお土産コーナーでよく販売されています。

 清水園(しみずえん)は、江戸時代に新発田藩が設けた下屋敷と庭園で、国の名勝に指定されています。
 新発田藩の3代藩主・溝口宣直(のぶなお)のときに、高徳寺を五十公野へ移転させた跡地に造営されました。宣直は、初代藩主・秀勝の時代から54年続いた新発田城を完成させた人物でもあります。
 
 数寄屋造りの書院が先に造られ、4代・重雄(しげかつ)の時代に庭園が整備されたようです。付近が清水谷と呼ばれていたことから、当時は「清水谷御殿」と呼ばれました。

 受付を済ませ、藁葺で風情のある大門をくぐります。

 書院入口。

 庭園側からみた書院。幕府に忖度してなのか、華美な装飾などはなくシンプルなつくりです。

 帰ってから写真を見て気づいたのですが、欄間にはさりげなく藩主・溝口氏の家紋である五階菱がデザインされています。

 説明がないので、この鎧兜の持ち主が分からないのですが、兜に五階菱の飾りが付いているところを見ると藩主のものなのかな?

 書院の前庭。苔むしていて趣があります。

 書院から見た庭園。近江八景を取り入れた地泉回遊式庭園になっており、中央には草書体の「水」の字をかたどった池が配置されています。

 先日見てきた彦根藩の玄宮園のようなスケールの大きさはないのですが、コンパクトながら随所に趣向が凝らされており、かえって落ち着いて眺めることができるような気がします。

 池には鯉が飼われています。亀の姿も見えました。

 

 規模は小さいですが、2段落の滝石組もみられます。

 石橋。渡るのはちょっと怖い。

 池の周囲には5つの茶室が点在しています。

 門の外には資料館もあり、様々な展示がされています。



 朝倉義景の子は幼くして亡くなったことになっているが、実はひっそりと生き延びていて、新発田藩の藩祖・溝口秀勝の娘と結婚して親族衆になった…、というようなことがさらっと書いてありますが、これはどうも伝承の域を出ない俗説のようです。

 清水園の脇を流れる小川は新発田川。

 この小川の向かいには足軽長屋があります。1842年の建造と考えられています。長屋は旧会津街道口、古くは足軽町とよばれた上鉄炮町の裏につくられ、幕末まで4棟あった長屋のうちの1棟が現存しています。

 1969年に解体修理が行われて整備されましたが、なんとその前年まで実際の住居として人が住んでいたそうです。

 非常に粗末な建物で、お世辞にも武士らしい良質な住宅には見えません。清水園を見た後にここを訪れると、大名と下級武士の格差がよくわかります。


 足軽長屋の隣にある新柳本店さんの飲むわらび餅はオススメです。



 今回は珍しく城以外の訪問記録です。

 8月に行った関西旅行の中で、小2の長男のリクエストで東大寺に行ってまいりました。正確には、東大寺に行きたいというよりは、金剛力士像を見てみたいというリクエストでした。

 

 息子が金剛力士像に興味を持ったきっかけとなったのはガチャガチャ。


 最初に引き当てた金剛力士像をえらく気に入って、後日もう一度同じガチャガチャをしたら、運よく相方も引き当てました。その流れから本物も見に行こうかという話になった次第です。

 ちなみに、弥勒菩薩のような穏やかな仏像にはあまり興味はないようです。


 8世紀半ば、聖武天皇は国の安泰と人々の平和を願って、仏教の力で国を守る「鎮護国家」思想のもとに、東大寺を建立しました。
 聖武天皇の父は文武天皇、母は藤原不比等の娘である藤原宮子。聖武天皇は、天皇家と藤原家の両方の血筋を引いているということになります。
 文武天皇が崩御した時の聖武天皇はまだ幼かったため、文武天皇の母が元明天皇として即位します。しかし、聖武天皇が元服しても、天皇家と藤原家の対立のために即位は先延ばし。24歳のときにようやく即位しましたが、天皇家と藤原家の争いは続き、729年には皇族の有力者であった長屋王が自害に追い込まれるなど、自分では何の制御もできない政争を繰り返し間近で見ることになります。
 さらに、在位中に都で天然痘が流行し政府高官が次々に病死したり、九州では、藤原広嗣の乱が発生するなど暗い事件も発生します。都の暗い雰囲気を嫌ったのか、内乱の最中から聖武天皇は都を離れて今の伊勢国や美濃国へ自分探しの旅に出かけるなど、迷走状態に陥りました。
 やがて旅から戻った聖武天皇は、仏教の力で日本に安寧をもたらそうと仏教重視の政策を志すようになります。自身の不幸な生い立ちや暗い世相を振り払うべく、仏教に活路を見出したものと考えられます。

大仏造立に先だって、日本の各国に国分寺と国分尼寺というお寺を建てるように聖武天皇は詔を発しました。国分寺は、実際には「国分僧寺」であり男性の僧侶が在籍する寺院。そして、奈良の東大寺を全国の国分僧寺の頂点と位置づけました。

 大仏造立については、当初は遷都先である紫香楽宮(滋賀県)近辺で作ろうとし、743年にその地で聖武天皇は大仏造立の詔を下しました。しかし、都が平城京に戻るとともに、現在の地で造立が開始。
 大仏造立の詔は民衆に協力を呼び掛ける内容であって、時の権力者がこのように民衆に協力を呼び掛けるのは当時としては画期的なことでありました。
 造立の詔を下した後、聖武天皇は仏事に専念するため皇位を娘の孝謙天皇に譲位し、自身は隠居。孝謙天皇の時代に大仏は完成しました。

 なお、東大寺は、855年の大地震や落雷で、講堂や南大門などの建物が倒壊しています。
 1180年には平重衡(たいらのしげひら)による焼き討ちにより、大仏殿も焼失しました。
 1190年に大仏殿を再建するも、戦国時代には複数の建物が戦火に巻き込まれ焼失しました。江戸時代に修理が認められ、失われた建造物の復興も成し遂げられました。

 南大門は日本で最大級の重層門。平重衡による焼き討ち後、1199年に上棟、1203年に竣工しました。
入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにも及びます。

 ついに息子が見たかった金剛力士像とご対面です。門の中に西側に阿形(あぎょう)、東側に吽形(うんぎょう)の金剛力士像が配置されています。
 金剛力士像も南大門と同じように国宝に指定されています。この力士像は、1203年に運慶、快慶らの手によって、わずか69日間で仕上げられました。
 口が「あ」の字に開いているのが阿形

 口を「うん」と結んでいるのが吽形。2体セットで、いわゆる「阿吽(あうん)の呼吸」を体現しています。

 奈良公園の至るところに鹿がいます。
 鹿は古くから「神の使い」として手厚く保護されています。伝承によると、春日大社に祀られている武甕槌命(たけみかづみのみこと)か、白い鹿に乗って茨城県の鹿嶋神宮から奈良にやってきたとされています。

 南大門をくぐるとその先には中門が見えてきます。

 右手には鏡池

 中門は、その名の通り「中間の門」にあたるもので、外界と聖域とを区切る結界的な役割を果たしています。
 南大門をくぐると広い参道(かつては回廊で囲まれていた)があり、その突き当たりに中門が建っています。門をくぐると正面に大仏殿が現れる、いわば視覚的クライマックスを演出する建築です。
 この中門も、何度も焼失と再建を繰り返しており、現在の門は1709年に造られたものです。

 本来、仏教では四天王と呼ばれる4体の護法神が東西南北を守護します。しかし建物の門には、構造上4体を安置できない場合が多く、左右1体ずつの「二天形式」が取られることが多いです。東大寺中門では、向かって右に持国天(じこくてん・東方守護)、左に兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん・北方守護)が安置されています。

 剣を掲げ、勇ましそうなのが持国天。国を支える者を意味します。

 意外と穏やかそうな表情なのが兜跋毘沙門天。こちらは福徳の神なのですが、武神としても知られており、上杉謙信は生涯を通じて兜跋毘沙門天の熱心な信奉者でした。

 南大門の金剛力士像が「外敵からの守護」を担うのに対し、中門の二天は「伽藍内部の守護神」として、より静かで威厳ある表情に造られています。

 「ククク…、奴は四天王の中でも最弱」という有名なネタがありますが、本家本元の四天王のランク付けをするとどうなるのでしょう?

 本堂である大仏殿は、高さ約48m・幅57mで、世界最大級の木造建築物。1952年には、国宝へ指定されています。
現在の建物は江戸時代に再建されたものですが、創建当時の大仏殿は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられています。

 大仏殿には、奈良の大仏として親しまれている盧舎那仏坐像が安置されています。

 大仏殿の中には、大仏の鼻の穴と同じサイズの穴が開けられた柱があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝わります。ウチの息子なら余裕ですが、大人がくぐるのは難しそうです。

 まだ見どころはたくさんあるのですが、この暑さで長女が熱中症気味になってしまい、大仏殿を見た後にタクシーで退散しました。東大寺、また奈良公園は本当に広く、周辺の興国寺なども含めれば、数日かけなければ見てまわるのは難しそうです。