やっと本以外の話ができる。「モンブラン ジェネレーション」
本のブログにするつもりはなかったのだけど、週一の更新だと読んだ本の記事だけで終わってしまう訳。「趣味の文具箱」をネタにしたので、せっかくだからペンの話も—今週はがんばってます!!—。3本の万年筆を会社に持って行く。2本は手帳用の細字でそれぞれインク(色)が違う。その一本がこれ、モンブラン ジェネレーション グリーン。
外ではこれくらいシンプル、スマートが良いかなと。あんまりゴツイのは外で使いたいけど、ちと恥ずかしい—自意識過剰なの—。あと、何かあった時あんま高価なのは困るし—度胸ないの—。
ペン先はF、正直手帳には太目。まぁ、気にせず書いちゃうのだけど。どうせ見るのは自分だけだし。
なんで万年筆を使うのかといわれると、その書きやすさというのも当然ある。でも、どちらかというとインクを自分で選べるからという方が動機としては大きい。だから好みの色を探して、試して、これも楽しい。ペンだけではなく、インク選びもなのである。だからこれ一本にならず、インクの数だけペンが必要になったり、それも太さによってなんていい出すと倍になったり。危険でしょ?
で、こいつにはモンブランのバイオレットを入れている。バイオレットといっても紺に近い濃い紫で、落ち着いた色。最近一番気に入っているインクです。
外ではこれくらいシンプル、スマートが良いかなと。あんまりゴツイのは外で使いたいけど、ちと恥ずかしい—自意識過剰なの—。あと、何かあった時あんま高価なのは困るし—度胸ないの—。
ペン先はF、正直手帳には太目。まぁ、気にせず書いちゃうのだけど。どうせ見るのは自分だけだし。
なんで万年筆を使うのかといわれると、その書きやすさというのも当然ある。でも、どちらかというとインクを自分で選べるからという方が動機としては大きい。だから好みの色を探して、試して、これも楽しい。ペンだけではなく、インク選びもなのである。だからこれ一本にならず、インクの数だけペンが必要になったり、それも太さによってなんていい出すと倍になったり。危険でしょ?
で、こいつにはモンブランのバイオレットを入れている。バイオレットといっても紺に近い濃い紫で、落ち着いた色。最近一番気に入っているインクです。
ワタシはエイ出版のカモかも!?「趣味の文具箱 Vol.10」
というか、「文具
」と「カメラ
」の編集部が同じらしいエイ出版。この編集部のカモということだ。「趣味の文具箱」も「STATIONERY magazine」も出れば買ってしまうし、「色鉛筆を楽しむ本」も「NOTE & DIARY Style Book」だって何故かある。そして彼等が文具系をやっていない時は「CAMERA magazine」だ。GRDも持っていないのに「GR DIGITAL WORK SHOP 」を買い、LEICAを持ってもいないのに「M型ライカとレンズの図鑑」が家にある。チョートクさんのせいで「ツァイス紀行」も「ハッセルブラッド紀行」だってある。その他文庫だって、昔のエイムックのカメラ関係のものも発掘すればどんどん出てくるだろう。これはこの編集部、いや編集長にまんまと踊らされているのかもしれない。あぁ、古山浩一さんの本だってそうなはず。これからも楽しい本をだしてください。
万年筆もカメラもたくさん買ったりはしない—いや、正確には“出来ない”のだけど—が、使うのも見てるのも好きな物である。今回の「趣味の文具箱 Vol.10」は使い手のお話しが多い。よく拝見しているブログの方が出ていて、その手帳やノートを見れたりもする。ブログで使っている物を知っているので、写真を見ただけで誰かわかるのだが、実際に書き込んでいるページを見ることができるのがいいですねー。何で人の手帳やノートを見るのが楽しいのでしょう?わからないけど楽しいんだよね。
さて、ちょっと欲しいペンが見つかっちゃったよ。
万年筆もカメラもたくさん買ったりはしない—いや、正確には“出来ない”のだけど—が、使うのも見てるのも好きな物である。今回の「趣味の文具箱 Vol.10」は使い手のお話しが多い。よく拝見しているブログの方が出ていて、その手帳やノートを見れたりもする。ブログで使っている物を知っているので、写真を見ただけで誰かわかるのだが、実際に書き込んでいるページを見ることができるのがいいですねー。何で人の手帳やノートを見るのが楽しいのでしょう?わからないけど楽しいんだよね。
さて、ちょっと欲しいペンが見つかっちゃったよ。
そして雨男。「死神の精度」
昔々営業マンは「政治と宗教と野球」の話をお客さんにするのはタブーと言われていた、えぇっと、これは前回書いたなー。今回は“死神”のお話。死生観という物でさえ時代により変化をするらしく、特に無宗教、信仰心を持たない者にとっては、“何でもあり”なのかもしれない。そういった時代だからか、死後のことにこだわらない小説やマンガも多いですよね?こだわらないのが普通か?
乙一「GOTH」は死と人にはこだわっているけど、死んだ後のことなんて気にしてない。「DEATH NOTE」もそう。ノートにかかれて、コロッといったらそこでおしまい。最後にあの“リンゴの好きな死神”は「死んだら、天国も地獄もなく“無”だ」といっている。“死”とはシステム停止ということになる。そこには魂や霊魂とか「魂魄この世にとどまりて…」はないということだ。まさに“無”である。まぁ、逆にスピリチ○○○な人々も多くなってるみたいだけど。
さて、同じ死神でもずいぶんタイプの違う死神が今回の本題。“ミュージックが好きな死神”を読みました。伊坂幸太郎「死神の精度」。前述の二作とは毛色も違うし、灰汁は—悪か?—強くない。でもけっこう死んじゃいます、フォローないです。
人の死には特別興味はなさそうな死神。仕事だからやっているらしい。情報部から指名された人間の死に関して可否を判定する調査部の死神—死神はずいぶん大きな組織らしい—。“可”にした場合—ほとんどが可らしい—はその死を見届けるという役回りだ。そして雨男。調査対象に接近し、話をし観察する。時には謎解きをしたり、恋のキューピッドだったり、ロードノベルなこともある。だが、対象は“可”なのだ。それは“人の死には意味がなく、価値もない”からだ。そして死神いわく“つまり逆に考えれば、誰の死も等価値だということになる”のだそう。つまり“人はみんな死ぬんだよね”。
6編のエピソードからなる短編集だが、間違いなく最後のエピソードに向かって進んでいる話。最後のエピソードがなければいけない物語なので、一つの長編小説ともいえるかな。最後のエピソードが良かった。雑誌掲載時にどれか1話だけ読んだという人は、最後まで読んでみたらと思う。通して読んで満足した気がするので、最後のエピソード抜きにはちょっと物足りないのでは?
死神は死なないのか、少なくとも2000年以上この仕事についているらしい。それも生まれついての仕事なのか、他の選択はできなかったように思われる。ただ見ているだけの傍観者ともいえるこの死神。そして晴天を見たことがない、本物の雨男だ。やっぱりちょっと寂しい物語。
以前「脳はなぜ「心」を作ったのか—「私」の謎を解く受動意識仮説」という本を読んだ。著者、前野隆司は現在は慶應義塾大学理工学部機械工学科教授だそうで、ロボティクスの専門家。
この本によると、いろいろな感情はエピソード記憶を印象深くして、将来に役立てる目的で記憶に残すための高度な認知活動なのだそう。それを感じるために「意識」や「私」が後付けで出来たそうなのだ。「私」とは高度な認知活動のために脳が構築したシステムということ。「感情」「情動」はクオリアを強調するためにある。そしてクオリアはエピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけているそうだ。膨大なエピソード記憶を選別し、未来の判断に反映するために。御免m(__)m、、、この本はわかりやすかったのだけど…。無理矢理まとめようとしてるので、これじゃわからないね。この本の話だと「私」についてが続くのだけれど、今回は目的が違うので、ここでやめます。
この考え方にのっとると、論理上は心を持ったロボットも作れるのだそう。ただ、技術的には脳に匹敵するニューラルネットワークを作りこむのは大変らしいので、今は無理。さて、こうなると「私」という意識(システム)がダウンすれば、“死”ということになるかしら?それは“無”かな?
ちなみにクオリア(感覚質)に関しては茂木先生の本でアハ体験してください。
乙一「GOTH」は死と人にはこだわっているけど、死んだ後のことなんて気にしてない。「DEATH NOTE」もそう。ノートにかかれて、コロッといったらそこでおしまい。最後にあの“リンゴの好きな死神”は「死んだら、天国も地獄もなく“無”だ」といっている。“死”とはシステム停止ということになる。そこには魂や霊魂とか「魂魄この世にとどまりて…」はないということだ。まさに“無”である。まぁ、逆にスピリチ○○○な人々も多くなってるみたいだけど。
さて、同じ死神でもずいぶんタイプの違う死神が今回の本題。“ミュージックが好きな死神”を読みました。伊坂幸太郎「死神の精度」。前述の二作とは毛色も違うし、灰汁は—悪か?—強くない。でもけっこう死んじゃいます、フォローないです。
人の死には特別興味はなさそうな死神。仕事だからやっているらしい。情報部から指名された人間の死に関して可否を判定する調査部の死神—死神はずいぶん大きな組織らしい—。“可”にした場合—ほとんどが可らしい—はその死を見届けるという役回りだ。そして雨男。調査対象に接近し、話をし観察する。時には謎解きをしたり、恋のキューピッドだったり、ロードノベルなこともある。だが、対象は“可”なのだ。それは“人の死には意味がなく、価値もない”からだ。そして死神いわく“つまり逆に考えれば、誰の死も等価値だということになる”のだそう。つまり“人はみんな死ぬんだよね”。
6編のエピソードからなる短編集だが、間違いなく最後のエピソードに向かって進んでいる話。最後のエピソードがなければいけない物語なので、一つの長編小説ともいえるかな。最後のエピソードが良かった。雑誌掲載時にどれか1話だけ読んだという人は、最後まで読んでみたらと思う。通して読んで満足した気がするので、最後のエピソード抜きにはちょっと物足りないのでは?
死神は死なないのか、少なくとも2000年以上この仕事についているらしい。それも生まれついての仕事なのか、他の選択はできなかったように思われる。ただ見ているだけの傍観者ともいえるこの死神。そして晴天を見たことがない、本物の雨男だ。やっぱりちょっと寂しい物語。
以前「脳はなぜ「心」を作ったのか—「私」の謎を解く受動意識仮説」という本を読んだ。著者、前野隆司は現在は慶應義塾大学理工学部機械工学科教授だそうで、ロボティクスの専門家。
この本によると、いろいろな感情はエピソード記憶を印象深くして、将来に役立てる目的で記憶に残すための高度な認知活動なのだそう。それを感じるために「意識」や「私」が後付けで出来たそうなのだ。「私」とは高度な認知活動のために脳が構築したシステムということ。「感情」「情動」はクオリアを強調するためにある。そしてクオリアはエピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけているそうだ。膨大なエピソード記憶を選別し、未来の判断に反映するために。御免m(__)m、、、この本はわかりやすかったのだけど…。無理矢理まとめようとしてるので、これじゃわからないね。この本の話だと「私」についてが続くのだけれど、今回は目的が違うので、ここでやめます。
この考え方にのっとると、論理上は心を持ったロボットも作れるのだそう。ただ、技術的には脳に匹敵するニューラルネットワークを作りこむのは大変らしいので、今は無理。さて、こうなると「私」という意識(システム)がダウンすれば、“死”ということになるかしら?それは“無”かな?
ちなみにクオリア(感覚質)に関しては茂木先生の本でアハ体験してください。
中国とアメリカは近しいか、中国語と英語はどうなのだろう?「千年の祈り」
今年の年始に2泊3日で上海に行った。初めての中国大陸、魔都上海である。2010年には万博が開催され、そのため昔の面影はどんどん無くなっているらしい。あちらの男性は眼光鋭く皆さんやる気満々な感じがしたのは、気の弱い日本人代表のワタシの覇気のなさなのか、開発激しい伸び盛りの街の活気なのか。その中で知り合った河南出身の日本語を勉強しているという大学生。まだ日本に興味を持つ人もいるのだと知ったことはホッする。
そこで観光地の一つ「静安寺」に行ってみたのですが、やはり日本のお寺とはずいぶん趣が違います。お参りをしている人は、仏像に向い膝まづいて3回お辞儀(平伏す感じかな)しています。お墓に向かい、先祖にするのと同様な感じ。手を合わせて“ナマステ~”なところは全くなく、インドから渡って来た感じはしません。まぁ、日本の仏教だって合掌と梵語くらいしかインドを感じさせるものはないのでしょうけど。中国のお参りは、仏教と言うより儒教な感じがします—ホントか?—。聞いた所、中国のお坊さんは大卒でないと資格は得られないそう。妻帯もできるので、なり手もそれなりらしいです。
撮影は全てGX100
昔々営業マンは「政治と宗教と野球」の話をお客さんにするのはタブーと言われていたそう。これが今どれくらい当てはまるのかは謎ですが、ブログでも避けておいた方がよさそうですね。今週読んだ本は難しく考えようとすると—しなきゃいいけど—、その背景に現代の日本人にはわかり難くい「宗族、儒教(孝)、共産主義、独裁者、一党支配などなど…」があるように思われる。そこに触れずに「親子、不幸、不自由」と言った話は語れるかな。読んだのはイーユン・リー「千年の祈り」。先に書いた独裁者というのは作中に出てくる表現ね。
著者イーユン・リーは北京出身、北京大学を卒業後渡米。天安門事件(六四天安門事件)が1989年6月4日というから、'72年生まれの著者が17歳の時。その後北京大学に入学し、'96年アメリカに留学、現在はアメリカ暮らしの2児の母。英語で書かれたという10の短編は極端に言うと“ハードボイルド”—あーっ誤解受けそう—。心境や心情をゴチャゴチャと書かず、言動で表現していると言う感じか。それは表現上のことであり、中には痛みも悲しみもある。全編共通するのは“不幸な感じ”なのだが、読んでいて苦にならないのは、文体からくる“透明感”と“静謐さ”のため。淡々としているが諦観ではなく“激情”も感じさせる。この筆致は女性ならではのものかなと。
国の抑圧や因習からの不自由がある。これが我々にはある種のファンタジックな空想上の国のことのようにさえ感じさせる。著者の母語ではない英語で書かれているということとも関係があるかもしれない。著者は英語だからこそ自由に書けたそう—訳者あとがきに詳しい—。そして親子、子に悩む親と親に困る子である。これは自身が子であり、親でもあることからどちらの目線をも持てているのでしょう。不満や批判めいたものはなく日常を書いている。ただ、語られていない所に奥行きが感じられる。著者の力量と歴史ある中国の懐の深さでしょうか?
先日デザイン・プロダクションに勤めている話をしました。他のチームの仕事ですが、とある会社の会社案内中国版を中国で印刷することに。会社としてはというか社長としては悩ましい。データを送ることは、技術をあげてることになり、そのうち「デザインやデータ作成も中国で」なんてことにもなりかねません。なぜ、そんなことになるのか聞くと「日本で印刷した数千部の冊子を送れば、持ち込まれるものに関しての検閲が行われ、届くまでに時間が掛かってしまう」とのこと。むこうで印刷すれば印刷工程だけで済む—データ内容の検閲くらいはあるでしょうが、データーは1セットだけですから—ので、届くまでの時間が掛からず、期日に間にあうのだそうです。
さて、この物語の中国は“著者の記憶にあるあの頃の中国”なのか“私たちの目では見えない中国”なのでしょうか。
そこで観光地の一つ「静安寺」に行ってみたのですが、やはり日本のお寺とはずいぶん趣が違います。お参りをしている人は、仏像に向い膝まづいて3回お辞儀(平伏す感じかな)しています。お墓に向かい、先祖にするのと同様な感じ。手を合わせて“ナマステ~”なところは全くなく、インドから渡って来た感じはしません。まぁ、日本の仏教だって合掌と梵語くらいしかインドを感じさせるものはないのでしょうけど。中国のお参りは、仏教と言うより儒教な感じがします—ホントか?—。聞いた所、中国のお坊さんは大卒でないと資格は得られないそう。妻帯もできるので、なり手もそれなりらしいです。
撮影は全てGX100
昔々営業マンは「政治と宗教と野球」の話をお客さんにするのはタブーと言われていたそう。これが今どれくらい当てはまるのかは謎ですが、ブログでも避けておいた方がよさそうですね。今週読んだ本は難しく考えようとすると—しなきゃいいけど—、その背景に現代の日本人にはわかり難くい「宗族、儒教(孝)、共産主義、独裁者、一党支配などなど…」があるように思われる。そこに触れずに「親子、不幸、不自由」と言った話は語れるかな。読んだのはイーユン・リー「千年の祈り」。先に書いた独裁者というのは作中に出てくる表現ね。
著者イーユン・リーは北京出身、北京大学を卒業後渡米。天安門事件(六四天安門事件)が1989年6月4日というから、'72年生まれの著者が17歳の時。その後北京大学に入学し、'96年アメリカに留学、現在はアメリカ暮らしの2児の母。英語で書かれたという10の短編は極端に言うと“ハードボイルド”—あーっ誤解受けそう—。心境や心情をゴチャゴチャと書かず、言動で表現していると言う感じか。それは表現上のことであり、中には痛みも悲しみもある。全編共通するのは“不幸な感じ”なのだが、読んでいて苦にならないのは、文体からくる“透明感”と“静謐さ”のため。淡々としているが諦観ではなく“激情”も感じさせる。この筆致は女性ならではのものかなと。
国の抑圧や因習からの不自由がある。これが我々にはある種のファンタジックな空想上の国のことのようにさえ感じさせる。著者の母語ではない英語で書かれているということとも関係があるかもしれない。著者は英語だからこそ自由に書けたそう—訳者あとがきに詳しい—。そして親子、子に悩む親と親に困る子である。これは自身が子であり、親でもあることからどちらの目線をも持てているのでしょう。不満や批判めいたものはなく日常を書いている。ただ、語られていない所に奥行きが感じられる。著者の力量と歴史ある中国の懐の深さでしょうか?
先日デザイン・プロダクションに勤めている話をしました。他のチームの仕事ですが、とある会社の会社案内中国版を中国で印刷することに。会社としてはというか社長としては悩ましい。データを送ることは、技術をあげてることになり、そのうち「デザインやデータ作成も中国で」なんてことにもなりかねません。なぜ、そんなことになるのか聞くと「日本で印刷した数千部の冊子を送れば、持ち込まれるものに関しての検閲が行われ、届くまでに時間が掛かってしまう」とのこと。むこうで印刷すれば印刷工程だけで済む—データ内容の検閲くらいはあるでしょうが、データーは1セットだけですから—ので、届くまでの時間が掛からず、期日に間にあうのだそうです。
さて、この物語の中国は“著者の記憶にあるあの頃の中国”なのか“私たちの目では見えない中国”なのでしょうか。
主人公の性別が変わるってのはどうなのよ?「チーム・バチスタの栄光」
2年前ですか、当時隣の席だった男の子が「聞いたことがない専門用語が多く出てきて難しいところもあるんですけど、面白かったです」と言っていたのが今回の本。そのコメントを聞いて、バリバリハードな医学ミステリーなのかと思い込み、とりあえずそのうちだなーなんて思ってしまった。文庫化されたことだし、映画化もされたと言うことで、あぁ、あと“ロジカル・モンスター”とまで言われるキャラクターにも興味もあったし。やっと読みました海堂尊「チーム・バチスタの栄光 上・下」。
で、とにかく一人称で書かれるテンポが良いエンターテイメント系の小説。確かに専門用語は出てくるけれど、ちゃんと読者のリズムを邪魔することがない程度で書かれている、大変読みやすい小説。イメージしていた本格推理とか言うのとは大違い。会話の掛け合いで持っていく陽性の作風。掛け合い、軽口、減らず口、wisecrackなどのやり取りが好きなので良い意味で誤算でした。やはり人の話は鵜呑みにしてはいけません。自分の目で確かめることが大切だね。
主役の田口医師がもっとモンスターに負けずにやり合えることを期待。これは続編が出ているのですから楽しみにします。それと圧倒的に論理をまくしたてるくらいのモンスターも期待していましたが、こちらは意外に親切で人好きのする優しいモンスター。これなら田口医師もそのうち好勝負に持ち込めるのではないかと。
ページのボリュームに対して、意外に早く犯人が捕まります。その分登場人物にページが割かれていて、ミステリーよりキャラクターに重きを置いている。それは続編への振りなのかもしれないし、とりあえず顔見せ興行的なこともあったのかな。「超サイコー!」とまでは言いませんが、楽しく読めました。個人的には本作より続編に勢いを期待します。続きはいつ読もう?続編は大丈夫なのか?
しかし、それにしても一人称で語るちょっとやる気のない医師を女性に変えてしまい、とどめにゴキとまで呼ばれる下品で脂ギッシュな小太りをあんな二枚目にしてしまった映画は面白いのかな。やはり話題性でしょうかね。田口医師が女性でも、白鳥(ロジカル・モンスターまたはゴキ)とのやり取りは問題ないように思うけど、病院長や藤原看護師とのやり取りは魅力が半減するような気がするな。ここまで設定が違うのですから、全て大胆に違うのでしょうね。映画はどうだったのかしら。まぁ、観ないな。
で、とにかく一人称で書かれるテンポが良いエンターテイメント系の小説。確かに専門用語は出てくるけれど、ちゃんと読者のリズムを邪魔することがない程度で書かれている、大変読みやすい小説。イメージしていた本格推理とか言うのとは大違い。会話の掛け合いで持っていく陽性の作風。掛け合い、軽口、減らず口、wisecrackなどのやり取りが好きなので良い意味で誤算でした。やはり人の話は鵜呑みにしてはいけません。自分の目で確かめることが大切だね。
主役の田口医師がもっとモンスターに負けずにやり合えることを期待。これは続編が出ているのですから楽しみにします。それと圧倒的に論理をまくしたてるくらいのモンスターも期待していましたが、こちらは意外に親切で人好きのする優しいモンスター。これなら田口医師もそのうち好勝負に持ち込めるのではないかと。
ページのボリュームに対して、意外に早く犯人が捕まります。その分登場人物にページが割かれていて、ミステリーよりキャラクターに重きを置いている。それは続編への振りなのかもしれないし、とりあえず顔見せ興行的なこともあったのかな。「超サイコー!」とまでは言いませんが、楽しく読めました。個人的には本作より続編に勢いを期待します。続きはいつ読もう?続編は大丈夫なのか?
しかし、それにしても一人称で語るちょっとやる気のない医師を女性に変えてしまい、とどめにゴキとまで呼ばれる下品で脂ギッシュな小太りをあんな二枚目にしてしまった映画は面白いのかな。やはり話題性でしょうかね。田口医師が女性でも、白鳥(ロジカル・モンスターまたはゴキ)とのやり取りは問題ないように思うけど、病院長や藤原看護師とのやり取りは魅力が半減するような気がするな。ここまで設定が違うのですから、全て大胆に違うのでしょうね。映画はどうだったのかしら。まぁ、観ないな。
三流デザイナーだった。「レイモン・サヴィニャック自伝」
今でもデザイン・プロダクションに勤めているんだけど、どちらかと言うとデザイン以外の仕事が中心になっているので“だった”。全くデザインをしない訳ではないが、ほとんどチームの優秀な若者にまかせている。小さな会社なので人手が足りず、マネージメントのほか、企画書とかちょっとした原稿を書くことの方が多くなってしまった。
グラフィック・デザインをやってみようと思ったのは、絵が好きで、写真が好きだったから。今週読み終わったのはそんな気持ちが思い出される、“初心に帰れ”な本「レイモン・サヴィニャック自伝」。
フランスでは1975年に出ていたこの本。サヴィニャック68歳の時です。カッサンドルに学び、41歳で認められた人。日本企業のポスターもかなり手掛けているし、名前は知らなくても雑貨屋さんでその絵を見たことがある人も多いはず。ネットでもいろいろ見られます 。
“クライアントとの攻防”とか“広告代理店に対する批判”など、今でもうなずける話が多く、サヴィニャックが40歳前後だった訳だから60年以上前のこと。カッサンドルの話はもっと前のことになる。ポスターは作り手の自己表現の手段ではなく広告宣伝の手段、ビジネスする側と大衆とのコミュニケーションの手段であると言っている。これは今でもデザインの学校や現場でも新人には良く話すこと。あなたの作品ではないのだから、あなたが好きなものを作るのではない、自己満足ではダメ、あくまでクライアントとそのターゲットのものであると。実に70年前にも言われていたのですね。
ですが、いまだに就職の面接では「作品を見せてください」と言われているのもグラフィックの現場。サヴィニャックのように、絵も描き署名入りなら別でしょうが、、、。
アイデアを考え自身で造り上げることを最良とし、自分のアイデアを他人に実現させて、どんな悦びがあるのかと喝破しています—ここは耳が痛いです—。
写真は撮っているけれど、絵を描くことはなくなったなー。「私の人生波まかせ 海月」とばかりに、ずいぶんと違う方向に流れてきました。会社の上の人間に口を出されるのも癪だったので、誰もやったことがないことを始めてしまえばいいだろうと、事業としてWebデザインをはじめ10年以上になる—そのわりにこのブログのデザインが…とか思わないように—。社では前述のデザイナーと二人でWeb担当となっていて、他の人たちは印刷媒体だけのデザイナーだ。印刷物が嫌いになった訳ではないので、今でも依頼があると彼と楽しく考えている。他のデザイナー達より紙選びも楽しむ。1月のコンペでは、プリントアウトのサンプルでは伝わらないので、仲の良い印刷会社の営業さんに頼み、紙屋さんまで巻き込んで実際の用紙に印刷した“本物”を持っていった—おかげでこのコンペは取りました—。要するに何でも屋ですね。何でもやっちゃう所に、2流とか3流とかのニオイがしちゃう訳。
好きなものは増えてはいるけれど、変わってはいません。この本は発売を知らず、プレゼントされました。なんだかとっても嬉しく、同じ本を買ってさっきのデザイナーにもあげました。なんだか今の有り様を含め、仕事に関して考えた最近です。
グラフィック・デザインをやってみようと思ったのは、絵が好きで、写真が好きだったから。今週読み終わったのはそんな気持ちが思い出される、“初心に帰れ”な本「レイモン・サヴィニャック自伝」。
フランスでは1975年に出ていたこの本。サヴィニャック68歳の時です。カッサンドルに学び、41歳で認められた人。日本企業のポスターもかなり手掛けているし、名前は知らなくても雑貨屋さんでその絵を見たことがある人も多いはず。ネットでもいろいろ見られます 。
“クライアントとの攻防”とか“広告代理店に対する批判”など、今でもうなずける話が多く、サヴィニャックが40歳前後だった訳だから60年以上前のこと。カッサンドルの話はもっと前のことになる。ポスターは作り手の自己表現の手段ではなく広告宣伝の手段、ビジネスする側と大衆とのコミュニケーションの手段であると言っている。これは今でもデザインの学校や現場でも新人には良く話すこと。あなたの作品ではないのだから、あなたが好きなものを作るのではない、自己満足ではダメ、あくまでクライアントとそのターゲットのものであると。実に70年前にも言われていたのですね。
ですが、いまだに就職の面接では「作品を見せてください」と言われているのもグラフィックの現場。サヴィニャックのように、絵も描き署名入りなら別でしょうが、、、。
アイデアを考え自身で造り上げることを最良とし、自分のアイデアを他人に実現させて、どんな悦びがあるのかと喝破しています—ここは耳が痛いです—。
写真は撮っているけれど、絵を描くことはなくなったなー。「私の人生波まかせ 海月」とばかりに、ずいぶんと違う方向に流れてきました。会社の上の人間に口を出されるのも癪だったので、誰もやったことがないことを始めてしまえばいいだろうと、事業としてWebデザインをはじめ10年以上になる—そのわりにこのブログのデザインが…とか思わないように—。社では前述のデザイナーと二人でWeb担当となっていて、他の人たちは印刷媒体だけのデザイナーだ。印刷物が嫌いになった訳ではないので、今でも依頼があると彼と楽しく考えている。他のデザイナー達より紙選びも楽しむ。1月のコンペでは、プリントアウトのサンプルでは伝わらないので、仲の良い印刷会社の営業さんに頼み、紙屋さんまで巻き込んで実際の用紙に印刷した“本物”を持っていった—おかげでこのコンペは取りました—。要するに何でも屋ですね。何でもやっちゃう所に、2流とか3流とかのニオイがしちゃう訳。
好きなものは増えてはいるけれど、変わってはいません。この本は発売を知らず、プレゼントされました。なんだかとっても嬉しく、同じ本を買ってさっきのデザイナーにもあげました。なんだか今の有り様を含め、仕事に関して考えた最近です。
チョートクさんというとライカとGRでしょうか?「GR DIGITAL WORK SHOP 2」
日本ポラロイドがいよいよインスタントフィルムの生産をやめるらしい。今年の夏までにしたそう。理由はカメラのデジタル化
ということらしい。SX-70の中古を多く扱っているお店を知ったので行ってみようかと思っていたのだけれど、縁がなかったみたいだなー。
なんだかずっと会社にいるし、花粉症だし、ゆっくり写真を撮れる時期じゃない。なのに妙に写真を撮りたくなるのが、田中長徳さんの本を読んだりブログを見たりしている時。他の方の本でももちろん刺激される。だけど、チョウートクさんはブログを毎日更新 しているし—すごいですね—、著作もたくさん。目にすることが多く、刺激される機会が多いのです。で「GR DIGITAL WORK SHOP 2」。前作も読んでいますし、もちろん他諸々も。
チョートクさんは肩に力が入らない、大人の楽しみ方を教えてくれる。それは写真やカメラに限ったことではなく、大人になることや年を重ねることと、その時々の楽しみが多いことを教えてくれる。その感じは、早く大人になりたいと思った子供の頃の“あこがれ”だろうか。いくつになっても先達が人生を楽しんでいるのは励みになりますよね。だからブログも毎日チェックしてしまうし、本もやっぱり買ってしまう。
そして写真は恰好いいです。足りないことがない写真。多すぎることがない写真。どちらかと言うと、ちょっと少なめな、乾いた感じもする辛口よりの写真とでも言いましょうか(これじゃ何が言いたいかわかりませんね)。昔ウィーンに暮らした方。ヨーロッパに馴染まれた写真だと思います。本書では、パリの写真も良いのですが、Caplio R7で撮っているプラハの写真が印象に残っています(あれ、GRDの本)。プラハ実物みてみたいです。
前書も本書もそれほどGRDの使い方と言うことでもなく、いつものチョートクさんの語り。多少前書の方がテキスト的で、撮り方や撮り比べなどがありました。本書ではCaplioの紹介ページはありますが、撮り比べをしている訳ではないです。ノウハウやハウトゥー、それに特性とかは“その手の本”におまかせと言うことですね(あれ、WORK SHOPってその手の本ではない…)。とにかく、写真機を所有する楽しみ、写真を撮る楽しみを常に伝えているチョートク氏なのです。それで何となく手にしてしまいます。
まだ手にしたことがないのはGRDとライカ。「んっ?」って思いました?そう、チョートクさんの本は好きなのだけど、持っているのはGX100とこしなのツァイス。ちょっとへそが横に付いている。去年GRDを買おうか考えていたら、ちょうどGX100が出てしまいそちらを買ってしまった。GRD IIも興味があるけれどデジカメ2台もいらないし、レンズだよなと思っていたら、おととい部屋の更新の書類が来て、その手数料が10万越え。レンズ貯金をしていなかったら、更新手数料はどうなっていたのでしょうか、、、。そんな、うっかりなへそ曲がりでも気持ち良く読めて、つい手に取ってしまうのがチョートクさんの本ということです。
なんだかずっと会社にいるし、花粉症だし、ゆっくり写真を撮れる時期じゃない。なのに妙に写真を撮りたくなるのが、田中長徳さんの本を読んだりブログを見たりしている時。他の方の本でももちろん刺激される。だけど、チョウートクさんはブログを毎日更新 しているし—すごいですね—、著作もたくさん。目にすることが多く、刺激される機会が多いのです。で「GR DIGITAL WORK SHOP 2」。前作も読んでいますし、もちろん他諸々も。
チョートクさんは肩に力が入らない、大人の楽しみ方を教えてくれる。それは写真やカメラに限ったことではなく、大人になることや年を重ねることと、その時々の楽しみが多いことを教えてくれる。その感じは、早く大人になりたいと思った子供の頃の“あこがれ”だろうか。いくつになっても先達が人生を楽しんでいるのは励みになりますよね。だからブログも毎日チェックしてしまうし、本もやっぱり買ってしまう。
そして写真は恰好いいです。足りないことがない写真。多すぎることがない写真。どちらかと言うと、ちょっと少なめな、乾いた感じもする辛口よりの写真とでも言いましょうか(これじゃ何が言いたいかわかりませんね)。昔ウィーンに暮らした方。ヨーロッパに馴染まれた写真だと思います。本書では、パリの写真も良いのですが、Caplio R7で撮っているプラハの写真が印象に残っています(あれ、GRDの本)。プラハ実物みてみたいです。
前書も本書もそれほどGRDの使い方と言うことでもなく、いつものチョートクさんの語り。多少前書の方がテキスト的で、撮り方や撮り比べなどがありました。本書ではCaplioの紹介ページはありますが、撮り比べをしている訳ではないです。ノウハウやハウトゥー、それに特性とかは“その手の本”におまかせと言うことですね(あれ、WORK SHOPってその手の本ではない…)。とにかく、写真機を所有する楽しみ、写真を撮る楽しみを常に伝えているチョートク氏なのです。それで何となく手にしてしまいます。
まだ手にしたことがないのはGRDとライカ。「んっ?」って思いました?そう、チョートクさんの本は好きなのだけど、持っているのはGX100とこしなのツァイス。ちょっとへそが横に付いている。去年GRDを買おうか考えていたら、ちょうどGX100が出てしまいそちらを買ってしまった。GRD IIも興味があるけれどデジカメ2台もいらないし、レンズだよなと思っていたら、おととい部屋の更新の書類が来て、その手数料が10万越え。レンズ貯金をしていなかったら、更新手数料はどうなっていたのでしょうか、、、。そんな、うっかりなへそ曲がりでも気持ち良く読めて、つい手に取ってしまうのがチョートクさんの本ということです。
一度騙されるのは騙す奴のせいだが、、、「路上の事件」
本を読むのも体力かもしれないと思えてきた最近。一気に読むといったことがなくなった。電車ではすぐ眠くなってしまうし、会社にいすぎて本を読む時間が減っている。読みつけない体になってしまったのかもしれないけれど、そんな中電車で眠くならずに読んでいたのが、ジョー・ゴアズ「路上の事件」。
『もっとすごい!!このミステリーがすごい!』という別冊宝島を買い、そこで“このミス2008海外編”で6位に入っていたの知った。久しぶりに見た名前に慌てて買いに行きました。
ジョー・ゴアズは日本では人気がないようですぐ絶版になる、読んでみたくても読めていない作家。二十年程前「裏切りの朝」を読み、相性の良い作家と言うイメージを持ったのに、後は「狙撃の理由」を読んだだけ。そのうち他のもと思っていたら、ほとんど手に入らない状態になっていたという。だからイメージとしてすぐ絶版になる作家という感じ(本当は自分が怠惰なだけね)。それでも「ハメット」というダシール・ハメットを主人公にした作品は読んでみたいと、15 年くらい前か探し回ったのです。結局手に入らななかった。これは映画化もされた本なのに。監督ヴィム・ベンダースだったのですね。どうも文庫本を古本でとは思えなかった。そのまま今日にいたる、、、。
恋愛や仕事で“困ったちゃん”とつきあわなければならず悩んでいた人たちに結構話した言葉がある。それがこの記事のタイトル「一度騙されるのは騙す奴のせいだけど、二度目に騙されるのは(わかっているのに)騙される奴のせい」。なんだかもっともらしいこと言っていたけれど、これは確か「裏切りの朝」の中の台詞—原文どおりではないし、時間が経ちかなり変化しているかも—。この台詞を読んだのが、当時とっても納得できゴアズが好きになった瞬間。受け取り用によってはネガティブな台詞だが、人のせいにして泣き言をいっても仕方がないということだ。それより騙されないようにしないとね。
さて「路上の事件」だけど。大学を卒業して旅をしている主人公は作家を目指している—ヘミングウェイやチャンドラーの名前も出てくる—。その旅の途中人に会い、事件に遭いながらサンフランシスコで探偵を始める物語。旅の途中に遭う事件から後半の新人探偵の話まで、実は一連の流れが隠れていることで探偵小説—ディテクティブ・ストーリー—が出来上がっていた。これがなければ探偵小説というより旅物語—ロードノベル—になってしまう。全8部それぞれのエピソードで読ませていると思っていた。それも探偵小説というより青春物語(ップ!)だとね。だから第8部の展開があまりに勢いがあり過ぎて、もっとタメがあった方がなんて思ってしまった訳。ところがなんと、第3部から既にタメていたという。ちゃんと探偵小説というか、クライムノベルだったのです。前半はゴアズにとっての「ニック・アダムズ物語」だったのだろうか。作者もサンフランシスコで12年探偵をしていたそうだし、自身の前半生—1950年代—を使っているそうである。クライムノベルや探偵小説っぽく感じさせないのは意識的でもあるし、自身の想いかもしれません。やはり「ニック・アダムズ物語」かしら。久しぶりながら、訳者は違ってもゴアズを楽しみました。古本で探して見るべきかな。
小学生の時だったか昼のテレビでやったモノクロ映画。出だし位しか覚えていなかったけれど、それが後ほど読んだニック・アダムズの短編のエピソード。ボクサーが出てくるのだけれど、このちょい役が若いポール・ニューマンだったと思うのだ。というか「あっ、ポール・ニューマンだ!」と思ったので覚えていたの。この映画は何と言うタイトルなのだろう。記憶違いだったかなー。
ご存じの方いませんか?
『もっとすごい!!このミステリーがすごい!』という別冊宝島を買い、そこで“このミス2008海外編”で6位に入っていたの知った。久しぶりに見た名前に慌てて買いに行きました。
ジョー・ゴアズは日本では人気がないようですぐ絶版になる、読んでみたくても読めていない作家。二十年程前「裏切りの朝」を読み、相性の良い作家と言うイメージを持ったのに、後は「狙撃の理由」を読んだだけ。そのうち他のもと思っていたら、ほとんど手に入らない状態になっていたという。だからイメージとしてすぐ絶版になる作家という感じ(本当は自分が怠惰なだけね)。それでも「ハメット」というダシール・ハメットを主人公にした作品は読んでみたいと、15 年くらい前か探し回ったのです。結局手に入らななかった。これは映画化もされた本なのに。監督ヴィム・ベンダースだったのですね。どうも文庫本を古本でとは思えなかった。そのまま今日にいたる、、、。
恋愛や仕事で“困ったちゃん”とつきあわなければならず悩んでいた人たちに結構話した言葉がある。それがこの記事のタイトル「一度騙されるのは騙す奴のせいだけど、二度目に騙されるのは(わかっているのに)騙される奴のせい」。なんだかもっともらしいこと言っていたけれど、これは確か「裏切りの朝」の中の台詞—原文どおりではないし、時間が経ちかなり変化しているかも—。この台詞を読んだのが、当時とっても納得できゴアズが好きになった瞬間。受け取り用によってはネガティブな台詞だが、人のせいにして泣き言をいっても仕方がないということだ。それより騙されないようにしないとね。
さて「路上の事件」だけど。大学を卒業して旅をしている主人公は作家を目指している—ヘミングウェイやチャンドラーの名前も出てくる—。その旅の途中人に会い、事件に遭いながらサンフランシスコで探偵を始める物語。旅の途中に遭う事件から後半の新人探偵の話まで、実は一連の流れが隠れていることで探偵小説—ディテクティブ・ストーリー—が出来上がっていた。これがなければ探偵小説というより旅物語—ロードノベル—になってしまう。全8部それぞれのエピソードで読ませていると思っていた。それも探偵小説というより青春物語(ップ!)だとね。だから第8部の展開があまりに勢いがあり過ぎて、もっとタメがあった方がなんて思ってしまった訳。ところがなんと、第3部から既にタメていたという。ちゃんと探偵小説というか、クライムノベルだったのです。前半はゴアズにとっての「ニック・アダムズ物語」だったのだろうか。作者もサンフランシスコで12年探偵をしていたそうだし、自身の前半生—1950年代—を使っているそうである。クライムノベルや探偵小説っぽく感じさせないのは意識的でもあるし、自身の想いかもしれません。やはり「ニック・アダムズ物語」かしら。久しぶりながら、訳者は違ってもゴアズを楽しみました。古本で探して見るべきかな。
小学生の時だったか昼のテレビでやったモノクロ映画。出だし位しか覚えていなかったけれど、それが後ほど読んだニック・アダムズの短編のエピソード。ボクサーが出てくるのだけれど、このちょい役が若いポール・ニューマンだったと思うのだ。というか「あっ、ポール・ニューマンだ!」と思ったので覚えていたの。この映画は何と言うタイトルなのだろう。記憶違いだったかなー。
ご存じの方いませんか?
二人いた天才の残った一人?「L change the WorLd」
記念すべき第一回がこれなのがちょっとと思いつつ、
とにかく観に行ってしまったのだからしょうがない…。
初めての記事は「L change the WorLd」。
原作は4巻までしか読んでません。映画も先週だか先々週だかテレビでやった“後編”を見ただけ。だから映画と原作がどのくらい近いのかもわかっていません。なのになぜ劇場に行ったのか?それはまぁ、行きたがった人がいたのですよ。この行きたがった人は「マツケンのL」が気に入ったらしく、原作味読、テレビで映画の前後編を見たわけ。原作は今読んでいます。
「DEATH NOTE」は“死神”と“デスノート”というファンタジックなツールを導入しつつも、話としては“L”と“月”の頭脳戦、心理戦を描こうとしていた物語と解釈しています。二人の天才の物語。または神になれると思った天才と神に興味を持たなかった天才でしょうか。神になれると思った時点で、「天才なのか?」という疑問もありますが、それを言っては物語ができなくなるので。
さて肝心の「L change the WorLd」です。映画としては別につまらなくもなく、特にすごく面白いということもないのですが、2時間半という長さを厭きることなく観ました。
ただ疑問がありまして、この映画一番喜ぶのは誰か?一番満足したのは誰か?この映画を観たがった人はこれでよかったのか?などなど、不思議に思ったわけです。誰に向かって作った映画なのかということですね。
“映画のファン”“原作ファン”“Lのファン”“マツケンのLのファン”“松山ケンイチのファン”“中田秀夫のファン”“オヒョイさんファン”“福田麻由子萌えぇ”と思いつくまま―まぁ他にもいろいろあるのでしょうが―上げてみました。スピンオフといわれる作品の場合、単純にその作品だけを観るといった人は少ないと思います。すると何らかの動機があって観に行くわけですよね?それを上げてみたわけです。
なぜ、このようなことを気にするのかというと、何の映画かわからなかったからなのです。そりゃ、原作も読んでないし映画も通して見ていないのだから、判断する情報が足りてないのかもしれませんけど。ただ、二人の天才の残った一人の話とは思えない。暗号を解くのも次世代の天才(少年)だったから、現代の安楽椅子探偵が本件では本領をあまり見せていない。“L”が“月”に負けない運動神経の持ち主なのもわかっていますが、アクションもそれ程のレベルではない。苦手扱いされているし。そしてホラー。
中田監督は決してホラーだけの監督ではなく、ご本人も「本当に撮りたいものはホラーではない」とおっしゃっているそうです。今回の映画もホラーではなかった。ただホラー的な要素が強く。“天才L”の映画とは思えないのにひきつけ厭きさせなかったのはこのホラー的表現だったのではないかと。でもホラー映画ではない。
この映画で一番印象的エピソードは鶴見辰吾の怪演だったと思うし、良い意味でお約束の展開。このシーンだけで満足かもと(変?)。その点で高嶋弟はまだまだ…。福田麻由子の目つきもすごいけど、正直こんなこと子供にさせる必要はないんじゃないかと思っています。こんなことは大人がすればよい。ほら、ホラー映画の話っぽくなってくるでしょ?こじつけすぎかな。
それで、誰が一番喜んだのかと気になった訳。すでに“L”は原作を超えているので、ファンもいろいろ。観る側の食いつきどころもそれぞれでしょう。で、ファンの人はどうだったのかな-と。
鶴見辰吾のシーンで大満足。でもこれでは邪道といわれるに違いない。“L”の映画としては、正直もう少し天才を観てみたかった。
そういえば昔“悲しき天才”というプロレスラーがいたが、最後に見たのは裁判の記事だったか。どうしているのでしょう(全く関係ない話だな)。
初めてなので頑張りすぎた。次はもっと簡単にします。
とにかく観に行ってしまったのだからしょうがない…。
初めての記事は「L change the WorLd」。
原作は4巻までしか読んでません。映画も先週だか先々週だかテレビでやった“後編”を見ただけ。だから映画と原作がどのくらい近いのかもわかっていません。なのになぜ劇場に行ったのか?それはまぁ、行きたがった人がいたのですよ。この行きたがった人は「マツケンのL」が気に入ったらしく、原作味読、テレビで映画の前後編を見たわけ。原作は今読んでいます。
「DEATH NOTE」は“死神”と“デスノート”というファンタジックなツールを導入しつつも、話としては“L”と“月”の頭脳戦、心理戦を描こうとしていた物語と解釈しています。二人の天才の物語。または神になれると思った天才と神に興味を持たなかった天才でしょうか。神になれると思った時点で、「天才なのか?」という疑問もありますが、それを言っては物語ができなくなるので。
さて肝心の「L change the WorLd」です。映画としては別につまらなくもなく、特にすごく面白いということもないのですが、2時間半という長さを厭きることなく観ました。
ただ疑問がありまして、この映画一番喜ぶのは誰か?一番満足したのは誰か?この映画を観たがった人はこれでよかったのか?などなど、不思議に思ったわけです。誰に向かって作った映画なのかということですね。
“映画のファン”“原作ファン”“Lのファン”“マツケンのLのファン”“松山ケンイチのファン”“中田秀夫のファン”“オヒョイさんファン”“福田麻由子萌えぇ”と思いつくまま―まぁ他にもいろいろあるのでしょうが―上げてみました。スピンオフといわれる作品の場合、単純にその作品だけを観るといった人は少ないと思います。すると何らかの動機があって観に行くわけですよね?それを上げてみたわけです。
なぜ、このようなことを気にするのかというと、何の映画かわからなかったからなのです。そりゃ、原作も読んでないし映画も通して見ていないのだから、判断する情報が足りてないのかもしれませんけど。ただ、二人の天才の残った一人の話とは思えない。暗号を解くのも次世代の天才(少年)だったから、現代の安楽椅子探偵が本件では本領をあまり見せていない。“L”が“月”に負けない運動神経の持ち主なのもわかっていますが、アクションもそれ程のレベルではない。苦手扱いされているし。そしてホラー。
中田監督は決してホラーだけの監督ではなく、ご本人も「本当に撮りたいものはホラーではない」とおっしゃっているそうです。今回の映画もホラーではなかった。ただホラー的な要素が強く。“天才L”の映画とは思えないのにひきつけ厭きさせなかったのはこのホラー的表現だったのではないかと。でもホラー映画ではない。
この映画で一番印象的エピソードは鶴見辰吾の怪演だったと思うし、良い意味でお約束の展開。このシーンだけで満足かもと(変?)。その点で高嶋弟はまだまだ…。福田麻由子の目つきもすごいけど、正直こんなこと子供にさせる必要はないんじゃないかと思っています。こんなことは大人がすればよい。ほら、ホラー映画の話っぽくなってくるでしょ?こじつけすぎかな。
それで、誰が一番喜んだのかと気になった訳。すでに“L”は原作を超えているので、ファンもいろいろ。観る側の食いつきどころもそれぞれでしょう。で、ファンの人はどうだったのかな-と。
鶴見辰吾のシーンで大満足。でもこれでは邪道といわれるに違いない。“L”の映画としては、正直もう少し天才を観てみたかった。
そういえば昔“悲しき天才”というプロレスラーがいたが、最後に見たのは裁判の記事だったか。どうしているのでしょう(全く関係ない話だな)。
初めてなので頑張りすぎた。次はもっと簡単にします。











