新潟県長岡市(旧与板町)にある本与板城を訪れました。
与板には、室町時代以来の本与板城に加え、戦国時代の与板城、江戸時代の与板陣屋と築城された時代の異なる3つの城跡をみることができます。今日は、古い時代の城から順に巡っていきます。
本与板城は、元々は飯沼氏の居城であったところ、長尾景虎(のちの上杉謙信)の命を受けた直江景綱が、飯沼頼清を討伐して入場し、隣の与板城に移転するまでの間、景綱・信綱が居城とした山城です。



新潟県長岡市(旧与板町)にある本与板城を訪れました。
与板には、室町時代以来の本与板城に加え、戦国時代の与板城、江戸時代の与板陣屋と築城された時代の異なる3つの城跡をみることができます。今日は、古い時代の城から順に巡っていきます。
本与板城は、元々は飯沼氏の居城であったところ、長尾景虎(のちの上杉謙信)の命を受けた直江景綱が、飯沼頼清を討伐して入場し、隣の与板城に移転するまでの間、景綱・信綱が居城とした山城です。



この日3つ目の名城訪問です。
高田城は、徳川家康の六男・松平忠輝によって築かれた城です。忠輝の舅にあたる伊達政宗を総奉行としたほか、13名の大名を動員しており、いわゆる天下普請による築城でした。
高田城は1614年3月に着工、7月には本丸・二の丸が完成という異例のスピードでした。これは同年11月の大阪冬の陣を見据えた準備だったと考えられます。
当時、幕府は豊臣家討伐にあたり、北方の防衛戦を固める必要がありました。豊臣方が加賀の前田氏などの北国諸大名と結ぶ可能性も懸念されたため、北陸道を抑える拠点が必要だったのです。
日本海にも近く、北陸道・越後口から大阪へ出兵する際の兵站拠点としての機能も期待されました。
ちなみに、普請には外様大名を多く参加させていますが、その中にはかつてこの地を治めていた上杉景勝もいます。かつての領地で下働きをさせられる上杉景勝や直江兼続らの思いはどれほどのものだったでしょうか。
現在、高田城址のうち本丸部分が高田城址公園として整備されています。桜の名所としても知られ、「日本三大夜桜」の一つに数えられています。
下が縄張り図です。本丸の外側を二の丸が囲む輪郭式の縄張りです。北東部には狐曲輪という馬出が、南西部には三の丸、さらにその外側に陽線曲輪、瓢箪曲輪という曲輪があり、相対的に北東部と南西部の守りが強化されています。
後で紹介しますが、見るからに巨大な規模の外堀が特徴です。また、下の絵図にはないですが城の東部にある関川も天然の要害として機能しました。
高田城は、石垣をほとんど用いず、土塁と水堀中心の平城です。これも、短期間で完成させるための設計であったと言われますが、そもそもこの辺りは地盤が軟弱なため、石垣の重さに耐えられずに沈み込んでしまうことが分かっていたからとも言われます。
本丸西側の内堀。右側が本丸の土塁です。流石に家康の息子の城だけあり、土塁も堀も立派なものです。
本丸南西隅の土塁上には三重櫓が築かれました。当時は「後三階櫓」と呼ばれて天守にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、1886年頃に取り壊されました。1993年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を踏まえて再建されました。

本丸南側の内堀。見事な土塁です。

二の丸の周囲には、広大な外堀が張り巡らされており、幅100mにも及ぶ所もあります。平城で、かつ高石垣もないという弱点を補うためのものであったと思われます。


続100名城スタンプは、三重櫓の中か、上越市立歴史博物館で押せます。
私は新潟県民ですが、これでようやく100名城・続100名城を制覇しました。新潟県って端から端まで行くと東京・名古屋間くらいの距離がありますから、横断するのも本当に大変です。
さて、今後日帰りで行けそうな未踏の城を考えていたのですが、
①会津若松城、向羽黒山城の会津セット
②沼田城、名胡桃城、岩櫃城の群馬の真田セット
③松代城、上田城の長野の真田セット
④仙台城、多賀城の宮城セット。
この辺りが片道300km圏内に入ります。①は片道100km程度なのでいつでも行けそうですが、残りは片道200km超になります。④はどこかでチャレンジしたいです。②、③は1泊2日ならまとめて回収できそうですが、1泊するなら長野県内の6城の一挙制覇も視野に入るし、どうしようかと。
そんなことを考えながら、新潟市までの帰り道を運転していました。
日本100名城 17/100
続日本100名城 22/100
直江津駅から程近く、一見ありふれた児童公園のようにも思えるこの場所ですが、ここは越後の戦国時代を語るには欠かせない場所の一つです。
関東管領・上杉憲政は北条氏康に敗れ、1552年に長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後にやってきました。
謙信が、この地に憲政の館として造営したのが御館(おたて)です。謙信はここを政庁として使用しました。御館は越後府中の中心であり、付近には越後国分寺や越後一の宮・居多神社などがありました。




越後守護代・長尾氏の当主に過ぎず、当然上杉との血縁関係もない謙信ですが、1561年に上杉憲政本人からの要請もあり、謙信は山内上杉家の家督ならびに関東管領職を相続します。
これが越後守護代・長尾景虎が、山内上杉家当主・関東管領である上杉謙信(当時の名は政虎)に生まれ変わった瞬間です。
1578年、謙信が跡継ぎを宣言しないまま死去すると、謙信の養子である景勝と景虎の2人がが家督相続を巡って争いました。これが御館の乱です。
少しややこしいのですが、ここで出てくる景虎とは謙信のことではなく、北条氏康の子息である三郎が、越相同盟の証として謙信の養子に迎えられ、謙信の旧名を与えられたものです。「景虎」の名を与えられるあたり、格別の扱いを受けていたのは確かなのでしょうが、謙信が生きていたとして、もともと敵対国であった北条の子を後継者にするものでしょうか?
一方の景勝は謙信の実姉・仙桃院の子、つまり甥っ子であり、越後の有力な上田長尾氏を背景にしています。官途も与えられ、相応の軍事力も預けられています。これらのことから、後継者としての正統性はどう見ても景勝の方が高いように思われますが、果たして。
さて、春日山城を追われた景虎は御館に立てこもりましたが、景勝の猛攻撃を受け落城。景虎は、兄の北条氏政を頼って小田原城へ落ち延びる途中、途中に立ち寄った鮫ヶ尾城で味方側であったはずの城主・堀江宗親の裏切りに遭い、そこで自害しました。
鮫ヶ尾城については、先日記事にしております。
鮫ヶ尾城→春日山城→林泉寺→御館と上越シリーズで記事を書いてきましたが、次回は江戸時代における上越の中心・高田城について書きたいと思います。
曹洞宗林泉寺は、城趾から程近い春日山の麓にあります。上杉謙信の祖父である越後守護代長尾能景が、その父重景創建の林泉寺を1487年に再創建しました。
謙信は幼少の頃以来、この寺で学問を学んでいます。
また、戦を繰り返す間にこの寺を訪れ、禅の「第一義」を悟って法を嗣ぎ、第8代・益翁宗謙(やくおうしゅうけん)の師名の一部を授けられ、「謙信」と称するようになりました。
この惣門は、伝承では春日山城の搦手門を移築したものとされています。だとすると唯一残る春日山城の建築物ということになるんでしょう。





ちなみに、謙信の遺骸は甲冑を身にまとった姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあると伝えられています。
しかし、この寺のおすすめはなんと言っても宝物館ですね。写真撮影はできませんが、上杉謙信の軍旗や刀剣類、あの有名な謙信の唯一の肖像画など、素晴らしい品々を見ることができます。
さて、この後は御館を訪れたいと思います。














この度の熊本地震により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。熊本城や八代城の石垣の一部が崩落したとの報道もあり、非常に残念な思いです。まずは、人々の暮らしにいち早く平穏が訪れるよう祈念しております。
さて、前回の記事で鮫ヶ尾城の登城について触れましたが、その足で春日山城を訪れました。越後守護代の長尾為景が改修し、子の景虎(上杉謙信)が更に整備を重ねた、日本を代表する巨大山城の一つです。



















長くなったので、続きは後編に書きます。
新潟県妙高市にある鮫ヶ尾城を訪れました。
信濃国から程近いこの山城は、戦国時代、武田氏の北方進出に備え、春日山城を守る南方の重要拠点として機能しました。
1578年には上杉謙信が跡継ぎを決めずに急死したため、養子の景勝と景虎が家督を争う「御館の乱」が勃発します。
最後には景虎が鮫ヶ尾城へ逃れますが、景虎側に付いていたはずの城主の堀江宗親が景勝方へ寝返ったため景虎は逃げ場を失い、1579年3月、鮫ヶ尾城で自害しました。この出来事によって景勝が上杉家の当主となり、上杉家の内乱は事実上決着しました。
しかしながら、この内乱とも言える争いで上杉氏が弱体化している間に、織田信長、そしてその死後は羽柴秀吉が圧倒的な力を付けており、上杉氏は対抗力を失っていくことになります。

さて、スタンプは麓にある斐太(ひだ)歴史の里総合案内所にあります。ここの係の方いわく、1週間くらい前に麓で熊が現れた痕跡があったんだとか。今日は私の前に登城者が1人いただけだそうで、人気もあまりないので心配ではありますが、熊鈴を鳴らしながら気をつけて登ります。


案内所でいただいたマップ。大手口は南登城道なのですが、この道は案内所には通じておらず、登山という意味ではメインルートではなさそうです。あまり人が通らない道は熊との遭遇率も高くなりそうなので、ここは東登城道から登り、北登城道から下りて戻りたいと思います。














日本100名城 16/100
続日本100名城 21/100








前回の記事に書いた平林城の後に、江上館(えがみやかた)に立ち寄りました。
この辺りは、平安時代には奥山荘(おくやまのしょう)という摂関家の荘園でしたが、鎌倉幕府創立の功臣である和田氏の一族が地頭となり、この地に入りました。
南北朝時代になると、奥山荘は北条・中条・下条の3つの地域に分割され、このうち中条を継承したのが中条氏となります。北条を継承した黒川氏とは、元は同族でありながらも度々争いました。
戦国時代、中条氏を含む下越地方の国衆たちは揚北衆と呼ばれました。揚北衆については、過去記事で説明しています。上杉謙信の時代の当主・中条藤資は重臣として一門衆に次ぐ待遇にあったといわれます。
さて、江上館に着きました。今にも熊が出没しそうな平林城と異なり、平地に造られた城なので安心感がありますが、住宅街の中に溶け込んでいて、たどり着くのに苦労しました。
ガイダンス施設である奥山荘歴史館が隣接しています。12月以降は冬季休館となるので、今日はもうギリギリですね。




















