防犯タイムズ -32ページ目

石原元都知事の証人出廷

画像に映る石原さんを見ていると、数年前に亡くなった父親を思い出します。

歩き方、話し方

全てが親父そのものです。

根にある、頑固さもそのまま

何か、親父に逢いたくなりました。

人はどう見ているのかな?

事件の取材でよく現場に行きます。

その時にレポーターの方が、容疑者の人となりを聞くために

「○○容疑者はどんな人でしたか?」

と質問をすると、その人によっていろいろな感想が聞かれます。

時として

「いやぁ 見かけた時には気さくに声を掛けて来て、感じの良い方でした。」

「挨拶しても無表情で、言葉を交わしたことがありません。」

「大変子煩悩な方で、いつも手をつないで歩いていました。」

などなど

これを自分に置き換えて、「自分は人にどう見られているのだろう?」などと考えたことありませんか?

そこで、自分を客観的に見て、自分がどのように見られているかを考えてみました。

私の場合

住んでいるご近所さんが答えた場合

「○○さんは、結構家にいるようですが、人の出入りは見ません。」

「挨拶をすると、見た目は厳ついですが、愛想よく挨拶を返してくれます。」

「時々、道路で木刀を使って素振りをしている姿を見かけましたが、ちょっと近づきがたいイメージでしたね。」

「時々、インターフォンの音が聞こえるのですが、ドア越しに『どなた?』と大きな声で返しているのが聞こえました。」

「時々早朝に、迎えの車が来ることがあったりして、最初は何をしている人かな?と思っていました。」

じぁ近所の飲食店では

「目つきが悪くて、普通の人には見えませんでした。関わりたくない感じの人ですね。」

「いつも、上から目電で話してきて、でも、時々、大きな声で騒いで周りの人を楽しくしていました。」

「話し方は穏やかですが、結構きついですね。」

なんて言われるんじゃないかなと考えています。

このように見られている可能性があるので、自分自身、言動に気を付けていこうと考えています。

人の目を気にし過ぎることは決して良いとは思いませんが、ある程度自分を見直してみることは必要な緒ではないでしょうか?

歪みはどうやって発生するの

子供は生まれて来る時に、何を考えて生まれて来るのだろう。

政治家の子供が

「よし!立派な政治家になるぞ」と

反社会勢力の構成員の子供が

「立派な組長になるぞ」

と生まれて来るのだろうか。

そんなことはない!

正直、殆どいやすべての子供が何も考えずに生まれて来る。

その子供が、一歳二歳となるうちに育ててくれている人々を見て、自分の置かれている環境を感じるようになり、自分の周りの人々を観察し、誰が教えるわけでもないのに、自分の立場を考えてしまう。

両親が、いつもケンカをしていれば攻撃的になり、ホンワカしていればそれなりに。

この攻撃も一概に悪いとは言えず、正義感に変わることもある。

その様に、自我が目覚めたころの子供との接し方が、その後の子供を左右すると言ってもよいのではないでしょうか。

子供自身が見てきたことに対する矯正が必要となり、その矯正を誤るとそれが歪みとなってしまう。

自分が子供のころ、悪いことをすると

「先生に言いますよ」

「おまわりさんに連れて行ってもらうよ」

等を言われたことがあり、その言葉で親の言うことを聞くようになりました。

でも、今そんなことを言っても、全く通じません。

それは、例に挙げた、先生にしても警察官にしても、威厳がなくなってしまっているのは事実であり、それぞれがしっかりとしなければならないのも事実です。

聖職と呼ばれていた人々も、考え方の矯正は必要だと思いますが、以前こんなことを経験しました。

私が警察官だったころ、大きな警備で警戒中、通りかかった親子の会話で子供が「お巡りさんがいっぱいいるけど、何してるの?」と父親に聞くとその父親が、「お巡りさん、暇なんだろ」

と驚きの回答。

その子供にとって、親の言葉を信じたら、警察官に対する考えが、世の中の治安を護っている、というより暇なおじさんたち、となってしまい、歪んでしまうかもしれません。

大人の何気ない言葉や行動で、子供の歪みを矯正できる場合もあれば、間違った方向に向けてしまうこともあります。

本日はこの辺で