まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。本当はブログタイトルどおり、土地の美味しいものでも食べながらまったりと200名城の制覇を目指したいのに、なぜか毎回詰め込みまくりの強行軍になってしまいます。

 新潟県長岡市(旧与板町)にある本与板城を訪れました。

 与板には、室町時代以来の本与板城に加え、戦国時代の与板城、江戸時代の与板陣屋と築城された時代の異なる3つの城跡をみることができます。今日は、古い時代の城から順に巡っていきます。

 

 

 本与板城は、元々は飯沼氏の居城であったところ、長尾景虎(のちの上杉謙信)の命を受けた直江景綱が、飯沼頼清を討伐して入場し、隣の与板城に移転するまでの間、景綱・信綱が居城とした山城です。

 

 麓から車がすれ違えない林道を対向車が来ないことを祈りながら進むと、

 
 車が3〜4台ほど停められる駐車場に着きました。

 
 駐車場の脇には登り口の看板が。

 
 整備された緩やかな山道を登っていきます。

 
 少し歩くと、実城(本丸)まで100mの看板。いきなり本丸に入っていくということは、この道は当時の正規ルートではないのかな。

 
 と思ったら、少し道がそれて腰郭のような平坦地が。ここは万歳閣といい、日清戦争の戦没者を慰霊する建物があったそう。この場所は、実城手前の防衛線の一つであったのではないでしょうか。
 そして、ありがたい縄張り図。中央に実城(本丸のこと)、西側に二の郭、三の郭を配置した連郭式っぽい縄張ですが、南側にも郭が築かれています。

 
 これは慰霊碑なのかな。

 
 実城へ向かうルートに戻って階段を登っていきます。虎口のようにも見えます。

 
実城(右)とニの郭(左)間の堀切

 
実城。なぜか越後では本郭のことを実城と呼ぶことが多いです。

 
 石碑と案内板以外に何もありませんが、かなり開けた空間です。藪がひどくて近くまで行けないけど、北側(写真左側)の方には土塁も確認できます。

 
 見取り図もありましたが、だいぶざっくりしています。さっきの万歳閣のところにあった図の方が分かりやすいです。
 
二の郭(左)と三の郭(右)間の堀切
 
 二の郭。藪だらけでとても前に進めそうもありませんが、こちらもかなり実城と同規模の空間で、西端にはコの字型に土塁が築かれているようですが、とても確認できる状況ではありません。
 
 三の郭。藪の具合は、こちらの方が比較的マシ。
 
 三の郭のさらに西側にも郭があるようですが、あんまり整備されている感じがないので、ここで引き返します。
 
 直江氏は、おそらく信綱の時代に本拠を元与板城から与板城に移したものと考えられます。
 与板城はここから僅か2キロの距離。このまま向かいたいと思います。
 

 


 

 

 

 この日3つ目の名城訪問です。


 高田城は、徳川家康の六男・松平忠輝によって築かれた城です。忠輝の舅にあたる伊達政宗を総奉行としたほか、13名の大名を動員しており、いわゆる天下普請による築城でした。


 高田城は1614年3月に着工、7月には本丸・二の丸が完成という異例のスピードでした。これは同年11月の大阪冬の陣を見据えた準備だったと考えられます。


 当時、幕府は豊臣家討伐にあたり、北方の防衛戦を固める必要がありました。豊臣方が加賀の前田氏などの北国諸大名と結ぶ可能性も懸念されたため、北陸道を抑える拠点が必要だったのです。


 日本海にも近く、北陸道・越後口から大阪へ出兵する際の兵站拠点としての機能も期待されました。


 ちなみに、普請には外様大名を多く参加させていますが、その中にはかつてこの地を治めていた上杉景勝もいます。かつての領地で下働きをさせられる上杉景勝や直江兼続らの思いはどれほどのものだったでしょうか。


 現在、高田城址のうち本丸部分が高田城址公園として整備されています。桜の名所としても知られ、「日本三大夜桜」の一つに数えられています。


 下が縄張り図です。本丸の外側を二の丸が囲む輪郭式の縄張りです。北東部には狐曲輪という馬出が、南西部には三の丸、さらにその外側に陽線曲輪、瓢箪曲輪という曲輪があり、相対的に北東部と南西部の守りが強化されています。


 後で紹介しますが、見るからに巨大な規模の外堀が特徴です。また、下の絵図にはないですが城の東部にある関川も天然の要害として機能しました。


 高田城は、石垣をほとんど用いず、土塁と水堀中心の平城です。これも、短期間で完成させるための設計であったと言われますが、そもそもこの辺りは地盤が軟弱なため、石垣の重さに耐えられずに沈み込んでしまうことが分かっていたからとも言われます。


 本丸西側の内堀。右側が本丸の土塁です。流石に家康の息子の城だけあり、土塁も堀も立派なものです。


 本丸南西隅の土塁上には三重櫓が築かれました。当時は「後三階櫓」と呼ばれて天守にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、1886年頃に取り壊されました。1993年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を踏まえて再建されました。

 
この三重櫓は見栄えは良いですが、後世の模擬復元なのであんまり興味はないです。見るべきところはこの土塁でしょう。

 本丸の大部分は、上越教育大学附属中学の敷地として利用されています。

 本丸内部より。南側の土塁。


 本丸南側の内堀。見事な土塁です。


 本丸と二の丸をつなぐ極楽橋。こちらは平成14年の再建。

 二の丸の周囲には、広大な外堀が張り巡らされており、幅100mにも及ぶ所もあります。平城で、かつ高石垣もないという弱点を補うためのものであったと思われます。


 この外堀を埋め尽くす蓮は、明治時代に地元の大地主・保坂貞吉が大金を投じて植えたものです。窮乏状態にあった旧髙田藩士を救うために、レンコンを育てるのが目的でした。レンコンの採取は昭和37年まで続けられたそうです。


 瓢箪廓には、廓の形そのままに野球場が作られています。まるで野球場のために郭を作ったのかのよう。


 続100名城スタンプは、三重櫓の中か、上越市立歴史博物館で押せます。


 私は新潟県民ですが、これでようやく100名城・続100名城を制覇しました。新潟県って端から端まで行くと東京・名古屋間くらいの距離がありますから、横断するのも本当に大変です。


 さて、今後日帰りで行けそうな未踏の城を考えていたのですが、

①会津若松城、向羽黒山城の会津セット

②沼田城、名胡桃城、岩櫃城の群馬の真田セット

③松代城、上田城の長野の真田セット

④仙台城、多賀城の宮城セット。


この辺りが片道300km圏内に入ります。①は片道100km程度なのでいつでも行けそうですが、残りは片道200km超になります。④はどこかでチャレンジしたいです。②、③は1泊2日ならまとめて回収できそうですが、1泊するなら長野県内の6城の一挙制覇も視野に入るし、どうしようかと。

 そんなことを考えながら、新潟市までの帰り道を運転していました。


日本100名城  17/100

続日本100名城 22/100

 直江津駅から程近く、一見ありふれた児童公園のようにも思えるこの場所ですが、ここは越後の戦国時代を語るには欠かせない場所の一つです。


 関東管領・上杉憲政は北条氏康に敗れ、1552年に長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後にやってきました。

 謙信が、この地に憲政の館として造営したのが御館(おたて)です。謙信はここを政庁として使用しました。御館は越後府中の中心であり、付近には越後国分寺や越後一の宮・居多神社などがありました。


 案内看板を見ると、今ある御館公園は敷地のごく一部に過ぎず、往時は複数の曲輪を持つ高格式の方形居館であったことがうかがえます。
 ちなみに明治初期までは土塁や堀がかなり残っていたみたいですが、その後の開発によりほぼ完全に消滅しました。





 越後守護代・長尾氏の当主に過ぎず、当然上杉との血縁関係もない謙信ですが、1561年に上杉憲政本人からの要請もあり、謙信は山内上杉家の家督ならびに関東管領職を相続します。

 これが越後守護代・長尾景虎が、山内上杉家当主・関東管領である上杉謙信(当時の名は政虎)に生まれ変わった瞬間です。


 1578年、謙信が跡継ぎを宣言しないまま死去すると、謙信の養子である景勝と景虎の2人がが家督相続を巡って争いました。これが御館の乱です。


 少しややこしいのですが、ここで出てくる景虎とは謙信のことではなく、北条氏康の子息である三郎が、越相同盟の証として謙信の養子に迎えられ、謙信の旧名を与えられたものです。「景虎」の名を与えられるあたり、格別の扱いを受けていたのは確かなのでしょうが、謙信が生きていたとして、もともと敵対国であった北条の子を後継者にするものでしょうか?


 一方の景勝は謙信の実姉・仙桃院の子、つまり甥っ子であり、越後の有力な上田長尾氏を背景にしています。官途も与えられ、相応の軍事力も預けられています。これらのことから、後継者としての正統性はどう見ても景勝の方が高いように思われますが、果たして。


 さて、春日山城を追われた景虎は御館に立てこもりましたが、景勝の猛攻撃を受け落城。景虎は、兄の北条氏政を頼って小田原城へ落ち延びる途中、途中に立ち寄った鮫ヶ尾城で味方側であったはずの城主・堀江宗親の裏切りに遭い、そこで自害しました。


 鮫ヶ尾城については、先日記事にしております。


 鮫ヶ尾城→春日山城→林泉寺→御館と上越シリーズで記事を書いてきましたが、次回は江戸時代における上越の中心・高田城について書きたいと思います。


 


 曹洞宗林泉寺は、城趾から程近い春日山の麓にあります。上杉謙信の祖父である越後守護代長尾能景が、その父重景創建の林泉寺を1487年に再創建しました。


 謙信は幼少の頃以来、この寺で学問を学んでいます。

 また、戦を繰り返す間にこの寺を訪れ、禅の「第一義」を悟って法を嗣ぎ、第8代・益翁宗謙(やくおうしゅうけん)の師名の一部を授けられ、「謙信」と称するようになりました。


 この惣門は、伝承では春日山城の搦手門を移築したものとされています。だとすると唯一残る春日山城の建築物ということになるんでしょう。


 惣門の先には立派な山門があります。

 謙信はこの林泉寺に山門を建立寄進しており、山号の「春日山」と「第一義」を揮毫した額を掲げました。

 2体の金剛力士像。こちらが阿形で。

 こちらが吽形ですね。東大寺南大門にあるものとちょっとポーズが違いますね。

 こちらが本堂です。

 江戸時代に入ってからは歴代藩主の菩提寺となりました。なので、この寺は上杉氏(長尾氏)、堀氏、松平氏、榊原氏の菩提寺ということになります。

 上杉謙信の墓。なお、実際の謙信の遺骸はここには眠っておらず、上杉氏の移封に伴い、会津若松城、米沢城を経て、現在は米沢市の上杉家廟所にあります。

 ちなみに、謙信の遺骸は甲冑を身にまとった姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあると伝えられています。


 しかし、この寺のおすすめはなんと言っても宝物館ですね。写真撮影はできませんが、上杉謙信の軍旗や刀剣類、あの有名な謙信の唯一の肖像画など、素晴らしい品々を見ることができます。


 さて、この後は御館を訪れたいと思います。



  前回の春日山城の記事の続きです。

 こちらは井戸曲輪。本丸から西側に一段下がったところにあります。この位置関係なら、本丸近くまで攻撃されることがあっても給水拠点を維持しやすいですね。


 覗いてもよく見えませんが、現在でも枯れずに水が湧いているようです。

 井戸曲輪のさらに西側には鐘楼跡。

 尾根を伝ってそのまま降りていくと、上杉景勝の屋敷跡に繋がります。景勝は、謙信の姉である仙洞院の実子であり、謙信の養子になっていました。
 謙信は後継ぎを明確に示さないまま急逝しましたが、景勝屋敷が本丸に次ぐ高所に位置していることは、景勝が上杉家中で極めて重要な地位にあったことを示す有力な状況証拠であり、後継者候補として最有力だった可能性を補強しているように思います。


 御成街道を通ってさらに西に進みます。この道の名は、謙信と懇意にしていた時の関白・近衛前嗣が越後に下向した際、この道を通ったことに由来します。前嗣は、1560年に謙信を頼って越後に来ると、関白在任中にも関わらずここに3年間滞在した。前嗣の滞在は、謙信の威光を高めるのにも大いに役に立ったことでしょう。

 柿崎屋敷跡です。この曲輪、上の景勝屋敷よりも明らかに広いです。この辺りは謎なのですが、柿崎景家が軍事面では家中の中心的存在であったことを考えると、武者溜まり、つまり兵の集結場所を兼ねていた可能性もあるのかなと想像します。
 ちなみに、1560年の第四次川中島の戦いでは、柿崎景家は武田信玄本隊を強襲し、武田信繁(信玄の長弟)や、武田屈指の軍師・山本勘助を討ち取る大功を挙げたとされています。その勘助も近年の研究ではそれほどの大人物ではなかったという説が強まっていますが。

 先ほど進んだ御成街道を引き返して、さらに少し下ると二の丸が見えてきます。

 ここは本丸の直下に位置します。写真の旗がちらっと見える場所が本丸です。
 
 二の丸からさらに下ってくると三の丸。ここには上杉三郎景虎宅(写真奥)や米蔵(写真手前)がありました。

 米蔵跡

 上杉三郎景虎宅跡。御館の乱で後継者争いをした景勝の屋敷と比べるとだいぶ低い位置にあります。
 屋敷の位置が家臣団の序列をある程度表しているとすると、三郎景虎の屋敷跡の位置は、景勝のそれと見比べるとやはり見劣りしてしまいます。
 いずれにしても、ここを拠点に春日山城内で景勝と争うのは不利だったことでしょう。三郎景虎が平地にある御館の方に拠点を移したのは合点がいきます。

 麓に近い方に、上杉四天王の1人、甘粕景持宅の跡もありました。見る限り、敷地はだいぶ小さいですね。

 謙信像の辺りから撮った城の中核部の全景。各曲輪の形や位置関係がよく見えますが、別の季節に来た方がなお良いかもしれません。

 越後上布の原材料であるカラムシが至るところに生えていますね。

 さて、この後は上杉氏の菩提寺でもある林泉寺に向かいます。

 この度の熊本地震により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。熊本城や八代城の石垣の一部が崩落したとの報道もあり、非常に残念な思いです。まずは、人々の暮らしにいち早く平穏が訪れるよう祈念しております。


 さて、前回の記事で鮫ヶ尾城の登城について触れましたが、その足で春日山城を訪れました。越後守護代の長尾為景が改修し、子の景虎(上杉謙信)が更に整備を重ねた、日本を代表する巨大山城の一つです。

 

 まずは春日山城跡ものがたり館でスタンプをゲット。


 ものがたり館の隣には、監物堀・監物土居と呼ばれる堀や土塁が復元されています。これらは総構にあたります。
つまり城の外郭部ということです。

 春日山城は非常に広大なため、車道が通じている春日山神社までは、車で向かいます。ということで、さっきの監物堀から車を数分走らせ、春日山神社の駐車場まで移動。既に結構山を登ってきたけど、どんだけ広いん?

 
 謙信像がお出迎え。

 まずは現地案内図を確認。春日山神社の右脇から尾根伝いに登っていきます。

 上杉謙信を祭神とする春日山神社は、1901年に創建されました。この神社の脇に登城道があります。

 千貫門があったとされる場所。 ここには本丸へ向かう敵への侵入を阻む、空堀や切岸など遺構が残っています。
 千貫門の名の由来はよく分かりませんが、たぶん大坂城の千貫櫓と似たような理由ではないでしょうか。

 堀切

 ここも堀切

 ようやく見えてきた大きめの廓。この辺りからが直江屋敷になります。写真の奥の方が段になって高くなっているのが分かると思います。

 上下3段の連続した廓となっています。

 名門直江家は、謙信の父・長尾為景の頃からの重臣です。大河ドラマ「天地人」でも有名な直江兼続は、兼続は景勝時代の上杉家の政治・外交・軍事を一手に担うほどの逸材で、秀吉からも豊臣姓を与えられるなど高く評価され、厚遇されていました。

 御花畑跡とされる廓。名前は優雅ですが、城郭としては重要な位置です。戦国時代の城では、負傷者の治療や病気への備えとして薬草を栽培する場所が設けられることがありました。春日山城の御花畑も、薬草を育てる場所だったという説があります。 

 御花畑は、千貫門→直江屋敷→御花畑→毘沙門堂→本丸という、本丸北側の防御ライン上にあることから、本丸を守る帯曲輪的な役割を持った場所であったとも考えられます。

 御花畑を越えると見えてくるのは、謙信が出陣前にここで祈願していたという毘沙門堂。

 毘沙門天は、仏教における四天王の一人で、北方を守護する武神です。武勇、国家の守護、邪悪を討つ正義を象徴する存在で、戦国武将から広く信仰されていました。
 謙信は単に「戦いに勝ちたい」というよりも、「正義のために戦う武将」という理想を毘沙門天に重ねていたようです。 

 毘沙門堂は、1849年の大火で被害を受けましたが、1928年に修復されました。 小窓からは堂内に安置された毘沙門天の姿が拝見できます。

 目線を下にやると二の丸が見えます。ここの紹介は後ほど。

 毘沙門堂のすぐ先には護摩堂跡。護摩とは、仏教、特に真言密教で行われる重要な修法で、祭壇の炉で護摩木を焚き、仏に祈願する儀式です。

 上の方に本丸らしき廓が見えてきました。写真は、毘沙門堂から平坦に続いている道ですが、やや幅広くなっている箇所もあります。○○廓などという名称はなさそうですが、通路と帯曲輪の両方の役割を持った場所なのかもしれません。

 最後の登り。本丸の虎口らしき場所を抜けていきます。

 開けた場所に付きました。ここが本丸です。


 眼下には上越市街。

 本丸の隣には空堀を挟んで天守台と呼ばれる廓があります。この城は典型的な中世山城であり、天守は存在してい居ないはずですが、城内最高所の廓だからこう呼ばれているのかな?櫓など何かしら重要な建築物はあったのかもしれません。

 長くなったので、続きは後編に書きます。

 新潟県妙高市にある鮫ヶ尾城を訪れました。 

 信濃国から程近いこの山城は、戦国時代、武田氏の北方進出に備え、春日山城を守る南方の重要拠点として機能しました。


 1578年には上杉謙信が跡継ぎを決めずに急死したため、養子の景勝と景虎が家督を争う「御館の乱」が勃発します。

 最後には景虎が鮫ヶ尾城へ逃れますが、景虎側に付いていたはずの城主の堀江宗親が景勝方へ寝返ったため景虎は逃げ場を失い、1579年3月、鮫ヶ尾城で自害しました。この出来事によって景勝が上杉家の当主となり、上杉家の内乱は事実上決着しました。

 しかしながら、この内乱とも言える争いで上杉氏が弱体化している間に、織田信長、そしてその死後は羽柴秀吉が圧倒的な力を付けており、上杉氏は対抗力を失っていくことになります。


 まずは遠景から。中央手前の小山がそれです。山頂部の本丸にあずまやが設置されているのが見えたおかげで全体像が分かりました。

 さて、スタンプは麓にある斐太(ひだ)歴史の里総合案内所にあります。ここの係の方いわく、1週間くらい前に麓で熊が現れた痕跡があったんだとか。今日は私の前に登城者が1人いただけだそうで、人気もあまりないので心配ではありますが、熊鈴を鳴らしながら気をつけて登ります。


 ここのすごいところは、城趾であると同時に、弥彦時代末期の高地性の環濠集落の遺跡でもあるということなんですよね。

 再現された竪穴住居もありました。


 たくさんの堀切が尾根をぶった切っているのが分かります。

 案内所でいただいたマップ。大手口は南登城道なのですが、この道は案内所には通じておらず、登山という意味ではメインルートではなさそうです。あまり人が通らない道は熊との遭遇率も高くなりそうなので、ここは東登城道から登り、北登城道から下りて戻りたいと思います。


 山城には付き物となった熊注意の掲示。

 案内所から歩き始めるといきなり大きな池が。なるほど、水に恵まれた土地だから古代より集落がつくられていたのかな。

 登山道の脇にも水がちょろちょろと流れています。

 うっすらとしか分からないけど、古代の環濠跡。

 U字型にくっきり残った堀切なのですが、草木が鬱蒼としていて写真では上手く伝わらない…。

 堀切の間を通る土橋。

 ここは東一ノ丸。ここに来るまで急峻な斜面を登ってきました。


 この堀切も肉眼ではしっかり見えるのですが、写真にするとやはり分かりにくい。良い写真の撮り方があるなら教えてほしい。

 ロープにつかまって堀切を登るような箇所も乗り越えながら、ようやく目印のあずまやが見えてきました。

 ようやく本丸に到着。あずまやは雪で柱が傾いたそうで、ロープで規制されています。ここまで所要30分くらい。

 本丸のすぐ北側の小廓に位置する米蔵跡。この蔵は落城の際に炎上したとの伝承があり、今でも焼け焦げた米粒が見つかるそうです。付近を探しましたが、私は見つけることはできませんでした。

 米蔵跡から見た本丸。こちらも堀切で分断されています。

 本丸下の腰郭。

 帰り道の北登城道。こちらはあまり見るべきものはなさそう。

 高速道路の下をくぐると舗装道路が現れました。ここまで来れば一安心。

 運動不足の40代の私でも、往復1時間弱といったところです。今日は他にも上杉氏の縁の地を周る予定なので、先に進みます。


日本100名城  16/100

続日本100名城 21/100

 近くなのでいつでも来れる新発田城。木造再建とはいえ、この三重櫓はいつ見ても良いですね。

 とはいえ、今日の目的は土橋門復元整備予定地の確認です。そう、新発田城では、かつて二の丸から本丸への正面口にあたる城門である土橋門の復元が予定されているのです。
 
 これが往時の土橋門です。写真が残っているので、再現度の高いものが期待できますね。

 これが古写真と同じアングルから取った写真です。復元予定地は現在は市道になっているため、市道を脇に付け替えるようです。なお、土橋の西側には今も本丸堀が残っていますが、東側は埋め立てられています。

 これが現地にあった復元予想図。帯曲輪は枡形虎口に近い機能を果たしていたように見えます。
 この図をよく見ると、帯曲輪も往時に近い姿に復元し、土橋東側の外堀も復元してくれるのかな。しかし、復元整備基本計画のHPを見る限りは、外堀復元まではせず芝張りなどで公園整備にすると記載されていました。どっちが最新なのでしょう。


 土橋門のあった場所。両脇の土塁は今も残っています。

 別アングルより。

 ここは土橋門東側の外堀があった場所。ここには以前、老人福祉施設があったと記憶しています。元々ある土塁の脇に土を積んでいるけど、これはどうするのでしょう。

 工事にはまだまだ時間がかかりそうですから、進捗を楽しみにしたいと思います。

 前回の記事に書いた平林城の後に、江上館(えがみやかた)に立ち寄りました。


 この辺りは、平安時代には奥山荘(おくやまのしょう)という摂関家の荘園でしたが、鎌倉幕府創立の功臣である和田氏の一族が地頭となり、この地に入りました。

 南北朝時代になると、奥山荘は北条・中条・下条の3つの地域に分割され、このうち中条を継承したのが中条氏となります。北条を継承した黒川氏とは、元は同族でありながらも度々争いました。

 戦国時代、中条氏を含む下越地方の国衆たちは揚北衆と呼ばれました。揚北衆については、過去記事で説明しています。上杉謙信の時代の当主・中条藤資は重臣として一門衆に次ぐ待遇にあったといわれます。



 さて、江上館に着きました。今にも熊が出没しそうな平林城と異なり、平地に造られた城なので安心感がありますが、住宅街の中に溶け込んでいて、たどり着くのに苦労しました。


 ガイダンス施設である奥山荘歴史館が隣接しています。12月以降は冬季休館となるので、今日はもうギリギリですね。


 典型的な室町期の方形居館ではありますが、南北に馬出のような曲輪を設けていることや虎口が食い違い構造になっており、防御力を高めています。
 とはいえ、主郭は60メートル四方程度の規模であり、大規模な戦闘に耐えるのは難しそう。有事の際は付近の山城である鳥坂城が詰城として利用されていたようです。

 江上城と言わず、江上「館」というのは、もともと居館だった場所に防御施設が増設されていって城化した経緯からなのでしょうか。


 小規模な堀の向こうが南郭です。

 南郭からみた主郭。虎口が食い違いになっています。

 四方を土塁で囲まれた主郭。

 ミニチュアと説明が書いてあるので、主郭内にどこにどのような建物があったのかイメージがわきます。
 ちなみに北側の方が生活空間、南側の方が儀礼的な行事を行う公的空間であったようです。

 地元の子たちが土塁の上でランニングしていました。

 主郭と北郭を繋ぐ虎口。

 奥の方に見える橋の先が北郭です。南郭と同様に食い違いになっています。

 北郭側の堀跡。

 北郭。

 県内には方形居館の遺構はあまり例がないので勉強になりました。もう雪も降ってきており、今回が今シーズン最後の城めぐりになりそうです。


 本日は秋晴れの中、新潟県村上市にある平林城にやってきました。平林城は、揚北衆の色部氏の居城として知られる山城です。


 平林城は、元々は南北朝時代に南朝に付いた平林氏の城でしたが、北朝方の色部氏が攻め滅ぼし、本拠地としたものです。

 1508年、守護代である長尾為景(上杉謙信のお父さんです)に攻められ落城、以降は長尾氏(後の上杉氏)に帰属しました。
 麓の居館と背後の山城から構成されていますが、この長尾氏との戦で落城して以降、山城部分については再興することはなかったようです。
 上杉謙信時代の当主・色部勝長は、北条氏康との戦や川中島合戦、下野の佐野城攻撃などで武功を挙げており、謙信の信任も厚かったようです。信長の野望で上杉氏をプレーする方にとっては馴染みの名前かもしれません。
 1598年、上杉景勝の会津移封に伴い、色部氏も越後から移っており、平林城は廃城となりました。
 
 写真正面の要害山(標高281m)に山城が築かれました。

 麓の駐車場に到着しました。いきなり立派な土塁を見ることができます。


 山城にはお決まりの看板ですが、今年は各地で本当に熊の目撃情報が多いので、戦々恐々としています。全国の山城ファンは困っているのではないでしょうか。

 車で通りかかったお爺さんが、まさに今から入城しようとしていた私を見つけ、「70cmくらいの子グマが見つかったばかりだ」と教えてくださいました。子グマがいるということは…、ですよね。
 お爺さんは登城するわけでもなく、私に注意を促した後にそのまま来た道を引き返して行ったので、もしかするとボランティアで見回りをされている地元の方なのかもしれません。

 案内図。山城まで含めるとかなり見どころがありそうですが、自身の中で策定した「山城ガイドライン」に基づき、今回は麓の居館のみの見学とします。

 ちなみに、私の山城ガイドラインは、次の8条から成っています。
①早朝、夕刻の登城を避ける。
②他に登城者がいなそうな場合(麓の駐車場に車が停まっていないなど)は極力登城しない。やむを得ず登城する場合は登城前に家族に行き先を伝える。
④熊鈴は必須。また、音楽をかけるなどして、無音で静かに歩かない。
⑤見通しが悪い場所を極力避ける。
⑥直前に熊の目撃情報があった場合には登城しない。
⑦熊とおぼしき痕跡を見たら即時撤退する。
⑧春、秋は警戒レベルを引き上げる。

 今回、駐車場には他に車はなかったため、②に抵触、さらに⑥、⑧にも抵触しますので、撤退を検討すべき状況なのですが、なかなか登城欲には勝てず、見通しの良さが維持できる範囲に限定して見学することにしました。

 縄張り図を再確認します。現在地は岩館と呼ばれる曲輪の北虎口の前にいるようです。

 岩館曲輪の土塁。

 岩館曲輪は、本城の中で最も広い曲輪であり、平坦地が続いています。適度に木も伐採されており、今のところ視界も良さそうです。

 歩いて進んでいくと「下ると虎口へ」との看板。

 上から見た虎口。縄張り図でいうところの弁天虎口に当たるのかな。枡形になっているのが判ります。

 下ってみて中曲輪側を臨む。この写真の右側がさっきの岩館ですが、切岸になっています。

 奥の切岸の向こう側がさっきいた岩館曲輪。背中側はさらに切岸があって下っており、下には小川(滝矢川)が流れています。虎口は見通しが悪いので早く脱出したい。

 岩館曲輪と中曲輪の間にある土塁と堀。草木が茂っていると分かりにくいですが、岩館側はかなり高さがあり、迫力があります。ここが一番見たかったところです。

 中曲輪も同様に平坦地となっています。

 さらに奥に進むと殿屋敷と呼ばれる城主の居館があった曲輪があるのですが、奥の方は視界が薄暗くなってきており、なんとなく嫌な感じがしたので、ここで引き返すことにしました。こんな書き方をすると霊的なものを恐れているように見えますが、怖いのは熊だけです。
 たとえ火縄銃を持っていたとしても、熊とのいくさに勝つのは難しそうです。熊の駆除に関しては様々な意見がありますが、個人的には人間の生活が最重要視されるべきと考えていますし、ハンターの方たちに対する処遇なども見直してほしいです。

 駐車場にこじんまりとした無人のガイダンス施設があり、平林城や色部氏についての解説を読むことができます。写真を撮り忘れましたが、新しい綺麗な建物です。











 いつか条件が整えば要害山の方まで登ってみたいですね。