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がんばれないトホホな自分 「国宝薬師寺展」

さて、月光菩薩はど~っちだ?

nikkougakkou

大変失礼いたしました。m(_ _)m
ということで「平城遷都1300年記念 国宝薬師寺展」へ行ってきました。平城遷都1300年記念というと、象頭の神様がいるインド人もびっくりしたという—ホントかよ?—、あの鹿の角がはえてしまったちょっと痛そうな絵の坊主君ばかりが思い出されますね—違う?—。今回の「国宝薬師寺展」もその絡みだったという。東京国立博物館に何年ぶりかで行ってきました。

大きな立像をあんな傍で見られるのは良かったですねー。月光菩薩、日光菩薩が展示されている部屋に入ると、まず壇上で菩薩像より上の目線から引きで見られる。そしてスロープを下り、傍によるとその大きさが感じられます。足の大きいこと。壇を使うことでこの大きさを印象づけられました。情熱大陸で照明を苦労されているところを拝見しましたが、正直もう少し明るく出来ないものなのでしょうか?保存の問題というのはわかりますので、無理を言う気はないのだけど。聖観音菩薩立像も良かったです。どの菩薩さんも、ちょっとメタボ気味でした—罰当たりでごめん—。

入館料、一般1500円。これが高いか安いか?なのだけど、薬師寺展だけだと高い気がする。でも、平常展も全て見られる—ここ大切!—。博物館全て回れるみたい。だから、その日はのんびり博物館散歩としゃれて、早めに遊びに行く気になればいいんだね。一日はしんどそうだけど、休みながら半日とかならちょっといいよね。まぁ、それには早く行かないと!さて、表題の“がんばれないトホホな自分”ですが、早く家を出れないワタシ。閉館1時間半前にやっと到着。薬師寺展だけですぐ閉館時間になっちまったという訳。できる方は、ぜひいろいろ楽しんで来てくださいという、、、。

そりゃもうデザインするならマッキントッシュと思い込んでましたから 「Macintosh名機図鑑」

Macintoshは、短期間でも仕事で使ったのを挙始めれば切りがない。IIcx, IIci, II fx, Quadra 800, Quadra 840AV, LCIII, Quadra 700, Quadra 900, Power Macintosh 8100, 7100, 8500, etc. etc....
2つの職場で、いろいろ巡り会った。Centrisもあったけどちょっと思い出せないな。まだ一人一代用意されたりはしなかったので、空いているマシンを使うなんて感じで。早く行ってマシンを押さえるなんてこともあった。G3以降も当然使ってますよ。

最初のOSは漢字Talk 6.0.7だったか?Photoshopのバージョンは2.0でレイヤー機能なんてなく、 Illustratorは3.1.2、プレビューしたまま作業が出来なかったんだ。そんな時代。当然全てをマックで作業していた訳ではなく、指定で写植を打ってもらい版下を作ったりもしていた訳。マックのせいで版下屋さんに頼めなくなり、何でも自分やることになったという説もあり徹夜は確実に増えたと思います。II fxがおかしくなって、そのメンテで徹夜なんてことも、、、。II fx専用の黒いSCSIのターミネータをお守りのようにとっておいたと思ったけど、どこに入れちゃったかな?

わからない人には、チンプンカンプンですね?ごめんなさい。ちょっと当時の苦労を思い出しちゃった大谷和利著「Macintosh名機図鑑」でした。

Macintosh

ちょうど禁煙して一年になる 「パトリック・コックス ジッポ・ライター」

今年は昨年の3倍になるといわれていた花粉。スギ花粉症の方は既にすっきりされていることでしょう。ヒノキ花粉ももうすぐ終わりますね。実はこのヒノキ花粉を苦手にしてまして。スギの頃は洟がツッと垂れる程度なのですが、ヒノキはひどい時には喘息状態なんてことも、、、。今年はマスク生活を徹底したことと、ちょうど一年前にタバコを止めたこともあり、本当に問題なく生活できちゃった。まぁ、タバコをやめたことはともかく、マスクをして花粉を吸い込まないというのは確実な方法だな。ただし、それも一週間前まで、、、。もう大丈夫かとマスクを外している時間が増えたせいか、気温が上がりビールがおいしくなったせいで量が増えたせいなのか、先々週の末金曜日の夜に発症。そのまま先週は鼻、喉、頭と全滅。喉がムズムズし咳も出始めていました。例年だと、今頃はやっと外に出られると喜んでいるのだけど、、、トホホ。

そんなこんなで、本を読むという感じじゃなかった訳。今回はその一年前にタバコをやめた日まで必ずポケットに入っていた物。パトリック・コックスのジッポ、スリムタイプです。素材はシルバー925。

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キズだらけだし、歪んで蓋がずれてます。

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ちょっとキッチュなドラゴンが。

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PATRICK COXとユリの紋章が入っています。

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製造は2002年の12月ということになりますか。

プレゼントされた物です。銀製というのも大変なお気に入り。こういった小物が好きなので、タバコをやめたことよりポケットにzippoがないことの方が寂しいかも。やめた理由は単純に健康のためといったところ。友人は20年後には癌の薬も出来ているよなんて言ってるけど。まぁ、あの咳の苦しさはたまらないからなー。

抑えきれない衝動!? 「月と六ペンス」

カバーのデザインがしゃれている。タイトルもいつも気になる。なのにこれまで読まなかった。何度か本屋で手にしたことがあったけど、棚に戻してきたのだ。いつかいつかと言うのがいつなのかわからなかった。なのに先日突然買おうと思ったんだ。今回は「月と六ペンス」。ウィリアム・サマセット・モームは新潮文庫の装丁が好きなので新潮版を読む。

moonsixpence

もっと早く読んでおけばという気持ちより、今だからという感じが強い。本当は年齢ごとで読み比べてみるのが格好良かったのかもね。ちょうど自分の年齢のこともあり、この年でこのような変心を遂げることの凄さを考えられたのかも。「人がどれだけエゴイスティックになれるのか」いや「世間体なんて気にしなければここまでストレートになれる」と言う考え方もできる。やるべきことを見つけ、それ以外を切り捨てただけともいえる。昔—昭和?—だったら「業の深さ」なんて言ってたかも。

とにかく、こんな“情熱”を持つと言うことは、どれほどのことなのだろう。絵を描くこと以外、全てのことが不要なことなのである。生活、食も住も人も、ましてや“自分の絵の評価”さえどうでも良いことなのだ。理解をし、評価をしてくれ、ましてや助力を惜しまないという好意ですら煩わしいようなのだ。これ程の「描かないじゃいられないんだ」と言う衝動。

さて、モデルとされるゴーギャンもこれほどピュアな熱を抱えていたのでしょうか?

新潮文庫のモームの装丁は全て同じものなのですが、デザインは新潮社装幀室となっています。どんな方がデザインされていたのでしょう?他にも海外作家の古典的な名作はけっこうデザインが変わらずに残っていたと思うので、デザインもちゃんと見てみようかな。あ、ヘミングウェイは変わってるな、前は顔だったよね。そうそう、カミュの異邦人をまた読もうかと思いました。

インドに行きたいとは思わないよ。でもこのインドはなかなか…。  「ダージリン急行」

前回の映画のヘビーさを拭うかのように、意外に早く次の映画に行ってきました。どうも映画の選択権は無いらしく、今回もついて行きました。Lでしょ、ノーカントリーでしょ、そしてこれ「ダージリン急行」。一体どうなっているのでしょう、ホントに、、、。まぁ、やっと良かったなと言える映画。ノーカントリーが悪かった訳ではないけど、手放しに良かったとは言いにくいしねぇ。

darjeeling

ストーリーが難解な訳でもないし、構成も複雑な訳でもないけど、何と言ったものか難しい、、、。いやぁ、面白かったんだよ。ただ、ザ・ロイヤル・テネンバウムズもそうだったけれど、面白く観ていた癖に“スゴイ”とか“サイコー”とか言うようなテンションの作品ではない。基本的に淡々としてクール。コメディと紹介されるけれど、ちょっと違うと思っている。なんだかカッコイイよね。

家族と言うのは重たいもの。あんなにバラバラでタイプも違う兄弟なら、勝手にやってりゃいいようなモノなのに、離れたくもないようだ。兄弟3人はバラバラだし互いにすぐもめるけど、外向きには結束が硬く何かがあると自然まとまる。

バラバラなのに、揃いの色違いのスーツもいかしてる—だが、白クツシタはどうなんだ?—。父親の葬儀の日の黒ずくめもカッコイイ。最後一人ひとりが顔を見せ、進む列車の映像にオー・シャンゼリゼが流れるエンドロールでなんだかホッとします。それとバイクに3ケツしてるシーンもいい。エイドリアン・ブロディってイイっすね。

No Country for Old Men その2 「血と暴力の国」

前の記事がその1です。

実は先週映画を先に観て、「ノーカントリー」というタイトルは何だろうと思っていたのだが、原題を読めば納得である。「No Country for Old Men」だったのである。トミー・リーが保安官が降りてしまうのは当然なのである。最初はこの記事のタイトルを次のように考えていた。

“その災禍が通る時出会う者には死を。
         理不尽はすれ違うだけで死をもたらす。”

だが原題を見て、やっぱりそれだけではないよなーと思い原作「血と暴力の国」を読んでみた。思っていた以上に、映画は原作に忠実だった。長さの関係で端折ったと言えるくらいだ。コーエン兄弟はその端折り方がうまく、原作通りなのに自分達の物にすることに成功しちゃった訳。

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だが原作を読んで次のキーワードが浮かんだ—たぶん映画だけでも気付くけど、本は見返せるからね—。
価値観・善悪とか・道徳観・信仰、良い人・善良であること・Old Men、システム。と言った所でしょうか。

一人ひとりの人間が生きていることで何かを選び進んで行く。これは「あの時こうしていれば、、、」と言ったことの極端に悪い例なのだ。「あの時酒を飲んでいなければ」とか「あの時右に曲がらなければ」でもいい。そうやって辿って来た結果出会ってしまっただけだと、この殺し屋は言ってる。運命論者なら“運命”と言うだろうけど、ちょっとしたボタンの掛け違いで遭わないで済んだ災厄とも言えるかな?

ひとつ言えることは、この殺し屋は“ただ融通が利かない”のだ。決めた通り、コマンド通りに動く。システム的なのだ。前述の通り決めたことは“絶対”なのである。何が楽しいのか、機械なのかというくらいだ。だから、普通の人間には理解も想像も出来ない。当たり前の価値観や善良であることを美徳とする“Old Men”からすれば、不条理・理不尽・災禍でしかない。1980年の物語になっているが、書かれたのは2005年。だから内容は時代性をあらわしていると見ることもできるよね?無理矢理か?だから“No Country for Old Men.”

No Country for Old Men その1  「ノーカントリー」

今年2本目の映画。1本目があれで2本目がこれ「ノーカントリー」。どんな人が選ぶのかと思うでしょ?これも誘われて行きました。誘ったのは同じ人。振り幅は広く人間は大きく!次こそ軽く明るい、頭が悪そうなのに行こう!

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ナチュラルボーンキラーズ(ウッディ・ハレルソン)もあっさりやられ、保安官馴れしたトミー・リーも泣きが入ってご勇退。人がいつか死ぬのだとわかっていても、納得いかず、許すことが出来ない死に方。こんな死に方は嫌だと思わせる、人の尊厳なんて如何に軽いか。これこそ“理不尽”と感じるか、それとも誰にでもやって来る死の中の一つと思うのか。まぁ、できたら避けたいですねー。

この殺し屋は厳格に自身のルールを守り、決めた“すべきこと”を徹底して完遂する。どんな状況にも、文句を言わず、悪態をつくこともなく、ただ決めたことを全うする。そして、絶望的な“死の直前”が訪れる。この“時”が本当に最悪だろう。普通に生きていれば味合わないで済むはずなのに、車を止められいきなり出会ってしまうこともある。それは圧倒的な不条理。ただこの不条理をもたらす本人は、自分にその“時”が訪れたとしても不満を漏らすことはないだろう。そう思わせる存在。

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救いはない。家に閉じこもるくらいしか出来ないし、こいつはドアの鍵など簡単に抜いてしまう。そして用が済んだら静かに立ち去るのだ。立ち去る姿を見る者はいないのだけれど。

この映画BGMがない—のか聞こえなかったのか—。とんでもなく静謐。どんなシーンでもジッと息を呑むような、喉がヒリつく、グッと黙って我慢するような緊張感で引き込む。この感じは音楽が無かったからこそ。嫌でも集中させられてしまう。それとともに音が印象的になる。“シュッ”と圧縮空気の音がするのだ。

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その2へ続く

エイ文庫2冊。「マイ・フォト・デイズ」「ずんちゃちゃカメラ節」

トイカメラのLOMO LC-Aを手に入れた時は本当に楽しく、とにかくパチパチ撮っていた。目測ということもあり、ピントがどうこうなんて気にしなくて良いという感じが楽しかったのね。目測だってピントは合うんだけど、“ファインダーも覗かずとにかく撮る”というのが良かった。本当にいつもポケットに入っていたカメラ。ところがそれが仇になる。ある時ブーツのヒモを結ぼうと右足を上げたところ、ポケットからこぼれてしまい大破。裏蓋はゆがみ、軍艦部が割れていた。フィルムも巻けなくなってしまい、シャッターもきかない。うんともすんともいわなくなってしまった。薄着の時期でパンツの右前ポケットに突っ込んでいたのが敗因という訳。自分の大馬鹿ぶりを呪ったことは何度もあるけど、この時ばかりは救いようがなかった。いま「また買おうかなー」と思ったりして。

今週は、蜂谷秀人「ずんちゃちゃカメラ節」と池田葉子「マイ・フォト・デイズ」を読んだ。というか見た。写真は楽しかったけれど、正直読むという感じではない。ちょっと粗製濫造気味かなーって気もしますが。

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この手の本はある時は写真を見返し、そしてある時はその撮影時のエピソードや持っていないカメラの紹介を読みそれを手にした感じを夢想したり、はたまた持っている—持っていた—カメラの記事で自己満足をする。そうやって何度も手にする本がいい。ところが、今回は何度も手にするとは思えなかったのです。これは完全に個人的な印象、感想なので、これが好きで何度も見直す人もいるでしょう。だからそういった方には御免なさい。気分を悪くされても勘弁してね。どうも読み物部分が薄いと思えてしまったのです。ホントに相性とかなのかもしれません。それともいろいろな方の本で慣れてしまって、感動が薄くなっているのか?この辺はわかりません。どーしちゃったのかなー?

ただ2冊を見て、やっぱりアナログカメラ、マニュアルカメラもいいなとは思ったんだよ。ローライやハセッル欲しいなってね。そして、LOMOが楽しかったことを思い出した。

このブログのタイトルは?「ラミー スクリブル・ペンシル3.15mm」

このブログのタイトル“scribble away”は“殴り書く”といった意味らしい。多少見直してはいるんだけど、ウォーって打っているので、怪しいところもいっぱいある。それに尻切れな感じで終っているところもあるでしょう?そんな意味と言い訳がこもったタイトル。その殴り書き“scribble”という言葉との出合いがこいつとの出合い。こいつとは「ラミー スクリブル・ペンシル3.15mm」。

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鉛筆の芯だけをホールドする筆記具、リードホルダー(芯ホルダー)—説明になっていない、そのまんまですね—。ラミーの芯は4B、これがなんだか柔らかくなかなかの感触なの。さすがに3.15mmの出番はそれほどないけど、好きなので無理やり出番を作っている訳。本体のつくりは精巧。手に持った感触も気持ちよく、名前とともに気に入ってます。


芯を削ってみました。


他に0.7mmシャープペンシルとボールペンもありますが、この短いボディデザインはホルダーのためにあるように思われます。万年筆以上にペンシルが好きなもので、0.7mmも持ってはいるけど出番はないな。

カランダッシュ、ファバーカステル、ロットリング、ステッドラー。以前にも書いた通りグラフィックデザイナーの端くれだったので、画材や製図メーカーは知ってた。でも、LAMYは一般の筆記具メーカーということでよくは知らなかったのね。サファリのボールペンを見たことがあったくらいかな。

何年前のことかはわからない位昔、仕事中の息抜きだったかペンの情報を検索してみたの。そこであるサイトに行き着いたのだ。ペンだけではなく、手帳からハサミ、鉛筆削りなど、文房具の情報を紹介するサイトだった。当時のネットで個人がここまで充実させているサイトがあることに驚いたのも確かだし、仕事では企業のサイトを企画から作っていた者としても興味深かったのです。それが、文房具好きの人なら知っている「ステーショナリープログラム 」。写真も文章も、丁寧に考えて紹介していることが伝わるサイトでした。ブログもいつも楽しみにしています。

クオバディス、モールスキン、ラミーのことはここで知ったし、真似しちゃったりもした。モールスキンメモポケッツとラミー2000の4色ボールペンは間違いなくすぐに試してみた。そしてスクリブル。

と、ここまで書いていて気が付いた。“このブログのタイトルは誰の……”ということに。

スカーフェイス。「疵―花形敬とその時代」

ここ数年本田靖春の本を読んでみたいという気持ちはあったのだけど、なぜか手を出してはいなかった。どういう経歴かはなんとなく知っていたけど、2年位前だったかTBSのR30という番組が頭にのこっている。その中の「突破者」の宮崎学が進行をするコーナーで氏が紹介されていたんだ。印象深かったのが『ジャーナリストは自分の中に秤を持て』という言葉。

“ジャーナリストの秤”とはリベラルな考えを持ち、世の中が右に寄ったら左に調整するようにバランスをとるということだそう。当然、左に寄ったら右に調整するのね。広い視野で全体を見ること、バランス感覚を持つことは、何にでも必要ですよね。

今年発行の「ダ・ヴィンチ」か「ブルータス」の本特集だったか、この本が紹介されていたのだ。今回は本田靖春「疵—花形敬とその時代」。戦後渋谷で愚連隊から興ったヤ○ザの話である。ちょっと待って!!ヤ○ザの話だからって引かないでね。なぜ著者がこのテーマを選んだのかという点に興味が湧いたんだ。何を描きたかったのかという点も。そして、花形敬もR30の宮崎コーナーで紹介されていたことがあるのだ。めったに見ないR30なのに、偶然両方とも見たんだよね。

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花形はスカーフェイス。素手喧嘩が大変強かったらしい。本田は読売新聞社会部のエース記者。そもそもこの二人に接点がある。昭和8年生まれの本田は、戦後朝鮮の京城(現在のソウル)から引き揚げて来たそう。苦労の末上京、転入したのが千歳中学校。旧制中学校のため5年制。本田が2年、その兄が4年に転入した。当時花形はこの千歳中学の4年だった。兄と花形に面識はなかったらしいが。

闇市がないと生活が出来ない時代—ヤミというくらいで違法ですね—。一般の人々も法を守っているだけでは生活が出来ないのである。本田兄も賭け麻雀にはまって、組関係の人間と付き合うくらいはしていたようだし、その賭け麻雀に誘った者は暴力団の世界に行ってしまったらしい。一般人とアウトローの境界が非常に近い時代だったのだろう。境界を彷徨いながらも踏み止まった若者が多い中、何故花形は向こう側へと行ってしまったのか。そして“戦後”という時代と渋谷、新宿、銀座など、舞台となる街についてのノンフィクション。色川武大の解説も端的で、この時代と雰囲気がわかりやすいです。

最後は組長代理に押し上げられ、2人の人間に刺されて33歳で生涯を終える。あまり組織とか組とかは気にせず、遊びか趣味のように喧嘩をしていて、酒癖が悪かった花形。だが、組長代理になると人が変わったように、下げたことがない頭を旦那集に下げ、酒で暴れたりもしなくなる。これを元気がなくなったと見る向きもあるかもしれない。これまでは気ままな下の立場だから許されていたことで、今度は下に気ままにさせるために上の者には許されない“役回り”という奴である。それまではわかっていて確信犯的に暴れいたのではないかと思う。頭が良い人で、実は繊細さも持ち合わせていた人らしい。そうであれば周りもよく見えていただろうし、その時許されることを最大享受し、役回りが変わればきちっと演じてみせたのだ。これも組織に必要なバランス感覚だったのかも。

R30では写真が数カット映っていました。本田さんが万年筆を持っていた写真があり、モンブランの146に似た形状。国産の万年筆にも似た物が多いのでわからないですけど、机にはパイロットのボトルインクの箱が。パイロットのペンだったのでしょうか?