この度の熊本地震により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。熊本城や八代城の石垣の一部が崩落したとの報道もあり、非常に残念な思いです。まずは、人々の暮らしにいち早く平穏が訪れるよう祈念しております。
さて、前回の記事で鮫ヶ尾城の登城について触れましたが、その足で春日山城を訪れました。越後守護代の長尾為景が改修し、子の景虎(上杉謙信)が更に整備を重ねた、日本を代表する巨大山城の一つです。



















長くなったので、続きは後編に書きます。
この度の熊本地震により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。熊本城や八代城の石垣の一部が崩落したとの報道もあり、非常に残念な思いです。まずは、人々の暮らしにいち早く平穏が訪れるよう祈念しております。
さて、前回の記事で鮫ヶ尾城の登城について触れましたが、その足で春日山城を訪れました。越後守護代の長尾為景が改修し、子の景虎(上杉謙信)が更に整備を重ねた、日本を代表する巨大山城の一つです。



















長くなったので、続きは後編に書きます。
新潟県妙高市にある鮫ヶ尾城を訪れました。
信濃国から程近いこの山城は、戦国時代、武田氏の北方進出に備え、春日山城を守る南方の重要拠点として機能しました。
1578年には上杉謙信が跡継ぎを決めずに急死したため、養子の景勝と景虎が家督を争う「御館の乱」が勃発します。
最後には景虎が鮫ヶ尾城へ逃れますが、景虎側に付いていたはずの城主の堀江宗親が景勝方へ寝返ったため景虎は逃げ場を失い、1579年3月、鮫ヶ尾城で自害しました。この出来事によって景勝が上杉家の当主となり、上杉家の内乱は事実上決着しました。
しかしながら、この内乱とも言える争いで上杉氏が弱体化している間に、織田信長、そしてその死後は羽柴秀吉が圧倒的な力を付けており、上杉氏は対抗力を失っていくことになります。

さて、スタンプは麓にある斐太(ひだ)歴史の里総合案内所にあります。ここの係の方いわく、1週間くらい前に麓で熊が現れた痕跡があったんだとか。今日は私の前に登城者が1人いただけだそうで、人気もあまりないので心配ではありますが、熊鈴を鳴らしながら気をつけて登ります。


案内所でいただいたマップ。大手口は南登城道なのですが、この道は案内所には通じておらず、登山という意味ではメインルートではなさそうです。あまり人が通らない道は熊との遭遇率も高くなりそうなので、ここは東登城道から登り、北登城道から下りて戻りたいと思います。














日本100名城 16/100
続日本100名城 21/100








前回の記事に書いた平林城の後に、江上館(えがみやかた)に立ち寄りました。
この辺りは、平安時代には奥山荘(おくやまのしょう)という摂関家の荘園でしたが、鎌倉幕府創立の功臣である和田氏の一族が地頭となり、この地に入りました。
南北朝時代になると、奥山荘は北条・中条・下条の3つの地域に分割され、このうち中条を継承したのが中条氏となります。北条を継承した黒川氏とは、元は同族でありながらも度々争いました。
戦国時代、中条氏を含む下越地方の国衆たちは揚北衆と呼ばれました。揚北衆については、過去記事で説明しています。上杉謙信の時代の当主・中条藤資は重臣として一門衆に次ぐ待遇にあったといわれます。
さて、江上館に着きました。今にも熊が出没しそうな平林城と異なり、平地に造られた城なので安心感がありますが、住宅街の中に溶け込んでいて、たどり着くのに苦労しました。
ガイダンス施設である奥山荘歴史館が隣接しています。12月以降は冬季休館となるので、今日はもうギリギリですね。





















今回は「新発田重家の乱」を巡る2つの城について触れたいと思います。
今回は水原城(すいばらじょう)跡および水原代官所跡を訪れました。韓国にある水原華城(スウォンファソン)ではなく、新潟県阿賀野市の話です。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、越後には揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人衆たちがいました。
揚北というのは阿賀野川の北岸を指す地域であり、現在で言うと新潟県の北部にあたります。
揚北衆は鎌倉時代からこの地を治めてきたプライドからか独立心が強く、後に越後を支配するようになった守護の上杉氏や守護代の長尾氏としばしば対立しました。また、揚北衆の中でも対立を深めたり、共闘したりしています。
そんなこんなで、揚北衆の存在は、戦国時代の後期に至るまで越後の政情の不安定要素であり続けました。
揚北衆をざっくり一覧表に整理してみました。
謙信死後の跡目争いである「御館の乱」と、御館の乱の論功行賞の不満が噴き出した「新発田重家の乱」は、揚北衆にとって二大ターニングポイントでした。ここで景勝に恭順しなかった国人衆は、滅亡または没落していきました。
この2つの乱については、いつか別記事で触れられたらいいなと思います。
さて、今回訪れるのは、揚北衆の中でも大見氏の末裔、安田氏の居城であった安田城です。揚北の中では最南端に位置しています。
安田氏は、戦国時代に上杉家の家臣として活躍。当時の城主・安田長秀は謙信より血染めの感状を受けています。
長秀は長尾政景の妹(つまり景勝の叔母)を妻にしていることからも分かる通り、揚北衆の中ではゴリゴリの景勝派です。御館の乱では、景虎を支持する会津の蘆名氏より攻撃を受けています。
1598年に上杉氏が会津に移封となると、安田氏も付き従って会津に移ります。安田城には本庄城に入った村上頼勝の配下である吉武右近が入城。さらに村上氏の改易により1618年に堀直寄が村上城(本庄城から改名)に入り、安田城はその次男である堀直時の番城となります。1644年に直時の子、堀直吉は村松城に移り、安田城は廃城となりました。
安田城の遺構は少ないですが、主郭を取り囲む内堀や土塁が残されています。主郭内は、現在公園として使われています。











今回は珍しく城以外の訪問記録です。
8月に行った関西旅行の中で、小2の長男のリクエストで東大寺に行ってまいりました。正確には、東大寺に行きたいというよりは、金剛力士像を見てみたいというリクエストでした。
息子が金剛力士像に興味を持ったきっかけとなったのはガチャガチャ。
最初に引き当てた金剛力士像をえらく気に入って、後日もう一度同じガチャガチャをしたら、運よく相方も引き当てました。その流れから本物も見に行こうかという話になった次第です。
ちなみに、弥勒菩薩のような穏やかな仏像にはあまり興味はないようです。










