まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録- -3ページ目

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城を中心とした訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 前回の記事の続きです。いよいよ城郭の中に入ってきました。 

 
 現地の案内板と同じ平面図が敦賀市のホームページにありましたので拝借しました。山城初心者なので、こういったものがないとよく分かりません。


 南虎口。虎口の両側が土塁になっています。



 大手郭と書いてありますが、平面図の「①郭1」のことと思われます。前線の陣地という位置付けのようでした。

 兵が集まれるほどの広さがあります。


 この大手郭は奥の方が狭くなっており、敵が攻め込んできた場合には、次の郭に続く虎口の前で渋滞するように造られているようです。

 空堀。この先が東虎口となり、虎口郭に繋がっていきます。

 東虎口

 虎口郭。出撃拠点と書いてあります。



 本丸南側の虎口。両側が深い空堀になっていて、中央が土橋になっています。攻め入ろうとすれば、左右の土塁上から一斉に攻撃されそうです。


 土橋の上からみた空堀です。奥の方に見える平地部が腰郭


 城の中心部にある本丸(平面図では「④主郭」の表示)です。勝家はこの廓に滞在していたのでしょう。一角には櫓台とされる盛土が残ります。

 写真は櫓台から見た本丸。周囲が土塁になっていることが分かります。余談ですが、Googleマップを見る限り、写真の左半分が滋賀県、右半分が福井県に入るみたい。


 櫓台には、実際に天守に相当する櫓などの建物が建っていたと思われます。これは建物の礎石


 本丸北側の馬出。写真に収め損ねたのですが、ここで野生の鹿に会いました。(熊じゃなくて良かった…)


 馬出の先には搦手廓があります。本丸と同等の広さがある大きな廓で、兵站基地とされています。



 張出廓。本丸の東側の防御と物見の役割を担っていました。


 本丸と張出廓の南側にある腰廓。本丸南東の防御と、各郭を連結する廓です。


 玄蕃尾城そのものは戦場となることなく放棄されたため、遺構が良好に残されています。昨年訪れた古宮城の複雑怪奇な縄張りと比べると、シンプルかつ機能的な縄張りでした。

 ただ、写真を撮るのが上手くないため、後で見返した際にこれは何だったっけとなりがち。これからは山城の遺構を上手に撮る研究もしていきたいです。


 さて、誰ともすれ違うことなく林道を降りてきたところで、まだ午前6時。自宅の新潟市からはどんどん遠ざかっていきますが、近江浅井氏の本拠地である小谷城までは車で約30分。これはもう行くしかない、ということで次は小谷城へまいります。


日本100名城  13/100

続日本100名城 17/100



 昨夜は敦賀港沿いに整備された金ヶ崎緑地で車中泊をしました。周辺には赤レンガ倉庫などもあり、港町らしい雰囲気が漂っています。


 そして、戦国時代に造詣の深い方なら「金ヶ崎」という地名を聞けば、「金ヶ崎の退き口」を思い浮かべるでしょう。近くの城跡も見たいところですが、今回は100名城を優先するためパスします。


 早朝4時半に起床し、目を覚ますために海を眺めてみると、「釣り禁止」の看板の近くで堂々と釣りをするおじさんの姿が。

 ここからだと海ではなく山に囲まれた湖のように見えます。湾の多い福井ならではの風景ですね。

 ところで、こんなに朝早い時間から活動しているのは、本日訪問する玄蕃尾城にできるだけ早く到着したかったからです。事前の調べによると、玄蕃尾城の駐車場へは山中の林道を通る必要があり、その道は車同士がすれ違うのが難しいほど狭いらしい。運転に自信のない私としては、誰とも出会わない時間帯に行って戻ってきたい。

 敦賀市街からは滋賀方面へ国道8号線を進み、途中で国道を外れて県道140号へ入ります。

 数分走ると、柳ヶ瀬トンネルが現れ、その手前を左折します。玄蕃尾城を示す看板が設置されています。
 ちなみに、柳ヶ瀬トンネルは1車線の交互通行で、車幅ギリギリ。心霊スポットとしても知られており、色々な意味で怖いトンネルですが、本題ではないので割愛します。


 件の林道に入り、2キロ程進みます。この写真のあたりはまだよいのですが、このカーブの先は道幅がさらに狭くなり、片側は谷になっている場所もあります。まだ午前5時なので降りてくる車はいないと思いますが…。


 なんとか駐車場に付きました。車が数台止められる程度の広さしかありませんが、奥の方にはトイレとスタンプボックスがあり、スタンプのほか御城印もいただくことができます。



 こんな山道を登山気分で登ります。

 しばらくすると、分岐点の看板が見えてきます。看板がなければそのまま真っすぐ進んでしまいそうな場所ですが、ここから左折して急勾配の道を登っていきます。

 さて、玄蕃尾城は、1583年の「賤ケ岳の戦い」において、羽柴秀吉と戦った柴田勝家が本陣を置いた城です。

 越前と近江を結ぶ柳ヶ瀬越を見下ろす位置にあり、ここを抑えることで秀吉の北陸侵攻ルートを遮断できます。地図を見ても分かるように、現在の福井県と滋賀県の県境に位置しています。

 玄蕃尾城は、各郭の機能分化や配置、馬出の完成度などから、織豊系山城の最高水準と評価されています。しかし、戦局が不利になると、勝家はこの城を放棄し北ノ庄へ敗走しています。
 山城である玄蕃尾城は防御力に優れる反面、いったん籠城すれば補給路が絶たれ、長期戦に耐えるのは難しい構造でした。また、同盟者であったはずの前田利家が戦いの最中に秀吉へ寝返るなど、勝家陣営の結束が揺らいでおり、補給路の確保には自信がなかった可能性もあります。
 また、秀吉の人的資源を考えれば、玄蕃尾城を通らずとも若狭や美濃を迂回して越前に攻め入ることもできたと思われます。その意味で、この城の戦略的価値には限界があったといえるでしょう。

 先ほどの分岐点を過ぎてさらに進むと、尾根に沿って真っすぐの削平地に変わります。さらに歩みを進めると、玄蕃尾城の案内板が現れます。どうやらこの辺りからが城内のようです。

 今回も写真が多くなりましたので、続きは後編に記載します。

 関ケ原の戦い後に越前に入った徳川家康の次男・結城秀康は、1601年から柴田勝家が築いた北庄城の改修に着手。6年の歳月をかけて、福井城を築きました。本丸、二の丸の縄張りを担当したのは、父である家康だったという説もあります。
 築城当時は四層五階の天守が建っていましたが、大火で焼失。現在では地元産の笏谷石で築かれた立派な石垣や本丸堀などが残っています。

 福井城のスタンプ設置場所はなんと福井県庁。
城跡が官庁街になっている例は多いですが、福井県庁は城の中心たる本丸御殿跡に建っています。県庁が空いているのは、平日8:30~17:15。ただし、閉庁時にはインターホンで守衛さんにお願いしてスタンプを押させてもらえます。既に18時を過ぎていたので迷惑にならないかなと心配しつつインターホンを押したところ、何も言わずとも守衛さんがスタンプを持って出てきてくださいました。

 いったん本丸の外に出て、内堀をパシャリ。内堀であるにもかかわらず、30mほどの幅があります。

 堀にかけられている橋を渡ると、本丸の大手門である瓦御門跡。石垣の向こうに見えるビルは、右手が福井県庁、左手が福井県警本部です。

 瓦御門付近は切込接・布積みの石垣。横目がそろった美しい石垣です。

 雁木(石垣に上るための石段)。

 結城秀康の石像。秀康の母は、於古茶(おこちゃ)という人ですが、元々は徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、秀康を身ごもりました。ただ、築山殿が於古茶を家康の妾とすることを承認しなかったため、城外に出されることになりました。秀康は後に豊臣秀吉の養子になり、さらに結城晴朝の養女と結婚し、婿養子として結城氏を継ぎました。

 左が天守台、右が小天守台(控え天守台)です。

 天守は天守台の北半分に建っていたそうです。

 天守台の礎石。

 天守台の向かいにある小天守台(控え天守台)の一部は、1948年に起きた福井地震で一部が崩壊しています。


 天守台のそばには「福井」の語源由来となったといわれる福の井という井戸が残っています。1624年、三代藩主・松平忠昌の時、北ノ庄の「北」の字が敗北につながり不吉であるとし、福居に改められ、その後、この井戸にちなみ福井になったのだとか。


 天守台を下ると、御廊下橋山里口御門(やまざとぐちごもん)があります。これも福井城の重要なポイントです。廊下橋とは、多くが藩主専用の橋で、橋の両側に塀を建てるか、あるいは柱を立て屋根を付けた橋でした。この御廊下橋は、築城400年を記念して、2008年に復元されました。

 本丸の西側を守る山里口御門。松平春嶽などの藩主の住居であった御座所が西の丸にあった時代には、藩主は御廊下橋を渡り、山里口御門を通って、本丸に向かったと考えられています。こちらは2017年に復元されました。
 分かりにくいですが、棟門と櫓門の2つからなっており、その間はちっちゃな桝形になっています。

 屋根などには笏谷石が使われています。この石のブルーグレーっぽい色が好きです。濡れるともっと青みがかってみえるみたいですが。

 巻き巻きになってしまった城もありましたが、なんとか一日で6城訪問することができました。
 この後、敦賀に向かい、翌朝に玄播尾城、さらに佐柿国吉城、可能ならば滋賀県入りし、できるだけ多くの城に足を延ばしたい。
 そして600㎞の道のりをたどって自宅のある新潟市へ。明日も相当ハードなスケジュールになりそうです。


日本100名城  13/100
続日本100名城 16/100

 一乗谷朝倉氏遺跡の後編です。
 朝倉館の入口には唐門が建てられています。この門は、朝倉義景の菩提を弔う為に、豊臣秀吉が松雲院の山門として寄進されたもので、現在はこの朝倉館跡の入口に移築されています。手前の堀には鯉が泳いでいます。

 朝倉館は、西側の山辺を除く三方に土塁を造らせたつくりで、内側の平坦部には、5代当主の朝倉義景が日常生活をする常御殿や接客対応をする主殿など、10数棟の建物が立ち並んでいました。

 建物の礎石が均等間隔で並んでいます。

 今年3月には、礎石などの遺構を保護しながら鑑賞できるガラス張りの施設が完成し、遺構の上を歩くことができるようになりました。

 一乗谷には、室町時代末期の庭園の様式をよく伝える多くの庭園があります。特別名勝に4つの庭園が指定されています。
 
 これは朝倉館跡庭園。池の底には、平らな石が美しく敷き詰められており、池の護岸は、出入りが多く、大小さまざまな庭石で構成されています。館の迎賓会館として整備され、武家の権威を示す場であったと考えられます。
 
  唐門を入って右手には、最後の当主である朝倉義景の墓所があります。1573年、織田信長との戦いに敗れ、最期は自刃しました。


 4つの庭園の中でも諏訪館跡庭園は一乗谷で最も規模が大きいです。義景の正室(浅井長政の姉)が暮らしたと伝わる館に併設されています。


 湯殿跡庭園。名前のとおり、入浴施設が付随していたとされます。庭園の多くが朝倉館跡を見下ろす高台にあるのは、借景による美観効果を狙ったものと考えられます。

 朝倉館の裏手側は土塁で段々になっており、土塁には石垣が配されています。

 朝倉氏の拠点を一乗谷に移した朝倉孝景の墓所。少し登っていったところにあります。孝景の法名から、ここは英林塚と呼ばれています。

 詰城である一乗谷城へはここから登っていけるようですが、もう夕方なので私は諦めました。
 イノシシ対策用の電気柵と熊出没注意の看板がセットになっており、なかなか物々しい。

 出入りする際はフックを開閉してください、という主旨のことが書いてあったと思われますが、色褪せて肝心な部分が読めなくなっています。

 一乗谷城は、唐門の奥に見える山の山頂に築かれていました。

日本100名城  13/100

続日本100名城 15/100

 越前大野城を発ったのが16時近く。朝倉氏遺跡のある一乗谷までは車で約30分。スタンプ設置場所である「復元町並」「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」はいずれも16時30分までに入場しなければならないが、なんとか滑り込めそう。どちらかを選ぶとなると復元町並が見たいのでそちらを目指します。
 ここでスタンプを押すことができれば、この後、福井城経由で今日中に敦賀市まで移動することができ、次の目的地である玄蕃尾城を翌日朝一で見ることができます。
 一方、間に合わなければ明日改めて一乗谷を訪れ、その後に敦賀方面に向かうことになるので、かなりタイムロスになります。
 明日中には高速を走らせて新潟に帰らなければならないので、今日一乗谷を訪問することができれば、明日は小谷城や彦根城への訪問も可能になりそうです。そういった意味で、ここのスケジュールは大きな分水嶺でした。

 一乗谷は、福井市の東方に位置する細長い谷に築かれています。両側を谷に挟まれ、入り口は狭くなっており、外敵が大軍で攻め入るのは容易ではありません。山の上には朝倉氏の詰め城が複数配置されており、谷全体が一種の要塞都市として機能していました。
 また、北陸道の本線からはやや外れるものの、越前府中(現在の武生方面)や若狭・近江方面への道に通じており、都(京都)との結びつきも確保できました。朝倉氏は京文化の受容に熱心であり、朝倉氏はここを「北陸の小京都」と呼ばれるほどの城下町に発展させました。

 一乗谷は、戦国大名が拠点とした都市の中で発掘調査が最も進んだ例で、館跡・町並・庭園などがセットで確認できる極めて貴重な遺跡といえます。織田信長による焼き討ちで一度に灰燼に帰したため、かえって当時の姿がそのまま地中に残ったといわれます。

 さて、時間ギリギリの16時25分頃になんとか復元町並に到着しました。入口で無事スタンプをゲットし、町並を見てまわります。



 往時にタイムスリップしたかのような雰囲気です。一乗谷には当時、京都のような整然とした町並みがあったことが確認されており、武家屋敷や町屋からなる町並みが約200mにわたって復原されています。

 一部の建物は立入可能になっており、当時の人々の暮らしを窺い知ることができるような展示がなされています。遺跡からは将棋の駒が出土しており、現在の将棋には無くなってしまった「酔象(すいぞう)」という駒が見つかっています。


 これは紺屋ですね。染料の瓶が並んでいます。


 至るところに井戸の跡が残っています。ほぼすべての建物に井戸があったようです。


 これは再現されたものですが、城下町の遺構では厠(トイレ)の跡も多く確認されています。


 各屋敷地には石や板で固めた排水溝が敷設されていました。上水と下水をある程度分ける工夫もされていたようです。

 一乗谷の中央には一乗谷川が南北に流れています。この川は町の中を流れる生活用水や排水路としての役割を果たしていました。



 町並の次は、朝倉館跡に向かいますが、長くなったため後編に続きます。

 越前大野城は、織田信長より越前一向一揆を平定した際の恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が、大野盆地の中央にある亀山に城郭を築いたのが始まりです。


 大野盆地は周囲を山々に囲まれた天然の要害であり、北陸と美濃・飛騨を結ぶ交通の要衝にあたります。このため、越前国内の統治拠点であると同時に、外敵の侵入を監視・防御するのに適した立地でした。

 その後城主はたびたび代わりましたが、1682年に土井利房が入封して以降は、廃藩まで土井氏が城主を務めました。


 亀山は標高249mあるので、天守にたどりつくまではちょっとしたハイキングを要します。私はたまたま最初に見つけた西登り口から登城しましたが、北か南側から登った方が見どころがあったなと後になってちょっと後悔しました。

 山の中腹に土井利忠の像があります。この人は江戸後期の藩主ですが、傾いた藩の財政の立て直しのほか、藩校「明倫館」を開設するなど人材育成にも注力しました。



 本丸の手前に薬医門形式の門があります。ただこれは元々は城下にあった武家屋敷門を移築した門のようです。


 門をくぐると天守が見えてきます。


 初代の城主である金森長近の像です。はじめは可近と名乗っていましたが、後に織田信長から一字を受け、長近と改めました。
 長近は禅宗と茶道に造詣が深かったそうで、この像も刀を携えてはいるものの、なんだか茶人っぽい感じがしますね。



 天守は1775年に発生した火事で焼失しており、現在の天守は、絵図や同時代の城を参考に再建された鉄筋コンクリート構造の復興天守です。


 石垣は野面積みです。

 
 天守台からの眺望。


 城下には大野藩士の武家屋敷があったり、お城近くにある「光明寺」に二の丸正門が移設されていたりと、周辺にも色々見どころがありそうなのですが、この時点で15時半過ぎ。次に向かう一乗谷朝倉氏遺跡には、16時半までにたどり着かないとスタンプが押せなそうなので、ここは少し巻き巻きになってしまいました。

 いよいよ朝倉氏の本拠、一乗谷に向かいます。


日本100名城  12/100
続日本100名城 15/100

 丸岡城は、北陸地方で唯一の現存天守が残る城です。

 1576年、北陸方面軍司令官に任命されていた柴田勝家の養子である柴田勝豊により築城されました。当初は、柴田氏の本拠であった北ノ庄城の支城としての位置付けであったようです。
 その後、1613年に入城した本多成重によって改修が行われ、この時代に現存する天守が創建されたと考えられています。
 廃藩置県後は、天守を除く建物などの設備は次々と破却され、天守も売却されかけましたが、「最古の天守」という文献を元に、当時の丸岡町により買い戻されました。(近年の調査で、寛永年間(1624-1643)に築かれた可能性が高く、最古の天守ではないことが判明)
 1948年に発生した福井地震により天守は倒壊してしまいましたが、倒壊以前の部材を70%以上使用した天守が再建されました。

 2層3階独立式望楼型天守です。天守は天守台を含めて22メートルの高さがあります。下見板張り、望楼型の天守で、最上階には廻縁が設けられています。

 天守台の石垣は野面積み。四隅の部分も角石が成形されておらず、しっかりとした算木積みにはなっていません。転用石が使われている箇所もあるようですが、よく分かりませんでした。

 入り口がある東面以外には、出窓形式の石落としが設けられています。

 丸岡城天守の特徴の一つでもある腰庇(こしびさし)です。天守は土台の石垣よりひと回り小さく作られており、この構造だと、石垣と天守の間に隙間ができて、雨水が入ってきてしまいます。そのため腰庇で隙間を埋めて、雨水の浸入を防止していました。

 内部1階の壁には格子の突き上げ窓や鉄砲・矢を放つ狭間が設けられています。

 天守1階内部。外観からは2階建てに見えますが、内部は3階建て。1階と2・3階の間に通し柱がないため、1階が2・3階を支える構造となっています。

 破風から見た石瓦です。この地方で産出する笏谷石(しゃくだにいし)で作った瓦が葺かれています。現存12天守で瓦が石製なのは、丸岡城だけです。
 大量の雪の重みに耐える強度があります。

 天守3階内部。風がよく抜けます。


  この城の別名が「霞ヶ城」といわれる所以がこの井戸にあるそうです。


 100名城のスタンプは入場券券売所の脇で押せます。

 現在は重要文化財に指定されている丸岡城天守ですが、坂井市では国宝化を目指しているようです。2010年代の調査で、「最古の天守」が否定されているため、国宝を狙うには別の角度での知見が必要そうです。

 この城は、あちこち歩き回らずに済んだので体力を温存できました。この日は一日で金沢城→鳥越城→丸岡城→越前大野城→一乗谷城→福井城の6城を巡る超強行スケジュール。

 次は、越前大野城に向かいます。

日本100名城  12/100
続日本100名城 14/100
 鳥越城は、1573年頃、白山麓で本願寺門徒たちが一向一揆勢力の拠点として築いたと考えられています。加賀では本願寺門徒による自治政権が約100年にわたり続いており、鳥越城はその終盤に築かれた防衛拠点でした。
 一揆勢力は織田信長に最後まで抵抗しましたが、1582年3月、織田家家臣の佐久間盛政に攻められ落城しました。

 ガイダンス施設である鳥越一向一揆歴史館にやってきました。続100名城のスタンプはここで押すことができます。


 ところで、下調べ不足の私は全く知らなかったのですが、鳥越城は2022年の豪雨災害で遺構と林道が崩壊したために、もう3年もの間、立入を禁止されているのですね。
 歴史館でその事実を知り、ショックを受けながら現地に近づいてみると、「通行止め」の看板が置かれていました。なお、私がここを訪れた2週間後には立入禁止が解除され、現在は本丸まで入れるようになったようです。(なんというタイミングの悪さ)
 仕方ないので歴史館を見て回ることに。


 歴史観の中には、出土品や模型図が展示されているほか、映像ビデオなども流れており、鳥越城の一通りの歴史を勉強することができます。





 城が見れなかったのは残念。またいつか訪れる機会を探したいと思います。
 次は、福井県に向かい、現存十二天守の一つである丸岡城に向かいます。

日本100名城  11/100
続日本100名城 14/100

 金沢城の記事の後編です。


 二の丸の正門にあたる橋爪門。2006年に復元されました。内堀に架かる橋を渡り、門に入ります。この橋の先も桝形になっており、石川門や河北門と同様に、桝形の奥にある二ノ門が櫓門(写真右手)となっています。



 橋爪橋より内堀。


 橋爪門の桝形内の石垣。この門に限らず、金沢城では赤と青のカラフルな石垣が多くみられます。いずれも、金沢城の近隣にある戸室山で採れる戸室石という安山岩です。溶岩が冷えるときの条件で、赤や青に変色します。これらの石が色とりどりに配されており、他の城にはない華やかさがあります。


 門の内部の床には戸室石が敷かれています。二の丸御殿に近い、最も格式が高い門であることをうかがわせます。敷石が斜めに敷かれているのも洒落ています。


 この場所に二の丸御殿が再建されるようです。完成が楽しみです。


 橋爪門を通って左側に進むと、極楽橋が見えます。この橋は、二の丸と本丸の間にある空堀を渡るための橋です。現在の橋は1991年に改修工事が行われたときに架けられたものです。


 三十間長屋。本丸附段にある二層二階の多聞櫓で、石川門と同様に重要文化財に指定されています。1858年の築で、現在の長さは二十六間半です。


 三十間長屋の内部。


 玉泉院丸庭園。歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで存在していた庭園です。饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い庭園だったと考えられています。庭園は明治期に廃絶され、その面影は失われていましたが、5年をかけて実施した発掘調査の成果や、絵図、文献、その他類似事例等に基づき設計を行い、2009年に再現されました。




 鼠多門。金沢城の西側の郭である玉泉院丸に位置し、木橋(鼠多門橋)により接続される金谷出丸からの出入口として利用されていました。
 城内の他の門と同様に、外壁は白漆喰塗りで腰壁は海鼠壁が用いられていますが、海鼠壁の目地が黒漆喰で仕上げられることが、他の門には見られない特徴です。



 本丸の中は雑木林になっています。1583年に金沢城主となった前田利家は金沢城の本格的な築城に着手し、城内の最も標高の高い地点に五層建ての立派な天守閣を構築したと言われています。しかし、五層建ての天守閣は1602年に落雷によって焼失してしまいます。この時には既に徳川家康が権力を掌握していたこともあって、こじんまりとした三階櫓が建造されました。
 その後も、本丸に構築された建物は火災によって何度も焼失を繰り返したことから、城内で最も標高の高い地点は、次第に手つかずのままとなっていったそうです。


本丸の中をぐるっと周ってくると土蔵(鶴丸倉庫)の前に出られます。1848年に竣工した武具土蔵で、石川門・三十間長屋と同様に重要文化財に指定されています。明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていました。
 城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構ですが、2024年元日の能登半島地震で被災し、現在は復旧工事が進められています。


 金沢城は、明治から昭和にかけて陸軍の所管となっていました。こちらはその時代の遺構で、弾薬庫に通じるトンネルです。この辺りの石垣も地震で被災したのか、崩れかけています。


 駆け足で見たつもりですが、見どころがあり過ぎて思ったより時間を費やしてしまいました。
 祭りが始まる前に金沢を出発し、次の目的地である鳥越城に向かいます。

日本100名城      11/100
続日本100名城  13/100












 金沢城は、犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、梯郭式の平山城です。加賀藩主前田氏の居城として有名な城であり、城址を含む一帯は金沢城公園として整備されています。

 戦後は金沢大学の丸の内キャンパスとして利用されていましたが、石川県では1996年に金沢大学跡地の用地を取得後、城の復元整備に取り組んでいます。2001年の菱櫓五十間長屋に始まり、直近では2020年に鼠多門鼠多門橋の完成に至るまで、史実に則した復元ラッシュが進んでいます。現在、復元整備の総仕上げである二の丸御殿の復元に着手しており、完成が待ち望まれます。


 駐車場から近い石川門から入城します。立派過ぎて正門感がありますがこの門は搦手門(裏門)です。この石川門は、後で説明する河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれており、そのうちこの石川門だけが江戸時代の遺構をそのままに残しています。



 石川門の一ノ門です。この城では海鼠壁が多用されています。瓦の継ぎ目の白い漆喰部分がなまこっぽいから海鼠壁といいますが、火災に強いほか保温性・保湿性にも優れています。海鼠壁は、私の地元の最寄り城である新発田城にもありますが、こちらでは使われている面積が半端ない。



門の向かって左側の石川櫓には、凝ったデザインの出窓に唐破風。裏門にこの装飾。美意識の高さがうかがえます。



 石川門の桝形。正面側は切込接、左側が打込接で積まれています。金沢城は何度も大火に見舞われており、改修した時期によって積み方が異なります。




 刻印石が多いのも、この城の石垣の特徴です。



 石川門の二の門にあたる櫓門。



 石川門を抜けると広々とした三の丸広場の向こうに五十間長屋が見えます。なんとこの日は年に一度の「金沢百万石まつり」が行われるらしく、三の丸広場でイベントの準備が進められています。この後、北乃きいさん、石原良純さんたちがここに来るようですが、私は先の予定もあるので、早めに金沢城を脱出することにします。



 去年岡崎城で見た「グレート家康公「葵」武将隊」の方達です。外様である前田家の監視に来られたのかもしれません。出張お疲れ様です。



 こちらは、実質的な城内への正門となる河北門です。現存する絵図や古写真、文献などをもとに2010年に復元されました。15年以上前に金沢城を訪れた際は、ここは確か工事中でした。



 河北門の桝形内にある土塀。一見普通の壁に見えますが、内部には隠し石垣が積まれており、その外側が漆喰壁で仕上げられています。城正面の防御と美観の両方に配慮したつくりとなっています。



 河北門の二ノ門の外側からの写真です。手前が一ノ門。右手側にはニラミ櫓台が見えます。宝暦大火前は、このニラミ櫓台の位置に二層の櫓があったと言われていますが、安永元年に再建された河北門では、出窓付きの土塀によるものとなり、これが復元されています。大手筋に睨みを利かせる監視台の役割をしていました。

 さらに奥には二の丸菱櫓も見えます。



 ニラミ櫓台の下からの写真です。下の堀部分は野面積み、櫓台の出窓の下は打込接、隅石付近が切込接となっており、石垣の歴史がここに集約されているようです。



 大手門と搦手門(石川門)を見張る物見櫓として使われていた二の丸菱櫓



 二の丸菱櫓と奥に見える橋爪門続櫓を繋いでいる五十間長屋。金沢城の象徴的な建物ですが、当時は主に武器倉庫として利用されていました。



 五十間長屋の三の丸側の窓は、死角ができないように1、2階で互い違いにずらして造られています。



 長くなったので、後半は別記事に分けます。