正面の壁の向こう側を左方向に歩いて行くと、飫肥城の門がありました。門をくぐると整然と植えられた杉の木がありました。木の下には柔らかそうな緑の苔が敷き詰められており、木漏れ日が所々漏れていました。素敵な場所だと思い、絵にしてみました。手前の木は黒っぽくし、遠くにある木は薄くして遠近感を出しました。

佐伯市のシンボルのひとつ「豊後二見ヶ浦」。初日の出スポットとして人気の場所です。夫婦岩を結ぶ大しめ縄は、長さ約65m、重さ約2トン、最大直径約75cmで、1994年にはギネスブックに掲載されました。大しめ縄は毎年12月第2日曜日に、地元の有志の手で張り替えられます。夕焼けの豊後二見ヶ浦を描きました。奇妙な空ですが、私独特な表現です。薄黄色で描いた空は光るように表現しました。
真木大堂の本尊である阿弥陀如来は西方浄土の主尊であり、極楽へ導いてくれる仏とされています。仏像が作られた平安時代は日本全土に末法思想が広がり、中央の有力貴族たちをはじめ人々は極楽に行けるようにと願い、信仰の対象として各地で阿弥陀如来が作られました。像高216cm。丈六の坐像で檜(ひのき)材の寄木造り。左手を膝に置き右手を肘から曲げた来迎印(らいごういん)をとっています。彩色は前面に布張りの下地を施し、肉身に漆箔、螺髪に群青、衣に朱色がみとめられます。現在も随所に金箔の跡が確認できます。彫りが浅く、流麗な衣文(えもん)には11世紀後半の定朝様式がみとめられますが、肩幅広く厚みある体躯、やや面長できりりと結んだ唇などには定朝以前の古い様式もみられます。仏像を描くに当たり、水色の部分を光らせました。そして、仏像の頭を白く縁取りすることで、後光(仏像の後ろの追盾)とくっついてなく、離れている事を強調させました。

質感を重んじて描きました。コップ・皿は陶器らしく、サジは金属らしく、テーブルは木目を描くことで木目模様のテーブルらしく表現しました。

国宝・十一面観音菩薩立像の像高は259センチ。
ヒノキ材の一木造、内刳りを施し、背板をあて、漆箔仕上げ。量感のある体躯、動感を強調する衣文の表現に比べ、顔の表情は穏やかな感じ。鎌倉時代に著された仏教史書「元亨釈書」によれば、「天暦5年、京都に疫病が流行し死者が相次いだ。空也上人はこれを憐れみ、自ら十一面大悲像を刻み祈り、像が完成したころ疫病の流行は止んだ。洛東において人々は勧進し、一寺を創建した。六波羅蜜寺と称し、この十一面観音菩薩立像を安置した」。この像は銅で作られているので、廻りの建物の色が映り込み、美しいな像に仕上げることが出来た。

松尾大社は大宝元年(701)に建立された社で、酒づくりの神様として有名。境内に足を入れると目を引く山のように積まれた酒樽は、各地の酒造業者が奉納したもの。亀の井とよばれる湧き水を元水に加え酒を醸造すれば腐らないという言い伝えがある。4月下旬には楼門から本殿の間の一ノ井川沿いなど境内一円に3,000本もの山吹が咲き誇ります。




長岡市の棚田について紹介します。山古志村の棚田は一般的な山里の田んぼに比べて1枚の面積が広いのが特徴だ。いわゆる千枚田のような効率の悪い田んぼは少ない。この辺りは超ブランド米の産地北魚沼郡からも近く、少しでも効率的に米を生産する必要があるのだろう。それでも急峻な山の斜面に造られているのには変わりはない。水面に映る逆さまになった杉の木立は山古志村の典型的な春の風景だ。この絵は田んぼに映る人物が美しいと思いました。そして、杉の木を描き、一本の道を描くことで、背景も締って見える様にしました。

階段の途中に置いているかぼちゃを描きました。かぼちゃはかばちゃらしく詳細に描き、階段は華やかにしました。

2500余年の歴史を持つ、全国に約500社ある「阿蘇神社」の総本社。
社殿群は、天保6年から嘉永3年にかけて、熊本藩の寄進によって再建されたもので、神殿や楼門などの6棟は国重要文化財に指定されています。なかでも楼門は、九州でも最大の規模。「日本三大楼門」の一つに数えられていますが、平成28年熊本地震により楼門や拝殿が倒壊するなど、甚大な被害を受けました。

金谷武家屋敷跡は、当時の武家屋敷は残っていませんが、土塀や白壁が残されており中津城・城下町の面影が見て取れます。また、ここから歩いて5分ほどのむろや醤油屋の周辺にも、情緒あふれる古い町並みが続いています。
この絵は遠近感を出すために遠くを薄く、1点透視図技法を用いて描いています。