9月に入っても暑い日が続きましたが、ようやく過ごしやすい気温になってきました。
冬は雪に閉じ込められる新潟県民なので、秋のうちに何処かの城に行きたいな〜と思うのですが、よく考えれば私、通勤で毎日城跡を訪れていることに気付きました。
ただ、何も痕跡が残っていないので、城跡を訪れている実感は全くないんですよね。
今回はそんな地元の城「長岡城」について書いてみようと思います。
9月に入っても暑い日が続きましたが、ようやく過ごしやすい気温になってきました。
冬は雪に閉じ込められる新潟県民なので、秋のうちに何処かの城に行きたいな〜と思うのですが、よく考えれば私、通勤で毎日城跡を訪れていることに気付きました。
ただ、何も痕跡が残っていないので、城跡を訪れている実感は全くないんですよね。
今回はそんな地元の城「長岡城」について書いてみようと思います。
今回は城とは全然無関係のことを書きます。
もう7月のことになりますが、新潟県立近代美術館で開催されていた「徳川十五代将軍展」を観に行きました。
本展では静岡の久能山東照宮に付属する博物館に奉納されている貴重な宝物が多数展示されます。
ちなみに、久能山東照宮は、「東照大権現」として神格化された徳川家康を祀る全国東照宮の中で、最も創建の古い神社です。家康は1616年に駿府城で亡くなりましたが、遺言により亡骸は遺言によりその日の晩に久能山へ移され、ここに埋葬されました。その後、徳川秀忠の命により久能山東照宮が創建されました。
歴代将軍全員の甲冑が展示されるとの触れ込みでしたので、これは何としても行かねばということで、観に行ってまいりました。


1609年、メキシコへ向かっていたフィリピン総督の船が千葉県沖で難破して海岸に漂着したところ、地元の村人たちが救助し、衣服や食料の世話をしました。
さらにそれを聞いた徳川家康が外交顧問のウィリアム・アダムスを派遣し、色々な便宜を与えて保護することを指示。さらに船まで建造して彼らを送り出しました。
その後、スペイン王から返礼の品々が贈られましたが、その中にこの時計がありました。当時の日本とは時法が異なるため、時計としては使用されなかったようですが、家康はこの時計を気に入り、部屋に飾っていたそうです。
このエピソードは知っていたので、是非本物を拝見したかったんですよね。時計塔をミニチュア化したようなデザインで、細かい装飾も良いです。この時代のスペインは、文化的にもイスラムの影響を結構受けてると思うのですが、上部のドーム型の意匠もそうなのかな?
さて、歴代将軍の甲冑ですが、ずらーっと15人分並んで展示されていました。各々オリジナルの具足が並ぶ一方、家康の歯朶具足(しだぐそく)と瓜二つの具足もいくつかありました。
歯朶具足は、正式には「伊予札黒糸威胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)というそうです。中々こういう名称が覚えられない…。
兜にシダの葉状の前立を施していたことから、通称「歯朶具足」と呼ばれていました。シダの葉は常緑で枯れにくいため、古来より長寿や繁栄の象徴とされており、家康はこの具足を身に着けて関ヶ原の戦いに臨んだと言われています。
そんな縁起の良い歯朶具足なのですが、江戸期には、この具足の模作を歴代将軍が作らせることが慣例となりました。特に3代将軍・家光が久能山の所蔵品を江戸へ移し、以後「具足開き」などの儀礼で具足(あるいはその写し)を飾る習慣が続いたことが記録されています。
ということで、歯朶具足は歴代将軍の人数分あるということです。もちろん、それぞれの将軍の好みにより作らせた具足もあるのですが、例えば7代家継など早逝してしまった将軍については、歯朶具足しか残るものがなかったのでしょうね。
謎が解けたところで、早く金陀美具足を見たいなと思い、順路を進んでいったところ出口に着いてしまいました。あんな金ピカの具足を見落とすなんてあるかな?と会場内を行ったり来たりするも、見当たらず。
それで係の方に尋ねてみたのですが、「今は展示していません」とのこと。よくよく聞くと、本展は前期と後期に分かれていて、前期は歯朶具足を、後期は金陀美具足を展示するのだそうです…。
彦根城を発った後、押し損ねていた小谷城のスタンプを押し、佐柿国吉城へ。もう昼過ぎだけど、少しは城址を散策する時間はありそう。
佐柿国吉城は、1556年に若狭国守護・若狭武田氏が、越前方面からの侵攻に備えて築いたと伝わっています。若狭国の東の入り口を抑える要害として築かれ、小浜湾方面から若狭の内陸部に入る交通・防衛の要衝に位置します。現代では原発が有名な美浜町にあたります。
若狭武田氏について知識不足でしたので、ここでちょっと整理します。まず、武田氏のはじまりについてですが、鎌倉時代のころ清和源氏の一族が甲斐国に勢力を持ち、武田氏の祖となりました。
その後、南北朝動乱で活躍した武田信武の子・氏信が安芸国守護となり、安芸武田氏が成立。この段階で、甲斐武田氏から分かれることとなります。
さらに、安芸武田氏4代の武田信繁の嫡男・信栄が、室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて一色義貫を誅殺。その功績により若狭守護職を与えられました。ここから若狭武田氏が始まることとなります。
時系列でまとめると、甲斐武田氏の庶流として安芸武田氏が成立 → 安芸武田氏の庶流として若狭武田氏が成立、という流れになります。
さて、若狭国吉城歴史資料館に着きました。この資料館は元々別の場所にあった大庄屋屋敷(旧田辺半太夫家住宅)で、明治維新後に移築されたものだそうです。スタンプものこで押すことができます。
「難攻不落」ののぼりがあちこちに立っています。若狭武田氏の重臣・粟屋勝久は、幾度となく襲来する越前朝倉氏をこの城に立て籠もって迎え撃ち、一度も落城することはありませんでした。


戦国時代の典型的な山城で、山上の尾根筋に沿って曲輪が築かれています。ただ、それはいわゆる詰城で、普段生活する居館は麓に設けられていました。
私は時間がないので、今回は麓の居館跡の周辺だけを見て帰りたいと思います。




前回の記事の続きです。
西の丸から黒門へ向かって搦手筋の道を下っていきます。













日本100名城 15/100
続日本100名城 18/100
さて、いよいよ本丸です。
本丸にはかつて立派な御殿も建っていましたが、残念ながら明治時代に取り壊されています。したがって、太鼓門櫓をくぐるとすぐにこの天守が目に飛び込んできます。
三層三階地下一階の複合式望楼型の天守です。大津城の五重四階の天守を減築転用したと言われています。













これから黒門へ下り、玄宮園に向かおうと思います。














彦根城は、徳川四天王の1人・井伊直政の子で、第2代彦根藩主・直継の時代に天下普請によって築かれました。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西国大名に対する抑えとして、東海道・中山道の要衝に強力な拠点を築く必要がありました。琵琶湖東岸の彦根は、大坂に通じる街道を抑えられる位置にあり、譜代筆頭である井伊氏に任せるのは理にかなっていました。
関ヶ原から大坂の陣までの約15年、徳川にとっての最大の脅威は豊臣政権の残存勢力でした。そのため彦根城は「徳川方の前線基地」として、できるだけ早く、しかも見栄え・防御力ともに優れた城を築かなければならなかったのです。
そのために採られた方法が、積極的な移築活用です。大津城、佐和山城、長浜城などの近隣の城から、「まだ新しく立派な建物」を次々が転用されました。このことにより工期を大幅に短縮できました。
そんな「寄せ集め」の彦根城ですが、全く寄せ集めに見えないのがこの城の素晴らしいところです。彦根城は徳川の威信をかけた要塞であったため、縄張りの設計は一から練り直され、移築物はその中に巧みに取り込まれました。結果として、強く、美しい城に仕上がったのです。
その歴史的・芸術的価値の高さが評価されており、特に天守は国宝にも指定されています。城巡りをしている方には釈迦に説法となりますが、現存天守は全国に12基、その中でも国宝指定されているのは彦根城を含めてわずかに5基しかありません。
そんな彦根城に今回初めて訪れるとあって、私のテンションはMAXです。
まずは、縄張りを再確認します。下図は、彦根市のHPより拝借した「御城内御絵図」です。
彦根城は南北に長い尾根を整地して、曲輪を連ねた連郭式の平山城です。当初は籠城戦を想定し、御殿も山上に構えられました。山上には南から「太鼓丸」「本丸」「西の丸」を一直線上に配置しており、それらを最後の砦とするために、太鼓丸の前面と、西の丸の前面に巨大な堀切を設けて遮断線としています。
また堀切の前面には「鐘の丸」「出曲輪」と呼ばれる曲輪が築かれ、馬出としています。

















小谷城の訪問を終えて麓まで降りてきましたが、資料館の開館まで1時間半もある。明日は仕事なので、今日中に高速をぶっ飛ばして新潟に帰らなければならない。そんな状況で「残り時間をどう使おうか…」というのが前回の記事の終わりでした。
福井県では佐柿国吉城だけが未訪なので、そこは帰り道ついでにどうしても寄りたい。そう考えた上で、まず浮かんだのが下の2案です。
①1時間半ここで待って小谷城のスタンプ押印 ⇒ 佐柿国吉城訪問 ⇒ 帰路
②40分南下して鎌刃城訪問 ⇒ 小谷城に戻りスタンプ ⇒ 佐柿国吉城訪問 ⇒ 帰路
ところが、鎌刃城のアイデアが出たら、さらにその先が見えてしまった。…そう、彦根城が。
国宝5天守のうちの一つ、彦根城。どうしても行きたい。
と、頭の中はすでに彦根城に支配されてしまいましたが、スケジュール的にはかなり無理がある。それでも色々考えた末に採用したのが、次の案③です。
③鎌刃城はスタンプのみ ⇒ 彦根城訪問 ⇒ 小谷城に戻りスタンプ ⇒ 佐柿国吉城訪問 ⇒ 帰路
鎌刃城には申し訳ないですが、今回はスタンプ押印のみとしました。ということで、いざ鎌刃城へ。
さて、鎌刃城は、標高約384mの山頂に築かれた山城で、琵琶湖の東岸に近く、北国街道と中山道が分岐する交通の要衝を押さえる位置にありました。築城時期は不明ですが、南北朝〜室町時代には既に存在していたと考えられています。現在は国の史跡に指定され、縄張りがよく残る城跡として評価されています。
戦国時代には、国人領主の堀秀村が城主でした。秀村は浅井氏に属し、小谷城の南の守りを担っていましたが、1570年の姉川の戦いの際に、木下秀吉の家臣竹中重治の調略を受け、織田方に寝返ります。この裏切りによって、織田軍は戦線を有利に進めることができ、浅井氏にとっては大きな痛手となりました。
ところが、近江平定後、堀秀村は織田信長から改易を命じられます。越前一向一揆との戦いで家臣が不始末をしたことが直接的な理由ですが、「用が済んだらポイ」という印象は拭えません。鎌刃城もこの頃には廃城となったようです。
ちなみにこの堀秀村は、美濃出身で信長・秀吉に仕えた堀秀政の一族ではなく、血縁関係は確認されていません。(名前に同じ「秀」の字を持つので紛らわしいですが)
さて、鎌刃城の駐車場らしき場所に到着すると、数人の方が案内をしていました。
「え、鎌刃城ってそんなにホットなの?」と思ったら、今日は講師を招いて現地案内を行う「鎌刃城まつり」というイベントの日だったようです。
案内のおじさんに「迷うといけないから参加者の後に付いていったら?」と勧められたのですが、皆さんは半日かけてじっくり散策するスケジュール。時間に追われる私はやむなく断念しました。
スタンプは、「Cafe&Gallery源右衛門」でゲット。周辺マップ(下図)を手に入れたところ、林道で城址付近まで行けるようですが、マップには「ワイルドな林道・通行注意!」「落石注意!」と書いてあるので、無理はしないことにしました。(この林道の情報があったら知りたいです)



次はいよいよ国宝・彦根城へ向かいます。
小谷城の記事の後編です。




大広間の北側には高さ4mの石垣が残っています。この石垣の上に本丸があります。






小谷城は、比高100m以上の山上に浅井氏が築いた、典型的な山城です。







