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まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 9月に入っても暑い日が続きましたが、ようやく過ごしやすい気温になってきました。

 冬は雪に閉じ込められる新潟県民なので、秋のうちに何処かの城に行きたいな〜と思うのですが、よく考えれば私、通勤で毎日城跡を訪れていることに気付きました。

 ただ、何も痕跡が残っていないので、城跡を訪れている実感は全くないんですよね。


 今回はそんな地元の城「長岡城」について書いてみようと思います。


 戦国時代、現在の長岡市域は、越後守護代・越後長尾氏の傍流である古志長岡家が治めていました。本拠は、現在の長岡中心部から約2キロ離れた蔵王堂城に置かれていました。
 ところで、越後長尾氏と上杉氏の関係について理解している人は、新潟県民の中にもほとんどいないと思います。私自身の整理も兼ねて、越後長尾氏→上杉氏の流れについて、書き留めておきます。ちなみに、「越後」長尾氏と書いているのは、別流の長尾氏が他にいるからなのですが、話が面倒になるのでここでは割愛します。

 室町時代以降、上杉氏は関東管領として鎌倉府を補佐してきましたが、応仁の乱以降は徐々に勢力を失い、1546年の河越夜戦で北条氏康に敗れたことで、事実上関東から駆逐されました。
 関東を追われた上杉憲政は、越後守護代の長尾景虎に庇護を求めました。景虎は軍事的才能を示し、1559年には将軍・足利義輝から正式に関東管領に補任されました。
 その際、憲政は自らの上杉氏の名跡を景虎に譲り、景虎は「上杉正虎」と名乗るようになりました。これが後の「上杉謙信」です。すなわち、越後長尾氏が上杉氏に「衣替え」し、名門の格式を受け継いだことになります。

 さて、本題に戻します。長岡地域を治めていた古志長尾家は、当主・長尾景信が御館の乱で戦死したために断絶し、その後は主筋である上杉氏が直接この地域を支配することとなりました。
 1598年、秀吉によって上杉氏は会津に移封され、代わって堀秀治とその一族・与力大名が越後に入りました。堀氏は関ケ原の戦いにおいて東軍に属したため、戦後も領地を安堵されました。越後坂戸藩主・堀直寄は、蔵王堂城が信濃川に面していて洪水に弱いと判断し、川から離れた場所に新たな城の築城に着手しました。これが長岡城の始まりです。
 しかし、堀氏はお家騒動などのゴタゴタが続き、ついには越後から去ることとなり、築城も中断してしまいます。結局、その後に入封してきた牧野氏が長岡城と城下町の建設を引継ぎ、完成させました。この牧野氏が幕末に至るまで長岡藩の藩主を務めることとなります。

 時は進み、幕末に戊辰戦争が起こります。このとき、藩論について決定権を持つ家老・河合継之助は、新政府軍からの献金・出兵要請を黙止した一方、会津藩などからの協力要請に対しても明言を避け、中立状態を維持しました。新政府軍が小千谷に迫ると、河井は陣地へ赴き、平和的解決のための調停役を願い出ました。しかし、長岡藩を会津側とみなしていた新政府軍は、これを詭策と判断し一蹴したため、会談は決裂しました。結局、長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、新政府軍との戦闘を開始しました(北越戦争)。激戦の末、陥落した長岡城を一時は奪還したものの、火力・兵員共に圧倒的に上回る新政府軍に押されて再び陥落しました。
 この戦により、城門、櫓、本丸御殿などの城郭設備のみならず、藩校や家中屋敷、寺や町屋に至るまでが、新政府軍により徹底的に破壊されました。

 明治時代に入り、全ての堀は埋め立てられ、城の痕跡は除去され、本丸があった場所には鉄道駅が設置されました。城の遺構がほとんど残っていない理由はこの辺りにあります。
 史跡の保存よりも、戦後復興を優先するのは致し方ないのですが、後世に何も残るものがないというのは寂しいところではあります。

 現在の地図と長岡城の縄張りを重ねた図。

 新幹線の乗り入れ駅でもある長岡駅ですが、ここに長岡城の本丸が置かれていました。

 本丸跡の碑。

 本丸には天守代用の三階櫓があったようです。


 駅から徒歩1分。隈研吾氏のデザインの「アオーレ長岡」。長岡市役所とシティホールを兼ねた施設です。ここには二の丸がありました。

 アオーレ長岡の一角に、二の丸跡の碑と、こじんまりとした神社が残っています。


 アオーレの地下駐車場には、この施設の建設工事の際に出土した、土留杭の展示がなされています。堀の壁面が崩れるのを防止するために堀底に打ち込まれたものとみられています。数少ない長岡城の痕跡の一つです。

 駅周辺の地名をみると、ここが城下町であったことが分かります。「大手通」「城内町」「呉服町」「稽古町」などの町名が残っています。

 なんとか頑張って城の名残を探しました。
 
 長岡の市街地は、北越戊辰戦争から77年後の1945年、太平洋戦争時の空襲で再び焼け野原になりました。
 やがて戦後復興を祈念した復興祭が毎年行われるようになりますが、ここで行われる花火大会が、今では日本三大花火の一つに数えられています。


 城というよりは、長岡の紹介みたいな文章になりました。



 

 

 今回は城とは全然無関係のことを書きます。


 もう7月のことになりますが、新潟県立近代美術館で開催されていた「徳川十五代将軍展」を観に行きました。


 本展では静岡の久能山東照宮に付属する博物館に奉納されている貴重な宝物が多数展示されます。

 ちなみに、久能山東照宮は、「東照大権現」として神格化された徳川家康を祀る全国東照宮の中で、最も創建の古い神社です。家康は1616年に駿府城で亡くなりましたが、遺言により亡骸は遺言によりその日の晩に久能山へ移され、ここに埋葬されました。その後、徳川秀忠の命により久能山東照宮が創建されました。

 

 歴代将軍全員の甲冑が展示されるとの触れ込みでしたので、これは何としても行かねばということで、観に行ってまいりました。


 こういうアニメっぽいキャラの展示は、実際の城でもよく見ますが、こういうのはよく分かりません。

 実は甲冑以上に見たかったのはこれ。家康がスペイン王フェリペ3世から贈られた洋時計です。
写真撮影禁止なので、この後のすべての写真は久能山東照宮の公式HPまたはXから拝借しています

 1609年、メキシコへ向かっていたフィリピン総督の船が千葉県沖で難破して海岸に漂着したところ、地元の村人たちが救助し、衣服や食料の世話をしました。

 さらにそれを聞いた徳川家康が外交顧問のウィリアム・アダムスを派遣し、色々な便宜を与えて保護することを指示。さらに船まで建造して彼らを送り出しました。

 その後、スペイン王から返礼の品々が贈られましたが、その中にこの時計がありました。当時の日本とは時法が異なるため、時計としては使用されなかったようですが、家康はこの時計を気に入り、部屋に飾っていたそうです。

 このエピソードは知っていたので、是非本物を拝見したかったんですよね。

 時計塔をミニチュア化したようなデザインで、細かい装飾も良いです。この時代のスペインは、文化的にもイスラムの影響を結構受けてると思うのですが、上部のドーム型の意匠もそうなのかな?


 さて、歴代将軍の甲冑ですが、ずらーっと15人分並んで展示されていました。各々オリジナルの具足が並ぶ一方、家康の歯朶具足(しだぐそく)と瓜二つの具足もいくつかありました。


 歯朶具足は、正式には「伊予札黒糸威胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)というそうです。中々こういう名称が覚えられない…。

 兜にシダの葉状の前立を施していたことから、通称「歯朶具足」と呼ばれていました。シダの葉は常緑で枯れにくいため、古来より長寿や繁栄の象徴とされており、家康はこの具足を身に着けて関ヶ原の戦いに臨んだと言われています。

 そんな縁起の良い歯朶具足なのですが、江戸期には、この具足の模作を歴代将軍が作らせることが慣例となりました。特に3代将軍・家光が久能山の所蔵品を江戸へ移し、以後「具足開き」などの儀礼で具足(あるいはその写し)を飾る習慣が続いたことが記録されています。


 ということで、歯朶具足は歴代将軍の人数分あるということです。もちろん、それぞれの将軍の好みにより作らせた具足もあるのですが、例えば7代家継など早逝してしまった将軍については、歯朶具足しか残るものがなかったのでしょうね。


 謎が解けたところで、早く金陀美具足を見たいなと思い、順路を進んでいったところ出口に着いてしまいました。あんな金ピカの具足を見落とすなんてあるかな?と会場内を行ったり来たりするも、見当たらず。

 それで係の方に尋ねてみたのですが、「今は展示していません」とのこと。よくよく聞くと、本展は前期と後期に分かれていて、前期は歯朶具足を、後期は金陀美具足を展示するのだそうです…。


 
 また借り物の写真ですが、こちらが金陀美具足。今川義元の下で人質生活を送っていた若き日の家康(当時は「松平元康」)は、義元の命により織田軍によって包囲されている大高城へ兵糧を運び入れました。その際に着用されていたとされる具足です。金箔押しで目立つ具足ですが、無駄な装飾などはなく実用本位で仕立てられています。

 金陀美具足は残念でしたが、このような貴重な文化財を新潟で見れたことに感謝です。いつか久能山東照宮にも行ってみたいですね。

 彦根城を発った後、押し損ねていた小谷城のスタンプを押し、佐柿国吉城へ。もう昼過ぎだけど、少しは城址を散策する時間はありそう。


 佐柿国吉城は、1556年に若狭国守護・若狭武田氏が、越前方面からの侵攻に備えて築いたと伝わっています。若狭国の東の入り口を抑える要害として築かれ、小浜湾方面から若狭の内陸部に入る交通・防衛の要衝に位置します。現代では原発が有名な美浜町にあたります。


 若狭武田氏について知識不足でしたので、ここでちょっと整理します。まず、武田氏のはじまりについてですが、鎌倉時代のころ清和源氏の一族が甲斐国に勢力を持ち、武田氏の祖となりました。

 その後、南北朝動乱で活躍した武田信武の子・氏信が安芸国守護となり、安芸武田氏が成立。この段階で、甲斐武田氏から分かれることとなります。

 さらに、安芸武田氏4代の武田信繁の嫡男・信栄が、室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて一色義貫を誅殺。その功績により若狭守護職を与えられました。ここから若狭武田氏が始まることとなります。

 時系列でまとめると、甲斐武田氏の庶流として安芸武田氏が成立 → 安芸武田氏の庶流として若狭武田氏が成立、という流れになります。

 

 さて、若狭国吉城歴史資料館に着きました。この資料館は元々別の場所にあった大庄屋屋敷(旧田辺半太夫家住宅)で、明治維新後に移築されたものだそうです。スタンプものこで押すことができます。

 「難攻不落」ののぼりがあちこちに立っています。若狭武田氏の重臣・粟屋勝久は、幾度となく襲来する越前朝倉氏をこの城に立て籠もって迎え撃ち、一度も落城することはありませんでした。


 ただ、朝倉氏の滅亡後、信長から若狭国を任されたのは丹羽長秀であり、若狭武田氏はわずか3,000石のみの領有を許されただけでした。当主・武田元明は1582年の本能寺の変の際、旧領回復を狙って明智光秀に加担したため、光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、ここで若狭武田氏は滅亡しました。
 1583年には、秀吉の家臣、木村定光が城主となり、城を石垣造りの城に改修したほか、城下町の整備を行い、今に残る佐柿の歴史的町並みの基礎を造りました。
 江戸時代初めに城が廃城となって以降は、今の資料館がある場所に佐柿町奉行所が置かれ、佐柿城下は丹後街道の宿場として繁栄しました。幕末には、敦賀で処刑された水戸浪士の生き残りが収容されました。

 このキャラクターのモデルはいるのかな?

 資料館に展示されていた城の模型。

 戦国時代の典型的な山城で、山上の尾根筋に沿って曲輪が築かれています。ただ、それはいわゆる詰城で、普段生活する居館は麓に設けられていました。

 私は時間がないので、今回は麓の居館跡の周辺だけを見て帰りたいと思います。



 城主居館跡。

 土塁。

 城主の居館跡の裏手側は小刻みな段差で仕切られた曲輪が連続しており、石垣も確認できます。




 佐柿町奉行所の石垣は、廃城後の1635年に積まれたものです。

 当初の予定では2日で8城ぐらい周れればと思っていましたが、終わってみれば11城も訪問していました。
 車での移動距離は1,200km弱。充実の2日間ではありましたが、心身の疲労は激しく、この後タチの悪い風邪をひいた上、持病の喘息が悪化してしまいました。
 より多くの城を見たい気持ちから、ついついスケジュールを詰め込んでしまうのですが、次回からは少しセーブして行きたいと思います。

 ちなみに、ここまで全然現地らしいものを口にしてなかったので、帰り道のサービスエリアで鯖寿司をいただきました。

 あと、富山は通過しただけですが、富山ブラック。



日本100名城  15/100
続日本100名城 19/100

 前回の記事の続きです。

 西の丸から黒門へ向かって搦手筋の道を下っていきます。

 

 本丸石垣。左手の開けたところ(ちゃんと写ってないけど)は井戸曲輪

 井戸曲輪の虎口にあたる埋門跡。ここから下はジグザグの黒門山道になっています。

 下から見上げた井戸曲輪。

 井戸曲輪の高石垣。高さは最大19m程あるそうですが、ちょっと写真の構図を失敗しました。もっと下からのアングルで撮ればよかった。奥の上の方に見えるのは本丸の石垣です。

 下まで下りてきました。これは黒門横の石垣の雁木

 黒門跡。かつては櫓門だったようです。

 黒門橋から見た内堀。

 楽々園は、この後に行く玄宮園に隣接する庭園の一部で、かつては槻御殿(けやきごてん)と呼ばれていました。オフィシャルな大名庭園であった玄宮園に対し、槻御殿は藩主の居館・別邸機能を持つプライベートな空間でした。
 かなり時間が押してきているので、ここはチラ見で先に進みます。


 玄宮園は、広大な池を中心に築山・島・石橋・植栽を組み合わせ、歩きながら変化に富んだ景色を楽しめる、地泉回遊式庭園です。手前の池は、玄宮園の主景である鳳翔台池の一部です。背後には小高い築山があり、石を立て込んだ石組みが随所に配されています。これは中国・瀟湘八景(しょうしょうはっけい)を模した景観づくりの一環です。

 天守を借景に利用した素晴らしい景観です。手前の石橋、奥の唐風橋もアクセントになっており、私的にはここからの眺めが一番気に入りました。

 右手の茅葺の建物は臨池閣(りんちかく)で、池に張り出した造りになっています。藩主や賓客が池の景観を間近に楽しむための施設でした。

 池を大胆にまたぐ高い反り橋で、中国風の意匠が取り入れられています。

 これで今回の彦根城探索は終わりです。
 彦根城見たさにこんなところまで来てしまいましたが、これから佐柿国吉城を経由して新潟まで600kmの道のりを車で帰らなければなりません。もう昼近くだというのに今日中に家まで帰れるのか?
 最後に腰巻石垣を横目で眺めながら佐和口まで戻ります。


日本100名城  15/100

続日本100名城 18/100

 さて、いよいよ本丸です。 

 

 本丸にはかつて立派な御殿も建っていましたが、残念ながら明治時代に取り壊されています。したがって、太鼓門櫓をくぐるとすぐにこの天守が目に飛び込んできます。

 三層三階地下一階の複合式望楼型の天守です。大津城の五重四階の天守を減築転用したと言われています。


 天守、続櫓および多門櫓は、国宝に指定されています。

 着見台から見た天守。この角度からの眺めは最高です。破風がこれでもかというほど使われているのに、配置が絶妙なのか、全然しつこさを感じません。
 カラーリングも絶妙。漆喰壁の白がベースですが、高欄の黒や金箔押しの飾り金具が良い感じの差し色になっています。華頭窓も格式の高さを示しています。

 天守入口の鉄の扉はものすごく重厚感があります。

 場内は観光客でごった返していました。人のいない一瞬の隙を狙って写真を撮ったのですが、残念ながらブレています。

 国宝指定書が掲げられています。

 外からはただの白壁にしか見えない、いわゆる隠し狭間が複数設置されてあります。狭間は全部で82 カ所もあるそうです。

 琵琶湖方面。今は彦根総合スポーツ公園となっていますが、かつては城の北東側は松原内湖が広がっており、天然の要害となっていました。城の防備も、大坂を向いている南西側の方が相対的に強化されることになります。

 石田三成が城を構えていたことで知られる佐和山。自分が思っていたよりも、目と鼻の先にありました。彦根城の築城にあたっては、佐和山城からも多くの資材が運ばれたことでしょう。

 西の丸三重櫓。地図で見る限り、西の丸は北側にあるのに、なぜ「西」と付くのか最初は分からなかったのですが、城郭用語の「西の丸」は、地図上の方位ではなく、城の正面(大手)や中心(本丸)を基準した西側の曲輪を指すことが多いようです。「北の丸」の方がしっくりくるんだけど、縁起(風水的な)もあるのかな?

 この櫓が西の丸の北端にあり、このさらに外側は出曲輪を挟んで深い堀切登り石垣によって守られています。ですが、この先は整備中なのか通行止めになっており、残念ながら見ることはできませんでした。

 西の丸三重櫓の内部。

 西の丸三重櫓については、小谷城の天守を移築したとの伝承がありますが、昭和30年代に行われた解体修理ではそのような痕跡はみられなかったそうです。部材の大半が1853年の大修理で取り替えられたそうで、小谷城からの移築が事実だとしてもそれを示す証拠はもう残っていないのかもしれません。

 これから黒門へ下り、玄宮園に向かおうと思います。

 前回の記事では、表門をくぐるところまで説明しました。今回はその続きです。

 表門からしばらく表門坂を登っていきます。

 天秤櫓(重要文化財)の下で道が左に折れます。

 すると、いきなり大堀切の底に出ます。この堀切の底で、反対側の大手門から登ってきた道と合流します。つまり、主要な侵入経路から入って来た敵は必ずここを通ることになります。
 右手は天秤櫓のある太鼓丸、左手は鐘の丸。中央に見える廊下橋へたどり着くためには、まず鐘の丸の方に廻り込んで行かなければなりませんが、その前に両曲輪から徹底した挟撃を受けることになります。

 天秤櫓の石垣は、右側と左側で積み方が異なります。右側は築城当時の自然石の牛蒡積み

 廊下橋の真下の石垣を見ると、窪んでいる箇所があるのが分かります。現在の橋はコンクリートの基礎の上に建っていますが、本来の橋は石垣の途中に橋脚を乗せていました。いざとなれば橋を落とし、絶対防衛ラインを死守できるようになっていました。

 左側の石垣は落し積み。1854年の大規模修理の際に積み替えられました。

 天秤櫓の名の通り、ほぼ左右対称のつくりとなっていますが、よく見ると両隅の二階櫓は左右で屋根の向きが異なっています。この櫓の前身は長浜城大手門であったと考えられていますが、断定には至っていないようです。

 こちらは天秤櫓から大手門側に少し下ったところ。天秤櫓の左側側の櫓が正面に見えます。

 天秤櫓の中。不思議なことに、防御の要の櫓であるにもかかわらず、櫓門の標準装備ともいえる矢狭間や鉄砲狭間、石落としなどがみられない。天守にみられるような隠し狭間もなさそう。

 と思ったら、格子窓の角材が斜めに取り付けられており、左右両方に視野が開けるようになっています。案内板を見ると、ここから弓や鉄砲で攻撃することができたようです。


 天秤櫓を越えて太鼓丸の坂道を登っていくと、本丸に向かう最後の関門に、太鼓門櫓(重要文化財)が構えられています。この櫓は、築城前に丘陵上にあった彦根寺の門を移築したものと言われてきましたが、1956年からの修理の結果、他の城から移築されたと判明しました。移築元の城については判明していません。

 太鼓門櫓の正面。

 こちらも格子窓も角材が斜めに取り付けられています。この角度から坂下からの敵を捕捉できそうです。

 門上の櫓は背面が開放されて廊下に欄干が付く、珍しい構造をしています。内部に置かれた太鼓の音を響かせるための工夫だという説もあります。

 太鼓門櫓を越えて、ついに本丸に入ります。続きは次回の記事で。

 彦根城は、徳川四天王の1人・井伊直政の子で、第2代彦根藩主・直継の時代に天下普請によって築かれました。

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西国大名に対する抑えとして、東海道・中山道の要衝に強力な拠点を築く必要がありました。琵琶湖東岸の彦根は、大坂に通じる街道を抑えられる位置にあり、譜代筆頭である井伊氏に任せるのは理にかなっていました。


 関ヶ原から大坂の陣までの約15年、徳川にとっての最大の脅威は豊臣政権の残存勢力でした。そのため彦根城は「徳川方の前線基地」として、できるだけ早く、しかも見栄え・防御力ともに優れた城を築かなければならなかったのです。

 そのために採られた方法が、積極的な移築活用です。大津城佐和山城長浜城などの近隣の城から、「まだ新しく立派な建物」を次々が転用されました。このことにより工期を大幅に短縮できました。


 そんな「寄せ集め」の彦根城ですが、全く寄せ集めに見えないのがこの城の素晴らしいところです。彦根城は徳川の威信をかけた要塞であったため、縄張りの設計は一から練り直され、移築物はその中に巧みに取り込まれました。結果として、強く、美しい城に仕上がったのです。

 その歴史的・芸術的価値の高さが評価されており、特に天守国宝にも指定されています。城巡りをしている方には釈迦に説法となりますが、現存天守は全国に12基、その中でも国宝指定されているのは彦根城を含めてわずかに5基しかありません。


 そんな彦根城に今回初めて訪れるとあって、私のテンションはMAXです。


 まずは、縄張りを再確認します。下図は、彦根市のHPより拝借した「御城内御絵図」です。


 彦根城は南北に長い尾根を整地して、曲輪を連ねた連郭式平山城です。当初は籠城戦を想定し、御殿も山上に構えられました。山上には南から「太鼓丸」「本丸」「西の丸」を一直線上に配置しており、それらを最後の砦とするために、太鼓丸の前面と、西の丸の前面に巨大な堀切を設けて遮断線としています。

 また堀切の前面には「鐘の丸」「出曲輪」と呼ばれる曲輪が築かれ、馬出としています。


 さて、護国神社の方から、城内を目指して歩きます。写真は中堀。奥に見えるのは二の丸佐和口多聞櫓です。

 道中に井伊直弼の歌碑がありました。


 二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)。中堀に開く4つの門のうちの一つです。表門に続く入口として、彦根城の重要な城門の一つでした。道の左側の方の櫓が、現存の建物です。1767年の火災で焼失した後、1771年頃に再建されたものです。

 向かって右側に伸びる長大な多聞櫓は、1960年の再建で、内部は開国記念館という展示施設になっています。

 今では単なるクランクのようになっていますが、かつては中堀に沿って高麗門が、折れたところに櫓門が築かれており、その間は枡形虎口となっていました。


 場内側より枡形虎口。

 開国記念館内でスタンプを押印することができます。
 ごろ寝のひこにゃんがお出迎え。

 記念館内に展示されていたレゴ作品。

 二の丸を道なりに進んでいくと左手に見えるのが馬屋(重要文化財)。写真では分かりにくいですがL字形をしています。ここに藩主などの馬を常備していました。


 手綱を通すための金具が、左右の柱の上下に2つずつ付けられています。また、上部には桁が通してあり、ここに一対の猿耳(ウサギの耳のように上に飛び出た部材)を取り付けて、腰掛けを固定していました。

 馬の排泄物を処理しやすいよう開閉可能な穴が設けられています。

 表門橋を渡り、表門に向かいます。建物は残っていませんが、橋詰めには高麗門、枡形を折れたところに渡櫓門があったようです。

 表門橋の上から見た内堀。ここでは「鉢巻・腰巻石垣」を見ることができます。

 鉢巻石垣とは、土塁の上部にだけ築いた石垣のことでで、土塁上部の耐久性を高める効果があります。一方、腰巻石垣は、土塁の下部にだけ築いた石垣のことで、堀の水による土塁の浸食を防ぐ役割があります。
 この鉢巻石垣と腰巻石垣が同じ場所に併存している例は、ここ彦根城の他には江戸城くらいしかないそうです。
 全ての面に石材を使う必要がないので、経費と時間の節減することができたそうですが、私はなんとなく装飾的効果の意味合いもあったのでは、と感じました。
 大坂城の高石垣などは雄大で、それはそれでよいのですが、この鉢巻・腰巻石垣の、上下に美しく整った帯状の石垣が続き、間に芝生のラインが入るというデザインに優雅さを感じるのは私だけでしょうか?限られた城でしか見られない、というのも特別感があります。
 
 表門の枡形内からは登り石垣が確認できます。これは、山上から山麓にかけて石塁を配置するのもので、敵の斜面移動を封鎖する目的で築かれたものです。文禄・慶長の役で朝鮮半島南岸に秀吉軍が築いた城に多用されたものですが、国内では彦根城と伊予松山城、洲本城でしか見ることができません。その登り石垣が彦根城では5本も用いられています。


 まだ序盤なのですが、先ほどから石垣技術の見本市を見ているようです。これから山を登っていくというところで、次回に続きます。

 小谷城の訪問を終えて麓まで降りてきましたが、資料館の開館まで1時間半もある。明日は仕事なので、今日中に高速をぶっ飛ばして新潟に帰らなければならない。そんな状況で「残り時間をどう使おうか…」というのが前回の記事の終わりでした。


 福井県では佐柿国吉城だけが未訪なので、そこは帰り道ついでにどうしても寄りたい。そう考えた上で、まず浮かんだのが下の2案です。


1時間半ここで待って小谷城のスタンプ押印  佐柿国吉城訪問  帰路

40分南下して鎌刃城訪問  小谷城に戻りスタンプ  佐柿国吉城訪問  帰路


 ところが、鎌刃城のアイデアが出たら、さらにその先が見えてしまった。…そう、彦根城が。

 国宝5天守のうちの一つ、彦根城。どうしても行きたい。

と、頭の中はすでに彦根城に支配されてしまいましたが、スケジュール的にはかなり無理がある。それでも色々考えた末に採用したのが、次の案③です。


鎌刃城はスタンプのみ  彦根城訪問  小谷城に戻りスタンプ  佐柿国吉城訪問  帰路


 鎌刃城には申し訳ないですが、今回はスタンプ押印のみとしました。ということで、いざ鎌刃城へ。


 さて、鎌刃城は、標高約384mの山頂に築かれた山城で、琵琶湖の東岸に近く、北国街道と中山道が分岐する交通の要衝を押さえる位置にありました。築城時期は不明ですが、南北朝〜室町時代には既に存在していたと考えられています。現在は国の史跡に指定され、縄張りがよく残る城跡として評価されています。


 戦国時代には、国人領主の堀秀村が城主でした。秀村は浅井氏に属し、小谷城の南の守りを担っていましたが、1570年の姉川の戦いの際に、木下秀吉の家臣竹中重治の調略を受け、織田方に寝返ります。この裏切りによって、織田軍は戦線を有利に進めることができ、浅井氏にとっては大きな痛手となりました。


 ところが、近江平定後、堀秀村は織田信長から改易を命じられます。越前一向一揆との戦いで家臣が不始末をしたことが直接的な理由ですが、「用が済んだらポイ」という印象は拭えません。鎌刃城もこの頃には廃城となったようです。


 ちなみにこの堀秀村は、美濃出身で信長・秀吉に仕えた堀秀政の一族ではなく、血縁関係は確認されていません。(名前に同じ「秀」の字を持つので紛らわしいですが)


 さて、鎌刃城の駐車場らしき場所に到着すると、数人の方が案内をしていました。

 「え、鎌刃城ってそんなにホットなの?」と思ったら、今日は講師を招いて現地案内を行う「鎌刃城まつり」というイベントの日だったようです。


 案内のおじさんに「迷うといけないから参加者の後に付いていったら?」と勧められたのですが、皆さんは半日かけてじっくり散策するスケジュール。時間に追われる私はやむなく断念しました。


 スタンプは、「Cafe&Gallery源右衛門」でゲット。周辺マップ(下図)を手に入れたところ、林道で城址付近まで行けるようですが、マップには「ワイルドな林道・通行注意!」「落石注意!」と書いてあるので、無理はしないことにしました。(この林道の情報があったら知りたいです)



 駐車場近くにあった案内板。

 鎌刃城は正面に見える山の尾根に築かれています。

 次はいよいよ国宝・彦根城へ向かいます。


日本100名城  14/100
続日本100名城 18/100

 小谷城の記事の後編です。

 

 桜馬場の奥へ進むと、大広間および本丸へと続く虎口跡があり、立派な石段が残っています。ここにはかつて黒金門という門がありました。

 石段を登ると、小谷城でもっとも広い郭が現れます。ここが大広間です。千畳敷と呼ばれ、長さ約85m、幅約35mあるそうです。


 大広間には御殿が建っていたそうです。落城直前には、浅井長政やお市の方はここで生活をしていたのでしょう。

 大広間の北側には高さ4mの石垣が残っています。この石垣の上に本丸があります。


 野面積みの本丸石垣。浅井氏は全国的に見てもかなり早い時期に石垣を導入しています。石垣を築くには、膨大な人員や高度な石工技術が必要でした。そのため、石垣のある城は領主の支配力・経済力を示すステータスの意味合いがあったものと思われます。


 本丸です。ここには天守といえる建物があったと伝わっています。彦根城西の丸にある三重櫓は、小谷城の天守を移転したものという伝承もありますが、昭和30年代に行われた解体修理ではその痕跡は確認されなかったそうです。


 本丸のさらに奥は、中丸→京極丸→小丸→山王丸と続いていきますが、時間を気にする私はここで引き返すことにします。

 麓まで降りてきたところで、何やら兜のモニュメントを見つけました。2011年の大河ドラマの放映を記念して作られたもののようです。

 さて、時間は午前7時半。小谷城のスタンプを押したいが、資料館が開くのは午前9時。
 今日中に新潟まで帰らなければならない。限られた時間をどう使おうか。

 次回に続く。

日本100名城  14/100
続日本100名城 17/100


 小谷城は、比高100m以上の山上に浅井氏が築いた、典型的な山城です。 


 スタンプは、この小谷城戦国歴史資料館でスタンプが押せます。ですが、到着時点でまだ朝の6時50分。会館は9時からなので、とりあえず城の方に向かうこととします。

 資料館が登城口になっていて、本気の人はここから登城するのでしょうが、なんと途中まで車で上がれる林道があるとのことで、時間のない私はショートカットさせてもらうことにします。先ほどの玄蕃尾城に続いて、すれ違いの困難な林道を登っていくと5分程で、駐車場(というほど広くもないが)に着きます。ここから本丸までは20分ほどで行けるようです。

 現在地を確認。車で結構登ったつもりだけど、まだまだ上があるんですね。そしてここでも「クマ注意」の看板。熊鈴もありますが、登城者は他に誰もいなそうなので、音楽を垂れ流しながら登ることにします。

 番所跡。山道の要所に置かれており、ここて登城者の検問をしたようです。絵図で当時の姿を示してくれているから分かりやすい。



 御茶屋跡。防御体勢ばっちりの郭という感じですが、休憩の場としても使われていたのかな?


 馬洗池。湧水ではないそうですが、水の溜まりやすい窪地だったのでしょうか。今も池の形がしっかり残っています。

 御馬屋跡。草が生い茂ってて絵図がないと分からない。


 何も考えずに見れば単なる良い眺めですが、奥の方の平野部は姉川の戦いの舞台です。さらに奥の方には、織田家臣・木下秀吉が浅井氏攻略の拠点とした横山城のある丘陵も見えます。

 桜馬場。実際に桜が植えられていた、あるいは植えることができるほどの余裕がある空間だったようです。縦に長い郭なので、普段は馬場として利用されていたのかもしれません。浅井長政がお市の方を迎えた際の饗応に使われたという伝承もあるようです。


 桜馬場の片隅に浅井氏および家臣の供養塔があります。浅井長政の遺骸はどこに葬られたか未だはっきりしていないそうです。

 この後はいよいよ本丸に入っていきます。後編に続きます。