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平成十五年十月号
 
 
 
心を開く
 
☆ 「大宇宙は大神体なるがゆえに この現象会も神体なり 神体なるがゆえに 大神殿なるべし」この大宇宙が大神体、つまり神の御姿であり、その中には目に見えないエネルギーが充満していますから、大神霊ともいえます。宇宙を一秒の狂いなしに動かしている見えない力、このエネルギー、これこそまことの神であると知った時、たとえ無神論者であったとしても認めざるを得ないはずです。「私は神を信じません」と、この世に神様はいないという方がありますが、神を受け入れることのできない人は、自分から神をお断りしているのですから、迷わざるを得ません。
 迷いの第三号は執着を持つ人です。執着を持つと、自分の心がそこにとどまります。
 第四号は心に砂袋を持つ人です。
 この砂を軽くしないと、死んでから絶対に上にはあがれません。重いものが上にあがるはずがないのは自然の法則です。閻魔さんが瑠璃玻璃鏡と釘抜きとを持ってきて「おまえは何をしたか、嘘をついたらこの鏡にみな映る」と言われ、もし嘘をついたら舌を抜かれるという話がありますが、あれは嘘です。自分が拵えて、自分が迷い、自分が過ちを犯して、自分の心を重くして、重いから沈んだだけのことで、閻魔さんなどいるはずがありません。軽い人は軽いがゆえに浮き上がっていくだけです。
 
 変な仏教の中には、七、七、四十九の間、親戚縁者が集うて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と拝んだら、地獄に行っている人に届いて、閻魔さんから勲一等を許されて、良いところにいけるとか、七回拝んでもらったら、もう少し良いところにいけるとか教えているのがありますが、これも真っ赤な嘘です。そんなことがあるはずがありません。お坊さんには怒られますが、神理は曲げることはできません。
 お坊さんがなんとおっしゃろうと、神父さんがなんとおっしゃろうと、関係ありません。神理はただ一つです。私の口を通して語っていただくことは神の声です。お坊さんが反対しても神様は正しいのですからどうしようもありません。間違っていたらだめです。「お金を上げなさい」とよくいう宗教があります。まとめて上げさせるのやら、少しずつ絶えず上げさせるのやら、いろいろあります。しかし、神様は一銭もお受けになりません。神の御手には一銭も届きません。このイエス様の写真の前に一万円を置いて「イエス様どうぞこの一万円を使ってください」とお願いしましても、いつまでたってもなくなることはありません。イエス様がポッと手を出されて、一万円を取られたら本当ですが、そんな神様は見たことがありません。
 神の世界ではお金は必要とされないのです。「神様に上げなさい」と言って、ある宗教では入会と同時に袋を渡されまして、その袋の中には、さらにお金をあげる袋が五つはいっているそうです。玉串料、感謝料、お守り料と、みんなそれぞれを入れて持っていくようになっているのですね。そのお金は、いったいどなたが使ってくれるのかといいますと、頭に毛の生えた者たちです。お坊さんは頭に毛はありませんが、あれは剃っているだけです。そういう方がみなお使いになります。世の中にはいろいろな間違ったことがあって良いのです。
 人はその方その方の魂の段階に応じて、その人が修行する場所として与えられております。私たちの正しい法に縁をいただける方は、いかに得難いかということです。得難いご縁によってこうしてともに学ばせていただきます。正しき教えに巡り会い、ご縁をいただくのは「片目の亀」のたとえよりもなお難しいのです。今、日本は一億二千万からの人口です。私たちが巡り会えるのは本当に一部の方たちとです。一億何千万人のうちから何千人としかご縁がありません。ほんとうに、穴のあいた丸棒に盲目の亀が首をつっこむよりもなお難しいことです。
 しかし、これは皆様が一人ひとり縁のある方に伝えてもらったら、やがて誤った信仰から救われる方もたくさん出てくれることと思います。ありがたいことに、今こうして話したことをテープに録音してもらっています。私は著作権の侵害などとはいっさいいいません。各自持ってかえってもらって、各自がダビングをいて、各自がほかの方にあげてもらったらいいのです。そうすれば、どんどん広がっていきます。
 現在、日本全国に私のテープが回っているようです。沖縄はもちろん、北海道でも縁ある方に聴いていただいております。私は自分の心の中で、日本中にこんなに急激に知ってもらうということは、これっぽっちも考えたことはありません。ただ下座にあって、岸和田の磯上の一隅で縁ある方が何人か集まり、この一隅さえ照らさせてもらったらいいと思って、高橋信次先生が亡くなられて以後、ずっとお話会を続けてきました。それが次第に各地から「来てくれ」と言って招いていただくようになり、去年の八月から爆発的に全国に広がったのです。
 しかも、皆さんは正しい教えを求めておられます。高橋信次先生が亡くなられた後は、皆様ばらばらになって苦しんでおられました。その指導者たる方が自分の知と意を持って、自分なりの教えを説こうとされますが、先生からはずれた教えをされて、教えに背くから、縁ある方々が苦しまなくてはいけなくなります。昨年の八月以来東京の方で、先生に縁のあった組織の方が一度に二百人まとまって脱会されまして、私の方にご縁ができました。その後また百人ほど脱会されたそうです。ごそごそ抜けてこられましたら、これはえらいことです。まあいわば商売敵となります。
 「あいつは私の信者さんを取ってしまった」と言って怒っておられますね。また、九州の方で、高橋信次先生の教えを伝えていた会員さんたちが、櫛の歯がぽろぽろ欠けるように抜けて、私のところにたくさんの方のご縁ができました。先日、九州の方からの電話によりますとどんどん抜けてこられるので、「あの長尾という奴は高橋信次先生に破門された者だから、あんな奴の言うことを聞いてはいかんと、講演のテープの中で話しております」というのです。そういうテープが回っているのだそうです。しかし、私は破門されるほど立派な人間ではありませんでした。破門されるというと、相当偉くなければそのようなことにはなりません。私は何十万人の会員さんのごく下っ端のひとりでしたから、先生は私という者がいるということもご存じなかったでしょう。
 ご存命中はどこに誰がいると言うことは、いくら先生でもお分かりではなかったでしょう。先生の目にもとめてもらえなかった存在の私ですから、そんな者が破門されるはずがありませんね。その私のことを九州ではそのように言っておられるそうです。電話をくださった方たちは、「私たちが防波堤となって、そういうものを防いでまいりますから、どうぞ先生がんばってください」と連絡してくださいました。しかし、私は防波堤も何もいりません。それは、私には一切の望むものがないからです。名前を売りたいとか、このことでうまく金儲けをしたいとか、全員から金を集めて記念館を建てたいとか、自分の地位を得たいとかいう、望みは何もありません。
 私にあるのは、縁によってひとりでも多くの方が幸せになってくれたらいい、苦しい方が救われてくれたらいい、病気が治ってくれたらいい、と言う願いの何ものもありません。欲のないもの、望むものの何もない者に、どのようなものがのしかかってきても、かかる場所がないはずです。もし欲があれば、「これはえらいことだ、これを取られてれはいかん、何とか防衛しなくてはいかん」と、防波堤を作りもします。   しかし、私にはそんなものはいりません。欲しければ皆さんに全部差し上げます。このように来てもらっても私には何の儲けにもならないのですから、いっそ皆さんからクビにしてもらいましたら、私はどんなにか楽になれるのにと思っています。そういう思いの者に、いくら悪口を言ってくれましても、いっこうに通じません。
 しかし、組織を自分の生活の糧にしておられる方にとっては、何とかして自分を守らなければ食べていけませんからね。宗教家は宗教で飯を食っております。そういう人はすべて自己保存の心が湧きます。それは、食べられなくなるから当然のことです。食べるために組織を大事にしなければいけないし、金を上げてくれる人を大事にします。
 私は神理の実をいっぱい実らせた一本の大樹になりたいと思っています。この実を食べたら不老長寿です。死んでも死にません。それは死んで極楽の世界に帰れるからです。このような素晴らしい実をいっぱいならせて、すべての生きとし生けるものの栄養にさせていただきたいというのが私の望む理想です。そのようにならせていただきたいと常に心がけております。
 この世は自分が生きるのに精一杯でヒイヒイ言いながら自分のために生きておられる方々も多いですね。しかし、自分よりも人様のために生きてみてください。ご主人のために、奥様のために、両親のために、子供たちのために自分を犠牲にして生きるのです。そのとき、与えられます。愛するがゆえに愛されます。与えるがゆえに与えられるのです。与えない者には誰も与えてはくれません。
 させていただくから、していただけます。してやってはいけません。これは徳をみな人にやってしまいます。「こうしてあげる」「私はあの人に、こうしてあげた」というのは、みな徳を人にあげているのです。「私はさせていただいた」と言う心がけの時、その徳は自分がいただけるのです。
 だから「許させていただく」のです。ひとはつい、「してやった、してやった」と言います。場所によって言い方が違うのですけど、南の方のある島へ行きますと、借りてきたお金を返しに来て「これ、やるわ」と言っています。普通ならば「自分が借りていて、これをやるとはおまえなんということを言うのか」と叱られるところです。「やる」と言う言葉はいけません。この場合は、「返させていただきます」と言うべきです。
 用事をするときも同じことで、「私がさせていただきます」「どうぞ私にさせてください」これならば徳がいただけます。「私がしてあげます」では、徳をやってしまいますから、どうか皆さんは徳がいただけるように行動して欲しいと思いますね。
                    「心行の解説」講演集上より



引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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※当記事のみ一部編集あり
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平成十五年九月号
 
 
 
心を開く
 
☆「地球は 小さな細胞体なることを知るべし」(先月よりつづき)
 今日は雨が降っていますから、いくらお日様がみたいと思っても雲で見えません。 しかし、雲の上へジェット機で上がりますと、お日様はカンカンと照っておられます。 下の雲を見ると、眩しいようですが、下界からは雲に遮られてお日様は見えません。 この雲こそ、五官からでた欲望であり煩悩です。それは自分の心から出した雲であって、この雲によって神の光が遮られるのです。
 今日は北海道からお見えになっていますが、二日前の金曜日から来ておられます。 この方はある信仰を持っておられて、「その信仰は正しくありません」と、説明させて頂いたのです。
最初は、本当にショックを受けて御られたそうです。その信仰で何かを見て頂こうと思うと、二十万円のお金がいるのですね。しかも予約の人が一杯で、何年も先でないと見てもらえないと言うのです。それだけ苦しい方がこの世の中 には多いと言うことです。藁にもすがりたい、何とか助かりたいと思うのですね。見て下さる方というのは、あたかも自分が光の天使であるかのように、たくさんの本も出しておられます。しかし、欲望が雲であれば、神理から見ますと、一人ひとりから二十万円も巻き上げて、一体何に使うというのですか。或いは大神殿を建てる為といっても、その大神殿は又金を巻き上げる人のよる場所で、だだ欲望以外の何者でもありません。
 この欲望は自らの心からでている、また行いからでている雲であり、スモッグです。今日のお天気のように雲の上ではお日様がさんさんと輝いておられますが、雲やスモッグによってお日様の光を仰ぐことは出来ないのです。どれほど良いことを言いましても、どれほどたくさんの立派な本を出しましても、行いが欲望の雲を出しておりましたら、神の光は届きません。届くはずがないのですね。その欲望を捨てたとき、「そんなに苦しい病気なら、お金は良いですよ。困っておられるのならば無償でよろしい。神様は私たちを生きさせて下さるのだから、お金など持ってくる必要はありません」と、言えるはずです。
 私はそのようにさせて頂いております。「あの方は生活が苦しいのです」と、前もって電話を頂きましたら、「ああ結構です」と言って来て頂いております。人は恵まれないときがあって当たり前です。その恵まれないときに助け合いをしてこそ、神の子としての兄弟同士、どなたこなたの関係はありません。「別にお金を持ってきて頂く必要はありません。ただ治って頂いたらそれでいいのです。」と、そのようにお話をして治療に来て頂いております。
 それに引き比べ何十万というお金を取って、聞くところのよりますと、それでも治らないそうです。「治らないからお金を返せ」と言われたときに困るので、前もって「一切苦情は言わない、お金の返却を要求しない」という趣旨のものに印鑑を押すようになっているそうです。こういう信仰もあるのです。
 本当の神様の信仰とは遠く離れていると私は思います。私はそのようなことはしません。先日も、おばあちゃんが一生懸命内職をなさって、お金が貯まったらまた私の所に連れてきて貰うと言いますから、「おばあちゃん、そんなに内職しなくても結構です。今度の治療費はこれを使って下さい」と、内緒で渡して使ってもらいました。 本当に困っておられる方であれば、自分に余裕があるなら差し上げて使って貰ったらいいのです。
 これが神の子としての生き方です。差別をしない、まして人に罰を当てないことです。「あんな悪い奴」と心に思うのも罰ですね。思うだけならまだいいけれど、心の中で行動を起こす人がいます。心の中で「あんな悪い奴はしんでしまったらいい」 と、自分にとって都合が悪いと、人に罰を当てようとしますが、これはとんでもないことです。
私たちはすべてのかたを許させて貰わなくてはいけません。人を責めることは、許していない証拠ですね。「許しとは愛である」と説かれますが、「許し」とは、自分自身が許されることを知らねばなりません。しかも憎さの大きい人、許せない気持ちが強い人を許すほど、怒り、憎しみの苦しみから自分の心が許される度合いが大きいも のです。
 神様は私たちに「忘却」という愛をお与えになっています。忘れ去っていきます。
過ぎ去った過去の出来事は時間と共に薄らぎます。しかし、何かの縁に触れますと、その時の苦しみがそのまま再現してきます。自分にとって憎い人や、辛い目に遭わされた人を思い出したり、また、その人のことを話に聞いたり、その人の姿を見たりすると、 そのままかつての苦しみが心の中に再現してくるのですね。
 完全に許していれば、そういう人と出会っても、もう自分の心は苦しみませんが、 許さない限り、自分の心が苦しみから許されないのです。人を憎んで腹を立てている自分の姿は哀れです。そして、自分の心が苦しんでおります。この苦しみから救われ るために、許させて頂くことを実践することです。いつまでも憎んでいたら、あなた自身の心が苦しいです。その苦しみは神が嘆かれます。
 「ああ、私のいとし子よ、そなたはなぜ自らを苦しめるのか、幸せになれ」
と言われます。自らを苦しめてはいけません。どのようなことがあっても自らを苦しめないように努力をすべきですね。
 そのためには、許させて頂くことです。そうすれば必ず幸せになれます。そして極楽に帰れます。
 このように、大いなる神の慈愛の中に私たちは生きさせて頂いていることを自覚することが第一で、そして次に、自分が行うことです。
 
 「当体の細胞なるがゆえに 細胞に意識有り」  この世の中の一番小さな単位であるミクロの世界、原子の世界に入っても、ちゃんと大宇宙の循環とまったく同じ循環が行われています。これが、当体の細胞なるが故に細胞に意識があるということですね
 
 「かくのごとく 万物すべて生命にして エネルギーの塊なることを悟るべし」
 万世万物すべては、原子の世界に入っても活動しているということです。その活動こそが生命、いのちです。大宇宙は大生命であり、ミクロの世界の原子の世界もまた生命によって動いています。エネルギーによって動いています。この私たちも同じことで、この肉体から生命が消えたときは、もう一個の腐りゆく物質でしかありません。 何日かの間には腐ってきます。大宇宙を動かしいる命も、私たちを動かしているこの命も、まったく同じ命が宿っているのです。このことが、神と私たちが同質同根だと いうことなのであり、しかも、これはすべてエネルギーです。高橋信次先生はこの様に話されました。
 「マッチ棒一本ほどの水素を完全にエネルギーに換えると、それは巨大な電気が何百年も働くほどのエネルギーに相当する」と。すべてはエネルギー、命であることを知って下さい。
                  長尾 弘先生著「心行の解説」講演集上より
       
 

☆ 法句経(ダンマパダ)
 
○ 「つとめはげむのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境地である。
   つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである」
 
○ 「愚かな者は、生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。
   匙(さじ)が汁の味を知ることが出来ないように」
 
○ 「その報いは、私には来ないであろうと思って善を軽んずるな。
   水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされる。
   気をつけているひとは、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて幸福に満たされる」
 
○ 「人はみずから深く思い、量を知って食(じき)をとるべし、
   さすれば苦しみ少なく老いゆることおそく、いのちながからん」
 
○ 「他人(ひと)の邪曲(よこしま)を観るなかれ、他人のこれを作(な)し、
   かれの何を作さざるを観るなかれただおのれの何を作し、何を作さざりしを想うべし」
 
○ 「言葉のいかりをまもりて、ことばをつつむべし、言うべかざるを棄てて、言うべきをいうべし」
 


引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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~ 道 ~
 
 
平成一五年七月号
 
 
心を開く
 
 
 
☆ 「心行」の本文より
 先々週より私の体験を通して「心行」の説明をさせてもらっております。私の解説は他の先生とは少し違うと思いますが、その方その方の段階に応じて理解して頂いたら良いかと思っております。
 初回に大宇宙の大きさについて話させてもらいましたが、私たちの住むこの地球が太陽系の中にあることは当然のことでございます。この太陽系は九つの惑星と三万数千個の小惑星とによって成り立っているそうです。私たちは地球という宇宙船に共に乗り込んで、いかにこの地球を調和させるかと修行している宇宙船の一乗組員です。
 
  「地球は 小さな細胞体なることを知るべし」
 今のところ、太陽系ではこの地球にしか人間は住めないそうですね。今、与えられているこの太陽系の中の地球、その太陽系の中の日本という、本当に恵まれた環境の中に、私たちは生命を与えられていると言うことを考えますと、誠に有難いことです。地球上において、今、何秒かに一人の割で餓死されているような地域もあります。そういうところには少しでも愛の手をさしのべて、少しでもその方達が幸せになって頂けるようにしたいものです。同じ地球の乗組員であり、同じ兄弟です。神様の目から見ましたら、同じ神の御子としての兄弟姉妹です。この大きな地球から見ますと、私たちが「あの人は嫌いだ」とか、「あの人は憎たらしい」とか言っている事がいかに小さな事か、一度この大きな宇宙に目を向けてみて下さい。思い悩み、煩っていることが、いかにとるに足らないことかがよく分かります。いかも、この大宇宙の全ての惑星は法則に従って、意識有るが如くに動いております。
 「大宇宙・大自然界に意識有り」と表現して頂いておりますね。誰が地球を回しているのでもない、では勝手に回っているのかというと
勝手に回っているにしては、余りにも秩序整然として回っております。
 千分の一秒の狂いもなしにこの大きな地球を決まった時間に、決まった場所にちゃんと動かすことは不可能です。しかも地球だけでなくて、銀河系宇宙も、島宇宙も、大宇宙も全てが循環の法則に従って動いています。目に見ることは出来ませんが、この動かしている巨大エネルギー、この意識こそを、大いなる神と申し上げております。
 キリスト教的には「父なる神」です。この力は、全宇宙の中にたった一つしかありません。一つの力を持って全宇宙は動かされています。この本当の神様の意識を、私たち一人ひとりがこの胸の内に頂いているのです。太平洋の水が神様としたら、その一滴一滴の水が私たちです。くみ上げた一滴の水は、太平洋の水と何ら変わり有りません。それと同じように、その大きい神様とまったく同質同根の意識が、私たちの中に与えられています。これを神なる我、「神我」とも言っておりますね。
 
  千分の一秒の狂いもなしにこの大きな地球を決まった時間に、決まった場所にちゃんと動かすことは不可能です。しかも地球だけではなくて、銀河系宇宙も、島宇宙も、大宇宙も全てが循環の法則に従って動いています。目に見ることは出来ませんが、この動かしている巨大なエネルギー、この意識こそを、大いなる神と申し上げております。キリスト教的には「父なる神」です。この力は、全宇宙の中にたった一つしかありません。一つの力を持って全宇宙が動かされています。この本当の神の意識を、私たち一人ひとりがこの胸の内に頂いているのです。太平洋のみずが神様としましたら、その一滴一滴の水が私たちです。汲み上げた一滴の水は、太平洋の水と何ら変わりはありません。それと同じように、その大きい神様とまったく同質同根の意識が、私たちの中に与えられています。これを神なる我、「神我」とも言っておりますね。まことの我、神なる我こそ大宇宙を動かしている大意識と同じものであると言うことを知ることです。その時私たちは全てが神の子であるとが分かります。自分がそれに目覚めましたら、皆さんが神の子です。そのことをお伝えすることです。
 親鸞上人の浄土真宗では、「心の中を開いてずっと奥底をのぞいたら、ご本尊は鬼だった。阿弥陀様におすがりして一念申さば、ありのままに鬼は鬼のままで念仏申さば救われる」と説いています。しかし、その鬼のもっと奥底に入った時、神の御心がちゃんとましますのです。それが私たちの実相です。
 自分がまず「神の御子である」と知ることです。そこで、私たちは何をしなければならないかというと、神の御子として恥ずかしくない生き方をすることです。神のも心をまず理解させて貰い、神様は私たちをこの様に思って下さる。それならば私たちもその真似をさせて貰わなくては行けないと、自分が一つでも二つでも神様の思いを行ったとき、神の御子として目覚めてきます。そのことを強く自覚しますと、常識では考えられないことが起きてきます。
 なぜ起きてくるのかというと、神自身を体験しているからです。先月の「道」の中にも書いて頂きましたが、治療の時、股関節などは「倒れなさい」と言いましたら、足は外側にみなパタッと倒れます。胃はいっぺんに軽くなります。この様に細胞意識に命令を下すことが出来ます。これは自ら神の子であることを自覚したときに、このようなことが可能になるのです。神は慈悲と愛です。
 神の御心は常に私たちに「心を苦しめては行けない」と、注がれています。
 この神の御心を私ははっきり知りました。それによって不安、恐怖などそれらの一切のものから救われました。神様は何をしてもお叱りになりません。何をしても罰をお当てになりません。ただ愛を与え給うのみです。こんな有難い神様を自分が知らせて貰ったと言うことは、もちろん「法」のおかげです。
 日本の中でも、昔から差別がありました。しかし神様の目から見ましたら、これは神に背く行為だったのですね。すべては平等です。自分がさせていただいても、報酬を求めることなく、ただ、させて頂くことです。一切の求める心を持たないで、たださせていただくのが神の御心です。ですから私たちも、たださせていて頂く行為を、最も身近な隣人に行わなくては行けません。
 
 親であり、夫婦であり、子供であり、またご近所の方であり、職場にあっては上司同僚であり、こういう方々こそ私たちの隣人であり、この方達を大切にしなくてはいけません。「隣人を愛せよ」と言う言葉の意味を取り違えて、自分の家はほったらかしにして、よその家を愛しに歩いている人がいます。聖書にそんなことは書いてありません。隣人と隣家は違います。隣人とは自分のすぐ隣にいる人です。ご主人が帰ってきても、家には鍵をかけて 奥さんがよその家を歩き回っていれば、ご主人は機嫌が悪いです。鍵を自分で開けて家にはいると腹が立つから、そこらのものを投げつけます。奥さんは伝道だと言って一生懸命よその家を歩き回っているとは、とても愚かなことです。
 
 お釈迦様は「盲が盲の手を引いて共に穴に落ちる」と言われました。目の見えない者 が目の見えない人の手を引いて歩いたときは、共に穴に落ちる危険性があることを戒 めておられます。
自分の家庭がひっくり返っていて、主人は気に入らないから怒ってそこらの者を投げつけて暴力をふるう、障子は破れ、ガラスは割れている、顔を見れば怒鳴り合いをする、これはこの世の地獄です。自分が地獄に住んでいながら、人を救うとは何事ですか。まず自分自身が救われなくては行けません。そして「私はこんなに幸せでございます。それは、この教えを自分が実践したから、このような幸せを頂きました。あなたもいかがですか、私のように生きて貰ったら、私のように幸せになれますよ」と言って、お勧めしたら正しい伝道、正しい布教になります。
 誤った信仰は「ただ信じなさい。分かっても分からなくても信じたら救われます」と言いますがこれはいけません。まず疑問を持つことです。高橋信次先生は常にそうおっしゃいました。私も常にそうお願いしています。私に対して徹底的に疑問追求して下さい。そして私の言うこと、行っていることに、どこか間違いはないか、どこかに間違いを犯していないかを、徹底的に疑問追求して頂いて、もし間違いが無かったら、信じて頂いたらいいのです。間違いがありましたら教えて下さい。もし間違いで有れば正すよう努力をいたします。
 我々凡夫は「私は偉い」「私は悟った」と思ったとき、すでに増長慢に捉らわれています。増長慢は心の中の悪魔です。この肉体の五官の眼・耳・鼻・舌・身に捉らわれたとき、神の心に逆らった偽我の心が芽生えてきます。偽我の思いとは肉体から出て来る者で、良いものが食べたい、楽がしたい、少しでも良い格好がしたい、人よりもよく思って貰いたい、こういう偽我の思いに捉らわれた時、悪魔の心が起こります。誤った信仰は、「神様は広大無辺だから、いくらでも無理を頼んだらいい、たくさん無理を頼みなさい」と教えますが、そんな無理なことは与えて下さいません。私たちは全てを与えられています。自分に受け入れ態勢が出来ていないから与えられているものが入ってこないのです。
 神様は全てを与え給います。そして「無理な頼みはしないでくれ」と言われます。九月に続きます。
                長尾弘先生著「心行の解説」講演集上より
        


引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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~ 道 ~ 
 
 
 
平成十五年六月号
 
 
 
    天
心を開く
 
☆  「大宇宙体は意識の当体にして 意識の中心は心なり」
 この当体とは、人間で言えば身体です。そして支配しているのは心です。当体は見えない意識によって支配されています。大宇宙体は意識が物質化して現れたものです。私たちの心の現れがこの肉体ですから、大宇宙もそれを動かしている意識の現れが当体、大宇宙体です。
 私たちのこの肉体も、肉体がすべてだと思って生きてきましたが、そうではありません。この肉体はいつの日かこの世に置いて帰らなければならない一時の借り物です。どんなに偉い方でも、どんなに欲深い人でも、この肉体を自分のものにすることは出来ない無情なるものです。常にない存在がこの肉体です。本当に自分のものであるならば、「私は歳はとりたくない」と思えば、歳はとっていかないはずです。私の場合「早くこの白髪は消えなさい」と言えば消えなくてはいけないはずですが、これは年と共に避けることは出来ません。
 「心」こそ私たちを動かしてくれるエネルギー、根本ですね。目に見えない力です。宇宙として形が現れていますが、この宇宙を動かしているのは目に見えない働きによるのであり、しかもその意識の中心は「心」です。すべての行動の決定権は「心」です。肉体は心の決定によって動きます。私たちが何をするにもまず「心」が動き、そして心によって肉体が行動を起こしてきます。心の中で思いますと、良いことであれ
悪いことであれ、心が動くと言うことは、これは現実に、潜在的に行動に移っていることです。
 悪いことを思っても、これは見えない悪い行動です。実際に肉体が動けば見える行動になります。
 陽と陰です。思うことぐらいなら人に迷惑かけるわけでもなし、人に分かるわけでもなし、何を思っても構わないはずだと思うのですが、これが怖ろしいのです。
 思った時、それはすでにもう心の中で潜在的に行ったことになります。
ですから高橋信次先生は「思いを、想念を正しなさい」と説かれました。
 「心は慈悲と愛の塊にして 当体・意識は不二なることを悟るべし」
 自然界の太陽の姿一つを見せてもらいましても、太陽はまさに慈悲と愛の塊です。しかも肉体と私たちの目に見ることの出来ない心、また大宇宙と大宇宙を動かしている目に見えないエネルギー、これは不二一体、つまり二つであって一つです。当体と意識は一つであることを知りなさいとは、私たちの肉体も心があってこそ肉体が動くのであり、大宇宙体もそれと同じように大意識によって動いていると言うことが説かれています。この大宇宙を動かしているのは、目に見えない大意識です。
 
 「この大意識こそ大宇宙大神霊・仏なるべし」
 私たちは禅定の時、「今日一日、自分の心はどうであったか」と、振り返りますが、その第一の項目として「この大宇宙を支配し、この地上界の万世万物をはぐくむ大自然の力、この力を誠の神と申し上げております。このまことの神に心から感謝することができたか、心の底から大宇宙大神霊に感謝できたか」と、まずこのことを振り返っています。これが神の子の目覚めの第一歩だと思います。
 
 「神仏なるがゆえに 当体は大神体なり」
大神体であり、大神霊であり、また神仏である故に、意識そのものが神仏であれば、現れた当体、つまり物質化した大宇宙の姿そのものも巨大なエネルギーが動かしているのであり、このエネルギーこそが神です。この小さい私たちを見ましても、現れた当体、つまり肉体は神の神殿です。肉体こそ、人の手を持って造ることの出来ない神が、自然が造り給うた神殿です。
私たちの肉体こそ「神の宮」です。
 この巨大な大宇宙そのものは大神体です。
 「神様にお詣りするにはどこそこへ行かなければいけない」とか、「神様の便所を掃除したらうまいこといくのや」とか言いますが、この地球そのものが神のご神体です。それなのに定められた場所へ行かなくては神様はおられないということなどあるはずがありません。どこへ行きましても神の慈愛は満ち満ちております。たとへトイレの中であっても、生まれたままの姿でいるお風呂のなかであっても、神の慈愛は満たされています。ですから、ある特定の場所にしか神様はおられないというのは間違っておりますね。
 正法を学び、正法の大神殿を説きながら、信者さんには正神殿と称するものを、高額な金で頒けている方がありますが、これはおかしなことです。
 地球がご神体であり、しかも神殿です。ドッジボールほどの大きさの地球儀を持ってきて下さい。おそらく日本は小指の大きさもないはずです。このドッジボールが神のご神体としましたら、日本という小指にも足りない国の、しかも何県の何市という場所はもう針の先で突くようなものです。そんなところだけに神様がおられるはずがありません。地球はすべて神様の慈愛に満たされております。私の周りも神の慈愛に満ち満ちております。神を理解させてもらい、私たちの心の中にも同じ神様の意識がいて下さることを自覚し、強い信念を持ってそれを信じたらいいのです。その時、神の力が現れます。
何十年も苦しんでおられた方が、わずか二、三分で救われる場合がたくさんあります。病気の種類にもよりますけれど、ただ「治りなさい」と言えば、治って下さいます。
 それには神を自ら自覚させて頂くことです。そのためには神様の存在、神の御心をよく知ることですね。我が内にもその神様とまったく同じ神の分け御霊が宿り給うことを知ることです。その時、神様は私たちを通してその御業を現し給います。さもないと、そういうことが起きるはずがありません。
 
 「この現象界における太陽系は 大宇宙体の小さな諸器官のひとつにすぎず」
 私たちが住まわせてもらう太陽系をこの様に書いて頂いていますが、実態を言いますともっと小さいのです。人間の肉体を見ますと、各器官がありますね。心臓があり、胃があり、肝臓があり、胆嚢があります。或いは大腸、小腸があり、それらはすべて細胞に包まれています。大宇宙から見ますと、細胞よりもっと小さいミクロの世界、原子の世界がこの太陽系の存在に当たります。それぐらいの計算になりますから、諸器官は島宇宙に相当します。
銀河系宇宙が細胞で、太陽系は原子の世界です。太陽を中心として九つの惑星がありますが、これは原子核である太陽の周りを回っているマイナス電子の存在ですね。これぐらいの大きさになります。
 
 「地球は 小さな細胞体なることを知るべし」
地球は小さなマイナス因子ぐらいで、原子よりもっと小さい存在です。
 「当体の細胞なるがゆえに 細胞に意識あり」
地球は宇宙の中の一部ですから、その一部にも大宇宙と同じ力が働いています。そして、私たち自身もこの大宇宙を支配している巨大なエネルギーと全く変わらない同質同根のものを、この一人ひとりの生命に頂いているわけです。自ら神の子であることに目覚めること、そして神の子として恥ずかしくないように、神様のご意志をまず理解することができたら、この肉体を持って実践することです。
 私たちよりなお恵まれていない不幸な方のために、何らかのご奉仕をさせてもらうこと、愛の手をさしのべることが神の望まれる御心です。すべてが神のいとし子あること、そのいとし子が苦しんでおれば、神が嘆かれます。その苦しんでいる人を救ったとき、神が喜ばれます。私たちは救われる為に集まっているのではありません。救う為に集まっているのですから、一人でも苦しむ方を助けていきたいと思います。皆さんがその救いの手となっていただけますように、そのための学びの会だと思います。
 
 本当の神のご意志を理解するために、まず太陽を見なさい。そして太陽の心を我が心に頂きなさい。それから太陽の如く生きなさい。自分が太陽の存在となって、太陽が現して下さる姿を、自分がこの肉体を持って、人々に現していく時、自ら神の子の自覚に目覚めることが出来ますね。どうぞ神の子として生きる為に、何回も高橋信次先生のご著書やご講演のテープを聞いて頂いて、良かったら私(長尾弘)の、本やテープも聞いて下さい。
 そして、私もその通りにしたらいいのだと、周りの友達に対して実践していくことです。間違いなしに人は皆神のいとし子ですから、不幸な恵まれない方、苦しんでいる方もすべて神のいとし子です。
 神は愛ゆえ自ら姿を滅せられました。自らの御手をもってお救いになることはありません。そうであれば、神の子の私たちが、キリスト教で言いますように、神の子の兄弟姉妹の方々に愛を注ぐことが大事だと思います。そのように生きていきたいと思います。
長尾先生著「心行の解説」講演集上より
                      


引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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4/9(日)東別院会館にて「心と体の癒しの会」を開催させて頂きます。
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~ 道 ~ 
 
 
平成一五年五月号
 
 
心を開く
 
 
☆「万生万物は広大無辺な大慈悲なり」(先月より続き)
 「心行」の中に書かれていることが、実は聖書の中の言葉と一致するのだそうです。  「イスラエルのダビデの子、ソロモンの箴言」として書かれてあります
 「知恵有る女は家庭を築きます。無知なる女はそれを自分の手でこわします」
 せっかく結構な環境を頂きながら、自分が無知なる故にその家庭を破壊します。
 「神を恐れる人は真っ直ぐに歩くことが出来ません。神を侮る者は道を曲げます」
 正しく生きる基準が分からなくなるのですね。
 「無知なる者の口には放漫の杖、知恵ある人の唇は自分を守ります」
 無知なる人、考えの浅い人は己を誇ったり、己を自慢したり、増長慢になったりします 同じ五官を与えられても、その人に知恵があるかないかによって同じ口が放漫の杖になったり、身を守る武器になってくれたりします。 
 「牛がいなければ」飼葉桶は清潔だが、耕作をもたらすのは牛の力である」
 世の中には、自分の気に入らないことや、社会悪だ、間違いだと言うことはいっぱいあります。しかしそういう間違いがあり、汚いものがあってこそ、自分が過ちを犯さず、正しく生きた時に、汚れに染まることのない蓮の花になることが出来ます。あの蓮の葉はいかに泥水をかけようが載せようが絶対に汚れません。
 幼い頃、蓮池の蓮の葉っぱでよく遊びましたが、どろどろの水をかけても全部玉になって、傾けるとコロコロと転んで、蓮の葉は少しも汚れません。しかしあの泥に汚れることのない蓮の花は、あの泥が有ってこそ咲くことが出来ます。汚い泥がなかったらあの花は咲かせることは出来ません。それと同じ事で、この世の中に罪を作り、過ちを犯し、悪を積む方が有りますが、そういう方が有ってこそ、私たちはそれに汚れない花を咲かせることが出来ます。
 誤った方達を私たちの栄養として、悪に染まらない魂を築くことが大切ですね。
全ての事象は私たちの学びの先生です。そのようにして学んでいきますと、全ては尊い師に変わっていきます。 
 「忠実な商人は欺かない。欺きの発言をする者は嘘つきの商人である」
 人を、友達を欺いてはならない。嘘をつけば必ずばれてきます。ばれるのを繕う為に次の嘘を付かなくてはいけません。またその嘘がばれそうになりますと、それをごまかす次の嘘を考えなくてはなりません。
これはものすごく苦しいことです。私は幼い頃嘘つきでした。この苦しみは体験した者でないと分からないものです。
幼い頃にいやと言うほど体験しまして、「ああ、嘘はつくものではない、とても苦しい」とその恐ろしさをいやというほど知りました。ウソは出来るだけつかないようにしなくてはいけないと悟らせてもらいました。
 「不遜で有れば知恵を求めても得られない。」
 不遜とは増長慢です。「己が偉い」と思ってしまいますと、もう知恵の実を得ることは出来ません。常に謙虚で、常に人の下であると言うことを知ったら、全ての方は学びのお師匠様です。しかし自分が偉いと思ってしまうと、「お前らのような駄目な者の言うことが聞けるか」と言うことになります。増長慢になったとき、いくら知恵を求めても、もう得ることは出来ません。
 「謙虚であれば知恵は容易に得ることが出来る」
 謙虚を売り物にしては行けないと注意されますが、私は一円もお金を頂いておりませんから、謙虚は売っておりません。もし報酬を頂戴して「私は未熟者です。至りません」と言いましたら、これは売ったことになります。しかし私は売り物にはしておりません。ですが、謙虚に生きさせて貰うように努力はしております。
 世の中に「自分が、自分が」と言える人は一人もなく、大いなる神の目から見ましたら、偉ぶることの出来る人は一人もいないはずです。増長慢は神を冒涜する行為です。全知全能全ての知恵を持たれた神から見ましたら、人間の存在などはいかに未熟なものか、いかに至らないものかが分かります。
 
 「愚か者の前から立ち去るがよい。彼に知識有る唇を認めることは出来ない」
 愚か者とは、己が偉いという人です。
 「賢き者はその全てを自らに求め、愚かなる者はその全てを他人に求める」
 賢き者は何事が起きても、どこに原因があったか、私のどこにこの結果を呼んだ原因を作ったかと、常に自らに求めていきます。愚かな者は他人のせいにします。何が起きても「あの人が悪いから私がこうなった」と、他人のせいにします。しかし過ちがあって、fちょうわが起きて苦しむのは自分自身の筈です。人は苦しみません。自分が苦しんでいるのですから、自分に原因があるはずです。それを徹底して追及すべきですね。
  無知なる者は不遜で互いを詰める。正しい人は互いに受け入れる」
 魂の苦しみを知るのは自分の心であり、その喜びについても、自分の心の喜びは他人はあずかり知らないことで、喜びは我が心です。喜びを喜びとして「ああ、有難いなあ」と思えば、それは自分自身の心で、他人はあずからないことです。喜びは自分の心にありますから、全ての者は喜びを見つけるように努力すべきです。
  「浅はかな者は、無知を修行とし、熟慮ある人は知識をその冠とする」
浅はかな者は知らないが故に自分が偉いと錯覚します。よく考える人は自分の知ってい ることを───  ここは「知識」よりも「知恵」に代えた方がより正しいですね────
つまり自分が知識として得たものを行ったとき、神理を掴む事が出来ると言うことです。その時、何者をも恐れることのない絶対の自信を持つことが出来ます。それは自分が知っているからです。いかなる大学者が理論を持って挑んできても、自分が行って結果が現れたものは、何者も曲げることは出来ません。
  「法は実践の中に生命が宿ることを知れ」と「心行」にありますが、つまり良き行いをなすことです。
 
  「大事な友を侮ることは罪である。貧しき人を哀れむことは幸いなり」
 友を低く見たり軽蔑したりするのは大罪を犯したことになります。また貧しい人に優しい心を持ち、愛の実践をさせてもらった時、「ああ、よかった」という良い意味での自己満足があります。自分よりも環境の貧しい人、または肉体の貧しい人に、愛の手をさしのべることです。
  「弱者を虐げるは造り主を嘲ることになる」
 弱い者を虐げることは神を嘲ることになります。造り主とは神様ですね。
  「神様を」尊ぶ人は貧しい人を哀れむ」
 弱い者をいじめたりすることは神に背く行為です。神様を尊ぶことは自分達よりも恵まれていない人々に愛の手をさしのべることで、それが神を尊ぶことになります。
  「神に従う心は思いめぐらして受け答え、神に逆らう口は災いを吐く」
 神様と考えて頂いても良いし、神理に逆らう者と理解しても良いですね。神理に逆らうことは何者といえども出来ません。それは神の心だからです。
  「神は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を整えよ。私の愛し子の民が、道からつまずきとなるものを取り除け」
 この道の妨げとなるものを取り払ってあげなさい。そして土を盛り上げて良き道を造ってあげなさい。聖なる所に住み、打ち砕かれて嫌る霊の人と共にあり。嫌る霊の人に命を得させ、打ち砕かれし人に命を持たせる。私はとこしえに攻める者ではないとこしえに怒りを燃やす者でもない。霊が私の前で弱り果てることがないように私の作った命有る者が・・・・・」
 神様はいつまでも攻められる者ではありません。ただその過ちに目覚めさえすれば許して下さいます。そして永遠に怒りを燃やされる者ではないのです。それは愛故に燃え上がって下さっています。
 
  「神に逆らう者は、撒き上がる海の如き者で、静まることは出来ない。その水は泥や土を巻き上げる。神に逆らう者に平和はないと、私の神は言われる」
 自然に逆らう者は巻き上がる海、つまり竜巻のようで鎮めることは出来ない。その水は泥や土を巻き上げる。自然に逆らう者に平和はないと私の神は言われるというのです。これは聖書の中の言葉らしいですね。少し横道にそれましたが、神理は皆同じ事が説かれています。
            長尾 弘先生薯「心行の解説」講演集上より  



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春友の皆さん、こんにちは♡

最近また東京へ行く機会があり、午前中のみ春活を楽しみましたニコニコ

今回は「僕のいた時間」ロケ地のロイヤルガーデンカフェ青山、そのあとヒット祈願で参拝された日枝神社です。

お写真アップしますね~クローバー



朝8時半に品川駅に到着し、そのままロイヤルガーデンカフェへ。

撮影からだいぶ経っていますが、店内はどうなってるのかな?レイアウト変わってるかな?とワクワクしながら向かいました音譜

(お隣はラスシンのロケ地でしたよね?こちらもまたいつか・・・)









感動のご対面~爆笑
やはりロケ地って実際に訪れると何だか不思議な感じがします!
画面で観るよりも大きいor小さい、広いor狭い、明るいor暗い、みたいな音譜
その作品の世界観になっているからかな?

やはり何でも自分の目で見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れる・・・そのリアルが大事なんだってことが春活を通してより分かってきました。
とても面白い発見ですキラキラ



このあと会食だったので、紅茶のみ頂きました。




オープンして数分過ぎた頃に入店しましたが、拓人とメグが座っていた席にすでに埋まっていましたあせる
その奥に座って、10年前の春馬くんと背中合わせの状態で(笑)のんびり朝カフェを楽しみましたラブラブ






拓人の「会わなきゃいけない人には絶対会えるんじゃない?」と言うセリフ、わたしも本当にそう思います。

わたしも、皆さんも、これから会う予定の人がいます。
「袖すり合うも他生の縁」といった言葉もあるように、色んなご縁によってたくさんの人と出会っていくのです。
相手は、今か今かと心待ちにしてくれているかも知れませんよ~ウインク






次は、日枝神社へ神社




いつも通りご挨拶のみお願い

たくさんの参拝者がいる中、お宮参りのご家族もチラホラいて、小さいベビーちゃんがとっても可愛かった~。
我が子を愛おしそうに抱っこするママ、優しい眼差しで見つめるパパ、ニッコニコのじぃじばぁば・・・愛が溢れていましたおねがい




今回の春活も「幸」でしたラブラブ



あと、最新号のLEEの付録(LeSportsacアンティーク柄Wファスナーポーチ)スーパーの本コーナーで出会い、わたしもGETしましたグッド!



お馬さん🥺💕



何を入れよう?春活するとき専用のコスメやアメニティ入れにしようかな?照れ音譜



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~ 道 ~ 
 
 
平成一五年二月号
 
 
心を開く
☆「心行」の本文より∞「万生万物相互の作用により」
 すべてはお互いに持ちつ持たれつの法則の中に成り立っていると言うことです。太陽系一つを見ましても、地球は自転しています。これが一回転して、人間の決めた二十四時間です。地球の一回転を二十四に割ったのが一時間です。地球は自分で回っていますから、お日様の当たる方はお昼で、裏に回ったときは夜ですね。しかし間違いなしに回転しています。地球は自分で回りながら猛スピードで太陽の周りを回っています。その時速は一時間に二万数千キロといいます。「新幹線は」えらい速くなったなあ、時速二百キロだ」と言ってびっくりしていますけど、地球の飛んでいる速さは時速二万何千キロという猛スピードです。しかし有難いことに地球そのものも、地球を取り巻いてくれている大気も全部一緒に飛んでいますから、私達は何も感じないでおります。もし地球がスピードを緩めますと、たちまちくだけてしまいます。ましてや逆回転などしたら木っ端微塵ですね。地球が回っているその周りをお月様が回ってくれています。他の火星も土星も木星も金星もぜんぶ廻っています。
これは各自が勝手に回っているのとは違って、お互いに目に見えない引力の作用によって廻っています。時計を分解しますと、中には沢山の歯車が入っていますね。この歯車は他の動力によって自分が動くようになっています。また、自分が動くことによって他を動かしています。これとまったく同じ原理で、地球も火星も土星も目に見えない引力という歯車によって、太陽の周りを回っているのです。
地球を含む太陽系とは違う、また別の の太陽系も同じような仕組みで廻っています。それはお互いに作用しながら回っているのですね。ですから、銀河系全体は全て回転を起こし続けており、しかも銀河系の一回転は二百五十万年に一回転ということです。これは偉い学者さんがちゃんと計算されますと、その通りになるそうです。二百五十万年に一回転とは膨大なものですね。まあ、そういうふうに地球がこの世に現れてすでに四十五億年です。私達の生きさせて頂く時間は僅か五十年、百年です。
 この世に生きさせて貰う時間がどれほど短いものかと言うことが分かりますね。銀河系が一回転するうちに、私達は何回生まれ変わらなくてはいけないか計り知れません。二百五十万年です。そのように大宇宙もお互いの相互作用で、持ちつ持たれつの作用によって動かされています。多くの星群を動かしている目に見ることの出来ない偉大な力こそ「神」と申し上げております。
 大宇宙だけでなく、今度は小さく見ていきますと、ミクロの世界、原子の世界がありますね。プラス電子の周りをマイナス電子が一秒の狂いもなしに回っているのであり、そのプラスに対するマイナス電子の数によって、原子が変わるそうです。金や鉛や銅は原子のプラスに対してマイナス電子が何個有るかによって金か銅かに決まるそうです。このようにミクロの世界を見ましても、やはり相互の作用によって動いています。次に、この地上界の姿を見ましても、すべては相互依存の作用によってなりたっています。例えば、空気一つを取り上げてみましても、動物は空気中の酸素を頂いています。この肉体の細胞は新陳代謝するために酸素が必要ですから、動脈の血液が体の隅々まで酸素を供給しております。その細胞が働くときに出す二酸化炭素を、静脈が心臓に運び、肺に送って、肺から息を吐くことによって、その二酸化炭素を吐き出してくれています。吸うことによって酸素を頂き、吐くことによって二酸化炭素を出しています。この作用を息或る限り繰り返しているのですね。
 ところが、動物ばかりが酸素を頂きますと、地球上の酸素が欠乏しますが、有難いことに植物は動物の吐き出した二酸化炭素を吸収して、太陽の熱・光によって光合成を起こし、自分で澱粉を作りますが、その過程で今度は酸素が出て来るのですね。その酸素をくうきちゅうに出してくれます。ですから、植物と動物はお互いに持ちつ持たれつの間柄です。「あんな草や木のようなもの、刈っても切り倒してもかまうものか」と思っておりますと、やがて動物は生活できなくなるのです。地球の環境破壊による砂漠化現象が良い例だと思います。
 人間同士もお互いに持ちつ持たれつによってこそ存在を許されます。自分一人では生きていくことは出来ません。ところが「人はどうなってもいい、自分さえよければいい」と、つい他の人よりも自分を第一にして、正しい道を知らない時はそのままで生きてきましたが、人は一人で生きることは出来ません。
 お互いに持ちつ持たれつしながら生きさせて貰うのが、この世の法則です。
 「輪廻転生の法に従う」
 仏教では輪廻転生と説かれており、物理学では循環の法則です。この法則から何者も逃れることは出来ません。すべては循環の法則に従っています。先ほどの酸素と二酸化炭素の関係もそうです。人間や動物が酸素を頂き、二酸化炭素を吐き出し、植物がその二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出してくれて、循環しております。
 人間の肉体を見ましても、心臓を中心として、酸素を吸収してくれた動脈が、体の隅々へ酸素を送ってくれます。そして静脈が不要品である二酸化炭素を吸収して心臓に持ち帰り、肺によってガス交換を起こさせて、また動脈に回してくれるのですね。これは循環の法則に従って作用しているわけです。
 水を見ますと、水は熱作用によって蒸発を起こします。水(H2O)は液体ですけれど、その水分は気体になったり固体になったり、また液体に戻ったりを繰り返します。
太陽に熱せられて、或いは焚き物によって、或いは風呂を沸かして温度が高くなりますと、液体だったものが気体に変わります。蒸発を起こして上がっていきますが、たいへん高いところまで上がりますと、そこは温度が低いので、水分は固まってきます。そして上で持ちこたえることができなくなりますと、下へぱらぱら雨となって落ちてきます。
雨水は川に流れ海へ渡り、また蒸発して上がっては下に落ちてきます。これも明らかに環境の法則に従っています。環境の法則、すなわち原因と結果ですね。仏教で説かれるところの因縁因果の法則です。原因を作れば必ず結果が現れる。結果があれば必ず原因が過去にあったと言うことです。
 
 「大宇宙自然界に意識あり」
 目に見ることの出来ないこの大宇宙にも、大自然界の中にも意識があり、意識によって統一され、動かされています。
 
 
  「意識は大宇宙体を支配し、万生万物をして調和の姿を示さん」
 意識は大宇宙を動かし、支配している力のことですね。大宇宙を支配し、地上の万生万物を育んでくれる大自然の力、しかもこの力はすべてのものをして調和の姿を示して頂き、バランスをとっていただいています。この力こそが本当の神様なのです。
                   長尾 弘先生著「心行の解説」講演集上より
 

ブッダの言葉
ビク(男の弟子)・ビクニ(女の弟子)達よ汝の行うこと二つあり
一つは、聖なる沈黙を守ること
一つは、法について語ること
          平成十四年三月二十四日  弘




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~ 道 ~


平成十四年十二月号
 
    母言わる 我れ一人の 子にあらず
     数多の子故 身を大切にせよ  弘
 
                  
 
心を開く
 
 
心を開く
☆ 「心行」・・・この心行には偉大な力が秘められております。私たちの心がいらいらする時、或いは苦しみの中にある時、心を鎮めて読んで頂きますと、心に安らぎを頂くことが出来ます。また親しい方がお亡くなりになったときに、心から「よく聞いて下さい。そして自分の心に目覚めて下さい。」とお伝えしてから読ませて頂きますと、亡くなったお方さえ救われて頂けますね。
 憑依現象という目に見えない世界のものが、私たちの心や体中に災いを起こしてきた時も、「心行」を心から読ませて頂きますと、憑依霊が救われて楽にしてもらえます。そういう不思議な力が秘められておりますので、皆様も、もし親しいお方、縁或るお方が亡くなられた時は心から読んであげて頂いたら決行かと思います。亡くなった方でさえ救われて頂くのですから、私たち肉体を持った者が、本当にその意味を理解して、「このように生きなければいけない、このように生活しなくては」と、日々の生活に実践しました時は、必ず救われます。
 
 自分という者を反省して、過去の幼いときから今日までを振り返ってみますと、愚かにも多くの過ちを犯し罪を作っており、そのつみのふかさというものが、嫌というほど浮かび上がってきます。たくさんの過ちを作っておくと、あの世に帰ったときは間違いなしに地獄に行くのかと思いまして作った歌です。
愚かにも悪行重ね罪つくりやがて帰らん地獄なる国
反省させていただきますと、「このままでは地獄へ行かなくてはいけないなあ」と言うことがよく分かります。その過ちを正して、少しでも今までに犯した罪の償いとして良き行いを積み重ねますと、
   日々に神のみ胸に抱かれて光の国に住めるうれしさ このような心境を頂くことができます。
 また、日々の生活で、見るもの触れるものに「ああ有難いなあ、ああ結構だなあ」と言って喜んでおりますと、今度は喜びごとがよろこんでくれます。そして喜びの仲間を連れて喜びに来てくれます。
 このように人生といいますものは、正しい道を知らなかったために、数々の過ちを犯してしまいます。その過ちはどこから来るのかというと、それは「怒り愚痴、足るところを知らない欲望」から来ます。
 この法は、その怒り、愚痴、貧欲を少しでも出さないように、怒り、愚痴、貧欲を少しでも離すように毎日の生活で努力することによって、その苦しみから解脱することが出来るという教えですね。ですから、「心の三毒」とも解いていただきました。心の三つの毒は、怒りと愚痴と貧欲です。
    お釈迦様がある時、お弟子から「仏陀、人間はなぜこのように苦しむのでしょう。その苦しみの原因はどこにあるのでしょうか。」と、質問されたのですね。その時、お釈迦様は「人の苦しみは怒りと愚痴と貧欲によって生じる。この怒りと愚痴と貧欲を離した時に苦しみはなくなるであろう。」とお説き下さいました。
   
この怒り、愚痴、貧欲についてもう少し分析してみますと、これから派生してくるもに
謗り、妬み、人を悪く思ったり言ったりする悪口、恨み、憎しみ、まだこない未来を
煩う取り越し苦労、過去の苦しみをずっと持ち越していつまでも忘れないで居る思い、
不安、恐怖、嘘、盗みなど、今ここにいろいろな心の苦しみの原因を数え上げましたが、もっとも中心となる原因はどこにあるかというと、怒りと愚痴と貧欲です。この三つからいろいろな心の苦しみの原因が湧いてきます。これを出来るだけ自分の心に入れないようにすることですね。話を聞いて「なるほどそうか、ああそれはいいことだ」と、こちらの耳から入れて、あちらに抜けますと、もう何にもなりません。最初はすぐに忘れてしまいましても、だんだん自分の心から失わないように努力して、出来るだけ心の中にしまって常に持続することが、法の実践に繋がって行きます。
 (心行は昭和五十一年に亡くなられた高橋信次先生が、生前に天上の世界から素晴らしい正しい法をお受けになり、私たち一般の凡夫でも分かるように言霊として表し、書き残していただいたものです。)
                
 
☆ 「心行」の本文より∞「われいま見聞きし 正法に帰依することを得たり」
私たちは今、目で見せてもらい或いは耳で聞かせてもらい、正しい御教えを見、聞 くことをして「この正しい教えに帰依することを得たり」です。「帰依」とは「南無(ナーモ)」です。
 南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経など、みな南無が付いておりますけど、この南無というのは字に書きますと、南が無いと書きますが、これはインドの言葉では「ナーモ」と言うのです。そのナーモというのが帰依するという意味で、「私はあなた様の教えに従います。あなた様の教えを素直に、日々の生活において実践致します」というのがナーモ、つまり帰依するということです。南が無いと書くのは、ナーモの当て字です。ですから、百年前ほど前に日本で生まれたT教などでも「南無天理王の尊」と言って拝んでいますね。あれは天理王の尊に私は帰依しますと言って唱えるわけです。南無大師遍照金剛、これは真言宗ですが、これも頭に「南無」が付いています。その教えを学ばしていただき、我が目で見せて頂き、我が耳で確かめて聞かせて頂き、そしてその教えを実践致しますというのが帰依することです。
 
 私達も正法、この正しい教えを聞かせて頂き、見せて頂き、そして実践いたしますというのが、正法に帰依することを得たりです。よく、この「南無」を付けて拝みますが、南無妙法蓮華経もそうですね。蓮華、つまり蓮の花にたとえてお説き頂いた教えが法蓮華経で、その教えに私は帰依しますというのが南無妙法蓮華経です。南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来様に私は帰依しますということ。
 南無大師遍照金剛の意味は、「大師の位は弘法が取る」といいまして、いろいろな高僧と言われる方々が大師の位をもっておられますが、空海上人、つまり弘法大師があまりにも有名でしたから、大師と言えばお大師様、弘法大師様の代名詞になっているのですね。 そのお大師様の遍照、うまり遍とは隅々までと言う意味で、隅々まで照らすこと。金剛と言えばダイヤモンドの光のことで、お大師様はあまねく隅々まで、あのダイヤモンドの光のように照らして下さる。そのお大師様の教えに私は帰依しますというのが、真言宗の南無大師遍照金剛です。
 南無阿弥陀仏は、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、一生懸命念仏し、ただ一念、念仏申さば」といって、その念仏宗にはありますけれども、これは「ナーモーアーミーダーボ、ナーモーアーミーダーボー」と唱えられたものです。アーミーの教えによって仏陀、つまり悟られたお方に私は帰依します。教えに従います。というのが南無阿弥陀仏ですね。 アーミーの教えによってお悟りになったのは、お釈迦様だったのです。そのお方の教えに従い実践します。というのが南無阿弥陀仏です。ですから、いくら「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」とお詣りして唱えても、行いが出来ていなければ何もなりません。
 久米田のお大師様のお堂に、おばあちゃん方7,8人遊びに来ているのですね。そこで屯(たむろ)して、人の悪口、お嫁さんの悪口の言い合いをしています。そこのトイレに行かせてもらいますと、なんとその汚いこと、もう男便所の下はおしっこでベタベタですし、女便所に入りますと、そこらにうんちがあちこち盛り上げてあります。お詣りに来てそんなところで屯しているのだったら、ちょっとお便所の掃除をしたら良さそうなものですね。実践がないのです。
 それであまり汚いので一週間に一度、私達がバケツとホースと床ずりなど一式もって掃除をしに行ったのです。私の姉と、姉の義弟のお嫁さんなどは、その山盛りのうんちを新聞紙に包んで捨て、そのあと、水できれいに洗って掃除をしていたのですね。ところが今度行きましたら、またいっぱい山盛りに汚れているのです。一年くらい毎週日曜日に掃除に通いましたが、これは叶わないと思いまして、ちょっと嫌味の歌を作って、ベニヤ板に書きまして、それを便所の入り口の所に打ち付けたのです。
 
     御仏の慈悲はここにも満ちあふれ汚れは仏の心悲しき
 
 さあ、それ以後は全くうそのように汚れなくなりました。この僅かな短い歌の言葉によって汚れないのです。一度見に行って下さい。今も板が貼ってあります。それ以後、お便所は全く汚れておりません。その後、岸和田のある婦人会の方達が日を決めて掃除に行ってくれているそうです。それまでは、便所の掃除ということの気付かなかったのですね。お寺詣りをしましても、皆さんがお寺で拝む場所だけが仏様のおられる場所とは違うのです。お便所の中にも仏様の慈悲は満ち溢れています。お便所は汚いところだから仏様はおられない、と思うからうんちで汚してしまうのですね。そして横へ横へ盛り上げて、ちゃんと穴があいているのに、その横にうんちの山がいっぱいできているのです。いくらお寺にお詣りしましても、その行いがなかったら、百日、千日、仏様の前に座っても何もなりません。それよりも便所が汚れていたら、自分も使わせていただくのですから、掃除をして清めてこそ実践です。
 私の母は、「いかにもお前のマジナイはよう効くなあ」と言って褒めてくれました。先に掲げたたった一つの短い言葉で効いたのです。それからもう十年近くになると思いますが、今でもそのお大師様のトイレは綺麗です。法に帰依するならば、そのように行うことです。
 これが、「われいま見聞し、正法に帰依する事を得たり」です。正法からはずれた想念、行為、言葉をもって正法を語っておりましても、これは正しくありません。正見、正思、正語、そして正しい行いこそがいちばん大事かと思います。
 
  長尾 弘先生著「心行の解説」講演集上より
 



引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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~ 道 ~
 
 
平成十四年十一月号
 
    うぬぼれと 増上慢は 魔の餌食
     我も気付かず 人も気付かず   弘
 
                  
 
心を開く
 
 
心行
心行は宇宙の神理、人間の心を言霊によって表現したものである。
それゆえ心行は、拝むものでも暗記するものでもなく、これを理解し行うものである。
正法は、実践のなかにこそ、生命が宿ることを知れ。
 
・「心行は 宇宙の神理」
まず、このように書き出されています。この宇宙とはどのようになっているのか、どのように存在しているのかということを書いていただいているのですね。
・「人間の心を 言霊によって表現したものである。」
私たちの心を言葉として書き表していただいたものですから、
「拝むものでも 暗記するものでもなく これを理解し行うものである。」正しい教えと言いますものは、
・「実践のなかにこそ 生命が宿ることを知れ」
 実践がなかったら、どんなによい教えを受けましても、これはただ知識に終わってしまいますから、冒頭にこのことが書かれてあります。いろいろな宗教の勉強をなさった方もあると思います。
この正法に心から帰依して、今日ここに来ておられる方もあれば、私はある信仰を持っているのだけれど一度聞きに行こうかと思って見えた方もあるとおもいます。しかし本当の正しい法、正しい教えとは「その実践の中に生命が宿る」という点については、どの宗教においても間違いのないところです。
 その実践の如何によって、教えの功徳が変わってきます。素晴らしい教えを説いておられる宗教がありますが、その実践になりますと、教えと食い違っている場合があります。
 例えば、「お金を上げなさい、主人に内緒でお金を上げなさい」と教える宗教があり、もっとひどいのになると「サラ金で借りてでも上げなさい」と言って促し、こんなことを実践しますと、必ずその家庭が破壊に向かっていきます。夫婦の中で主人に内緒事をしなさい。或いは奥さんに内緒事をしなさいと説きますと、この実践は大変恐ろしい実践です。なぜなら、それは家庭の崩壊に繋がっていくからです。表面の教えでは親に孝行しなさい。ご先祖を大事にしなさいと説きながら、実践面では親が反対してもこの教えを広めなさいと説く宗教もあります。表面の教えで親を大事にしなさいと親孝行を説きながら、実践面で親にさからう親不孝をさせていることになりますから、これでは破壊の実践となり、幸せには繋がりません。
ですから正しい教えというものは、その教えそのものではなくて、日々の生活の実践の中にその功徳があり、生命が宿るということですね。
 
 どんな宗教も、宗教と名の付くものは全部、いいことを教えます。夫婦は仲良くしなさい。親に孝行しなさい。ご先祖を大事にしなさい。確かにこれはいいのですね。ところが、仏壇の中にご先祖様が止まる位牌、つまりご先祖様の止まり木をつくらなくてはいけないと教える宗教がありますが、これは先祖供養の本当の意味が理解されていないのです。もし私たちがこの世を去りまして、仏壇の中の位牌の様なところに止まってしまいますと、成仏できません。止まり木、そんなところに止まらされたら大変です。私たちは素晴らしい光り輝く天上の世界、光明燐然と輝く喜びと安らぎと調和に満たされた世界へ帰ってこそ、本当の成仏が出来ます。それはこの三次元の世界とは全く質と次元の違う世界です。 私たちはその世界から、この地上の世界へ自分の魂の修行に出させてもらっているのです。ですから先祖供養と言えば、「拝みなさい。ものを供えなさい。護摩を焚きなさい。いい戒名を付けなさい。」と教えられますが、これはあくまでも供養の手段でしかないのです。
では、目的は何かということですが、先祖供養の目的は、ご先祖様にあの光り輝く極楽の世界へ帰って頂くことです。この世に思いを残しますと、その思いによって自分の心がその場所にとどまります。私は死んだら仏壇の中に祀ってもらおうとか、お墓の中に入れてもらおうと思っておりますと、必ずその場所に行ってしまいます。
 その場所は極楽とほど遠い場所です。極楽とは素晴らしい世界であり、その世界へ帰って頂くのが、私たち先祖供養をさせて頂く究極の目的であるはずです。霊を慰める「慰霊」、魂を鎮める「鎮霊」また「淨霊」などがありますが、「救霊」つまり魂を救い上げると言う言葉はあまり聞きません。
 どの宗教でもあまり説いておられませんが、この魂をすくい上げてしまうのが本当の供養の目的です。それが分からなかったから、やれ拝みなさい。供えなさい。祀りなさいと教えられるままにしてきたのです。
 あるところに寄せていただきますと、大きなお仏壇の前の枠取りに湯飲みが40個も供えてあるのです。その中にお茶を一杯入れて毎日供えているそうです。またあるお宅へ行きますと、大きな丼鉢に何杯もお茶を供えてあるのです。丼鉢にです。
「これは何をしているのですか」
と訊きますと、「ご先祖様にお茶を飲んでもらっています」とのこと。なるほど大きな丼鉢、或いは四十個の湯飲みをずっと並べまして、お茶をなみなみと注いでいるのですけれども、私たちのご先祖様はそんなに少なくないのです。というのは、私には私のお父さん、そしてお母さんがいてくれました。そのお父さんお母さんには、またそれぞれのお父さんお母さんがおられるはずですね。そのお父さんお母さんにも、またお父さんお母さんがおられます。
 そのようにして三代、四代、五代、六代と三十一代も遡りますと、十億からのご先祖様になるのです。わずか三十一代前で十億を超えるのです。今、自分が在らせていただくということは、わずか三十一代前で十億を超えるご先祖様のご縁をいただいているのですから、遠く遡ればもう何十億になるか数え切れないほどのご先祖様になって、いくら大きな丼鉢を持って来ましても、とても足りません。
またどれだけ大きな丼鉢にご飯を盛ってお供えしましても、膨大な数のご先祖様には一粒ずつさえ当たらないのです。そして肝心なことは、そんなお茶やご飯を供えることによって成仏できないということです。
 
 以前に、800年も地獄に迷っている方が出てきました。その方に「800年の間に、あなたの子孫の方はあなたにどれほどの経文を供養しましたか。800年間、なたはどれほどの経文の供養を受けましたか。それによって救われなかったのですか」
と訊きますと、その霊が言われましたね。
「あれは何にもならんのう」と。
「どうしてですか」と訊きますと、「意味が難しくて訳が分からない」
 すなわちお経の意味が分からないとおっしゃったのです。だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。またお茶についても訊きました。
「あなたが所望されたら、子孫はどれほどのお茶を献じましたか。お茶によって救われましたか」と言いますと、「いや、救われない。満たされることが出来ない」と答えられます。それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。そのとき、「ああ供えてくれたなあ」と言う一時の心の納得というか、供えてくれたという思いはあるのですけれども、いつまでたっても満足を得ることは出来ません。
 また供物についても訊いてみました。「今日までどれほどの供物を子孫の方はあなたに捧げましたか」しかし、供物によっても満足は得られなかったといわれます。戒名などはなお傑作です。
「良き戒名を付けてもらったでしょう」と訊きますと、「あれは何にもなっておらん」「どうしてですか」と尋ねますと、「わしが死んだ後のことはわしゃしらん」と、こういわれました。強固の会場にはお坊さんはお見えになっておりませんね。お坊さんの営業妨害になると叱られますので。「戒名」について、昨夜のテレビで言っていましたね。「お寺さんの戒名がいくら、お布施がいくらと決めるのは、これはちょっと宗教上おかしい。だから宗教法人への税金を考えなくてはいけない」と言うようなことがニュースとして出ていましたね。まるで商売です。
 
 ある方は言われました。「お寺さんへ行きますとまるでメニューみたいです。この戒名だったらいくら、こちらの戒名だったらいくら、どれにしますか、と言って見せてくれます」ということです。「戒名のメニュー」です。しかしいくらいい戒名を付けても、亡くなった方には何の関係もないことだそうです。亡くなった後では分からです。
 その証拠に、私があの世の霊の方と数え切れないほどお会いしてお救いさせていただきましたとき、霊の方は皆異口同音に「戒名は何にもならない」とおっしゃいます。霊を呼び出すとき戒名で呼ぶと出てきません。自分のことだと分からないんですね。俗名を呼んだら出てきます。「おいはっつぁん」或いは「熊さん」と言うと、「へーい」と出てきます。常に一番親しい自分の呼び名を覚えているのですね。
 ですから戒名なんか呼んでも出てきません。そのようになっております。まず「心行」の冒頭には実践がいかに大事であるかということが説かれてあります。
 
長尾弘先生著 「心行の解説」 講演集上より
 
 

引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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~ 道 ~
 
 
平成十四年十月号
 
    内奥の 神の御心 罪深き
     この身を通し 示し現す   弘
 
                  
 
心を開く
 
☆神とは               
   神とは無限の生命意識、唯一無二,無限者、愛、宇宙大創造主である。
悟りとは、人間の感官の迷いの外なる心であり、小我、偽我の心から本来の自己である真の我、大我であり普遍者である全一体の神我を知ることである。神の子神我は天上地上の全権能いっさいの力である。神我は大自然の法であり、全てを支配するいっさいの力であり、神の創造意識であり、神の力が流れる媒体である。
 また神の創造原理の力が機能する経路でもある。神と神我は同一であり一体である。
 神我の力に到達することが、本来人類の目的である。有限必滅の地上界において、久遠不滅の真我、神我、大我である久遠の生命に至ることが人類の本願である。
 悟りとは全一体の自己の実相を悟ることである。解脱とは現象界における心のあらゆる制約より心を解放することである。神我は神全体と一体であり、神の最奥意識で純粋であり、精妙そのものである。
 神の分霊の中に分霊意識の顕現が神我であり、全ての生命意識である。人類が肉の世の地上物質化現象世界に生きる意義と目的とは、人類自身の存在に至った本源と実相を悟り、認識し理解し受け入れることである。
 自他分離と時空感覚、自己保存、自我我欲を消滅させて解脱し、自由自在になることである。
 このことが神のご意志が成就し給うご意志である。
 自他分離の隔てこそ我欲自我でありカルマでもある。五官の示唆を鵜呑みにして心の中に壁を創り出し、分離感覚、時空感覚を信じる想念の隔壁である。心の内奥は普遍意識の偏在の大我である。
  「心行」の解説上より
 
 
☆ 誤った信仰の恐ろしさ
 
 或る時、大阪でやはり正法の神理を伝えている方があるのを知りました。
この方は、過去世の言葉をペラペラと喋り、そのグループの方も過去世の言葉を喋ります。 「高橋信次先生が亡くなられた後、また、こういう方が現れて下さって有難いことだなあ」と思って、一度お話を聞きにいったのです。
初めてお会いしますと、私のことはよく知っておられて、「よくきてくれました」と合掌して迎えてくれ、「まあどうぞ前に座ってください」と言って、私のことを褒めてくれるのです。「私は神に祈ります。私は何の力もありません。しかし、祈ることによって神はその御業を現して下さいます」というお話をさせてもらったのです。
すると、その先生が、「長尾先生は祈るという言葉をよく使われますな、生年月日はいつですか」と聞かれるので、それを言いますと、「アガシャけいですなあ、アガシャ系の方が祈るというのはおかしいですなあ」とおしゃるのです。「先生はどうされるのですか」と聞きますと、「私は神と一体です」と言われるから、「こりゃ偉い人だなあ」と思ってびっくりしました。その後、二回目にお会いいたしました時に、ある方に光を入れておられたのです。「大宇宙、大神霊、仏よ、当体の骨髄を通し、当体の意識に光をお与え下さい。天上界の諸如来諸菩薩、光の天使よ、どうぞ光をお与え下さい」と、一生懸命祈っておられるのです。
「一つも祈らないと言われたのに、私よりもたくさん祈っていられるなあ」と思ったのです。
私は「神よ、光をお与え下さい。どうぞ神のご意志を、調和と安らぎをお示し下さい」とお祈りするだけですのに、その先生はそれを三回も五回も祈られるのです。それでも、病気はちっとも治らないのですね。それで、そうゆうところから疑問を抱き、「これはおかしいのではないか」と思ったわけです。
 おん自ら、イエスを名乗っておられました。その他にも、いろいろ面白いエピソードがあるのです。
 
 ある方が「長尾先生の光の近くに寄せてほしい」と言って、家を売り払ってこの忠岡に引っ越してこられたのです。私は「来たらいけません。光は近くの者にも遠くの者にも関係ないのです。心さえこちらに向けてもらったら、それでいいのです。来るのは止めなさい」と言っているのに、とうとう引っ越してこられました。
 それで私も放っておけないので、どんなに忙しくても一週間に一度は必ずお訪ねしていました。というのは、その方のお母さんはリューウマチで娘さんがお世話なさっているのです。こちらに移ってくると聞きました時、私は周囲の者に、「あの方はこちらに来ても、」どれだけ私が尽くしても、必ず私の悪口をそこらじゅう言って歩くから見てなさい」と言っておいたのです。それが私には分かるから、その方の為にできるだけのことをさせてもらって尽くしました。
 
 一週間に一度は必ず行って光を入れたり、治療をさせてもらったりして、その方の為に尽くさせてもらっていたのです。こちらに越してきてしばらくしてから、その方は先ほどお話しした大阪の自称イエス・キリスト様に縁ができたのです。そして、私の所からそちらへ替わって行きました。そうしますと、私の悪口をいっぱい言ってくれるのですね。前もって私が予測していた通りにしてくれます。
ある時、そこの研修会だと言って、動けないリュウマチのお母さんを一人放って、娘さんと息子さんが三泊四日の研修会に行ったのですが、私には何とも言ってくれないので私が訪ねると、お母さんは一人で食事もできないでいますから、私は朝、昼とお弁当を買いに行って食事を運んだのです。私は無精で自分のご飯だったら、一度や二度は食べないのですが、人の食事でしたらそうゆうわけにもいかないから、お弁当を買ってきて運んでいました。
 そうしているうちに、その方は完全に私の所から離れました。というのは、その方は、夢の話をよくされるのです。高橋信次先生が夢の中に出てくれて、こうこうおっしゃいましたとか、弘法大師さんが出てこられてこうおっいましたとか、いろいろ言われるのです。 私は、「また夢のことを言っているのですか。人間は目覚めて活動する日々の生活の中で魂の修行をしているのであって、夢の中で修行はできません。ちゃんと目覚め、この五官をもって魂の修行をしているのですから、夢に囚われるよりも、起きている時にしっかり法を行じなさい」と、そういう指導しかしませんでした。
 
 ところが、そちらの先生の所に行って、「夢の中に高橋信次先生が出てくれました」と言うと、その先生が、「ちょっと待っていなさい。それはいつのことですか」と聞かれるので「何月何日」と答えると、「ちょっと天上界へ行ってしらべてきましょう」と言って、その先生が天上界へ行ってこられたそうです。そして、ポッと戻ってきて言うことに、 「あなたのその夢はほんとうですよ。その日は天上界で高橋信次先生は留守でした(大笑い)。
だから、あなたの所に来ていただいたのはほんとうです」。すると、まあその方が喜んでしまったのです。そこで、私が「それでは弘法大師さんが来て下さったのはどういうことですか」と尋ねましたら、その方の腰巾着のようについて歩いていたkさんという方があって、もう五、六年前からその方は離れているのですが「k先生はお大師様の生まれ変わりです。だから、なたをここに導く為にk先生の霊が導きにいっていたのです」と言われたというのです。
 私の指導は、「夢に囚われてはいけません。現実に生きなさい」と言いますから、頼りなかったのですね。その方は、「高橋先生の夢も、弘法大師さんの夢も、私の謎を全部解いて下さいました。こんなに偉い先生はいない」と言って、そちらえ行きますと、「あんな長尾先生はしょうもない」ということになって、いっぱい悪口を言うのです。又、その先生は「あなたの光は長尾先生など足下にも寄りつけない光です」と指導しますから、その人は今まで先生、先生と言っていたのが、急に長尾さんと呼んでくれます。私たちが禅定させてもらっているいることについても、「あんなことをしても駄目、あれは正座と静座の間違いを犯している。せい座というのは正しく座ることとは違う、静かに座ることが静座だ」と言われます。
 私の所では、一時間座って反省しますが、私は正座の方が楽だから、正座して座ります。皆さん、座るのは自由です。しかし、この場所を見ずに、ただ非難中傷をされて、それをまたいちいち私に報告してくれるのです。
そういうことをしていますと、だんだんとお母さんの調子が悪くなってきて、十月頃になって弱りきってしまったのです。その先生にお伺いを立てますと、「来年二月十五日までの命です」とのこと。偉い先生と信じている方の予言だから、もうみんなで信じて、お母さんの枕元で、あと四ヶ月先の葬式の相談をする始末、お母さんも落ち着いて生きていられません。あと何日と数えて暮らして、ちょうど後二週間と言うときに、その娘さんが、「お母さんが死ぬまでに、もう一回先生の顔を見たいと言っています」と言って私を呼びに来たのです。
 
 そして私に、「その先生は偉いのです。私の夢の謎を全部解いてくれました」と言いますから「そんなに偉い先生だったら、その先生に救うてもらいなさい。あなたは向こうで駄目だと言っている私の所なんかに頼みに来るのはやめなさい」と言ったにです。「いや、あの先生は心は治してくれるけど、肉体は治してくれないのです」と言いますから、そこで私は「もう行く気はありません。行けば、またあなたは私の悪口を言うて歩くでしょう。行きたくないのです」と言って断りました。
それでも、死ぬ二週間前になっているから、なんとか来てほしいと言われるので「では行きましょう。でも私は行ったとは思いません。一陣の風が吹くように、スッと行ってスッと帰りましょう。あなたもまた来てもらったと意識してはなりません。来てもらったと思えば、またなんとかかんとか言わなければいけないから」と言って訪ねたのです。
 するともう骸骨に布を張ったようで、完全な死相を現した死人同様です。身動きもできない有様です。
「私は、あなた達親子さんに対して、どれほど忙しくても週に一回は必ずお訪ねしたはずです。そして、私のできる限りのことをさせてもらいました。しかし、私は何を求めましたか。一切の求める心はなかったはずです。びた一文出せと言いましたか。また助平根性を出しましたか。たださせていただく神の御心を私が現しただけです。この身を持って神の御心を具現していたのです。その思いを仇で返すことをしてはいけません。私は何とも思っていません。しかし神はそれをご存じです。だから今、神の神様に対して、「「私たちの犯した罪をお許し下さい」」と行って祈りなさい」といいました。そして、「神よこの者達の罪をお許し下さい。神の慈悲と愛をお示し下さい」と祈りましたら、お母さんはいっぺんに生き返られました。
 今まで身動きできなかった方が、そばにあるティッシュを引っ張り出して「もう、あきません。このティッシュ一枚ちぎる力がないんです」と言って、ティッシュをいっぱいちぎっているのです。こんなにちぎってあんな嘘を・・・・・(大笑い)。そして生き返りまして、神の許しを頂きました。それから四、五年経ちますが、まだ生きていられます(一同笑い)。
 その先生が、また講演の中でおっしゃっているそうです。「あの人は二月十五日に死ぬという命を、私が神に交渉して延ばしてあげました」と。誠に口は便利なものです。「口では大阪城も建つ」です。ところが、本当の神の許しを頂いたら、その場で生き返りました。それを今度は、「私が命を延ばしてやった」と言います。間違った指導者の教えを信じてしまうと、とんでもない不幸になります。悪くいけば、命さえ失います。
 誤った信仰を盲信、狂信すると、その言葉の力をより強く受けます。その恐ろしさを体験させてもらいました。これと同じようなことが、いろんな宗教でおきます。
 偉い人だと信ずれば信ずるほど、その人の言葉は力を現します。ほんとうの正しい教えならば、人の命などを予言はしません。神のみがお知りになることであって、私たち人間が「人の命」を予言することは、人の道にはずれていることですね。或るいは自分に縁のある方を取られまい、離すまいとして、私から離れた者は罰が当たるとか、私から離れた者は抹殺するということを、口に出したりします。それは自分から逃げられたら困るからです。
 
長尾 弘先生著「愚か者の独り言(三)」より



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